LöwenfelsV







 a.t.b.二〇〇七 August
 ブリタニア マナー・ハウス・オブ・グレンブルック

 谷間の小川の名をとる屋敷の街と、遠くの山々を望む部屋。
 小さな窓がふたつ。張り替えたばかりの壁紙。深緑のカーテン。ウォールナットの小さな書斎机。
 小刻みに動く羽ペン。呼吸と呼吸の間を見計らい、ベアトリーチェは数カ月前から家庭教師となった、ソファで本を読むエメリー・ダルボンに声を掛けた。
 「話で聞いたの。エメリー、辞めちゃうの?」
 「ええ」
 「どうして? なんでなの? せっかく新しい遊び相手が出来たと思ったのにぃ〜」
 「お嬢様。……短い間でございましたが、お世話になりました。最初の頃よりも不得意だった数学だって問題が解けるようになりましたし、古典であっても……」
 エメリーは角の立たないよう穏やかに言葉を選んだ。
 「そういうことが聞きたいんじゃないわ」
 ベアトリーチェの顔に陰りをつくり、鮮やかな金髪が背後から射し込む光に光った。そして、よく目を凝らしてみなければわかないほどの震えを隠すように、すこし大きな声で続けた。
 「エメリー……本当は、ミレーヌのことが知りたいのではなくて?」
 思わず読んでいた本の内容が消し飛んだ。
 動揺を偽るが体中の筋肉が強張った。エメリー・ダルボン――『わたし』は、顔を上げベアトリーチェの方を見た。お互いに呼吸が浅くなっていた。
 「ミレーヌ様というと、妹様でございますね?」
 順番に、早まらないように。よく訓練された舌の回りは驚くほどしなやかだ。
 「……エメリー、私がお話ししたら、ずっとここへ居てくれる? お父様が言ってたもの。エメリー・ダルボンはスパイだ!って……それは本当なの? ……そんなの、……そんなの、信じないわ」
 感情が高ぶる。羽根ペンの軸は力が加わって曲がり、インクが紙を汚し、椅子ががたりと音を立てて倒れた。
 「嘘だと言って……」
 興奮よりも消極的に声は小さい。
 「旦那様が仰ったのでございますね?」
 こくんと精緻なドールのような整った顔が頷く。
 そしてベアトリーチェは一息で『わたし』との間の距離を詰め、膝の上に縋った。
 「だから辞めちゃうの? どうやったらここに残ってくれる? 私……なんでもするわ……! 私、貴女がここへ来るまで……ずっと……」
 「お嬢様」
 「本当のことを教えるかわりに……お願いをきいて……」
 彼女は『わたし』の身を揺さぶった。
 「お願い?」
 「ノエル・アストリアスという方にお会いしたいの」
 「……え?」
 聞き間違いかと首を傾げる。ヒマラヤのクレバスを覗き込んだように薄暗いブルーが『わたし』を見上げている。
 「私のせいで、彼が酷い目に遭っていないか……探ってほしいの……エメリー? どうしたの? 顔が真っ青よ」
 「……お嬢様……、その方と、お嬢様はどのようなご関係でございますか?」
 時の進みが恐ろしいほど、緩やかで、呼吸が増幅され、体の中で海鳴りのように低い響き渡る。
 「私はね……姉のベアトリーチェではないの」
 「――――」
 大きく目を見開き、愕然とする。
 呼吸が止まる。
 『わたし』の思考は、静止し、それ以上のことを受け入れようと拒んでいる。
 「わかっているわ。おかしな話。信じてもらえないとわかっている。……でも、これ以上耐えられない……」
 「お嬢様は……もしや……、あなたこそが……ミレーヌ様で……ございますか……?」
 大きく、たしかに、真実だと肯定する。
 『わたし』の奥にある扉ががたがたと音をたてて揺れる。体中の皮膚を掻きむしって、何者でもなくなり、責任など放り出してしまいたくなる。
 
 
 a.t.b.二〇〇七 October
 ドイツ ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン

 ガクン、と首が揺れる。
 ミュンヘン大学の近隣にある聖ルートヴィヒ教会の鐘の音が夕刻を知らせていた。
 廊下は十五分前から騒がしく、教職員や学生のざわめきに満たされている。歴史学の著名な講師の長い話は切れどころがなかったが、鐘の音で舌の乾きを癒すようにペットボトルの水を飲んだ。
 最終回の次回に内容を引き継ぎ本日は終了する、という発表とともに講義室に私語が溢れる。
 ノエルは大きな欠伸をひとつし、目を擦った。
 
