硝子降る夜U






 a.t.b.二〇〇八 18th May
 ブリタニア セントダーウィン ウィルゴ宮

 
 日付変更が目前に差し迫っていた。
 シュナイゼルの姿は、セントダーウィンのウィルゴ宮にあった。
 あと二つの用事を終えれば、ブリタニアを発ち皇族専用機でカストラリアへ向かう。予定通りに進めば現地の深夜の到着になる。

 その日の朝、カストラリアから到着した専門のドクター数名と特別捜査官を迎えた。
 カノンのシルクハンカチ、タキシードのラペルや肩口に付着した血液から遺伝子解析が行われ、ノエル・アストリアスの血痕はティラナ王女本人のものと確定した。
 そのことだけでなく、ティラナが抱えていた膨大な資料と情報。証拠の数々は、王宮にいる数十人の従者をはじめとする特別捜査本部の者たちを震撼させた。
 [王女様……なんたる……]
 通信画面の向こうで侍女が顔を覆った。
 失われる言葉。誰の顔にも苦悶の表情が浮かんでいた。彼らは二ヶ月前、ティラナに偽物が存在したのを知ったばかりであった。その直後に、本物が再び行方をくらました。――なぜ、正体に気がつかなかったのかと思っていても、シュナイゼルから提出されたノエル・アストリアスの写真や映像の証拠を閲覧したうえで、苦情を呑み込み押し黙らなければならなかった。
 ノエルとティラナは全くの別人であり、血液以外の生体認証をクリアしているのだから、どれだけ高度で高精細の技術を使用したものでも彼が彼女であると証明するのは不可能である。
 先王セイルがティラナを案じて、マルカに用いた生体実験と技術が濫用されている事実が、従者達の心により暗く重くのしかかった。
 誰かがぽつりと先王が禁忌を破った罰なのではないか≠ニ呟いた。
 [よせ! 王族への冒涜である。なにより……今、我が国が次期君主が不在であっても……こうして、あるのは……殿下の尽力のおかげだ]
 彼らのひとりひとりの眼差しが、画面越しにシュナイゼルを捉える。 
 切望。追い縋り、助けを乞う、下僕の自身の非力を嘆く瞳の色。絡まった糸から逃れる術を失い、鋏で切断されるのを待つ子供が親の助けを求める、潤んだ期待。
 熱を避けるように、シュナイゼルは掠れ気味の声を発した。
 「情報精査も重要だが既に、二七時間が経過している。王女発見に至らず、事態は深刻化している」
 昨晩から今日の夕方頃まで、何人もの生徒に事情聴取を行い、疲労感が顔に現れているようだ。
 侍従長ハーゲンが目ざとく、シュナイゼルの体調を気遣った。
 「殿下。一度お休みになられた方がよろしいかと存じます」
 「休んでいられると思うかい。これが」
 「……しかし。貴方様が大切に思うように……我々も貴方様を大切に思っています。……ご理解ください」
 「いいや。何に代えてもティラナを優先すべきだし、そうする」
 眉間を押さえ瞼を閉じた。目の奥で音が鳴った。
 「……君たちには事の重大さが伝わっていないみたいだ。……彼女はブリタニアの公爵の子息に成り代わっていたが、身辺に警護はおろか、従者を一人もつけていない。……留学にドイツへ行った時もそうだ。一国の法定推定相続人――国家元首となる人が、現在も行方不明。つまり安全保障の概念がなく――国家的な危機管理の欠如とみなされ、外部に漏れれば信用を落とす事実だ。……危険な潜入行動や工作を何度も行っている……協力者がいると思っていたが、残されているファイルを読む限り、すべて単独行動だ」
 深い衝撃に、二の句を継ぐものはいなかった。
 シュナイゼルは続けた。
 「そちらに滞在されているのか、公爵は」
 ハーゲンが端的に答えた。
 「現在追っています」
 「……私はこれから移動する」
 今後の予定を告げると彼は驚いた。
 「どちらへ!? ブリタニアは夜分遅いはずです」
 「言っただろう。なにに代えても優先すると」
 「……殿下」
 「君たちの君主は、私ではないよ」
 従者たちの自己憐憫の目が交わされ、一様に俯いた。
 「ノートの複写には時間を要する。今出せる指示は公爵に取り次ぐこと。こちらでやる事が終わり次第、カストラリアへ行くよ。その時に、残りの情報を共有する。おそらく、搭乗者が数人増える。必要な対応があれば追って連絡するよ。では」
