硝子降る夜







 a.t.b.二〇〇八 1st May
 ブリタニア 帝立コルチェスター学院 


 熱い湯にほぐされた肌と対照的な冷たく硬い輝き。彼の亡霊がそこに残っている。
 金髪と青い瞳。握った拳銃に映り込む、銀灰の中の己の冷酷な顔。
 彼女の抱擁のぬくもりと感触――涙と多幸感の甘いにおい。裏切りの味。
 浴槽の中に座り、審判を待つ信徒のように恭しく、波紋の揺れる天井を仰いだ。


 シュナイゼルが長期間学院を空けるのは前代未聞だった。
 生徒達の間では、いよいよ婚礼の準備ではないかと囁かれていた。メディアやマスコミの第二皇子と王女の婚礼を取り上げるニュースやそれにまつわるくだらないゴシップは以前からあったが、現在は大衆紙どころか経済新聞のコラムにさえ掲載されている。
 「なになに? 好きな化学構造式……うわっ、くだらない質問に貴重な欄使ってる! 新聞くらい有意義に埋めてよ〜」
 ブリタニア人の関心は自国の皇子ではなく、相手の王女にあるらしい。
 「だいたい好きな構造式はグルタチオンだって! 単純な構造が複雑な生命現象を下支えする美しさをなんでわからないのか……適当なこと書かせてるんじゃないよ。誰が喜ぶんだよ。好きな構造式を知って……へー……一応関心は集まるんだ……ポリエチレンはちょっと……工業材料だし。お世話にはなっているけど……答えた人間はド素人か?! ムカデみたいだから? ……好きな虫は蝶だし! クソッ! 抗議文書くぞ!? あーっ! 広報仕事しろ!」
 王女への質問は王室の広報局の仕事だ。王室の顔を形作るイメージ戦略として、いささか杜撰な回答ではないだろうか。王室の約九三〇名の職員の給与水準は平均して一般より高く設定されているが、手を抜いているのではないか? 職務怠慢ではないか。
 彼らの給与の財源の大半は国庫ではなく、王女と王室の財産から拠出されている。先代国王の方針である。人事権に関してかなりの裁量権を握るが、職位によっては枢密院や議会での評議で不当解雇ではないかと、審査を受けることになる。
 財源は不動産収入や金融・投資収益、研究特許だけでなく、中立国の性質を利用した国際信託機関の管理料や最高機密情報の仲介料などがある。規模でいえば大企業に手は届かないが、その影響力は民間企業を超越する。
 たった僅かな新聞の小さな欄のQ&Aの影響力さえ馬鹿にできない。レターやクリスマスカードにムカデみたいな構造式の絵付きで送られて来るかもしれないのだ。姫様が目を通したら悲しむかもしれない。ムカデなんて。

 ――ブリタニアン・タイムズ紙。覚えたぞ。……今度シュナイゼルに会ったらそれとなく言いつけてやる。

 ブリタニアン・タイムズ紙の影響力は凄まじく、ブリタニアが統治する各エリアでも新聞が販売される。現地で働く中流階級のブリタニア人のために。
 「中道右派らしく皇室を支持し、相手国王室を持ち上げようとする姿勢があるのに、王室ときたら……くそ……訂正させなきゃ……」
 花壇前のベンチでノエルが新聞に文句を呟くところに、ノーサンブリエ寮からカノンが鞄を手に歩いてきた。 
 「ノエル。なにまた一人で百面相してぶつぶつ言ってんのよ。……そういえば、うちの殿下は今週も帰ってこないらしいわ」
 「え? 殿下が休暇延長〜? もう五月なんだけど。どうするの? 今年のプロムは」
 「それは副監督生が代行だって聞いたけど」
 「マイダネットかー……まあ、いいか。ん? でも今年は本人が参加者じゃないの。一年上級生でしょう」
 新聞を畳み、カノンの隣に並び歩く。
 「だからその補佐を募っているんですって」
 「ふーん。じゃあ、カノンがやればいいんじゃない」
 「なんで私がするのよ」
 「必修単位をがっぽり稼ぐには課外活動ありきだと思うけど。まだ残ってるって聞いたよ」
 「残り一年あるんだから、焦ってないわ。ノエルがやれば?」
 「私が?」
 「そうよ」
 「単位はもう取ってあるし、卒業待ちだからって?」
 「だからそう」
 暇だと思われているらしい。
 毎日毎日朝と夜に学院のセキュリティチェックのために巡回し、他のやることもやっているのに。
 ノエルは口を尖らせ、一旦黙った。
 「……卒業かぁ、……ロイド博士もさすがに今年は卒業出来そうだし、カノン寂しいんじゃない」
 「意外と逞しいし図太いのよ。私は。……それで、あなた大学はどこへ行くか決めたの?」
 「うーん……内緒」
 「いっつもそればっかりね。この秘密主義者!」
 カノンがノエルの脇腹を小突く。
 「いてて。……しかし結婚式か……大変だなぁ。殿下の年齢にしては早すぎる気がするけど、待ってたら情勢にも響くもんね」
 ふたりが並び歩くところへ、ノーサンブリエ寮から慌てて代理として監督生を任じられているダローウィンが駆け寄った。
 「アストリアス! 貴様は、プロムナード実行委員会に加入するように。代行として委員長を命じる」
 「ええー忙しいんですよ〜。待ってよ、代行ってMr.マイダネットじゃなかったの? あと私、他寮の人間なんだって。クリスマス演劇はとっくに終わったの!」
 「マイダネットは今年卒業生だぞ。それに重責すぎる。……それに貴様は学院内で一番暇をしているだろう」
 「これでも忙しいんです。……大学の提出書類作成とか研究所に提出する書類やら渡航手続きとか云々」
 頭の硬そうなダローウィンと揉めるのは面倒くさい。
 「……ダローウィン、ところでさ、上手くいったの。あの子と」
 「おい。はぐらかすな!」
 「何の話?」
 カノンが横から質問した。
 「ほら、クリスマスにマクベス演ったじゃない。ラドン家のご令嬢がダローウィンの勇姿を見届けたかどうかって話。……ラドンに聞いちゃおうかな〜。ちょうどあそこで立ち話してるし。おーい」
 「アストリアス!」
 遠くで他の生徒と立ち話をするラドンは、こちらに気づいて足を一歩踏み込んだ。ダローウィンは慌ててなんでもないと揉み消した。
 「まあ。引き受けるよ。殿下ひとりいないだけで、凋落っぷりを披露するだなんて、学院の沽券にかかわるだろうから」
 「それだけ素晴らしい手腕の持ち主ということだ」
 「ごもっともでございます。それで、最初の会議は? いつ開いて誰を招集すればいいの?」
 ダローウィンは腕時計を見た。
 「今日の十七時からある。メンバーはすでに決めてある」
 「用意周到だね」
 「殿下がもしもの時にとお考えになられていたんだ」
 「さすが〜。代行も想定のうち?」
 「ああ」
 「ほんとうにノーサンブリエの人間じゃないのにね。随分信頼されてるんだなぁ。照れちゃう」
 わざとらしく頭を掻き、へらりと笑う。ダローウィンは事務的に言ってのけた。
 「昨年、殿下が編んだプランがある。それを参考に準備をすればいい」 
 「……わかったって。去年は私も警備関係でノウハウがあるし」
 それにしても大役だとノエルは思った。
 何かを見定めるような態度、シュナイゼルといえばらしい。それだけ、ノエル・アストリアスに対するまだ疑念は払拭出来ていないのだろう。
 ダローウィンは寮に踵を返し、授業のためにカノンと再び校舎に向けて足を振り出す。
 「これから忙しくなりそう。……そうだ。殿下の結婚式の日程が決まったらその時は教えてよ。カノン」
 「なんで私が……」
 「ブリタニアには七月まで残るけど、……向こうに行ったらそれはもう忙しくなる予定なんだ」
 「殿下に聞いたほうが早いわよ。番号知ってるんでしょうが」
 「向こうがかけてくるのはいいけど、こっちからは畏れ多いでしょ」
 「よく言うわ」
 セキュリティの問題だ。シュナイゼル側は完全に対策されている。しかし、こちらから掛けると専用の機器を用いていないため、回線を読み取られる不安があった。
 「それで、あとはー……後始末をお願いできるかな。ラボのロッカーの整理とか」
 「はいはい。わかったわよ。鐘が鳴る!」
 カノンはノエルの背を押して急がせた。


