LöwenfelsW






 a.t.b.二〇〇七 8th November
 カストラリア南部 ノルディア群島

 セラペント刑務所の名前が島の名前を覆い隠してから数百年。
 悪しき名として、アウローラという美しい名が消費されるよりは幸福なのかもしれない。
 サロニアの港から三十分。二つの旅客船が一日二十回往復する。朝方、雨天で一時運行休止となっていたが午後から天気が回復し、予定時刻には十分間に合った。
 
 白い鉄筋コンクリートと有刺鉄線で脱獄防止に囲い込まれた刑務所。
 外から内側を窺うことを拒む白の外壁、囚人達の城に一人の男がスーツ姿で受付のボタンを押した。
 「どうも。予約を入れていた、ハインリッヒ・リヒターです。……午後一時半からの接見の」
 窓口で応対した職員はパスポートを求め、彼は要求通り提示した。
 「少し、お痩せになりました?」
 「ええ。最近ダイエットをはじめたんです。甘いものに目がなくって。さすがに年齢だからそろそろかと思ってね」
 「はあ。……それでは中へお入りください。リヒター博士」
 「恐れ入ります」
 笑顔を向け、リヒター博士はたった一枚しかない、門番によって開かれた鉄扉を潜り抜けた。
 
 フランドロ・ローディックを収容するセラペント刑務所は古くから政治犯に縁がある場所で、陸地ではなく島の刑務所となったのは知能犯の脱獄対策だった。政治犯には仲間が多く協力的だ。本人も知能が高い傾向があり、隔絶された環境を求めていくうちに四方を水で満たされ、雨天時にはまず泳いで渡りきれない島に刑務所が造られた。

 接見は小さな取調室で行われた。
 装飾性のない無機質な壁、床、排気口はあるが窓はなかった。
 テーブルも椅子も簡素で味気なく、目的を果たすためだけに用意された冷たく寒々しい部屋に、手錠と腰紐をつけられた囚人が看守とともに入室する。
 男の名は政治犯、フランドロ・ローディック。生粋のコミュニストだ。
 犯罪心理学者のリヒター博士は、警察や検察、弁護士による接見ではないため非公式な接見だ。とくに今回はどこからも誰から依頼されたものではないが、個人的興味と研究のための取材≠フ一環だった。
 「今日はよろしく。調子はどうだい、ローディック。接見に応じてくれてありがとう。この口喧しい男に付き合ってくれて」
 ローディックは無精髭の生えた白い顔をしていた。その瞳は無気力とは正反対の鋭さを持ち、リヒター博士を睨むと舌打ちした。
 「さて、今回で三度目になるね。フランドロ・ローディック。今日、君に接見を申し込んだのは過去の聴取を踏まえて――確認しておきたいことがあったからなんだ」
 ローディックは無言を貫いた。
 伸び切った黒い髪はうねり、白いフケが肩口に落ち、頭皮の脂の不快な臭いが鼻を刺す。テーブルの上に組んだ指は油分で光り。長くなった爪先は黄色く、何度も皮膚や頭皮を掻いたからだろう。不潔だ。
 あとで看守にシャワーを浴びさせるように注意しなければいけない。囚人であっても、人権は保証されるべきだ。
 「ここでの食事はどうかな。決まった時間に、朝、昼、夜。……朝はスクランブルエッグ? 昼はオムレツ? 夜はスコッチエッグ?」
 ローディックは目の前の男から顔を逸らし、なにもない壁に顔を向けていた。態とらしく「はん」と笑った。
 そのような豪勢な食事が提供されるとでも?と言いたげな皮肉めいた笑い方だ。
 ここの食事はスープ、パン、りんご。蒸した芋、ポテトフライ、菓子、時々茹で卵。予算に応じた内容で、栄養学は度外視だ。的外れなのは話しをさせるため。誘い水のつもりだった。
 リヒター博士は、尚も話を続けた。
 「……卵とは、可能性を秘めている。常に生まれ出るための可能性を。しかし、我々はこうした可能性を潰し、加工し、色をつける。味覚という色を。本来持つ可能性を、食べるために損ねる。ぐちゃり、とね」
 フォークを持つジェスチャーで、皿の上にある卵を潰すように手を動かした。
 「人間の身勝手な好みで。卵を産んだ親鶏は隙間から差し込まれる人間の腕を拒むことはできず、奪われる」
 「何が言いたいんだ、先生? 鶏が先か卵が先か、か?」
 ローディックは鼻で笑いとばし、そこで始めて口を開いた。
 リヒター博士は一度姿勢を正し、姿勢を前傾させ、視線をローディックに集中した。
 「循環論法の話はよそう。結論は出ている。――進化論においては卵が先だ。生物学的には鶏が先だ」
 彼は顔色を変えた。そして、リヒター博士を見つめ返した。
 リヒター博士は、じっと宗教的洗脳と支配を考えつき、人々を掌握していった男の両眼を見据えたまま話し続けた。
 「ある視点に立った時に、見解は影絵のように模様を変える。光の当たり方なのだとね。そして――」
 「今日のあんたは、お喋りだ。……だけど、いい趣味してる。ここじゃ……そういう話をしても知的興奮がない。みんな馬鹿だ。馬鹿で、クソミソの、しみったれたやつばっかり。口を開けば過去の武勇伝、自慢大会だ。過去の! 話をする。誰も外に出ることを、生き続けることを考えない。発展性がない。小心者の巣窟。負け犬だ!……そして?」
 餌に食いついた。手応えを感じた。
 興味を惹きつけ、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
 「そして――鶏をもたらすのは何か?」
 「何の比喩?」
 「神の見えざる手」
 「神がこの世界を創造した」
 水草の下に溜まった、光を通さない深い沼の色を見つめる。
 「あなたの神は誰?」
 ローディックは目を見開き、鋭い瞳の奥が輝いたかと思ったが暗くなった。
 「……く、……くっ、くっくっくっ……! ……くっ……俺の本を読んだことがあるなら、レベルの低い質問だ。失望させないでくれよ、先生」
 「神はいない。そして神が授ける王権もない」
 「……くくく!」
 制御の効かないコンバインのように、ローディックはガタガタとパイプ椅子を揺らした。
 リヒター博士は一度も視線を外さず、追い詰める。
 「質問を変えよう。誰が、鶏と卵をもたらす?」
 ローディックの顔から蝋燭の火が確実に消えるように、笑みが失われる。
 「誰が、鶏から卵を盗む?」
 その人間の腕は、手は、誰?
 ローディックをもたらすのは誰か? はたまた、王権を否定する≠烽フは誰か?
 彼は正直で、賢く、侵入しやすい。
 「……そこまで鋭いのに、俺に質問か? ……あんたこそ、何者≠セ?」
 彼は鍵を開けた。もはや秘密はなく、これはいい報告が出来そうだと『わたし』は思った。
   

