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a.t.b.二〇〇六 September
帝立コルチェスター学院・ケント寮
シュナイゼルの手腕は見事だった。
それは評価せざるを得ないほど、完璧だった。
帝立コルチェスター学院編入から早一週間。ケント寮に入寮したのは運が良かった=B何にせよ憎い男の顔を四六時中見なくて済むだろうと安心していた。いっそ間抜けだった。想像よりも早く目をつけられてしまったことに寒気と鳥肌が止まらなかった。
シュナイゼルに中央寮のノーサンブリエに呼び出され、転寮を迫られた。彼の薦めは学院規則と国是の理に適っていたが、あの常に演出された優しい微笑み≠ニ多数の信奉者達を相手に暗殺計画を実行するには障害だと感じたからだ。彼の味方の多い――いわば敵陣の中で悟られないように生活をするには至難の業だ。
ケント寮の奨学生は一見品行方正の響きを持つが、実際は骨肉の争いと嫉妬と暴力が蔓延っていた。
金持ち喧嘩をせず≠ニいわれるが、力を是とし這い上がることを認められた帝政国家のなかで暴力はある種黙認行為の一つであり、同様に裕福な生まれであろうともさらなる高みを目指して行使する人間はごまんと存在した。
ちょうど今、同級生の男の一人が、まさに今、ノエルの頭を鷲掴みにし地面に叩きつけたように。
「……くっ」
そしてバケツに入った氷水をガラガラと豪快な音をたてて振り落とした。購買部で自費購入したばかりの新品のシャツはあっという間に水を吸った。
「ははっ……どうだ? 新入り、美味いだろ? ここの水は地下水でな、よぉく冷えてるんだ」
「ったく、出しゃばるなよ。あのノーサンブリエ寮に楯突くとか俺達にもとばっちり食らってしまうじゃないか。おい、聞いてるのか!?」
「やめとけ、やめとけ、あんまりやり過ぎると第二皇子様がお怒りになるぞ」
口々に言葉を発し、同寮生たちはノエルの体を蹴った。暴力に慣れていたが苦痛を感じないわけではないため息苦しかった。うつ伏せのまま抵抗もしないノエルに不満なのか、誰かが苛立たちを隠さず吐き捨てるように言った。
「なんだよ、なんか言えよ」
誰かがノエルの胸ぐらを掴み上げた。先日ノエルがシュナイゼルにしたように。因果応報だと思った。そのまま唾を吹付けてせせら笑いまた地面に体を叩きつけた。仰向けにされ、数人がかりで体を洗うように足先で揉み扱かれる。
朝目覚めた時から寮管理の大型倉庫の端で仕置き≠受け何時間が経っただろう。
倉庫内の高い位置に規則的に並ぶ四角い窓からは雲一つない青々とした空が映り込んでいる。
「おい! 今すぐそいつを叩き起こせ! ノーサンブリエから呼び出しだぞ!」
遠くで誰かが急いで呼びにやってきた。声は上擦り、焦っている。洪水ですぐそこまで水が迫ってきている時のような切迫感に仕置きに興じていた同寮生達に緊張が走る。
「は? おい、どうするんだよ。呼び出しって……殿下だろ?」
「他に誰がいる! チクショウ! なんでこんなに痛めつけた!? 貴様ら愚か者! 私闘は規則違反だ! クソッ……能無し!」
大股で呼びに来た奴が近づき、打ちっぱなしのコンクリートの上で伸び切っているノエルを見るなり悲鳴を上げた。ノエルの体を抱き起こし親切にも「医務室へ行こう」といった。
「寮長には既に報告済みだ! 私の携帯には証拠映像だってあるぞ! わかったなら大人しくケント寮へ行くのだな!」
バツの悪そうに同僚生達は舌打ちし、助けた彼を睨みつけた。
ノエルは霞む目を擦り、肩を支える彼の胸につけているバッジがケント寮の寮紋ではないことに気がついた。
「……どうもありがとう。……マーシア寮生。わざわざ……いやハッタリを?」
「私は嘘はつかん。先日騒ぎになっていた君が寮内でも危うい立場になることはわかっていた。……助けるつもりはなかったが無抵抗を貫く者には慈悲を与えようと思っただけだ。それに呼び出しがあるのは本当だ。レックス寮長が通りかかった私に頼んだからだ」
「あなたは勇敢な人ですね」
翡翠を墨で沈めたような色合いの髪は整髪剤で整えられ、その精悍な顔つきに相応しい意志の強そうな眉がくっと上がる。薄い唇にふっと微笑が浮かんだ。
「君は誰にでも噛みつくような人間でないようだ。……さあ立つんだ。医務室へ行こう」
倉庫から外へ出る。陽射しが燦々と照りつけ下着同然のシャツから剥き出しの腕をジリジリと焼いた。「お名前は?」と質問をするだけで腫れ上がった頬が引き攣った。