 a.t.b.二〇〇八 16th May
 ブリタニア 帝立コルチェスター学院
 
 日の長くなった五月の中旬。
 ノエルは学院内の各建物の屋上に上っては、翌日夕方から開催されるプロムナードのために、警備の最終チェックを行っていた。
 学院で最も高層を維持する、鐘楼の中。
 双眼鏡を携え、正門や裏門、駐車場、車寄せ、運動場のコートなどの様子を窺う。広大な敷地なだけあり見晴らしだけは十分優れている。
 「ん? 皇族専用車だ」
 車寄せに正門陰から白いリムジンが覗いた。
 「ああ……ここからだと、あそこ死角になるんだ……どうしよっかなー」
 手元の書類の備考欄に正門、裏門、死角に注意と書き込む。
 下層の敷地が騒がしくなり、双眼鏡をその方に向けると、ノーサンブリエ寮前でシュナイゼルが出迎えられている。二ヶ月ぶりの帰国だ。
 シュナイゼルは中庭に移動し、薔薇の手入れをするカノンに声をかけた。暫く話したあと、周囲の建物の見上げ、そして双眼鏡越しに目が合った。
 彼は教会の鐘楼の中にいるノエルを指をさし、シュナイゼルが此方を見上げて手を挙げた。

 細い鐘楼の最上階まで伸びる螺旋階段を軽快に上り、シュナイゼルは警備チェックをするノエルの隣に並んだ。
 「プロムの実行委員を引き受けてくれてありがとう。ノエル」
 「はい。殿下。お久しぶりです」
 「今は会場警備の最終確認かい?」
 「ええ。そうです」
 シュナイゼルはノエルの書き込んだ書類を覗き込み、備考欄について指摘した。
 「警察と軍に連絡は取ってあるかい?」
 「ああ、はい。とっくに。重点的に警備させる場所を共有するつもりです」
 「うん」
 ノエルは敷地内に視線を巡らせつつ、警備の巡回ルートについて考えていた。
 「昨年のうろ覚えなので間違っていたら、訂正お願いします。……その下の書類にあるんですが、招待状はリスト通りで問題ないですか?」
 「……うん。問題ないよ。各門のセキュリティテストはしたかい」
 「備考欄にあるように死角になりそうな場所が」
 「わかった。では一緒に回ろう」
 移動の準備を始めると、シュナイゼルは鐘楼の中から夕暮れの差し迫る外の景色を眺めて言った。
 「大学はどこへ? いくつか候補が増えている。各国から毎日三通は届くと聞いているよ」
 「大失恋からの空前のモテ期ですね」
 そして、彼は視線を緩やかに床にしゃがみ込むノエルに移し、見下ろした。光が彼の背に挿し込み、金色の髪が透け、より明るく輝いた。
 「……もう少し先にとっておこうと思っていたけれど、君に先約を申し込みたい」
 「なんですか。急に真面目な話」
 「真面目な話だよ。――私の騎士になりなさい」
 シュナイゼルの命令は、神託のような響きを伴っていた。
 この人の言うことを聞かなければと思わせるような、清廉な魔力、崇高さ、宗教画の中、あるいは彫像の天使のように。
 「……騎士ぃぃ……!?」
 冷静にその言葉を顧みたノエルは驚愕し、勢いよく飛び退いた。
 ブリタニア帝国における騎士とは皇族直属の部下を指す。厳しい階級社会。その特権階級の中のエリートである。皇帝直属のナイトオブラウンズ――円卓の十二騎士を頂点とし、上から二番目の非常に栄誉ある階級であるが、ノエルに名誉欲や出世欲といった権力志向はない。それに、今はシュナイゼルの安全を確保し、対象の抹殺に動く方が先決だ。
 シュナイゼルは呆れたように笑った。 
 「そんなに驚くことはないだろう」
 「あぁ……いや……驚きますよ。だってこれから外国に移る人でしょう。……個人的な護衛役ってこと?」
 「そういうことになるかな」
 天秤が揺らぐ。カストラリアにいることと、その圏外にいること。どちらがより安全性が高いか。
 「それにしても、私が騎士になるんですか? あははは……! 殿下の……? とんだ跳ねっ返りですけど……私でいいんですか?」
 「承知しているよ」
 シュナイゼルは長期的な視点に立ち、ノエルに利用価値を見出したのだろう。
 ノエルにもメリットはある。彼の個人的な護衛役になれば、カストラリアに合法的に滞在し、多少の誤魔化しが必要としても、研究を再開することが出来るだろう。姫様にもお会いすることができるし、お支えすることが出来る。
 『わたし』としても魅力的で明るい展望だ。
 それでも、目先の問題が立ちはだかる。平和とは戦争をしなければ生まれないように。
 やんわりとシュナイゼルの誘導を逸らし、断る雰囲気を醸し出す。
 「でもな〜……留学に四年かけるつもりなので、途中で気が変わると思いますよ。……それに、殿下は結婚式だってあるのでは? カストラリアに貴族階級と互換する騎士制度はありませんし」
