a.t.b.二〇〇七 August
ブリタニア アリエス宮
――あなた、赤ちゃんね――
ブルネット――いや、漆黒のうねる艷やかな髪とアメジストの瞳をもつ貴婦人はたしかにそう口にした。
薄桃、黄、白、紫、赤――芝生の絨毯に散る花々の愛しき多様性。地上の楽園と謳われても遜色ないブリタニアのエリュシオン。清麗な小川、遠景の青い落葉広葉樹、ラベンダーの屋根のガゼボがそこかしこに建ち、美しい翅の蝶がひらひら、鳥が囀り木々から木々へと飛び移る。多くの生命が光合成し、エネルギーに満ち溢れ、酷暑のペンドラゴンの熱を払い除けている。
盛夏のセントダーウィン通り。銀色の光に輝く合間を、一台の白のリムジンが走る。第二皇子シュナイゼルの異母兄妹とその母が暮らすアリエス離宮に到着し、ノエルはかねてからの約束を果たすため降車した。
二、三言の指示を従者に告げ、シュナイゼルが離宮の中を先導するよう進んだ。ノエルは宮殿あちこちを見回し、滞在中のウィルゴ宮との違いに感心した。博物館や美術館巡りのような心地である。建築物の造形の差異はノエルの知的好奇心を満たした。
柱廊からは広大な芝生庭園が果てしなく続いている。一歩外に出て太陽光がなければ迷子になってしまうだろう。
――アリエスは黄経〇度から三〇度。つまりもっとも始めか、終わりの場所。
「ウィルゴが一五〇度から一八〇度で……ペンドラゴン宮殿が北側……」
先を歩くシュナイゼルがノエルに注意を口にし、首を捻りながら視線を寄越した。
「ノエル。失礼のないようにね」
「わかってますって、そんなに睨まないでくださいよー」
「それで、宮殿の配置はわかったのかい」
「あーなんとなく。……皇妃様の扱いや序列に関係しているんじゃないかなあって」
「まったく。恐ろしいね、君は」
物言いとは裏腹にシュナイゼルの顔には笑みが浮かんでいる。
「口外したら確実に死罪ですね」
「当然だよ」
「このような場所にわざわざご招待いただけて、光栄の至りでございます」
芝居がかった恭順の礼をとり、シュナイゼルを誂う。呆れ混じりの微笑は、第三者の目からではいつも通りの彼に見えるだろう。
「シュナイゼル兄様!」
幼いソプラノが柱列の内側にまで響き渡る。
胸元にフリルのついた白いシャツに黒ベスト、グレーのスマートなズボン。細くしなやかな少年。際立つのは黒髪に象徴的なロイヤルパープルの瞳。手には庭園に咲く草花を編み込んだ花冠。
忘れかけるほど遠い過去を呼び醒ます子供の姿。呼びかけに応じ、シュナイゼルと共に柱列の陰を潜り光の下へ出る。
長身を屈め芝生の上に片膝をつき、少年皇子の目線に合わせてやる決していやらしくなく自然な所作は、多くの人々に優しさと折り目正しい紳士であることを信じ込ませるだろう。
相手に関心があるとアピールするために、彼はルルーシュ皇子の腕や手に持つ花冠に一度視線を落とし、それについて触れる。
「やあ。ルルーシュ。綺麗な花冠だ。上手に編めているね。こちらはナナリー姫とマリアンヌ妃のものかな?」
「は、はいっ……!」
ルルーシュ皇子はシュナイゼルに憧れているのか、薄桃色に染めた頬を自然と緩め、花開くようにみるみると表情の変化を遂げていった。自分よりも遥かに大きく、頭脳も優れる美しい男が、世界でこの瞬間だけ関心を持ち、親切な態度で接する姿は――一種の魔力のようなもの。彼は幼く無自覚ながらその虜になっているのだとノエルは思った。
「あ、お前は……!」
ルルーシュ皇子ははっとして、シュナイゼルのその背後に立つノエルに漸く気がつき、魅了される姿を恥じるように声を荒げた。ノエルは以前そうしたように、皇族に取るべき敬意を示すように身を屈め胸に手をあてた。
「お久しぶりでございます。ルルーシュ殿下。ノエル・アストリアスでございます」
まばゆい永遠の春のような世界で生きる少年にはそれは当たり前のことだからか、礼をとるノエルに近づくとその服の布を掴んだ。
「チェス! チェスをしてくれる!?」
「こらこらルルーシュ。はしたないよ。まずはご挨拶をしなくては」