 a.t.b.二〇〇七 December
 ドイツ ミッテ地区 ベーベル広場
 
 ベルリン国立歌劇場の近く。
 菩提樹の下を意味するウンター・デン・リンデン大通りはその名の通り、菩提樹の並木道が続く。道沿いには国立歌劇場、向かいにはフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベルリン大学――またの名を、フンボルト大学ベルリン、シュプレー川を隔てた向こうにはベルリン王宮が聳え立つ。――大通りの先にはベルリンの正門。砂岩のブランデンブルク門の頂には、四頭馬車に引かれる女神ヴィクトリアがオリーブのリースを掲げベルリンを見下ろしている。
 
 日没を迎えた暗い空から雪が舞い落ち、規則正しく埋め込まれた石畳に白く薄化粧を施す。
 歴史と威厳を兼ね備えるベルリンの一等地、色彩に欠ける建造物の合間に、無数のヒュッテが小さな街を築き上げていた。琥珀色の温かな光が、飾り窓からこぼれ、あたりを幻想的に照らし出す。
 ひしめく人々の吐息が白い煙となって宙に溶け、そこに、甘く焦がしたアーモンドと、スパイスの効いたグリューワインの香りが混ざり合う。焼き立てのソーセージの香ばしさ、メリーゴーランドの軽やかで陽気な音楽が遠くから響いてくる。
 このベーベル広場では、先週からクリスマスマーケットが始まっていた。
 はしゃいで駆け回る子供たち、仕事帰りに立ち寄るビジネスマン、オーナメントの飾りを一緒に選ぶ仲の良さそうなカップル。特別なシーズンに浮き立つ人々を横目に、ノエルは最終課題の仕上げに、広場の片隅でマーケットの明かりを借りて発表資料を読み込んでいた。
 一段落したらホットワインを飲もうか、それとも夕食にカリーヴルストにマヨネーズを添えたポテトか。
 マフラーに口元を埋め吐息で暖を取る。資料を読む目先の石畳。立ち止まったブラウンのストレートチップの上質な革が艷やかな光を反射している。長い裾。上質なカシミヤで仕立てられた特注のコート。
 「……靴磨きはしなくても十分に綺麗ですよ。お客さん」
 あまりにも長い間、その場に立ち尽くしている奇妙な存在は、一歩近寄ると「調子はどうだい。ノエル」と声をかけた。
 大学に貴族階級の友人はいない。ドイツ語にしては品の良い発音。首を捻り視線を辿ると、驚愕のあまり後退った。
 「……は? うわっ!?」
 「ははは! そんなに驚いた顔ははじめて見たね。いつ気がつくのかと思ったよ」
 「いてて……なんで? 帰国まで一週間あるんですけど。……待っている貴方も人が悪い」
 「あちこちに入り浸っているというから、探すのに多少手間を取ったよ」
 尻餅をつくノエルに、外套がよく似合うシュナイゼルは、灰色の細身の手袋をはめた手を差し伸べた。
 「ああ、ありがとうございます。殿下」
 「どういたしまして」
 再会初っ端に助け起こされるとは。情けない限りだ。
 「その格好で寒くないのかい。鼻が赤い。指も」
 「目と鼻の先が大学なんで」
 「また戻るのかい? 残り一週間とはいえ、大学からはお手上げ≠セと聞いている。余暇は?」
 「これが余暇です。殿下」
 彼は感心したように声をあげた。
 「フンボルトの教育理念を体現している点は素晴らしい。彼は内務省の枢密院顧問官だった」
 ノエルはリュックに荷物を詰め込んで背負い込んだ。何歩か進むとシュナイゼルは着いてきた。夏季休暇の頃のように一人ではなく、ぞろぞろと七人の警護と従者が連なって動き出した。おそらく遠巻きに何人か警護がついているだろう。ノエルを監視させている監視員の人数も含めれば総勢十数人に見張られている。人々はクリスマスマーケットに夢中で、誰も振り返らなかった。
 「食事は?」
 「まだですけど」
 「そのようだね。――レストランを予約しておいたから。準備をどうぞ」
 この日は二十一時まで予定を入れていた。大学に戻り予定をキャンセルしなくてはいけなくなった。
 「お時間頂戴いたしますよ。苦学生なんで大してお金持ってないし、服だって……下宿先のアパートに戻って着替えなきゃいけません」
 「苦学生?」
 「見窄らしいと、寄ってくる人間が減って快適ですよ。おかげで気楽に過ごせました、ミュンヘン大学での渾名はデア・ペナー≠ナした」
 「浮浪者だって?」
 「お恵みにキャンディやキャラメル、チョコレートを」
 反対側にあるフンボルト大学ベルリンへ戻る。構内に人の姿は疎らで、クリスマスマーケットで買ったホットワインを飲んでいる学生と、クリスマスに向けてベートーヴェンの交響曲第九番の合唱の練習を始めている声楽隊の集団がいる。
 
