レモネード・ブルー






 a.t.b.二〇〇〇 July
 カストラリア 高原

 国鳥ハゲワシが頭上よりも遥かに天高く飛行する。
 灰色の鋭い鋒の穴の中を巨躯が見下ろし、地表に露出する腐肉を狙っている。

 捕食されたくなければ、死に腐すなかれ
 カストラリアにある格言の一つだ。そしてカストラリアそのものがハゲワシに喩えられてきた。腐肉食動物の自然の清掃員≠フ意味に因むように、多くの国同士の戦争・紛争の仲裁を行い、その地に戦破れた者たちの終の住処となっていた。

 天からの流水。山から伝うリダ川の支流。ノーラ川の下流で厚い靴を脱ぎ去り、少女が足を水につけて冷やしてはしゃいでいる。
 「つめたーい!」
 広がる草原と濃い緑の葉をつけた木が川のすぐそばにあり、鹿毛がその辺りの草を食む。木の下では太い根をクッション代わりに、紡ぎたての金糸の眩さを持つ少年が、たおやかな手つきで厚い本の頁を捲っていた。時折、川の方で一人遊びに興じる婚約者の様子をちらりと見ては、クリーム色の紙の文字と、図解資料の画像やグラフに視線を戻す。
 柔らかな風と光が、草原を吹き渡る。鳥の囀り。通りすがりの蝶。水のせせらぎ。土のにおい。遠い祖先の郷愁を呼び覚ます、長閑な自然の抱擁。生命のための季節。
 水音をたてて一人遊びを楽しんだあと、彼女の呼び声がした。
 「こっちにいらっしゃいな。殿下。……ねーえ。なに読んでるの?」
 風といっしょに草が揺れ、緩やかな曲線を描く前髪がふわっと浮いた。
 「歴史の教科書」
 端的な回答を唇にのせて、少年は文字の情報を頭に入れていた。
 ティラナは裸足のまま草の上をそっと歩いた。水気が根本の土を吸い取り、乾いた土が次第にさらさらに整えていく。腰を折り本の表紙を読み取ると少し驚いたように言った。
 「こっちの学校のじゃない。読めるの?」
 「勉強中だよ」
 「辞書いる? ……持ってきてたっけ。……な、なに? なんで私をみるの? 私が辞書代わりってこと?」
 「ふふ」
 シュナイゼルはそこでちゃんと姿勢をまっすぐにして、ティラナを見上げた。
 「何カ国語できるんだい?」
 「英語でしょ? フランス語、ドイツ語、ラテン語……」
 「カストラリア語もね」
 「カストラリア語はラテン語と兄弟みたいなものよ。同じロマンス語族だから。英語は論文でも使うわ。フランス語もドイツ語も専門分野で使ってるし、ラテン語は宗教儀礼で必要になるから」
 ティラナはペンタリンガルでもし次にギリシャ語を獲得するならマルチリンガルになる。シュナイゼルもカストラリア語を学べば同じ数に達するところだ。母語の英語を除いて、フランス語は上流階層の公用語といわれるほど基礎的な言語である。ラテン語はフランス語の古典であり、ドイツ語は彼の母方のルーツの公用語だった。
 「安心して! 色々な出自の人がいるからみんなが完璧に出来るわけじゃないわ。カストラリアは英語圏でもあるけれど、公用語が三つあるもの。英語とフランス語が最低限出来ればうちの王宮では雇っていいってルールよ。……だから英語が通じないなんてことはないから!」
 カストラリア王国の公用語はカストラリア語、英語、ドイツ語である。ドイツ語が入るのは奇妙かもしれないが、カストラリアの歴史において、多くの医学者を招聘し永住保障政策を過去に行った名残からである。
 王宮に仕える者のなかにもそのドイツ系移民の子孫は多くいる。
 「問題ないよ。すぐに覚えられる」
 数百ページするやや厚めの歴史の教科書を、草の中へ置いて寝そべり直す。頬を草の先が擽る。
 水筒のカップに注がれたフレーバーティーの匂いが鼻先をかすめていく。
 「西からやって来た人々はいいました、この巨きい岩……砦の地をなんと名付けよう――lid-anium……=v
 リダニウムはカストラリアの首都で、西ローマ人が定着する頃、彼らの名付けた言葉が浸透していった。
 「岩山の裂け目に守られた要塞都市って意味よ」
 一口飲んだあとにティラナが言った。
 「融合社会を築いた西ローマ人は、このリダニウムの地で新たな融合と調和・多様性の種を蒔いた=v
 西ローマ人は単一の純血の民族ではなく、様々な要素と出自を持っていた。その風土がリダニウムにいた先住民族と混ざり醸成され今日に至る。
 「なんだ。辞書いらず!」
 全文カストラリア語で書かれた教科書の文章をつっかえることなく読むシュナイゼルに拍子抜けしたようだ。
 そこで「カストリアは?」と彼女に水を向ける。
 カストリアとカストラリアの名は近く、変格であることはわかるが、その過程が気になった。また音が似ていながら異なる意味である場合も多い。
 「ラテン語の大規模な野営地からきてて砦って意味。……砦を守る一族といえばいいのかしら。……ねえ。あっちで遊びましょうよ」
 「濡れたら着替えなくてはいけないのが面倒だよ」
 「大丈夫よ。着替えならあるわ」
 「女の子の服は着ないよ」
 ティラナは一瞬固まって目をパチクリさせる。
 思い出したように頬を緩めると「あら。この間のこと根に持ってるの?」と意地悪そうに言った。
 「今日はテレビクルーもいないし、種も仕掛けもございません!」
 「本当かな」
 笑みを浮かべ首を傾げた。
 ティラナはその年齢にして公務があった。深刻な王室の人員不足と、本人が研究室に籠もりきりになるか、動き回ってスタッフの手を焼かせるかの二極化が起きていた。また、度々外に出かけたがるので国王は常に頭を悩ませていた。

 シュナイゼルが彼女の抜け道の存在を知ったのは、四ヶ月前。
 外出の準備を終えたティラナが、こそこそと官舎の方へ行くので尾行すると、官舎脇にある封鎖された旧道を経由して街の方へ下りていった。この時、シュナイゼルにしてはかなり珍しく困惑した。護衛はおろか侍女もつけていない。人を呼ぶか迷ったが見失ってはいけないと追いかけた。ブリタニア皇宮であれば、使用人は国家危機を容認したものとして刑吏の斧の餌食となるだろう。
 彼女は街中にあるカフェに入り、すぐに出てきた。手にはドリンクが二つ。腕には紙袋がかかっている。
 周囲を見渡し、物陰から様子を窺うシュナイゼルに近づいてくると、カップを差し出した。
 ――『はい、これ』
 透明なカップの中で薄い黄色がかっていて氷が入っていた。
 ――『寒いのに冷たいものを飲むのかい?』
 ――『いらないなら全部飲むわ』
 こんなに雪が降りそうな日に、二杯も飲んだらお腹を下すだろうと思った。
 ――『飲むよ。……王女殿下、貴女は……』
 ――『お説教するつもり?』
 狼の瞳が睨んだ。有無を言わせぬ効力があった。路上で無駄な言い争いは脚光を浴びると判断し、折れたふりをした。
 ――『わかっているなら帰ろう』
 不服そうに片眉を上げて、ティラナは歩き出した。
 ――『いつもこうして、抜け出しているんだね』
 ――『内緒にして』
 ――『難しい相談だよ。危険が多すぎる』
 彼女は押し黙った。
 その日ばかりは饒舌ではなかった。彼女だけの秘密が、秘密ではなくなったのを残念がるように。不貞腐れる少女の手を逃さないように繋ぐと、その掌は冷たいレモネードの結露で濡れていた。
 ――『中になにが入っているんだい』
 ――『お菓子』
 紙袋の中には、個別包装されたフィナンシェやマフィンが入っている。
 ――『食べたいものがあれば頼めばいいだろう。一流の料理人や菓子職人だって貴女のために腕を振るうよ』
 ティラナは何も言わなかった。一度立ち止まってシュナイゼルの瞳を見つめたが、やはり言葉にはしなかった。計算高いゆえに余計なことは言わないでおこうとする態度だ。距離感があった。婚約の署名をしてから一ヶ月。会うのは三度目だからというよりも、隠し事を知られたのが嫌だったのだろう。
 ――『どうして、勝手に外に出るのかな』
 ――『退屈だといったらおかしい?』
 ――『退屈?』
 彼女にしてはネガティブな言葉だ。とかく、シュナイゼルにあんな言葉を告げておいて退屈とは。
 また足が前に進んだが、王宮への道を時間をかけているのがわかった。
 ――『……一生このままなのかしら』
 ぽつりと、それは小さな小さな声で呟いたのを聞き逃さなかった。

