a.t.b.二〇〇八 February
ブリタニア ニューブリタニア ネクシウム・バイオ製薬
フロアには秘書や事務方が定刻通り仕事にあたっている。ネクシウム・バイオのコイルが動き出す。
上級職員と上級研究員を兼ねるふくよかな中年男。ウォルター・ミラーズは自身の個室デスクに向かう手前で、留守の間に溜まっているはずの郵便物を受け取るべく秘書に声をかけた。
「やあ。調子はどう?」
「ミラーズ上級研究員。学会出張お疲れ様でした。いくつかお手紙が届いていますよ」
「ありがとう」
今どきメールで済ませればいいものを――と思うが、重要文書の類は紙からの脱却は難しい。
ミラーズは束にして纏められている手紙を受け取る。ブラウンの髪を一つ縛りにした秘書の女性は弾む声で手紙について喋った。
「なんでも最近噂になっている挑戦者≠フラブレター入りだとか」
「挑戦者? ……もしかして、まだ学生の身でありながら様々な分野で粗探しの結果報告をくれる彼の話?」
彼は有名人だ。だが名前は知らない。耳にしたくもない。噂を鵜呑みにするわけではないが、極度の愉快犯か悪戯好き、大人の仕事を邪魔しかき乱す子供だと思っている。そんなのに付き合っている暇はないのだから。
心を読んだかのように、秘書は形のいい微笑みでミラーズを見上げた。
「ええ。子供相手のおままごとかと思っているとあとで痛い目に遭うかもしれません」
「どうして?」
「今すごくホットなんですよ? ご存知ありません? 昨年ドイツ留学ツアーでも好成績を残して、どこの大学に入るのか……研究所にいくのか、それとも貴族らしくブリタニアに残るのか賭けてるんです。みんな」
「彼、貴族? 恐れ入った。君はどれに賭けてるんだい?」
「アストリアス公爵の御子息ですよ。爵位をお持ちだとか。――私は研究所行きでしょうか。大学ですることなんてないでしょう? 研究所だって良いポストを用意するはずです」
貴族。
ぞっとした。特権階級の恵まれた子供。平民など眼中にない。特にこのブリタニアの階級社会は競争と進化を求められる。日の目を見るために日夜血眼になり努力を続けようやく、評価される時がやってくるか、卑怯な手段を使ってでも上流社会に食い込むしかない。
「へえ。参ったな。嫌いな貴族だ。かなりいイヤなほうだ。ただでさえ良いご身分で、才能にまで恵まれてるとなっちゃ、平民には立つ瀬がない。血豆の出来る努力をして築き上げてきた城を崩されているような気持ちになる。……ああ、彼、あの方に似ている」
「あの方?」
秘書が首を傾げる。彼女は入職してから四年だ。二十代の年若さを考慮すると、この業界が受けた衝撃を知らないのは無理もない。
「お姫様だよ。科学の王女様」
「……ああ、カストラリアのティラナ王女?」
「……あんなことがなければと思うよ。基礎と先行研究はほとんど彼女がやっている。我々にとっては幼い母親だ。巨人の肩の上に彼女が立ち、私たちがさらにその肩に立つ。狭く小さな場所に、ほんとうに所狭しと」
秘書は愛想よく微笑みを維持し、頷いた。あまり詳しくないのだろう。
しかし秘書なら知っておかなければならない話だ。
「ブリタニアは素晴らしい国だが、もう少し関心を持ったほうがいいぞ。おっと、これはパワハラではない。秘書という職務への助言だ。……みんなカストラリアでポストを得られたらと思いつつ、呼ばれる順番を待っているんだ。しかし、椅子は満席」
「特殊技能・職種に属する者に限り移民を受け入れている……という制度ですか?」
「それは知っているんだね」
「有名じゃないですか。一般常識ですよ。……カストラリアは反移民姿勢をとってる。人種の坩堝でありますけど、近年かなり絞ってやっています」
「セイル王治世で移民・亡命条件が厳しくなったんだ。先の代の火種は移民に紛れて協力者がいたからだとか。現在は肉体労働者の移民は受け入れていない。言語的、宗教、価値観の近い者――とはいえ公用語が三つもあればかなり寛容だ。宗教と価値観で篩にかけられる」
「移民受け入れには成功しているほうですね?」
「そうだ。摩擦係数を減らしている」
「ミラーズさんは問題ないんですか?」
「ご心配ありがとう。……宗教がないわけではないが、熱心な方ではない。国家の価値観は、王室がミックスだからより複雑だし、先王后陛下のポーランド系譜を考慮すると反移民に傾くのは理にかなっている。カストラリアも陸続きの国だ。専制君主制をやめたとはいえ、家族の情は伝染る。次代はどうなるかわからないだろ?」
「シュナイゼル殿下が?……ポーランドの子孫とドイツ・プロイセンの子孫……喧嘩になりません?」
「それはみんな思っているさ。ポーランドが国家消滅したのはプロイセンも一枚噛んでいる。再興したものの反独感情があるポーランド人も現ドイツ人もカストラリアの動向を注視している」
「……移民受け入れ枠が考慮されるかもしれない、ということですか?」
「ドイツはアレクサンドラ王妃時代から椅子があるが、ポーランドにとっては悲願だろう。王后がやってくれると期待していたんだが。そして、我々ブリタニア人も椅子の枠が増えることを願っている。だからシュナイゼル殿下には期待している」
カストラリアはいま一八世紀から一九世紀の旧欧州の勢力図戦争の真っ只中だ。平民の移民を止めれば、上流階級と中流階級が活発化し、戦争が激化する。
