MacbethV







 a.t.b.二〇〇七 17th December
 ペンドラゴン 帝国劇場 大ホール
 

 「マイクテスト!」
 操作室からの通信を拾った舞台上の連絡役が叫んだ。
 耳の付け根に通した小型マイクのスイッチを入れ、ノエルが適当に発声する。
 「アー、チェックテスト、万歳スコットランドの王。問題なし」
 劇場のスタッフの協力を得ながら、翌日に本番を控えた、帝立コルチェスター学院のクリスマス演劇の準備は進められていた。当初の予定では八十名態勢で上演される劇を二十人前後と大幅の規模縮小で執り行うのに、帝国劇場の大ホールを貸し切るのは身の竦む思いがする。
 ノエルは一旦舞台上から下り、観客席の方から確認をおこなった。
 観客席の方ではひとり、監督のクロヴィスが全体作業の様子を窺っている。遥か上空に設置された照明器具が作動し、引幕にチカチカと色を赤、青、緑、黄色とフィルターを替えて調整を行った光が投影されていく。
 クロヴィスは座席に深く座り、手元の端末を操作している。肘掛けに腕を置き頬杖をつく格好がシュナイゼルによく似ていた。
 「マイク使用は学生らしくないと言われたらどうします?」
 「飛沫感染予防ですって返せば問題なし」
 「そうですね。そのように伝えておきます」
 双眼鏡を覗き、クロヴィスは眉を顰めた。
 「バックドロップ……背景の切り替えはスムーズに行くのか?」
 その呟きを受けてノエルはマイクのスイッチを再び入れ、舞台上に散らばる大道具メンバーに呼びかけた。
 「大道具! 背景の切り替えテスト!」
 クロヴィスがノエルに微笑んだ。
 「問題なさそうですね」
 大ホールの最も遠い入口の扉が開き、大量の紙袋を両手に下げたカノンが慌てて入ってきた。
 ノエルは彼の元に駆け寄り、その荷物の半分を引き受けた。 
 「このあと通しでリハーサル?」
 「そう。早着替えも上手くいくか確認しなきゃ。カノン、明日は時間間に合いそう?」
 舞台上に役ごとに分けた衣装入りの紙袋を置く。
 「午後で切り上げて、残りは任せることにした。車かっ飛ばせば二十分で着く距離だから間に合う」
 「招待状分を除いても、いい興行になりそうだって経営部の部長が言ってたよ」
 「それは良かったわね」
 リハーサルまでになんとか間に合ったと安堵するカノンはふと、舞台上から真正面、中央の位置にある三階のロイヤルボックスの人影が気になった。
 「あれは?」
 「劇場の責任者、マネージャーと……メディアじゃない? どっかの新聞社」
 そして座長――責任者であるシュナイゼル。照明を落とした暗がりの中、彼の金髪は夜光虫のようにわかりやすい。
 「主役だから目立つよねえ……。絶対書き立てられる」
 「嬉しそうね」
 「ふっふっふっ……ああやって笑ってるけど、腹の底では別のこと考えてる。予定が押している、早くしろ≠ニか。質問が陳腐=A同じ質問をあと五社からも受ける。まとめて発表した方がいいが、ゴシップだから面倒だ≠ニか」
 責任者御一行はロイヤルボックスから一階の会場に下りた。劇場の責任者と思しき、仕立てのいいスーツを着た紳士がノエルを睨んだ。
 「……明日の終演後まとめて質問の回答を行います」
 「しかし、明日上演のものでございますよ。殿下」
 「学業における活動の一環ですから。それに、すでに席は満席です。これ以上の宣伝は必要ありません」
 メディアの記者に引き留められながら、制服姿のシュナイゼルは真っ直ぐ舞台に向かって歩いた。
 「ほら」
 ノエルはカノンに向けてにやっと笑った。シュナイゼルは舞台前で談笑するふたりを前にし、舞台上に置かれた衣装入りの紙袋を手に取った。
 「仲良くお喋りかい? レディ・マクベス」 
 「シュナイゼル殿下! お写真だけでも!」
 記者はどうしてもネタが欲しいのか、もう一度声をかけた。
 「それも終演後でいいかな。今日はこれからリハーサルがありましてね」
 ノエルはシュナイゼルを小突いた。
 「殿下ー。何社からインタビューの申し入れがあるんです?」
 「六社」
 「くう〜! 外れた!」
 二階の操作室の扉が開き、ロイドが顔を出してマイク越しに叫んだ。
 「ちょっとぉ、アストリアスくん、雑談がマイクにノッちゃってるからぁ〜!」
 大ホールは生徒達の笑い声に包まれる。
 一気に背筋が寒くなるのを感じた。
 「やべー……切り忘れてた。だからさっき責任者の人あんなに睨んでたの」
 「おかげでさっさと出払ってくれたじゃないか。予定通りリハーサルを始められる」
 「この劇場出禁ですよ。えー……明日入れなかったらどうしよう」
 生徒達の笑い声が波打つ。マイクのスイッチをそっと切った。


