a.t.b.二〇〇七 December
帝立コルチェスター学院 講堂
ひやりと乾く風を招き入れると木々の影が床に淡く映った。
ストレッチで柔軟な体を仕上げ、発声練習で喉を開き、配られたばかりの台本のセリフを頭に呑み込ませていく。
監督、脚本、演出の三役を一手に引き受けるクロヴィスは演者が最少メンバーの七人、その他、小道具・大道具・機械担当と振り分けていったメンバーを前によくよく眺めた。
学院内で猛威を振るう流行感冒に侵されず、今日まで比較的元気に生活してきた面々である。その他ここにいない寮の生徒で授業に出られる者を含めて、総勢百数十名程度だと理事長が演劇の催行を進めていくに教えてくれた情報だ。この講堂内にいるメンバーだけで学院内の十七%を占めている。学院を閉鎖する措置という手段もある。健康体の生徒の中には早いが帰省を考える者も何名かいた。
残りは帰省が面倒か、忙しくて帰る事ができないか、寄宿舎にいるほうがかえって快適だと考えている者ばかり。――そして、不良生徒だ。
かき集められた集団のなかで、ノエルは隣に立つカノンにこそっと尋ねた。
「アルコール消毒した?」
「さっきした。取っ組み合い稽古でもするの?」
「そうじゃなくて、顔を触ったりするとそこで感染る」
マクベスが恋愛劇でなくて良かったとノエルは思った。
集団の前に立つクロヴィスが口を切った。
「諸君。昨日の今日で集まってくれたこと感謝する。今朝、クリスマス演劇マクベスの上演催行を継続する許可を、理事長より頂きました。これにより、七名の演者とその他、衣装や大道具、小道具、照明や音響を含む機械・連絡担当人員を割り当て本日より正式に活動して参ります。くれぐれも体調に気を配り本番を成功させましょう」
「おおー。なんかそれっぽくなってきた」とノエルの呑気な感想にもはや誰も反応を示さなかった。
「本番までリハーサルを抜いて、残り十三日程度です。二週間を切っている。しかし、優秀な成績を修められる先輩方の素質や才能を信じております、ぜひご尽力を賜りたい」
クロヴィスは手を叩き、その日の指示を下す。
「それでは、本日は演者は譜読みを。省略場面箇所の確認と演出面での相談を行う。その他裏方は前任者の引き継ぎを行ってください。照明と音響は演者側に来るように」
「始め」の号令を合図に、各々はその場に向かっていく。
主演のマクベスを除いて、六人の演者はすべて兼役を持つことになった。
着替えのタイミングと時間が勝負だ。そのためには裏方のチームワークも求められる。学生によるクリスマス演劇の趣旨とは本来そこにある。まさか、いがみ合っていたダローウィンと共演することになるとは思いもしなかったが。
メインにダンカン役のダローウィンは台詞を殆ど記憶しているのか、台本をなぞりながら身振り手振りを取り入れている。
「……そして血縁のものたちよ、よく聞け、余は嫡男のマルコムを余の王位継承者とし、以後名をプリンス・オブ・カンバーランドとする。その威光は一人マルコムを装うだけでなくその高貴の輝きは、星のようにすべての忠臣を照らすであろう。さあ、インヴァネスへ行こう、厄介をかけるぞ、マクベス」
役では普段の上下関係の隔ては不要だ。
観客にとってシュナイゼルが皇子という事は常識だが、学生同士の関係性まで知らないし意味をなさない。
マクベス役のシュナイゼルが台本に書かれた台詞を正しくなぞるように読み上げていく。
「陛下のお役に立てない休養は苦役に同じ。私は先に戻って、陛下の来館を知らせて妻を喜ばせます。それではお暇を」
まだ演技は必要のない段階だ。クロヴィスは硬さを見逃すことにした。
ダローウィンが台詞を続ける。
「おお、コーダの領主」