 ティラナ・ヴァル・カストリアの運命は決まっていた。
 国王から彼女が暫定王位継承権第一位であることと、彼女の後に子供は出来ないだろうという事実をシュナイゼルに伝えていた。
 二月の始め。
 はじめてカストラリアの地を踏んだ日。
 図書館のような王の書斎で、彼は包み隠さず君は彼女の――シニストラに立つ≠ニ言った。
 シニストラとは左側のことである。
 テーブルを挟み王と幼い皇子が向かい合う。淹れられたばかりの紅茶の香が淡く立ちのぼる。
 ――『承知していますよ』
 王はシュナイゼルに目を凝らした。彼女に受け継がれた、群れの王の瞳の色をしていた。
 ――『書簡を頂いた時は……時期尚早と思っていた。……いくつか申し込みは既にあったのだけれど、……やはり時期と、あとは相性という話だね』
 シュナイゼルは頷いた。
 ユーロ・ブリタニアからもユーロピア共和国連合、他欧州の独立国の大貴族筋からも申し入れはあったと聞いていた。特に、ユーロ・ブリタニアに先を越されるのは帝国枢密院を刺激したらしく、皇帝シャルルに提言する者が現れた。
 すでに水面下では歴史上の系譜から、亡命王女アレクサンドラを支援した貴族の縁戚貴族の末裔が、一族の復興を懸けて野心の目を光らせていた。ユーロピア共和国連合含む欧州の貴族達は、国王が亡命中に世話になった理由から特にドイツ、ポーランド、スイスから有力候補として名乗りを上げていたのだった。
 その頃、カストリア家に第二子の王子が誕生する可能性を期待して、各国は静観していた。
 ブリタニアは早々に王女を選択した。王女は王室の財源を賄えるほどの資産家であり、王女自身が金のなる木であるため、たとえ弟の王子が誕生し、王位継承権が男子優先で降下したとしても、王室にとって重要な一員であることは揺るがないだろうという試算からだった。
 次に枢密院の者達は、皇子の中から誰を宛てがうかという議題に移った。
 年齢を考慮すれば、第一皇子であるオデュッセウスが、彼女よりも三つ年上で適切だという意見があった。長子の性格は温厚。波風を立てぬ人柄である。独立心が旺盛で、歯に衣着せぬ物言いをする王女には負けるかもしれないが、張り合わないところで上手くいくだろうと見立てた。
 一度考慮するようブリタニアは書簡をカストラリアに提出するも、要約して第一位の継承権を持つ男子を外国に出すのか?≠ニ至極当然の返事が戻ってきた。
 それならばと残りの第二皇子か第三皇子となっていくわけだが、第三皇子のクロヴィスは当時五つで家庭教師のもと読み書きと計算を覚え始めたばかり。相手国の勉強などは到底難しく、暫定王位継承権一位の王女の夫、または将来君主になる者、その配偶者となる者は言語が堪能でなくてはならない。さらに最低限、外国の歴史・文化・政治に関心を持っていなければならなかった。
 根本的な問題として、博士号を持つ王女と話が合わなければ致命的な失敗を招くだろうと予見した。この二度目の書簡でしっかり確定させなければ帝国の体裁が悪いと、枢密院内の空気は地獄の様相を呈していた。
 よって――これらの条件を満たすのは。
 五つの言語と帝王学を学ぶ第二皇子だろうと、枢密院はシュナイゼルを推薦した。
 皇帝は二通目の書簡に署名し、カストラリアに申し入れた。

 シュナイゼルは適温になった紅茶を一口飲んだ。
 ――『他の申し入れは、よろしかったのですか』
 ――『君の前にふたりいた。……しかしね、目算以上に厄介でね。……あの子はあんな性格であるし……相手にも同じ様に厳しいから、嫌がられてね。……とにかくプライドを傷つけるだろう。勉強も運動もできるし、この国ではほんとうに一番のお姫様≠セから。……無理に一緒になっても、破綻してしまうならそうしないに越したことはない』
 王は思慮深い眼差しで窺うように質問した。
 ――『君は、いいのかい。……まだ若すぎる。こうして大人の話をちゃんと聞ける子なのは……実はあまり褒められたことじゃない。……シャルル皇帝陛下は……君に無理を強いていないかい』
 王には亡命時代があり、民間人の生活を経験している。国際人権機関に所属し最高責任職の補佐経験がある。即位後、暫くは先例に倣い専制を敷いていたが、十数年をかけ様々な改革を一気に推し進めていった。
 権力分散を行うために、大憲章の再制定、議会を市民にまで開く道のりは決して平坦ではない。国を土台から変える一大事業の混乱はまだ続いており、平定に至っているかといえばそうではない。
 そうしている内、王は年齢を重ね、授かった子が一人であることを常々憂慮しているのだろう。
 王は自分が逃れるしかなかった国が、たとえ王権がなくとも存続する道を模索しているようだった。しかし、まだ機は熟しておらず、権威として国王は必要であり、ましてや世界は緊張続きで、ユーロピア共和国連合、隣国の中華連邦、ブリタニア帝国の三大国が幅を利かせる時代に、玉座を離れることは得策ではない。
 ゆえに、当該ブリタニア帝国からの申し入れを断ることなどあり得ない≠フが現状だった。
 戦争なき降伏――と、あるブリタニアの廷臣は言った。彼らの真の狙いは次代の掌握である。表向きブリタニアと衝突するしかないユーロピアの各大貴族達を掌握するには、中立国カストラリアの血を挟んだ子供を彼らの歴史に組み込ませるといった狙いがあった。そうすることでいずれ帝国が傾いたとて、交渉次第では筏になりうるといった超長期的な目論見だ。
 その点については、シュナイゼルは同意見だった。
 ――『承服しています』
 長い沈黙の末、シュナイゼルは肯定した。
 父帝はまだまだ現役だが、その力が及ばなくなるか、さらなる増長により帝国が領土を持ったとき、次なる障害は植民地エリアの反乱にある。
 皇室を離れたシュナイゼルの役回りは、カストラリアの中立国の性質と相まって仲裁に落ち着くだろう。
 ため息混じりに王は膝の上で組んだ指先に視線を落とし、シュナイゼルをゆっくりと見つめ直した。
 ――『……君には君の思惑があるだろう。私にも、私の思惑があるように。しかし憶えていて欲しい。……私は国王で、君の義父となる者だ。……嫌がられるかもしれないが、長男を授かったような気持ちでいるんだ。王后もね』
 王はそこで張り詰めた緊張を解くように微笑んでみせた。窪んだ目に柔らかな影が落ちた。
 差し出された右手を掴み、握手に応じた。
 ――『よろしく頼みますよ。シュナイゼル殿下』
 ブリタニアは懸けに勝利した。
 ただし、王はひとつ思い違いをしている。シュナイゼルがこうして彼に謁見を求め、婚姻の承諾を告げたのは――国や枢密院の後押しが重なっただけで、今日に至るまでにティラナの言葉があったからだ。