 兵隊王であるフリードリヒ・ヴィルヘルム一世のあと、その子女である芸術と学問に明るいフリードリヒ二世の遺言に基づき、平和主義な敬虔王ヴィルヘルム三世の頃、フンボルト兄弟達の尽力により権威を開放的に扱うように名前の変更がなされた大学は、たしかに自由≠セった。ヴィルヘルム三世の開放により多くの学者の卵がベルリン大学に集い、欧州支配に邁進するナポレオンから王権を死守した。その後、国が統一されドイツ帝国となり再び王国に戻った。

 フンボルト兄弟像の建つ中庭に差し掛かると、遠くから息を切らして中年の男が駆け寄ってきた。
 「いたいた! どこへ行ってたアストリアス! 言語学のフィヒテ教授が呼んでるぞ。学会準備を手伝って欲しいそうだ」
 「トーランド博士をパシるって豪胆ですねえ」
 歴史学科のトーランド博士だった。体温が上がり、吐き出される息は真っ白だ。
 等間隔に立つ外灯の下、ノエルの傍らにいる金髪と青にしては独特、象徴的な色彩の瞳を持つ長身の青年に、トーランド博士は彼の周囲で無機質な表情とともに、一定の距離を保つ人影の数々に気づき、激しく慄いた。
 「!?……もしや……シュナイゼル殿……」
 「 Schh!」
 言いかけた素性を封じるように、シュナイゼルは唇の前に人差し指を立てた。
 両手で自らの口を塞いだ博士の肌に浮かぶ汗は、もはや運動によるものではなく、緊張感と興奮によるものだった。
 「ご無礼の段、深くお詫び申し上げます。私は、歴史学科担当のヴェルナー・トーランドでございます」
 「アポイントメント無しでお邪魔して悪かったね」
 「とんでもない! ……もしや……ルーヴェンフェルス家へおなりあそばされましたか……?」
 「ええ。枢密院令より王統譜への記載が必要でね」  
 「ということは……いよいよでございますね?」
 「準備が多くて大変ですよ」
 ルーヴェンフェルスの名に、『わたし』はシュナイゼルの母であるアーデリントの顔を思い浮かべた。
 ドイツ――プロイセン貴族の名門家、ルーヴェンフェルス。兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世に軍事顧問として仕え、プロイセン軍が欧州最強と呼ばれるのに貢献した。現在、各地に散ったものの本流は王家から離れることはなく宮廷に仕え続けている。
 シュナイゼルのドイツ訪問は、この家系図を記す系図帳の取得が主目的だろう。
 王族の血筋に公的な瑕疵がないことを証明するために、その祖先を記す系譜の調査が行われる。欧州の王侯貴族は近親婚の例もあり、遺伝的な病気を引き起こすリスクと近親交配を避けるために、証明としても扱われる。
 「トーランド博士は系図マニアでしたね」
 「あ、ああ……」
 マニアの欲が表情に染めつく。本物の証書はただの紙切れではない。
 シュナイゼルは仄かに微笑んだ。
 「証書はお見せできかねますが、一般人よりも内外に公表されているので新規性はありませんよ。検索すれば閲覧可能です」
 ブリタニア皇室の皇統譜はブリタニアの枢密院を介して提出される。一方、母方ルーヴェンフェルス家は、プロイセン王国における貴族であり、ナポレオンによる征服で分裂しドイツに残留した者。新大陸へ亡命した者。後のユーロ・ブリタニアの貴族として残留する者と三手に分かれている。
 現在ブリタニアに存在するルーヴェンフェルス家の数百年分の記録、とそれ以前の系譜とに分割されているため、シュナイゼルはブリタニア時代とプロイセン王国時代を含めた、それ以前の系図の公的証書をカストラリア枢密院に届け出る必要がある――ということだ。
 わざわざ本人が取得に動くのは異例だ。ブリタニアの枢密院とドイツとの外交上の駆け引きか、手続きの時間的問題だろう。
 このような異例な裏事情に対して、トーランド博士のような歴史家はこう思うだろう。――婚姻にたいして急ぎ足だ、と。
 急がねばならないのは戴冠式の方だろうに。それほどカストラリア王室の状況は危ういのか、と洞察が確信に変わる。
 大衆紙のジャーナリストなら、優秀な皇子による献身的な愛のある行動! ≠ニ書き立てるだろう。
 無理もない。
 ――カストラリアで彼は爵位も称号も持っていない。しかし、王室入りすれば制限は減り広範囲の権限を持つことができる。
 ロマンチストとは真逆に位置する性格のシュナイゼルのことだ。大衆紙の望む甘い愛情由来ではなく、王室を安定化させ、内外への調整を図るためだろう。
 トーランド博士の聞きたいことを考え、ノエルは代わりに質問を口にする。
 「本物の証書はどこの博物館へ寄進されるんですか?」
 「……私の死後の話をしているのかい?」
 「これッ! アストリアス!」
 不謹慎だと叱られ、肩を竦める。
 「彼はいつもこんな感じですから」
 「もーすみませんねえ。軽率で。……では、トーランド博士にはもう暫く殿下のお守りをお願いしようかな。私はフィヒテ博士と他の約束をキャンセルしに行っていきます」
 「なんだその言い草は、アストリアス!」
 リュックを背負い直し、ノエルは手を振り大学の建物に向かって走った。
 