シュナイゼルに振る舞いを窘められたルルーシュは表情が硬くなり、自身の立場を思い出した。
「……ようこそ、アリエス宮へ。アーバンド卿」
「よろしい」
「あら。シュナイゼル殿下」
そこへ軽やかな女性の声がかかる。夏にあわせたミントブルーの爽やかなドレスに身を包む美貌の妃は、ルルーシュ皇子にその髪や肌、瞳の色彩を丸々移し染めた持ち主だ。シュナイゼルとノエルは礼をとり黙礼した。
「マリアンヌ様。お約束通り彼を招待いたしました」
「一年……はまだ経ってないか。お久しぶりね。アーバンド伯爵」
「その節は、誠にお世話になりました。マリアンヌ皇妃殿下」
品のある艶を反射する黒髪が風に微かに揺れる。マリアンヌ皇妃の態度は可憐で遥かに柔軟であるが、瞳には知性が宿っている。そして、『わたし』はその瞳がこの場所にはいない隣に立つ彼の母親も持っていることを知っている。
――シャルル皇帝の好み、すこしわかってきた気がする。
「本日もルルーシュのお相手をしてくださるのですってね。昨日の夜に教えてあげたら寝付けなくってこの子。すっごく楽しみにしていたのよ」
「ははあ……それは責任重大ですね」
「そうよ。しっかり対策して勝つ気満々よ。ねえルルーシュ?」
「か、母さん……!」
知られたくない裏事情をさっそく実母に晒され、居ても立っても居られず声をあげるルルーシュは年相応に愛らしい。
誤魔化すように声を張り上げ、ルルーシュはノエルを見上げた。迫力のある動きで指をさすと宣言した。
「絶対に、絶対に、今日こそ勝ってやる!」
「ほーんと負けず嫌いねえ」
マリアンヌが手に持っていた扇を仰ぐ。
背後に建つガゼボの中。乳母の腕に抱かれて、泣き声で母親を呼ぶ妹姫ナナリーにマリアンヌが振り返る。
「あらあらナナリーったら」
マリアンヌはルルーシュから、ふたりのために編んだ花冠をそっと受け取り、微笑んだ。
「……それじゃあお母様はこの花冠でナナリーをあやしてくるわルルーシュ。殿下にご迷惑をおかけしてはいけないわよ」
母親の言いつけのすぐ直後、俊敏な動きでルルーシュはノエルの腕を引いた。彼は興奮し、お気に入りのガゼボの中に誘導するように何度も振り返っては着いてきているかを確認した。
「あっち、あっち!」
ノエルの関心は手入れの行き届いた庭園にあった。フェルサイド・マナーことアストリアス邸の庭園は自然の中に混じるような造園だったが、ブリタニア皇宮においては人の手がしっかりと入り完璧に管理されている。
カストラリアと比較しブリタニアは低地ゆえに植物の生態系も限定≠ウれておらず、景色にも侘しさがない。かつてウィルゴの庭園で土壌調査を行った。あれをそのままカストラリアに持ち込むには難しいが、南部地域のなだらかな土地であれば実現可能だろうと見立てた。
「アリエス宮も綺麗なお庭ですねえ。庭師の腕がいい。ガーデニングショーなどで見繕ってくるんですか?」
「主人の好みだから人によるね」
「ウィルゴ宮は?」
「母上の好みだよ」
たしかにあの氷のように冷たいアーデリント妃は薔薇が好きそうだと頷いた。
一見無駄を削いでいるが、白薔薇は実際には無色透明であり、光を乱反射させる細胞構造を持つ。この組み合わせが重なり醸成されている。――どことなくそれが、その形質を母から引き継いだシュナイゼルにも似ている、と『わたし』は思った。
「てっきり殿下のお好みかと。まあ、母子なら似るか。……これだけ豊かな生態系と環境があるということは、養蜂はされているんですか?」
シュナイゼルは僅かに足を止め、また歩き出した。
「養蜂を行っている宮とそうでない宮はある。君は関心の矛先は独特だね」
「なにいってるんですか。蜜蜂の生態系への影響力は基盤ですよ。キーストーン種といって……」
「植物の多様性と食物連鎖の崩壊を引き起こす……だろう?」
ガゼボの階段の一番上に同じタイミングで立った。シュナイゼルはその辺りに咲く菫のような瞳でノエルを見下ろした。
「チェスー!」
チェス盤を広げるルルーシュの叫び声が二人の間を割った。
「あぁ、はい。お相手致します。殿下」