 ――『もっとみせてあげる』
 
 ティラナは草の中で汚れた足にこびりついた土を、反対側の足の指で擦り落とした。シュナイゼルは時々彼女の方を気にかけ、歴史の教科書の近代の頁を眺めていた。
 皇暦一八一四年、カストラリアは中立国に承認・保障される。エリザベス三世の秘匿されし遺児――アレクサンドラがカストラリアに亡命する。枢密院・議会承認を得て、アルヴェイン朝三二代ソフィアン・ヴァル・カストリアの妃となる。
 ――奇しくも皇暦一八一三年はリカルド・ヴァン・ブリタニアが初代皇帝に即位した年だ。
 アレクサンドラは戦後の西欧にも、ユーロ・ブリタニアとなる東欧と西アジアに亡命しても、貴族達に担ぎ上げられる運命が待ち受けていた。ましてや、建国機運高まる新大陸への亡命など快く思わぬ貴族達の妨害があったことだろう。
 アレクサンドラは終身、国に尽くした。医学に関心を寄せ、当時医学の先進的権威だったドイツと並び立てるよう、学術奨励に資産を注ぎ込んだ。ドイツ系移民が増えたのもこの時の政策からだ。亡命時、彼女を支援した貴族達の中には多くの傷病兵がいた。自身と貴族達を匿い、施しを与えた国への感謝と奉仕精神によるものだ。――そして、彼女は自身の力で花開かせた医学の力をもって、自身の遺伝子が正統であることを証明するようにとソフィアン王に遺言を託した。
 ソフィアン王はそれを聞き入れ、正式な遺言状に従い遺体の一部を保管し、自らもその証明に役立つよう死後速やかに特別な方法で保管するよう王室法を改正した。
 遺伝子の解析技術は飛躍的に進歩し、皇暦一九四〇年頃には微量のDNAサンプルから、特定のDNA領域だけを短時間で爆発的に増幅させる技術を開発した。ポリメラーゼ連鎖反応――通称PCR法である。
 学術振興会の種子から花開いた遺伝学者達により、アレクサンドラ王妃の悲願は成就する。死後八〇年が経過していた。
 教科書の端に明るい蜂蜜の瞳がふたつ覗いている。
 「そんなに見つめられると、穴が空いてしまうよ」
 「怒ってる?」
 「……何がだい?」
 「女の子のお洋服を着せたこと」
 「いいや?」
 本音では、それくらいどうという事もない。とくにシュナイゼルには怒りという感情が欠落していた。
 問題があったとしても、怒りに変換されるまでに思考へエネルギーが向くから、というのが彼の自己分析の結果だ。また、その小さな悪戯で退屈≠ェ凌げるならいくらでも引き受けるつもりでいた。
 ティラナが脱走している件をシュナイゼルは王宮に戻り、すぐに国王へ報告した。彼は息を吐いて非常に険しい顔をした。いくらか悩み、こう言った。
 ――『連れ戻してくれて感謝するよ。……あの子は好奇心旺盛な性格なんだ。……縛られるのも嫌がる子でね。怪我がなくてよかった……。……侍女達も目を離しているつもりではいないんだ。ところがどういうわけか、欺くのが上手でね。正直我々も手を焼いている。……申し訳ないが、君にもあの子から目を離さないようにお願いしたい』
 ――『仰せのままに』
 シュナイゼルは恭しく頭を垂れた。
 ――『公務に触れさせようか考えてはいたんだ。しかし未成年だし、お騒がせなこともする。……児童労働を娘に課す気はなかったのだけど……勝手に夜ふかしをして研究室に閉じ籠もることもするし意味をなしていない。……国内の慰問や視察程度のものから始めさせようと考えている』
 国王はティラナの公務を認めた。それが王室広報番組の枠の一部となった。軍事施設、孤児院、学校、病院、老人施設、研究施設、慰霊祭、落成式など訪問・出席した。
 先日、孤児院に訪問した時のことである。その日はシュナイゼルも同伴していた。広報番組のクルーも撮影するために一緒だった。
 シュナイゼルはカストラリアには三月以降、月に七日ほど滞在しており、その日が偶然、孤児院訪問と被った。孤児院では施設の案内説明を受けた後、子供達と遊ぶスケジュールが組まれていた。
 同年齢の子供と接する機会が少ないティラナは大層張り切っていた。スポーツレクリエーションや読み聞かせを事前にいくつか計画していた。当日の天候は土砂降りで屋内で読み聞かせや工作に落ち着いたが、一部の男子と結託して雨後、ボール遊びを始めた。孤児院は山の中腹にあった。遠雷の音を聞いてシュナイゼルは屋内に入るよう呼びかけた。
 ボール遊びに夢中で、一人、敷地外に探しに行ったまま戻らない子供がいた。職員とともにティラナは探しに行くと言ってきかなかった。――実のところそれは番組側の主導による逆ドッキリで、子供は屋内に隠れていた。
 ティラナはその子供を探すために、他の子供達の悪戯を誘導されるまま受けた。インク入りの風船を割られ色とりどりのインクを浴びた。子供を隠れていた戸棚の下から見つけ出し彼女は叫んだ。
 ――『盥を用意して!』
 ティラナは庭の軒先で自ら用意させた盥の中に入り、子供達にインクをかけるように言った。
 頭から足の靴先まで赤、緑、ピンク、緑、紫とすにで汚れていたが、子供達はお構い無しだった。思い思いに、ありったけのインクを浴びせかけて楽しんだ。目の前の少女は将来、この国の一番高価な王冠を被る人になるなど、子供には無関係であり、職員達のなかには青褪める者もいた。撮影のカメラは回り続けていた。
 盥には風呂のようにインクが混じり溜まっていった。

 ――『みて。全部の色を混ぜるとね、黒になるの』
 
 ティラナは声を弾ませて言った。
 減法混色と加減混色の話をしだしたが誰も聞いていなかった。ただ一人シュナイゼルを除いては。
 ――『水をかけて!』
 インクの次は水を望んだ。数本のホースをそれぞれ蛇口に繋いで子供達は消火活動に従事する消防隊員のように水を噴射した。目と耳と口を押さえティラナは大量の水を浴びた。黒ずむ水が盥から溢れかえる。それは土に滲み込んでいき、水溜りをつくった。
 そうして気が済んだように盥の中で立ち上がった。髪や白の長いワンピースは目も当てられないほど酷い状態でぐしゃぐしゃだ。
 ――『人間の肌にインクを直につけてはいけないわ。食べ物もよ。インクは化学物質だから皮膚の細胞を破壊し、皮膚炎を誘発します。アレルギーの発症リスクもあるわ。それを他人に行うと我が国では傷害罪や暴行罪となります。最高五年の拘禁刑が罰則となります。また不敬罪に該当する場合、拘禁期間が六ヶ月延長、もしくは罰金刑となるわ』
 職員達だけでなく、撮影クルー達の中にも顔を青くする者が現れた。ティラナはホースを子供の手から受け取り顔を洗い流した。カメラマンの構える映像カメラに向かって彼女お得意の啓蒙≠披露した。彼女曰く、教育的番組≠ニのことだ。
 シュナイゼルは公務に帯同し側に控えていた女官と従者に紅茶とタオルの用意を頼んだ。
 ――『今回は不問に付します!』
 盥から飛び出てシュナイゼルの隣までやってくると、彼女は、ばさばさとワンピースから水気を振り落とし裾を絞り上げた。
 飛沫がとんだ。
 ――『あぁ〜さむい〜!』
 ――『君がやったことだよ』
 六月の雨の日。気温も上がらず寒いのは当然だ。
 ――『わかってる。……風邪ひきそう……。……ごめんあそばせ!』
 タオルの準備が待ちきれず、濡れたままシュナイゼルを抱きしめた。体は氷のように冷たかった。背丈は程近かったが、彼女よりも華奢で簡単に腕の中に閉じ込められた。彼女の額には水に溶け出した墨色の筋が光っている。シュナイゼルのシャツとベストに水と冷え切った体温が滲み込んでいった。広報番組のための演出だった。ふたりは内緒の話をするように囁き合った。
 ――『これで、同罪よ』
 にやっと彼女が笑った。
 ――『不問に付す?』
 ――『君は裁けないよ。免責特権を持っている』
 一瞬驚いた顔をして、それから細かく声をあげて笑った。
 ずぶ濡れのティラナは持ってきていた着替えをシュナイゼルに譲った。彼女は孤児たちのために寄付される子供服の中から洋服に着替え、とくに伸縮性のあるデニム素材のパンツの動きやすさに大層喜んだ。
 子供達はティラナのワンピースを着たシュナイゼルに向かって「お姫様?」と尋ねた。