 ハーゲンが黙礼した。シュナイゼルは手元のボタンを押し通信を切った。
 映像は消失し、灰色の画面が映し出される。
 椅子に深く凭れ、長い息を吐いた。長らく、宙を眺め瞼を閉じた。
 時間が刻々と迫っている。
 シュナイゼルは引き出しの中にある金庫を開け、厳重に保管してあるファイル群を机の上に広げた。
 ティラナの最後の研究論文だ。これを研究機関に明け渡さなかった事が原因か、過去このウィルゴは火事になりかけた。弟のアーダルベルトは足に火傷を負った。
 母と弟は身の安全を優先し、ウィルゴを出ていった。
 ファイルを開け、引き千切られたノートの半紙、切り取られたメモ帳の一ページ、折り紙の裏、厚紙、色紙、トレーシングペーパー。様々な種類の紙に筆記体で綴った短い文章。数式、化学式、ドイツ語の医療用語の省略、図式、模様、意図の汲めない波線が暗号のように記述されている。解る者が読めばヒントを得られる秘密のファイルを、喉から手が出るほど欲しがる者で犇めいている。
 ティラナのファイルを再び金庫に戻し、シュナイゼルは手際よく暗証番号を変更した。


 a.t.b.二〇〇八 18th May
 帝立コルチェスター学院 


 時刻は消灯時間を遥かに過ぎていた。
 昨日のプロムナード襲撃から丸一日。生徒たちは所属の寮の建物に軟禁状態となっていた。
 警察と軍の捜査、行方不明の生徒の噂、事情聴取に呼び出されていく生徒、シェルターで取り乱した完全無欠のシュナイゼルの様子の目撃と、飛び交う憶測。
 どの寮も部屋の明かりが灯り、カーテンを開け、窓の外の道とノーサンブリエ寮のある方角を関心を持って見つめていた。
 暗がりの中、屋外の道を進む外套姿の皇子と照明を掲げる大人数の人影に、どこの寮でも「来たぞ!」「殿下だ」と口々に囃し立てた。 
 渦中の人物、シュナイゼルは真っ直ぐにノーサンブリエ寮へ向かっていた。

 帝立コルチェスター学院の理事長、ジョージ・ドゥ・マクナーズ伯爵は蓄えられた白銀の髭を撫で、無人と錯覚するほど静かな学院内がたちまち話し声の熱気が階下から伝わってくるのを、執務机の黒い革張りの椅子に座って感じていた。
 キャビネットの上の置き時計は二十二時半を過ぎたところだ。昨晩から先程まで警察と軍、父兄やマスコミの対応に追われ、ろくに食事も摂れていない。しかし老い先短い身が若人よりも先に根をあげていいものかと、対応に奔走する代表生徒の姿をみれば、自身の仕事に専念してこそ大人の果たす役割だろうと――最後の挨拶に訪れるのを待ち構えていたのだった。
 理事長室の扉が三回叩かれる。「どうぞ」と許可のあと、長身の美しい青年が一礼し部屋に入った。執務机の前に立つのと同じタイミングでマクナーズは腰を上げた。
 「遅くに失礼します。理事長。……この度の騒動の対応に感謝申し上げます」
 「シュナイゼル殿下。そんなことは構いません。理事長としての務めのうちです。……貴方様がご無事で何よりでございます。さぞ、お疲れでしょう」
 青年のきめ細やかな透き通るほど白い肌は青くくすみ、豊かな金色の髪はより艶を帯びしっとりと纏っている。
 将来有望。優秀といわれるこの国の統治者の二番目の子供。男子。容姿端麗、優れた知性と一国を統べる手腕。すべてに恵まれているように見える彼は、窮地に立たされているかのように、表情には憂いが滲んでいる。
 「理事長。休学の申し入れをいたします」
 マクナーズは両手を腹の前で組み、小さく俯いた。
 「殿下……非常に残念です。一生徒としても」
 「いちいち席を開けていては成り立ちません。後任者は選出し、既に伝えてあります。明日、承認をお願いします。……しばらくはメディアに嗅ぎ回られるかもしれませんが、ご辛抱を」
 「ええ」
 生まれながら皇族、帝国建国以前から続く名門家筋の皇子として育ち、今後一生、死後も関心を抱かれる彼に比べれば、マスコミの執拗な追っかけは一時的な付き纏い≠セ。