 ナイトの意味でいえば貴族階級の中でも最下級となる。それは平民に授けられる勲章であり、準貴族のものだ。外国人貴族となるため、準貴族といわれるのも筋としては納得できる。――それに、カストラリアで貴族は馬車馬のように働かなければならないため、平民でいたほうが幸福度が高い。
 「……君がよければ便宜を図るつもりだけれど」
 「叙勲させるんですか? 次期女王陛下に?」
 「君がよく働けば、功績をお認めになるだろう」
 シュナイゼルは姿勢を低くし、ノエルの顔を覗き込んだ。その瞳は何かを探し求めるような色をしていた。
 彼は、『わたし』を駒にしたくて堪らないのだろうなと思った。
 ――大勢の味方がいながら、疑っている人間を部下にして戦力に取り込む、か……。
 シュナイゼルの戦略は優れている。自陣に加え扱うことで監視と使役を両立させる。腕利きの猛獣使いだ。このコルチェスターにいる間もずっとそうであったが、彼はどうやらプライベートでも首輪をつけたいらしい。
 「やらなきゃいけないことが……全部終わったら、お引き受けしようかな」
 「受けてくれるかい」
 ノエルの口元は緩やかな曲線を描いた。その場に片膝を跪く。右手を背に、左拳を右胸前に掲げ騎士の礼をとった。
 「……Yes, Your Highness」
 敗北宣言だ。
 同時に、彼に捧げた忠誠を果たすためには、ひとり人を殺さなければいけない。
 「完敗ですよ。あなたとの戦いも」
 仁王立ちのシュナイゼルは、彼にしては満足気に微笑み「降参?」と尋ねた。
 「降参です。――靴でも舐めればいいですか?」
 「それは結構」
 穏やかにシュナイゼルは微笑んだ。


 a.t.b.二〇〇八 17th May
 帝立コルチェスター学院 


 色とりどりの華やかな食事、ドリンク、室内の装飾、賑やかな談笑。プロムナードは宮廷晩餐会を模したように華やかな夜だ。
 学院の卒業を控え、正装にドレスアップした男子生徒達とそのパートナーを相手にダンスを踊るパーティーである。
 本来は生徒のみの参加であるが、貴族学院の性質上父兄が運営に携わり、パーティーを口実に参加し裏で取引をすることもある。親兄弟が来る場とあり、婚約を決めたり他の交渉事を行う。

 裏方の黒子役は、案外忙しい。会場の受付、案内、見回り、食事のサーブ、ダンス時間のタイムテーブルと演奏家達との調整、その他、緊急で発生したトラブルの解決。予め配置してあるメンバーでも対応しきれないケースは代理として出る。
 主役である最上級生のパートナーは近隣の女学校か、知り合いのご令嬢がほとんどである。
 相手方も張り切って晴れ舞台を楽しむのだが、どんなところにもトラブルは付き物である。
 「靴擦れ? 医務室はあちらですよ。お嬢さん」
 誰のパートナーか、休憩用の長椅子でヒールを脱いで休む令嬢を医務室へ連れて行ったり。
 「捻挫? 階段で裾を踏んだ?」
 誂えたばかりの正装の裾を踏み、階段から転倒し尻餅をつく男子生徒を介助したり。
 「父兄出席はともかくとして、お子様をどうして連れてくるかな!?」
 明らかに家族で参加し、退屈した子供があちこち探検に出かけて困り果てる親。
 主役は物わかりのいい子供≠セというのに。せっかく主役の舞台を親兄弟つきの苦労の皺寄せは、裏方の下級生へ。
 「あー忙しい、忙しい」
 夕方から始まり、はや数時間。残り二時間で終わると思えば気分が楽になる。
 山場を超え落ち着きつつある学院内。講堂の出入り口にあるクリーム色の柱の陰で、息をついているとノーサンブリエの卒業生であるマイダネットがノエルに茶化すように呼びかけた。
 正装姿は制服姿を見慣れていると違和感がある。
 「アストリアス! 忙しそうだな」
 「なんですか、Mr.マイダネット。おちょくりに来たならどうぞお引き取りを」
 「いや、是非紹介させてもらいたいと思って、来てくれないか?」
 マイダネットはぐいぐいと、黒タキシードを纏うノエルの腕を引っ張った。
 「何の話です? 本当に忙しいんですってー! ご紹介は有り難いですけど、失礼します」
 勧誘を振り払ったノエルに、無線通信機から新たなトラブルが入る。
 「電源が入らない? リクエスト曲の順番を変更して!」
 同じく黒タキシードを着用したダローウィンが交代を知らせに来た。
 「アストリアス、交代だ。会場警備に回ってくれ」
 「ダローウィン。今受けてるトラブル書いといたから」
 メモ帳に書いたものを裂いて手渡す。