 a.t.b.二〇〇七 18th December
 帝国劇場 インペリアル・スイートルーム

 金箔と象牙色を組み合わせた漆喰細工の壁や天井。マホガニーの羽目板の艶めき。よく磨きあげられた鏡。豪勢に生けられたシンビジウムと花瓶の数々。賓客をもてなすために立派に設えられたインペリアル・スイートルームには、ブリタニアの国家元首の子供達が景気の良い色の衣装を纏い滅多にない外出を楽しんでいた。
 なかでも鮮やかなピンク色の髪を贅沢にもつユーフェミアは、その日が来るのを一週間前から指折り数えるほど楽しみにしていた。
 帝都ペンドラゴンにある帝国劇場は、一流の役者が立つことを夢見る格式高い劇場の一つである。
 ユーフェミアにはいかに凄いかを証明する歴史の話よりも、兄達が活躍するのを目にすることに特別な関心があった。
 「クロヴィスお兄さまの初舞台なんですって!」
 「みんなそうなんじゃない?」
 優美な曲線を持つ猫足のカウチに腰掛け、使用人に淹れさせた紅茶を飲みながら第五皇妃マリアンヌ・ヴィ・ブリタニアはユーフェミアに応えた。彼女の隣に遠慮がちに座るコーネリアは同じ様に紅茶を口に含みながら率直な感想を口にした。
 「それにしても、チョイスがマクベスとはな。クロヴィスの好みにしては暗い気もする。演目の決定で意見が通らなかったのか。それに、主演がシュナイゼル兄上なのも驚きだ」
 「それはそうねえ。彼どっちかっていうと自分が目立つより、引き立て役の方が性に合ってると思っていそうだもの」
 インペリアル・スイートルームの入口に見えた人影にコーネリアは思わず立ち上がる。第一皇子オデュッセウス・ウ・ブリタニアと第一皇女ギネヴィア・ド・ブリタニアだ。
 「姉上に……オデュッセウス兄上も?! 公務の方は如何されたのです」
 「あはは。クロヴィスがチケットを送ってくれたものだから。せっかくだからね。弟たちの晴れ舞台だし、来年も同じというわけではないだろう? 公務に関しては一日ズラしてもらってね」
 春の陽気のようなオデュッセウスが喋ると、氷上の上を吹く風のようにギネヴィアの凛とした声に締まる。
 「私もです。皆が観劇されるということと、こういった機会を楽しむのもよいと諫言を受けたもので。それにマリーに観劇の嗜みを教えるようにとフローラ様から頼まれたのです」
 ギネヴィアのドレスの影からひょっこりとスパニッシュピンクの髪を持つ、マリーベル・メル・ブリタニアが顔を出した。
 「今日のために読んできましたの。シェイクスピアを」
 「殊勝な心がけだな。マリー」
 コーネリアの言葉に目を細めるマリーベルと、その彼女をじっと母の影に隠れて窺うルルーシュに気付いたオデュッセウスがそっと寄った。
 「やあ。ルルーシュ大きくなったね。ナナリーは元気にしているかい?」
 「はい。オデュッセウス兄さま。ナナリーは……残念ですが、お留守番です」
 「まだ幼いもの。観劇や行事に連れていってあげたいけど、元気な子で。騒いでしまっては迷惑千万でしょ?」
 ルルーシュは少し不服そうにむう、とむくれた。ナナリーはそれはとびっきり快活で朝から晩まで沈まぬ太陽のようにはしゃいでいる。皇宮内では許されることが、外の世界では許されないことを彼女はまだ知らない。だから母マリアンヌに連れられて外へ出掛けるのはルルーシュばかりとなっていた。
 「あら?」
 今度はマリアンヌが腰を上げる番だった。
 彼女の存在に気付いた他の子供達も僅かに身を屈め挨拶をした。
 今は皇宮から離れて暮らしながらも、絶大な影響力を持つ皇妃の一人。優秀な第二皇子の母――アーデリント・エル・ブリタニアは決して衰えぬ美貌を扇で隠し、インペリアル・スイートルームの隅々に目線を配った。
 「あらまあ。これはこれは、第五皇妃殿下ではありませんこと。……あの方はいらっしゃっているの?」
 「あの方?」
 「わたくしの天敵」
 天敵。その言葉にコーネリアは僅かに身動いだ。コーネリアとユーフェミアの生母のことである。マリアンヌとともに子供達の引率で付き添っていたが、今日の演劇には学院のOBや父兄の貴族達も観劇するため、彼女はそちらの方の挨拶に出かけていた。
 「お見えですが、お知り合いを見つけたとかでこの場にはいませんわ」
 「そう」
 なら構わないといったように、扇を閉じ懐に収めた。
 マリアンヌは自由でいたかったが、一度このふたりの喧嘩を目にした時、なぜ流血沙汰にならないのか不思議でならなかった。子供達の前でいざこざにならぬよう配慮が必要かと思い至り、内心苦虫を噛み潰しながら、仲裁役を買って出ることにした。
 「ロイヤルボックスでの席順、隣同士にならないよう替わって差し上げますから。……あなたも父兄参観でいらっしゃったの?」
 「あの子が舞台などと毛色にそぐわぬ真似をするというので、婚姻前の大事な時期に恥晒しにならぬよう、一言申し上げに参ったの。……よりによって、マクベスですよ! いったい誰なの、この演目にしたのは。不謹慎な内容よ。非常に、非常に! 不愉快極まりなくってよ」
 その場にいた者すべてが沈黙した。
 外交問題擦れすれである。シュナイゼルが摂政殿下でなければ、ご破談一直線だったであろう。
 とくに、マリアンヌは肝が冷える思いをした。この場にクロヴィスの母、ガブリエッラが現れたらと。今の話を耳にしていたらと。自由奔放こそ自身の長所であり美徳であるとさえ思う、マリアンヌの顔が引き攣った。
 アーデリントは息をつき、それから身の回りを見渡してその存在がいないことに気がついた。
 「あら。アディ、……アディ?」