ミラーズは肉の多い顎に触れた。
「だが……所長が愚痴をこぼしていたっけな。王女の論文や未公開のものを欲しがっていたが……突っぱねられたとね」
「時期が悪かったんですよ。再度試してみればいいんじゃないですか?」
「話は甘くないさ。第二皇子殿下は味方だと思っていたら、首輪つきの犬だ。国益のためではないのか? ノーだ! 先祖は同じだ。異母姉弟だ」
「摂政殿下ですから仕方ありません」
まともな指摘だ。だが事態は思わぬ余波を生じた。
「風の噂だが、同様のケースは他でもあったらしい。それでどうなったと思う?」
「どうなった? どういう意味です?」
秘書は眉を顰め、ミラーズは一拍沈黙を置いた。
「火災だよ」
「火災?」
「殿下のお住いの……この帝国内で一番、クーデターやテロを恐れているはずのセントダーウィン通りでボヤ騒ぎ」
「まさか!?」
「幸い死者は出なかったそうだ。弟君が怪我をしたものの。……王女様の研究のおかげで回復は早かったそうだ」
立ち上がりかけた秘書は椅子に座り直した。
「そんな話、ニュースには……」
「するもんか! 血の紋章事件以降セントダーウィン通りはより一層閉鎖的になった。セキュリティ対策は万全のはずだ。それに穴があると証明するようなものだ」
秘書は同情のため息をついた。
「悲劇ですね。血の紋章事件でも、カストラリア王宮火災でも。そしてさらにご自分の宮で、ご家族を亡くすところだった」
「これが我が帝国とその祖イングランドの宿命だ」
ミラーズは束になった手紙を手に持った。
「さてラブレターを開ける前にコーヒーを飲むとするよ。眠くなりそうだからね。ははは」
「いってらっしゃい」
秘書に見送られ、ミラーズはエレベーターホールに設置されているドリンクサーバーに立ち寄った。
腕時計型の端末をサーバーに接触させようとした時、研究員の一人で後輩のデイビッドが肩をたたいた。
「ミラーズさん。お久しぶりです」
「ああ。デイビッド。君もコーヒーを?」
「ええ。眠気覚ましに。……ああ、奢りますよ。学会出張の話聞きましたよ? 英雄的行動。こっちでも盛り上がった。では英雄の凱旋に祝して」
デイビッドが腕に巻き付けた端末を接触させる。ピッと短い機械音が鳴った。
「それが、たった一ブリタニアポンドの安いコーヒーで?」
「じゃあこれから一週間、毎日奢らせてください」
「ははは! せめてランチにしてくれんか」
デイビッドは笑った。彼は機械内で淹れられたばかりのコーヒーを屈んで中から取り出した。
「それでもいいですよ。あっちの……スレイサイドにオープンしたレストランなんかはどうです?」
「ああ、あの北側にできた?」
ミラーズは自然と反対側の方に頭を向けた。
デイビッドはコーヒーをミラーズに差し出した。
「どうぞ」
「ああ。ありがとう。そうだ、デイビッド。出張前に私に尋ねたい話があると言っていたが……君のデスクに伺っても?」
「ええ。ぜひ、いらしてください。行き詰ってて。所長案件になるんじゃないかと思ってます。ご協力を」
ミラーズはコーヒーと手紙の束を抱え、後輩デイビッドの個室デスクへ入った。
口にコーヒーを含みながら、デイビッドの相談に付き合った。
カフェインを摂取したのに頭の回転は徐々に鈍くなっていった。その不調に気づいた時、デイビッドが「どうかしましたか?」と尋ねた。
「いや……もっとしゃっきりすると思ったんだが」
「疲れているんでしょう。一週間ほど有給休暇を取得されては?」
「それもいいかもしれん」
ミラーズは笑いながら、徐々に下がる瞼に抗いきれず、意識を手放した。
デイビッドはデスクに座り、暫く眠りこけるミラーズを眺めていた。そして、立ち上がり彼の服に手をかけた。
「あなたを拝借いたしますよ。ウォルター・ミラーズ博士」
a.t.b.二〇〇八 February
ブリタニア アルウィニア ACML医療財団・ブリタニア支部
ヨアンナ・カーソンはACML医療財団で経理部のシニアマネージャーだった。
彼女は不審な取引を告発するか迷っていた。表向きは寄付と称し多額の金をネクシウム・バイオ製薬に流し、見返りに高額な薬品類や医療備品の提供を受けていた。資材管理部にいる友人と結託し告発のために準備を進めていたが、数ヶ月前その友人が左遷されレイクカントリーにある病院に異動となった。
かわりに彼女の後に入った、マーカー・ステイドンがある日、ヨアンナに前任者の引き継ぎ書類に紛れて一冊のノートを発見し、告発の件を尋ねた。
彼は正義感ある人で告発の件も引き継ぐと申し出た。
今あるポストを失い、失職するかもしれないと尻込みするヨアンナに対して、マーカーは君の持っている情報を僕に託してくれるなら、すべて上手くいくよう手配する≠ニ言った。
ヨアンナはうまい話があるわけがないと思った。しかし、ヨアンナには気に食わない高圧的でヨアンナの部下に手を出した部長の鼻を明かしてやりたいと考えていた。部下はそれが原因で休職までし、皺寄せはヨアンナにも寄っていた。
ヨアンナはマーカー・ステイドンに託すことにした。
彼は言った。
――『ヨアンナ。君は左遷にあうかもしれない、だけど失職にはならない。すべてが上手くいくまで休職して成功を祈っていてほしい』
信頼できそうな広い額、笑い慣れている口角の皺。青い知性の瞳。
ヨアンナは告発のために持っていた書類を彼に渡した。