クロヴィスがペンを握り、その先端でシュナイゼルを指す。
「兄上、そこでダウンステージ。舞台前へ! 観客側の方です」
ペン先で指し示された位置に従って彼は歩いた。
「ここかい?」
クロヴィスが頷く。
「はい。次は傍白といって、心の中の台詞を喋ります。これは観客にしかわかりません。その間、他の役はみな静止を! 傍白の箇所はその後、いくつかあります。その時は同様にしてください。照明はここでマクベスに絞って当てるように」
照明担当が台本に指示を書き込んだ。
シュナイゼルは感心したように息を漏らした。
「ふうむ……随分と本格的なのだね」
「映像用の演劇とはわけが違います。声を大きく、身振りは大袈裟になります。その緩急が難しい。誤魔化しが効かないので、映像俳優よりも舞台役者の方が秀でているものと評価されるのです」
クロヴィスはペンを指揮棒のように振り、「続けてください」とシュナイゼルに命じた。
シュナイゼルはマクベスの台詞を読む。
「皇太子、プリンス・オブ・カンバーランドか。それがわたしの行く手をふさいでいる、そこで躓いて転んでしまうか、そこをひらりと飛び越えるかだ、星よ、明かりを隠せ、わたしの暗く深い野望に光が射し込まないように、目が手のやることを見せないように。だが、やるのだ、それが成された時、目が見ることに恐れ慄く=v
クロヴィスがト書きを読む。
「マクベス、そこで退場!」
ダンカン役のダローウィンが台詞を読む。
「そうだとも、バンクォウ。実に勇敢な男だ。マクベスへの賞賛を聞いてわたしはうれしい。わたしにとって宴のようなものだ。マクベスの後を追おう、われわれを歓迎するために先に行ったのだ。かけがえのない男だ=v
クロヴィスがト書きを叫ぶ。次はレディ・マクベスの初登場場面。ノエルの番だった。
「次! 第一幕、第五場! インヴァネス。マクベスの居城! レディ・マクベス、入場し、手紙を読む!」
台本にはびっしりと台詞が続き、ト書きは少ない。戯曲とは台詞主体のものであるし、余白が多い。そのせいかより台詞が多量に感じられるのだ。
ノエルは挙手し、クロヴィスに話しかけた。
「……ちょ、ちょっと、クロヴィス殿下、台詞が死ぬほど長いんだけど!」
「覚えられないなら手紙に全文書いておけばいい。……今日は、流れを確認するためだ。手紙を読む! はい、読み終えた! 次の台詞から。レディ・マクベスが夫のマクベスに対しての思い、あるいは野心を燃やす場面だ。さあ、読んでください」
シェイクスピアの作品の時代、人は耳で演劇を楽しんだ。文字を読める人は少なく、口頭で理解できるよう何度も同じ言葉を重ねるスタイルが確立されていった。意味を強調するために。詩でもあり。その音が英語の初期近代英語に多大な影響を与えた。新しい言葉をつくり、現代まで使われているフレーズや言い回しもある。英語を発展させ多くの人が使用する言語の礎を築いた。ブリタニア人にとってシェイクスピアは心臓である。
ノエルは頁を捲り、台詞を読み上げる。
レディ・マクベスは台詞の中で夫であるマクベスの説明を行っている。立場。妻の立場からの願望。性格について。戯曲はト書きや小説のように地の文の役割をすべて台詞の中に盛り込んでいるから、みなどこか性格的に暑苦しくなる。
「ええっと……あなたはグラミスの領主だ、そしてコーダの領主、さらにその上の約束された者になるのです。しかしあなたの性格が心配だ。一気にやるには、あなたには、人間の優しさというミルクがあふれている=c…」
ちらりとシュナイゼルの顔を見たのがいけなかった。
優しさからもっともかけ離れている男だ。優しそうな男≠ナはあるが。
「くく……人間の優しさというミルク……っ、く、ふ……!」
