LöwenfelsU







 a.t.b.二〇〇七 September
 帝立コルチェスター学院 代表室

 ノエル・アストリアスの留学から二週間。
 ノーサンブリエ寮の代表室のシュナイゼルの机は、大量の手紙と書類に埋もれていた。
 どれだけ処理しても数日以内にどっさりと届いては、また減らしていくの繰り返し。重要文書から捌いていくのがシュナイゼルの仕事の手順である。一度試し押ししてから、外交に関する文書に国璽の判を上質な紙に失敗のないように押印する。黒い箱に投入し終えた時、携帯端末に私設捜査員からの連絡が届いた。
 「はい」
 短い応答。捜査員はドイツ滞在中のノエル・アストリアスの監視のために遣わせていた一人だ。
 ハイデルベルクに用意させた滞在先に帰っていない報告だった。ハイデルベルクは夜の七時頃だ。
 「彼は遊び歩いているのかい?」
 「いえ、それが……。大学に籠もりっきりのようでして……」
 ドイツは国民性も国家的な特色として時間に正確だが、大学生活においては個々のスケジュールに左右される。アカデミック・クォーターで実際の時間より早く始まり早く終ることや、講義内容・演習によって六時間の日や八時間の日もある。
 次の重要書類を眺め見ながら、ノエルの行動と時間割の癖を思い返す。
 ノエルは朝早く、八時台から予定を詰め夕方に長い休憩を入れる。夕食を休憩の内に摂りその後、また自習か研究室で過ごす。時間帯は日によりけりで最長は深夜零時にまで及ぶ。監視員は構内の敷地内には入れるものの、人の少ない時間帯では目立つ。大学に籠もりきりという事は、夜の行動に関して情報が薄く、捜査員らも困っているのだろう。
 「短期留学のカリキュラムは申請通りなのかな」
 「私共では詳細に関して確認できかねる件でございまして……。殿下の目で今一度ご確認ください」
 「……わかったよ」
 また仕事が増える。しかし、今のシュナイゼルにはそうも言っていられない事情があった。

 翌朝七時半。
 国際回線に接続し、ドイツのナンバーの後ろに大学の番号を打ち込む。
 時差九時間のハイデルベルクは現在夕方頃である。
 「終業間際に失礼致します。わたくし、神聖ブリタニア帝国の――」
 ハイデルベルク大学のデスク担当者は淡々と用件を聞いて、通信を一時、保留にした。
 通常、この手の連絡作業は、代表寮の中でも副監督生や級長などの仕事だ。しかし――こと、ノエル・アストリアスに関しては理事長下、学院代表に与えられる権限で動くことが多くなっていた。
 それは彼の政治的な犯罪の関与疑いや、その行動履歴の読みにくさが主要因にある。

 ノエル・アストリアス――アーバンド伯爵が帝国内の貴族や財閥家を相手取り度々主催していたパーティーと、その寄付記録を掴んだのは八月の終わり頃だった。莫大な財産を貴族達の交友関係を掌握しながら、血流として流し込んでいる事態。泳がせておくには看過できない存在であるが、現在目立った問題を表出させていないため、彼の留学に際して二十四時間監視員をつけさせるのがシュナイゼルの取った行動である。

 ノエルは知性的で、巧妙で、行動的である。夏季休暇中のフェルサイド・マナー滞在で、シュナイゼルに睡眠導入薬を盛った。ボイスレコーダーの特定も素早く、度重なる古典書の問答にも必ず応じた。そして、医療品メーカーネクシウム・バイオ製薬の役員フェルナンド・ボークナンによる凶行未遂事件。消息は未だ不明で、ニューブリタニアのノーフォークにある本社にも独自捜査をかけたが自宅にも戻っていない状況である。
 シュナイゼルは、ノエルが自身を疑うシュナイゼルに対してボークナンに襲わせるように敢えて仕向けたのではないか?――と考えた。ノエルが意図的≠ノ彼の秘密を見せつけるように、捜査されることを望んでいるかのように語ったのも挑戦的な態度である。
 仮説として、ノエルはある組織に所属しており、ある事実の隠匿と撹乱のための要員ではないか――そう考える方が自然だった。単独犯であることはまずあり得ず、その根拠のひとつがパーティーの開催である。
 