 「あの時は本当に替えのお洋服がなかったの。うちに男の子がいないから当然じゃない。ブリタニアの服のほうがフリフリしてると思うんだけど。……でも安心して! 今日はちゃんと男の子の服を作ったって衣装部が言ってたもの」
 「誂えてくれたのかい? 嬉しいね」
 長い教科書を閉じた。
 得意げにティラナは人差し指を振った。
 「今晩の夜会用のパレード・チュニックとセーラー服ならあるわ。ブリタニアの礼装はこっちだと浮いちゃうから」
 彼女の背後から鹿毛がブルルと鼻を鳴らして擦り寄った。
 「お腹すいたの? まってて」
 持ってきていたバスケットの中を漁る。小ぶりの林檎を一玉を拾い上げ、折り畳みナイフで切って食べさせてやる。
 「……もうこんな時間?!」
 バスケットの中からもう一玉取り出そうとした時、懐中時計が目に触れ時間に驚いた。彼女は勢いよく立ち上がり、馬の手綱を引いた。
 シュナイゼルは教科書をバスケットに入れ腕に通した。ティラナは川まで走り、足についた土を濯ぐとハンカチで拭った。靴を履き直しすべての準備を終えて、シュナイゼルに呼びかけた。
 「さあ前にどうぞ! 皇子様!」
 言葉通りに鐙に足を引っ掛け、鞍の前の方に跨る。
 そして背中側にティラナが乗ると、彼女の長い髪がふわりと風に流されてシュナイゼルに巻きつく。いい匂いがした。
 「あら。ごめんあそばせ。髪を纏めようかと思ったのよ。でも下ろした時、癖づくからやめてと言われたからそうしているの。とくに今日はね」
 その日の夜は湖畔のホテルで夜会があった。ドレスアップのために、いつもは無関心なほど後ろに纏めてしまう研究者の彼女も、貴族達の社交界には手を焼いている。夏の夜は社交界の絶頂期である。国や慣習が異なれど、どこも同じだろうとシュナイゼルは内心思っていた。
 

 ◇ ◇ ◇

 磨かれたクリスタルの綺羅びやかな輝き。天衣の如く柔らかく、赤と黒の幾何学模様の絨毯に落ちる光と影。
 室内楽の演奏がホール中に響き渡り招待客の耳を楽しませている。宵の帳が下がりきるもっとも静寂な時間。シュナイゼルは夜会服として誂えられたばかりの黒地に金色の織りなすパレード・チュニックを身に纏い、車寄せのホールを見渡せるバルコニースペースに佇んでいた。
 「殿下。お飲み物はいかがでしょう」
 燕尾服姿の従者がそっと尋ねた。短い返事で断り、ホテルの正門前に広がる湖に視線を戻した。
 今宵の舞台は、ヴァルグレイ湖畔のホテル。
 高原の海≠ニ呼ばれるほど、広大な湖面に映し出される岩山の澄明な湖は、カストラリア中部有数の別荘地である。湖畔のすぐ目の前の大型ホテルの前を通る道を伝い、小高い丘へすすむと王室の所有するパラディオ主義の別荘――サルビアブルーと白亜の城が周辺を見下ろすように建っている。

 晩餐会の会場となるホテルの大広間の手前。籐で編まれたテーブルとチェアが並んだスペースには、貴族の男子達が腰掛けて談笑中である。欧州旅行の話、寄宿舎や大学の試験の話、家族の話、株の話、狩りの話。事業の話――。
 入口にもっとも近い壁際には、軍関係者とわかるメスドレスを着用した士官が揃い踏みである。規律正しく背筋を伸ばし、国王一家の到着まで待機している。 
 シュナイゼルも彼らとともに出発する予定だった。しかし、夫妻はかなり遅れて到着する予定であることや、ティラナは午後から始まった研究関係の審査会を上の城で行っている。暇つぶしに周辺を散策しつつホテルで待っていて――と、ティラナの言葉通り日暮れまで丘の周辺を散歩し、ホテルにも先に着いて待っていた。
 ――素晴らしい。傑作だ――
 ――どんな芸術品も敵わない――
 ――ベルニーニ……いいや、古ギリシャのアポロンだ――
 ――いいや、ヴェロッキオのダビデだ――
 ――いや、ドナテッロだ!――
 どこからともなく、審美眼を持つ芸術評論家と思しき者達の囁きが、ざわめきの中に混じった。
 トルコブルーの大きな花瓶にいけられた紫とピンクの紫陽花の陰。ステンドグラスのテーブルランプの輝きの奥。艶めいた視線がシュナイゼルに向けられている。
 黒地に金釦が二連ずつ配置された詰襟のパレード・チュニックはどの貴族男子も同じ装いだったが、シュナイゼルの襟元にのみ金地の王家の徽章、袖に金の釦が三つ、刺繍で直線上の三重にラインが縫われている。遠目からでは、貴族の男子と見分けがつかないだろう。
 試しに、バルコニーの手摺りに凭れてその方向に微笑みを傾けてやる。低い歓声が波打った。
 重い軍靴が床を叩いた。
 壁際にいた軍人達は一斉にその男に向き直り敬礼する。制服から察するに高級将校である。彼は大広間の前にいる侍従の一人に声をかけた。
 「国王夫妻は遅くなると報告を受けている。先に晩餐をはじめて欲しいとのことだが。……王女殿下は?」
 「ご支度にお時間を頂戴すると」
 「あぁ……そうか。婦女子とは常にそういうものだ。みな、まだ上階にいる」
 そう言って視線を天井に向けた。それまで続いていた室内楽が止んだ。休憩の時間を挟むようだ。すると裏手から回り込んできた流しの楽士による、賑やかな大衆向けの楽曲の演奏が始まった。
 「誰だ。このホテルに馬鹿げた道化を招いたのは! つまみ出せ!」
 軍人は声を荒げ、ホテルマンの姿を探した。給仕係が急いで支配人を呼びに走った。演奏は徐々にバルコニースペースに近づいてきた。
 ――入口に皇子殿下がおられますが。ご紹介がなくては……――
 誰かが言った。
 ロンハード海軍中将はシュナイゼルに気づき目礼をした。
 「……あぁ! 庶民の流行歌で場を穢されては敵わん!」
 いかり肩の別の高級将校は鼻息荒く、到着したばかりの支配人に顎で合図を送る。
 どこから聞きつけてきたのか、お捻り目当ての流しの楽士を追い出そうと数人が動き出したが、まもなく次の演奏が始まり、ゆらゆらと貴族の青年達の間を漂っては、バルコニーの白い手摺に凭れるシュナイゼルのもとへ向かっていくものだからみな気が気でない。
 そして、懸念していたことが現実化する。
 楽士の男はマンドリンの弦を撫で、唾が吹きかかるほどシュナイゼルに寄った。逃げることも、微動だにもせず、観察者の眼差しを与え、それから軍人達の方をみた。高貴なのは噂や名前ばかりでなく、佇まいひとつにしても、夜の暗さこそ輝きを際立たせる。光を染めた髪も明るい碧眼もただの碧ではなく、国の象徴花のような青紫色を湛えている。
 十にも満たぬという齢を感じさせぬほどの落ち着き。知性を感じさせるほど管理された表情。ブリタニア皇室が宛てがうには申し分のない皇子の品性。国家威信にも関わるだけあると海軍中将ロンハードは納得し、僅かに視線を下げ二度目の目礼をする。
 楽士を前に、目当ての人の到着に気付いた皇子が姿勢を整える。すらりとした脚をその方に向けた時だった。
 「閣下」
 部下の囁きを受け、ロンハードは壁際へと退いた。ホテルマン数人が楽士を捕らえて引き摺っていく。入れ替わるように上階から下がる大階段から、ホテルに滞在する貴族達とその家族が大広間前のホールにおりてきた。大理石で造られた立派な大時計は夜会開始の十分前に迫っていた。食前に懇親を期待していた貴族達だったが、事前に国王夫妻の遅い参加を知らされていたため時間いっぱい余暇を楽しんでいた。
 ホールは一気に騒々しく、熱気に包まれた。
 