 テロの最中消えた一人の生徒、ノエル・アストリアス。生徒や父兄をすぐさまシェルターへ避難させた張本人。彼の迅速な対応によって、死傷者は一人も出さなかった。
 だが――なぜあの混乱のなかで、彼が行方不明≠ナ捜索≠オなければならないと早期に断定したのか、シュナイゼルに対してマクナーズは疑問に思っていた。
 「ノエル・アストリアス……彼は……いったい……?」
 シュナイゼルはマクナーズを見据えたが、質問に答えずそのまま続けた。
 「今後、貴方を脅迫するか揺する者も現れることと思います」
 「――はい。それは、結構ですが。……何か、私にお役に立てることがあればお申し付けください」
 「それでは、過不足なく健やかにお過ごしください」
 別れの言葉。
 マクナーズはデスクから休学届の書類を引っ張り出して、彼の方へ差し向けた。
 「こちらに、サインを。殿下」
 彼は懐から万年筆を取り、それまで何度も繰り返してきた仕事の延長線上のように、躊躇いなく、国の名を冠する、特別な名前をサインした。
 「世話になったよ」
 「どうか、お健やかに」 
 シュナイゼルはマクナーズの手を握り、そして背を向けた。
 マクナーズは扉が閉まり切る音がするまで、深く深く頭を下げた。

 ノーサンブリエ寮にシュナイゼルが訪れると、多くの寮生が談話室や部屋から廊下に溢れ出ていた。
 「殿下……!」
 「君たちはもう寝なさい。……必要な荷物を取りに来ただけだから。正式な退去は後日」
 寝間着にガウンを羽織った異母弟――クロヴィスがシュナイゼルの前に現れた。
 「兄上……!」
 「やあ。クロヴィス。……いずれ話す時が来る。今は引き止めないでくれ。頼むから」
 昨晩、クロヴィスはプロムの会場ではなく寮にいた。シェルターでの異母兄の様子を見聞きした、上級生の話や噂に尾ひれがつき、彼の心にはシュナイゼルへの健康の心配と不安が募っていた。 
 そして今目の前に立つ兄の、血色のない陰りのある顔色と、無機質な人形めいた表情に背筋が凍りついた。――クロヴィスの知る兄ではないと叫びたくなるほど、やつれていたから。
 普段なら、なにか気の利いた言葉の一つや二つ考えつくのに衝撃に囚われてしまって、ただ自室のある上階へ進むシュナイゼルの腕を諦めて放すことしかできなかった。

 監督生の部屋前には、カノン・マルディーニが視線を床に向けて佇んでいた。
 「君もだよ。事情聴取は受けてもらうけれど、今日についてはおしまいだ。部屋に戻りなさい」
 目元に落ちた陰の隙間から、空色の瞳が揺らいでいる。少年の声はか細く、悔恨に打ちひしがれていた。
 「私は……責任を感じています。非常に。……殿下」
 カノンには、ノエルの真相について何も告げていないつもりだが、シュナイゼルお抱えの捜査官から受けた尋問やその内容、屋根裏やロッカーから見つかったノートと証拠品の数々――昨晩の彼と、ノエルの奇妙な言動の数々からある確信に至ったのだろう。
 「過ぎたことだ。私は悔やみはするだろうが、責めはしない。彼もそれを望んでいると思うよ」
 「……ノエルには、借りがあります」
 カノンは一歩も譲らないだろう、と直感してシュナイゼルは息を吐いた。
 「……わかった。では支度をしなさい。君の事情聴取は道中私が執り行うから」
 扉前のカノンは首肯して、自室へ急いで戻った。
 シュナイゼルも部屋に入り、必要なもののひとつ――ソファの上に鎮座する、ノエルから貰ったテディベアに手を伸ばした。

 夜空には細かい星が瞬いている。
 昨晩の騒動が嘘のように、裏側は静かだった。正門前ではマスコミが昼夜を問わず詰めかけていた。
 学院裏門の車寄せで、春物のコートを羽織ったカノンは、トランクを提げたシュナイゼルに質問した。
 「どちらへ?」
 「うん……ブリタニアの中だから遠出ではない。……カノン、パスポートは持っているね?」
 「え、……ええ。外出時には携帯しています。仕事柄、必要になる時もありますから。……まさか、私も?」
 「ついてくると言ったのは君の方からだ。明朝ブリタニアを発つ。こちらから出る分には問題ないが、向こうに到着した時に必要になる」
 「わかりました」