人事部のアンリが様子を見にヨアンナの左遷先――新しい職場となる、編纂室に顔を見せた。
「やあ、ヨアンナ。今日から休職明けだね。元気にしてたかい?」
「はい。おかげさまですっかり体調がよくなりました」
編纂室は資料整理という重大な仕事がある。あとはちょっとした小間使いに呼ばれるか、次の転職先を探す時間に充てるつもりでいたが、部長や彼が支援していた関係者は懲戒処分で解雇されたが、その証拠を持っていたヨアンナは減給にはなっていない。
「まさか君が部長に……楯突くとは思わなかった」
「晴れて今日から左遷です。……でも給与は据え置きらしくて。なんなら手当支給もあるんですよ?」
アンリは笑いながら段ボールをせっせと運ぶヨアンナに質問した。
「なにをしたんだい? ヨアンナ」
「……ちょっぴり、言えない話をちらつかせただけですう」
「おいおい、とんだ策士だな」
ヨアンナは同じ編纂室の職員に呼びかけた。
「国際人道支援機関と国際救援委員会――ICRの資料はこちらの棚でよろしいしょうか」
「ああ。そっちだ」短い返事がした。
アンリはどうにも納得しきれないのか、しつこくヨアンナに続きを求めた。
「……それで、なにをちらつかせたんだ?」
「そんなに気になりますか? んー。人事部にはお世話になったはずだし……特別に。資材管理部にマーカー・ステイドンっているでしょ? 彼のおかげなんです」
彼の笑いに困惑が混ざった。
「……すまない。ヨアンナ。それは、誰だ?」
「え?」
今度はヨアンナが困惑する番だった。
アンリは、次第に怪訝な目でヨアンナを見つめた。
「うちにマーカー・ステイドンなんて職員はいないよ」
ヨアンナの瞳は驚愕に染まり、大きく見開かれていった。
数週間も告発の準備を手伝った男は何者だったというのか。
a.t.b.二〇〇八 February
ネクシウム・バイオ製薬 第四研究所
デイビッド・ニールセンは今日は休日だ。
研究のために休日出勤し、軽く上級職員に叱られた。彼が今日やったことはそれだけだ。代休を来月に取得することになったが、本物のデイビッドは休みにもかかわらずまた出勤するだろう。
彼に変身したのはウォルター・ミラーズに成りすますには必要不可欠な工程だった。
第四研究所の施設内の別棟F。そこには一部の人間しか立ち入ることができない聖域が存在する。
別棟Fは無人だった。
それもそのはず、時刻は夜の二十三時。
小さな森をくり抜いた領域に、製薬の研究所施設は複数の建物が建っている。
人の息遣いよりも、動植物の気配が完全な無音をつくらせないようどこかに、常に忍び込んでいる。
ドイツで作成した偽装シートは改良が必要だと思っていたが、別棟Fのセキュリティを突破した。ブリタニアにあるセキュリティ専門に製品を手掛けるAKL社には、さらに対策と向上を図ったほうがいいと助言を与えたくなった。指を切り取ったり、眼球をえぐり出す必要がなくなるのは画期的だろう。KMFに搭載されているファクトスフィアのような情報収集用特殊カメラでも生体認証に特化しているわけではないし、今のところノエル――『わたし』の技術に死角はない。
『わたし』は上級研究員ウォルター・ミラーズに扮装し、また彼の生体情報を転写しF棟に立ち入った。
棟内は四階建。地下には三階。計七階層。迷わず地下行きを選んだ。
地下には重要書類を収める資料室や、研究に必要な備品、環境変化により成分劣化を防ぐための薬品庫があった。
地下二階は大型エレベーターが六基もフロアの中央左右に設置されていた。そして薬品に混じり腐った肉の残り香、アンモニア、硫化水素――消臭剤や防腐剤では間に合わなかった複雑で濃密な人体の腐敗の香り。
『わたし』は嫌な記憶のフラッシュバックが来ないように頭を叩いた。
――……このF棟には遺体の搬入出の形跡がある。
コールドルームに入室すると、更に奥に重々しい扉が待ち構えていた。
『わたし』はその扉を押し開け、中に入った。カストラリアの真冬を思わせる冷たい空間にはステンレス製の硬い感触が腰にぶつかった。解剖台だ。
台の上にはシートが被せられ、明らかに人型の形と思しきものが暗闇の中であってもわかった。
かちりと音をたてペンライトの光を点ける。
シートに手を伸ばし、頭部の方をわずかにめくりあげた。
言葉を失った。
名前の知らない誰かの青白く硬直した肩から腕、頬から首がシートの陰から覗いた。
ここは、病院でもなければ警察所でも、大学の医学部の解剖学教室でもない。製薬会社の研究施設だ。人体実験など行っていいわけがない。それにこの目の前のものは、明らかな遺体だ。
「……なんで、こんなこと……」
『わたし』はその遺体の手足に白いタグがついているのに気づき、ライトを近づけた。
NB→CA→RICA→NB
何かの暗号だ。
他の解剖台にのる遺体も同様に確認する。ある遺体にはCA→AL→NB¢シの遺体にもSAL→VA→NB≠ネどと記さている。
NB≠ェ必ず一番最後にくる。
「……地名?」
このネクシウム・バイオ製薬のある場所はニューブリタニアだ。
『わたし』はペンライトに仕込んだ小型カメラを作動させ、遺体とタグの撮影をおこなった。
遺体もしくは遺体になる前の人たちはあちこちに運び出され、この最後の場所に辿り着いた。この仮説が正しいなら、同様に複数の地に実験や、肉体の交換の手術を行っている?