 ――『わたし』の研究のせいだ……。
 思い出したくないことを白昼夢にみる。
 唇を噛み、感傷的な苦痛をやり過ごす。
 留学直前に知った事実が、ノエルの行動を変える事はなかった。
 むしろ留学をする意義を強固なものへと変え、贖罪をする必要があると『わたし』は思い至った。ミレーヌには、ある約束をさせた。エメリーに告白したことを隠し、『わたし』から合図を出すまで安全に暮らすということを。

 歴史学の最中にしていた内職――環境科学部の調査記録をまとめたレポートの束をクリッピングし、講義室の椅子から腰を上げた。
 複雑系シミュレーションを用いて、鳥類の行動パターン、特定の植物の増殖率、昆虫の移動などを数十万の変数を持つ非線形方程式としてモデル化する――というテーマに対して遺伝的アルゴリズムや細胞シグナル伝達の理論を応用し、生態系の進化敵な適応プロセスをシミュレーションに組み込んだ。数百年にわたる長期予測の精度を飛躍的に向上させる試みだ。
 ノエルはそのシミュレーションを行うために、専門的な機材の使用権利を持つ情報科学や工学系のキャンバスに潜り込み、知り合った教授にお願いしてなんとか貸してもらった。
 オッフェンバッハの研究室のレポート投函ポストに入れ、少しずつ日の暮れていく窓の外を眺めた。