 a.t.b.二〇〇七 18th December
 帝国劇場 大楽屋

 本番二時間前の大楽屋は活気づいていた。
 参加している生徒の父兄が代わる代わる訪れては、花束と美味しそうな差し入れが届く。舌鼓を打ちたかったがノエルは壁にかかった時計を見上げ大楽屋を出ることにした。
 「ちょっと一服してくるー」
 「不良か? アストリアス」
 「私は元々不良だって」
 ノエルが出た後、舞台袖のフォーメーションと最終準備中で忙しいカノンが、一時的に大楽屋に戻ってきた。
 「あら。ノエルは?」
 「一服してくるってさぁ」
 退室時に居合わせていたロイドが、ノエルの言葉をその通りに告げる。カノンは首を捻った。
 「一服? 煙草じゃなくて? 本番まで一時間半あるとはいえ……って、あの格好≠ナ?!」
 「そお。あの格好≠ナ。ってかさ〜、今日はロイヤルボックスも満員御礼なんだってさ!」
 「ロイヤルボックスってあの真正面のVIP席ね。皇族の方々がそんなに?」
 そこへ水飲み休憩として、クロヴィスが大楽屋に入ってきた。
 「うむ。私が招待状を送った。晴れ舞台ですからね」
 「……それで責任者が昨日と打って変わってニコニコしてるわけね」
 「シュナイゼル殿下が主役とあっちゃ観たくもなるよねえ〜?」
 ロイドの言葉に、クロヴィスは誇らしげに鼻を鳴らし胸を張った。
 「私にしても、ビシバシ演技指導を行った甲斐があったというものです」
 「普段の立場と逆転だものね〜! 僕、あんなに困ってる殿下見たのはじめて! いやぁ〜! いいものを見られたねぇ〜!」
 大楽屋は本番前の緊張をほぐすようにより一層熱く賑やかになった。


 a.t.b.二〇〇七 18th December
 帝国劇場 劇場前広場

 三つ折りパンフレットにあるマップと探知機を頼りに、ノエルは帝国劇場内のあちこちを歩き回っていた。
 人気のない通路。スタッフの使用する階段。搬出用エレベーター。地下の倉庫。陰になりやすい劇場内の暗がり。
 「危険物はなし……」
 学院内ではもしもの事態に備えて様々な経路で対策を講じられる。
 学外で暗殺実行が敢行される可能性がゼロではなく、その対策は不十分だ。華やかな舞台に乗じてなんてこともある。 
 組織の上層部はもはやノエルを味方とは思っていないだろう。その気になれば気まぐれに、シュナイゼルを殺すことができる。それほどまでに、彼とは親しくなりすぎている。

 劇場前広場は人で賑わっていた。
 階段に座りキッチンカーで買ったオレンジジュースを飲んでいると子連れの一般客が通りかかった。 
 「ママ! ママ! ピエロみたい!」
 「あら本当! 白い顔に真っ赤な御髪ね!」
 ひらひらと蝶々のような可愛らしい手を振る子供に、手を振り返してやる。
 自然光の下では、舞台用のメイクと派手な赤色のウィッグは奇抜だ。
 「道化師か……どっちかっていうとエリザベス一世じゃない? ぷっ、くくく……」
 風船持てばよりピエロらしく見えるだろうかと思い、売店へ行き販売員に風船はないかと訊く。
 「ここに玩具の風船って置いてません? 膨らませるやつ」
 「はあ? ここ帝国劇場ですよ。そんなのがあるわけないじゃない」
 「そうですよねえ」
 販売員はノエルの格好に目を凝らした。
 「……あなた、今日上演されるコルチェスターの学生さん?」
 「そうです」
 「楽しみにしていますよ」
 「劇は悲劇ですが、楽しいクリスマスになるよう祈っています」
 販売員はにこやかに笑い、そして「弟さん?」と見知らぬ子供を見てノエルを見遣った。
 「……ん? いいえ。他人ですけど」
 「坊や、なにか欲しいものあるの?」
 少年は金色の髪とウィスタリアの大きな瞳でじーっと扮装するノエルを見つめている。
 売店から離れてみても、少年はトコトコと親鳥のあとをくっつく雛鳥のように着いてきた。また階段に座ると真似して隣のスペースに座った。いくら待ってみても親や探している大人は現れなかった。
 やがて少年の視線はノエルの顔ではなく、手に持っていたプラスチックの容器に入ったオレンジジュースに移ろいでいった。
 「どうしたのボク。喉乾いたの?」
 恐る恐る彼は問いかけた。
 「エリザベス一世?」
 「……おぉ……やっぱり? んッ、ゴホン! 私はひ弱な女性の体しか持たないが、王の心、しかもイングランドの王の心を持っている=v
 視線を合わせるようにしゃがみ込む。
 少年は大きな目をさらに大きく見開いて、美しいウィスタリアの色彩を捧げた。
 「どう?」
 「どうして、ここにいらっしゃるの? 女王さまが」
 幼い子供にはこれが本物ではなく、演劇で誰かになりきるための格好だとは理解が難しいだろうか。嘘の格好を嘘と言い切るのも夢がないと思い、どうしていいか迷った。
 「……皆に求められたから……? そんなことより、ボクご家族は? 今日は一緒に誰かと観に来たんじゃない?」
 「お母さま、あっち!」
 「あっち? 建物の中じゃん。……抜け出してきたの?」
 子供の指差すほうは劇場内だった。ジュースでも飲ませてやり、インフォメーションに迷子だと届け出てやろう。そう決めて、オレンジジュースを購入したキッチンカーにもう一度立ち寄った。
 「……すみませーん。……ボク、何飲みたい? そっからじゃメニュー見えないか」
 少年を犬か猫のように脇腹から抱えあげ、メニューの展示を見せてやる。カップごとにフルーツの写真を貼り付けて、子供にでもわかる工夫が凝らされていた。
 「何飲む?」
 「アップル!」
 「アップルジュースのスモール。一つお願いします」
 少年は高い景色が気に入ったのか、抱っこをしたままがいいと強請った。
 肩車をしたはいいものの、頭上でジュースを飲まれるのは、まるでダモクレスの剣のようだ。 
 「これウィッグだから引っ張ったら落っこちるからね」
 「ウィッグ……?」
 「偽物の髪なの。……ボクお名前は?」
 「アーダルベルト」
 「ドイツ系か。貴族っぽい名前。仕立ての良い服。うちの劇のお客様だな〜?」 
 すこしばかり、シュナイゼルに似ている気がする。紡ぎたての柔らかな金糸と薄紫の瞳の色。丸い頬は桜色。初対面のとき、彼は九歳でアーダルベルト少年ほど幼くはなかったが、児童文学に登場する王子のように愛くるしかった。
 ――愛らしさは半減した。今はアン・アドーニスだ。
 彼の血から咲くフクジュソウはさぞ美しかろう。
 それにしても。
 ――弟がいるとは聞いたことがない。遠い親戚だろうか。
 その時、携帯電話が鳴った。カノンからだ。
 「はい」
 「ノエル! どこほっつき歩いてるのよ!」
 「ごめーん。今、迷子を担いでインフォメーションのところにいる」
 「迷子? さっさと舞台袖に来て! 開演するわよ!」
 電話の向こうで開演のブザーが鳴り響く。
 