 次にシュナイゼルは彼の要望通り♀J催されたパーティーの捜査を命じた。
 ――イーサンウッド、ブレア・ヘイヴン、クローデン・ハウス……。
 ここ二年間。毎夏。その地で開催されたパーティーだ。
 多くの帝国貴族と財閥、各政財界、学術・研究分野、医療・福祉分野とその業界トップの関係者を招き交流機会を持たせている。開催のために個人寄付にはアーバンド伯爵以外にも数名いるが、伯爵の額には到底及ばない。
 注目すべきは金融系の出資だ。
 カンタベリー信託銀行。ACML医療財団。アクィロ・セントラル信託銀行――ブリタニアの銀行、国際的医療財団、そして、カストラリアの銀行名である。
 カストラリアにあるアクィロ・セントラル信託銀行については情報に強い女官長レルヒを通じて探らせた。
 当初より目していたインペリアル・スローン銀行とのルートで怪しい流れがないかの調査をかけ、ある一人の男――フランク・フロイッツ名義の口座に行き当たる。当然、死人名義の口座で、ブリタニア側の銀行口座内にある複数人を経由し、アクィロ・スローン銀行へ渡り、さらにそこからカストラリアのインペリアル・スローン銀行にある一人の偽物の男の口座に集められている。

 インペリアル・スローン銀行は、王族や貴族達をはじめに、富裕層などが利用する銀行である。その先の捜査を続けているが、疑惑の人であるアルディック公爵の口座には直接繋がりはない。集められた資金は、庶民用のクレディト・フィデス銀行宛に数百人規模で散っている。
 現在、その捜査を進めているところだ。人海戦術であり大いに時間を消費している。
 フランク・フロイッツのブルジョワ階級の家族は口座は凍結したと話し、その家族の誰も口座に手をつけている者はいなかった。本件により正式に事件化し、王立特別監査局のヴェリタス、王室直属・秘密警察機関に相当する諜報部アエギスを動員し双方の機関を遣わせている。
 何が問題であるのか?

 ――ブリタニア帝国の金が、カストラリア王国に流れている。

 シュナイゼルが見過ごせる件ではない。とくに、ブリタニアの保護下にあるカストラリアの代理摂政であり、表向き総督名目であるシュナイゼルには。
 ――相当な、いや、非常に高知能犯による犯行。もっとも洗練された知的クーデターだ。
 シュナイゼルはいま、管理責任を問われる重大な危機的状況にある。

 もし、シュナイゼルの手の内を読む者がいるとすれば。また裏をかくのを得意とする者がいるとすれば。
 それは、未だ所在の掴めないティラナ本人である。彼女の頭脳は優れている。その頭脳の使い道を犯罪に利用すると非常に厄介な相手だ。国を潰すほどの威力を持つということを意味している。
 ――なぜこんなことを? 脅されているのか。誰に……? 組織に? 今どこにいる?
 ティラナは生存しているが、昨年の十二月以降動きはない。
 彼女が犯罪に携わっている仮説では、その知能を利用させる代償に身の安全を保証されているというものだ。シュナイゼルの握る情報では彼女はブリタニアに存在し――彼女の知能と研究を利用しているのではないか?という読みである。

 ノエル・アストリアスから明らかとなったパーティー。
 その出資元はACML医療財団が加わっている。ネクシウム・バイオ製薬にも、パーティーへの寄付にもだ。
 ACML医療財団は国際的な医療財団であり、自然災害、戦争、紛争地へ、その医療リソースを提供し援助する活動と高度医療技術を国際的に普及させる活動を行っている。
 表向きにクリーンな団体がなぜブリタニアの一貴族の寄付を受け、パーティーを介してブリタニアの製薬会社も参加しているのか。
 そして、ネクシウム・バイオ製薬だ。
 この製薬会社はカストラリアの製薬会社を介してティラナと共同研究実績がある。高度な神経科学の応用と遺伝子工学をはじめとし、ブリタニアでは医療サイバネティクス――肉体の一部機械化等の研究を行っている。