 マスコミを避けるために、普段とは違う色のリムジンが数台、車寄せに進入し、シュナイゼルの目の前で停車した。
 従者が数名降りて頭を下げた。
 「彼も連れていくよ」
 ちらりと従者たちは主君の隣に控えるカノンを見た。
 シュナイゼルはカノンに向けて注意事項を告げた。
 「まず言っておこうか。……この先、私の隣で見聞きするいかなる情報の漏洩も禁ずる」
 「はい」
 「私のそばにいることを望む者には、すべからく従ってもらっている。私の許可なく不用意な発言や行動をとらないこと。……今非常に気が立っているのでね。ご容赦願うよ」
 「Yes, Your Highness」
 カノンは学院でのシュナイゼルのことしか知らなかった。
 テレビやニュース、メディアに登場する有名人と日常を過ごしている稀有な経験をしていたが、表にいる彼と行動を共にしたことなどはなく、どこか遠い夢物語のような感覚を持っていた。
 その注意事項を聞いて、彼にとってはこれが日常≠ネのだと思い知らされたのだった。
 従者のひとりが、そっとシュナイゼルに近づき目的地を確認した。
 「殿下。フェニックスの方でお間違えないでしょうか」
 「ああ。彼の残した資料と音声には間違いない。先方とのコンタクトも取れている」
 「それでは、座標から割り出して住所の特定を行いますので、一時携帯電話をお預かりさせていただきます」
 外套の大きなポケットに収めていた携帯を従者に預けると、もう一人の従者がリムジンの後部座席のドアを開けた。
 「さあ。乗って」
 彼はカノンに声をかけ、乗り込んだ。


 a.t.b.二〇〇八 19th May
 ブリタニア 車内 

 
 リムジンの内装を見るのは初めてで、カノンは内心落ち着かなかった。
 行き先はフェニックス、ブリタニアの北西部にある地である。こんな深夜にそこに何の用があるのか皆目検討もつかない。
 シュナイゼルはリムジンの車内に同乗していた捜査官と話し込んでいた。話の内容は、明朝出す専用機や時刻について、捜査させていた何かの鑑定結果の詳しい話、製薬会社の話、銀行の話、貴族名簿の話……とカノンが口を挟む余地は当然ないものばかりだ。
 そうしている内に、いつの間にか日付変更を越え、リムジンは州間高速道路を下り、山間部に入っていった。
 携帯の位置情報からわかるマップでは、フェニックスまではあと数時間かかるらしい。捜査官との話を終えて、シートに凭れるシュナイゼルをみてカノンは呼びかけた。
 「すこし眠りますか」
 「……そうしたいところだが、専用機に乗るまではお預けだろう。これからが正念場だから」
 彼の白い指が眉間を揉んだ。
 「捜索の方は?」
 シートの裏の座席に待機する捜査官が簡潔に答えた。
 「かなり難航しています」
 「そうだろうね。学院にすべて残して、煙のように消えた。あるいは、砂漠の砂に自ら埋もれていった。……急いで。捕まったら厄介どころではない」
 恐ろしい会話をしている――と思った。
 断片的な情報から、話の中核は常にノエルであることはわかっているが、存在の重要度はどんどん高まっていくのを感じていた。
 カノンの受けた尋問は法的な節度ある内容だったが、捜査官の鋭いナイフのような視線は犯罪者扱いだった。不良と自称し、過去どんな荒事にも慣れているつもりだったが、本職相手は別格だ。
 ノエル・アストリアスとの接触した当時の話、日常的な行動、秘密の行動についてもすべて吐かされたが、彼らは納得のかない様子で、偽証罪について滾々と説いた。カノン以外にも複数名、彼と親しかった者は同様の扱いを受けたようで、取調室となった部屋の前のソファでぐったりしていた。
 カノンはその場で直に尋ねるのを憚られたが、彼らの秘密に探りを入れることにした。
 「……殿下とノエルは、どのような関係性だったのですか」
 「――関係性か。一言では尽きないね」
 すこし間を置いて、気迫のない瞳を流し、シュナイゼルは回答した。
 「君よりも学院で過ごした時間は短いけれど、……いいライバルになれたと思っているよ」
 凍てつく瞳の中にふと優しさが見え、それが特別なサインであることを見抜いた。