 a.t.b.二〇〇七 18th December
 ペンドラゴン 帝国劇場 大ホール

 幕の上がった舞台とその観客席は静まり返り、今か、いつか、どれくらいか。永遠の時をかぞえるような数瞬を繰り返し、はるか頭上後方ライトがぐるりと強い光を放ち三人の黒い影が映し出される。
 広大な干潟に似つかわしい荒れ地。朝焼けを待つ寒色の光。三人の魔女はヒースの荒れ野でマクベスに会う話を交わす。吹き荒れる風の内側で、三人の魔女は声を揃えて予言を唱える。
 
 ――美しいものは醜い、醜いものは美しい。濃い霧と濁った空気のなかを飛んでいこう――


 舞台袖ではダンカンの衣装姿のダローウィンが、そわそわと落ち着きなく足踏みをした。
 左腕に巻き付けた腕時計の針が進んでいく。カノンは数分前にかけた携帯電話でもう一度呼び出すことにした。
 「おい、まだアストリアスは来ないのか! 省略シーン多いから五場はすぐだぞ!」
 「迷子を相手にしてるらしい。……今呼び出してる! ちょっと、ノエル!? 本当に始まったわよ!」
 ダローウィンは舞台上に首を伸ばし、自分の出番の緊張よりもレディ・マクベスの場面をいかに遅らせるかを考えていた。
 「あーもう、行ってくる!」 
 小道具を抱え、暗転に切り替わった中に所定の位置に出ていった。 
 舞台袖奥の扉からシュナイゼルが現れた。袖に彼がいないのにすぐ気づいた。
 「ノエルは?」
 「迷子を預けて、こっち向かってるって。……殿下は次の三場のご準備をなさってください」
 「インカムを」
 カノンの耳に装着するインカムを外すようシュナイゼルは手を差し出した。
 インカムは操作室のロイドに繋がっており、逐一連絡を取れるようになっていた。
 「……ロイド。ロイド、聞こえるかい。第五場の明転のタイミングを長引かせよう。ノエルの入りが遅くなる。……カノン。彼が到着したらロイドに教えてあげて」
 「Yes, Your Highness」
 インカムをカノンの手に戻し、シュナイゼルは衣装の裾を整えた。
 ヒースの荒れ野で三人の魔女達とマクベスが邂逅する場面だ。マクベスはそこで王になる予言を聞く。
 マクベスの友人のバンクフォー役とともにシュナイゼルはマントを翻し、袖から舞台へ出る。
 「曇ったり晴れたり、実にめまぐるしい日だったな=v
 「フォレスまではまだ遠い。あれは何だ、よれよれに着古したあのように異様な衣装。この世のものとも思えぬが……しかし確かにそこにいる――=v
 幸いシェイクスピアの作品は、戯曲の台詞による、修辞的で同じ意味を強調するために違う言葉を重ねていく味が、今は時間を稼いでくれている。リハーサルの時よりも、シュナイゼルの台詞はわずかに遅く感じた。
 劇は順調に進んでいく。カノンは何度か舞台の方を覗き込んだ。タオルとペットボトルの水、メイクセットをパイプ椅子に用意し、ノエルが着いたらすぐにセットして送り出せるように準備を整えて。ゆっくちと息を吐く。心を落ち着ける必要があった。
 この舞台の主役は演じることに注力するならば、裏方はすべてを支えきる。誰にもこの苦労は伝わらないが、光があれば影は寄り添わなければならない。

 ――……殿下とおなじ。
 その時、カノンは舞台でスポットライトを浴びる王をみた。
 マクベスが傍白を観客に向ける。みな、シュナイゼルに酔い痴れている。物語の筋などさして重要ではない。将来を約束された本物の皇子が、王になることがないと定められし永遠のプリンスが、終身王の影として生きることを宿命づけられた人が、王位簒奪のために王を手にかける。――物語という虚構の世界で。
 彼はたった一度であっても王≠ノ成る。
 その瞬間を、この日の観客達は刮目を永遠のものにし、時間を独占することができる。
 シュナイゼル皇子に投影される意味こそが、観客の見つめる物語だ。

 ――ほんとう。クロヴィス殿下のご指導の成果ね。
 普段その声音に感情がのぼることはない。
 いつもの近しい者でしかわかり得ぬ感情差分は、はっきりと喜怒哀楽を示す努力をしている。穏やかととれる抑揚のない声色は、いつもより一オクターブ上がっている。彼に小心者の王、マクベスは似つかわしくないが、それがかえって良い配役だったといえる。
 