 a.t.b.二〇〇七 December
 ドイツ プレンツラウアー・ベルク区

 アレキサンダー広場を抜け、下宿先の寮のあるプレンツラウアー・ベルクへ着く頃。舞っていた雪は止んだ。
 中流以上の富裕層と高所得者層が多く住むエリアは落ち着きがあるが、学生寮の多い一区画だけは違った。幸いにして今のところ、讃美歌の練習で節度を保っている。
 ノエルはシュナイゼルの先を行き、時々振り返った。着替えて戻って来るまで大学で待っているように告げたが、下宿先を確認したいのか着いてくることを選んだ。
 自動車とモーターを装備した馬車が陸道を駆け抜ける。アイアン製の装飾の少ない街灯の黒と橙の対比。赤褐色のレンガの壁とライトトーンの色が塗り込まれた壁の狭間。街路樹の赤く染まったカエデ。新旧が共存する風景。
 長い沈黙は、どちらが不可侵条約を破るかを探り合っているようだ。
 踏み込んだのは、ノエルが先だった。
 「先月のバルコニーのご挨拶、拝見しましたよ」
 「おや。わざわざ私に会いにカストラリアまで来ていたのかい?」
 白々しい。その微笑みは、カストラリア滞在を当然把握していた≠ニ言っているようでいた。目の前の男にとって、ノエルのすべての行動は、常に彼の手の平の上で転がされているにすぎない。
 しかし、カストラリアでノエルはずっと同じ場所≠ノいた=B
 「こっちで出来た友人と一緒に。先程のトーランド博士の研究室の修士です。……まあ私はホテルで缶詰状態でしたけど」
 「どうしてだい」
 シュナイゼルの微笑みは崩れない。瞼を伏せ、長い睫毛が頬に影をのばした。
 「研究の手伝いをやらされて、途中で眠って。気がついたら昼下がりです。……ハウンゼントがいなくなっていたんです。一人でサロニアのポロドール史料館に行ったんですよ? 置いていかれた! 酷くないですか」
 「君は、ずっと部屋で待っていた?」
 「そうですよ。七日の外出で疲れていたし、彼の仕事≠手伝ってた。……殿下はお忙しかったですよね」
 「まあね」
 滞在先のホテルで友人のトマス・ハウンゼントに睡眠薬を飲ませ、姿を借りて移動した。
 ポロドール史料館で依頼していた資料を受け取り、そこからセラペント刑務所のある島へ向かうために港へ。
 犯罪心理学のリヒター教授と同じ船に鉢合わせたように、偶然を装い同伴した。島内の待合センターのトイレで教授を眠らせ、また彼の生体情報を採取した。リヒター教授に成りすますのには過去一番難しかった。
 シュナイゼルは歩調を強め、ノエルの隣に並んだ。一台の高級車が脇を通り過ぎる。生まれた風が、彼の月の光が溶け込んだような金髪をふわりと揺らした。
 ミュンヘン大学で試験的に作成した指紋シートは、実に巧妙な働きをした。治癒促進シートの理論を応用したものだ。
 指紋を消失した人間に用いられる修復シートに、ハウンゼントやリヒター博士本人の上皮組織の遺伝子情報を培養し、転写したものを手指に貼付させることで偽装を行った。同様に、虹彩を欺くため、カラーコンタクトレンズでも応用した。防犯カメラ越しにでも高度な捜査が可能となる昨今、生温い変装は足がつく。
 ――暴かれるまでの時間稼ぎには十分だ。
 セラペント刑務所ではリヒター教授がその時間、ローディックと接見していたという事実さえ残れば、アリバイ工作は成立する。
 十一月のカストラリアの公務帰省に感慨深さはないというように、シュナイゼルは泰然とした態度で「忙しいといえど、毎年恒例だから」と言った。すかさずノエルは言葉を挟みこんだ。
 「そうですか? 今年は違った」
 「彼女がバルコニーに立った……かい?」
 「群衆に手を振り、キスまで披露した」
 ノエルは誂うように笑った。