 過去一度、ネクシウム・バイオ製薬からはシュナイゼル宛に連絡があった。
 内容はティラナ王女の研究とその特許権の情報を探るもので、国家最高機密に相当し、漏洩は重大な条約違反にあたるため、回答を差し控える≠ニ返事した。
 クーデターから一年後のことだ、研究の進捗が芳しくなくティラナを頼ろうとしたか、彼女が内々にその時の進行中の研究を知っていた人物が情報を漏らしたか。特許の件は、王女個人と設立途中である王立生命科学研究所へ権利帰属する旨を伝え、交渉は決裂した。
 だが権利に関しては、研究所が設立途中であるがゆえに、一時的に科学庁管理となっている。万が一の漏洩を避けるため、研究論文の一部をシュナイゼル個人が預かることをベルケス公との間で取り決めたのだった。
 そのほか、ネクシウム・バイオ製薬ほどあからさまでないものの、軍需効果で年々ティラナへ還元される資産は年々膨れ上がっている事を知り擦り寄ってくる者がいる。
 特許でなくても、彼女の携わる研究の詳細情報を得ようと躍起になる者・組織が多いのは、サクラダイト利権よりも獲得しやすい幻想があるからだろう。
 これらの情報を統合すると、ティラナは研究を人質に保護されている可能性が高く、ネクシウム・バイオ製薬やACML医療財団などが関係していると読み解ける。
 その裏付けにはノエル・アストリアスの――フェルナンド・ボークナンによる凶行未遂事件の最中の驚愕と狼狽は説明がつかないだろう。
 ――仕方ない。カードを切るか。そのために彼に首輪を繋いだのだから。
  
 担当者は長い保留の末、学長に繋いだ。
 学長であるビューローは学者系貴族であり、ハイデルベルクの名士であった。堅苦しいドイツ語に切り替え、シュナイゼルは簡単な挨拶のあと本題に入る。 
 「シュミット教授の研究室にお預かりいただいている、ノエル・アストリアスのことでお話があります……ああ、はい。彼の近況をご報告いただけますか?」
 ビューローは咳払いをし、近くにいる秘書に話しかけているようだった。そしてノエルはハイデルベルク大学では当初の学部や研究室ではなく複数の学部の聴講や研究室に混ざっているのだという。
 「研究室を複数に? こちらには一切報告がありませんが。彼からの申請ですか? ……なるほど。掛け持ち……。……いえ、元気そうでよかったです」
 ノエル・アストリアスが想定通りの動きをした事はない。いつも余分に過剰に働く。
 ビューロー学長はノエルの出席講義の態度を称賛し、今すぐにでも冬学期からの入学措置を取るための交渉を持ちかけてきた。冬学期は十月一日から、翌年の三月三十一日までのことをいう。
 「……ビューロー学長。性急すぎではないですか? 来年まで待たれてはいかがでしょう。本人からは、帰国を十二月頃の予定と伺っていますし、籍も本学にあります。だいいち、ハイデルベルクの後にはミュンヘン大とフンボルト大の超短期留学を控えています。行程を組んだのは私ですが……これには、彼との留学に際する個人間の契約に基づいています」
 学長は食い下がる。代表生徒の権限を行使しろと勧める。
 「私がですか? すみませんがフライヘア・ビューロー。生徒は理事長が認可し卒業します。プロセスに関しての意見ならぜひ。いくらでも拝聴いたしますよ」
 男爵ビューローはいくら寄付すればいいか≠ニ尋ねた。
 「お言葉ですが、貴学の名誉を汚すことにはなりませんか? 私は然るべき順路の話をしています。ビューロー学長」
 
 

 a.t.b.二〇〇七 October
 ドイツ ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン
 学生支援センター二階

 「あちっ」
 熱湯をそのままに香りのしないハーブティー。痛む舌先を冷たい外気に触れさせる。
 センターの片隅の壁に押し付けた作業机の上にマグカップを置く。周囲の半径二メートル圏には私物で溢れかえっている。
 寝袋、南京錠付きの旅行鞄、貸与デバイス、充電器、分厚いファイルが七冊、借りた書籍が四冊、辞典が三冊、筆記用具、懐中時計、防寒着のコート、知り合った学生や教職員から恵んでもらうキャンディやチョコレートを入れるための紅茶缶。
 そこへ夕方に専門店で購入したハーブティー、売店で買い込んだクッキー、グミ、キャラメル、チョコレートバーが新しく仲間に加わる。
 学生支援センターの職員は十七時にきっかり退勤していき、六限目かその後の予定のある教職員や警備員などを除けば大学構内はほぼ無人だった。零時を過ぎても眠らないのは、明日が日曜日で一日中そのフロアが私室代わりになるからだった。