 a.t.b.二〇〇八 17th May
 帝立コルチェスター学院 講堂

 
 プロムナード終了まで一時間。
 ノエルは実行委員長として、会場内の警備体制とトラブル報告を逐一耳に装着した無線通信機で受けていた。
 会場の隅に立ち、男女が踊り歓談する様子を眺めては、人によっては帰宅と見送りの時間が始まる頃合いだ。エントランスは混み合うだろう――と思った時、タキシード姿のシュナイゼルが隣に立ったのが目を向けなくてもわかった。
 大勢の参加者の視線が会場に集まったからだ。
 「私もなにか手伝おうか」
 「殿下は役持ってないですから、普通に楽しんでいってください」
 「有り難い助言をいただくのが煩わしくてね。仕事をしている方がマシだよ」
 そのうちブリタニアから離れる皇子といえど、パイプを狙ってあちらこちらから引っ張りだこだろう。国事行為臨時代行の摂政、帝国の第二皇子を支持することで、他の皇族や皇妃を支持するよりも一つ頭抜けて、貴族の地位と権威の助けになる。
 摂政の立場は事実上の国家元首であり、限られた期間でありながらもシュナイゼルは王≠ネのである。
 普段は学院か本国の住まいであるウィルゴ宮、カストラリアの三箇所に滞在し、運よく宮廷晩餐会で姿を見かけても声をかけようにも他の兄妹に取り囲まれ、年頃の娘を宛てがうことも叶わず、接触の口実の少ない貴族達はこんなところでしか私的な会話≠ノ挑めないだろう。
 ノエルはたまたま通りかかったカノンを手招きした。
 「カノン」
 「はぁい。なに?」
 「お仕事したいんだって。殿下が」
 「立食式なので、お食事でも召し上がりになればよろしいんじゃありません?」 
 カノンはやや渋い顔をした。それぞれ仕事に集中したいが、彼がいると注目集めそれどころではなくなる。かといって、このプロムナードの中で最高のVIPは誰かといえば、参加者ではなく帝国第二皇子である。
 「殿下がくっついてくると、私の仕事が捗らないんですよ」
 「そうかな」
 シュナイゼルの腕を引きその場から少し移動する。会話の隙間があると誤解した貴族達が、釣られるようにして動きに合わせて近寄りかけた。
 「ほら、砂鉄みたいにくっついてくる。引き寄せの魔法」
 「ははは」
 朗らかに笑うが、離れようとしない。そうして仕事がないかとノエルの顔を見下ろすので、顎でダンスで盛り上がる輪から外れている女子の群れを指し示してやる。
 「誰か可愛い子を捕まえて踊ってきたらどうです」
 「いらぬスキャンダルを作れというのかい?」
 「スキャンダルで思い出した。……あー、殿下、パーティーが終わったら報告しますんで。例の……二人組の捜査について」
 「わかったよ」
 シュナイゼルの両肩に手を置き壁に向かって押し出す。
 「その捜査結果次第で構わないんだけどね……引き続き……」
 会場となる講堂内の明かりが落ちる。
 ダンスの演目、楽曲によっては照明を落とすこともある。会場内は闇の中でも次の曲が始まる参加者の興奮に包まれていた。
 「ん? 室内楽ではなく現代曲で踊るのかい?」
 「……待て。今年のプログラムには照明を落とす演出なんてなかった……。ダローウィン、誰か! ブレーカーを確認しに行って!」
 ノエルが無線に叫ぶ。
 その瞬間、機銃掃射の銃声と窓硝子の砕け散る音。目を覆いたくなる閃光。轟音。二階の周回通路に並ぶ天井にまで届く窓から硝子片が霰のように場内に降り注ぐ。
 「殿下!」
 ノエルはシュナイゼルを柱の陰に突き倒し、背後から頭部を守るように覆いかぶさった。
 「柱の陰に隠れて!! 隠れろ!!!」
 会場に満ちるのは、悲鳴。悲鳴。悲鳴。
 ノエルの指示は、吹き込む冷風と混乱に陥る人々の声に掻き消されていく。
 心拍数が急上昇する。呼吸が自然と浅くなり、直感的に、今日がその日≠セと理解する。ノエルは無線通信機のチャンネルを切り替え、緊急通報に繋いだ。
 「応答せよ! 会場内で銃乱射! 負傷者多数! 警察・軍の増援を求む! 繰り返す――!」
 二階のバルコニーには配置されていないはずの人影が複数人いる。
 ――あいつらが来た。
 恐怖が迫ってくる。じわりと額に汗が滲む。
 無線通信機に会場外にいたダローウィンの声が届いた。
 「アストリアス、聞こえるか、アストリアス――!」
 「……ダローウィン、来場者と生徒をただちにシェルターに避難誘導せよ!」
 ノエルは立ち上がり、被った硝子片を振り落とした。柱の陰にそっとカノンが戻り、シュナイゼルを助け起こした。
 「殿下、ご無事ですか。血が……」
 「ああ。これは私ではないよ」
 「カノン、殿下をシェルターまでお連れして。早く」
 暗がりでよく見えなかったが、カノンは「ノエル、血が出てるわ」と流血を教えてくれた。
 されるがままに血をハンカチで拭われ、ノエルはその合間にも、この場が最後だろうと思った。
 「ごめん。汚しちゃった。……そうだ……、カノン。……ポルノ雑誌は天井裏だよ」
 「はあ!? 何いってんのよこんな時に!」 
 「あははは!」
 切り替えて、無線を操作し各自に指示を下す。
 「準備委員会各自に告ぐ、安全シェルターを開放し全員を避難させるように。繰り返す、安全シェルターを開放し――」
 銃声の嵐が再び会場を襲った。次は反対側の窓から硝子片のシャワーが降った。
 「ここは危険です。殿下、シェルターに行きましょう」
 数カ所の入口は人混みで詰まっていた。
 バチンと何かが弾け、軋む音がした。天井から吊り下げられていたシャンデリアが落下した。パニックが塗り重ねられ、誰かが倒れた。そしてその波がさらに人を突き倒していった。
 転倒しかけたシュナイゼルに肩を貸した。
 「歩けますか?」
 「問題ないよ」
 なんとか入口を抜けた頃、警察官と軍人が人の波に逆らい場内に駆けつけた。
 「ご無事ですか!」
 「まだ中にいます! 我々は避難行動を継続します!」
 人々は雨後の濁流のようにどうどうと屋外にあるシェルターに流れ込んでいく。
 また銃声と轟音が響いた。
 「いてて……あいつら、殺すつもりだ」
 ノエルは小さく呟いた。
 