――だとするなら、この場所の目的は何だ?
見渡す限り遺体ばかりだ。生存者はどこにもいない。ネクシウム・バイオの第四研究所の役割とは。
『わたし』はコールドルームを出た。非常口の明かりが冷たい廊下を照らしている。最深の地下三階へ下りると、鼻を刺激するにおいに気付いた。
『わたし』はそれが何なのかを察してある部屋に急いだ。
室内は暗く、どこの部屋でもそうだったように実験台、資料や備品、薬品が所定の場所に保管されている。
手当たり次第に薬品棚を確認する。刺激的なにおいの正体は培養や複製などに用いられるアルコール類、アセトン、特殊な有機溶剤の強いものだ。独特な、わずかに生臭さが特徴のそれは戸棚の中に平然と存在している。茶色の遮光瓶の表面のラベルに小さなペンライトの光を照射し、『わたし』は意図せずしゃっくりが出た。身に覚えのある薬品の名前がそこに書かれていたからだ。
――私の成果が……。
目の前の暗闇がより濃くなり、くらくらと目眩がした。
薬品棚の外の部屋に充満している。痕跡を残したままということは、ごく最近に使用があったということになる。
臓器培養、人工血液の作成に必要な特殊薬品――S.T.A.G.E. - 3 培養基質≠フ理論の考案者は『わたし』であり、その特許の権利はブリタニアにはない。
薬品棚を開ける。ペンライトに仕込んだ小型カメラを作動させ、遮光瓶を撮影する。薬瓶の裏ラベルには製造元国がカストラリアと製造元は提携先の大手製薬会社の名前が明記されており、これが輸入品であることは間違いない。
S.T.A.G.E. - 3 培養基質≠ヘブリタニアを含む世界中の病院、軍隊、大手製薬会社にライセンスは供与されている。わざわざカストラリアから輸入するということは――それを卸している人物がいるということ。『わたし』の研究に携わっている人間の誰か、提携する製薬会社、病院、あの恐ろしい行為=Aサナトリウム――。誰がこれを考えつき、こんなことを今も続けているのか。裏切られた心地だ。
――人を傷つけるために、研究をしてきたわけではない。
『わたし』は、サナトリウムだった養護院で彼女の言葉を聞いた。その証言を未だ信じきれずにいる。
恐ろしい想像が駆け巡り、思わず二の腕を押さえた。
『わたし』は勇気を振り絞って、遮光瓶の表と裏のラベルをペンライトで撮影した。
さらに戸棚を調べようと手を伸ばす。カタカタと震えて止まらない。もう一つの、重要な研究が悪用されていないかどうか、真実を目の当たりにするために、心臓が落ち着くまでに時間が必要だった。
靴音がした。
階段を下りる音。廊下を歩く音。部屋の扉の前に立つ音。
それはゆっくりと、記憶の扉を叩いた。あの靴音だ。思い出したくない。
嫌に染み付いたものが呼び覚まされる。
扉が不快な音をたて開いた。『わたし』は目を見開き、殆ど無意識に体が動き、拳銃を手にし、その者に襲いかかった。
「……おまえが……!!」
暗闇が動いた。顔もわからない、得体のしれない男。
七年前、『わたし』を収容所から出しサナトリウムに連れ去った嘘つき男。たびたび『わたし』の目の前に現れては、記憶を奪い去っていく男。
空気を裂く音の終わりに、ガラスが破裂する音が男の笑い声をかき消した。
『わたし』は闇の中を恐れず、気配を頼りに、男の背後に回り込み首に腕を回し、強く圧迫した。男はノエルよりも大きい体をしており、華奢ではなかった。
「……やるね……。面白くなってきた。……この力があれば捻じ伏せられると確信していたのに、あなたは違うらしい。何度もそれを打ち破ってくる。ゼウスとメティスの子。知恵と戦いの神、アテナのようだ。ゼウスは息子による王位簒奪を恐れ妻のメティスを丸ごと取り込み腹の中でメティスはアテナを育み、そうして……君が生まれた」
息苦しそうなのに、舌の働きは活発だ。首の中を通る気道と脈動が腕に伝わってくる。
「君は子供なのに、大人のように優れた知性を、メティスの知恵を、受け継いだ」
さらに締め上げると、熱い吐息が抜ける音が顔のそばからした。
「ぐ――ぬ、……ううう! 貴様……!」
抵抗の力は凄まじく、振りほどかれそうになる。急所である目か、喉、首裏のどこかに拳銃を殴りつけようと片腕を振り上げる。
銃底――グリップエンドで殴打すると男は激しく抵抗し呻いた。
夜間の第四研究所全体にサイレンが鳴り響く。男が応援を呼んでいたのだろう。
二発の透明な銃声が濃密な闇の中に溶けていった。
a.t.b.二〇〇八 February
コルチェスター学院 西棟・実験室
化学・生物学が共同で使用する実験棟は閑散としていた。
ノエルは生物学部の知り合いに頼み、実験室を難なく借りることができた。