 ―― Imperial Highness the Second Prince―― 

 時間帯にもかかわらず機械的な着信音が鳴り響く。携帯の画面表示の名前をみて、ノエルは顔を渋い顔になった。
 「……げっ。シュナイゼルか……まあ、そろそろ頃合いだと思ったよ」
 土曜日は比較的予定が空くのだろう。
 好き勝手やっているのが大学か、もしくは彼が遣わせている監視員から伝わったか。そのお小言だろう。先月のハイデルベルクの時も執拗な尋問を受けた。
 無視するとあとが怖いため、三コールめで電話に出る。
 「はい。アストリアスです。何か御用でしょうか、殿下」
 馴染みの挨拶を交わし、現状を尋ねられる。
 「ハイデルベルク大の時は提出物に手こずっちゃって、帰れなかったんですけど。こっちのは下宿先の共同キッチンと、自室のオイルヒーターが壊れてて、修理には来週の水曜日以降じゃないと来ないっていうんで、最近は大学に籠もってるんですよ。……あ、オクトーバーフェストだけは行きました。いや〜白ソーセージとプレッツェル美味しかった〜。……すみません……今夕食の時間で……深夜ですけど」
 派手な赤色のパッケージと銀のフィルムから剥き出したばかりのチョコレートバーを齧る。アルペンミルクとナッツ入りのキャラメルソースが入っていて甘い。
 シュナイゼルはオクトーバーフェストの話に触れ、飲酒したかどうか質問した。
 「え? ビールは飲みました。この国、十六歳から飲めますよ。ブリタニアと違って!」
 本当に下宿先でないのか、食事はちゃんと摂っているのか、堕落した生活を送っていないかなど質問攻めだ。
 「……本当かって?」
 通話をそのままに、携帯電話のインカメラに切り替える。
 周辺の――特に研究室周りの情報を与えすぎないように気を配り、センター内を見回す。ノエルの身の回りはすでにある私物のほか、売店や街の高級スーパーで買った食べ物が散らばっている。書類の類は留学の表向きの名目であるオッフェンバッハ教授の環境科学部の研究レポート等で、十分カムフラージュは通用するだろう。
 一枚、二枚、三枚、と連写撮影し画像を確認する。問題はないと判断し、シュナイゼル宛てにショートメッセージ経由で送信する。
 ――なにをやっているのだろう。……しかし、より一層疑われると監視員を増やすかもしれない人だ。
 すでにシュナイゼルの私設監視員と思しき影は、先月滞在していたハイデルベルクでも見かけた。
 現在のミュンヘン大学でも数人が交代制で、ノエルを見張っている。完全にマークされ、安全基地は屋内での行動に限られている。
 「これでいいですか」
 電話の向こうで彼は「やれやれ」と呆れ返っている。
 「お菓子ばっかり不健康って、そんな乳母みたいなこと言われても」
 自習室帰りの同じ下宿先に滞在するエミリア・ホルスマンが、通りがかった学生支援センターの扉を開け覗き込んだ。
 「ノエル〜こんな時間までレポート〜? ドイツ人より真面目じゃ〜ん。あっそうだ、週末なんだけどさ〜コッヘル湖はどう? ワルヘン湖発電所の見学も行きたいって言ってたでしょお。シーズン終わったら寒いしさっさと行こ〜」