「ノエル。何ウケてんのよ。そんなんじゃ全然進まないじゃないの!」
メイクと衣装担当のカノンは裏方と演者側を行き来し、急に笑い始めたノエルを注意した。
「優しさ……あっはっはっは……! ヒー……っ!」
腹を抱え講堂の壇上のうえに俯せて笑うノエル背後で、カノンはぼそりと呟いた。
「バカウケね」
「夕食後も稽古が必要だね。……逆の配役の方が良かったかな?」
カノンの横に並んだシュナイゼルが眉を下げて言った。
クロヴィスは異母兄の言葉にそれは不可能だと告げた。
「兄上、もう手遅れです。この配役でいくと各方面に伝えてしまいました」
「ううむ……それは仕方ないね」
「それに」
「それに? なんだい」
「兄上のレディ・マクベスは想像つきません」
シュナイゼルは何度か目を瞬かせた。
「そうかい? 王を励ますのは私の役どころだと、もっとも心得ているのに?」
ため息をクロヴィスはそっと抑えた。彼は将来の本物の王妃――王配、王婿、国婿である。
「公私混同はよしてください。あとは……ノエルの方が兄上より背が小さいので、それでぴったりです」
調子を立て直し、復活したノエルが咳払いをした。
レディ・マクベスの役どころを探っているのか裏声の調子を変えている。
「……あなたは王になりたいのでしょう、その野心はお持ちだが、悪に手を染めたくはない、どうしても手に入れたいと思っているが、それを聖人ぶってやりたいのだ、卑怯なまねはしたくはないが卑劣な手段も辞さないと思っている、偉大なグラミス公よ、あなたには声が聞こえているでしょう、それが欲しければ、こうしなさい≠ニ。あなたはそれを怖がるあまり、願いが叶わなくてもいいとさえ思ってしまう=v
マクベスの帰城前、レディ・マクベスがマクベスから届いた手紙を読み、王位簒奪の野心の火を燃やしていく場面だ。
「早くここへおいで、わたしの意気をあなたの耳に吹き込んであげる、わたしの舌の勇気で王冠からしり込みさせているあなたの弱気を追い払ってあげる、運命と超自然なものがともに味方して、あなたに王冠を授けようとしているのだから=v
クロヴィスは「ほう」とノエルの演技に見事だと感心した。
徐々に熱を帯びていき、閉じていた蕾から花弁が開く瞬間のような、声の調子の変化。
「彼は嘘つきですね」とクロヴィスの評価に、カノンとシュナイゼルのふたりは笑いを隠さなかった。
ノエルはレディ・マクベスの場面を終えて、ダンカンの最期についてクロヴィスに物申した。
「第二幕、第三場の後半、ダンカン王の死体発見場面は……こう、ベッドを置いてダンカン王が横たわる……。それで、他の役は口々に台詞を続ける演出はどう? 録音で。レディ・マクベスとマクダフは基本被らないとは言ったけど、この三場でやり取りがある。マクダフを挟むと着替え回数が増えるから省略したい」
「構いません。時間短縮でいきましょう」
台本に修正点を書き加えられる。
「最終完成台本は一週間後再配布します。それまでに譜読みを終え、二時間以内に収められるように努める。皆さんご協力をよろしくお願いします」
パラパラと台本が捲る音が講堂の天井から跳ね返ってくる。
次々に場面の省略と工夫の導入についての話が続く。
「クロヴィスも本調子になったようだ。これは彼の領分だね」
「芸術週間はもちろんノーサンブリエがトップでしたけど、殿下とノエルがいないので文句ばかりでしたわ」
「おや。彼はともかく、私は本当に芸術方面はからっきしでね……絵画をみてもああ油か水で溶いたものを描いてあるとしか思えないんだ。美しいとは感じるけれど。自分から創り出そうという気にならない」
「……ですが、殿下は今創り手≠ナございますわ」