 バルコニーホールから下に伸びる階段の踊り場で「暑いわぁ」と呑気な声で少女が独り言を漏らした。
 丘の一本道を歩いておりてきたのか、頬がチークなしで紅潮している。長い髪は丁寧に編み込まれ、白い首を晒している。彼女の背後には、審査会に参加していた若い貴族らがぞろぞろと列をなしていた。
 階段を上るティラナへ、白い手袋をはめた手をシュナイゼルが差し出した。
 「お手をどうぞ」
 「ご用心あそばせ。……ごめんなさい。遅れてしまって」
 バルコニーまで誘導し、オペラグローブ越しの手の甲に口づけを落とした。
 暗夜から光の世界へ登場すると、それまで談笑を続けていた貴族の男子達も椅子から一斉に起立する。ネイビー地にサンディエゴレッドとホワイトの花柄のAラインの動きやすいドレス。ティラナの普段着を思えばかなり華やかな色合いだ。
 姿勢を真っ直ぐにして、ティラナは壁際に控えているロンハード海軍中将に声をかけた。
 「こんばんは。ロンハード海軍中将閣下」
 彼はティラナの前へ進み出て、敬礼をとった。
 ティラナはシュナイゼルの目を見た。その夜会の招待客の中で王族につぐ高位であるロンハードに紹介した。 
 「ご紹介いたします。こちら私の婚約者でございます、シュナイゼル皇子殿下です」
 「お初にお目にかかります、中将。かねてより海軍における功績は王女から伺っております。今後とも、王家への忠節を頼りにしています」
 シュナイゼルの前でロンハードは片膝を絨毯につき、頭を深く下げて拝礼した。
 「殿下にお目にかかれ、光栄の至りに存じます。恐れながら、王女殿下の婚約を心よりお祝い申し上げます。……今後とも、身命を賭して王家へお仕えする所存でございます」
 挨拶を終え居直り、周囲を見渡す。貴族達は胸に手をあて黙礼した。
 「王女殿下。国王陛下にかわって晩餐を始めたいのですが。合図をお願いできますでしょうか」
 「あら。そうなの。どうりでこんなに集まって……。……飢え死にさせられるところだったわね!」
 「お恵みを賜りたく存じます」
 ジョークに乗るロンハードに、ティラナは嬉しそうに笑った。
 
 空席である国王の右隣にティラナとシュナイゼルは座った。
 時刻は夜の七時。晩餐開始時刻に陛下夫妻は間に合わなかった。ティラナが椅子から立ち上がると、シュナイゼルも起立し、所定の席についていた各貴族達が一斉に立ち上がった。
 「今宵は盛夏の晩餐会にお集まりいただき感謝申し上げます。国王陛下ならびに王后陛下の到着が遅れますことお詫びいたします。かわって私、ティラナが今宵の宴の司会を務めさせていただきます。それでは皆様、お手元のグラスをお持ちください」
 ティラナは落ち着いた、しかし毅然とした口調で取り仕切った。

 ――Lûmen thir Varein!(ルーメン・シル・ヴァレイン!)――
 ――国王陛下に祝福を!――

 煌々と輝くシャンデリアへ高く掲げられる杯。
 斉唱の声が太く厚く大広間に反響する。 

 招待客の貴族と家族だけでも数百人規模の夜会は三晩行なわれる。
 毎夏恒例の王室主催のもので、現国王セイルの即位後から始まった慣例行事だ。専制君主制から立憲君主制へ。貴族達の反発は凄まじいものになると予測していた王は、最初の十年で貴族達との関係性を構築していった。理想とはかけ離れた体制と国家運営に忙殺されながら、徐々に各貴族を適材適所に割り振り、庶民からも功績者に叙勲し一代貴族の称号を授けるなど下地を整えていった。
 最初の足がかりを築いた頃、ティラナが誕生した。
 聡明な父、スポーツ選手だった経歴の王后ユスティナを母に持ちそれぞれから優れたものを受け継いだ。
 始まった食事は決して気楽なものではない。国王夫妻の代理であるティラナ、またその日はじめてカストラリアの王室主催の晩餐会に現れた将来の王配の姿に、皆無関心を装いながら釘付けになっている。
 スープを口に運びながら、サラダを食みながら、食前酒を含みながら。好奇心に染まる眼差しだけが獲物を狙う肉食獣のように一点集中している。
 シュナイゼルは緊張こそしなかったが、不躾な視線の煩わしさが食事の味を薄める効果を感じていた。
 「ごめんなさいね。落ち着いて召し上がれないでしょう」
 「……ん、いや……」
 掬いかけたコーンポタージュをどうしたものかと視線を落とし、隣席のティラナに目を向ける。
 食前酒ではなく葡萄ジュースの入ったグラスを傾けて渋い顔をしていた。
 「果汁一〇〇パーセントよ。この味は……ホテル自家製で売り出しているホーマント・ブロイス社お抱えの農園の味」
 「ほんとうに?」
 「嘘だと思うなら厨房に行けばわかるわ。もしくは廃棄場所のバケツの中に答えがある。きっちり製品表示が切り取られていない限りは、ね!」
 「……ふふ」
 にやりとティラナが笑い、シュナイゼルもつられて笑った。少しずつスープを飲み進めていった。
 彼女は思いついた会話を続けた。
 「ワイン用にも出しているはずだけれど……あと五、六年も我慢しなくっちゃいけないのよ」
 「葡萄が好きなのかい?」
 「ええ。そうよ。……一番」
 「二番は?」
 「……内緒」
 「どうして秘密にするの?」
 「なんでも教えちゃったら、つまらないじゃない」
 「そうかな」と言って、飲み終えたスープの皿が下がり、魚料理がすぐに供される。
 「考えてもみて。平均寿命が七十歳だとするでしょう。すると、私は五十八年間もあなたとお喋りし続けることになるのよ」
 「私は六十一年間だよ」
 「そうなの。半世紀以上! 半世紀も一緒にいたら話すことがどんどんなくなっていくのよ。出し惜しみよ。そのうち、ああ≠ニか、うん≠ニか、あれ≠ニか、それ≠ナ話をするようになったら……」
 「なったら?」
 ティラナは暫くの間、空中を見上げて考え込んだ。
 「……その時は他の話題を見つければいいのかしら。話すことがたくさんあると思う?」
 「あるさ。……国のこと、政治のこと、経済のこと……貴女の研究のこと……ほらたくさんある」
 「全部お仕事の話じゃない」
 「それではいけないのかい?」
 「余暇不足よ」
 「けれど、秘密にしたい?」
 「……そうなの!」
 ティラナはとにかく喋りだすとずっと続く人だった。
 滞留するエネルギーを発散するために、ずっと頭脳が働いているような言葉の数々。シュナイゼルは数多くいる弟たちが寄って集って口々に話しだした時の状況を思い出していた。彼らひとりひとりの情報の密度は少ないが、適切な対処法を怠ると泣き出してしまいそうな緊張感。――彼女の場合は、飽きられる°ル張感があった。
 「ああ。まただわ。……喋りすぎちゃった。ごめんなさい。……殿下のお好きなものはなあに? ジュースは同じものでよかったの? 他のものに替えて欲しかったら頼むわ」
 ――こういう時、すこし困る。
 曖昧な返事をティラナはどう受け取ったか、給仕におかわりのものと林檎ジュースを注いだグラスを二つ用意させた。
 一気に二つ増えることで、彼は過剰に満たされていた。いつものことだった。
 まだ食事や飲み物や、身の回りの生活圏内の質問ならば失敗がない。どれを答えても他者がシュナイゼルに抱く優先順位が更新されるだけで終わるからだ。すこしだけ多い量を伴って。
 シュナイゼルの問題は――この婚約者の女性のモチベーションの維持だった。
 婚約が成立した次に始まるのは、国内外への影響力が絶大な知の暴食漢の相手だ。彼女は将来、国を統治する権限を有しながら、大人しく地位に収まるような性格をしていないからだ。

