Epilogue






 a.t.b.二〇〇八 4th August

 
 夏の盛り。
 東アジアは暮れ、中央アジアから西の欧州にかけて日没まであと数時間。
 都市部の街頭ビジョンのモニターには広告映像、バラエティ、ニュースが流れ、人流は無関心に横切り風景と一体化している。

 〈――しかし、これほどまでに大規模な金融犯罪は史上稀にみるものです。取引口座にはブリタニアの貴族をはじめとする富裕層が大半を占め、カストラリアの各銀行を経由し複数の民間人の口座に送金されていました。カストラリア金融庁ならびに事件で使用された各銀行には行政指導が入り――〉

 街の一角で煙草をふかし新聞を睨んではモニターを見上げる老人やビジネスマン。

 〈――先の発表より二ヶ月。銀行の経営再生に不安視する臣民も未だ多いことでしょう。帝国では政庁より一時補填として皇室特別予算から拠出する見通しのようです。同様の対応はカストラリアでも行われます。カストラリアは立憲君主制の体制から私財拠出は危ぶまれるのではないかと、有識者からの厳しい目線もあるようですが?〉

 〈問題はありません。立憲君主とは、憲法上に成り立つ君主を表します。憲法に基づいて君主の権限が制限されますが、王女殿下は現在君主ではございません。また、王女殿下は大変な資産家であらせられるので、拠出額の面についても問題ありません。長期的にも安定した財源と、国家の危機に際してまさに身銭を切る対応。ご英断でございます〉

 あるいはどこかの田舎。緑豊かな田園。
 牧歌的な小さな町や村々の小ぢんまりとした家のテレビ、ラジオ。家の前では子供達が、飼育している鶏を追いかけ回し、はしゃいでいる。そろそろ夕食の時間にしようかと老人が子供達の母親、あるいは家政婦、コックなどに呼びかけ卓上のキャンドルに火を灯し、食前の祈りを始める頃。

 放送局のキャスターは休憩中の束の間、足を伸ばし次に読む原稿を流し読みするか、紙コップに入ったコーヒーを飲んでいる。 主調整室に立つ責任者のもとに、デスクから副調整室を通過して入ってきた情報と書類を確認し、ほんの一瞬、顔を顰め「衛星放送CRVにも」といいデスクの職員の肩を叩いた。コーヒーを啜っていたキャスターは次に読むべきニュースの紙が取り下げられ、新たに差し込まれた内容を読み、前歯で下唇を甘く押さえたあと「これは……」と首を捻り調整室の方とカメラに目を合わせた。
 スタジオ内に「CM明けます!」とスタッフの声が響く。
 キャスターは椅子に座り直し、上着とネクタイを正した。 
 「五、四、三、二……!」
 カストラリア公共放送CAC局は第一報として、その後数カ月間に亘り全世界で使用されるニュースを放送した。
 〈番組の途中ですが――ただいま公共放送CACより、速報が入りました。神聖ブリタニア帝国第二皇子シュナイゼル・エル・ブリタニア殿下ならびに国事行為臨時代行・摂政殿下より緊急記者会見にて重大な発表が行われます〉

 映像はカストラリアの首都、リダニウムの政務宮殿クラリタスの大広間の様子を映し出した。
 収穫最盛期のブドウ畑のように眩いシャンデリアが吊り下がり、赤の絨毯の上には各国の報道記者とカメラが黒い一塊に連なって密集している。壁寄りに一段高く設置された舞台の上には夥しい数のマイクが備え付けられた演台と、その背後に濃紺の下地に、黄の月と灰色のハゲワシの絡み合う象徴的な紋様の国旗が掲揚されている。
 報道陣からみて、演台の右手の大扉が開き、柱や壁に沿って立つ衛兵や秘書官が首を一斉に下げた。
 冴え渡る白の軍服。すらりとした長身。均整の取れた体躯。見る者に委ねられる優れた金色の髪。芸術家を魅了する典雅な美貌。国旗に一礼し、登壇する。
 濃紺の詰め襟姿の首席秘書官が素早く同様の形式張った流れを踏襲し、摂政の背を追い、壇上にいる彼の耳元で囁いた。
 マイクに入らぬよう身をそらしての会話のやり取りは不明。何事かとスーツ姿の報道陣の間で、大広間の中で、緊張の糸が張り詰めていった。
 首席秘書官コルネルがマイクに声が入るよう口元を近づけて、報道陣に呼びかけた。
 「皆様、ご着席ください」
 こそこそとささめきながら用意された上質な椅子に座っていく動きを前に、シュナイゼルは演台の上にシルバーの懐中時計を置いた。コルネルがマイクを整え、黙礼すると壇上を降りた。
 時刻は十九時八分。
 ゆっくりと大広間内を見渡し、口火を切った。
 〈エリア四のカストラリア王国民の皆様、そして報道陣の皆様。ご多忙の中、お集まり頂き感謝いたします。……本日、この場で、皆様に最も辛い事実をお伝えしなければなりません〉
 ペンの走る音が滞り、記者の視線が揃って壇上の摂政に集中する。
 〈三日前の八月一日より、我が国のティラナ王女殿下に対する暗殺未遂事件が発生しました〉
 どっと大広間内がどよめきが起こった。壁際で各社の担当が携帯に指示を飛ばし、記者団が揃って挙手し、口々に質問を浴びせかけた。
 〈ご静粛に願います。質疑応答時間は後ほど設けます〉
 シュナイゼルは淡々と続けた。
 〈……ティラナ王女暗殺未遂事件を受け、私が下した国家の方向性に関わる重要な決定について、正式にご報告いたします〉
 会場内は緩やかにボリュームダウンし、各自傾聴の姿勢に入った。
 〈事件発生以来、王女殿下は依然として深い昏睡状態にあります。世界最高の医療チームによる懸命な治療が続けられていますが、残念ながら、現時点で明確な回復の見通しを示すことはできません〉
 
 地上で爛れた紅玉が色濃く滲むとき。
 人々はそれぞれに――街頭ビジョンの前のものは無関心であり素通りし、民家の憩いの場では退屈だと別のチャンネルに切り替え、別な好奇心からそのままにし「大変ねえ」と他人事として軽やかな心配を口にした。
 