凍りつく窓の外が銀色の鈍い輝きを放ち、雪が灰のように舞っている。
遠心分離機が回る。ぐるぐると。混濁する意識も取り込まれそうだ。
白血球から抽出するために。
細胞の分離、粉砕、タンパク質を分解させるために酵素を加え、さらに遠心分離機にかける。解析までに必要な作業は更に続く。地獄のような時間だ。ブリタニアには数時間で結果を出す効率のいい専用機器がない。さらに設備のレベルが低く、ゲノム解析や高度なデータ解釈は不可能で、すべて手動で確認が必要となれば、最低でもあと数日から一週間は必要だ。
だが、混乱の最中に第四研究所から盗んだS.T.A.G.E. - 3 培養基質があれば作業を二日に圧縮できる。一本でコルチェスターの年間の学費に相当する価格だ。
ノエルはパーティションを挟んだ向こうに置かれているソファに寝転んだ。棟内は温度を維持しているが、S.T.A.G.E. - 3 培養基質を使用するために実験室の空調を切っていた。
震えが止まらない。こんなことは珍しかった。寒さからではない。恐怖。底知れぬ恐怖、憎悪、哀しさ、怒り、不安。動揺――。
今までも、何度も困難にぶつかってきた。
――……私には、手に負えない。
問題は遥かに巨大で、一人での解決は難しい。
――助けがいる。強力な助けが。
ブラインドチェスで『わたし』はどの位置にいるのかようやくわかった。敵の位置も、守るべきキングも確定した。しかし、現実世界には引き分け――ステイルメイトはできない。地続きのゲームだ。
もし禁じ手を使うとするなら。盤上ごとを壊す手段を使えるなら勝算はある。机上の空論だ。それにはもう時間が残されていないのだから。
頭を抱えた。
「……あの子には負担を強いてしまう……」
シュナイゼルは今年から来年が正念場を迎える。邪魔をするつもりは毛頭ないが、反乱分子を一掃するにはタイミングは今しかない。女王には、栄光が待ち受けていなければならない。
証拠はたくさんある。そのために、危険な行動を何度もとった。今の遺伝子分析は確定的な証拠になるだろう。グリップエンドで殴ったところには男の皮膚片と血液が残っていた。
そして、次の大きな課題は亡命計画だった。誰にも見つからない場所に隠れるには、知り合いを減らしていく必要があるが、ブリタニアから脱出するためには、段階的な準備が必要だ。
あの男は暗殺期限を無視し、いつ襲ってきてもおかしくない状況になった。シュナイゼルに証拠を渡すのが先か、逃亡ルート確保が先か。
窓の外の雪が雨に変わった。
a.t.b.二〇〇八 February
コルチェスター学院 ノーサンブリエ寮 代表室
独立回線で接続したカストラリア王宮侍従長の執務室は、早朝の闇が射し込んでいる。
熱めの紅茶を飲みながら、侍従長ハーゲンは細々とした報告を行っていた。
「雨か……」
シュナイゼルは、ふと背後を振り返った。ちらちらと舞う影の早さが変わったからだ。
通信画面の先のハーゲンを向く。本物のティラナが送ってきた王室宛のクリスマスカードについて話し合っていた。クリスマスの日に放送された、クリスマスメッセージ動画に読むべき文章が用意されていた。
もちろん端書きにはラテン語の言葉がある。
彼女はまだ生きている。カードの隅にはFestina lente=\―ゆっくり、急げ≠ニあった。
帝政ローマ初代皇帝アウグストゥスの言葉の引用だ。
良い結果に早くたどり着くためには、目の前のことを慎重かつ丁寧に進めよ、という意味になるが、ティラナがマルカの自己認識であるなら、偽のティラナ≠励ましている言葉なのかもしれない。
「カードの投函場所はどこから?」
[はい殿下。どうもヴァラグラードからのようでございます]
「ヴァラグラードはカストラリア中部だね。……投函日時は?」
[十二月二十日です。ヴァラグラード、フォンス・ヴァッレ郡の直営郵便局から投函されています]
「そう。監視カメラの解析は?」
ハーゲンが困ったように眉を下げた。
[それが二人組の女性でして]
「二人?」
[その二人は翌日にはブリタニアへ渡っています]
「その二人の情報を送って」
ハーゲンは手元を操作し、シュナイゼル宛てに解析を行った映像を送信した。
ファイルを開き、映像データに目を凝らす。
[どこからどう見ても、姫様のお顔とは言い難く……]
「情報照会するよ。彼女たちを捜索させる」
[はい。殿下]
ハーゲンのいうように二人組の女性の背格好はティラナと異なる。昨年の映像解析データの姿形とも違う。ティラナ本人も変装は行っているはずだが、身長がどちらも低いようにみえる。私設捜査員に映像データを飛ばしながら、クリスマスメッセージについての疑問を口にした。