 舞台袖奥の扉が開いた。断崖絶壁から突き落とされた被害者のようにノエルが飛び込んできた。
 「申し訳ございません……! いってて……」
 「ノエル! やっと来た。さっさと用意するわよ。はい、タオル。汗をふいて。メイクを直す。ウィッグも」
 調整をしながら素早くパイプ椅子に座らせる。ノエルは片足を持ち上げ膝を抱えた。
 次にストローを差し込んだペットボトルを渡す。ノエルは水分補給を終えると、アルコールスプレーを手にかけよく揉み込んだ。
 「水を飲んで」
 「ありがとう……はぁ……あー……疲れたぁ……」
 「これからよ。レディ・マクベス。袖に立ったらマイクのスイッチを入れ忘れないこと。……ロイド? ロイド、ノエルが到着したわ。今休憩させながら準備してる。明転は遅らせる。幕の切り替えもあるから、繋ぎにSE盛り込んでゆっくり明けさせて」
 [りょーかい。いいねえ。いい連携だ]
 ロイドの調子はこんな時でもいつも通りだ。カノンは次第に心拍数が落ち着いてきた。
 「足を打った?」
 「廊下でずっこけて。笑いものになったよ。女王様よりピエロになっちゃった」
 「歩ける? 支障は? 次こっちに捌けた時、処置をするわ」
 「平気。ひどくなったら言う」
 出番が近づいている。ノエルは立ち上がり小道具の手紙を拾い上げた。そこには本当に台詞が書かれている。
 「手紙に台詞全文書いててラッキー」
 「マイクをオンにして。……それじゃ、いってらっしゃい」
 にっと笑うとノエルは、レディ・マクベスとなり暗闇へと旅立った。
 舞台では全くの別人だ。
 稽古の時はあれほど笑い上戸で、クロヴィスに手を焼かせていたが、どこかにあるスイッチを押すとノエル・アストリアスという人物を消し去り漂白し、完璧なレディ・マクベス、あるいはマクダフになってしまう。
 恐ろしい才能を目の前にしている、とカノンは思った。

 レディ・マクベスはマクベスの手紙を読み終え、独白を挟む。その夜、帰城する夫マクベスを出迎える。ダンカン王がその後やってくる知らせを受け、マクベスに支配的な激励の言葉をかける――。
 進行表と時間は、概ね予定通りに噛み合っている。
 救急箱の用意をし、彼が次に戻るまで他の役者の着替えを手伝う。深夜まで続く舞踏会のようにめまぐるしい。

 レディ・マクベスはマクベスの瞳をじっと見つめ、その頬に手の甲で触れる。
 所作が線の細い女に。長い赤髪が、襟ぐりの開いた肩や胸に垂れ、男の線を隠す。
 「太陽はめぐっても、ダンカンの出立の朝は来ないでしょう。領主殿、あなたの顔は、本のようですよ。人はそこに異常なことを読み取ります。世間を欺くためには世間のように振る舞いなさい。目に、手に、言葉に歓迎の意をあらわすのです=v
 そしてレディ・マクベスは、母親が子に言い聞かせるように両腕を掴む。
 「王が来るからには、準備をしなければ。あなたは、今夜の大仕事はわたしの采配に任せなさい。そうすれば、来る日々に、王の支配と権力はすべてわれらのものよ=v
 「あとでもっとよく話そう=v
 「元気をだして。陽気に振る舞うのよ。顔つきが変わるのは、恐怖のせいです。わたしにすべてをお任せなさい=v

 マクベスの居城を訪ねてくる主君であるダンカン王を、マクベス夫妻は共謀し手にかける。
 殺人を終えたマクベスはその血まみれの短剣を握る両手をみて「これはひどい」と溢す。
 「酷いなどと、言わないで」
 マクベスは殺人に対してすでに後悔し始めていた。弱音を吐き、縮こまっていく。
 宙のあちこちに視線を投げかけ不安に陥っている。
 「まだ叫んでいる。屋敷中に響き渡る声で、もう眠れない、グラミス公は眠りを殺した、だからコーダ公はもう眠れない、マクベスは眠れない!=v
 「誰がそんな風に叫んでいるのです。まあ、立派な領主が、高貴であるべき方が、だらしなく気を緩めて、そんな他愛もないことを考えるとは。行って、水を掬って、その手についた汚い証拠を洗い流しなさい。あら、なぜ短剣を持ってきたのですか。あの場に置いとくものでしょう。行って、短剣を戻しなさい。そして、眠っている寝室係に血を塗りたくるのよ=v
 レディ・マクベスは扉の方となる舞台袖を指さし、ダンカン王の寝室係に罪を擦り付けるために部屋へ戻れと命じる。
 マクベスは顔を背け首を横に振る。
 「もう行きたくない。私がやったことを考えるのが怖い。二度と見たくない=v
 レディ・マクベスは両肩を持ち上げ、方向を指し示した指を、今度はマクベスの胸に叩きつける。
 「臆病者! 短剣を寄こしなさい。眠っている者と死んでいる者は絵と同じよ。絵に描いた悪魔を恐れるのは、子供よ。もしまだ血が流れているなら、私が係の顔に塗りたくってやる。そうすれば彼らの罪になるわ=v
 レディ・マクベスはマクベスの手に握られている短剣を奪い、勇み足でダンカン王の寝室へ向かうため一度退場する。
 舞台上のマクベスは宙を見上げ、何度も叩かれるノックの音に怯える。
 「あのノックの音は、どこからだ。物音がする度にびくびくするとは、私はどうしたのだ。この手の有様は何だ。私の目玉が飛び出しそうだ。海の神ネプチューンの全部の海を集めたら、この血を、私の手からきれいに洗い流せるだろうか。いや、この手が世界中の青い海を真っ赤に染めるだろう=v
 反対側の舞台袖で血糊を手に付け、レディ・マクベスは再び舞台へ戻る。
 レディ・マクベスは、朱く染まった両手をマクベスの前へ掲げる。
 「私の手もあなたと同じ色になった。しかし、私は怯えて青白くなったりしないわ=c…私たちがやったことを綺麗に拭うのに、少しの水で充分よ。簡単なことよ。あなたは真っ青ね、正気じゃないわ=v
 まだ悪に染まりきらぬマクベスは、良心の呵責から、死が偽物であることを願った。
 「この極悪非道の行為の恐ろしさを知るには、私を知らないことだ。……起きろ、ダンカン、ノックの音で目を覚ませ! ダンカン、起きてくれ!=v