ルルーシュをガゼボの中に設えられた椅子に座らせ、その対向にあるクラシックなアイアンチェアに腰掛ける。
ふたりの合間のスペースにシュナイゼルが座り、持ってきていたコインをテーブルに置いた。
長い思考の時間は人に退屈を与える。
ゲームは序盤こそ勢いがあったが、中盤から終盤に差し掛かるにつれルルーシュは熟考に時間を費やしていった。彼は以前と同じ様に手加減することを望まず、ノエルに本気を求めた。しかし十以上も離れた子供相手に本当の仕打ちをしては大人気がない。譲歩としてノエルは十ヶ月前と同様の内容でチェスをすることにしたのだった。
はじめシュナイゼルはそれについて何か言いかけたが、彼との取引にはルルーシュとのゲームでの戦術についての取り決めはなかった。
彼はこの日のゲームに新規性がないと読み切っているのか、今の段階ではまだ読み通り≠ナあるからなのか、退屈を凌ぐためなのか。黙々とアリストテレスの政治学を読んでいる。
――理想の構造か……。
「人間は、非合理そのものですからね。いつだって理想を出し抜く」
読んでいる頁と進度から、彼の思い浮かんだであろう感想を言い当てる。
「……ふっ、ちゃんと相手をしてあげなさい。ルルーシュが拗ねてしまうよ」
「これは失礼いたしました」
気を取り直してチェス盤を見下ろし、対面に座るルルーシュに目を向ける。少年は腕を組み、眉間に皺を寄せている。
ルルーシュが弱いわけではない。むしろ以前よりメキメキ上達しその才能を伸ばしている。あらゆるパターンを想定してストックがある分、ゲームの進行も以前より早い。しかし、前回と全く同じ内容であると彼も気付いたのか、はたまたプライドに火をつけたのかしばしば蛇の鋭い目つきでノエルを睨んでくる。
――静かだ。
風が草木を撫でる音がやけに大きく感じる。
眠ってしまわないように頭を振り、もう一度シュナイゼルの読む本の背表紙を眺めて、ガリア戦記の話を思い出したのだった。
「ガリア戦記の……」
「ノエル」
シュナイゼルの短い戒めのあと、ルルーシュが勢いよく立ち上がった。
「あーもう! うるさいな! いっつもこんな調子なの?!」
「彼はいつもこんなだよ。スポーツ・ウィークで観ただろう。ルルーシュ」
「シュナイゼル兄様は話にうんざりしたから、あえて投了≠オたんだろう? そうに決まってる」
赤い顔のルルーシュは理不尽だというように声を張った。
「ん? この間の試合の話喋ったんですか? ……でもそれはそうかも。いやあ、すみませんね。煩くって……」
頭を掻いていると、颯爽とマリアンヌ皇妃が現れてチェス盤の感想を述べた。
「あら。相変わらずいい筋ね。惚れ惚れする」
「お褒めいただき恐縮です」
「母さん、うるさいんだよ! ずっとお喋りばっかりして。気を散らせて勝ってるんだ。卑怯だ!」
それを横で聞いているシュナイゼルが「あはは」と笑った。
マリアンヌは静かにノエルを見つめ、人差し指を白い顎にあてて暫く考え込んだ。
「ねえ、あなた、騎士が向いてるわよ」
「そうですか? 騎士ですか……考えたことなかったな」
本を閉じたシュナイゼルがノエルに視線を向けた。
「ええ。体を動かしながら考えるのって難しいのよ? コンペ用のKMFのデータ、この子で採ってるって聞いているわ。シミュレーターだけど実戦用に組んであるし高精度。さっさと士官学校の編入でもしちゃいなさい。今からだとギリギリだから、私が推薦状くらい書いてねじ込んであげるわ」
そこへシュナイゼルが言葉を挟む。
「マリアンヌ様。残念ですが、彼は来月から留学します。おそらく進路も研究寄りですよ」
「そうなの。オールラウンダーね? ブリタニアの将来は明るいわ。……そういえば今朝小耳に挟んだのだけど、昨晩の宮廷舞踏会で話題になってた子って貴方のことね?」
まったくなんのことかわからなかった。
「噂? さあ……」
「あら。言ってないの? コーネリアと踊ったそうじゃない。あの子、なかなかそういうのには苦手意識があっただろうし……」