 ミュンヘン大学の学生食堂・メンザは昼の十四時前後、もしくは夕方までに終了する。
 よって、夕方に休憩時間を長めにとるノエルには恩恵がなく、いつもレオポルト通りやゲーテ通りにあるカフェで手軽にありつくか、近くの食品店でテイクアウトをしている。
 学生支援センターの二階はいつの間にか、ノエル以外の学生も入り浸るようになっていた。
 講義から戻ると誰かがノエルのもとに訪ねてくるか、支援センターの窓口の職員が預かった言伝を教えてくれる。今日は文学部のハンス・フィッシャーが片隅の居住スペース≠ナ小さなパンのブロートヒェンとハムを挟んだ簡素なサンドイッチを齧っている。
 「パンとハムだけかー」
 「やあ。アストリアス。俺のシンプルで合理的な夕食にケチつけようってのか?」
 「いやいや。そういうわけじゃないですけど……温かいスープが恋しくなりませんか? あ、パンくずをこぼさないように。掃除しないと叱られる。色々な人に」
 「そう言うなら外で食べて来いよ。ピザもパスタもミネストローネもある! イタリア人留学生はキレてたが。ブリタニア人にしては舌が肥えてやがる。それにしても、お貴族様は違うねえ」
 「あー……外が寒くって億劫だなぁ……」
 掛けていたコートを引っ張り腕を通す。のそのそと毛むくじゃらのグリズリーの動きで外出支度をするノエルに、フィッシャーは食べ進めながら笑った。
 「最初、未成年のブリタニア貴族の留学生が来るというから、どんなえばったやつが来るのかと思ったが……バックパッカーみたいな大荷物背負って大学に入り浸る変人とは驚いた」
 「下宿先の修理待ちだって。明日修理がきて……それから次第だけど、ここから出ていかなきゃそろそろ不味いんだ」
 「こんなに満喫しているのに?」
 「満喫しているのに。……コインランドリーまで通うのも大変だし、シャワーはスポーツセンターまで通ってる。大学に住むと一見効率的だけど、実は大幅な時間ロスだ」
 「貴族ならお供を連れてくれば良かったんじゃないか? ん? 普通はそうする。お前はヘンだよ」
 その自覚は十分ある。貴族は一人で行動しない。それがシュナイゼルの警戒にも繋がっていることは知っている。
 「……ふふ。どうも、変人です! 良いことはある。施設内のすべてのトイレの場所。朝出勤してくる職員と教員の順番、知り合いが増えたこと、かな」
 フィッシャーは声をあげて笑った。
 そこへ退勤途中の女性職員、レナ・ホフマンがノエルの姿を発見し呼びかけた。
 「グーテン・アーベント! ヘル・アストリアス! ヘル・プロフェッサー・オッフェンバッハが呼んでいるわ」
 「ハロー。ありがとう、環境科学部の研究室に行けばいい?」
 「ええ。……あら、お見えだわ。直々に」
 「え?」
 レナ・ホフマンの見つめる後方を振り返る。学生支援支援センターの入口で、きょろきょろと人探しをする、眼鏡をかけた神経質そうな中年太りの男がいる。ノエルと視線が交わると、大股で接近し大半の者は萎縮する威厳ある声で怒鳴った。
 「アストリアス! なんだね! この……レポートは!」
 「え〜……すみません。なんでしょう。数値にムラがあるとか? 算出方法が不適切でしたか? それとも手順?」
 「違う。……違う! 誰がよその学部まで行って……本当≠フことをしろと言った!?」
 「本当のこと?」
 パンと、オッフェンバッハ教授はレポートの紙束を手で叩き、強く振り払った。その仕草はオーケストラの指揮者のようだった。
 「……君のは基礎ではなく、応用の領域だ! 博士クラスだ! さっさとどこか好きな研究所へ行きたまえ!」
 威圧的な振る舞いの総仕上げに、彼はジロリと睨み、それからまた自身の研究室の方へ去っていった。
 その様子を窺っていたフィッシャーは、わざとらしく身をを縮めるジェスチャーを交えて言った。
 「お〜コワ! あの人いつも怒ってるけど、褒めるのも怒るんだなぁ」
 入れ違いに退勤手前のハインリッヒ・リヒター博士が、学生支援センターの扉を押し開けた。
 「やあ。アストリアス。そろそろ夕食の時間だね。今日はもう聞きたいことはないかい?」
 「リヒター博士。グーテン・アーベント。昨日は興味深いお話をしていただきありがとうございました。……また伺っても?」
 「ああ。もちろんだとも。オフィスの方でも、こちらでも。好きなように。……君の話はおもしろいね。ついつい時間を忘れてしまったよ。家に帰るのが遅くなって、家内に叱られたのははじめてだ」
 「それは申し訳ありませんでした。次からはタイマーが必要ですね」
 「そのようだ。……電話番号を渡しておくよ。これは名刺だ」
 「ありがとうございます。リヒター博士」
 リヒター博士は名刺をケースから抜き取り、ノエルに手渡した。友好的な微笑を浮かべ、手編みのマフラーを巻き直すと帰路へとついた。
 隣にいるフィッシャーは驚き顔を隠さず、肘で小突いた。
 「お前、リヒター博士ともコネ作ったのか? どうなってんだよ」
 「話しかるほど簡単なことはない。著書を読んで感想を伝えると喜ばれるよ。それじゃあ、夕飯に行ってくる」
 手を軽く挙げる。ノエルが学生支援センターの外の廊下に出ると、複数人の知り合いが夕食のテイクアウトを片手に呼びに来たところだった。
 「やあ、ノエル、今日はいい数値が出るぞ。早く来い!」
 生物学部、化学部――進化薬理学と古代植物ゲノム解析研究室。
 「ノエル! 先週言ってた、応用研究興味があるって聞いたからOB達呼んできた! 夕飯食ったらあとで来いよ!」
 医学部と生物学、工学部――生体情報トポロジーとナノスケール製造工学研究室。
 「いたいた。ノエル、申請許可おりたってよ! アクセス出来るようにしといたよ!」
 情報科学部――超大規模データ共同研究アグリゲーション・セキュリティ研究室 。
 アーチを潜るように彼らの間を通り過ぎていく。
 屋外へ出た時、携帯が鳴った。