「ところでハーゲン。クリスマスメッセージはどうして、内容を変更して読ませたんだい?」
[……マルカ様がどうしてもとこだわられて、急遽変更となったのです]
「……ふむ」
ティラナの書いた文章を、そのままに読ませなかったことを責めているように感じたのか、ハーゲンは申し訳なさそうに首を竦めてティラナ≠擁護した。
[姫様がお戻りになられぬかもしれぬと、覚悟をお決めになったのやも。……近頃は熱心に勉強の時間も増やされて、見違えるようです]
「良い変化だね。議会と枢密院には予定通り進められるよう、審議の催促を頼んだよ」
[はい。殿下]
ハーゲンは手元の紙にメモを書き込み、ローディックの話題を出した。
[……ローディックの捜査は飛躍的に進みましたな。優秀な捜査員を雇ったのですか?]
「ああ。……集めた金を信者から信者の口座に繋げて引き出していた。入口と出口が繋がり、……おかげで国際捜査にまで持ち込めるようになった。ブリタニアでも漸く本格的な捜査を進められるよ」
マネーロンダリングの事件化は捜査機関を通してすでにカストラリアとブリタニアの金融界隈からは公表を控えるようにといわれている。事実、パニックどころではないだろう。ブリタニアはカストラリアに引っ張られて信用失墜は不可避である。連鎖的な金融危機――金融恐慌のリスクを孕んでおり、銀行の倒産もあり得る。
同国銀行が密に連携し協力体制の構築を行い、金融庁への報告を行わせているが、事件化を避けるのは困難である。マネーロンダリングは事前予防でしか対策は存在し得ず、起きてしまったことに対する補償と看板の傷の修復はより長期的になるだろう。
シュナイゼルの沈黙に、ハーゲンは気遣った。
[……殿下]
「各銀行が倒産した場合の対応策は考えたのだけれどね。ティラナの資産を動かさないといけない」
[インペリアル・スローン銀行のものですか?]
「うん。……私はまだこちらで口座が持てないからね」
王宮復興には私費を捻出できたが、民間金融業の支援は著しい内政干渉となる。
「国有化させるか、新設銀行に引き継がせるかだが、信用の担保と回復のためにティラナの資産で国債を買い取らせよう。その年の収支が悪化するだけで次年度以降には立て直せる。立憲君主制としては悪手だが、彼女はまだ戴冠式で君主になってはいない。それに、過渡期である今なら可能だろう。一時的な措置に留めることを念頭に」
「……各方面に申し伝えますか?」
「うん。そうだね。議会や枢密院には彼女はまだ王女だ≠ニ言って押し通すように。事件化と国家の金融危機には有効なカードだし、同時に発表させる手も悪くない。……ブリタニア側については私が吸収するよ」
「はい。殿下」
「発表を早めて早期解決をさせよう。戴冠式と婚礼前には潰しておかなくてはね」
時間との勝負だった。問題はマネーロンダリングで済めばいいが、もし他にも重大な問題が隠れていたら厄介だ。
それを正確に把握し、ブリタニアを含めた他国へ、一斉捜査をかけるには大義名分が必要だ。事件化には人々の視線が増え、抑止力と圧力を生じさせる効果を持っている。
解決方法は先王の目指す方向性に逆らっているが、致し方ないとシュナイゼルは割り切った。
「いやはや。時代が逆進しているね。国王陛下に叱られてしまうよ。ははは」
[これで王室の権威は守られますし、国民の愛国心は育つかと]
「未来への投資だ。彼女の地位はこれで盤石になるだろう。なにより、反乱分子への締め付けにもなる」
一つに、経済・外交的成果と国家信用の回復。ティラナの資産の収入源は世界中にある。安定的な収益により買い支えること、それ自体が銀行は世界で最も安全な銀行≠ニなる。カストラリアの国家的地位と安全性はこれで解決される。
二つに、銀行を国有化することで国内の金融取引の監視へのアクセス権を握り、反乱分子の動きは筒抜けになる。事件化すれば銀行は割りを食うが改善命令を受け入れ、抜本的にシステムの改善や規制が進むため、抜け穴も封じ込めるようになる。
三つに、絶対君主制=\―国民の支持、貴族の支持を得る。税金ではなく王女――次期女王の私費で賄われることは忠誠心となって還元されるだろう。一石三鳥である。
「あの子には事情を説明して、サインを書かせておいて」
[出来るでしょうか]
「それも影武者の仕事だよ。拒否権はない。摂政は私だ。ティラナなら迷わずそうするだろうね?」
[承知致しました。殿下]
ハーゲンは伝達事項をメモにまとめていった。
[……さらなる問題は、サロニア公の証拠が乏しいことですな]
「それが、大いなる問題だ。余罪はまだ掴めない?」
[難航しております]
「うん……では、彼次第だね」
[その捜査員の方ですか?]