 「好きだった?」
 出過ぎた質問を呑み込むのには遅すぎた。彼はふっと綺麗な微笑みを湛えた。
 「好きというのが、いったい何を指すかによるね。……彼の正体を確定させてしまった今、興味関心で言葉が足りるかどうか……」
 言いながら、空調の暖かさにシュナイゼルは外套を脱いだ。
 従者が二名分の紅茶とクッキーをテーブルに用意した。彼の生白い右手が、琥珀色の液体に満たされたカップを持ち上げ一口飲み下すのを待った。
 そうしてカノンも紅茶に手をつけた。非常に香りのよいものでありながら、独特な風味を持っている。希少品種であることは間違いなかった。シュナイゼルは黒い窓の外を眺めて言葉を続けた。
 「……私は彼を騎士に叙するつもりでいた。それだけ優秀で……私にとって価値があった」
 聡明な白い額に皺が寄った。そして複雑な笑みを浮かべた。カノンの見たことのない微笑みだった。
 「彼は敗北を認めた。床に膝をつき、頭を垂れたよ。――演技は完璧だった。最後まで」
 「あの人が、自ら明かさなければ、何も知らぬまま……逃していた。……私の敗けだよ」
 「自ら明かしたのであれば、引き分けだったのではありませんか」
 「ステイルメイトだって? ……はは。条件は揃っていたかもしれない、三つのね……でも違うよ」
 シュナイゼルは、肩を震わせて力なく顔を左右に振った。
 「あの人は、時間がないとわかった時、自ら負けるように仕向けるから。……そうなった時点で、敗けなんだ。勝ちを譲られた。私たちはいつだって、勝敗のつかないゲームをしてきた。勝ち負け以前の話なんだ」
 カノンは息を詰めた。
 勝負事にこだわりがないと言いながら、彼は常に王道で勝つ人だ。――そのシュナイゼルに敗け≠認めさせた。信じ難い、という表情に彼は目を細めた。
 「ヒントはたくさんあった。だが……悪役を演じるのが上手でね」
 シュナイゼルは背後にいる捜査官に指示を出し、ファイルを受け取った。
 中身は事情聴取の書類だったのだろう。何枚か捲りながら言った。
 「アーニー・モルケットの所属するデザイナーブティックは君の馴染みの店だったんだね」
 「はい」
 「おそらく、最初の騙りだ。彼は君を利用し、十一月の晩餐会に突如として現れた。私にスピーチを読ませたのは、声が男性であるから。……ドレスは王室内務局の実在する職員の名を騙り、制作させた。……アーニー・モルケットには七年前、婚約後の王女の誕生日、あのバルコニーに立ち国民へのお披露目のために着るドレスを作らせていたんだよ。彼はその記録を見てモルケットに依頼した。しかしブリタニア人であることは知らなかったんだろうね、足跡が残った」
 シュナイゼルの言葉の中で、性別がころころと往復する存在。
 彼女は――彼であり、彼は――彼女であると。
 そんなことが有り得るというのだろうか。まだ扮装するなどなら理解できる。カノンも女装をするし、その瞬間だけ異性になる。彼はファイルの向こうで窺った。
 「もうわかったかな」
 「……し、しかし……彼は……」
 ノエルはカノンの趣味を否定せず、自らもそうしたいと言ったのは、男性となった肉体の状態で女装をし、晩餐会に出席するためだった。その時、カノンはノエルの体を見ている。その頃は――直近よりも、少年特有の薄い肉付きだった。下着姿になった時、たしかに男性の象徴も持ち合わせていた。
 「私も何度か見たことがあるよ。体はしっかり男だったね」
 絶句とはまさにこの時のことをいう。
 頭の中で、恐ろしい想像の泡が、膨らんでいっては消えていく。
 義肢や義体など機械化をとることで身体のカバーを行うサイバネティクス分野で、生身の人体との融合は近年盛んに研究されている。ところが、人体の生身をそのまま本人のものに修復を可能にするのであれば、それらの分野の価値は下がるだろう。
 「……彼女は、彼、だったのですか?」
 「そうだよ。もしくは、彼は彼女だった……かな」
 カストラリアが医療先進国であることは知識として知っていたが、その領域に到達していることと、第一人者本人が体現しているのはいったい――?