 ―― Imperial Highness the Second Prince―― 

 ――またか。今日は早い。研究棟にもパブリックスペースでも見張らせているのか。
 もしくは、監視員を増やしたのだろう。
 「はい。アストリアスです。……今? これから夕食をとりに出かけるところですけど」
 彼は探る時、本題に入る前にいつも世間話を始めるが、行動を把握するためで友情などという生易しい親切ではないことは、とっくに知っている。
 「夕食は……えーと……ピザと、パスタと……え? 安っぽいってなんですか。これだから舌の肥えた皇族は……あー! いえいえ、なんでもございませんー!」
 ゲーテ通りのイタリア料理店に入る。席につくなり文字だらけのメニュー表を眺め、ウェイターにおすすめを訊く。
 「マルゲリータとビスマルクと……パスタ……多い……。おすすめは? ……じゃあシュペッツレで」
 シュペッツレとは、南ドイツの郷土料理のひとつで団子状の卵麺のショートパスタである。料理が届くまでの間、シュナイゼルは今年のスポーツ・ウィークの話をした。今年の優勝寮は首位に返り咲いたノーサンブリエだった。予想通りの結果だと思った。ちなみにケント寮は惨敗。下から二番目の成績だった。シュナイゼルは電話口で君は名実ともに人気者になったよ≠ニノエルを評した。
 「帰国後が怖いですね」
 ウェイターが注文した料理をテーブルに並べた。
 シュペッツレ牛肉をよく煮込んだ濃厚なグレイビーソースがかかっている。肉はほどけて食べやすく、パスタにもよく馴染んでいる。通話越しにオーストリアではノッケルン、ハンガリーではガルシュカと呼ばれているよ――と注釈が入る。
 「あのー……何か用があるなら仰ってください。こう見えて暇じゃないんですよ。これからまた用事があるし……」
 [用事……ね? 君の真似をしただけだよ]
 「……切りますよ?」
 [サラダは? 注文したかい]
 「……健康管理までなさらなくて結構ですよ。殿下」
 携帯をテーブルに置く。[君は何をしようとしている?]と、機器から彼の声が聞こえた。
 「……なに?」
 試すような静寂の間が流れる。
 下準備を教える気は皆無だ。すべてを掌握したがる彼が、これ以上ノエルと接触するのは危険だ。どこで見張っているか、知らない限り、暗殺対象と癒着していることは常にリスクに晒されている事と同じだった。
 引き離すように頑然と突き放すように言う。
 「……捜査はいつ始めればよろしいですか?」
 「君の好きなタイミングで始めて」
 そういいながら、[結果報告は早い方がいいね]と付け加えた。


 a.t.b.二〇〇七 7th November
 カストラリア 王都リダニウム
 宮殿バルコニー

 十一月の鈍い日差しの正午。
 冷涼な高地の王都。一定の間隔で数キロ先まで続く長い大通りの両脇には、銀白色の美しい樹皮を持つ白樺が露を纏い光り輝いている。沿道を埋め尽くす人、人、人。
 リダニウムの王宮から、約十キロ離れた中心地にある、アイスグリーンの円い屋根が象徴的な首都政務宮殿クラリタス。
 宮殿前の大広場には、濃紺の制服に白地に金色の刺繍のマントを纏う王室近衛兵連隊と近衛騎兵連隊、禁欲的な黒とシルバーの制服に身を包む警察官達が、押し寄せる大観衆の防波堤となっている。バルコニーの扉が開くのを今か今かと待ち構えている。

 閉め切られたホワイト・バルコニーの奥――華美な装飾の白の詰襟軍装の礼服に身を包んだシュナイゼルは、侍従の持つ姿見で服装をチェックしていた。
 「問題ないね」
 「よくお似合いです。殿下」
 「私はいつも通りだよ。今年で六年目だしそろそろ退屈させてしまうのではないかな」
 「とんでもない! 殿下のお姿を一目見ようと訪れる民は大勢おります」
 鏡を持つ侍従がにこやかにフォローした。
 「私のことはいい。本日の主役は彼女だ。……準備はいいかい。ティラナ=v
 固い襟元を調節する。後方で、侍女に髪や装飾品の数々の調整を受ける彼女に目を遣る。
 動きは硬く、鏡の中で不安に揺れている。彼女らしくない&\情をそのままにしておくわけいはいかない。
 シュナイゼルは背後に立ち、その白い肩に、白手袋に収まる手を添えた。
 微かに身が跳ねるのを見過ごして、落ち着かせるように言葉をかける。
 「……緊張している。肩があがっているよ」
 鏡の中にティラナとシュナイゼル――正式に公の場で並び立つのは七年ぶりとなる。クーデターから七年。未遂≠ゥそうでないかは常に議論の的となる。反王党派はブリタニアによる支配が絡んだブリタニアによる反乱だと未だに書き立てている。姿なき首謀者≠ノついてクーデターの実行犯役とされた者達は誰一人明かさないまま月日だけが過ぎていった。
 シュナイゼルの立場は尖峰の上に立たされているように危うい。
 首謀者の特定も。ブリタニアを巻き込んだ二カ国の金融犯罪も。本物の王女が行方不明であることも。軍の命令権はおろか予算の分配の裁可権もなく、かといえブリタニア軍を参入させることも、世論と将来の立場を思えば悪手だった。
 中立国であったカストラリアの長所と価値は中立国≠ノあり、王室内の内紛以外は戦争を数百年行っていない国といった点で、他国よりも安定性を評価されている。銀行は国際決済銀行を置き、世界の富裕層や機関投資家の資産を預かる。そのカストラリアで、ブリタニアから資金洗浄で国家予算に匹敵する巨額の金を引っ張っていることは、大スキャンダルとなる。
 よりによって、次期君主の配偶者の出身国だ。