「マネーロンダリングの尻尾を見つけたのは素晴らしい功績だ。彼には引き続き捜査を行ってもらっている。急かしたから、もうそろそろだと思うよ」
ノエルは非常に良い結果を残した。
彼がただのカストラリア国民であれば、称号を授かるだろう。――だが、ノエルには疑念が拭えていない箇所が残っている。
契約どおりの仕事をこなしたに過ぎず、ローディックへの関与を含めて、ブリタニアでの活動とその政治思想と真の顔は謎のままだ。掴みどころのない青年。――どれだけ会話を重ねても、虚空を掴んだ感触が残る。つまりそれは、触れたような気のする錯覚だった。
ハーゲンがシュナイゼルに今後の予定を訊いた。
[来月の春季休暇にはカストラリアに?]
「そのつもりだよ。いろいろと準備がある。その時に審議の結果などを聞きたいね」
[はい。殿下]
定例となった映像通話はそこで終了した。
雨は本降りになっていた。
凝り固まった筋肉を解し、シュナイゼルは椅子から立った。窓の外――ノーサンブリエ寮付近にあるベンチに見知った影がみえた。
「ノエル」
ベンチは背を向けている。シュナイゼルの場所からは背中しか見えない。
彼は白衣姿のまま、静かに雨に打たれ、項垂れていた。
「傘をさす雨だよ。この雨は」
黒い紳士傘の中に入れられたノエルは持ち主を見上げた。
パラパラと布地に打ち付ける小気味よい音。銀色の光が血色を暗くしている。ノエルの体は水気を吸い小さな少年に見せた。
「なにかわかったかい」
「……いや。たまたま通りかかったんです。……ぬか喜びさせてしまいましたね」
そう言って、ノエルは立ち上がる。ふたりは出会った頃からあまり目線に変化がなかった。同年代の男子のなかでも頭一つ分飛び抜けていると、数カ月であっても他の生徒との身長差の開きが大きくなる。
「顔色が悪い」
「天気が悪い」
くしゃっと顔を歪めて、言葉を吐き捨てた。
毛先から滴り落ちる水が頬に細い筋をつくる。泣いているように見えた。そして、反対側の頬に貼られたガーゼの下の傷に水が滲み込んでいった。
彼は、シュナイゼルを試すように睨み、そして懐に隠していた透明のビニールに包んだ封筒を差し出した。
「……はいこれ。ACML医療財団に関する資料です」
「ちゃんと用意しているじゃないか。……寮へおいで。温かい紅茶を淹れよう」
代表室で一緒に紅茶を飲むのはいつぶりだろうか。
給湯室で薬缶を火にかける間、ノエルは一度も口を開かなかった。静かだ、と思うのも随分久々に思える。隙間を出来るのを防ぐようにいつも彼は何かについて喋っているから、今日は特別な話が始まりそうな気がした。
ティーセットの準備を終え、いつものテーブルについた。
ソーサーにのせたカップに紅茶を注ぎノエルの前に置く。彼は執務机の向こうの大きな窓の外に顔を向けていた。どこか無気力で覇気がない。
「その怪我は?」
「……朝方ドアにぶつかって」
「シートは? 必要なら持っていくといい」
額に陰をつくり、苦々しげに口元を歪めた。緩く顔を振っては提案を拒んだ。
シュナイゼルは濡れたビニール袋から封筒を、その中身の紙を確認する。ローディックの頃より真面目な報告書だった。
要点は、ACML医療財団が多額の金をネクシウム・バイオ製薬に流し、見返りに高額な薬品類や医療備品の提供を受けていた。同財団の資材管理部はそれらの物量を、経理部では数字の誤魔化しがあったというものだ。現在他の捜査員では上がってきていない情報。自然と口角があがった。
「ネクシウム・バイオ製薬の方はどうだい」
「今精査中です」
「精査中? 捜査は終わったということかい」
「……精査中なんです」
ノエルの声は掠れていた。
彼にとって都合の悪い情報でも掴んだというのか。それとも、彼自身が関係している悪事なのか。
「知っていながら明かせない内容とは、なんだろうね。情報を歪めることは信用を損ねるよ、ノエル」
「はっきりしていないんです。ただ、それだけ」
そうして俯いた。赤銅色の液体の中で、暗い影の塊となった。
「私はまだ疑っているんだよ。君が……このACML医療財団やネクシウム・バイオ製薬に寄付している事に関して。……そのうちしっかりと話を聞いてみたいとは思っていた。……莫大な金額だ。とんでもなくね。然るべき理由をお聞かせ願おうか。……それで、どうしてこんな事をしたんだい?」
ノエルは神妙な顔つきで、ゆっくりと言葉を選んでいった。