「流れさ。そして、責任だ。拠出金をマイナスにしないための。学院の名声を私の名で貶めてしまわないように、演じなくてはいけない」
カノンはシュナイゼルを気に食わない奴だと思っていた。いけ好かない、心の籠もらない奴。微笑みの仮面に騙される者を見ると哀れだと思う。今でもそうだ。それ以外は全てが優れ、羨まれるほどのものを持っている。ノエルが大笑いした理由がその時、遅れてきてわかった。――ノエルはシュナイゼルのそういうところを知っているが、受け容れている。そういう奴なんだと。その彼が主役を張る。最優秀の生徒であり代表である彼が。感情的理解と情熱を必要とする演劇を経て、どのように変化するのだろう。
カノンの胸中に、シュナイゼルに対する好奇心が募っていく。
向こうでダローウィンが、ノエルに死体役について質問していた。
「死体役は動かないでいる間どうしたらいい。……呼吸を止めるわけにはいかないよな」
「それは……呼吸を浅く保つんだ。死体役は難しい。人間は無意識に動くから、それを意識的に制御しなきゃいけない。ドラマなら一分未満で編集でどうとでもなるけど、今回は舞台だ。脚光をを浴びる中、他の役の台詞が終わるのを待ち続ける。劇は進行するんだ」
ノエルは、ダローウィンの肩に手を置いた。
「レディ・マクベスはナレーションで死ぬどころか、台詞で死ぬから。死体役としては一番主役を張れるよ」
シュナイゼルはそういえば、とカノンに衣装つながりで「王冠はあるのかい」訊いた。
「小道具のうちに入ると思いますが。すでに作成済みのものがあります」
講堂に持ってきている小道具を仕舞っている箱から紙粘土、ワイヤー、色紙を使って造られた金環だ。
「どれ。……ああ、軽いね。劇はこれくらいの軽さでないと困る」
試しに被るシュナイゼルに、生徒達は各々の仕事を中断して興味津々に見守った。
「クラウンではなく、コロネットだね」
王冠と一口に言っても形状や材質やデザイン、使用される宝飾等で細かく分類される。
コロネットは小さな王冠を意味する。他にもサークレットやティアラなどがある。マクベスの時代背景を考慮するとシンプルなデザインに落ち着いたのだろう。
ノエルがレディ・マクベス用のコロネットを箱から出して被る。その場でくるくる回ってみせて生徒達の笑いを誘った。
「本当だ。軽くていい。着替えが楽だ、クラウンの本物はさぞ重いんでしょうね」
「宝石を積んでいるからより重くなる。責任と期待、歴史の重さも。国王陛下の王冠は二.五から三キロあった。君主にとって王冠は文鎮だ」
「被ったんですか?」
「とんでもない。……その重さに首が耐えられるかどうか確かめるために少し持っただけだ」
「次期女王の?」
「ああ」
コロネットを頭上から外しながらノエルは言った。
「三六人も同じ愚痴を溢しているはずですよ」
シュナイゼルが切り替えした。
「おや。詳しい。……三六人の妃はその愚痴を聞かされている」
さらにノエルは言葉遊びを続ける。
「最初の王と妃への愚痴を七二人が溢す」
「そこへ、三八人めの王と妃が加わる。七四人が誰がこのように重い王冠を?≠ニ声高に叫ぶ」
コロネットを取り去り、シュナイゼルはカノンに手渡した。
「息ぴったり。役への不安はなさそう」
カノンの言葉にシュナイゼルは珍しく皮肉の効いたことを言った。
「不安はない。クーデターには慣れているからね」
「笑えない冗談ですわ」
「いい風刺だろう? 演劇とは現実よりも滑稽であるべきだ」
a.t.b.二〇〇七 December
帝立コルチェスター学院 大食堂
ぶつぶつと台詞を暗唱し多くの才能の原動力を供える頭脳に吹き込んでいる少年――というには青年の体格と身長になった友人を眺める。
