第二皇子と奨学生C







 ◆ ◆ ◆


 マーシア寮監督生のジェレミア・ゴッドバルトによって医務室に運ばれたノエルは一日中、ベッドの上で棺の中にいるみたいに固まっていた。
  氷嚢を顔に当てて熱を冷ましていた頬は、当初赤みを射すだけだったが今は紫に腫れあがっている。おまけに口内は切れ血が滲み、髪には擦り傷から皮が捲れ髪にまた血糊が飛び散っている有り様だ。
 ノエルは昨日、どうしようもなくなった学用品を再度揃えた。シュナイゼルが申請用紙をひけらかしたが、あれにチェックを入れればノエルの懐を痛めることはなかっただろう。感情的に癪と感じて紙を破り捨てたのだが。
 そうして勉強道具も購買部で再準備したが、今朝になって支度を済ませていた鞄ごと紛失した。
 そのうえこの怪我で授業に出席どころではなく、今も医務室で石像のごとく固まっている。――せめて放課に図書室に赴いて本を借りるくらいが精々だろう。眼球だけぎょろりと動かして壁にかかった時計の針を確認すると時刻は十六時五十分だった。そろそろ起きて活動を取り返さなければ。軋む体に鞭打ちノエルは起床した。全身の関節がパキパキと小気味よく鳴った。
 ブロンドの髪に付着した乾いてパリパリになった血を爪で削ぎ落とすと清潔なシーツに細かく散らばった。

 医務室の扉が開く音とともにどっしりとした足音が、奥のカーテン内にいるノエルのもとに向かっていた。
 臆することなくブルーのカーテンが引かれ、ケント寮長である初老のアダムス・レックスが立っていた。ベッドに腰掛けるノエルを見下ろすなり「参ったなこりゃあ」と独り言を呟いた。
 「……アストリアス。君に暴行を働いた三名の処遇についてだが、どうする?」
 「私に尋ねるのですか」
 「何にせよ君は今日現在、本年度の次席だ。特権くらいはあるさ」
 「寮長。私はさして興味はないんですよ。名前も覚えてないんだ。あの人達に」
 「あの人達? 他人行儀だな。まあまあそう言わず……。彼らは所詮成り上がりだからわかっていない。そんなことよりアストリアス公爵になんてご説明すればいいか……」
 レックス寮長の関心――恐怖はアストリアス公爵への弁明にかかっていた。生徒の怪我の詳細より、外聞を案じている様子にノエルは小さくため息をついた。
 「結構です。父に取り次ぐ必要はありません。彼らも謹慎処分程度でよろしいのではないですか」
 「そうすると示しがつかないんじゃないか?」
 「示したところで無意味ですよ。ここはブリタニアですよ?」
 これ以上の会話は不毛だと判断して、ノエルはベッドから床に足をつけた。幸い学生靴は未だ無事だ。レックス寮長はまだ喋りたい事があるようだが付き合っていられない。医務室のある授業棟の脇にある三階建てのハウスを出る。最寄りの図書館に入り、教科書の代わりの書籍を借りることにした。

 図書館のデータベース検索のPCには様々な項目があり、ノエルの興味を惹いたのは軍事記録文書だった。
 ――こんなものまで検索できるのか。
 画面上をクリックすると、閲覧権限には各寮のコードと学生番号、役職IDが必要だった。どうやら一部の特権を持つ生徒に許された閲覧資料のようだ。将来士官学校へ進学する生徒も当然いるわけで、該当の授業・演習も複数ある。先日、シュナイゼルが執拗に進路について尋ねたのは、そういった明確な志望先へのアクセス権をノーサンブリエ寮は付与できると言っていたのだ。進学先でさえ優遇権がある――たしかに特権的だ。もしノエルが模範的生徒だったらば、シュナイゼルの誘いに乗っていただろう。
 ――しかし、私に明確な進路も志望先もない。だが、何もないことは却って疑われる余地をつくる……。
 シュナイゼルは想像を絶するほど鋭く賢い。今後も話し合う機会は巡ってくる。
 ――私は、熱くなりすぎだ。
 反省心はある。迂闊で軽率な行動だと。だが――彼を見るだけでなく、思い出すだけでもカッとなり憎悪が吹き出してしまう。自分自身でコントロールが不可能になる。暗殺任務において致命的欠陥なのは間違いない。そしてそれをどうしていけばいいかもわからなかった。
 鐘楼の鐘の音が黄色く染まった敷地内を吹き渡っていく。
 借りれるだけの本を借りてノエルは図書館を出て、今度は十八時に閉まる購買部に急ぎ足で向かった。

  
 a.t.b.二〇〇六 September
 ケント寮


 ケント寮内にある奨学生の共同フロア。共用の大型冷蔵庫はすべて空になりゴミ箱には残骸が詰め込まれていた。
 帰寮して真っ先にひどい空腹を慰めようと、ヨーグルトが買い置きしてあったのを思い出したがご覧の有様だった。
 ――ひどい。仕業よりも、私の空腹が。
 ケント寮に他の生徒もいたが、みなノエルのことを『いない』ように扱った。透明人間になってしまったノエルの目の前で上級生が彼の悪口を叫んだ。購買部でなんとなしに買ったチューインガムを口の中へ放り込む。買っておいて正解だった。薬品と血の味に人工甘味料が加わり最悪の味になった。