 ――彼女を退屈させてしまうと、興味が外に移ろいでどこかへ飛んでいってしまうのではないか――。

 そして、シュナイゼルはその退屈≠ニ言われてしまったとき、困ることを最近知った。
 自分には彼女ほど満足させられるものを、物や金銭や人や――目に見えるものだけで賄うには限度があると知っていた。ブリタニアにいれば考えもしなかったことだ。この国のものはシュナイゼルのものではないからだ。
 彼女がシュナイゼルを認め、然るべき儀礼的手順を踏み、ようやくその権限と資産を持つことが許される。今の彼には何も持っていないに等しく、さらに空白を埋める興味と情熱にティラナが飽きてしまったら――?

 ――紛れもなく、死を意味している。

 だから困っている。
 どんな感情も場に相応しく付け替えるだけの代物でしかなかったが、この困惑という感情だけ一次的で純粋な♂ソ値あるものだった。論理を超越し試算を覆す、衝突がもたらすエラー。――ティラナに対してのみ、頻繁に起きる感情の発露だった。
 ティラナはステーキに手を付けその食感を大いに褒めた。
 「うん。いい焼き加減ね、舌触りがなめらか! 離乳食に出してもバレないくらい。アレルギー誘因と消化不良、窒息のリスクに晒しかねないけど、これが大人になるってことね!」
 「まだ子供だよ、私達は」
 「立派な児童期ですこと。大人みたいに振る舞わなくちゃいけないのよ?」
 ――会話は常に彼女が喋り続けている方が楽だ。その方が決まった答えを導き出すだけで済む。
 もっとも幸いなことは――彼女は他の女性と異なりどんな話題にも独自の見解を持っていることだった。
 「それでは殿下、お勉強の時間です」
 隣のティラナがナイフとフォークを置いた。
 もし彼女が今、本当に女王陛下≠ネらこの瞬間、晩餐会は終了しただろう。
 同様に、シュナイゼルには食事を続けさせるほか、常に関心事の篝火を絶やさずに木をくべる役割が生涯課せられている。
 「食事中だよ?」
 「家族だけの食事会ならよかったわ。……晩餐会だから、皆様のご期待に応えて差し上げなければ」
 ティラナの長い話に気にならなくなっていただけで、貴族達はいつどのタイミングで話し掛けようかと様子を窺っていたのだ。そして、それが彼女なりにシュナイゼルの食事を中断させないための配慮だったのだと気づく。
 国王夫妻の到着は遅い。開始から三十分経過していた。食事をゆっくり進める者、早い者、談笑を楽しむ者、手持ち無沙汰だが挨拶のひとつでもしなければ部屋に戻るか帰路につくことは避けたい者――様々だ。
 ティラナは大広間のあちこちを見渡して一人ずつ貴族達の名前、称号、領地あるいは事業・慈善活動などの説明を始めた。
 ブリタニアに比べれば貴族の数は少ないが、逆にいえば少数精鋭を誇る。階級が低くとも民間では著名人も数多く、専制政治からの過渡期ゆえに政治家と実権を握る者もいる。
 「……お次は……一番近い手前の席にいらっしゃるのはド・シャトレ侯爵よ。彼は国王陛下の最も信頼する外交顧問の一人。亡命時代から王家に尽くしてきた筋金入りの超王党派。自領地の茶園でお茶を栽培させていて王室御用達よ。癒着しているつもりはないわ。……好きなものはジンジャー。ほら、今紅茶に入れたわ」
 シュナイゼルがくすりと笑った。
 「……でも、ブリタニアの拡大を心底警戒しているの。そして、国内で最も私を嫌っている」
 「……理由を聞いても?」
 「私が女性≠ナ研究者≠セからよ。……賢い女性がお好みじゃないのね。それに我が国の歴史で女王は二例目。民族の受け入れには寛容だけれど、性別に関しては深海生物。いえ、化石よ! 示準化石みたいにさっさと絶滅してほしいわ。……女性が王権を持つことに不安を感じているし、認めたくないの。心の底ではね。……だから、きっと、貴方を取り入ろうとするはず」
 痛烈な皮肉で紹介された、ド・シャトレ侯爵は柔らかな口髭をたくわえ、控えめながら上質な濃紺のパレード・チュニックを纏った五十代半ばの紳士だ。ジンジャー入りの紅茶のカップをソーサーに戻し、彼はゆったりとした所作で主催席エリアで話し合うふたりを見て、そして立ち上がった。
 「ほーら、来た」と囁きとともにティラナは微笑みを貼り付けた。
 ド・シャトレ侯爵は席を立ち、ふたりの子供の座る席まで寄ってくると深々と頭を下げた。
 「お食事中失礼致します。ティラナ王女殿下。……シュナイゼル皇子殿下、遠路はるばるようこそ。私はコンラッド・ド・シャトレ侯爵でございます。侯爵家は代々、王家へ忠誠を尽くしてまいりました。殿下がカストラリアの地を愛してくださることを願っております」
 侯爵の言葉は礼儀正しいが、その眼差しには、若くして婚約者となった外国の皇子を測るような鋭さが含まれている。
 「光栄です、侯爵。カストラリアは、その自然の美しさもさることながら、高度な学術、そして何より中立という理想を体現する国として、深く尊敬しております」
 シュナイゼルは完璧なカストラリア語で応じた。侯爵は微笑んでひとつ頷いた。「素晴らしい。よき夜を」と言い自分の席に戻る背中を眺め、ティラナは笑った。
 「ふふ。合格よ。彼の眼がちょっと緩んだわ」
 挨拶を終えた侯爵が席に座り、ティラナは「あら」と声を発した。シュナイゼルに身を寄せ、首を傾けた方に視線を移す。
 「たった今、私に向かって会釈をしたあちらの丸眼鏡の紳士は、ヴィコンテ・フォン・ヘルムホルツ伯爵。……私の個人的な研究所の設立を考案中なのだけど、そのサポートにご協力いただいているの。彼自身は軍事産業――兵器メーカーの出資を行っているパトロンよ。その兵器メーカーはブリタニアとも共同研究を行っているわ。四代前に移民としてこの国へ来たから貴族としては若いの。話の分かる人よ」
 そのとき。黒地にハゲワシの片翼の紋章を刺繍したマントを肩からかけたずっしりとした存在感を持つ男が大広間に入ってきた。
 ――ルーフォンド・アル・ベルケス公爵のご到着でございます、王女殿下――
 背後に立つ、副秘書官がティラナにそっと耳打ちするのを聞いた。