カノンは配膳台の列でトレーを持ったまま皿すら置かない彼のために、仕切り皿を乗せた。
「何食べる?」
「……バンクフォーは墓の中です。そこから出てくることなどできません=c…オニオンスープとチーズ、あとチキンソテー」
「ノエルにしては簡単な食事ね」
「食べ過ぎると眠くなるから」
その通りだとカノンは頷く。
配膳台を抜けた先で、ノエルの肩にジェレミア・ゴットバルトの手がかかった。
「ゴットバルト監督生」
「久しぶりだ。アストリアス。悪いが私は監督生ではなくなったんだ。忌々しいお役目から無事に解放され、清々しい」
「では、キャプテンですか?」
「いいや。無役だ。せめて助言役といえる。とりあえず私のことは名前でもなんでも、好きに呼んでくれたまえ。……それにしても、いい体格になった。向こうで格闘技でもやっていたのか?」
ノエルは軽く笑い、首をすくめた。彼は、カノンには先にテーブルに行くようウインクを送った。
「勉強とは格闘していましたが。それ以外は特に」
「では良い資質をご両親からいただいたのだな」
「……ええ。そのようです。マーシア寮は流行感冒の影響はどうです?」
「うちはまだ無事なほうだ。大部屋の下級生を中心に広がっている。可哀想にな。ケントは個室が多いから少ないだろう」
「おかげさまで」
「医務室はパンク寸前。テストは年明けに延期措置を出すことになるだろう。……となると、残りは消化試合だ。私にとっては」
ノエルはジェレミアの双眸を見つめ「退屈しのぎになるかもしれません」と呟いた。
テーブルにトレーを置いてカノンの隣の椅子に座ったノエルは、勝利を確信した微笑みを浮かべた。
「Mr.ジェレミアに大道具に入ってくれないかって頼んできました」
「ご苦労さま。やるわね」
「他寮の最上級生にも声をかけてみます。暇してそうな人を狙って」
ジェレミアのいうように寝込んでいるのは殆どが下級生だ。上級生は個室が貰える。帝国劇場でのリハーサルと本番の日は学院から外出できるし、裏方の軽微な労働であれば数時間は外で遊ぶ時間が作れるだろう。
スープを少しずつ口へ運びながら、カノンお近況についての話題を振った。クリスマス前後は彼にとって重要な時期だ。それを承知でなんだかんだと演劇に付き合わせている。
「カノンは仕事の方は順調?」
「ええ。滞りなく。六月に協力してくれたのがだいぶ効果的だったみたい。今はまだまだ序盤戦だから大きな挑戦はできないけど、クリスマスコフレは重要な商機だから気合を入れたわ。予約数も上々。次の春の新作シーズンに向けてもう動いてる」
「かなり順調だ。微力ながら助力した甲斐があった。嬉しい」
四月頃にした約束通り、カノンの仕事の手伝いを六月にしていた。商業・経済センターで開催された国際化粧品展に同伴し、商談や情報収集の合間にタッチアップモデルをこなした。
「ブリタニアは東西南北で気候がかなり変わるから、消費者の動向も欲しい商品も変わるし一筋縄ではいかないね」
「だからターゲットを絞る方が効果が高い。高単価を維持できる顧客層にアプローチするの。それには……機能性と効能効果。基礎研究力がものをいうわ。独自開発が必要になる。ハイブランドには高度な差別化が求められる」
「材料化学ね。……皮膚科学、生物学。応用化学と物理化学などの処方開発。ブリタニアも現状研究力で劣っているわけじゃないし将来性は十分ある」
ブリタニアは今まさに黄金時代を迎えようとしている。血の紋章事件から十年。十年もあれば治世は安定期に入る段階だ。潤沢な資源、有り余る富、多くの血と屍を積み上げながら、大輪の花を咲かせようとしている。
