Marka







 a.t.b.二〇〇七 8th November
 カストラリア・王都リダニウム クラリタス宮殿

 アイスグリーンの円い屋根は、雲間からの光により軽やかな色味を帯びた。
 群衆。熱気。歓声。喜び、歓び、悦び――。
 バルコニーの下を埋め尽くす人々は輪郭をぼかし、すべてが溶け出して連なってひとつの模様を描いている。
 味わったことのない地鳴りのような大歓声。あらゆる人に歓迎されている高揚感。そして錯覚。
 緑の公園――パルクム・ウィリデムでは、王室近衛兵連隊が祝砲を天に向けて打ち鳴らした。二十一発の予定だと、隣に立つシュナイゼルから事前に聞いていた。
 地に足のつかない感覚が続いている。マルカが目覚めた時から、今の今まで。しかし、その時、なにかのスイッチが切り替わりそうだった。ティラナのいない、ティラナ≠ニしての暮らしは次第に自分が本当にティラナなのだと思う瞬間が増えていた。
 ――いけないとは、わかっている。
 だが、公式記録にも写真にもマルカとティラナが一緒に映っているものはなく、ティラナはひとりしかいない。
 比較対象となるもう一人が存在しない。意識的にティラナのことを思い出すが、同じ顔ばかりを見続けることは洗脳と同じ効果を持つのだろう。宮廷の出仕時代の名簿にある証明写真を眺めた時、それを自分の顔だと認識できなかった。恐ろしい話だ。
 そして、この話を誰にもしてはいけないと思った。
 今、この王室――いや、この国は再興しなくてはならない。大事な時期に、ティラナが不能であると知れたらどうなるか。
 恐怖で寝つけない夜が増えた。昨晩でさえ、眠りについたのは朝四時だった。
 マルカでもなく、ティラナでもない。マルカの頃の記憶は徐々に曖昧になり、ティラナとしての記憶はない。姿はティラナで、みんなは、ティラナと呼ぶ。
 ――最初から、私がティラナだったのではないか?
 この世界は半分は夢の話で、作り話で……入れ替わりはなく、クーデターから一年前まで眠り続けていただけなのではないか。本物のティラナなどは存在しないのではないか。
 苦しかった。早くこの苦痛から解放されたかった。誰にも相談できず、窒息しそうだ。

 唯一、シュナイゼルが頼れそうだとはじめは考えていた。
 彼は『わたし』を冷たい眼差しで見つめる。その視線が、『わたし』がティラナ≠ナはない存在だと教えてくれた。
 しかし、目の前にティラナの姿があれば彼も気が緩むのだろう。『わたし』達を分けるものは頭脳の質と血液だけだ。だから――時々、優しくなる。
 試すような問いかけに上手く答えられない『わたし』をみて、彼が落胆と喜びに安堵するのを知っていた。

 バルコニーから手を振るだけでティラナが完成する。
 誰も偽物だとはわからない。祝砲がどんどん打ち上げられる。
 「ティラナ」
 左側にいるシュナイゼルが名前を呼んだ。
 三月に会った時よりもまた背丈が伸び、腰に回った手は『わたし』の顔をすっぽりと掴めてしまいそうなほど大きい。華美な装飾の白の詰襟軍装の礼服はよく似合っていた。
 大観衆のざわめきが潮鳴りに変わる。
 美しい顔が迫り、咄嗟に『わたし』は瞼を閉じた。

 唇の感触は、思ったよりも柔らかく、想像よりも温かい。
 その感触を知っている。その記憶を思い出す。
 あの日の夜のように。 


 a.t.b.二〇〇〇 September
 カストラリア王宮 地下研究室


 何人もの精神科の臨床医師や心理学者が王宮に秘密裏に呼んだが、どんな方法でも効果はなかった。
 『わたし』はティラナには何度も王女はあなただ≠ニ説き続けていた。
 ティラナはどんな言葉も否定した。ティラナと同じ姿になった状態では説得力は皆無だったからだ。そして異常者の扱いを受けたのは『わたし』の方だった。
 ――『だ、だって……私……あなたの……』
 ――『王女様! からかっているのは貴女のほうです! いくらなんでも怒りますよ!』
 怒りたいのも、泣きたいのも、叫びたいのも、『わたし』のほうだ。
 ティラナが記憶が戻らなくとも、彼女の血液サンプルが答えを証明しているのに。国王陛下はその事実をティラナに教えようとしなかった。
 ティラナは『わたし』以上に、自分の頭が賢いことを自覚しているから、おかしくなったと自覚させてはより精神的な混乱を招くかもしれない、と仰ったからだ。
 『わたし』は反論したかったが、必要な言葉も根拠もわからなかった。漠然と、このままではいけないと逸る気持ちと、ただひとつ、マルカの犯した罪をこれ以上感じたくなかったからなのかもしれない。それは、保身であり、傷つきたくないからであり、身勝手な動機だと知っていた。