 奨学生の唯一であり最高特権の私室は唯一の味方だった。
 この部屋にいる限り――とはいえ学生鞄は窃盗されているため安全ではないが、共同部屋よりも遥かにマシな環境だ。
 私室へ帰るなり図書館で借りた本十冊を紙袋から取り出した。さすがに同じ轍を踏むわけにはいかず、備え付けの金庫に数冊を残して仕舞った。
 ノエルは勉強机に向かった。数学、物理学、外国語T・U、国際関係論、高等戦略論、法学概論、基礎科学……その他にも重要基礎科目はあるが、学習機会としてこれ以上のない環境であるから興味関心を持ったこれらを中心に手を付けることにした。
 暗殺対象と同学年、さらに学年途中で編入するには奨学生でなくてはならず、また奨学生の身分を維持するには最低基礎十科目の成績が最優秀評価を維持しなければならない条件がある。ノエル・アストリアスは四六時中勉強に勤しみながらも暗殺機会を探る必要があった。

 ――さらなる欲があるとすれば、シュナイゼルには……。聞きたいことが山ほどある。

 だがこのたった数日で身を持ち崩している。シュナイゼルの代表室に呼び出されてからすべてが狂った。
 原因も結果もすべてノエルが引き起こしたことで、自業自得であり他に責めようがない。

 ――あの人には聞きたいことがある。しかしリスクが高い。

 幸いシュナイゼルはノエルに一定以上の関心がある様子だ。
 カストラリア王国の統治者がこんな学院で片手間に勉強ごっこなど腹立たしい限りだが、ブリタニア人の公爵家の子息であるノエルが執拗に彼の『エリア四』について問うのは怪しまれるだろう。詮索をするということは、相手からの詮索を受けるということ。余計な質問が許される程度に仲良くなるのがセオリーだがノエルには難しい話だった。
 ボロを出して暗殺者であることや、カストラリア王国出身者であることが悟られるのは命の危機をもたらす。
 知られてしまった段階で、シュナイゼルには暗殺者として。ノエルの裏にいる組織からは任務失敗によって殺されるだろう。

 ――裏の組織……だが、彼らはなぜ……私がティラナと瓜二つだったならば……政治利用をしないのだろう……? 裏の組織は……いったい……。

 急になにかに差し当たりかけて、激痛が頭に響き渡る。それは落雷を直に受けた衝撃のようだった。
 「うぅ……ッ!」
 ノエルは椅子から身を崩しばったりと倒れ、強烈な頭痛に呻いた。ビリビリと神経が毒を塗られたように麻痺し、呼吸は乱れ全身に一気に汗が吹き出した。なにか大切なことを忘れている気がする。なにか重要なことを盲点が見えたはずなのに、それを思い出そうとすればするほど激痛が増す。あまりの痛さに眼球が飛び出そうになり、ぎゅっと力を入れて目を瞑る。
 「――た……い……いた……い……」
 ビリビリとした痺れは舌や味覚を麻痺させた。すっかりチューインガムの味などわからなくなっていた。
 荒い呼吸を何度か繰り返し、薄く開いた視界の端に立つティラナがノエルを蟲を見る眼差しを注いでいる。
 ――言ったでしょ。……ころして。ころさなきゃいけないの。
 「ひめさま……ひめさま……」
 ――シュナイゼルをころすのよ。……肝心なときにたすけてくれなかったんだから。……あのひとにとってわたしは都合のいい花嫁よ。
 「……そん、なこと……」
 姫様は楚々とした長いワンピースを膝と一緒に抑え丁寧に屈んだ。そしてノエルに氷のように冷たい頬を寄せて囁いた。
 ――こころがからっぽなの。……からっぽだからなんでも入っちゃう。だから……誰でもはいっちゃう……わたしでも、あなたであっても……。
 「うぅぅぅ……」
 喉の奥から風が通り抜けるように獣のようなうめき声が這った。姫様はいっときの幻のはずなのにいやに産毛や息遣いさえも現実に感じられた。
 ――かわいそうな皇子さま。……でもかなえてくれるでしょ? あなたはわたし。わたしの怨みも……あなたのものだから。
 姫様は呪いの言葉を唇に宿す。
 ――ころして。