ドイツの大学で探った研究者の動向調査では、各国のどの大学の分野からもブリタニア留学が盛んになっていた。桁違いの資本力が研究者を魅了する。シュナイゼルが何度もブリタニア国内の大学にしろと言ったのはこのためだ。世界中の叡智がブリタニアに吸収され養分となっていく。ドイツやカストラリアはその国の突出して中核となる産業等の研究だけは、ブランドと研究力で持ち堪えているが、時間の問題だろう。
「ノエル?」
「……ん? ああ。もっと大規模に研究させたいってわけね。最小限で二十人程度と見積もっても、必要経費との戦いだ」
「そうそれ。とにかく実績を安定化させて、融資を募る条件を揃えていく段階ってこと。だから序盤戦なの。外部委託や共同研究でノウハウを積ませていくのが今の限界値」
巨大な研究インフラを整えていくのは並大抵ではない。研究所を作るのもとにかく資本が必要だ。カノンの家庭状況を鑑みると少し時間がかかるかもしれない。裏の研究に資本を割いているがゆえに、広告やモデルを雇う人件費を切り詰めている。
「……研究といえば、ロイドの方のは? ノエル、顔は見せたの?」
「あー……昨日顔を見せにいったら、外の方の用事で特別外出してたっぽくて」
「結局会えていないってわけね」
「あとは時差ボケで自習時間寝てるから」
「睡眠学習ね」
別に何もしていないわけではない。
ケント寮の自室では今後の捜査の準備や、もしもの事態に備えて工作時間に勤しんでいるのだから。
a.t.b.二〇〇七 December
帝立コルチェスター学院・講義本棟
四限目の昼下がりの講義本棟の教室は、冬の早い日暮れの気配が近づいていた。
生徒は数十人いるかいないかの少人数で、各自好きな教科の勉強か読書に時間を費やしている。最上段の最後列の長机では最終完成台本を頭に被り突っ伏して眠りこける青年が一人。
授業開始時間から十分、書類を抱え後ろの扉から入る青年にカノンは振り返った。
「殿下。……時差ボケで。寝かしてやってください」
「自習時間は何をしても構わないけどね。睡眠には不向きだろう、この、硬い机では」
コンコンと長机を叩くと、ノエルの肩がぴくっと跳ねた。
シュナイゼルは隣の椅子を引いて座った。台本を持ち上げてその下の顔を覗くと、体とは不釣り合いなほど幼い寝顔がある。
耳にかかる髪をさらりとよけて、耳元に唇を寄せる。
「歴史上、王朝における君主不在の最長期間は?」
「ん……くすぐった……、……んえ? 君主不在の空位状態は……神聖ローマ帝国の、……約二十年間が最長ですね」
眉間に皺が寄り不快そうに手で振り払う。
シュナイゼルはその攻勢をすり抜け、書類を脇にやる。起き上がったノエルは髪をぐしゃぐしゃに掻き上げ、瞼を開けるのに苦労している。少し顔が腫れぼったい。
「……終わった?」
「まだ四限が始まったとこ。……大空位時代。歴史の授業で散々やったしテストにでも出たわね。……おはよう。ノエル」
「今の誰? 殿下? 人の寝込みを襲うの……そういうの面白くないんで」
普段のノエルの態度を思えば真面目なトーン。睡眠や食事は人が無防備になる瞬間だ。
「あはは。寝込みを襲うのを共謀する仲じゃないか」
「……んー……それは、役での話じゃないですか」
「相当な時差ボケだね」
頭は回っているが速度が落ちている。
「……世襲君主制ではなく選挙君主制である、までがテストに出た?」
「もちろんよ」
「サリカ法もやった? 準サリカ法も」
「やった。留学でいない間に。……やだ。涎垂れてるわ」
気を抜くと眠りの世界に戻るのか、ノエルは自ら頬を叩き、取り出したハンカチで口元を拭った。
「……失礼しました」
シュナイゼルとカノンは顔を見合わせた。互いにハンカチを手に持っているのは奇妙な一致と鉢合わせだ。