 避難シェルターには大勢の人々で埋まっていた。
 ノエルは肩で息をし、左手に巻いた腕時計に視線を落としては周囲を確認した。
 「こちら、アストリアス。シェルターへの避難の定刻時間を計測した。逃げ遅れた人の捜索を軍・警察に協力を要請する」
 無線通信の向こうで承諾の声を聞いた。
 シェルターの中では怪我人の治療が始まっている。
 壁際の椅子で休むシュナイゼルのもとに、救急箱を抱えて戻って来るカノンの姿に安心した。
 「カノン、殿下を頼んだ!」
 「どこ行くのよノエル。あなた怪我してるんでしょうが」
 ノエルは入口に向かう足を一度止め、シュナイゼルのもとに寄り、別れを告げることにした。
 「殿下。楽しかったですよ。……姫様をよろしく頼みます」
 彼は普段通り穏やかに微笑んだ。ノエルが立ち上がり入口まで走った。――走りながら、懐に隠し持っていた拳銃の存在を感触で確かめた。
 シュナイゼルははじめ、その言葉の違和感に気づかなかった。
 戯けた物言いを好む、彼の冗句だと思った。しかし、ノエルには――姫様≠ネどと呼ぶ存在がいただろうか。
 彼は度々、カストラリアについて詳しい見識を披露することがあった。単に頭脳明晰であるから。博識であるから。納得のしようはいくらでも出来た。――だが、彼は、ノエルは、折に触れて戴冠式の話や婚礼の話をした。歓心を買うための話題――本当にそうだろうか?
 姫様とは、シュナイゼルにとっての彼女のことである。
 ――姫様≠ニ呼ぶのは、ティラナをよく知っていなければ現れない呼称ではないか。つまり――王宮に仕え、親しい間柄であり、ティラナ≠フ死を知らず、外国のブリタニアに存在するのは――。
 シュナイゼルは目を見開き、無意識に椅子から離れていた。四方八方、縦横無尽に入り乱れる人垣をかき分け、埋もれていく背を追いかける。

 「――ノエル! 待ちなさい!」

 彼は、強い衝動に突き動かされているように、脇目も振らず、一直線にシェルターのシャッターに走っていた。
 途中、追いかけたカノンがシュナイゼルを引き留めようと腕を掴んだ。
 「ちょっと殿下、お待ちください! 貴方まで! 殿下! シュナイゼル殿下!」
 「待て! シャッターを閉めろ! 逃がすな!」
 シュナイゼルの怒声混じりの命令に多くの人々は衝撃を受けたじろいだ。
 操作盤付近にいた生徒がシャッターを制御するスイッチを操作し、緩やかに下りていく隙間の間隔が狭まっていくのに気付いたノエルは速度を上げた。
 入口前にいたダローウィンが突っ込んでくる人影に危険だと判断し、ノエルを止めようと手を伸ばしたが、彼はそれを振り払った。
 「どいて!」
 「おい、アストリアス! 外は――!」
 直後、人の壁から現れたシュナイゼルにダローウィンは驚いた。
 「止めろ!」
 「殿下!?」
 そうしている内に、ノエルは床との距離が近くなった隙間に身を滑り込ませ、屋外に通じる通路を進んでいった。 
 シュナイゼルはシャッターを破ろうと体当たりした。
 「ティラナ……! 待ちなさい! ティラナ!」
 避難シェルターのシャッターはびくともしない。
 シュナイゼルは操作盤の前に立つ生徒に命ずる。
 「扉を開けなさい!」
 追いついたカノンが呼びかけた。
 「殿下、お待ちください! 外にはテロリストがいます!」
 「だからだ!」
 痺れを切らしたシュナイゼルは、操作盤を自ら操作し、シャッターを上げた。
 取り乱すシュナイゼルの姿にカノンは自然と呟いた。五年もの歳月を同寮で過ごした彼の見知らぬ一面。何が彼をそうさせているのか。
 「殿下……いったい……」
 周囲にいる生徒達も動揺と困惑の色を隠せない。
 駆け足で通路を行くシュナイゼルは携帯を取り出し、屋外に残る護衛に向けて連絡を入れた。
 「ノエル・アストリアスを捕獲しろ。直ちに!」
 