 与えられる情報に矛盾が生じているように思い、カノンは何度か頭を振った。
 「……殿下の仰るように、その女性が……男性であることは承知しましたが、どうしてそのようになったんです?」
 はたして、彼は本当に――彼女なのか?
 カノンの疑念を払拭するように、シュナイゼルはシートから腰を浮かせカノンに迫った。凄絶な美貌が真っ直ぐパーソナルスペースを侵犯するのに思わず後退った。
 「カノン。肉体をすべて交換したとしても、最後まで本人のものとして残るのは、何処だかわかるかい?」
 生え際から滲む汗が、顎下に滴り落ちる。
 「血液と、ここだよ」
 ここ≠ニいって彼の指先は、そっとカノンの頭に触れた。
 「……骨や神経も取り替えに難しい代物だけど、不可能ではない。……彼女の頭脳はそれを可能にする論文を書き、ほとんどは施術者の技量で片付くまでに、再生医療分野は至った」
 化粧品を取り扱う事業者で、皮膚再生に関する研究情報を知らない者はモグリだろう。また、その理論構築者の名も。
 「君のハンカチや私の衣服に付着した血液は、彼女のDNAを証明した」
 「……そんな」
 なぜ、彼女が完全に異性になりきる必要があるのか。
 それに、彼女がノエルである内にも彼女――王女は存在している。
 暫し思考を巡らせて、カノンは正解を当てた。
 「影武者を、お使いに?」
 「理解が早くていいね」
 シュナイゼルは力なく微笑んだ。
 「そして――このあたりがややこしいんだけれど、彼女は……我がティラナ姫は、大変大きな思い違いをしていてね。……自分自身を影武者だと、思い込んでしまっているんだ。だから、玉座に戻ってこないし、正体を明かすこともしなかった」
 「は、はあ……? ご自覚がないということなんですの?」
 「そう。だから問題なんだよ。彼女は自分を王女だと思っていない、それどころか孤児だと思っている」
 「……は?」
 顔が引き攣ったのがわかるほど、不可解だという表情をみてシュナイゼルは声をあげて笑った。
 「ははは。……それが困っているんだ。婚約を結んだ頃にはすでに思い違いが始まっていたし、私がその事情を知ったのもごく最近だ」
 やれやれと、シュナイゼルは首元の翠緑のリボンを緩めて、するりと抜いた。
 カノンは自身の頭脳が、情報を正しく呑み込めているのか不安になった。
 それは、国ぐるみの結婚詐欺ではないか。シュナイゼルに何ら非はなく、不平等な契約となる。
 「そ、そもそも――どうしてそのような状態に?!」
 「……その話をするとなると、二日は欲しいし、最低限カストラリアの歴史、政治、医学分野の勉強が必要だ。どれもブリタニア側の視点のものではないよ。――中立国だからね」
 それは知っている。
 経営者の端くれとして、世情に疎いようではやっていけないからだ。
 しかし、シュナイゼルは摂政で実質、その中立国の君主代理を務めている。ブリタニア人でありながら、他国の頂点において見える景色は異なるのだろう。
 「エリア四というのは虚構だ。私はブリタニアの皇子で摂政政治を敷いているけれど、ブリタニア統治の体裁をとっているに過ぎない。軍の基地も置いていないし、経済制裁も、多くの統治エリアにあるような身分区別もしていない。多少誤魔化しの政策を取るが、ごく小規模のものだ。ここ本国の上申のためにね」
 「……では、七年前から変わっていないということですか?」
 「全く変わっていないわけではないが、方針は先代国王治世と何ら変更はない。先進国に過剰な干渉はしない主義でね」
 それは。
 なんたる惨さだろう。
 「……あんまりですわ。殿下。いくらなんでも」
 「同情してくれるかい? 世界で一番情けない男だ。……おまけに本人に一杯食わされて」
 シュナイゼルは喉の渇きを癒すように紅茶を飲んだ。
 「今更婚姻条約を反故にはできないし、……手痛い代償も支払わされた。これからまた支払わなくてはいけない。……それが狙いなのだろうね。私たちを陥れ、引き裂き、力を削ぎ、追い詰める。……互いを恨み合うように仕向けている。……狡猾だ。いっそ感服するよ」