「……近代では各国王室において、男子優先長子継承制をもとに、Y染色体を重視するか重視しないかで物議を醸し染色体会議≠ニ揶揄された話は?」
「そこまではしてない」
「男たちばかりが集まってY染色体の有無を議題に行われた会議だから、YY染色体会議≠ニも揶揄されてる」
「ぷっ……」
カノンが吹き出した。
人間にYY染色体は存在しない。よって不完全≠ナ不可能≠ネ会議への皮肉である。
ノエルは冴えが戻る頭の中の記憶の一つ、過去、日本の象徴家である皇家に関する相談を受けていたことを思い出した。
特にそのYY染色体会議≠ェ白熱したのは極東の島国だ。カストラリアと同様、男尊女卑の色合いが残る。似た境遇から王室宛てに準サリカ法の質問と学識に触れるため使者を寄越したのだった。
サリカ法とは女性や女系の継承権を完全に排除し、常に男系の男子のみが継承できるとする厳格な法律のことだ。準サリカ法は男系男子を優先されるものの、その系統が完全に途絶えてしまった場合に限り、傍系の女性や女系の血筋に継承権が与えられる。
カストラリアでは一九九五年から一九九八年の四年の年月をかけ、セイル王が王位継承制度をサリカ法から絶対的長子相続制に改革した。性別に関係なく、生まれた順に継承権が与えられる。保守派の反発は強かったが、セイル王の兄弟の内紛の原因はこのサリカ法だった。
そして日本からの使者は、王位継承権一位の女子しかいない王室に対して率直に不安を打ち明けた。彼らには後がなかった。降嫁させるつもりだが、その筋でまた女子が産まれた場合はどうしたらいいか≠ニ。
セイル王は皇室を離れられたのであれば、その家の仕来りを優先しなさい≠ニ助言した。彼らは万が一御上に何かあったとき、その女子の扱いをどうするかを尋ねたかったのだろう。つまり、養子として迎え据える検討の話だ。セイル王は滝の水が上から下へ。川の水も上から下へゆくのが自然の摂理だ≠ニ説いた。
「……日本は大変だ。……途中で臣下筋の傍流に移ってしまった。女子がお生まれになり、これまた揉めただろう。ブリタニアと一緒だ。臣下筋の国」
シュナイゼルが書類を捌きながら言った。
「似た者同士だ。そういう意味では」
「似ているけど、再起不能だ」
ブリタニアは本流と再起する選択肢があるが、日本にはない。閉ざされた日本の中だけで完結してしまう。
「皇族の血統を維持している。X染色体だけで。特にあの国は純血であることに価値を置いてきたから、彼女の婚姻の話はデリケートだ」
ノエルは席を立ち窓に寄った。僅かに開けた隙間から新鮮な空気を吸う。窓の下に見知った人影を発見した。
「許嫁を用意したという話を聞いたよ」
「許嫁? 誰を?」
シュナイゼルを振り返った。
「現内閣総理大臣の嫡子だよ」
「枢木家かぁ。親戚だね。従兄妹だったか。妥当だ。……それにしても考え方が違うよね。……プラスとマイナスにしない努力みたいな」
「といえば?」
再び席に戻り、ノエルはシュナイゼルが不必要と除けた白紙の余り紙を取り、それを折りたたんでいった。
「我々の価値観では、複数のルーツを持つことで現実世界の干渉と効力を与えようとする。日本のは神話重視だから。そういう意味では、血統神話は廃れている。神は死んだ。それは皇族の権威の弱体化だ」
神話の終焉。幻の喪失。神から人へ。
「王権とは神が授けるものだけど、彼らは自身の血統こそが神に繋がっている。だから、それが途絶えた時の弱さを克服する方法が血統以外にない。現状維持でこれ以上の低下をさせまいとする。マイナスにしない努力。欧米との違いだ。権威をどこに置くのか」
ノエルの話に様子を見に来たプロスト教授が教壇から呼びかけた。
「教壇でその面白そうな講釈をお聞かせ願おうか、アストリアス」