 硝子の割れる音がどこからともなく響き、それに呼応するように悲鳴があがる。
 屋外には避難していない参加者と、寮生の混乱は続いている。
 「西シェルターは埋まっている。東シェルターに避難して! みんな、東に避難! 東に!」
 手を振り避難を促す。
 耳に装着する無線に向けて呼びかける。
 「こちら帝立コルチェスター学院。準備委員会。非常事態発生。軍に通達願います。学院内に武装者複数名の乱入、発砲あり。安全シェルターを開放済み。退避誘導中です! 繰り返します――」
 『わたし』はふと、あることに気づいた。今夜はあの気配≠ェしない。
 「あいつは来ていないのか!?」
 悍ましい――全身が強張る恐怖、フラッシュバックを伴う戦慄するあの男の接近を予感させる気配≠ェ。――だとすれば、今宵の目的はシュナイゼルへの襲撃作戦か。彼は避難させた。――どちらにしろ、避難シェルターに戻ることも、学院に留まり続ける選択肢はない。
 ノエルは携帯電話をへし折り、教会脇の水飲み場に捨て置く。
 ――あの男は、私を追いかけてくるだろう。
 追いかけてきて、殺す。
 カストラリアでもブリタニアでもない場所で、あの男を仕留めなければならない。それには時間が必要だ。
 『わたし』は工学棟方面へ走り抜け、脱走シュートを経由し学院外の産業廃棄エリアに用意していたバイクを引き起こした。
 座席の下に隠していた荷物から、海外で購入した携帯電話を取り出して手早く起動させた。回線を確保しつつ、別途用意していたハンズフリー無線を耳に装着する。ヘルメットを被るとバイクに跨った。広大な敷地を吹く乾いた夜風の中に紛れていく。
 ペンドラゴン空港まで、インターステート・ハイウェイ経由で四十分。
 速度制限を無視し走らせる。
 携帯に登録していた連絡先を選択すると、四コールのあとノイズ混じりに相手が電話口に出た。   
 「やあ。元気? ああ今、バイクに乗ってるの。うるさくてごめん! ……そっちに数日以内に行くんだけど……お邪魔していいかなあ?!」
 

 a.t.b.二〇〇八 17th May
 帝立コルチェスター学院 教会前


 シュナイゼルが避難シェルターから構内に出ると、複数人の護衛が警護態勢に入った。
 「ご無事でございますか。……殿下の安全を最優先にしろ!」
 敷地内には軍のトラックが入り、現場指揮官の軍人がシュナイゼルの前で礼をとった。
 「シュナイゼル殿下、シェルターにお戻りください! 何名か拘束しましたが、完全に安全とは言い難い……」
 「ノエル・アストリアスの保護を急ぎなさい」
 「は? ノエル・アストリアス……でございますか?」
 指揮官は眉根を寄せ当惑した。助けを乞うように周囲の護衛を見渡し「手は尽くしますが……」と曖昧な返答に、彼は話にならない≠ニ僅かに首を振った。
 そして護衛に向かって「急げと言っている」と念を押し、急かした。
 建物付近から、避難誘導役を買って出ていたマイダネットがシュナイゼルのもとにやって来た。
 「マイダネット。ノエルに連絡はつくかい」
 「いや……それが。音信不通で。……殿下、申し訳ありませんがこの後の対応について指揮を……」
 「ダローウィンに引き継いで。彼はシェルター内にいる」
 準備委員会の生徒が息を切らして報告した。
 「警察と軍の増援が到着しました!」
 「通報は誰が?」
 マイダネットが答えた。
 「私です。……ダローウィンも先程行ったと報告を受けています」
 シュナイゼルは指揮官に尋ねた。
 「学内にテロリストの残留は?」
 「今確認が始まります。……皆様がシェルターから出ないようにお伝え下さい」
 指揮官はマイダネットの方を向き、伝令を頼んだ。
 事の重要性を認識しているはずもない彼らの優先順位の中から、ノエル保護の優先度が押し下げられていく。
 「ノエル・アストリアスの捜索を優先しなさい」
 マイダネットが首を傾げる。シェルターから出たカノンがシュナイゼルに追いついた。
 「捜索? そういえば、あいつはどこへ? 学院内にいないのか?」
 「シャッターの外よ。さっき、出ていったきり」
 「なんでシェルターから出たんだよ」
 「それは……避難誘導のためじゃないの。わからないけど」
 シュナイゼルは、暖色の光の灯る、ガーデンライトの柱に拳を激しく叩きつけた。柱に加わった衝撃音は長く、不快に、響き渡る。
 彼は、言い聞かせるように低く唸った。
 「ノエル・アストリアスの捜索を、最優先しろ……!」
 「殿下!? おやめください。お怪我は……」
 カノンは叩きつけられた右手を確認した。シュナイゼルは堪えるように息を吐き、俯いた。それは内面的な苦痛を凌いでいるように見えた。
 「……い、Yes, Your Highness……速やかに警察の方に申し伝えます」
 「待て」
 短い制止に、指揮官は踏み出した足をピタリと止めた。
 「は、はい。まだなにか……?」
 おそるおそる尋ね返す軍人を、これほど憐れに思うことがあるだろうか。
 彼の完璧な塗装の下、飾り気のないにもかかわらず人を従える力の強さは健在で、生まれの違いを実感させられる。
 「軍の方にも捜索の伝達を。迅速に。いいね」
 「Yes, Your Highness」
 「まだだ。……空港と州間高速道路のセキュリティチェックを強化するように。発見次第保護を。……行きなさい」
 「Yes, Your Highness!」
 指揮官は一礼するとトラックに走った。
 「クソッ……」
 シュナイゼルは吐き捨てて、ガーデンライトの麓のベンチに座った。白く端正な手指が膝の上で額を押さえた。
 カノンはマイダネットに「殿下を頼む」と指示を受け、その場に残った。
 頭上の光を受け彼の金色には、哀しいほど綺麗な王冠の輪が浮かんでいた。突然のテロとシュナイゼルの豹変という不測の事態に、漸く現実を飲み込めるようになってきたカノンの胸中に――あのノエル・アストリアスが何者だったのかといった疑問が浮かび上がってきた。
 どれだけそうしていただろう。豊かな髪の隙間から、白い鼻先が覗いた。
 「殿下、喉が渇きませんか」
 カノンの労りに、シュナイゼルは無言のまま立ち上がった。
 教会付近の水飲み場に連れ立つと、剥き出しのコードだけで、上部と下部が繋がった携帯電話の残骸が放置されているのを発見した。色味とデザインから、カノンがよく目にしていたノエルの携帯電話だった。
 「……殿下。これ、ノエルの携帯ですわ」 
 「押収して」
 「は、はい」
 彼の声音は色をなくしていた。
 普段の抑揚のなさよりも、より機械的で、情の起伏も、温度ものらない透明な音でしかなかった。
 「ハンカチを出しなさい」
 「予備のものなら……」
 「違うよ。血のついたハンカチを。ノエルのね」
 ポケットの中を探った。講堂内での混乱の最中、ノエルの額から流れる血を拭いた時に使ったハンカチを差し出した。
 彼は赤黒く染み込んだシルク生地のハンカチに目を凝らし、懐に仕舞った。
 さらに冷めた瞳がカノンを見据えた。
 「カノン・マルディーニ。……君は、ノエルともっとも親しい間柄だったね」
 「え、ええ……」
 「彼の逃亡経路にも、詳しいね?」
 「……それは」
 心当たりは十分過ぎるほど――たっぷりとある。
 工学棟にある、ロイドの作った脱走シュート。過大な規則違反である。罪の自覚とその後の罰を恐れは避けられない。退学も確実だろう。シュナイゼルはそれにも気づいているのか、片眉に力を入れ深く沈みこませ、氷柱の鋒のように鋭く睨んだ。トンと、人差し指がカノンの胸を突いた。
 「私をこれ以上欺かない方がいい。君が供述しなければ、君の家は事業再興も行えないほど、完全に没落するだろう」
 「なっ……!」
 「それほどの事をしているという意味だ」
 シュナイゼルは学院に在籍する生徒のあらゆる情報を網羅し記憶している。カノンの抱える問題や悩みも知っていた。
 彼は後ろで手を組み、脇を抜けた。シュナイゼルは恐ろしい男だと理解していたが、態度の柔らかさが抜けた状態の、とくに今日は一段と容赦がない。
 悪足掻きと知りつつも、カノンは最後まで粘ろうと声を振り絞った。
 「……確認をさせて欲しいですわ、殿下。時間を……」
 振り向きざまに、シュナイゼルの絶対的な美貌が、目と鼻の先まで迫っていた。
 「この状況で私へ上申する権利はないよ。すべてを晒しなさい。余す所なく真実を教えてくれるね?」
 無機質な反射の奥。宵の明星の小宇宙。人は一度でもこの人の瞳に魅入られることを願うが、極地に到達した者でしかみえない景色というものがある。
 「……Yes, Your Highness」
 とても寂しいところだ。鳥の囀り、幾重もの砂埃や、地球のすべてが、愛のかわりになるものを連れてきても。
 彼はそこで独りきり、渇きが癒えるものを待ち続けている。
 