「……それはシュナイゼル殿下が無理矢――いえ、勧めてくださったのです。皇女殿下と踊ったなんて夢のようですよ」
「それでなのかわからないけど、あなた、コーネリアのロマンス相手だと思われているわ」
それを聞いたノエルはシュナイゼルをこっそり睨んだ。彼は視線を受けて、小首を傾げて微笑むばかりだった。
――くっ……二度と来てやるか宮中舞踏会など……。
「あなた、赤ちゃんね」
「……はあ?」
唐突なマリアンヌの言葉にシュナイゼルが失笑を漏らした。
「あはは! 未熟って意味じゃないの。可能性ってこと。……そして、なんでも欲しがって、自分のものにしてしまう」
意味ありげに微笑むマリアンヌの隣で、ルルーシュはそれ以上場をかき乱されたくないと「母さん!」と言った。
「あらら、ごめんなさいね。ルルーシュ。……じゃ、お詫びにこれを、こうして……」
しなやかな手つきでマリアンヌは盤上の黒の駒を動かした。ノエルの駒だ。
「あーッ!」
ノエルは頭を抱え叫び、立ち上がる。「おや」とシュナイゼルがチェス盤を覗き込んでは肩を震わせて笑った。
「私を誰だと思ってるの。閃光のマリアンヌよ」
a.t.b.二〇〇七 October
ブリタニア・帝立コルチェスター学院
白球がクリケットバットに弾かれ芝生の上を飛んでいく。
二人の選手が走り出し、試合を取り囲む観覧客とチームメイトの歓声と声援が混ざり合う。
試合は事前に録画されたものをもう一度見せられているように、予定調和に進んでいく。
対抗寮であるケントとの試合に、ノーサンブリエは開始早々から優勢だった。天幕の下で試合を見守る生徒達の興味は、すでに試合ではなく、コート外に設置された軽食のサービスや、観覧客である父兄やその他貴族達との談笑に費やされている。
「張り合いがないね。今年は」
「例年通り≠ナすよ、殿下」
ベンチで試合状況を見守る監督生シュナイゼルと、進行状況のチェックリストを記入するマイダネットふたりが唯一ゲームを把握している。スポーツ・ウィークの中日、在籍する生徒の親族や卒業生が観覧するコルチェスター学院のスポーツイベントは、和やかに進行していた。
今しがた走っていた生徒――カノン・マルディーニは長い髪をまとめ直して天幕下のベンチに座った。ベンチ内は閑散としており、打者数人が順番が来るのを待っている以外は、遠巻きに見守っている。
「あー汗かくのイヤだわ。ホント」
「ご苦労さま。いい走りだったよ、マルディーニ君」
カノンは行事には不参加である事が多いが今年は理由が違った。昨年度の春頃に監督生に仕打ちを受けてからというもの、彼の監視対象となりペナルティにより単位を一部剥奪され、その取得し直しに駆り立てられていた。
カノンは清々しい色の瞳でシュナイゼルを睨んだ。
「……これで本当に点数あげて貰えるんでしょうね。監督生」
「もちろんさ。……ああ、マルディーニ君、お茶を淹れてくれるかな」
「……はー。Yes, Your Highness」
紅茶を淹れる役を仰せつかる。カノンの友人、ノエル・アストリアスも相手が皇族では逆らいきれずなんだかんだと最後には折れている。その彼は今年のスポーツ・ウィークにはいない。所属寮であるケント寮は昨年のような勢いはなく、最下位を他の寮と競い合っている。
観覧客の中には昨年の評判を聞きつけて来る者も多く、無味乾燥の試合の数々には父兄以外からは苦情を頂戴している。スポーツ協会からの視察者もおり、ケント寮の寮長レックスは対応に追われている。
「……まさかノエルが留学だなんて。新年度早々びっくりした」
新学期はじめ。九月の頭からノエルの姿はコルチェスターになかった。夏季休暇中にシュナイゼルと過ごす話は知っていたが、そこから急にドイツ留学に飛び込むとは誰が想像出来るだろう。
淹れたばかりの紅茶をシュナイゼルに差し出す。
「連絡は取っていなかったのかい」
「取ってますわ。週に一度。相当忙しいのか、常に隣に誰かがいるか、呼びに来るんです」
「今週は移動日もあるから。話をしたければ良いタイミングだよ。明日までは」