「結構です。プロスト教授」
すっぱり断って、ノエルは手元の工作に集中した。
カノンが暫くそれを眺め、質問した。
「さっきから何やっているの?」
「紙飛行機作ってる」
「器用ね、ホント」
そうして彼は前を向き直り、自身の内職に戻った。
「そういえば」とシュナイゼルは別の話題を引っ張り出した。
「ダローウィンとはどんな取引をしたんだい」
「取引? してませんよ」
「……なるほど。だから君に対して下手な態度なんだね。無償で願いを叶えようとしている。仲良くなったんだね」
「仲は……別に悪いままですけど。……別に、私は……」
脳裏にはミレーヌ嬢――ベアトリーチェの顔が過った。
想い合っていたふたりの男女が引き裂かれた。『わたし』の研究の成果によって、そのふたりは出会ってもお互いを確かめ合うことも出来なくなった。ダローウィンの恋路を成就させて、罪滅ぼしをしたいのかもしれない。
出来上がった紙飛行機を持って、窓を開ける。
「うわ。さっぶ! おーい! ロイド博士ー!」
一気に教室に冷たい風が入り込み、プロスト教授が怒鳴った。
「これ! アストリアス。自習中に遊ぶんじゃない!」
ぞろぞろと教室内の生徒達が様子を見に窓際に集まってくる。
風が落ち着くのを待ち、そっと角度を上向きにし、流れに沿うように紙飛行機を飛ばす。
スイスイと風の中を泳ぎそれは一度は遠くの木々の周囲を飛び回り、教会の尖塔、大食堂を回り講義本棟の階下の芝生の上にいるロイドの手元に渡った。教室内で歓声があがった。
ロイドに紙飛行機を広げるようジェスチャーで伝える。
彼は白い紙を広げ、そこに書かれている文字を読んだ。
「アストリアスくん〜!」
諸手を上げロイドは飛び跳ねて喜び、頭上に大円をつくった。
「アストリアス!」
プロスト教授がまた怒鳴った。
大声で「解散!」といい窓を閉め、席に座った。
カノンがノエルを見た。
「何を贈ったの?」
「ラブレター」
不可解な顔でいるので詳細を打ち明けた。
「照明とか機材周りで人手足りないって。暇そうにしてる博士にやらせようって思って」
「ロイドは暇ではなく、君の帰国を待っていたんだよ」
「だからその追加交渉ですって。……やったね。交渉成立!」
一仕事を終え清々しい気分でテーブルに頭を乗せる。
そこから、文字を読むため視線が細かく左右に動く薄明の瞳を観賞した。
「もうちょっと寝ます。自習時間終わったら起こしてください。時差ボケが全然直らなくって……ふぁ〜あ」
「寝るなら寮に帰りなさい」
「外寒いんですもん。どうせこの後、衣装調整でしょう」
カノンが「ええ」と肯定する。
「あなた前任役よりも肩周り大きいから調整は必要よ。頑張って起きて」
「こんなデカいレディ・マクベスって可愛げが無さすぎるよね。……しどけなさが足りない。カノンの方が向いてる」
「イヤよ。私のは自分のためのものだから」
頭の方向を反対側のカノンの方へ向ける。
「レディ・マクベスって髪色は何? クレバーだからブルネット?」
「スタンダードな意味で知的ね。野心的で赤色の場合もある。衣装も同じく」
「ダンカン王の台詞には、美しい≠ニ色白とか金髪の解釈もできるワードがある。……クロヴィス殿下次第?」
「かもね」
「尊敬される女主人≠ノするには信頼できる印象が重要だ。黒か栗色、赤毛は印象重視」
「ノエルってそういうところ真面目ね」
「いや。殿下が金髪だから被るとややこしいし、マクダフの役もあるし、区別の話。それに衣装の色を変えなきゃいけないって言ったら、カノンは嫌かと」
その言葉は彼に火を灯したのか、瞳に力が入ったのがわかった。
「問題ないわ。私を誰だと思ってるの」
「さっすが〜」
ノエルは身を起こし台本を手にした。