 〈王女殿下がこの国に、そして私自身に、どれほど大切な存在であるか。その想いを語ることは、この公的な場においては無意味な感傷かもしれません。しかし、一人の婚約者として、私は、彼女の命の灯が消えることのないよう、祈り続けています〉

 演台の上。瞼を伏せたシュナイゼルを中継する公共放送局内は慌ただしさを増していった。

 〈この深刻な国難が、私たちカストラリアとブリタニアの婚約の行く末、ひいてはカストラリア王国の未来に暗い影を落としていることは明白です。この不安定な状況を前に、私は摂政として、国家の存続を最優先する決断を下しました。――本日をもってティラナ王女殿下と、わたくし神聖ブリタニア帝国第二皇子の王室婚約に関わるすべての公的な儀式、および公務の執行を無期限の凍結≠ニいたします〉

 ペンの紙を滑る音。語気の荒い話し声。シャッターを切る音。紙を捲る音。忙しない足音。電話の呼出音。タッチタイピングの重なる音。音。音。音――。
 その合間を切り裂くように、言葉の音が進み、文字に換えられ、インクで複写され、液晶に映り伝播する。

 〈なぜ凍結≠ネのか。なぜ破棄≠ナはないのか。それは、この王室婚約が、単なる個人の結婚の約束ではなく、両国間の和平と秩序維持を定める国家間の条約≠サのものであるからです。――もし、この条約を今、破棄すれば、王女殿下の回復を待つ希望の灯は完全に消え、カストラリアは再び不安定な混沌の渦に飲み込まれるでしょう。テロリストたちが望んだのは、まさにこの国の崩壊です〉

 どこかの島で穏やかな波音とカモメの鳴き声、銃声が混じった。



 a.t.b.二〇〇八 4th August
 カストラリア 首都政務宮殿クラリタス

 
 一呼吸置いて、シュナイゼルは報道陣を見据えた。
 「無期限の凍結≠ヘ、王女殿下が目覚め、公務に復帰するその日まで、この国家間の合意を法的かつ不可侵のものとして固定し、私の摂政権限を揺るぎないものとするための、最悪の選択肢の中で選び取った最善の道なのです。――国民の皆様が抱く、王女殿下への深い愛情と、回復を願う切なる思いを、私は理解しています。しかし、その感情を乱し、この国を混乱させようとする卑劣なテロリスト集団が、未だ陰で暗躍していることを忘れないでください。王女殿下の身に起こった凶行は、このカストラリアの希望と尊厳に対する、許しがたい挑戦です」
 
 王宮前にも、政務宮殿前にも人だかりができていた。
 門前の衛兵の列はは胸を張ったまま微動だにしない。山裾に隠れていく光のないあわい。薄い月光が宵闇を携えている。

 「摂政として、私はすべての権力と資源を投入し、王女殿下の回復を待ちながら、この国の秩序を鉄壁の如く維持します。そして、いかなる理由があろうとも、王女殿下に危害を加えたテロリストたちに対し、徹底的かつ断固たる報復を行うことを、ここに誓います。――カストラリア国民の皆様に要請します。どうか冷静さを保ち、無期限に凍結された希望≠胸に、私と共に、この国難を乗り越えてください。……以上です」

 フラッシュが焚かれる。
 水面の表面を叩くような煩わしい音の応酬に、僅かにシュナイゼルの目元に力が加わった。
 首席秘書官のコルネルが再び壇上に登り、質疑応答の時間を告げいくつかの説明を挟んだ。
 お待ちかねと、次々に記者の手が真っ直ぐに伸びる。コルネルの用意したカードには順番が記載されていた。記者は順繰りに当てられていった。 
 「カストラリア・クロニクルの記者カークスンです。……婚約の無期限凍結≠ヘ、事実上の婚約の解消ではありませんか? 王女殿下の容態が長引いた場合、カストラリアの世継ぎ問題はどうなるのでしょうか。シュナイゼル殿下が摂政の座を恒久化する意図があると批判も出るのではないでしょうか」
 シュナイゼルがマイクを調整し質問に答えた。
 「それは先程も言ったように、テロリストが最も望むシナリオです。先般あったブリタニアとカストラリア間のマネーロンダリング事件との関連性も含めて、両国はこれまで以上に連携し、関係性強化に努めなくてはなりません」
 次に当てられた別の記者が立ち上がった。
 「カストラリア公共放送CAC局のヴェンダースです。暗殺未遂事件の犯人、あるいは所属組織について、現時点で何か断定できる情報はありますか? また、事件現場の警備は適切だったのでしょうか。二カ国間マネーロンダリング事件では、王女殿下とシュナイゼル殿下が私財を補填し銀行のバックアップを行うと発表しましたが、今回の暗殺未遂事件との関連性があるのでしょうか」
 シュナイゼルが答える。
 「捜査は進行中です。事件の残忍性と手口から、彼らが王政を転覆させ、再びカストラリアを混乱に陥れようとする明確な意図を持った、高度に組織化されたテロ集団であると見ています。彼らの目的は、和平の象徴である王女殿下の命を奪い、両国の関係性に亀裂を入れること。警備体制については、痛恨の極みですが、いかなる油断も許されない相手だったということです。マネーロンダリング事件との相関は捜査中です」
 壮年の男が当てられる。
 「国際通信社のグレイヴスです。王女殿下の不在が長期化する懸念がある中、カストラリアの経済政策、特にブリタニア系企業の進出抑制については、再検討されますか?」
 「王女殿下の政策は、カストラリアの未来のために非常に重要です。しかし、安定なくして経済発展はありません。直ちに大きな政策転換を行うつもりはありませんが、国家の安定と防衛のため、摂政として一時的に、経済活動の安定化を優先する措置を講じる必要があるでしょう。テロの脅威が払拭されるまでは、治安維持と国内秩序の強化に重点を置かざるを得ません」
 モダンなスーツの中ではやや浮いた派手な色合いのスーツの男が、当てられて立ち上がった。
 「ブリタニア帝国通信社、フラッカーです。シュナイゼル殿下。あなたはテロ集団と仰いましたが、具体的な組織名、例えばアルド・マリーニ≠ネど、以前から反王政派の活動を行っているグループとの関連性について、現時点での見解をお聞かせください」
 「特定の団体名を挙げることは、現段階の捜査の妨げになるため控えます。しかし、私たちは誰が利益を得るか≠ニいう観点から、あらゆる可能性を排除せずに捜査を進めています。先王であるセイル国王と王女殿下が推進された穏健な立憲君主制とブリタニアとの融和政策を最も嫌う勢力、すなわち、カストラリア国内に混乱と憎悪を再燃させ、その中で権力を掌握しようと目論む過激派が背後にいることは明白です。彼らが平和の障害であることは間違いありません」
 質疑応答が続いていく。
 「ザ・ロイヤル・ポストのベルモンテです。今回の事態を受け、摂政として広範な緊急権限を行使できることになりました。カストラリアの内閣や議会、首相などの既存の統治機構との関係はどのように整理されますか? 権限の集中を懸念する声に対し、どのようにお答えになりますか」
 「――私の権限は、王女殿下の不在という極めて異常な事態に対応するための、憲法に則った一時的な代行措置に過ぎません。カストラリアの内閣と議会は、依然としてこの国の行政と立法の中心です。……私は内閣と密に連携し、彼らの意見を最大限尊重します。ただし、テロの脅威が国内の安全保障と秩序を脅かす限り、迅速かつ断固たる対応を取るための指揮系統の一元化≠ェ必要となります。これは独裁ではなく、危機管理です。国民の皆様には、この非常事態における一時的な措置であることをご理解いただきたいと思います」
 「ブリタニアン・タイムズの記者ローズです。――王女殿下と皇子殿下の婚約は、ブリタニア帝国とカストラリア王国の永続的な同盟の象徴でした。今回の事件と婚約の凍結≠ヘ、両国の将来的な関係、ひいてはエリア制そのものの正当性に、深刻な疑念を投げかけるものではありませんか?」
 「逆です。この卑劣な攻撃は、和平と安定を望むすべてのカストラリア国民、そしてブリタニア帝国への宣戦布告に等しい。私たちの婚約凍結≠フ決定は、ブリタニア帝国がこの条約とカストラリア国民に対する誓いを、いかなる暴力をもってしても曲げないという揺るぎない意思の表明です。この事件は、同盟を弱体化させるどころか、共通の敵に対する両国の結束を、以前にも増して強固にするでしょう。和平と安定への道は、誰にも閉ざさせません」
 政務宮殿外がにわかに騒がしくなってきている。控えていた副秘書官が首を竦めて、大広間から出ていった。
 「私たちが今すべきは、責任を問うことではなく、この卑劣な挑戦に対し、統一した力で応えることです。必ず犯人を見つけだし、法の下に裁きを下します」
 王冠なき王は、正面にあるカメラのレンズを睨んだ。