 翌朝、ダンカン王の暗殺死体が発見される。
 マクベスはダンカンのあと王位に就き、罪悪感と不安に苛まれ、バンクフォーの子孫が次の王になるという予言を恐れ、暗殺を企てる。次第に狂気に陥り、圧政を敷くようになり破滅へと突き進んでいく。
 同様にレディ・マクベスも夫を唆しながらも激しい罪悪感を抱き――夢遊病の果てに錯乱に陥り自殺を図る。
 マクベスはひとり戦いに没頭し孤独へと身をやつしていく。魔女の言葉――女の腹から生まれた者には負けない∞バーナムの森が動かない限り敗北はない≠信じ込む。
 ダンカンの息子マルコムらがイングランドの援軍を得て反乱軍を組織し、マクベス討伐に向かう。
 進軍の際、兵士たちが身を隠すためにバーナムの森の木の枝を身につけたため、森が動いているように見える。
 最期は、帝王切開で生まれたため女の腹から生まれた者≠ノ該当しない貴族マクダフとの一騎打ちに敗れ、命を落とす。
 
 マクベスの野望は破滅に着地し、正当な後継者であるマルコムが新たな王として即位する――。 


 a.t.b.二〇〇七 18th December
 ペンドラゴン 帝国劇場 楽屋

 精根尽き果てた。
 ファンファーレとともにカーテンコールの大歓声。喝采。余韻は未だ醒めやらぬ。疲労感に肉体は悲鳴を上げている。
 ドレッサーの天板に頭を置いて目を瞑る。楽屋の扉が叩かれる音にくらりと意識が揺れた。
 「はーい。どうぞー開いてますー……よ……」
 楽屋にカノンが入ってくる。手にはメイク用品を詰めたボックスがある。
 「ノエル! このあと写真を撮るんだから。顔に痕をつけないの!」
 「早く帰らせて〜」
 写真撮影とメディアの取材が残っている。
 シュナイゼルだけが応じればいいものを。
 終演直後レディ・マクベス役もインタビューに同席するよう提案を受けた。マクダフ役で終わり、衣装を再びレディ・マクベスに着替えるための気力は残っていない。体は岩のように硬く重く、指一本さえ動かしたくない。
 また扉がノックされる。マクベス劇は終わっていないようだ。
 カノンが扉を開け、一気にトーンが沈下する。
 「あっ……大変、申し訳ございません。こちらに殿下は……」
 凛然とした冷たい響きが楽屋の空気を震わせた。
 「シュナイゼルはどちらに?」
 ノエルの体は即時大袈裟に跳ね起きる。
 カノンは目を見開き、その額には汗をかいている。象徴的な金色を持つ貴婦人は片眉を上げ「……レディ・マクベス?」と尋ねた。
 「……ご、ご案内いたします。アーデリント皇妃殿下」 
 ――まさか、こんなところで再会するとは。 
 