「私か? ……私はジェレミア・ゴッドバルトだ。お察しの通りマーシア寮で、監督生を務めている。君の名は有名だから名乗りは結構」
「悪名高い、ですね?」
「もちろんだ」
ジェレミア・ゴッドバルトは監督生というから、特例で監督生を務めるある第二皇子を除いて一つ上の上級生であることがわかる。最高学年は監督生ではなく進路を優先するため大きな役職は就かず顧問役になるからだ。
「ありがとうございました。ゴッドバルト監督生」
「ああ。レックス寮長には医務室へ伺うよう連絡する。では達者でな」
ジェレミア・ゴッドバルトはノエルを医務室に送り届け、背筋を伸ばし颯爽と去っていった。
◇ ◇ ◇
午後十五時。
鎮火する予定だった問題は昨日の今日でさらに大事になっていた。
中庭の噴水で奨学生によるシュナイゼルへの非礼は火に油を注いだ。現場に多くの目撃者――生徒達がいたからにほかならない。昨日の十五時から開かれた代表会議の審議では『妥当な内容』、『目撃者の立証可能』、『記事の取り下げ・修正こそ表現の自由の侵害』など彼を擁護しようものには反論が待ち構えているような列挙に珍しくシュナイゼルは苦笑を漏らした。
事実――ノエル・アストリアスの態度は異様なほどシュナイゼル・エル・ブリタニアを敵視している。
――『殿下にお心あたりはございませんか? 学内での親交ではなく、たとえば晩餐会や宮中行事での……』
など、正しい指摘を貰った。シュナイゼルに表立って敵は少ない。とりわけ表向きにシュナイゼルは未成年皇族で公務とて第一皇子オデュッセウスほど精力的に貢献しているとは言い難い。相談事を受けることは多々あれど準公務に留まるあくまでブリタニア帝国内に限った話では。
――『……お集まりの皆様もご存知のとおり、私は皇族の立場もあります。ノエル・アストリアス……いえアーバンド伯爵との接点は記憶にある限り皆無です。彼の一方的なこだわりでしょう』
――『では、なぜ……? いささか不躾な質問をいたしますが……恋敵……などでは?』
――『恋敵……? なんでしょうそれは』
学院内一の広々とした会議室にはシュナイゼルのほか、理事長をはじめとして教官、出版社責任者、各寮代表生徒。新聞部生徒、第三者委員会の書紀係が出席しテーブルを囲っていた。新聞部部長のアッフェンはかなり情報通のようで先の質問を繰り出し、その意図を明らかにした。
――『殿下には数々の婚姻の御申込が届いているともっぱらの噂です。アーバンド伯爵は恋多き男として有名で……』
――『そうなのかい? それは知らなかったな』
ノエル・アストリアスのあの緊張感を持つ表情、頑なな態度。あれが女性に評価されるものとは思えなかったから意外だった。婚姻の申し出についてはたしかにアッフェンの述べた通りで情報通は伊達ではないようだ。
――『つまり……私宛てのご令嬢の中にアーバンド伯爵の想い人が隠れているのではないかと言いたいんだね?』
――『はい。……しかし……殿下は、ご婚約中の身の上であらせられますし――お返事を返さないとか』
アッフェンが口にした時、会議室の中が騒然とした。
シュナイゼルが視線を巡らせる。サセックス寮の監督生イールデットは隣に座っていたイースト・アングリア寮のラドンに何か挑発めいた事を言ったのかラドンが激しく罵り返したところだった。
――『静粛に。個人的な話なら私があとで承ります。……ですが、立場を明確にしておくために私の話をしましょうか。仮にアーバンド伯爵がご令嬢を通じて恨み節を持っているとしても、私は生涯をエリア四に捧げるつもりでいます。仰りたいことは多々あるでしょうが――彼の恨みはお門違いということです』
シュナイゼルの宣言にラドンはあからさまに落胆した。彼には妹がおり、恐らくは何度かシュナイゼル宛てに申し出を行っていたようだ。その他の者もシュナイゼルが現状その身を国に捧げていることは知っていた。婚約者となっているティラナ・ヴァル・カストリア王女は長きに渡り病床に伏しており――統治者の務めをシュナイゼルに委任している状態にある。第二皇子は未成年皇族ではあるものの実質一エリアの総督以上の務めを果たしている。だが本国にいる貴族達の間では下衆の勘繰りでカストリア王女の命が短く世継ぎも望めず婚約関係は近々解消されるのではないか――といった噂が流れている。ラドン家のように将来を見越してアプローチをする者が絶えずにいることも、貴族階級なら誰でも知っているゴシップだった。