 a.t.b.二〇〇八 4th August
 カストラリア王宮前

 ――誰がこんなことを……――
 ――王女様は無事なのか――
 
 月下。
 憂いのさざめきの波が砂を捲るように、何度も幾重にも押し寄せた。
 王宮前の人の数は時間が経つにつれ増していった。警察車両が到着し、警察官が拡声器で帰宅を促すが誰も応じなかった。
 

 a.t.b.二〇〇八 4th August
 カストラリア リダニウム大聖堂

 複雑に組み合わさった回廊の切妻造の屋根の下。ふたりの枢機卿の邂逅。静謐を愛し、そこに眠る幾難の窮地を越えた者たちと聖者を列する歴史が見つめている。禁欲を象徴する白と黒衣、花紋の刺繍の入る紫苑のストラ。胸元の金の聖十字。
 若い枢機卿が自前の携帯電話を、アーサルトル枢機卿に手渡した。
 「……大勢の市民が祈りに集っておいでです」
 古都ホリドゥラにいるヴィタリス大主教が通話越しに頷き『こちらも同様だ』と言った。
 [おそらく全国的に同じだろう。各教会へ通達しよう。祈りの場と時間を設けようと]
 「はい。大主教」
 そして、アーサルトル枢機卿は通話を終え、若い枢機卿に命じた。
 「ジーン枢機卿。ローマに。教皇にお伝え下さい」
 「はい」
 ジーン枢機卿は短く返事した。
 中庭のある回廊の来た道を、黒衣の裾を揺らし、事務所に向かった。

 カストラリアはその複雑な歴史の変遷から、カトリックを国教会としながら教皇の認可のもとの宗教であった。
 かつての歴史が融和を認め今日がある――長い歴史の合間にローマと友好的に分かれ、役職者の位階の名称をそのまま残し、アルヴェイン朝以前までは国王を名誉的な首長と据えられていた。つまり枢機卿の任命権はローマにあった。
 現在は教皇と国王は反目しない暗黙の了解のもと、国王が枢機卿の任命を行う。国王は宗教を国家機能に組み込んだ代わりに、数年おきにローマに詣でる必要があるが、主と教皇の慈悲によりクーデター後から途絶えていても赦しを得ている。
 ジェラルド・ジーン枢機卿はちょうどクーデターの起きた国王最後の年に、任命されたばかりであった。
 その間、新しい任命はなく、七年経つ今でも彼が一番若い枢機卿である。
 事務室の電話から国際電話を発する。ローマは十五時頃。休憩時にある。お茶を飲んでいたところ、衛星放送で先の記者会見の発表を視聴したようで祈りを捧げようとしていたところだ、と電話に出た向こうの枢機卿が言った。
 ジーン枢機卿は、教皇名を呟き感謝を唇に宿す。
 そして電話を終え、教会に戻る。アーサルトル枢機卿が人々を拝廊へ招いた。側廊に等間隔に並ぶ蝋燭にシスターが火を足していた。
 肌寒ささえ感じる教会が光のぬくもりに溢れている。
 「それでは、皆さん。祈りましょう」
 合図とともに、集った老若男女は心の中で祈りを捧げた。
 ――主よ、慈悲深き主と精霊よ、聖母マリアよ。どうか、王女様とカストラリアをお守りください――
 信仰者の祈りと、祈りの文と。
 人々は瞼を閉じ、胸と頭の前で十字を切った。 
 