 「……殿下、殿下、殿下……!」
 バタバタと大股で大楽屋を挟んで隣室にある楽屋に飛び込む。
 シュナイゼルは取材のための準備を完璧に終えて、ソファで優雅に雑誌を読んでいた。
 後ろ手で扉を閉め、ふうと大きく息をつく。シュナイゼルはちらっとノエルの格好をみて、そのちぐはぐな格好を指摘した。
 「その格好で楽屋間を移動しないほうがいいよ。ケンタウロスだ」
 「いえ。そうではなくて。……皇妃殿下がお見えです」
 「母上が? 今年は精力的だねぇ……十中八九、お小言を言いに来たんだろう」
 扉が叩かれる。
 ノエルはドアを開け、アーデリントを迎え入れた。
 同時にシュナイゼルが立ち上がり、母親に近づき頬を重ね合わせ挨拶を交わした。
 「ご挨拶申し上げます。母上」
 「立派な楽屋ですこと。さすが帝国劇場。我が国の女優はみなこの劇場でスポットライトを浴びるのを夢見ているのよ」
 つられて楽屋を見回した。質素な部屋ではなく、床や壁、天井に至るまで高級ホテルの一室かと見紛うほど豪華絢爛である。
 「そこのあなた」
 「あ、はい。何でございましょう」
 アーデリントは楚々とノエルの前に立ち、品定めするように眺め回した。
 「……あなたね? 騒々しい人。私とのチェスを断った方」
 いっときの気まぐれで忘れ去られていると思っていたが、根に持っているようだ。
 姿勢を低くし、改めて皇族に対する最上の礼とともに頭を下げた。
 「ノエル・アストリアスと申します。皇妃殿下。……恐れながら申し上げますと、皇妃殿下とは面識がなく……」
 ノエルの言に、アーデリントはぴしゃりと叩きのめした。
 「今夏、貴殿をウィルゴ宮にお招きしたと聞いています。面識はなくとも、私の領域に立ち入ったということは、私と一戦交える口実も認められるとは思いませんこと?」
 「……ごもっともでございます」
 反論の余地などない。
 どうしてここまでアーデリントを恐れるというのか。
 それはただ一つ。七年前、姫様の代理でブリタニアへ婚約の挨拶に伺った際、なにがどうなったのか二日目以降ずっとお喋りの相手をさせられ、朝から夜は眠るまで、昔していた研究の話、ブリタニアの政治の話、家系と歴史の話、チェスの話に付き合わされた。
 この恐ろしい人を義理の母親にして終身付き合っていかなければいけないのかと。姫様を想うと、深く同情した。
 「冬季休暇に我が宮にいらして。お相手いただけますか? チェスの名手、アーバンド伯爵?」
 「名手というほどでは。ルルーシュ皇子殿下とのゲームに負けましたから」
 「あれは要らぬ横槍が入ったからでしょう。存じています」
 冷や汗が一筋。
 勝ち負けにあまり拘りのないシュナイゼルとは異なり、アーデリントは苛烈に貪欲に勝利を求める。その気質と物事の先を見据える力が、まだ皇帝でなく一皇子のひとりであったシャルルのもとに嫁ぎ、彼の二番目の男子を儲けたのである。 
 ――冬季休暇はやることがいっぱいなのに……!! シュナイゼル、助けろ……!
 アイコンタクトを送ると、アーデリントの背後で彼は肩を竦めた。首を横に振りながら笑ったので少し苛ついた。
 「……冬季休暇は忙しく……」
 「忙しい? ……ですって? あなた、我が子にドイツ留学で推薦状を書かせたうえで、用意した下宿先を断ったらしいじゃないの」
 「……殿下のお世話になりっぱなしはどうかと考えまして、自力で用意いたしました」
 アーデリントの冷ややかな瞳がより霜が降りたように凍りつく。
 ――……ああ。なんておっかない人。これだから会いたくなかったのに。
 「将来、降嫁先の殿方になるやもしれぬ人ではありませんか。はたして本当にふさわしい方か私が見極めて差し上げましょう」
 「降嫁?」
 ――一体何の話をしている。
 アーデリントはちっとも笑っていない瞳を細めた。
 「第二皇女殿下とはお親しいとか? 結婚相手には最上でございましょう?」
 「……コーネリア皇女殿下とは、夏季宮廷夜会で一曲お相手いただきましたが、それは誤解でございます」
 「あらあら。野心家ではないのね? 婚姻すれば爵位が手に入るのに。アストリアス公の世襲を待たず、貴殿は公爵になり上がれるという計算づもりはなくて? 大公爵も夢ではないのよ。父親を超えられる。ブリタニアの国是とは何たるかを教えて差し上げましょうか?」
 「……私は……伯爵の称号を持っていますし、時には禁欲的である方が慎ましく、相手の懐に飛び入るのに都合の良い時がありますよ」
 「ふふふ。口の巧妙い方ね。……それでは、休暇中の予定を仰って。私の方が都合いたしますわ」
 ――諦めてくれないのか……。
 渋い顔にならぬようなんとか堪えるノエルだったが、シュナイゼルが追い打ちをかけるように足を掬う。
 「ノエル。君は帰省しないだろう?」
 「……殿下」
 密約を忘れたのだろうか。捜査を早めろといったのはシュナイゼルだ。
 よく似た顔。母子の冷たい美貌。その圧力にくらくらと目眩がする。
 こめかみに手をあて、俯いた先に――あの迷子の少年が楽屋を覗きこんでいるのに気がついた。
 「やあ。ボーイ、また迷子? 迷子センターまでお届けしようか?」
 「女王さま!」
 少年アーダルベルトは楽屋に入りノエルに駆け寄った。
 それにしてもどうしてこの場所に、そう思った時、予想が頭を掠めた。
 「……もしかして」
 「紹介しよう。……その子は私の弟だよ。アディだ」
 「弟お?! やっぱり!!」 
 「そんなに驚くことかい?……アディ。久しぶりだね。こちらへおいで」
 シュナイゼルは床に膝をつき、弟を抱きとめると、軽々と持ち上げた。アーデリントは苦言を呈した。
 「シュナイゼル。そうやって抱き上げると抱っこ癖が直らなくなります」
 「寂しいんだろう。……重くなったね。母上の腕では支えきれないかな」
 ――いったい、いつの間につくったんだ。 
 「いくつなの?」
 「今年で六歳になる」
 ――……シュナイゼルが婚約した当時には生まれていない。
 道理で知らないわけだ。すると、順番ではルルーシュ皇子より順位が一つか二つ次だろう。
 「第十二皇子? 第十三皇子?」
 「第十二皇子」
 「ちょうど一回りだ」
 見比べてみれば、より似ているとわかる。年の離れた一卵性双生児のようだ。
 アーデリントが確認した。
 「あなたがこの子を送り届けてくださったの?」
 「劇場前でお会いしたんです。そこからインフォメーションにお連れしました」
 きつく睨みつける母にアディは雨に濡れた子犬のごとく萎縮し、シュナイゼルにしがみついた。
 「アディ。外に出ていたの? あんなに言って聞かせたでしょう。勝手にいなくなって!」
 「もうしわけございません。お母さま」
 精一杯の謝罪を口にし、少年は涙を擦り付けるよう兄の首筋に顔を埋めた。
 シュナイゼルはアディの言葉を思い出して尋ねた。
 「ところで、女王様って?」
 「エリザベス一世っぽいでしょう。赤髪と真っ白な肌が」
 「ああ、なるほど」
 言われてみれば、と彼は笑った。
 