 地下にある研究室はティラナのお気に入りの場所だった。
 洞窟の中にあり、窓はない。強力な薬品の取扱いは出来ないかわりに、誰の気配も騒々しさも煩わしさもない狭い研究室ではよくアイデアが閃くかららしい。
 その日、ティラナは論文データやまだ未公開の下書き段階のものを保管しておく戸棚を探っていた。
 ――『おかしい』 
 ――『おかしいって?』
 ――『一冊だけ、ないの。ううん……一冊というより、一束……』
 ――『一束って? まとめていたの?』
 ――『そう。地上の研究室に置いてきちゃったのかな……』
 ティラナは戸棚の中にあるファイルや書類やデータ媒体をすべて取り出してよくたしかめたが見つからなかった。
 不服そうに頬を膨らまし、明らかに苛立っていた。
 『わたし』はティラナが怒っている顔が苦手だった。罪悪感を刺激されるからだ。
 居心地が悪い。はぐらかしたくて誤魔化すように『わたし』は一昨日からカストラリアに来ているシュナイゼル殿下の話をした。
 ――『そういえば、殿下とはお話しした?』
 ――『シュナイゼル殿下と? ……逆に質問するわティラナ王女殿下。シュナイゼル殿下とはお話しになったの?』
 すぐに後悔した。話題を間違えたのだと。
 獲物を狙う鋭い目つき。仁王立ちのティラナは『わたし』を追い詰めた。
 ――『……そ、それは。……ずるいわ! 質問に答えてよ! 真剣に!』
 頑張って言い返してみたが、ティラナはびくともしない。冷たく、出来の悪い子供を叱る母親のように声色に棘があった。
 ――『また緊張したの?』
 ――『……ええ。殿下が見目麗しゅう御方で……つい……目も合わせられず』
 ――『なんて勿体ない!』
 ――なによ。偉そうに。自分が何でも上手くできるからって!
 『わたし』は惨めな気持ちを味わってばかり。
 ――『私、あなたほど賢くもないし口も上手じゃないもの。……困らせてばかり』
 ――『まーた、そんなこといって……婚約して何ヶ月経つと思ってるの? 七ヶ月めよ』
 ――『まだ七ヶ月よ! それに殿下にはよくお越しいただいているけど、滞在日数は多くないわ』
 ――『ひと月に五日ほども会ってたら多いほうよ。婚約したからって。結婚する時まで顔を合わせる必要があるって誰が決めたわけでもない』
 ティラナも『わたし』も苛立ってしょうがなかった。お互いの悪いところばかり目についた。
 ――『じゃあどうして殿下はいらっしゃるの?』
 『わたし』の問いに、ティラナは目を丸めた。まるで、そんなこともわからないでいたのか、と驚いているように。
 恥ずかしくなって顔を逸らした。
 ――『お勉強よ。殿下は将来この国の人になるんだから、たくさん勉強しなくちゃいけないの。……あとは、アピールのため。ブリタニアとカストラリアが仲が良いですよっていう。……ほら、シュナイゼル殿下がお見えになる時、ニュースで報道されるでしょ?』
 ――『……そう』
 ティラナの上から目線の物言いが大嫌いだった。
 王女であった頃の記憶をすっかり忘れてしまっているくせに、態度だけはそのままで、どこか見下しているみたいで。
 出来て当たり前のことが出来ない『わたし』に呆れ返って。
 『わたし』は、てっきり、かの少年皇子はティラナに会いに来ているのだと思っていた。もし、勉強だけが目的ならシュナイゼルはわざわざティラナを誘いに顔を見せるはずがない。
 ――とても、惨めだ。
 シュナイゼル殿下はティラナに会いに来ている。賢いだけじゃなくて、お話がおもしろいからだ。
 宮廷には国一番の秀でた人々が集まっている。――軍人、警察、聖職者、国の機関出身者、研究者、学者、政治家、一流のシェフにデザイナー……。名誉と忠誠心をかけて王家にお仕えしている。
 素晴らしい環境で育まれた、自信過剰なお姫様。
 かたや、出来損ないの孤児。ティラナの役が務まるわけがないのに。
 ――『なんだか期待外れの顔をしているわ』
 期待外れなものですか、と言い返したくなった。
 ――『ティラナ姫。こちらにいるかな』
 地下研究室に通じる地上の入口からティラナを呼ぶ声が届く。シュナイゼルの声だ。
 ティラナは強い力で『わたし』の背を押し出そうとする。『わたし』は必死に抵抗し、取っ組み合うように彼女の両手を掴んだ。
 ――『……! シュナイゼル殿下……さ、王女様、はやく……!』
 ――『せっつかないで……や、やや……やっぱり、私じゃあ……』
 声が裏返る。もう失敗したくなかった。シュナイゼル殿下といる時の居心地の悪い、あの空気。耐え難いあの羞恥。劣等感が増大する感覚。『わたし』の知らない会話は、ふたりだけのものだということはよくわかった。
 ティラナの力が加わる。歯を食いしばって踏ん張る。
 ――『なにをおっしゃって……国の存亡さえもかかっているのですよ』
 ――『そんな大仰なぁ!』
 『わたし』はティラナの発音を間違えないように努力するだけで精一杯だから、頓知のきいた話も、古典の引用も、最新の研究や、政治の話、社会情勢についても何もかも満足に話せない。
 ――『そちらに行っても?』
 ――『あ、ああ……ええ……と……お待ち下さいまし……、いま立て込んでいて……』
 こそこそと押し付け合っていると、階段を下りる足音に顔を見合わせた。
 わたし達は急いで服を交換し着替えた。お互い、相手のの異なる温度が残る服はどうにも着心地が悪いのか、顔に皺が寄った。
 『わたし』は研究室の非常口から坑道に出て、洞窟の岩陰に隠れた。
 地下の研究室にシュナイゼルが入ってきて、その声がより大きく耳に伝わった。
 ――『お取り込み中だったかな?』
 ――『ええ……庭いじりをしていて……汗をかいたので着替えていたの……殿下は何かご用?』
 ――『レディのお召し替え中に失礼したね。……面白い話を伺って……質問をいくつかさせてもらえないかな』
 ――『何でございましょう……そ、そうだ……せっかくだからハーブティーを用意します。サンルームの方へ参りましょうか』
 ――『喜んで』
 ふたり分の石階段を上る足音が洞窟にまで響く。
 次第に会話の内容が掴めなくなり、笑い声と、軽快な足音が遠のいていく。