 手を軽くあげると、エミリアは遠慮なく中に入り紅茶缶に包装紙に入ったキャラメルを三粒放り込んだ。
 「ハーイ、チップ。誰と電話してんの? 彼女?」
 「男だよ。男」
 「え? でもさっき自撮り撮ってたじゃーん。男相手に自撮り送ってんの? 宗派何だっけ……? ブリタニアでもたしかダメじゃなかった? 社会ダーウィニズム思想に反する!」
 進化と力を是とするブリタニアは超保守的な社会といえる。貴族とは功績以外では世襲制であり、世襲制とは血統の保持が最大の課題となるからだ。さらには常々戦時体制下に晒され、人間は貴重な資源であり消耗品である。愛情≠竍性的指向£度で国力を下げる行為を公に認めるわけがない。
 「さすが法学部首席。詳しい……」
 エミリアの砲火は止まらない。
 「階級社会で超権威主義なんだから当然でしょお。同性婚は非生産=I あの皇帝を見なさいよ〜。子供何人いると思ってんの。最近またふたりも増えた! セックスのしすぎ! 子供を優生思想の実験台にしてる! 我が国の見地では人権侵害よ! ノエル、あなた貴族なんでしょ? それじゃあ曲がりなりにも肯定派じゃなくっちゃ! 世渡りは上手くやらないとね!」
 友人エミリアの不敬発言は、通話をまったく切断する気配のないシュナイゼルの耳にも届いているだろう。嫌な汗が滲む。
 彼女は親切心でノエルを誤った道≠ゥら正そうとしているのか捲し立てたのだった。
 「あー……エミリア。週末の予定……ワルヘン湖発電所の見学? 予約しておけばいい? たしか十七時までに閉まるから朝イチで行こう。鉄道のチケットの手配もやっておくからさ。集合時間は朝八時でいい? 昼食はコッヘル湖周辺のレストランで……美味しいチーズ専門店があるんだ。そこでよければ。他にリクエストがあれば受け付ける」
 「さっすが〜! ブリタニアのジェントルマンね〜!」
 エミリアはふふん、と上機嫌に笑い両手を握り小躍りした。
 ――くそ……してやられた!
 「それじゃ〜よろしく〜。お先〜!」
 用事が済んだエミリアの学生支援センターから去っていく背中を見送る。どうしたものか、と考えとりあえず謝罪を口にした。
 「すみません。殿下。今のは忘れてもらって結構です」
 [……くく……いやはや。君でさえ女性の前だと下手に出るのだね……]
 ――……君でさえ=H
 無性に腹立たしい気分になるのはなぜだろう。
 頬をひくつかせながら、いい加減通話を終わらせようかと思った時、シュナイゼルは週末の予定について話しかけた。
 [ワルヘン湖へ行くのはなぜだい?]
 「ああ……それは……ワルヘン湖とコッヘル湖の水位差を利用して発電を行っているんですよ。高低差の水力発電。電力需要のピーク時や非常用のバックアップに用いられます。……それはついでで、本命は周囲の環境調査です。普通のハイキングですよ。鳥とか植物の観察です」
 [報告によれば……相変わらず、他の研究室にも入り浸っているらしいね?]
 ――もう把握されているのか。
 ノエルは先週ミュンヘンに来たばかりだ。シュナイゼルの監視員は優秀だ。
 しかしその研究室で、何をどこまで探っているのかまではアクセス出来ないだろう。