 

 a.t.b.二〇〇八 6th August
 ブリタニア 帝都ペンドラゴン皇宮 謁見の間


 その日、シュナイゼル・エル・ブリタニアは上申のために本国ブリタニアに帰国した。
 マスコミはリダニウム国際空港に到着するまで、またペンドラゴンに降り立つ時も、どこも画一的。大量生産されるKMFに必要な金属部品のような人々で構成され、蝿のようにブンブンと執拗に皇族専用車を執拗に追い回した。
 世間はシュナイゼルを悲劇の皇子と憐れみ、都合のいいドラマを生み出していた。ゴシップ雑誌、新聞、ネットニュース、テレビ――金融犯罪ニュースと並び、新規投下された、若い摂政の婚約者と病床に伏す王女は、まるで三流恋愛ドラマの筋書きのようだが、現実のものとなれば忽ち酔い痴れていく。
 経済をメインに取り扱う新聞でもティラナ王女は眠れる絶壁の上の姫、あなたへキスを≠ニいうフレーズが見出しを飾る有り様だ。
 非常に危険で瀬戸際のなか。眠りに落ちる姫。王子のキスでも目覚めませんか?――穿ったような意訳だが、人々はシュナイゼルが演じた記者会見を信じていった。真実はもっとも残酷で――眠り姫どころではなく、野獣かカエルに変えられてしまっているというのに。

 ブリタニアの枢密院には事前の周知が済んでいた。
 彼らは当初、文句を言い募ったが、王女が伏せているのであればやりようがなく、その決定を覆す者は現れなかった。皇宮に戻っても混乱はなく、また、その日の謁見の間は人払いがなされていた。
 堅苦しい気取った正装のマントを翻す。入口から玉座まで繋ぐ赤い絨毯の上――シュナイゼルは黄金の玉座に座す実の父、皇帝シャルル・ジ・ブリタニアの眼下に跪いた。
 ブリタニアに蔓延る問題の現状の流れと、婚姻に関する今後の見通しの立たない状況を詫び、今後実行する対策を簡易的に述べる。叱責を受ける覚悟も出来ていたが、父帝の反応は拍子抜けするほど淡白なものであった。
 「――事後報告という形となり申し訳ございません。陛下」
 「そなたに考えあってのこと。他のエリア政策への効果も期待できよう。すべて一任する」 
 「は。ありがたき幸せ」
 低い姿勢のなか、頭をより深く下げる。
 「依然として国内の銀行については、国庫の予算分から補填に充てさせても構わぬ。ただちに金融機能を回復させ、恙無くせよ」
 「御意」
 短く承諾する。
 国庫からの補填は、予測通りであった。それも折り込み済みで、すでに手は回してある。
 シャルルは息子の名を深みのある声で呼んだ。
 「シュナイゼルよ」
 「はい」
 「さらなる獲得に興じてみよ」
 「……と、いいますと?」
 「この絶好の機会を逃す手はあるまい」
 「さすが、我が父君にあらせられる。……如何様になさいますか」
 「よい。為るがままに」
 ぴくりと、シュナイゼルの硬い表情のなかで片眉が震えた。
 自身の影のなかで思考を巡らせ、その意味を好きにしろ――ただし、適当な成果をあげよ≠ニいうことらしい。
 「……愚息めに、一任すると仰るのですか?」
 玉座にゆったりと腰掛けて、シャルルは笑みを深めた。
 「シュナイゼル。そなたの手腕をたしかめておるのだ」
 これはカストラリア――ティラナとの婚姻の密約の成果も先延ばしになったペナルティだと、シュナイゼルは潔く解釈した。
 「……如何なることでも」
 シュナイゼルの返答は決まっていた。八年前。彼と交わした密約にも応えたように。
 


 a.t.b.二〇〇八 17th May
 ブリタニア 帝立コルチェスター学院 ノーサンブリエ寮


 ノエルの血で汚れたタキシードから着替えるとき、彼と目が合った。
 ベージュ色のソファの上。肘置き場とシートの間を埋めるように、凭れかかっている手触りのよいぬいぐるみ。首元にはトマトレッド、ホワイト、スカイブルーのトリコロール配色の太いリボンが巻かれている。
 ヴォール社のテディベア。十二月のはじめ、ドイツ土産でノエルが買い、シュナイゼルに贈ったものだ。
 馴染みのあるプレゼントといえばそれまでである。円らな瞳を持つ彼に名前はまだない。
 ――『……では、差し上げます。殿下に。可愛がってやってください。ちゃんと名前をつけて。……あ、そうだ。誕生日は八月三十一日です。そのテディベア、中に機械が入ってて、スイッチを押すと喋るんですよ。自分の誕生日用にメッセージがあるんです。子供向けの、情操教育用でしょうね』
 これからやるべき事がたくさんある。
 タキシードは明日の朝、カストラリアから到着するドクターと捜査官に証拠として提出し、遺伝子解析を行わせる予定だ。
 それまでの間、コルチェスター学院内でノエルと親密な関係にあった教授、教官、生徒達から、聞き取り調査を行わなければならなかった。彼の学内の交友関係は手広く、各寮に最低数人はパイプを持っている。在籍するケント寮に至っては、ほぼ全員から聴取しなければならない。ブリタニアでの私設捜査官を数名呼び、つい先程から事情聴取が始まったが、プロムナードのテロもあり、精神的に落ち着きがなく難航している。
 シャワーを浴びるかどうか一瞬迷い、ソファの背にかけていた制服のシャツを手に取った時、再度テディベアと目が合った。
 ――『そのテディベア、中に機械が入ってて、スイッチを押すと喋るんですよ。自分の誕生日用にメッセージがあるんです』
 ノエルの声が鮮明に蘇った。
 まさか、とは思った。
 ノエルに関しての予感は大抵信じた方がよかったのだと、今夜理解したばかりのシュナイゼルは伸ばしかけた手の方向を換え、テディベアの頭部を鷲掴みにした。身を裏返し、背中のファスナーを引きこじ開けると、小型の四角い音声機器が仕込まれている。
 白い音声機器には、再生と録音の二つのボタンがあり、親指で押し込むとカチリと音が鳴った。

 [やあ! おめでとう! おめでとう! 今日はぼくの誕生日! ぼくが生まれた日なんだ! きみにもお祝いしてほしいな! ハッピーバースデートゥーユーを歌おう。いっしょに歌ってくれるかな? それじゃあぼくがメロディを流すから声を合わせて歌おう!]