 次に目が覚めたのは翌朝の九時だった。始業時間はとっくに過ぎていた。レックス寮長が激しく扉を叩いてマスターキーで押し入るまで、ノエルは床に縫い付けられており泡を吹いていた。
 再び三階建てのハウス――医務室まで寮長レックスの自家用車で運ばれ、散々倒れた原因を問い詰められたがノエルが終始閉口したことにより、レックスは昨日の三人の処分を重くすると脅した。
 「……彼らの暴力行為は事実ですが……今朝のは関係ありません」
 「原因は同じではないのか!? ではなんだというんだね!? このままでは君の内申点にも響くぞ! もっと利己的に考えなさい! 場合によっては寮の評価も……いや……」
 レックス寮長は言いかけて目を泳がせた。彼が心配するのは寮の得点のマイナス評価だろう。もしくは彼自身の評価。給与査定にも影響が出るからだろうか。回らない頭でノエルはそう考えた。
 「……アストリアス。君も大概問題児だがね。家だって立派だし、実際君は私などよりも爵位を持っている。意見するのだって控えたいくらいだが……聞いているのかい?」
 「寮長。……授業に出るので一旦戻ります」
 レックス寮長を見上げて言った。彼は驚いたように一瞬言葉を詰まらせた。
 「学用品は? 購入したか? 私が持ってこよう。君は……この医務室の隣のシャワールームで体を清潔にして制服に着替えること。待っていなさい。二限目には参加できるだろう。科目は……なんだったか……」
 レックス寮長が奥に位置するこのベッドから入口に体を向けた時、ちょうどこの室内に来訪者の影が静かに射した。ノエルは目を剥いた。
 「彼の科目は帝国史Uですよ、レックス寮長」
 「なっ――シュナイゼル殿下……失礼いたしました。アストリアスに何かご用で?」
 恭順の礼をとりレックス寮長は脇を通り抜ける美貌の紳士を横目で見た。シュナイゼルは軽やかな足取りでノエルのもとへやって来て、ベッドに座る彼を見下ろした。そしてすべてのひとに平等に傾ける聖人君子の微笑を掲げる。 
 「一限目担当のファーヴス教授が苦言を漏らしていてね。成績はいいがまともに出席しないのは問題だと私の方に話が回ってきたんだよ」
 「そうでしたか。いや……今朝確認のためアストリアスの部屋に入ったら倒れていてまともに起き上がれなかったもんで……病欠扱いにしてもらえませんか」
 「……倒れて……そうだね。たしかに大怪我をしているようだし、ファーヴス教授には私から伝えておくよ」
 「感謝いたします」
 同情的で優しげな言葉がかけられる。レックス寮長はこの場の力関係が覆ったことに内心喜んでいるのか語気が強まった。一人では弱々しいが、虎の威を借る狐のような男だとノエルは思った。
 「アストリアス、君も殿下に感謝を述べなさい」
 「……、…………チッ」
 「おい、アストリアス!」
 レックス寮長は声を荒げたが、すかさずシュナイゼルがそれを抑制した。
 「結構ですよ。彼が私のことが嫌いなのは知っています」
 「……この、アストリアス!」
 「好悪に関して私は咎めるつもりはないけれど、アストリアス君の態度は改めない限り周囲から反感を買うことを学んだほうがいいよ」
 「そうだそうだ」
 寮長は鷹揚に追従した。それは一理ある。実際のところそれ以上の正論はなかった。
 だが何をどうしたって、腹立たしいと感じる。短い期間で何度か顔を合わせてみてノエルの感情に狂いはなかった。もっと戦略的に立ち回ることを想定していたが――最初にシュナイゼルの代表室に呼び出された段階でそれは不可能だと悟った。全身から彼への憎しみが暗殺の段取りを飛び越えて、懐に収めたナイフに何度か手が伸びかけたことだってある。
 しかし、このまま感情ばかりに押し流されてはシュナイゼルを暗殺し、名前を奪われたカストラリア王国をブリタニアから解放するには前途多難である。戦略的――彼の近くにいて問題がないような間柄になるまでは努力をしなくてはいけないとは思っているが。
 ふたたび多少の反省に心が傾きかけた時、突如頭に疼痛が迸った。
 くらりと目が回り力が急激に抜けていく。
 「大丈夫かい」
 シュナイゼルが肩に大きな手を回しノエルのケーキ屑の如く崩れそうな体をそっと支えた。ノエルは沸き立つ殺意を逸らすためにシュナイゼルと目を合わないようにした。だが近くに来た彼からそれはそれはいい匂いが薫った。まるで彼自身の育ちの良さを現したような、たとえばシトラスと白檀の淡く混じり合った安堵で包み込むような懐かしい香り。不意に記憶が蘇り断片的な過去の去来。