 フンボルト大ベルリンの学生が住む区画の一つで、高級住宅街の片隅にある。週末の夜だからと賑々しい。開けられた窓からはアップテンポの音楽が漏れ出ている。一方で、どこからかヴァイオリンの演奏が流れてくる。騒音防止法は夜間二十二時から翌朝六時までとされているため、二十二時まで続くだろう。
 とても貴族の身なりとは思えぬ格好の少年ノエル・アストリアスは、人懐っこい笑みとともに下宿先の門扉を開け階段を駆け上がった。
 「お待ちください。靴と上着だけでも替えてきます」
 「ああ。レストランの予約は十九時半だから」
 上った先の二階以上が、居住スペースとなっているようだ。幅の広い階段には寄せ植えの鉢植が一段ずつ置かれている。 
 推薦状ついでに滞在先の邸宅を用意させようとしたが、ノエルは拒んだ。勝手に下宿先を見繕い、ドイツ各所。大学最寄りのアパートメント暮らしを選んだ。それだけで普通の貴族出身者の感性と全く違う。ケント寮に好き好んで入寮するような彼らしいといえばらしい。彼は、庶民出身者になりきるのを楽しんでいる。 
 側近がアパートメント前で待ち続けるシュナイゼルに耳打ちした。表通りに車の準備が出来た報告だった。
 そこに一人のダークブロンドヘアの女学生が大学から帰宅したのか、アパートメントの階段を上りかけて、外で待つシュナイゼルの元に近寄った。
 「ん? あなた見慣れない顔。フンボルト大の学生? それとも待ち人?」
 「待ち人だね。……あなたは?」
 「あたしはエリーゼ。エリーゼ・デュッケ! ここのアパートに暮らしてる。へえ〜イケメン〜! やだ容姿の話をしてごめんなさい。でも、こんなにハンサムなら学内でもっと話題になってなきゃおかしいわ。学外の人ね?」
 シュナイゼルは返事のかわりに微笑み返した。
 「誰を探してるの? 誰かの兄弟? 名前を教えてくれたら呼びに行くわ」
 シュナイゼルは階段の上をひょいと覗き込み、入口の木製の扉を叩いた。物陰から様子を窺うノエルを呼び出す。
 「ノエル。いつまで高みの見物をしているんだい。車を待たせているから早く来なさい」
 身なりを整え、本来の姿に戻ったノエルは、勿体つけるように一段ずつ階段を下りた。
 エリーゼと名乗った女学生は、彼を見ると元気よく笑いかけた。
 「え? ……あらノエルじゃない! こんばんは。お兄さんが迎えに来てるわ」
 「……兄じゃ……、まあ、いいか……」
 弁解するのも面倒だと勘違いを受け入れ、興味津々に見つめるエリーゼに「どうしたの?」と首を傾げた。
 「ノイバウアー教授とオーケン博士が明日用があるって。あと学長も。……なんでも来年の冬学期入学の話がしたいそうよ」
 「伝言どうもありがとう。エリーゼ」
 「残り一週間だものね。そうだ、みんなで送別会を開こうって! あ、今あたしがカミングアウトしたことは黙ってて! あなた、いつも忙しいからサプライズの方が嫌がるかと思って」
 「送別会を? やったあ。楽しみにしてるね。お気遣いありがとう」
 「こうやって一ヶ月ですぐにいなくなっちゃうなんて。もっと長く居ればいいのに。他の留学生なら顔と名前がやっと一致する頃よ。でも、あなたは名残惜しい。こんなのは初めて」
 「そういう約束なんだ」
 エリーゼは碧い瞳を微かに潤ませて、穏やかな微笑を取り繕った。
 「引き留めてごめん。お兄さんと楽しんできて!」
 「うん、ありがとう」
 ノエルにしては厚手のゆったりとしたショートコートを、ジャケットの上から羽織り直すと歩き出した。
 シグナルに気づいているのか、無視しているのか。
 歩き出すノエルに耳打ちする。
 「いい調子だね」
 「社交ですよ。大学は特にコミュニティが大事ですから」
 「……おや」
 「なんですか」
 道の途中で止まり、怪訝そうな顔つきでシュナイゼルを見上げた。
 「彼女は君に気があるよ。まだ見送っている。手を振ってあげないのかい」
 「……殿下に教えられる日が来ようとは」
 彼は後ろを振り返った。エリーゼに手を振ると、彼女は気づかれると思っていなかったのか驚いたように体を揺らし、そして両手を振った。
 「これで世界に幸せな女性をひとり増やせましたね」
 シュナイゼルは柳眉を持ち上げ「さあ行こう」とノエルの肩を叩いた。