 これらの事実が明るみになれば、未だその国の籍を持つシュナイゼルは責任を問われ婚姻関係は解消され、ブリタニア皇室においては特赦措置として、継承権および皇籍を返上し徒人となるだろう。
 「……殿下?」
 「……ん?」
 鏡の中のティラナ≠ェ心配している。シュナイゼルは微笑みを思い出す。彼女は本物ではない。
 だが、彼女の遺伝子を持つ二十歳の女性は、頭脳以外はティラナ≠ニして完璧に本物だった。このマルカ≠ヘ、今のところ最後の切り札だ。
 「思い詰めたお顔をされていたから」
 「すこし、考え事をね」
 「ティラナのこと?」
 マルカはぎこちなく尋ねる。
 「……ティラナだったら良かったのに、残念ですね。すべて上手くいくのに」
 間違いなかった。
 ティラナがいればこの状況の打開策を編み出せるし、実行できる。――彼女なしでは、役立たずだ。誰もが。今、この王室は脳死状態だ。虚飾と偽装を取り外せば、じき心臓≠燻~まるだろう。
 シュナイゼルの推理では、大概の殺人や事件は親類が引き起こすものだと考える。世の他殺事件の容疑者の大半が身内である論理によるものだ。よって首謀者の目星はティラナの叔父であるふたりとなる。推理小説のメソッドに従うなら、第一発見者がもっとも怪しく、そして一番怪しい人間が白である。
 ベルケス公は野心家ではないが、クーデター時、ティラナ≠フ最初の保護者となった。デスモイド前首相を退け、暫定政府の首相の座に滑り込んだ。そのまま七年が経つ。王権支持者に見せかけて、然るべき時が来るまで鋭利な爪を隠しているかもしれない。ティラナの研究の手厚い支援者だった。――一方、その弟、アルディック公は事実上島流し≠ノ遭った叔父である。理由は不明だが、兄ベルケス公とは犬猿の仲だ。
 先王側の兄弟は先の王位争奪の内紛で潰れ、その親族は国外追放。先王后側は公爵ふたりが国内、祖母や曾祖母などの親族がスイスに暮らしている。
 外の歓声が、一際大きくなる。
 ティラナ≠表に出して、健在ぶりを示すが時間稼ぎにしかならないだろう。
 多くの国民には王女――次期君主が必要だ。戴冠式を急げという声が枢密院からあがっている。
 頭痛の種だ。
 ティラナ≠ノは難しいだろう。帝王学も憲法も王室法も、枢密院の議会の理解が浅く、政府文書や法案の裁可に必要な下地となる一般教養や国際社会・情勢への理解、過去数十年のアーカイブを読み解き、首相へ助言する能力もない。先王から引き継いでいる優秀な女官や秘書官達が隣に常に立ち、耳打ちをしなければ成り立たないのは、ティラナではない。
 君主とは、華やかな儀式や行事、他国の元首や大使の接遇などの公以外では、泥臭い書類仕事が待ち受けている。宮廷内の人事権も、軍と宗教の名誉総帥でもある。――そしてその生活は、譲位の選択か謀反が起きなければ、殆ど毎日、一生続く。

 研究の審査会でその弁舌を遺憾無く振るい、大人達の甘さを追い詰めてきた彼女が、その能力の低下を晒してはいけない。知性が信仰の対象となっているからだ。さらに、彼女を支持する者達は、その資質を求めている。幻想を打ち破る行為は避けるのが賢明だ。――それでも、小手先の時間稼ぎに限界があることもシュナイゼルにはわかっていた。
 「殿下方、お時間でございます」
 侍従長ハーゲンの掛け声に、両開きの扉の前に立つ侍従たちがドアノブに手をかける。
 「ああ。……では、参ろうか」
 もう一度、ティラナ≠ノ微笑みかける。彼女は柔らかく目を細め、開放されたバルコニーに進んだ。