「どうしてそんなこと……ああ、そうでした。殿下が推薦状を書いたんですってね。スケジュールについても殿下がお決めに?」
「それが留学条件だからね」
打者がバットに球を当て、選手が走り出す。歓声が沸いた。
シュナイゼルとカノンのやり取りを、傍らで聞いているマイダネットが顔を引き攣らせて言った。
「マルディーニ、お前その喋り方やめろ」
「うるせータコ! はっ倒すぞゴラ!」
「おやおや。私闘はやめてくれよ。君たち」
天幕に白のドレスに日傘を携えた貴婦人が現れる。カノンとマイダネットはその美貌がシュナイゼルに瓜二つであるのに気づき、そっと礼をとった。白百合のような貴婦人はシュナイゼルの背後に立ち、彼が見上げるまで黙って見下ろしていた。
「退屈な試合ですこと」
「今年もご高覧いただけるとは思いませんでした。母上」
気配に気づいていたのか、彼女の息子は悠然と立ち上がり、背を丸め、白百合の貴婦人の手の甲に口づけた。
「この場を任せるよ、ふたりとも」
カノンとマイダネット――ふたりの少年貴族が頭を垂れ、並木道に進む親子を見送った。
アーデリントはシュナイゼルから差し出された腕を、臆することなく頼りに自身の腕を絡める。
クリケットのコートと天幕から離れ、その敷地外に伸びるセイヨウシナノキの並木道を歩いた。適度な温度の風が吹き葉を落とし、木々の間から黄金色が輝いている。人の往来は少なく、通り過ぎる者は親子をひと目見ては微笑んで挨拶するだけで、邪魔することはなかった。
「こちらに滞在するついでに、ウィルゴに戻ったら第五皇妃殿下がお見えになられましてね」
「マリアンヌ皇妃ですね?」
「貴女からも口添えを頼めないかだなんて……滅多なことをおっしゃるので。……夏季休暇中にご友人を宮にお招きしたのですってね?」
「……相当お気に召されたようだ」
シュナイゼルは思わず息を漏らす。
新学期初日から、罰則以外の事由でノーサンブリエ寮に来ることのないロイドが、代表室に飛び込んでくるなり声高に叫んだ。僕の最高のパーツが!≠ニ。
――『やあ。ロイド。今年もよろしく。……卒業はしっかりしてもらいたいね』
――『だからァ! その卒業のためには! アストリアスくんが必要なのーッ! わかってて言ってますよねエーッ!?』
――『あっはっは! 私もね、何度か言ったよ。説得をね。ロイドの研究はどうするのかとね……』
シュナイゼルはペーパーナイフで手紙を開封しながら、焦燥のあまり色を失うロイドの顔を見上げた。
――『……留学は十二月の頭までだと設定してある。そこからの予定は聞いていないが……ロイド、君もテストスケジュールをしっかり組んで彼と交渉すればいい。私の推測が正しければ、彼は選り取り見取り≠セよ』
――『くっうぅぅぅ〜!!!』
ロイドは頭を抱え盛大に仰け反った。
――『休暇中にマリアンヌ妃にお会いしてね……ノエルのアカデミーに推薦状を書くから≠ニ仰ったよ』
――『マリアンヌ様ぁ〜!? ……殿下、夏もアストリアスくんとご一緒に?』
――『おや。知らなかったのかい。一週間と二日ほど、私と過ごしたよ。退屈はしなかった』
――『独占禁止法! 独占禁止法! ……その間に彼を口説き落としたんでしょお』
――『口説く? ははは。人聞きの悪い。逆だよ。彼から……留学したいと申し出があったんだよ。……致し方ないね、ロイド。携帯番号くらい知っているものだと思っていたから。……彼の番号だよ』
シュナイゼルはメモ用紙を捲り、ノエルの携帯番号を書いてやる。
――『ありがとうございまぁすッ!』
ひったくるように受け取ったロイドは上機嫌で代表室内をスキップした。
――『かけるなら今だよ。夕方頃だ。六限の講義中かもしれない』
ロイドは助言通りすぐに電話をかけた。ノエルは講義を中座しドイツの三大名城の一つ、ハイデルベルク城の庭園で夕陽を眺めていたらしい。城内にある薬事博物館と薬学史のうんちくを聞くこと数分、ようやく本題に入り、ロイドは一月から二月のスケジュールをもぎ取ったのだった。
ノエルの才能は、一年を通して多くの者に見つけられつつある。