 a.t.b.二〇〇〇 September
 カストラリア王宮 お道具箱


 不安が募る。
 不安は水蒸気のように上空に漂い、暗く濁った塊をつくりあげていく。
 
 ブルーな夜だった。
 よく晴れた満月の夜は、この標高の高いリダニウムにあるカストラリア王宮は、昼のように明るい月光に包まれる。それは明け方のように。
 その日、ティラナは遅くまで研究室に籠もるといって官舎には戻っていなかった。『わたし』は彼女の眠るべき部屋でベッドに座っていた。上手く寝付けなかった。水差しの水をコップに注いで飲んだが喉の乾きは癒えず、ずっと続いている感覚に囚われていた。
 『わたし』はお道具箱≠ニ呼ばれている物置きに使われている部屋に入った。
 ティラナは玩具離れが早く、子供の玩具は限られていた。お道具箱≠ヘ大きな砂盤のジオラマや、ボールや、猟銃のモデルガン、ウサギやリスの剥製、種子標本、蝶の標本、人体模型、全身骨格標本、図鑑、望遠鏡、顕微鏡、簡単な実験に必要な道具――と女の子らしさを象徴するアイテムは皆無だ。思い出したくもない孤児院では、女の子はたいていお人形やおままごとで遊んでいた。ティラナの部屋は男の子の部屋のようだ。
 『わたし』は全身骨格標本や人体模型が怖く、布が被せられているのにその部屋に入る時、いつも胸がドキドキした。しかし、そのとき何処かへ逃げる場所はなかったからお道具箱≠ノ入るしかなかった。
 お道具箱≠ノは死がたくさんある。
 標本などはまさにそうだ。剥製もそう。望遠鏡は過去を覗いている。死を保存する空間。ティラナは何も感じないのだろうか。彼女はその積み重ねですごい論文を書いて、肩書きの立派な大人たちに褒められながら育った。
 死に際を救われた『わたし』は、それらを肯定したいのに、どこかで罪深さも感じていた。
 ――人を救うためだけに、ほかを犠牲にしてもいいの?
 そんなことを言えば、ティラナはきっとこう言うだろう。
 『何もできなくなるわ』と。
 毎日、肉も野菜も水さえも飲めなくなる。
 『人は生きているだけで地球に災いをもたらしているけど、だから死ぬべきなのか』と難しい話をしだすだろう。
 人は当たり前のことを乗り越えていく。感謝や祈りにかえて、糧とするお許しを願い祈る。
 『わたし』にはまだ、上手な割り切りは出来なかった。
 また、頭上の塊が肥大していくのがわかった。ゴロゴロと音が鳴っている。