 カノンの屈服あるいは降伏を受け止め、シュナイゼルは自身の持つ携帯電話を取り出した。充電口に――独立回線と傍受を阻害する特殊機器を装着し事態の共有を速やかに図った。カストラリアは午前中だ。
 「すまない、ハーゲン。落ち着いて聞いて欲しい。彼女を見つけたんだ。でもね……捕り逃がしてしまった」
 電話口の侍従長ハーゲンは動揺を抑えようと声を潜めて、深く息を吸った。
 「詳しい話は今はしていられなくてね。要望通り進めて欲しい。いいかな。……こちらの方にドクターを数名、そちらの捜査員も送って欲しい。……お願いだ。すぐだ。明日の朝にはブリタニアに着くように。こちらで複数名、事情聴取を行う必要がある。……それも追々の報告になる。……彼女は……捜索させている。まだブリタニアからは出ていないはずだよ。空港は閉め切らせたから。……ドクター達を専用機で寄越して」
 ハーゲンは察しよく、慎重に、それがシュナイゼルの至近距離にいた人物だったのではないか――と言い当てた。
 シュナイゼルは思わず「あはは」と笑い声をあげた。
 「……あの子はね、完全に男だったんだよ。これが、どのような意味か……わかるね?」
 彼は言葉を詰まらせて、ああ……と嘆きの混じったため息を漏らした。
 簡単な挨拶を二、三したあと通話を切り、シュナイゼルは沈痛な面持ちで、芝生に視線を落とす背後の少年に声をかけた。
 「待たせて悪いね。カノン。手始めに託されたものを調べようか」
 「託されたもの……?」
 カノンは小首を傾げた。
 シュナイゼルは彼の反対側の肩に手を置き、そっと耳元で囁いた。
 「天井裏には、さぞ恥ずかしいものが隠されているのだろうね?」
 カノンは大きく開いた瞳で、シュナイゼルを見つめ返した。


 a.t.b.二〇〇八 17th May
 帝立コルチェスター学院 ケント寮
 

 ケント寮生達は東にある避難シェルターに退避していた。
 赤レンガとクリーム色の三階建ての建物の入口に、寮長レックスが照明を手に待っていた。
 「アストリアスが行方不明というのは本当ですか、殿下」
 「間違いないだろう。口では軽薄だが、途中で投げ出すようなことをしない。その彼が委員長 ――指揮官の役を外れている」
 寮長レックスはなぜ?≠ニ疑心を隠さなかった。
 無人の寮内はしんと闇夜の静寂に抱かれていた。玄関前に立つ護衛たちに「君たちは寮の周囲の警護を頼むよ」と言った。
 ノエルの自室は整理整頓され、どの生徒の部屋にあるような物が室内に備えられている。窓の手前の勉強机、その机上には、積み上がった教科書、ノートに筆記用具、購買部で買ったキャンディやキャラメルの箱。クッションの敷かれた椅子、壁に掛けられたカレンダー。ハンガーに吊り下げられた制服。ダブルベッド。枕元には聖書と鎮痛剤の入った瓶。
 備え付けの冷蔵庫の機械音が地を這っている。冷蔵庫の中にはミネラルウォーターが数本転がっている。奥にはシャワールームとレストルームがあり、ほのかにボディソープの香りの残り香が鼻腔を擽った。
 小さく纏った居室にあるものが、今日まで、つい先程までいた彼の存在を代わりに証明している。
 シュナイゼルは同行者のカノンを振り返った。
 彼はレックス寮長から照明を借りて、光を天井に当てた。じっくりと観察し、秘密の入口となる切れ込みを探し、一箇所、赤い印に目が留まった。
 「これですわね」
 「ふむ。……開けて。……とりあえず、この部屋を保護したい。いいですか、レックス寮長。捜査員が到着し、検証するまで弄らないようにお願いします」
 「え、ええ。……殿下。しかし……いったい、アストリアスは何をしでかしたんです?」
 「……そうだね。逃亡かな」
 「はあ……? 家出ということですか?」
 「長い家出ですよ」
 カノンはベッドの上に勉強机の前の椅子をのせ、天井の板を外した。