 空は明るく白み、緩やかに開けていった。
 バルコニーにティラナ王女とシュナイゼル皇子が現れ、民衆の熱気は天元突破する。
 白銀の円環状ティアラは射し込む光を受けて新たな光を生み出し、とミルキーホワイトの絹ドレスの繊細な光沢を帯び、群青サッシュが斜めに掛かる。オレンジにもピンクにも見える、蓮の花の色を持つサファイアの王と謂われる宝石は、統一感のある同じデザインのジュエリーが一揃いとなっているパリュールとして、ダイアモンドとともにティアラにも埋め込まれている。
 国民に応えるようにふたりは手を振った。
 思いがけず、ノエルの瞳から涙が溢れた。
 それは、『わたし』が夢にまでみた光景だった。群衆の中の一粒の点の中で、波にさらわれる砂や小石のように不確かに流動的に揉まれながら、それが光明にみえた。
 背中に重力がかかり、突き倒れそうになる。
 「おっと……いてっ! ……押すな押すな……!」
 「いやはや、大盛況なこった!」
 見失いかけていた留学先の友人、トマス・ハウンゼントがなんとかノエルと合流し、その腕を掴んだ。
 「この後の予定は?」
 「予定? 今日はこれっきりだ」
 「なんだって?」
 「祝日だから。国中のさ」
 「なに? 周りが五月蝿くて聞こえない! もっと大声で!」
 ノエルは腹に空気を蓄え、さらに大声を張ったが、同時に近くの 緑の公園を意味するパルクム・ウィリデムの方から乾いた破裂音が空気を引き裂き、遅れて腹の底に響くような鈍い衝撃波が押し寄せてきて、かき消される。
 両耳に指を突き入れ、大声で説明する。
 「いい音だ! 耳塞げ! 祝砲だ!」
 「なんだって!?」
 「しゅくほう!!」
 祝砲の衝撃波がまたやってくる。 
 興奮の熱波が渦を巻く。二十一発目の砲が打ち上げられる。
 拍手と口笛の嵐が吹き溢れ、ハウンゼントが脇腹を肘で突く。
 「熱烈なキスだ!」
 誰かが叫ぶ。バルコニーに立つふたりの若い男女は、親愛を公然に晒すように接吻を交わしている。
 群衆の中から地底に溜まった水が自噴するように、大喝采が湧き起こる。
 ハウンゼントの耳元で叫んだ。
 「歴史的だな!」
 「もっと歴史的になる瞬間はある!」
 「歴史学科らしい!」
 その拍手にノエルの拍手も混ざった。
 

 a.t.b.二〇〇七 7th November
 リダニウム大聖堂 王室礼拝堂

 セイヨウナナカマドの赤く熟した実が、王室礼拝堂へ続く大聖堂内の回廊の内庭に転がっている。
 高い空からツグミをはじめとする小鳥たちが集まってきて、草の中で果実を啄んでいる。果実の甘酸っぱい風味を利用して鹿肉などのジビエ料理のソースに使われるそれらは、さぞ小鳥たちにもご馳走なのだろう。
 生命力の乏しい季節の始まり。大勢の弔問客の来訪にも驚かず、丸々と肥え、冬毛に覆われた小鳥たちのふてぶてしさに思わずはにかむと、また列が進んだ。