 テディベアはハイトーンな声、軽快なメロディとともに自身の誕生日を祝いだした。
 終わるまでシュナイゼルはしばらく待ったが、考えすぎだと思い直しかけた時だった。
 音声の途中でぷつりと途切れ、ノイズが鋭く割り込んだ。
 逸らしかけた視線を素早く愛嬌のあるつぶらな丸い瞳に戻し、黒曜石の珠の中に写る自身の影を見つめた。 

 [あなたなら気づくと思うから、メッセージを残しておきます。殿下。
 もし、このテディベアを殿下から譲られた人は、早急に彼にメッセージを教えてあげてください。……大切なお話なんだ!]

 最後はテディベアの高音の声を真似、戯けた調子で付け加えた。
 それから数十秒ほど経て、姿勢を低く。衣擦れ。マイクに吹き込む息遣い。

 [もしもの時に備えておくのは、研究者としては基本中の基本です。たとえば差し迫った時期。提出を目前に控えた論文など。バックアップは怠らないほうがいいでしょう。追伸、三月から、あなたがいない間に寮の居室に立ち入ったことを謝罪しておきます]

 「ティラナ」
 彼女の名を無意識に呼ぶ。
 床に膝をつき頽れて、シュナイゼルはソファの上に置いたテディベアと機器に目を凝らした。
 
 [信頼できる人のもとに私の証拠とデータは保管させてあります。ノートについても上手くいけば彼らが教えてくれるでしょう。もし、このメッセージを聞くことがあれば、私は学院にいないか、真実を伝え終わった場合かと思います。なぜなら、全て伝えた時、私は間違いなくあなたにテディベアの所在を尋ね、彼≠フ記憶を消すように工作するからです]

 彼≠ニはこのテディベアのことだ。

 [私が残す証拠は小型のものから、生身の人間まで存在します。この人物については、ブリタニアで誘拐罪に相当するので指名手配をお願いしますよ。事件を公に明らかにしたければの話ですが……。今日は二月の末です。あなたは先日私に、カストラリアのヴァラグラードから王宮宛てにクリスマスメッセージを投函した、二人組の女性について捜査を命じましたね。彼女達二人に投函を命じたのは私です。一年前のクリスマス直前、十二月十七日。夜。ペンドラゴンの郵政局本部の防犯カメラ――十四番窓口から送ったあの女も私です]

 シュナイゼルは目を見開き、無意識に下腹部を押さえた。
 次第に興奮により昂るのがわかった。

 [カノンを責めないでください。彼は何も知りません。彼のビジネスに付き合うための扮装を兼ねて、私の送ったものが、いたずらに改竄されないかテストを行いました。……ついでに私が所属していた護国自警会から持たされていた……と思っていたミレーヌ・ド・サンジェルマンのクレジットカードが使えるかのテストも。……私はミレーヌについては詳しくなかった。……私は本物のノエル・アストリアスではありませんでした。ふたりの交友関係さえ知らなかった。……ところで、本当の私は? 誰だと思います?]

 ノエルは音声の中でかすかに笑った。
 そして[何者でもありませんよ]と無機質な声で言った。
 
 [――組織を介して、肉体は改造と、性転換を行ったいま――名前も、存在も、私を私自身と証明できる証拠は乏しいから]

 血液からの遺伝子解析を行わなかったということだ。
 彼女ほどの者がそれをしなかったのか、わからなかった。
 もしくは。――結果を知りながら、それを否定しているのではないかと、シュナイゼルは思った。

 [ミレーヌ・ド・サンジェルマンについての捜査も行い、私は……私と同じような目に遭った人々の存在に気づきました。昨夏、殿下にはアストリアス邸であるフェルサイド・マナーにお越しいただきましたね。フェルナンド・ボークナン……ネクシウム・バイオ製薬の役員。……あの夜、彼は私を殺しにやってきた。なぜなら、彼はボークナンではなく、本物のノエル・アストリアス≠セったからです。組織の恐ろしい計画と、……未公開のはずの研究の漏洩、流出を疑い……ベルケス首相閣下を疑いました。ティラナ王女の名を冠して行われた数々の研究。――それらの管理や設立途中の研究所運営については、すべて彼の仕事でしたから。……私がすべきことは……王女の研究に汚点を残さないようにすることです。……私がいなくなっても、王家を支えていけるように]

 当初の読み通り、ティラナはマルカと思い込んだままノエル・アストリアス≠フマスクを被っているようだ。
 「……研究も、すべて貴女のものだ」
 本物のマルカは死んだ。唐突に。死を拒みながら、不可解な死を遂げた。

 [本物のノエル・アストリアスが、ミレーヌ・ド・サンジェルマンを餌に、多くの企業家や貴族達に利用されていた哀れな犠牲者だと確信し、彼の不自然な寄付金や銀行や――製薬会社や財団の痕跡を金庫から発見した。そして、あなたに捜査させようと考えた。……その一方、私はブリタニアやカストラリアに蔓延する網から出て、ドイツ留学を思いつきあなたと取引を行った。ところが、あなたときたら私に捜査をお命じになるので吃驚しちゃいました]

 シュナイゼルは失笑した。
 ローディックの禁書を所持していた頃から、大きな誤解をしていた。
 「……悪かったと思っているよ」
 ノエルは疑われることを利用し、より悪を演じ、距離感を保とうとしていたようだ。しかし、彼の捜査手腕は優れていた。ラボのロッカーに残されていた証拠品だけでも相当無理をしたようだ。
 寮の部屋の天井から発見したノートをざっと読んだだけでも、何度か捕縛され、組織から洗脳らしきものを受けている。
 