 「……ありがとう。……ベルケス公爵よ。お母様の弟で、私の叔父上。厚生省大臣と王立学術機構を兼任しているわ。王立基金審議会の監査役も。……研究でとてもお世話になってる」
 ベルケス公爵は国王夫妻代理として晩餐会の軸として座るふたりの元へ足を進め、その前に立つと跪拝した。
 「遅くなりました。ご挨拶申し上げます。ティラナ王女殿下、シュナイゼル皇子殿下」
 「ご出席いただき嬉しく思います。ベルケス公、お立ちになって」
 ベルケス公爵は礼を解いて一歩近づき、ティラナの手の甲にキスをした。
 「……私としたことが……遅刻とは。大失態でありますが。今期分も予算以内に動けそうです王女殿下。デスモイド閣下には既にお伝えしておりますゆえご安心を。彼は枢密院議会の準備で後から来るでしょう」
 ティラナはシュナイゼルの耳元で「さっきの話の続き。新しい研究所の設立で厚生省や科学庁などの根回しをお願いしているの。その報告よ。デスモイド閣下は――今の首相」と囁いた。
 ベルケス公爵は一呼吸置き、大広間の場内を見渡しながら余談を続けた。
 「……いやはや、皆挨拶をしたがっている。これでは食事の暇がございませんな。……メインディッシュの白身魚のムニエル、仔牛のステーキを皆さん食べ終わっているというのに」
 「あらそう? お子様はお口が小さいの。大人と違ってね! さあ、ベルケス公も召し上がってください。おすすめは仔牛のステーキよ。赤ちゃんでも食べられそう。もし胃もたれをおこしたらジンジャーティーがおすすめよ。消化促進を助けてくれる。ド・シャトレ侯爵を真似するといいわ」
 ベルケス公爵は席の近いド・シャトレ侯爵を振り返る。たしかに彼はそれを飲んでいたし、咄嗟に笑みが溢れたのだった。
 「くく……っ。たしかに。ぜひ、そうしましょう。……では、略式ながら……改めて、ご婚約おめでとうございます。おふたりの殿下に神のご加護を」
 「恐れ入ります。ベルケス公爵」
 シュナイゼルが挨拶を返した。ベルケス公爵は笑みを深め、黒いマントを翻した。
 ティラナは首をのばし、大広間の出入り口を見つめた。彼女が挨拶に応じる必要のある者がいないと確認し、残りのステーキを再び食べ始めた。
 林檎ジュースのグラスに口をつけて、シュナイゼルはふと浮かんだ疑問を投げかけた。
 「デスモイド閣下は貴族出身?」
 「いい質問ね。侯爵よ。経歴が長いからそう呼ばれているだけで、先代時代の陸軍将校だったの。退役してから枢密院入りして、今首相も兼任なさっている。……経験豊富でよく助けていただいているわ」
 「……ほう。では、公爵家は? 少ないというのは知っているよ」
 ティラナは両手にナイフとフォークを握ったまま答えた。
 「公爵家は全部で五つ。王族由来の公爵家は二つ。残り三家が非王族の公爵家よ。数が少ないのはその頃、お取り潰しにあった家があったから。……ややこしいのだけど、ベルケス公爵は元々カストラリアにいて、お母様が子供の頃はスイスにいたの。その頃は国内が大変だったから、お父様のように安全な海外に亡命することも少なくなかった。お祖母様がポーランド系の貴族でスイスにいるからそちらを頼ってね……」
 「では、私が結婚したら一つ増えるね。……とすると取り分の大きいところをいただけるのかな」
 「おませさんね。もうそんなこと考えてるの?」
 「私はこの国ではなにも持っていないからね」
 大きな瞳を瞬かせて「ふぅん……そうね……」と頷いた。
 「国籍、居住権、資産管理権、銀行口座の所持、議会や枢密院会議にさえ出席できないものね。……王室法に基づいた宮廷規則で男子は十六歳から、女子は十八歳から結婚できるのは、片方が外国人を想定しているから……あなたが十六歳になれば結婚できるわ」
 「あと七年?」
 「そうよ。七年。きっとあっという間よ」
 大広間に黒地の正装、黒いマントを纏う背の高い男が入場する。
 副秘書官がまたティラナに囁いた。
 ――グレドール・ド・アルディック公爵のご到着でございます、王女殿下――
 アルディック公爵は兄のベルケス公爵同様に、ふたりの目の前に立つと身を屈め最上級の礼をとった。
 「ティラナ王女殿下、シュナイゼル皇子殿下。お目にかかれて光栄に存じます。公爵アルディックでございます」
 「アルディック公、面を上げて。お噂はかねがね。上手く行っているそうね?」
 「ええ。お陰様でございます。今年の貿易収支は黒字でしょう」
 アルディック公爵は佇まいを正し、ティラナの手を取り甲に口づけた。
 「特に希少金属やレアメタルや常温超伝導鉱石サクラダイト――医療機器・医薬品――おっとっと。この話、皇子殿下にお聞かせできるものでしたか?」
 「あなたがお喋りし始めたんじゃない。……問題ありません。婚姻条約には守秘義務の項目がございます」
 「それはよかった。神の御名と王冠――王家にお仕えする者は何人たりとも、嘘偽りなく申し上げなければいけないのですから」
 アルディック公爵は飄々とした態度で踊るようなステップで数歩引き下がり、笑みを浮かべた。
 ティラナに向かって指をさした。
 「はは。ティラナ姫。実に麗しい皇子様を射止めたね? その色も脱色≠ナきそうだ。――これで我が国も安定でございますね? 国王陛下――王后陛下も、素晴らしい宝物を手に入れた。ブリタニアという庇護を。あるいはイングランドの再興を」
 大広間中の視線がアルディック公爵に集まる。
 それぞれが目配せをする内に、ベルケス公爵が食事の手を止め立ち上がった。
 「アルディック公。席に貴公の食事の用意がある。着席したまえ」
 彼は弟の肩に手を置くと振り向かせた。アルディック公爵は恭しく胸に手をあて一礼した。
 「お久しゅうございます。ベルケス公――いいえ、……兄さん」
 「王室主催の晩餐会は家族の、個人的な食事会ではない」
 アルディック公爵は鼻を鳴らした。
 「堅いね。そういうところがお気に入り≠ネんだろう。――私を除け者にして」
 「サロニアはよい所だ。我が国の湾港のある重要拠点である。その土地を継承し王家にも貢献している。役不足だと宣うのかね?」
 アルディック公爵はやれやれと肩を竦めた。
 大広間の前に立つ侍従が大声で国王夫妻の到着を知らせた。