「……どうしても会いたい人がいるとしたら、どれだけのお金をかけられると思いますか」
「哲学的な話かい? 真剣に答えてほしいね。釈明をしなさい」
彼はようやくシュナイゼルの瞳を捉えた。
「愛の話ですよ」
愛――多義の司る究極の概念。
「抽象的な話だ。神学的でもある。はぐらかす気かい?」
「愛の話です。殿下」
念押しするように、もう一度繰り返した。
「愛のためにお金を積んだ。それが答えです」
その感情は、複雑な色合いをしている。
「陳腐な理由だと思いました?」
痛みを逃がすようにへらりと笑い、またシュナイゼルから視線を外した。
「騙されていた、ということかい?」
「……ええ」
暫く考えて「すこし、肩透かしだ」とシュナイゼルはこぼした。
「……殿下は、愛や恋だとかには興味がなさそうだ。まあ、無意味か。結婚も義務でしょうし、国益のためだ」
「すまないね。君ほどロマンチストではないんだ」
彼の感傷は、失恋というものらしい。
まだ別解があるのではないかと、表現を変えて確認する。
「それで、その莫大な富の、望む成果はなかったと」
ノエルは閉口し表情が消えた。だが、一瞬のことだった。無理に押し込めるように、傷を誤魔化すように、笑い飛ばした。
「大博打ですよ。惨敗です。……はは。でもこれも若気の至りで済む。いやあ、手痛い損失ですよ」
「浮名流しのツケが回ったね」
「仰る通りです。あはは、……はあ。厳しいなあ……結構へこみます。一週間くらい引き摺るかも」
「短いね」
シュナイゼルはカップを持ち上げて、紅茶を飲んだ。
「ネクシウム・バイオ製薬の精査が終わったら、次の捜査を頼みたい」
「次? まだあるんですか? 契約分が終わったんだから、次からは報酬もらいますよ」
「それで構わないよ。損失分を補填すればいい。……喫緊でね。なるべく早く報告が欲しい」
今のところノエルより優秀な捜査官は手持ちにいない。裏切る可能性があるならば、そうさせないように縛りつける。今は金だ。お安い御用だ。ティラナを見つけるには、手持ちの時間のほうが少なかった。
ノエルは軽やかに眉を上げ、ソファに仰け反った。
「で? 次の捜査はなんです?」
「ある女性を捜してもらいたい」
「女性……まあ、詮索しません。殿下が他に女性を作ろうがなにをしようが」
「……二人組の女性でね」
「二人? それはまた。派手な遊びですね」
ノエルはやっと、紅茶の入ったカップを持った。
「そういうものではないよ」
カップを置く。
執務机の引き出しにある封筒を取ってきて、写真を数枚をシュナイゼルはテーブルに並べ置いた。
ノエルはそれぞれの写真を手にし、顔の特徴を覚え込むようにじっくりと見つめた。
「ふうん」とノエルは声を漏らした。
「その二人だ」
「……まあ、いいですよ。詳細があれば教えていただけますか?」
「二人ともブリタニア人だ。滞在場所はエリア四のカストラリア。中部ヴァラグラード。……フォンス・ヴァッレ郡の直営郵便局。出口付近の防犯カメラ映像でね。……そしてこちらが空港でのセキュリティスキャンの映像とID情報だ」
封筒の中にある資料を並べていく。ノエルは一枚一枚読み、質問を続けた。
「二人は何をしたんです?」
「この二人は数日の滞在期間の間、所定のホテルに一部屋を借り籠もりきりでいた。二日目の正午過ぎに郵便局である一通の郵便物の郵送手続きを行った。宛先はカストラリアのリダニウム。国際便を使えば届くものをわざわざ……渡航し、窓口で郵便物を出している」
「他にはなにもしていないということ? 観光も?」
「そう。なにも」
紅茶をもう一口含み、ノエルは右の口角だけを持ち上げた。
「……奇妙ではありますね」
「そうだろう」
「脅迫状でも送られてきたんですか」
「ある意味においては、脅迫状だね」
「……いいですよ。承ります」
「助かるよ」
簡素で味気のないやり取りが、会話の終わりを出迎えた。
今日は潮時だと雰囲気が物語っている。ノエルは腰を浮かせ、写真を指に挟んだ。
「写真は拝借してもいいですか」
「どうぞ」
「ごちそうさまでした」と告げ、乾かすためにソファの背にかけていた白衣を腕にかけた。
代表室の扉の前でノエルはもう一度、シュナイゼルを振り返った。
互いの視線が空中で交わる。忘れてしまないように「精査が終わったら報告を頼むよ」と釘を刺した。
「驚くと思いますよ」と痛みに耐えるようにまた苦く笑う。
冷たい色の光が代表室を淡く漂っていた。