 [あなたに、すべてを打ち明けて、共同戦線を張るか迷いました。幾度となく。そうしなかったのは、組織の動きが読めなかったから。彼らは学院の外で見張りを立たせていたし、内側にいる可能性もあり、あなたを生命の危険に晒すわけにいかなかった。……私は、組織からあなたの暗殺命令を受けて学院に潜入していたから。……ところが私には洗脳か暗示のようなものをかけられていて、何度か、殺人衝動に苛まれた。できるだけ多くの記憶を思い出すことでそれらの力が弱まることに気付いた。……酷い言葉をたくさん言ったのは謝ります。……ノートの方にも書いてありますが、学院に潜入して二回、私にはリセットの形跡があります。二〇〇六年の十一月、二〇〇七年三月。十一月のは王宮で姫様になりすました時。三月のほうはエイムスバレーの労働地区に潜入した時。……記憶は抜け落ちていて、彼と接触した直後だと思います。……エイムスバレーには彼の手下が数多くいる巣窟で、ブリタニアでの外国人犯罪に寄与していると考えられる。ネクシウム・バイオ製薬にあったS.T.A.G.E. - 3 培養基質≠熕ウ規ルートの輸入か疑わしい。もし未捜査なら捜査を開始してください。……私はネクシウム・バイオであの男と対峙し、……肩を撃った。……治療を受けて傷を消すかもしれませんが]

 ロッカーで発見した拳銃はその頃使用したものだろう。
 グリップの底には血痕が付着し、別の保管容器には血液と皮膚片が入れられ遺伝子解析も済んでいた。
 明日の朝、正式な解析をもって確定する。結果を知り――ティラナはさぞ憎悪に支配されているに違いない。 

 [ドイツの留学を希望したのは――三箇所の大学でそれぞれ国際研究データにアクセスするためでした。私の研究分野をご存知のあなたならおわかりでしょうが、ブリタニアでアクセスするには彼の息のかかったテリトリーに飛び込むようなもの。……ハイデルベルク大では遺伝子関連の新規情報はないか、また新規論文の発表者やその引用の波及効を探り、二〇〇七年以内では新規発表はありませんでした。……ミュンヘン大では製品化された治癒促進シートや人工血液、細胞再生の実用化から素材を含めた引用や輸出、研究にどの材料をどの場所から調達し、予算規模に不自然な点がないかを調査しました。ブリタニアの複数の企業で製品の拡充が行われていましたが、先のネクシウム・バイオ製薬やACML医療財団に多く取引が集中していました。裏付けとしてはたしかでしょう]

 なるほど――とシュナイゼルは息をつき得心がいった。
 単なる遊学ではなく、裏付け捜査の延長線上だったようだ。

 [同時期、それらの捜査と並行し、私はローディックの捜査を行っていた。犯罪心理学者ハインリッヒ・リヒター博士になりすまして、ローディックと直接面談しました。彼については省略して構いませんね。あなたに教えたはずです。捜査に使用した生体情報を転写するシートに関しては、特許を取らせないようにしてください。悪用されると困りますから。もし、今後王室の資金難があれば小銭稼ぎには使えるでしょう。ご自由にお使いください。論文やデータ等の詳細はロッカーのファイルにあります]



 a.t.b.二〇〇八 23th May
 カストラリア ヴァラグラード テンプルム教会


 ――姫様の誕生日にあわせてカストラリアを訪れた私は……、クーデターのあと収容所にいて、その後、あの男に連れ出された場所を訪ねました。友人のトマス・ハウンゼントと共に。場所はヴァラグラード……フクロウの館、岩がちな山の上にあります。現在はカンバー伯が養護院を運営し改装されていますが、七年前はセント・アレクサンドラ・ホームという名前のサナトリウムでした。……私は、そこでおそろしい行為≠受けた。――私以外にも子供が全国から多く……誘拐され、他人になりかわるための手術を受けた。……表向きはまともな運営を装ったサナトリウムでしたが、人体実験施設だったのでしょう。規模は徐々に縮小され、私を含めて残ったのは五人程度です。子供だけでした。改装で内装の間取りに変更はなく、中のものも刷新されていますが、周辺の土壌の調査をお願いします。……灰が含まれていればいいのですが、雨でとっくに流れているかも……。私がいた頃は、遺体用の焼却炉もありました――

 いくつもの岩山の激しい起伏を越えた窪地は緑に覆われ、希少な高山植物が見頃を迎えている。
 厚い雲間に透き通る光は淡く地表を淡く照らしこみ、草木の噎せ返る香りの中、石畳に固められた道に数台のリムジンが教会前に停まった。
 ヴェールを被った修道女が、噴水台の奥で掃き掃除をしていた。来訪者の様子を伺うように背伸びをし、そのリムジンに王質の紋章旗がはためくのをみて慌てて教会の中に消えた。

 ――ウーゴ・マッテオ・ガルシアが生存していれば、彼が重要な証人になるでしょう。……私は彼の逃亡を手助けし、教会に駆け込んだ。……ある約束をしました。誰が来て名前を尋ねられても本当の名前を教えてはいけないと。……――ペトロと答えるように。ただし、来たりしローマよ、いずこ願わねば再会は叶わぬ≠合言葉にしました。彼はこう言うでしょう、我が名はローマのペトロ≠ニ――

 リムジンから教会に降り立ったシュナイゼルは周囲を見回した。
 ちょうどそこへ、裏手にある畑から収穫したばかりの、土をつけた野菜がのる一輪車を押す青年が現れた。
 「こちらに修道士か神父は?」
 青年は汗で額に貼り付く茶髪を、軍手をはめた腕で擦り払った。
 声を掛けるよりも早く、彼は来訪者とその後ろの車種から貴人である事に気づいて声をあげた。
 「……あっ!」
 「いいよ。そのままで。……君の名前は?」
 「私はペトロです」
 青年はペトロと名乗った。
 シュナイゼルは彼女の言葉に従い、合言葉を用いた。
 「……来たりしローマよ、いずこ願わねば再会は叶わぬ=v
 青年――ペトロは、はっとして明らかに驚愕の顔つきに変わった。緊張感から声は小さくなり、震えていた。
 「……我が名は、……ローマのペトロ……」
 ペトロ――ウーゴ・マッテオ・ガルシアはなぜそれを急に現れたシュナイゼルが知っているのかと訝しみ、後退りした。
 「彼女から話を聞いてね。安心して。悪いようにしない。……フクロウの館について話を聞かせて欲しいんだ」
 「あの子は無事なんですか!? マルカは!」
 ウーゴは声を荒らげ、駆け寄った。
 シュナイゼルは長い睫毛を伏せた。彼がウーゴだと確定したことが、マルカ――ティラナがフクロウの館≠ナ受けた極めて侵襲性の高い違法行為が本物であると証明したからだ。
 