 ハイデルベルク大学では大学の特色として、医学・生命科学の歴史の本拠地で――世界中の論文引用と詳細を把握するために留学候補に挙げた。――世界中の学術機関とのバイオインフォマティクス・データベース接続が強固で、カストラリアとの提携も密である。遺伝子関連の新規情報はないか、また新規論文の発表者やその引用の以下波及効果を探った。
 そして、ミュンヘン大学はバイエルン州にある。バイエルン州といえばハイテク・産業の中心地であり、医療品・医療機器の製品化において重要拠点でそのお膝元の大学は企業と提携している。特殊装置や試薬の過去十年間の動向を把握するのにはミュンヘン大からアクセスするのが好都合だからだ。
 『わたし』が過去理論を構築し応用された、治癒促進シートや人工血液、細胞再生の理論と実用化――製品化に必要な過程でどこの企業がどれだけの引用を行っているか。研究にはどの材料をどの場所から調達し――予算規模に不自然な点はないかを探っている。
 ――数字は嘘をつかない。
 これには手応えがたしかにあった。
 それまでブリタニアで動きがなかった研究所と提携している企業で、一定の期間から徐々に製品化が始まり拡充されていき、数値に変動が見られたからである。
 カストラリアの設立途中であり閉所中の王立生命科学研究所と、バックアップにつく科学庁・王立学術機構からの発信はなく、見かけでは漏洩の判断はできなかった。つまり――もっと人的な漏洩であるか、過去の共同研究筋を疑い――ブリタニアのネクシウム・バイオ製薬を中心に調べている最中だ。
 ――本当はベルケス公に直談判したほうが早い。しかし、彼が首謀者である可能性がそれを妨げている。
 彼がクーデター首謀者であるなら、嘘≠ゥ真実≠ゥさえ意味をなさない。それどころか、カストラリアにいるティラナ王女やシュナイゼルを危険に晒す。当然、シュナイゼルを通じて探らせることも危険だ。
 ――あのとき。……姫様は、頭を撃たれた。そのあとどうやって助かったのか。王宮に真っ先に来た人物は誰だろう? 枢密院議長を兼任するデスモイド首相は殺され、国王夫妻は――中庭の噴水の台座の麓で足を投げ出して――亡くなっていた。
 [ノエル?]
 通信の向こうで彼の声が鼓膜を揺らす。
 ――『わたし』を収容所から、あの館に連れ出したのも……。
 あの館は、どこにある? あの日は本当にクリスマスだったのだろうか。シュナイゼルはカストラリアにいた?
 国王夫妻の国葬はクーデター鎮圧後の半月後、十一月に行なわれた。ティラナ王女の誕生日とずらし、早めることになったらしい。ネットの記事の事実の羅列には限界がある。シュナイゼルが毎年十一月にカストラリアへ行くのには墓参りも兼ねているはずだが、王室体制の脆い現状をメディアに露出したくないだろう。
 ――それに、フランドロ・ローディックについても調査が必要だ。
 ローディックが収容されている、セラペント刑務所。
 カストラリア最南部。都市サロニアからほど近い海域に浮かぶノルディア群島にあり、その一部の小島が流刑地として悪名高さゆえに刑務所の名を冠してセラペント島と呼ばれている。
 ――今年は行かないでおこうと思ったけど、そういうわけにはいかないか。
 シュナイゼルとの交渉で、彼はノエルに捜査官の任を命じた。
 「殿下。捜査の件、そろそろ内容を聞いてもよろしいですか?」
 [……はぐらかすつもりかい? まずはこちらの質問に答えなさい]
 「……純粋な興味ですよ。あちこちの研究室を渡り歩いているのは。答えましたよ。それで、私はなにを捜査すればよろしいのでしょう」
 「君がもっとも詳しいことを、教えてくれるだけで構わないよ」
 チョコレートバーの続きを齧る。
 「なんです?」
 [フランドロ・ローディックについて] 
 咀嚼の動きを止める。
 [ノエル?]
 再度、名前を呼ばれる。
 ――考えることは同じか。いや……すでに情報を掴んでいるがノエル≠試すために捜査させようとしている?
 ノエルの知っていること、知らないこと。
 [もしくは――君が昨夏までに開催していたパーティーについてお聞かせ願いたいね]
 ――こっちが本命か……。
 「いいですけど、帰国後になりそうですよ」
 [逃亡を企てても無駄だよ]
 「わかっていますよ。……そうでなきゃ、ご自身のテリトリーに招待されるわけありませんからね」
 電話の向こう側で擽ったそうに笑う声がした。
 夏の宮廷夜会と皇宮への滞在は推測通り、ノエル・アストリアスの生体情報をセキュリティに通して把握するためだったのだろう。これでノエルは世界中どこへ行っても、渡航履歴から街中の監視カメラに至るまで追跡可能となる。それもシュナイゼルの指示一つで。警察や軍、国家さえも特例理由≠ナ介入することが可能となった。
 ブリタニアの戦争相手である、ユーロピア共和国連合に逃げる手段があるにせよ、それもシュナイゼルの想定範囲内に収まる。
 この世界に、ノエル・アストリアスが逃げ果せる場所は地獄しかないだろう。
 「帰国は十二月の三日だったね。君が逃げないように迎えに行くよ」
 「……はあ、それはどうも。空港ですか? テーゲル空港へ?」
 「詳しく言うと、逃亡計画に貢献するだろうから教えないよ」
 ノエルは顔に皺をつくった。甘いチョコレートさえほろ苦く感じる。
 正直言えばパーティーの件は『わたし』だって知りたい情報だ。詳しいはずの本物のノエル・アストリアス≠ヘフェルナンド・ボークナンの皮を被ったまま消息不明。
 何も知らない≠けにはいかない。
 「……わかりました。パーティーの件もお話しします。捜査の件は?」
 「ネクシウム・バイオ製薬。そして、ACML医療財団について」
 ノエルは沈黙した。
 ぎこちなく咀嚼を再開し、溶け切ったチョコレートの味を覚え直す。
 ――ここまで辿り着いていながら、ノエルに捜査をさせる、か……。表向きの捜査には限界があるのか?
 ノエル・アストリアスのままで行う捜査には命の危険が伴う可能性がある。シュナイゼルの方から捜査した方が安全だが、命じられてしまっては拒否権はない。
 「Yes, Your Highness」
 「君にしか出来ない仕事だ。よろしく頼むよ」
 人に希望をもたせる声でシュナイゼルは囁いた。
 寿命のリミットがまた縮んでいく予感がした。『わたし』が出来ることは、命ある限り反乱分子の殲滅に貢献する事だ。