――『再度、私のデスクに届いているラブレター≠確認しますよ。また本人と話し合いも行います。ひと言申し上げておきますと……新聞部部長のアッフェン。君も矜持があるならば三流のゴシップ記者に成り下がらないように……かな』
――『……! は……はい……』
――『今の私の発言に物申すなら記事にしてくれて構わないよ』
アッフェンは焦りの混じった微笑みを浮かべわかりやすく縮こまった。シュナイゼルは制服の懐にある懐中時計を確認し時刻が予定よりも一〇分も過ぎている事に気づき立ち上がった。理事長が倣って起立し、残りの面々も席を立った。
――『さあ、皆さん。お集まりいただき感謝します。長々と私の与太話にお付き合いいただいたことにもね。今後もアーバンド伯爵の一挙手一投足に賑わうことが増えるでしょうが……彼を迎え入れましょう。情け深くね』
シュナイゼルの言葉を合図に出席者達はゾロゾロと開放された各扉の前に並んだ。
◇ ◇ ◇
ノエル・アストリアスが引き起こした問題の鎮火はまだ先になりそうだ。
「やあ、私だ。……確認してもらいたいことと、手続きをとってもらいたいことがあってね。時間はいいかい。ああ……」
代表室に戻ったシュナイゼルは帝都ペンドラゴンにある住まい皇宮に自分宛ての手紙が届いているかどうか問い合わせた。先週一度確認した際捌き切った二三七通よりは少なかったが一二九通の手紙が届いていた。手紙の内容はほぼ外交に関するもの、エリア四の内閣からの問い合わせ、出資している研究機関の査読がメインでラブレター≠ヘかなり絞られる。侍従長の確認では新規のラブレター≠ヘなく、既存の五七通。一九人の女性達に絞られた。
シュナイゼルは皇宮の侍従長との通話を続けながら、手元にあったリモコンを操作し代表室に設置された一台のテレビを点けた。
視聴するのは国際報道ばかりで民間のバラエティはすっ飛ばす。衛星放送で各国が公に報道する内容をチェックし、世論の反応を確認するのが主だった。
「ああ……返事は書かなくていいんだ。確認を頼むよ。名前をリスト化して。さらにその中のご令嬢達の親交関係を調べて欲しい。……結果が分かり次第連絡をくれ」
衛星放送はブリタニアから切り替わりエリア四――もといカストラリア国営放送に移った。衛生エリアは公共放送・国際放送が許可されておりトップニュースを流していた。
〈次はCRVからの報道です。――昨日、政権トップのベルケス首相のスキャンダルが発表され巷の市民には動揺と混乱が生じています〉
アナウンサーから市民のインタビュー映像へと切り替わる。ベルケスの報を知り非難する様子が続いた。
〈……軍部長官と接待で高額な飲食費を……公費ですよ? それを浪費していたんです! おまけに接待現場に同伴した女性に手をつけるなんて! 信じられませんよ!〉
〈国民感情を著しく軽視しています。トップがこうでは……呆れてものも言えません〉
稚拙で猥雑なゴシップだ。執務机の上を指を叩いた。
シュナイゼルは怜悧な視線を画面に映し出されるいかにも生真面目そうな男ベルケスに向けた。
「リダニウムのベルケス首相に手紙を送ると一報を。……彼は時計の針より正確でね。スケジュールの横ずれに敏感なんだ。そのかわり優秀で助かっているよ。内容はサクラダイト鉱脈利権……ブリタニアとの協議日程だよ。長期政権でゴシップを捏造され大変なご様子だが、未成年の私を重用し二人三脚でやってきた。祝いの品も贈らせるからそれも伝えておくれ」
侍従長は深みのある声で「Yes, Your Highness」と承知した。シュナイゼルは一拍間を置いて続けざまに指示を下す。ほとんどエリア四に係わる内容だ。国王夫妻は皇暦二〇〇〇年の王宮火災で薨去。ふたりにとって唯一の息女、ティラナ・ヴァル・カストリアは心神喪失状態に陥ったまま文字通り病床に伏し、回復の兆しは未だない。縁戚関係にあたる公爵家は五つしかなく、ほかに君主たりうる王位継承者が存在しないわけではないが、かろうじて存命する一位が障壁となり、彼女の婚約者に委譲された。宮中議会は荒れ、首都リダニウムにあるホリドゥラ宮殿議会は野次の嵐をベルケス公爵――現首相が押し切ってそれを承認させた。まだ九歳の外国の少年皇子を君主代理に据え置くなど数千年続く王朝の恥であると議会閉会後も貴族院から罵倒が続いた。