 a.t.b.二〇〇八 17th May
 帝立コルチェスター学院 工学棟・ラボ


 真っ暗なラボの中に懐中電灯の光が差し込む。
 目当ての人影がいないと踵を返す靴音に、その部屋の主は慌ててデスクの下から這い出た。
 「で、でで、殿下ぁ!? 外すんごい荒れてましたけどぉ……!」
 「ロイド、参加しなかったのね……!」
 「いやぁ〜それが、全ッ然、興味なくて! サボり得ってやつ?」
 ロイドの無事にカノンの声が弾んだ。卒業生の一人でありながらロイドはプロムに参加せず、ラボに籠もっていたようだ。
 シュナイゼルはラボの照明を点け、ロイドの前を横切りロッカーの前にしゃがみ込んだ。
 カノンはそっとロイドに囁いた。
 「ねえ、ロイド。ノエルはこっちに来た?」
 「え、いやー……」
 眼鏡の奥の薄水色の瞳が泳いだ。
 「もうダメよ。白状する時が来たわ」
 「僕、もしかして、卒業できないやつ?」
 「保証はできないかも」
 ふたりして、恐ろしげに広い背中に視線を向け、再び顔を見合わせた。
 「悪いね。ちょっと」
 彼はコンコンと手の甲で硬い扉の表を叩き、首捻っては後方にいるロイドに問いかけた。
 「ロッカーは開けられる?」
 「鍵は……」
 「ロイド。マスターキーはあるだろう?」
 「そんなの、ピッキングでちょちょいのちょいですよ〜!」
 「では開けて」
 死を覚悟したロイドは汗を袖で拭い、デスクの引き出しを漁った。
 ロイドが針を鍵穴に通し、内鍵を外すと簡単に扉が開いた。
 腕を中に挿し込んで、一つずつたしかめながら、シュナイゼルはノエルの私物を床に並べていった。
 「ガラクタがたくさん……これは……なんです? 殿下、彼なにかしたんです?」
 シュナイゼルは答えず、黙々と証拠となる物品を広げた。
 カノンは次に床に置かれたものに口元を押さえた。
 「ファイル、ノート、……これ、拳銃!? なんでこんなもの……血までついてるし……」
 ポリ袋に小分けにされた物の数々。不穏なものを連想させるアイテム。
 「鍵、薬瓶……小型ボイスレコーダー、ペンライト、ナノチップ、携帯電話……」
 ノエルが何をしていたのか、カノンとロイドは次に疑われるのは自分たちであり、尋問が待ち受けているのは確実だと悟った。
 「あひゃあ!」
 突如としてロイドが叫び、カノンは耳を押さえた。
 「なによ、急に耳元で叫ばないでよ」
 「この薬品どこからぁ!?」
 「それがどうしたの?」
 ロイドはしゃがんで袋に入った茶褐色の薬瓶に釘付けになった。
 「臓器培養とか――人工血液の作成に必要な特殊薬品だよ。S.T.A.G.E. - 3 培養基質っていって一本でお家買えるよぉ。すっごいねえ! 本物ははじめてみた。ラベルを見る感じ、二流品でもなさそう。いやぁ!」
 「ええっ!? な、なんでノエルがそんなもの持ってるのよ。あの子なにやってたのよ! ここにあるってことは盗んできたってこと?」
 「……それ以外で入手方法があると思うかい?」
 カノンとて不良の端くれ。盗人を誇っていいことではないが、前科がないわけではない。だが、出回っていない物の――それも、研究機関でしか手に入らないような品物は別だ。セキュリティが厳重であるし、掻い潜るコストを考えれば消極的に遠回りを選ぶ。だが、ノエルは違ったようだった。
 友人だと思っていた少年の相当な悪事を知り、戦々恐々とする二人の沈黙をシュナイゼルは破った。
 「君たち、徹夜は好きかい」
 『は?』と見事に声が揃った。
 シュナイゼルはラボの外で待っている、護衛の一人を呼び寄せて命令した。
 「すべて押収して。拳銃の血液は明日ドクターに解析させ、彼の結果とも照合させる。……さて」
 ロッカーの奥にぎっしりと収められたファイルの一冊を手に取り、パラパラと頁を捲って内容を掻い摘む。几帳面にファイリングされた書類にはびっしりと、名前ごとに行動履歴や得た情報が書き留められている。
 ノエル――ティラナが接触した主要な人物は最低二十名にものぼった。
 「とんでもないねえ」
 シュナイゼルの呟き声は柔く、呆れが混じった。
 ――ほんとうに困ったお姫様だ。こんなものを残して。
 ティラナはこの約二年で、可能な限り捜査を行い、クーデター後から雇い主であった護国自警会の組織――そして、カストラリア王宮火災およびクーデターの首謀者を洗い出した。最も恐るに足ることは、秘密裏にたった一人ですべてをこなしていたということだ。学院生活と並行させながら。――シュナイゼルを欺きながら。




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午前四時の異邦人
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