 「……敵の目星はついているのですか」
 「すべて彼女の捜査のおかげで、ほぼ確定している。証拠はたくさん用意されていた。……私はそれまで、ノエルのことをティラナを匿っている組織の一味だと考えていた。彼女は露悪的に振る舞い、私の前で悪役を演じ、信じ込ませた」
 空になったカップに従者がおかわりを注いだ。
 「昨晩の襲撃は、最終通牒だった。私たちを袋の鼠にし、あわよくば抹殺するつもりだっただろう。それか、甚大な被害をもたらし、私の名誉を貶めようとした。……しかし、そうはならなかった。ティラナは私を避難シェルターに押し込み、逃亡した。……我々は命を狙われている」
 彼は二杯目の紅茶の香りを味わい、一口含んだ。
 「理事長に休学を申請し、受理されたよ」
 「……殿下……」 
 「これでいいかい。彼女が私を……満たしてくれる人だよ」
 「殿下」 
 もはや言葉が見つからなかった。
 「賢い子なんだ、とても」
 「……存じていますわ」
 「人を魅了する」
 「……ええ。それは、もう」
 「私は彼女を探している」
 恐ろしいと思っていた男の実像は、ひどく弱々しく、無数の傷を負っていた。
 カノンは俯いた。
 「……殿下はこれから……?」
 「今のままでは、カストラリアは沈みかけの船だ。……王位争いを除けば、数百年戦争のない優れた国の象徴がいないというのは、世界のためにもならない」
 それは、その通りであった。
 彼の国は世界の均衡を司っている。
 「戦争と平和だ。北風と太陽。戦争を主導する国の皇子と中立国の王女。私たちは共にあらねばならない」
 ティラナ王女というどの局面でも切れる外交カードを、シュナイゼルは九歳の段階で手中に収めたつもりだった。
 カノンは思った。――王女が、もしこの人以外の男を選択していれば、それこそカストラリア王国は早くに潰えていただろうと。
 カップを置き、肘掛けに両手の力を預けて、ぼそりと彼は言った。
 「屈辱的だ。これで二回目だから」
 そして、窓の外に向いて横顔を晒した。
 「ブリタニア内に潜伏していると仮定して、交通局に検問強化を命じているが、音沙汰なしだ」
 握りしめられた拳から力を解き放たれ、シュナイゼルは懐から出したペンを握った。
 「ノエルの留学先は……たしかドイツだったね」
 「はい。ミュンヘン大学ですわ。……散々はぐらかされましたけど……。化学・薬学部……生化学科と聞いています」
 「生化学。……七年前に遺した未発表の論文の内容からいえば、今後、彼女の第一分野となる。そして四つ目の博士号を取得するだろう。欧州大学ランキングトップへ国家危機クラスの人材流出だ」
 従者がメモ用紙を差し出した。彼はすらすらと大学の情報を書き込んでいった。
 「ふむ。あまり使いたくなかった手だが、持てる人脈を使おう。ベルリン大でなくて母君の機嫌を損ねなければいいが。……父君にもそろそろ気取られてしまうだろう。著しい損失に皇籍残留したとて廃嫡になってしまうかな? 私は」
 物言いは軽やかだが、内容は重苦しく笑い飛ばせたものではない。
 世紀の大婚。――望まれるべくして結ばれる、国益と血統的価値を強固にするための条約発効を、多くの者が望んでいる。
 今年に入り、ブリタニア国内メディアでも、いよいよ婚姻の儀の話題が触れられるようになってきた。ティラナ王女が二十歳、シュナイゼルも十七歳を迎え、すでに要件を満たしている。
 卒業を待って進められるのではと世間は見ていたが、休学に至り期待は高まるだろう。
 また笑いながら、己を嘲るように口にした。
 「どうだい。これが湖面を泳ぐ白鳥の水面下だよ」
 彼は――湖ではなく底なし沼に、白い羽が囚われている美しい白鳥だ。



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午前四時の異邦人
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