シュナイゼルはベージュの革表紙の厚い手帳を捲り予定を確認した。数年規模のハードブックタイプの手帳にわざわざ予定をつけている。ブリタニアと『エリア四』カストラリア王国の二重公務が混ざらないようにするための対策だった。
――ティラナ。貴女さえいれば。
「十一月に一度リダニウムへ伺うよ。……定例進捗報告会だったね。あいにく学業も兼任する身ゆえ目覚ましい成果はないが仕方ない。それに十一月は王女の誕生日がある。十一月七日だ。……国民感情を損ねてはいけないよ。毎年王女宛てにたくさんのメッセージカードやプレゼントが届く。国民へお礼のメッセージさえ告げられない王女の代理さ。みな楽しみにしている」
手帳の十一月七日にはあらかじめ赤の二重丸を記している。記入欄には贈ったプレゼントの詳細を書き込むのが習慣となっていた。王女の誕生日が近くなると異母姉妹達がここぞとばかりにプレゼント候補をアドバイスするためだけに手紙が贈ってくる。
『お兄様に乙女心がおわかりになるものですか』とは第三皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアの言だ。年齢のわりにませている彼女の出す案は実に素晴らしくその年齢から考えつくには大人びている品が多かった。長姉、第一皇女のギネヴィアは定番品の皿や小物。第二皇女のコーネリアは詩集。ユーフェミアは香水やジュエリー、時計など。さらに彼女は細かいオーダーメイド品を制作するスタジオまで知っていた。
その手紙を読んだあと長兄である第一皇子のオデュッセウスが電話をかけてきて『妹達のことは気にせずシュナイゼルの贈りたいものを贈りなさい』とフォローを入れる流れまで約束されていた。
「さて……今年はどうしようか」
異母妹達も手紙をしたためている頃合いだろう。贈り物は贈った事実のほうがシュナイゼルにとっては大切だった。だからユーフェミアの案も、コーネリアの案も、ギネヴィアの案もすべて参考にした。プレゼント数は一つと定められているわけではない。たとえ贈ったところで――彼女は冷たいベッドの上に横たわり眠ったままなのだから。香水、ジュエリー、時計、食器、小物、詩集。――それらを楽しむには視覚も聴覚も嗅覚も味覚も閉ざされており、静寂の中に生きている。
耳元に伝わる侍従長の声が「そういえば」と異母妹達の手紙に触れた。手紙はじきに学院に届くそうだ。シュナイゼルは苦笑を漏らした。
「今年は少し気が早いね。アイデアはもはや出尽くしたのではないかと思っていたよ」
兄妹達が興味を示すのは無理もない。ブリタニア皇族兄妹に婚約者が存在するのはシュナイゼルのみであるからで、両親ときょうだいのいない一人っ子の王女のことを思い皆それぞれ気にかけている。そして代理とはいえ『エリア四』を統治するシュナイゼルへの負担を慮ってか、それとも同世代の悲劇の王女の境遇に刺激されてか父帝の支えになるべく自律的に行動する兄妹達の姿は頼もしいと感じていた。
侍従長とはそれから二三事、締めの挨拶を交わして皇宮宛ての通話を終えた。
そのタイミングで代表室にダローウィンが六限の授業を終えた様子で入ってきた。彼には朝から仕事を与えていたが先に戻っていたシュナイゼルの顔を認めるなり苦い顔をした。
「……おかえり。ダローウィン、アストリアス君は応じてくれたかい」
「いや……それが……」
「拒否している?」
「……あぁ……まぁ……」
煮えきらないダローウィンの返事のかわりに勢いよく代表室に駆け込んできたのは、ダローウィン同様に級長で浅黒い肌が特徴的なマイダネットだった。
「ダローウィン! あっ……殿下……お戻りでしたか」
「アストリアスは?」
「ノーサンブリエには来ないって。あとあいつ――今日も授業を全部欠席してて……探したら医務室にいました」
ダローウィンは呆れた声をあげた。「そのうち自滅する。時間の問題だな」と彼らしい皮肉。シュナイゼルに聞かれていることを思い出して口元を押さえた。シュナイゼルは周囲がどのような評価を下そうとも興味がなかった。
「そうか……せっかく手土産に美味しいクッキーをいただいたんだけどね」
シュナイゼルの目線の先にふたりの四つの瞳が集中する。
テーブルの上に置かれた黒い紙袋は会議に参加した出版社責任者の手土産だ。中身は学院内の購買部にはない高級焼き菓子で、独り占めするのも勿体ないから誰かを誘って食べることにしていた。
「話しついでにと思っていたけれど。残念だよ」