 a.t.b.二〇〇七 October
 ドイツ ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン
 
 靴職人は自分の靴型に専念せよ、ということわざがある。
 犯罪者には犯罪者に詳しい、専門分野の担当がいる。そして、高等教育機関とはその道の専門家の棲み処だ。
 
 敷地内の広場。研究室情報の羅列された文書を読みながら、ノエルはその男が現れるのを待っていた。
 その男とは、犯罪心理学者、ハインリッヒ・リヒター。四十歳。
 本や教材の詰め込んだ鞄を背負い直し、遅い昼食を摂ったばかりのリヒター博士のもとへ堂々と進み出る。
 「どうも。リヒター博士。お会いできて光栄です」
 「君は……噂の、ブリタニアの留学生だね?」
 「……はは! 有名人ですね、もう」
 「ブリタニアの第二皇子殿下の推薦で留学とは。そのとおり、将来有望そうだ」
 「私が無理を言って書いて頂いたんです。将来有望かどうかは、今後次第です」
 腹の前で両手を重ね合わせ、謙虚な態度を示す。
 リヒター博士は、肉の厚い頬を柔らかに持ち上げた。
 「……殿下の系譜を考えるなら、次のフンボルト大学が本命かい?」
 「それはたまたまです」
 「ルーヴェンフェルス家は大学の設立当初に携わっておいででね。現在も寄付金を募っておられるはずだ」
 シュナイゼルの母アーデリントはプロイセン貴族系譜の出自で、アーデリント・フォン・ルーヴェンフェルスが旧姓である。
 余談もそこそこに彼は一度咳払いをした。
 「それで、なんの用だね? ああ、私の分野にも興味があるのかい?」
 「さすが、話が早い。その通りです。リヒター博士。……凶悪犯についての話、グスタフ・ユンカー事件についての捜査記録本拝読しました。非常に面白かったです。推理小説を書くなら真似をしたくなる犯行だ。……犯罪史に名を刻むことでしょう。博士のアドバイスが事件の解決に貢献し、完全犯罪を未然に防いだ。その手口によくお気づきになりましたね」
 「助言だよ。それに仕事だ。大したことではないさ。過去と経験の蓄積が私を真実へと導いた」
 くす、とノエルは笑う。
 リヒター博士は一歩踏み出し、応じるようにノエルは足を振り出した。ふたりは広い構内を、話すためだけに目的なく歩いた。
 「リヒター博士は過去様々な事件で、多くの犯人のカウンセリングを行ったとか。……私が興味があるのは……」
 「……ああ。なんだね?」
 「共産主義思想の政治犯――ローディックについてです。博士の分析に興味があります」
 彼は歩みを止めることなく、その名を聞いて頷いた。
 「ああ――さすらいのコミュニストのことか。カウンセリングを行ったことが過去二度ほどあるよ」
 「そうなんですか? こりゃ都合いいや。ぜひお聞きしたいです」
 ノエルの真摯な態度に、リヒター博士は腕時計を見た。  
 「私のデスクに招待しよう。この後、空いているかね。ひとつ別件が終わってからだが。とっておきの紅茶を淹れるよ」
 「ありがとうございます。博士。よろしくお願いいたします」
 ノエルはすでに、接見履歴でリヒター博士の名は確認済みである。論文をはじめ著書にも何度かローディックの名が登場し、分析において精度の高さを誇る。彼と同じようにローディックと接触のある研究者もいたが、他大学や個人の事務所を構えているため手近な存在にいたリヒターに声をかける事にしたのだった。
 「……しかし、十七時を過ぎますが、よろしいのですか?」
 「気遣いは無用だよ。若者の将来のために投資をするのが、我々大人の役割だ。それに君はあと数週間ほどでベルリンに行ってしまうだろう?」
 「ご厚意に感謝申し上げます」
 ノエルはリヒター博士から差し出された手を握った。
 聖ルートヴィヒ教会の鐘の音が、日暮れの光に染まるミュンヘン大学の構内に響き渡り――規則正しい人々に帰り道につかせていく。



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午前四時の異邦人
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