 ――『私には……やっぱり……っ』
 どんなにティラナになりきろうとしても、上手にできないだろう。ものの見方も、嗜好も、思考力も、感情さえも。他人とはそういうことだ。誤魔化せるほどのズレではない。
 青い光に影が射した。
 ――『泣いているの?』
 入口付近に蹲っている『わたし』に、彼はそっと近寄った。
 ――『殿下……? どうして、ここに……』
 ――『貴女の涙の匂いに誘われてやってきたんだよ』
 新調したばかりのカーディガンを羽織ったパジャマ姿。その服装の彼は年相応の子供のようだ。言葉は大人のロマンチックな口説き文句にも聞こえるのに、愛らしく映る。
 涙の理由を、シュナイゼルは尋ねなかった。ティラナならなんて言葉をかけただろう。
 彼は『わたし』のそばで屈んで、片膝をついた。少年の白い手が『わたし』の遠い方の肩に触れた。
 衝動的に本当のことを告げなくてはと思った。
 顔をあげた時、ふわりと花の香が鼻を掠めた。
 ――『あの……殿下、私ほんとうは……――ふ……』
 信じられなかった。
 『わたし』は目を見開いたまま、動けなくなった。
 視界には美しい宝石を収めている長い睫毛が下がり、月光に淡く艶を帯びる金色の髪、空気中に漂う埃でさえ、この少年の周りでは光の粒子に見える。高すぎることのない、適度な肌の柔らかさと熱。なにより唇に触れる感触、世界が今この御方の美貌に満たされている。 
 ――『はじめてだね』
 ――『え……あの……』
 ――『いやだった?』
 『わたし』の頭は混乱していた。
 唇にキスをされたことよりも、ティラナの機会を『わたし』が得ていることに。
 さらに、扉の向こうに立つ影に釘付けになる。
 部屋に射し込む青い光の向こうで。
 ティラナが見ていた。室内の方が暗いため判別がついたかはわからない――だが、彼女は殿下との接吻を眺めていた。突如、背中を這い上る悪寒がして身を竦めた。罪悪感が冷気をまとって足元から這い上がってくる。
 シュナイゼルは『わたし』を抱き寄せ、濡れた頬にキスをした。
 もう一度、ティラナの方に目を向けたがもうそこには居なかった。『わたし』の視線に不審がって、彼は外の廊下を振り返った。
 ――『……誰かいるのかい?』
 ――『……なんでも……ありません。……きっと猫が入り込んだのでしょう』


 a.t.b.二〇〇七 8th November
 カストラリア・王都リダニウム クラリタス宮殿

 歓声と拍手喝采は鳴り止まない。
 祝砲の音が、高鳴る鼓動と重なる。
 シュナイゼルとのキスは永遠のように感じられた。
 彼との接吻は二度目だった。マルカはさらに脈動が激しくなるのを感じた。陶酔と錯覚、それに彼自身の恐ろしい魔力に抗える者がいるだろうか。
 ――もしこのまま。
 その境地に至るのは、はじめてではなかった。
 クーデターの起きた翌朝。凍てつく地下のシェルター。『わたし』をおぶさって歩き続けるティラナにむかって。
 生き別れる直前の言葉が蘇ってくる。
 傲慢な言葉を。不遜な物言いを。暴慢な正当化を。

 ――もし、このまま。
 心臓が凍りつきそうだ。
 ――もし、このまま――姫様が――本物のティラナ王女が元に戻らなかったら。記憶が戻らなかったら。
 首を刎ねてほしい。
 ――私が永久に、あなたの場所にとどまり続けるのはいかがでしょうか。

 言葉は呑み込まれ、空気の震えにさえ乗らず、『わたし』の胸の中に落ち込んでいった。
 欲望を戒めなければいけないと思いつつも、『わたし』が『わたし』の人生を捨てて、名前も、過去も、すべてを捧げているのに甘んじているのは、まだティラナが元に戻るのを期待しているからだ。
 ――期待通りにいかなかったら?
 涙が込み上げてきそうになる。
 ――なんて、いやらしい思いつき! 許されるはずのないこと!
 本音は違う。

 『わたし』を特別扱いしてほしい。
 『わたし』は、彼女の椅子に座りたがっている。
 『わたし』を見破れる者はほとんど存在しないのだから。

 ティラナだって悪い。
 本当に国に想い捧げるのであれば、どうして戻ってこないの。
 ――それが答えだわ。
 ティラナは事あるごとに自由に憧れて、愛していた。
 だったら、もういいじゃない。殿下も。

 美しいひとの肩を見上げる。会う事に背の高くなる人。麗しい殿方。――私の夫。
 彼は『わたし』をティラナとして扱う。
 「ティラナ。ごらん。……貴女の国の人々を」
 バルコニーから人々を眺める。ひとりひとりの顔は晴れ間ののぞく光により反射し、色彩にぼやけその詳細は朧げであるのに全員が喜んでいるように見える。
 ――ティラナなら、どうするだろうか。
 微笑む? 満足する? 感謝を伝える? 多くの国民に待ち望まれていることに。

 「素晴らしい景色だわ」
 
 


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午前四時の異邦人
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