それは、シュナイゼルの母も同じのようだ。
「この私のチェスの誘いを断った方でしょう。あの騒々しい……。致し方なく今年も足を運んだのですよ」
「残念な話ですが母上。彼は現在、海外にいます。今回の行事には不参加ですから、ご期待には添えないかと思います」
「……なんですって!?」
珍しくその冷徹な女性が驚愕の表情を露わにしたことに、シュナイゼルは目を丸めた。
「どうして早く仰らないの。無駄足だったじゃないの」
「母上がお確かめになる一言さえ、私にくださらなかったからですよ」
今度はアーデリントが驚く番だった。
「なにか?」
「……いいえ。貴方も少し変わったと思ったのよ」
「私が変化を?」
「皮肉なことに。時折顔を合わせる者でしかわからないでしょうね」
一年に一度か二度の対面。希薄な親子関係である。
「実に皮肉ですね」
「……騒々しいといったら、貴方のレディもそうだったわね。お元気にしていらっしゃるの? お手紙のひとつでもお書きになってはどうかと言ってちょうだい」
「ふ……便りが欲しいなら、まずはご自分から書かれてみては?」
「あら。口答えなさるなんて! 悪い影響ね。実に悪い影響ですこと」
物言いほど険はなく、むしろアーデリントは微笑んでいた。好戦的な微笑だ。どうやらノエル・アストリアスの影響を受けているらしい。シュナイゼルにとっても意外な指摘だった。アーデリントはティラナとノエルが騒々しいと一緒くたにしているが、ティラナには彼ほどの悪辣さや冷徹さはない。政治的信条も、矛盾的な考えも、ティラナは修正するかすぐに認める。公明正大という言葉は彼女のためにある。対して、ノエルは秘密主義で裏をかこうとする。
アーデリントは本題を口にした。
「ところで婚姻式の時期は定まったの? 枢密院の副議長と勅使が来て、系統図を提出するようにと仰ったわ。貴方はすでにご立派な殿方ですが、法定年齢では未成年ですから私の方にお話が来たのでしょう」
「それはそれは、ご迷惑をおかけしましたね」
「私の頃とは勝手が複雑でございますのね。こちらの家の系統図だけでは不足だと仰るの。我が名門家のどこに偽りがございましょう。――あちらの、本家へ取得しに参られよと仰せでしたわ」
あちらの、とは北ドイツのことを指す。本元はドイツにありナポレオンの征服により新大陸亡命で三つに分かれた一族のブリタニアに根を下ろしたのが、アーデリントの母の一族である。カストラリアはブリタニアの方で蓄積された系統図だけでなく、本元のものも欲しがっているようだ。
「母上はご存知ないでしょうが血統の確認には、カストラリア王室・枢密院による調査はかなり精密に行われます。実際に健康診断や血液検査もありますし、そのうち母上のお父上にもお声がかかるのではないかな」
「なんてこと。疑い深い!」
「男系の遺伝子調査は母上では出来かねますから。メディカルチェックと称して祖父様のご説得を」
アーデリントは大袈裟に嘆息した。
「中規模国の王家。親族に皇族と王族がいるなんて鼻高々。嬉々として応じていただけるでしょう。二つの国に我が家門が加わる。大変な誉れでございます。あちらの本家に一泡吹かせて、鼻を明かしてやれるでしょうし、……お父様の血圧が上がりそうな話ですこと。ふふふ」
どこにでも政治はある。人が存在し得る限り。諍いもまた同様だった。
シュナイゼルには関心外のことだったが、アーデリントの機嫌の良さと義娘となるティラナへの興味の根源は、一族とその中でも確固たる地位へ押し上げる確約と誇りからくるのだろう。
「式はその調査が済んでから?」
「そのとおりです。……使いの者が検査を急かすでしょうが、何卒ご容赦を。王家の平定に皆急ぎ足でしてね」
「わかりました」
引き際は心得ていると言わんばかりにアーデリントは承諾した。
「系統図は私自身が取得しますから。母上はご説得の方を頼みますよ」
「あら、殿下だってお忙しい身の上でしょうに」
「ちょうどよいと思いましてね」
シュナイゼルが微笑むと、「企みがございますのね」と血を分けた人は言い当てた。