 
 a.t.b.二〇〇七 8th November
 カストラリア南部 ノルディア群島

 白い光が両目の中央に迫っては遠のく。
 リヒター博士の意識は、術後の全身麻酔を受けた患者のように曖昧だった。
 ノエルはハウンゼントの姿を借りたまま、トイレの個室内で眠りこける中年男の肩を強く揺すった。
 「博士。……博士。……リヒター博士。起きてください。次の船来ちゃいますよ」
 「うわっ!?」
 口の端から涎が溢れかけたとき、急激な覚醒とともにリヒター博士は起き上がった。
 「やっと起きましたね」
 「お、おお……ハウンゼントか。……? あぁ、今何時だ? どうして私は……ここで……」
 「憶えていらっしゃらないですか? ローディックとの接見を終えて、島内の売店でワインを買って飲もうという話になったんですよ」
 「酔っ払ったのか? 私が」
 「はい。珍しく」
 「そうか……」
 薄くなり始めた頭部を手でかき、深い溜息をつく。泥酔状態≠ニいう設定がぐしゃぐしゃの衣類の証拠になっていることが、彼をかなり落ち込ませた。「こんなに酷くなるまで飲んだのか」と小さくぼやいた。
 ノエルは躊躇わずリヒター博士に手を貸した。
 「さあ、僕の手につかまって」
 「ああ、不思議だ。ローディックとの接見……記憶が飛んじまってるよ、こりゃ齢だな」
 「ご安心ください。ちゃんと調書のコピーはとってあります。刑務所で受け取ってますから後ほどご確認ください」
 「さすがだ、ハウンゼント。――ああ、そういえばお前、アストリアスはどうした? カストラリアには一緒に来たんだろ? ん? 置いてきたのか?」
 着替えながら博士は言った。 
 「彼にはレポートを押し付けたんです」
 それを聞いたリヒター博士は、にやりと悪い顔で笑った。
 「この悪い奴め! はっはっはっ……! ワインはもう残っていないか」
 「まだ飲むんですか?」
 「いやはや。驚いたよ。カストラリア産ワインが口に合うとはね。土産にも買って帰ろう! おすすめは知ってるか?」
 「アントレア産のワインですかね」
 「じゃあ、それだ」
 ハウンゼントの肩を借りトイレを出ると再び売店へと向かった。
 海の向こうから、電動で作動する汽笛が鳴った。


 a.t.b.二〇〇七 December
 ベルリン・ヴィラ地区 レストラン・シャロスガルテン

 ハーフェル川沿いの広大なグルーネヴァルトの森林の近く。ヴィラ地区にある高級レストランは美しい庭に包まれ、庭には紅葉した樹木が夜風を受け心地の良い音をたてている。――レストラン・シャロスガルテン・デュカスは数百年の歴史を持つ王侯貴族御用達のレストランだ。かつての創業者デュカスも王のシェフとして仕えた。フランスでオートキュイジーヌ――高級フランス料理をドイツにもたらした。
 アカンサスの葉。象徴的な華麗な柱頭装飾を特徴とする、コリント式柱に挟まれた特別室の個室は光の宝石シャンデリアが三つ下がり、重厚で豪華な新古典主義の直線的でシンメトリーなデザインが強調されている。たとえば椅子一つにしても。配置は鏡の間のように寸分の狂いも許されぬように完璧だ。――それは反対側の席の青年のように。
 