 王都にあるリダニウム大聖堂の敷地内には王室礼拝堂が存在する。
 クーデターから七年。喪に服す時間にしては長期間。そこは封鎖され、王室関係者以外の立ち入りは許されてこなかった。
 その日は、王女の二十歳の誕生日を祝し特別開放に踏み切り、信仰と親愛に篤い国民は祝賀のあと詰めかけたのだった。『わたし』もその中のひとりだ。
 王室礼拝堂の中は、大勢の人々が参拝しているのにもかかわらず、静謐で冷たく空気は湿っている。中はドーム状の空間になっている。棺が円形に並び、外側と内側、その間に通路があり一周できる。出入り口で手渡される蝋燭と献花のための国花を受け取り、順番に手順を守り適切なタイミングで、黄金の棺と呼ばれる王家の墓の前に進み出る。
 歴史学科のハウンゼントはこそこそと小声でノエルに囁いた。
 「いやあ立派な装飾だ……あっちは十七世紀頃のものかな? これ全部、金か?」
 「ああ。全部、黄金だ」
 「ほんとに? 純金? なんだ詳しいな。アストリアス」
 「そう。でも、セイル王のは質素になってる。レリーフのみ純金みたいだ」
 国王陛下の棺は慣例に従うなら、すべて金で賄う必要があるが、遺言書か準備不足か、政治的な問題でそうしなかったのだろう。アルヴェイン王朝の墓はすべてリダニウムに収められ、それ以前の王朝は各地の大聖堂が墓地となっている。つまり、この王室礼拝堂には三十七人の王とその后が眠る。一定の時期を超えた段階で遺体は特別室に移され小規模の管理になるが、数百年以内はこのままだ。
 ハウンゼントはしばし考え答えを出した。
 「墓荒らし対策?」
 「そうとも言える」
 多くの棺自体は黒曜石製だが、その表面には途方もない量の純金が幾重にも打ち込まれ、まるで光を吸い込むように輝いている。それは、国の富を象徴している。セイル王とその后ユスティナの棺だけは質素で黄金のヴェールはない。非業の死を遂げた王族の最後の眠りとして凝縮された姿だった。
 国王夫妻の棺の前に立ち、黄金のオリーブを象ったレリーフを見上げた。
 七年の歳月が経過したが、『わたし』には昨日の出来事のように鮮明にふたりの最期が記憶に残っている。マルカとしての後悔は、あの地下シェルター内にもう一日籠っていればよかったのかもしれない――ということだ。外の惨状に目もくれず、無関心を装い、保身だけを優先して。寒さで凍え死にそうになっても、今よりはマシだったかもしれない。
 ――『わたし』が、あの時、外に出る判断をしたのが間違いだった。
 使用人達が来なかったとしても、姫様の吐息は白く唇は少し紫に変色し、今にも眠りにつきそうだったとしても。
 蝋燭に火を移し、祭壇を埋め尽くす、夥しい数の灯明の中のひとつに一本、献花台にヒマラヤの青いケシを供える。黙祷し、挨拶を捧げる。
 ――ご挨拶が遅れて申し訳ございません。国王陛下、王后陛下。……マルカが戻って参りました。
 マルカの変身≠ノふたりは驚くだろう。性別も遺伝子さえも異なる人物に造り変えられてしまった。信じてもらえないかもしれない。年齢だって実際のところあやふやだ。ノエルは十七歳で、マルカはそれよりも上だ。しかし、目が覚めて意識を取り戻した時の心地はまだ十二歳か十三歳のつもりだった。時間さえも歪んでいた。
 「早く。アストリアス。後ろが詰まってる」
 「わかってるって」
 『わたし』は深く礼をし、墓前を去った。
 