 a.t.b.二〇〇七 25th December
 ブリタニア ウィルゴ宮

 開放された窓から粉雪が舞い込んではチェス盤の上に染みを作った。
 指で水滴を潰し端へ移動させると、軍事演習の作戦会議中の地形図に破線を引いたような濃い痕跡として残った。
 「雪が降って参りましたね」
 「開けておいてちょうだい。すこし冷たいくらいがちょうどいいでしょう」 
 ウィルゴ宮の女主人、アーデリントの私室は昔と変わりがなかった。家具の配置も、壁紙も、絨毯も、時が静止したままだ。クリスマスの皇宮にあるインペリアル・サロンでは皇帝の妃とその子供達が大勢集まっているそうだ。クリスマスは伝統的に家族のものである。
 そんな日に、家族外の部外者を招いて朝からチェスを指しているというのはおかしな話だ。
 アーデリントは皇宮とウィルゴ宮を離れ普段はロングアイランドで息子のアディと暮らしている。
 「なぜ、こんなに立派な宮があるのに、ロングアイランドにお住まいなんですか?」
 「……シュナイゼル。この方はいつもお喋りをしながらチェスをする方なのね? 学院の教会でチェスを行ったでしょう。あの時もそうだった」
 一人掛けの椅子に座り、足を組むシュナイゼルはチェス盤を上から見下ろして言った。
 「彼は普段通りです。母上」
 「そう。……プライベートの話をあまりしたくはないのだけれど」
 「答えたくなければお話しにならなくても結構です。ちょっとした興味ですよ。……皇帝の住まいにもっとも近い場所にいるほうが、安全で快適で、なに不自由のない暮らしのはずなのにと思っただけです。……私の推理では、厨房の火災が原因かと思っているんですが」
 テーブルを挟んでノエルと対面するアーデリントは、その中間でゲームの行く末を見守る息子を睨んだ。
 「シュナイゼル、話したのですか?」
 「夏の滞在時に、夜食が食べたいというので厨房を貸したんですよ。私は何も教えていません」
 「……なるほど。あなたが興味を持つ方というのはよくわかりました」
 アーデリントの私室の入口に侍女とともにアディが現れる。ガウンを羽織った寝間着のまま、暖炉の熱で温まった部屋の中央にやってきた。母親を呼ぼうとしてその表情の険しさに、近くにいる兄へ愛情の希求と切望を表現した。
 「兄さまぁ」 
 「お寝坊さんだね、アディ。よく眠れたかい」
 「ヴァイナハツマン」
 ヴァイナハツマン――ドイツ語でサンタクロースを意味する。英語よりも馴染みよいのは、普段から英語よりもドイツ語を聞いているからだろう。
 「眠っている間に来てくれたよ。そこのツリーの下をごらん」
 アディはゆったりと絨毯の上を走った。とてとてと拙い足捌きだ。
 シュナイゼルはアディとともにツリーの下へ行き、プレゼントを一緒に開けた。
 深く椅子に座り、次の一手を考えるアーデリントをノエルは見つめた。
 「……アディのためですか?」
 アーデリントは一睨みし、口角を持ち上げた。
 「あら。飛躍的な発想。探偵みたいだわ」
 「少し足を引きずっているようなので、後遺症がある?」
 彼女の笑みは固く維持されている。
 「適切なケアが間に合わなかったか、心因的な問題か。……ああ、お気を悪くされたら謝ります。……アディが大怪我を負ったからロングアイランドにあるご実家のあるルーヴェンフェルス家に移られた?」
 返事はない。ただ、興味深いというように知的な瞳が探っている。
 「正解ですね」
 くすりとアーデリントは声を殺して笑った。この人が笑うのは不思議な心地がした。
 「抱っこをねだるのは、寂しいからじゃないかもしれませんね。まあ、素人の雑感です。医師でもありませんし。……それでも気になるようでしたら専門医に相談されるといいでしょう」
 「なるほど、なるほど。……よくわかりました。……ベルリン大のグラーフ・フォン・グッテンベルクからの評価は、嘘ではないようね」
 「……ご友人なんですね」
 「ええ。一族が後援しておりますのよ。個人的な付き合いは私の方があるの」
 「……アディの皇位継承権を放棄させるんですか?」
 アーデリントの顔から表情が消えた。
 「その話はあなたには関係ないことよ。でも、正解」
 「貴女が聡明な方ですから。そうなさると思ったんです」
 「人の心を揺さぶるのがお好きなのね?」
 「揺さぶられたんですか?」
 「多くの人はそうでしょう。まあ本当に多弁家だこと」
 そうして次の一手を指し、ノエルの番が巡ってきた。シュナイゼルが好む王道の戦略はアーデリント譲りだ。しかし彼ほど静観を好まない。
 「あなたと似ている子を知っているわ」
 「……へえ。どんな方です?」
 「生意気で騒々しくて、賢い子」
 ノエルが駒を進める。
 「興味がありますね」
 「そうでしょう。……でも、あなたほど小賢しくはないわ」
 アーデリントが反撃に出る。
 「その方とチェスは出来ないんですか?」
 「簡単に会える方ではないわ」
 「そうですか。では、私でも難しいでしょう」
 ノエルが跳ね返す。
 「ですから第二皇女殿下と婚姻すれば箔が付くと言っているのよ」
 「本当にコーネリア皇女殿下とは何もありませんよ。やり取りもありませんし」
 アーデリントは時計に目を向け、テレビの近くに立つ侍女に命じた。
 「そろそろ時間ね。テレビを点けて頂戴」
 ティラナ王女のクリスマスメッセージに関する簡易的なニュースが流れている。
 ノエルとアーデリントはゲームを一旦中止し、静かに報道に耳を傾けた。メッセージの内容は昨年より内容が変わっている。その年の振り返り、国民への感謝、二十歳の誕生日を迎えたこと、来年の話――。昨年よりもメッセージの読み上げに堅苦しさは消え、顔つきも柔らかい。
 ――送った内容と違う。
 クリスマスメッセージを継続されるかどうか不安視していた。念の為カードを出したが、内容は『わたし』が書いたものより変更されている。良い変化が起きている。
 ――ご自身の言葉で国民に語りかけられるようになった。
 来年は送る必要はなさそうだ。来年がノエルにあるかは、不透明だが。
 アーデリントはニュースを脇に弟の相手をするシュナイゼルに呼びかけた。
 「お元気そうでなによりだわ。準備は進んでいるんでしょうね、シュナイゼル」
 「来年中には議会承認を受けられるかと」
 「なにもかも、順調ね」
 再開したゲームはトントン拍子に進み、あっという間にアーデリントに巻き取られていく。
 「チェック」
 「負けそうですね」
 「手を抜いてるのわかっているわよ。本気を出しなさい、あなた」
 勝ちを譲った。次の捜査の計画が、ノエルの頭を満たしていた。




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午前四時の異邦人
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