 a.t.b.二〇〇八 19th May
 ブリタニア フェニックス

 ――そして、証人はあと二人います。……カンバー伯の養護院の地下で、私は……彼女と再会しました―― 

 ブリタニア北西部にある、フェニックスの山荘に到着したのは、深夜を回った頃だった。
 コルチェスター学院を離れ、明朝にはカストラリアへ赴く。最後の晩。最後に立ち寄らなければならない場所に、シュナイゼルはいた。
 林道の上をぞろぞろと大人数が進む光景は、軍隊の行軍のように整然とし、威圧的だ。黒の外套の襟を立て冷気を遮った。マフラーを忘れたことをシュナイゼルはここで思い出したが、時間が惜しかった。すぐ後ろで「冷えますわね」とカノンが呟いた。
 闇夜に輝く星々はカストラリアよりも遥か遠く、粉砂糖のようにさらさらと掴みどころがない。――だが、現実は甘くない。
 木製の扉を四度叩くと、中から白いエプロンをかけたメイドが顔を覗かせた。
 シュナイゼルの顔を認めたメイドは、油が跳ねるように奥へ駆け込んだ。
 「お嬢様……っ! シュナイゼル殿下がお見えですっ」
 山荘内は薄暗い。いくつもの部屋がありながら、どれも固く扉が閉じられている。使用する部屋は限られており、廊下の両左右には周辺地域の油彩の風景画が飾られている。
 奥の暖炉のある居間で、籐椅子に腰掛ける令嬢が一人。ローテーブルに紅茶の入ったカップを置き、カシミヤの桃色のカーディガンを羽織って待っていた。護衛と捜査官を数名を引き連れて、居間へと足を踏み入れたシュナイゼルに、女はさっと慣れた所作で立ち上がり、腰を屈め挨拶をした。
 「殿下……!」
 「君が……本当に? セラフィナ・ド・アルディック嬢」
 「彼はご無事なのですかっ!? 先程連絡が」
 セラフィナはシュナイゼルに駆け寄った。
 「それはいつ?」
 「数時間ほど前です」
 「こちらの携帯をお預かりしても?」
 「ええ……」
 セラフィナの握っていた携帯電話を預かり、捜査官に手渡す。逆探知で位置情報を割り出すためだ。
 「殿下がもうすぐ、そちらにお見えになるだろう≠ニ……」
 ノエルはセラフィナに合図を送ったのだろう。彼は、密かに彼女の面倒をみていたようだ。
 改めてセラフィナを見下ろす。彼女とは一昨年の秋、秘密の部屋と居合わせた頃以来の顔合わせとなる。一年以上会っていなかった、ティラナの従姉妹。血縁者とだけあり顔の雰囲気が似ている。二〇〇六年の十一月の出来事を振り返って、核心に迫った。
 「以前、貴女は私に保護を求めてきたね。……告発を、しようとしていたのかい?」
 セラフィナはゆっくりと頷いた。
 「……はい。……殿下が疑い深くなるのは、当然のことだとも……」
 「私は、まず謝らなければいけないね。貴女に。セラフィナ嬢」
 「とんでもない! ……実際にお会いしても……具体的な証拠も何ひとつありませんでしたし、話だけを聞いて信じてもらえるわけがないと思い直しました」
 シュナイゼルは絨毯の上に膝をつき、籐椅子に座りなおしたセラフィナに目線を合わせた。
 「殿下、お立ちになって……」
 「よく聞いて。……ティラナの数少ない従姉妹である君は、納得しているかい?」
 「……それは……どういうことなんです。いったい、……なんの話をしているの?」
 「証言するということはね、貴女はいずれ糾弾されるだろう。……彼は、何も言わなかったのかい?」
 ノエルは真実を自らの口から伝えなかったようだ。
 徐々に不安が曇り顔をつくっていき、セラフィナの唇の端が僅かに痙攣した。
 「彼が……なにか?」
 「ノエルがどうしたの……」
 セラフィナの声に被り居間に登場したのは、ネグリジェ姿の金髪碧眼の少女だった。メイドは慌てて、少女の寝間着姿を隠すように長いガウンを巻いた。
 「こちらの方は?」
 「ベアトリーチェ嬢です。……いいえ、正確には……ミレーヌ・ド・サンジェルマン……」
 その名を聞いて、シュナイゼルは腑に落ちた。
 「……そうか。貴女が二人目の証人だね? わかったよ。彼女の手前、……そう振舞ったんだね?」
 交互に眺めてシュナイゼルが言った。

 ――ミレーヌ・ド・サンジェルマンの捜査で、私は彼女の屋敷で家庭教師エメリー・ダルボンとなり護国自警会との接点を探っりました。サンジェルマン家では確定的な証拠は得られなかったが、ベアトリーチェ嬢は、本物のノエル・アストリアスと同様に中身を変えられていた。……ベアトリーチェになりかわっていたのは、ミレーヌ嬢本人……ミレーヌは、ノエルと会いたがっていた。私は……私たちは再会≠オました。……すべてを償うためにも、彼女に証人になるよう説得し、フェニックスにある山荘をドイツの友人の名義を借りて購入しました。一月頃からミレーヌ嬢はセラフィナ嬢と一緒に匿っています。サンジェルマン家から行方不明届……もしくは誘拐と扱われるかもしれません。その際は、後処理をお願いします――

 真実を口にするのは、常に残酷である。
 しかし、大抵の人が躊躇することも、シュナイゼルには難なく出来る。普段なら人望ある人となりを装うこともするが、この時の目的はティラナから二人の証人を預かり、安全な場所へ移すことだった。だが、自分自身はカストラリアでは忙しなく動き回り、二人につきっきりで世話することは不可能だと理解していた。どのみち、膨らんだ果実が潰れてしまうなら先にそうした方が効率がいい。
 そう考えて、シュナイゼルは禁断の秘密を明かした。ほんの少しの、優しさと慎重さを添えて。
 「……彼は、ノエルは、本物のノエル・アストリアスではないんだよ」
 ノエル・アストリアスの名に、はっとミレーヌは覚醒し、シュナイゼルに駆け寄った。どうしていいかわからず、両手を宙に彷徨わせ、はくはくと唇が開閉しては呼吸を逃している。
 ミレーヌへの禁句だと理解はしていても、いずれ知り絶望するなら早い方がいい。