 ――忘れかけたあの日。星を染めつけたばかりの彼の眩い金糸、寒さで滲むベビーピンクの頬から匂ったもの。
 流星降る高原の大海原で王冠をもたらしたこと。
 ――私は必死だった。姫様を、王国と王朝、すべての、五四〇〇万人の現臣民にとって最後の君主にしてはならないと使命感を燃やしていた。
 姫様はどうしてもこの人を手に入れたいと仰った。
 ――私は願いを叶えた。姫様に救われた命を彼女のために使うのはあたりまえのことだ。
 「……はぁ……こいつは……二限目も病欠にしたほうがいいのか?」
 うんざりするほどのため息と落胆が意識のクレバスからノエルを引き上げる。
 「食事は摂ったのかい。――いや、倒れていたんだったね。それじゃあ大食堂から何か持ってくるよ」
 「殿下、わざわざお手を煩わせるほどでもございませんよ。――あなたはこの学び舎に籍を置きながらも一国を統治されていらっしゃる身の上。万事この私が責任をもって対応します」
 ノエルの耳にはこの二人のやりとりがどこか遠く関係のない舞台上の台詞のように聞こえた。
 レックス寮長に他意はない。その場の、現状まかり通るすべての事実、この世の規則が、シュナイゼル・エル・ブリタニアがエリア四の現状の統治者であることは。だがノエルは背筋にぞわりと這う悪寒と憎悪が心血を沸き立たせる感触に、空っぽの胃の中から何かが押し上げて来ようとする。頭の中のどこかを走る神経は今にも切れてしまいそうなほど鋭く激しく痛んだ。
 「っう……うぅ……」
 「痛むのか。……レックス寮長、本日責任者の医師を呼び処置を。食事は摂れそうになさそうだ」
 シュナイゼルの細いのに頑丈な腕を掴んだ。動じる様子もなくされるがままだが、その隣のレックス寮長が慌てふためき引き剥がそうとした。
 「レックス寮長」と冷淡なシュナイゼルの念押しにレックス寮長は根負けし身体を左右に揺らしながら医務室を飛び出ていった。
 「熱がある」
 視界に影が射す。低い体温。湿り気のない掌が額に触れる。
 「今日の残りの全教科も病欠申請しておくよ。体を休めるよう努めなさい」
 シュナイゼルの柔らかな声音はたとえ命令形であっても人をその気にさせる力が備わっている。年齢不相応に彼は子供らしくなかった。大人の求める正解に素早く辿り着き結果を残してきただろう。
 ――そんなことはわかっている。姫様との婚姻も顔合わせの日に即時決断された。彼は姫様とではなく国と婚姻した。手頃で燃費の良い自動車を購入するように。食欲を満たすため食事を適当に見繕うように。彼に意思はなく、また葛藤もない様子に私は姫様を案じた。なぜなら、執着のない行動は切り捨てることもまた容易だからだ。
 ――悪夢だ。
 「……私のことは捨て置いてください。殿下の貴重な時間を頂戴いたしました」
 「引き継いでから私は行くよ」
 ――悪夢だ。
 ――姫様は死に、シュナイゼルがカストラリアを掌握した。
 ノエルは気づいていながらも触れずにいた核心に到達しようとしていた。
 ――さいしょから、姫様を殺してしまうつもりで婚姻を承諾したのだ。この男は。姫様に接吻し彼女の涙を拭う役目を得たというのに。あの日、あの最期の瞬間、涙に濡れる瞳は私を求めていなかった。乾いた唇から漏れ出た摩擦子音は彼の名の最初だった。
 唇を噛み締めて、衝動に任せてナイフを取り出してしまわないように堪える。全身はサウナに入ったように蒸し暑く今にも焼け爛れてしまいそうだ。
 「点滴を打ちます」
 「よろしく頼むよ」
 いつの間にか校医が医務室に入りカルテに書き込んでいた。
 シュナイゼルは最後にちらりとノエルを見遣った。感情の灯らない無機質な眼差し。それが彼の素の表情で、信頼に足るような微笑は社交性の高さをあらわすための仮面だと直感した。
 ――たとえ姫様が目の前で死に瀕していても、そんな顔をしただろう。
 ノエルは静かに瞼を閉じた。処置はてきぱきと的確に進められ、静脈を経由して二七時間ぶりの栄養が体へと流し込まれていった。ヒートアップした肉体を冷却するように輸液剤の流入は心地よく癒やされた。
 ――でもむしろ、その表情を見なくてよかったのかもしれない。美しく優しいひとと姉弟のように過ごした八ヶ月を。幸福のまま終えることができたのだから。
 無限の闇が広がっていた。



5
午前四時の異邦人
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