 濃厚でクリーミーなカリフラワーのヴルーテは、トリュフで香り付けし、中にひき肉やみじん切りの野菜を詰め込んだ詰め物パスタがスープに浮かんでいる。この日、温まるために飲もうと考えていたグリューワインに比較すれば味は格段に複雑で繊細だった。 
 「食後はそこのグルーネヴァルトを散歩しようか」
 すぐそこにあるベルリン西部にある森の名前だ。たしか、バロック様式に変わった狩りの宮殿が湖の近くにあるらしい。「食後の運動にはもってこいですね」とノエルは提案を認めた。
 口元をナプキンで拭い、メイン料理が登場する前に提案を差し向けた。。
 「ここはドイツですからね。ワインを頼みましょうよ。殿下」
 一笑し、シュナイゼルは目でソムリエを呼び寄せた。
 「メインはスズキのポシェ、ムール貝のジュ、仔鹿のロース肉の赤ワイン煮込みだったね」
 「はい。殿下。魚料理にはミネラル感の豊かな辛口の白ワイン――爽やかなハーブ香が特徴のソーヴィニヨン・ブラン、肉寮リには、スパイス香豊かなローヌ産のシラーが素晴らしい相性をみせてくれます。料理の濃厚さに負けない力強さを誇り、エレガントな余韻が楽しめるでしょう」
 淀みのないソムリエの説明はまるで詩人の朗読のようだ。それか、老教授の古典文学を諳んじる六限目の講義のようだ。するすると耳を通り抜けていく。そういう時は他学科の内職をするに限るが、ここではナプキンを膝の上で折ることしか出来ない。
 「なんだい。物言いたげだね」
 「飲み比べがいいですね。……お代は殿下持ちでしょう?」
 「まったく抜け目ないね。君は」
 「男とのデートに支払う価値はありませんか」
 部屋の壁で文字通り壁≠ノなっていた皇子の側近達が一瞬顔を顰めた。 
 「冗句です、冗句! 私達は教義に反する関係性じゃありません。こんな大事な時期に厄介な悩みの種だってんでしょう。ええ、ええ。理解していますよ。殿下が改宗したら、私はセラペント行きですよ」
 側近達は不可解そうに表情を曇らせた。
 「……彼ら、ブリタニア人ですね? カストラリアから一人もお連れになっていないんですか?」
 「はは。……君たち、彼に遊ばれているよ。今のは笑うところだ。皮肉混じりにね」 
 ノエルは軽く咳払いし交渉を進めた。
 「対価は、そうだなぁ。……捜査結果はいかがでしょう」
 「ほう」
 「ボトル一本につき、一情報」
 「捜査は留学の推薦状とセットの等価交換の約束だったはずだし、情報の充実度によるね。不足分は追加の捜査でどうだろう」
 ノエルは身を僅かに反らして、そう来たか、と思った。
 「ふーん。……まぁ、いいでしょう。人生はいつ終わるかわかりませんからね」
 「実存主義に酔いしれているね」
 「あはは! 価値は自ら創造する=v
 先取的な考えだ。しかしまだ一般的なものではない。
 スープが冷めると思ったのか、シュナイゼルは早々と手を打った。
 「わかった。君の舌がなめらかに回るようにもう一本は私がサービスしよう。では、もう二本をソムリエの目利きに任せるとするよ。グラスで味比べをし、気に入ったほうをフルボトルで貰おうか」
 「かしこまりました。殿下」
 ソムリエが一礼し部屋を退室した。
 「ふふん。それじゃあワインが来るまで、雑談を。コルチェスターはどうです? 変わりありませんか」
 「変わりない、と言いたいところだけどね」
 「というと?」
 「毎年クリスマス前には演劇が催されるだろう」
 「あー、そうですね」
 昨年の十二月はちょうどカノンの用事に付き合っていた時期だ。各寮から有志によって構成されるクリスマス演劇は演劇部と経営部の課外活動も噛んでおり、学院内ではなくペンドラゴンにある帝国劇場を貸し切って上演される。かなり本格的だ。
 「今年は流行感冒の影響が甚大でね。すでに何人か病欠者が出ている」
 「それでは開催は不可能ですね。試験だってあるでしょう。十二月には」
 「ところがそうもいかない。演劇公演は各寮平等に寮費の一部を拠出している。会場費用や広告費もすでに割いてあるとするなら――実施不可能と判断したところで反発の声が相次ぐ」
 「じゃ、学内はそれで今、開催するかしないかで揉めてるってことですか?」
 「そういうことだよ」
 シュナイゼルは認めた。
 「大変な状況なのに、わざわざドイツに来ちゃって大丈夫だったんですか? 結婚の準備もあるでしょうが――」
 わざとらしく、悪巧みをする顔で彼は笑った。
 「――まさか?」
 「その、まさかさ」 
 嫌な予感のアンテナが立つ。
 ゆっくりと目線をスープに戻し、食事を再会しようとスプーンを握った。
 「学院きっての優秀な生徒である君に相談をしようと思ったんだよ」
 「おだてても返事はノーですね。ご生憎様。芸術方面に才覚はなく……こういったものは、クロヴィス殿下の専売特許じゃありませんか」
 「クロヴィスはすでに携わっているんだよ。そのうえでの話だ」
 「へえ……。……では、何に一番困っているんですか? キャストや裏方の人員不足なら、各寮から募ればいい」
 会話がそこで途切れる。
 コックがカートを押し、シェフ直々にメインの魚料理がサーブされる。ソムリエが白ワインのボトルを抱え、ワイングラスに注いだ。
 スズキの蒸し煮、サフラン香るムール貝の出汁。
 新鮮なスズキを優しく蒸し煮にし、ムール貝の出汁とサフランで深みを出した温かい出汁をかけている。付け合わせには、地元で採れたカブ、ニンジンを添えている。淡白な色合いにコントラストを与えるニンジンの色に目が惹かれる。シェフの説明に頷き、グラスの膨らみのところまで淡い琥珀色の輝きに満たされている。ステムを持ち傾けると香りを確認するように揺らす。すっきりとした鋭さ、冷涼な青さ。魚臭さを消し繊細な味覚を整えるための儀式。
 「うん、美味しい」
 「満足かい」
 「ウロボロスは、自分の尾さえも食べたといいます」
 「つまり、無限に?」
 「欲望は尽きませんよ」
 古代ギリシャ神話の円環の竜にも似た蛇は、自分の尾を噛み、その姿形が象徴化されたものだ。
 シュナイゼルとの会話は淀みなく続いた。子供の頃から、彼との会話は退屈しなかった。
 彼を独占し、その一生を手に入れる王女をどこか恨めしく、羨ましがっていた。
 

 唯一の光源である月明かりが、暗い湖に光る。
 グルーネヴァルトの森。湖の側にある狩りの館――白い宮殿は月光で淡く輝いている。
 変わりやすいドイツの天気のことだ。次第に雲が月を覆い、雪を降らす。
 この国の外の国々とブリタニアが戦争をしている現実にさえ目を瞑れば、美しい静寂を永遠に愛することができる。
 ――ああ、そうか。わざわざドイツに来たのは。
 系図帳の取得と牽制と関係強化のためだろう。
 中立国≠ニして仲裁を担うカストラリアに対し、ドイツは欧州の中の独立国である。周辺のユーロピア共和国連合と交渉次第で同盟を結んでしまわないようにする牽制だ。ルーヴェンフェルス家は、プロイセン時代の名残もあり軍高官を多く輩出してきた。
 派閥と政治はあるだろうが、シュナイゼルが然るべき地位を確立すれば、ルーヴェンフェルス家の仕える主である王家と位は対等となる。王朝の長さを考慮すればカストラリアが頭一つか二つ抜ける。ブリタニアのルーヴェンフェルス家は、さぞ勝利に喜んでいるに違いない。
 ブリタニア人の血がドイツを凌駕する。政治的な力関係のバランスが変わろうとしている。