 a.t.b.二〇〇七 8th November
 リダニウム大聖堂 王室礼拝堂


 セイヨウナナカマドの赤く熟した実が、草の中に転がっている。秋の象徴の果実は中身をほり抉られ、果肉の中の液や種子が滲み出ている。それを新鮮な雨が洗い流すように打ち付けては、さらに実の形を崩していく。
 特別開放の翌日は暗く、午前中でありながら夕暮れのように禍々しい朱色と鼠色が北と南の空を彩っていた。
 黒い傘を持つ人々が大聖堂の回廊の奥にある神殿、王室礼拝堂のある敷地内へ入っていく。雨はまた強くなってきた。
 王室礼拝堂の中は濃い雨の匂いがした。
 祭壇の蝋燭も、献花台の花も、まだ撤去されていない。ブラックモーニングコート姿のシュナイゼルは一本、逸れてしまったホリドゥラの花を多くの花の中へと戻した。彼の背後には数人の従者が影のように佇んでいる。
 供えたばかりの蝋燭が一本煌々と輝いている。それがほんのりと、棺の表面に色と光が移り光沢を与えていた。
 革靴の音が徐々に王室礼拝堂に近づいてくる。
 「おはようございます。殿下。……考えることは同じでありますな」
 「そのようです」
 シュナイゼルは振り返らずに応えた。ベルケス公が一礼し、蝋燭を祭壇に挿し、献花台にホリドゥラを供えた。
 「……昨晩は、現れませんでしたな」
 「期待外れでしたか?」
 「多少の期待はありました。……ティラナ王女が健在であると納得されているのやもしれませぬ。……もしくは、出席できぬ事態が起きている……いえ。このような話、墓前で控えるべきでしょうが……時間がない。……殿下、神を欺くおつもりでございますか?」
 「最終的な解決にはやむを得ないでしょう」
 「神を欺くということは、偽王を承認することと同義であります。国教会の神聖ささえも穢す行為となる。あなたは王権を享受し、その血を宿す身の上で……」
 「反論のしようがございません。君主の僭称は冒涜であること。異議があるわけではない。しかし、一歩進まねばこの国はもっと傾くことになる」
 「……なんですと?」
 ベルケス公の顔には焦燥と困惑が映し出されている。シュナイゼルは相談するか迷った。完全に疑心を払拭しきれる程ではなく、沈黙が流れた。その時、大聖堂側の通路から革靴の足音が王室礼拝堂に向かっていた。
 軽薄で堂々とした足取りが入口で立ち止まり、またドームの中央真下に進む。王后ユスティナとベルケス公の弟、アルディック公だ。シュナイゼルを中央に兄弟は左右に並んだ。先のふたりがそうしたように、アルディック公も蝋燭と花を供えた。
 アルディック公はくつくつと笑いながら言った。
 「勢揃いだ。実兄に義理の甥。全員男! 女王陛下に傅く男たち。役者が揃っている。家族だ。仲良くしようじゃないか君たち」
 ベルケス公がアルディック公を睨み、戒めた。
 「それで? シュナイゼル摂政殿下、戴冠式のご予定はいつ頃になさいますか?」
 兄弟はよく似ていたが、態度は真逆だ。躊躇いなくアルディック公は引き続きシュナイゼルに諫言した。
 「国王陛下が遺された勅書には――万が一、不測の事態に備えて、王女が君主の代理人として貴殿を叙する権限をお認めになっている。枢密院と議会の承認をもって、戴冠式を経ずとも公爵号を授かれるでしょう。……君主特権は強い! これにより、結婚式を早めることが出来ると伺っていますが……戴冠式を早めたほうがよろしいかと思いますよ」
 「アルディック公。言葉が過ぎるぞ」
 「これは私の意見ではない。国民の意思だ、代弁だ。毎日この国で発行される新聞、あらゆる媒体とメディアのニュース、下品な大衆紙でさえ中途半端な支配≠ノ不安を覚えている」
 アルディック公は鼻を鳴らした。
 「貴殿はブリタニアの皇子だ。今はね。とびきり優秀な。……何もせずとも父帝の権力の傘の下、ぬくぬくと暮らしていける。何か困ったらお父様の足元に縋り付いて泣き叫べばいい。……しかし、この国の王女は違う。甘える先がいない。父親も母親もいない! ひとりだ。兄弟もいない。だが、立ち上がらなければならない。我々が杖になる。灯火となる。外套になる。……杖役は貴方だ。道具だ。道具は代わりがいるが、王女に代わりはいない。その道具が王女の代わりに魔法をかけて、幻想をみせつけられるよりも、本物がみたい。王女が王冠と王笏、宝珠と宝剣を持ち、聖油で清められる。国民が待ち望んでいる」
 「アルディック公、いい加減にしろ!」――ベルケス公が叫び、アルディック公をシュナイゼルから退けた。 
 彼はそれで止まらなかった。
 「国民は、ブリタニア人の支配を甘んじて受け入れている。許されていいと考えているのか?」
 「婚姻条約を結んでおられる」
 代わりにベルケス公が答えた。
 「名目上の話だ。宮廷規則年齢に達した。いつまでも摂政を続けられては。空位であることは許されない」
 「慎め! 墓前である」
  アルディック公は煩わしいというように、ベルケス公の腕を振り払った。
 「摂政殿下。ご決断を。……我々とて日取りはいつでも良いとは言えぬ立場でございます」
 「急かすな。貴様、さては……戴冠式委員長の座を狙っているのか?」
 「まさか。委員長は伝統的にド・シャトレ侯爵だ。王家に長く仕えているし、そもそもあの人は私が嫌いだ。私もそう思う。馬が合わない。旧石器時代から変わっちゃいない」
 後ろで両手を組み、革靴をカツカツと鳴らし、アルディック公は墓前を歩き回る。
 「次期女王とて回復傾向にある。だから昨日国民にご挨拶された。あの娘に執政能力がないわけがない。寝たきりで頭が馬鹿になったか? ベッドの上であろうが、ネグリジェ姿でも仕事をこなせるはずだ。……いつまで親の悲しみを引き摺る? 論文を一本も書けないほど落ぶれたって? スピーチは読めるだろう。去年は読めた。昨晩は読まなかった! なぜ!? ――と、みな口にしないだけで思っている」
 「貴様!」
 言いながらベルケス公は口の回る弟の胸ぐらを掴んだ。
 「殿下。なにか事情がおありなんでしょう? ……私はね、貴殿をいたく気に入っているし高く評価している。チェスもお強いとか。……その貴方が、停滞を選んでいるかのような対応をなさっている。違和感を覚えているのですよ」
 ベルケス公がシュナイゼルを窺い見た。
 シュナイゼルは沈黙を選び、ベルケス公に視線を移してからアルディック公を見据えた。
 アルディック公の表情が不愉快を示し、僅かに痙攣した。
 「……また、私だけ除け者ですか? はは――っははは!」
 一頻り笑い声をあげ、「結構」と肩で風を切るように王室礼拝堂から出ていった。



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午前四時の異邦人
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