 ――皆様、国王陛下と王后陛下をお迎えください――


 ◇ ◇ ◇

 ヴァルグレイ湖畔ホテルの中庭の噴水の台座に腰掛けて、ティラナは疲労と眠気で大きなため息を吐いた。
 ホスト役を両親である国王夫妻に引き継いで、今宵の彼女の役割は終わった。
 ホテルの中は貴族達の夜が漸く始まった。内側から明るい光が外の暗い庭に射し込んでいるのを、シュナイゼルはティラナの前に立って眺めていた。
 「明日は最初から席にいて欲しいわよね」
 「明日の予定は?」
 「今日と同じよ。……審査会で研究論文の発表を聞いたり、評価をしたり。……デスモイド首相がさっきようやくお見えになったでしょう。研究所の設立の許可とか、内容や、スタッフの雇用や……その運営の拠出金だとか。……あなたには退屈なお話?」
 「ちっとも? もっと聞かせて欲しいな」
 その言葉に気を良くしたのか少女は年相応にはにかんだ。
 ドレスを持ち上げて草の上に立つと、シュナイゼルの手を引いた。
 「ねえ。こんな退屈なパーティー抜け出しちゃいましょうよ」
 「おやおや。……退屈かもしれないけど大切な場だよ」
 「お披露目は終わったじゃない。これ以上は大人の時間よ。子供は蜂蜜入りのミルクでも飲んでなさいって乳母が寝かしつけに来る時間」
 パッと手を放し、ティラナはドレスを巻き上げて走り出した。
 「ティラナ」
 「その前に、グラスをかっぱらってくるから!」
 制止も虚しく、どこかへ消え、一人取り残される。
 待つのは慣れている。待っていても、いずれ戻って来るとわかっているから。
 両手にグラスを持ち戻ってきたティラナは、片方をシュナイゼルに差し出した。柑橘類の香りが漂う。グラスに満たされたレモネードだった。
 厳しいテーブルマナーも、仕来りを注意する小煩い秘書官や侍女達もいない。ほどよく冷たく、酸味と刺激に喉が焼ける感触を堪能しようと、彼女は一気に呷った。
 「うーん! 格別! なかなかワルね!」
 「おいしいね」
 少しずつ口に含み、炭酸の泡を至近距離で見つめた。
 ティラナは目の前でとっくの空になってしまったグラスを持ち、おかわりをしたそうに身を揺らしている。
 「大人はお酒を炭酸で割るのよ。白ワインと割ったカクテルもあるって聞いたわ」
 「……いけないよ。飲んでは」
 その話をするということは、計画しているのではないかと思った。
 たとえば、レモネードを注いだあとに――白ワインをこっそり入れてみるだとか。
 無論、この国の飲酒年齢は十八歳以上からで未成年である彼女は飲めない。王室法がこの点に関して国の法律に準じているが、親や監督者の許可があればビール、ワイン、サイダーを飲むことができる。
 「お子ちゃまね!」
 「そのとおり。……おかわりが欲しいなら私のをあげるよ」
 「それはシュナイゼルのものよ」
 ティラナは差し出しかけたグラスを押し返し、またレモネードを求めてホテルの中へ入った。
 次はいつまで経っても出てこない。十五分ほど、出入り口の前で貴族の青年達の他愛ない雑談を盗み聞きしてやり過ごしていた。やがて、ティラナはホテルから現れた。手にグラスは持っていなかった。そのまま――強い歩調で湖畔の方へシュナイゼルを置いて抜き去っていく。
 適当なところにグラスを置き、すぐに追いかけてその隣に並び立つが、何かに追い立てられているように足が止まることはない。
 「……どうしたの?」 
 湖畔の桟橋にかかるボートに無言で乗り込んだ。
 ティラナの後を追う使用人は誰もいなかった。致し方なしに、シュナイゼルはボートの中に足を踏み入れた。
 櫂を握りボートを漕ぎ出して、水辺には大きな黒い影が揺らめいた。湖畔は静かで暗く、月の光も雲に遮られて弱々しい。
 「どこまで行くつもりだい」
 「どこへでも」
 「縁に沿っていくと、一周するだけだよ」
 「……わかっているわ。そんなこと。……ここは海じゃなくて湖だもの」
 ティラナの深刻そうな顔とは対照的に、シュナイゼルは穏やかに微笑んだ。
 それはいい。また戻ってこられる。
 湖ならばいくらでも。海はいけない。どこまでも果てしなく、隅々まで、探す羽目になってしまうから。
 ボートの上で波紋の響きを、静寂な瞳で追いかけて、ほんの僅かな間にくしゃりと表情に皺が寄った。
 短い時間を積み重ねるうち、シュナイゼルはティラナが表情豊かに感情の喜びや悲しみ、不安や葛藤を映し出すのを理解していった。感情において――とくに、その反応において――ティラナは教師≠セった。無声音の。微表情の中における圧縮された情報を抱えている。
 道徳的な関心ではなく、それごと真似することで、人間のふりをするのが上手になれるから。
 興味と学習のために、シュナイゼルはこういう場面でふさわしい問いかけを発した。
 「何があったんだい」
 長い睫毛の奥で、鈍い水面の光に透けるレモンの瞳に湖面のブルーが混ざり、滲み、一つ雫がぽろりと少女の櫂を握る手の甲に落ちた。
 憂いとは美しいものだ。
 「……いつか、研究を……辞めなきゃいけないんだって」
 「……君が、女王になるからだね」
 「ええ。そう。……女王に余計なことをしてほしくないのね。ずっと先の話よ。……お父様だって元気だし。いつかの話。それまでは目一杯研究するわ……」
 堪えて、ティラナはオペラグローブに包まれる腕で涙を押さえた。
 公人は人に涙を見せてはいけない。ブリタニアでもカストラリアでも同じ話だったが、この場は私的な場でそれを咎める者は誰一人としていない。
 ホテルの中でティラナは聞いたのだろう。彼女の尊厳を傷つける大人の話を。誰かが現国王を持ち上げるために女王を貶めたのかもしれない。
 「女王は……繋ぎよ。我が国の最初の女王は十年の在位だった。流行感冒でぽっくり死んだ。……歴史の教科書じゃ三行程度で終わる人生よ。……だからみんな期待していないし、そうなることを望んでいる」
 湖上は風もなく、木々のざわめきも、水音さえも時が全てを止めてしまったかのように静かになった。
 「……かわいそうに」
 自己憐憫からか、ティラナは小さな声で呟いた。
 シートの上に座し、いくつか慰めの言葉を考えた。女性のステレオタイプから大きくかけ離れた婚約者が、いったいどんな言葉に喜び、心を預けてくれるのか。未知数だったが、なにも持てないシュナイゼルには言葉以上の贈り物はなかった。
 そして、彼女の言ったように生涯を通して続いていく。シニストラ――左側に立つ者として。
 「貴女の前には、少なくとも五人の女王がいる」
 「……そうね」
 ティラナはすこし顔をあげた。対照的なふたりの瞳の色が同じ目線に合い、互いの瞳の中に存在していた。
 「イングランドを建て直した偉大なる女王もいる」
 「新大陸へ亡命した女王もいるわ」
 「私はその女王の愛人≠フ子孫だ」
 「私はその女王と愛人≠フ子孫の可能性があるわ」
 ふたりは小舟の中で震えるように笑った。
 「二川合流だ。今ので三行は超えたと思うけど。お気に召さないかな? イングランド≠フ五人目の女王陛下」
 「ブリテン諸島を手に入れる必要があるかしら?」
 「波風が立つ。私有地を持つにはいいかもしれないね」
 顔を見合わせる。笑いは止まらなくなっていた。くすくすと笑みが増え深まっていく。
 「殿下にプレゼントするわ」
 「――いいや。――すべて、貴女のものだよ」
 「どうして?」
 「女王陛下だからさ」
 雲が晴れ、月光がティラナを照らした。



27
午前四時の異邦人
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