 ――セラフィナ嬢は、彼女の父親であるアルディック公を疑っていました。養護院の地下で……彼女は、アルディックの不審な様子と交友関係に違和感を抱き、調査をしていた。私は、はじめ信じきれずにいた。ローディックの件でサロニア公の疑惑はすでに持ち上がっていましたが、確定的とはいえないと思って……。その後のネクシウム・バイオ製薬の地下で……揉み合いになったとき、拳銃の底についたあの男のDNA検査を行い、……セラフィナ嬢の訴えが真に正しいことが証明された。セラフィナ嬢の身も安全とはいえず、ミレーヌ嬢とメイドと一緒に山荘に住まわせることにした。クリスマスカードを二人に託したのは、あなたが食いつくはずだと思ったからです。殿下に探らせるために二人に渡航させ、ブリタニアに帰しました。……まあ、その……また捜査を私にお命じになるとは思いませんでしたが。……あなたってほんとうに、人使い荒いですね?――

 ――それだけ、信頼していたんだよ。お姫様。

 「彼女は……ティラナ・ヴァル・カストリア。……私の婚約者だ」
 言い切ると、セラフィナは思わず勢いよく椅子を立ち上がりかけるも体勢を崩し、シュナイゼルがすかさず支えた。
 ベアトリーチェ――ミレーヌは声にならぬ悲鳴をあげ失神し、メイドに凭れ掛かるようにその場に倒れ込んだ。
 「お嬢様……!」
 セラフィナは絨毯の模様をじっと見つめ、思い詰めたように何度かぐしゃりと表情が歪み、ふるふると細かく横に顔を振っては、髪を両手で掻き乱した。ティラナにも似た目尻に、新鮮な涙の粒が浮かんだ。
 「……まことに……、本当の話なんですの……ッ!? 殿下!」
 「実に残念だけれど。本当の話だよ」
 セラフィナは顔だけでなく指先の血色も欠いていった。
 平衡感覚を喪失し、支えをもってしても崩れ落ちたセラフィナは、籐椅子にしがみつき絶叫した。
 「それでは……それじゃ、……なんて、なんてこと……! ああぁぁ……!! なんてことを! お父様ッ――!! どうしてえぇえ――!!」
 シュナイゼルは無言で、哀れな婚約者の従姉妹を見下ろした。
 血筋なのか、セラフィナは正気を保とうと努力し、罪について咀嚼しようと勇気を振り絞った。
 「セイル伯父様も、ユスティナ伯母様も……、わ……わた……、あぁ……わたし……は、ハイ・トレズン……国王殺しの娘ということ……」
 国王殺しは国家・歴史的において最も重罪である。
 先進国の法治国家であるカストラリアといえど、死罪は免れぬ大逆罪として扱われる。一般人の大量殺人は個人の罪として扱われる余地があるが、国家元首と謀反は――君主と国に対する重罪に相当し、一族郎党罪を課せられる。
 セラフィナの顔は白粉で塗り込んだように蒼白になり、その身は冷たい海水に浸かったように細かく震え、胸の奥で引き摺るような呼吸を繰り返していた。
 シュナイゼルは再度、跪いた。
 「カストラリアは絶対王政ではない。セラフィナ嬢。どうか気をしっかり保って」
 「……むりよ……むり……わたし……そんなの……ティラナまで……ティラナまで……そんなのしらない……ッ」
 火花が弾けるように立ち上がったセラフィナは、つい先程まで飲んでいた紅茶を絨毯に撒き散らし、カップを叩き割った。
 そしてその破片を握った手を、首筋に向けて振り上げた。
 「早まらないで」
 護衛が数名取り押さえるよりも早く、細い腕を捕らえ、シュナイゼルは破片を捨てさせた。
 「生きていけというのッ!? 一生、罪と恥を呑み下し、後ろ指をさされ、日陰で犯罪者として監獄で暮らせと……!? ただあの男のもとで生まれただけでッ!! それなら死んだ方がマシよ!!!」
 「貴女が死んだらティラナが助からないんだ。お願いだよ。私のためにも生きて欲しい」
 セラフィナはシュナイゼルによって抱き竦められ、その腕の中で手負いの獣のように叫んだ。
 「私の人生は死ぬまで惨めなままよ!!! 家も没落! 父は大罪人! 追放者を受け入れるカストラリアから追放される者はどこへ行けと!? どこにもないわ!! この世界のどこにもね!!」
 セラフィナを強く抱きながら、シュナイゼルは彼女の背後に立つ捜査官に、鎮静剤を打つよう顎で催促した。捜査官は薬瓶から注射器で薬液を吸い取った。
 彼女は肩に埋め、外套に涙を染め移した。
 「……ああ……主よ……あはは……神に選ばれし方を殺めた者の娘に御慈悲はない……」
 「自殺も大罪だ」
 そっと囁いた。
 一歩、捜査官が距離を詰めた。
 「次に神がお選びになる方の……魂さえも引き裂いて……いる、のね……地獄行きは免れない、でしょ……正気で……いられる、もの、ですか……死しても……安息は……」
 「亡命とその後の生活については、いくらでも取り次ぐよ。セラフィナ嬢」
 「……お父様は、私の体を変えてしまえば良かったのだわ……あはは! どうして……私だけ……。……私を、似せてしまえばよかったでしょう……」
 シュナイゼルはセラフィナの言葉を無視し、努めて現実的な提案を続けた。
 「……お二人には共にカストラリアに渡ってもらう。証言台に立つまでは秘密を守ると約束する。……詳しい話は向こうで聞かせてもらうよ」
 「……もう、いい……お好きになさって……」
 力なく微笑んだセラフィナの体重が、シュナイゼルに傾く。彼は首肯し、合図を送った。
 間もなく鎮静剤が打たれた、大罪人――アルディックの娘、セラフィナはかくりと眠りに陥った。
 「ふたりを離して、よく見張っておくんだよ」
 「はい」  
 捜査官がセラフィナの身を引き受け、ミレーヌ共々山荘から連れ出された。



40
午前四時の異邦人
top