 細かい波が打ち寄せる湖の手前で、ノエルは座り込んだ。狩りの館を観察していたシュナイゼルは緩やかに接近し、少年を見下ろした。
 「口は回るかい?」
 「いつも以上に、余計なことを喋りそうなくらいには。殿下は酔ってなさそうだ」
 「血筋かな」
 「ルーヴェンフェルスの?」
 「ああ」
 水の香、囲い込む森の香、月光にも香があるように感じられる。
 それが本当かどうか確かめたくて、ノエルはその場に寝転んだ。砂が舞い空気の中に散った。
 空を見上げる視界の中、塔の天辺のような位置にある美しい貌が、第二の月のように存在している。
 「服が汚れるよ」
 「犬の糞が落ちてるって? 法律で厳しく規制されてるんで大丈夫です。罰金も、さっき飲んだワインの中で一番安いものくらいかなぁ」
 「そういう意味ではないよ」
 「デア・ペナーには相応しい格好!」
 浮浪者≠ニ言い張る。両手を枕にし綺麗な月を眺めた。
 犬の話に触れて、シュナイゼルの顔を見つめていると、ボルゾイが思い浮かんだ。穏やかで静かな性格。賢いが、意外と頑固で、他者の感情を探る。長く波打つような被毛。長い手足。大きいな体つきでありながらしなやか。貴族の犬と呼ばれるほど見た目が優雅だ。それでいて、本質は猟犬である。サルーキと迷うが、寒さに強そうで立ち上がると彼の身長ほどになる点でボルゾイだ。
 「……殿下って犬飼ってます?」
 「面倒事ならたくさん飼っているよ」
 「……ふふ、ふ……! それって私も入ってます?」
 「ご想像にお任せするよ。……君、酔っているね」
 どうしてか、彼が困っているようにみえる。
 「そこに立たれると、帰宅拒否の犬を待つ飼い主に見える」
 「……君が犬なら、私になにか言うことがあるんじゃないのかい」
 「しょうがないなあ。ご主人様」
 まもなく支配的な笑みが宿る。狙った獲物を捕捉するように瞳が眇められる。
 砂に手をつき、ノエルは身を起こす。取引の対価を示す時間がやってきた。
 「フランドロ・ローディックについて……進展はありましたが、肩透かしだと思いますよ」
 「聞かせてごらん」
 「彼のご主人様について探ってみました。その次に協力者の政治犯の名前……あ、これリストです。くしゃくしゃですけど」
 ジャケットのポケットから、丸めた紙を取り出す。塊を薄くなるよう広げ、シュナイゼルに手渡した。
 「その政治犯達が普段使いしている銀行口座も、はい。こっちのくしゃくしゃのリスト!」
 もう片方のポケットから、二つ目の紙の塊を取り出す。同様にシュナイゼルに渡す。
 どちらの紙も黒インクで断片的なメモを記してある。
 「情報はどこで手に入れた?」
 「え? いや、それは自分で調べたんですよ」
 「どうやって?」
 「それは内緒。……疑うなら好きにしてください」
 ポケットにはまだ紙が残っている。
 広げた紙の文字を、月光の淡い光を頼りに目を凝らす。三枚目を手渡す。
 「あとは……ええっと……これなんだっけ……。そう、信者の中でもヘッド・リーダー格の名前と表向きの名前、住所、担当支部、集会所の場所と日程です。日程については推測なので精度は低いかも。一番端のは軽犯罪歴。初犯は執行猶予がつくので、みんなそこそこワルです。揺する材料としては十分でしょう。ローディックは運営資金と勧誘に多額の金を使っていますし……金の出処は不明ですが」
 砂場から立ち上がり、背中と尻についた砂を払い除ける。
 「ローディックは思想通りの人物です。人を支配することには長けていますが、支配した先の世界のビジョンが薄いんですよ。あの本の中でも、現実でもずっと夢の話をしている。私は、彼自体はダミーと考えましたね。彼は兵士を集める道具だ。……では、誰がその裏で糸を引いているか……なんですけど」
 シュナイゼルの静かな瞳とぶつかる。彼がノエルを疑っている事は理解していた。弁明をしたとて、情報を信じるか否かを決めるのは彼自身の話である。あくまでも、契約を守り見返りの成果を上げる。義務への貢献である。
 「導線は切れてるというか……断たれているというか」
 「というと、それは?」
 「普通は痕跡がしっかり残るんです。その形跡も、においも消されている。……ローディックのご主人様は直接コンタクトを取らず、いつでもローディックから指示を出せるようにしているはずなんですよ」
 「ローディックの収容先は……セラペント刑務所だったね?」
 「……ああ、カストラリアの……サロニアです。……島にあったはず」
 「サロニア」
 彼が湾港都市の名を復唱する。
 ――サロニアは、ティラナ王女の二人目の叔父、アルディック公爵の領地だ。
 シュナイゼルも同じことを考えたはずだ。
 アルディック公であれば、あらゆる方法を使い、ローディックに指示を出すことが可能だ。通商と金融――貿易、船を掌握する。そして、その船は……ブリタニアに通じており、エイムスバレーの労働地区に就労渡航と称して人員を送り込むことも出来る。
 「……とまあ、今のところはこんな感じです。ボトル分の情報になりそうですか?」
 「ああ。……君は、諜報にも向いているみたいだ」
 片眉を上げる。それ以上言葉はなく、冷たい風が雲を押し月光が隠れていった。
 


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午前四時の異邦人
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