Prologue






 a.t.b.二〇〇〇 February
 カストラリア王国

 その国の夜は存外明るかった。
 鮮やかなヴァイオレットの暗幕に包まれている。星のライトが澄み渡る空気の中、さらに光が研ぎ澄まされて、天界の海図を描き出しているようだった。氷と雪に覆われた岩壁。身を切る凍てつく風。
 はじめてカストラリアの美しい夜を、鮮烈に、幼いシュナイゼルに印象づけた。

 王宮の隙間という隙間から、冷気が這入りこんでくる。
 巨大な冷凍庫。氷漬けの広大な迷路。目的地を決めていなければ廊下を歩くことさえ億劫になる寒気。
 ゲストルームに引き返そうかと考えた時、昨日温室に行ったことを思い出した。ティラナ王女はそこで熱心に植物の様子を観察して、薬の原料になる植生や環境と取り組みについて語った。

 道順を思い返し、冷気から逃れるように温室に駆け込むと、中は暖かく、ランタンのほのかな灯りが見えた。侵入者とは思えず、それが誰かはすぐに予測がついた。
 温室にはカストラリアにはない植物もある。ヤシの木、モンステラ、ブーゲンビリア、プルメリア。植物園として一般客が入場することも将来検討しているだけあり、ジャングルのように多様性を育んでいる。
 夜のベルベットが遠く。硝子と緑の屋根の下。片隅にある作業台で、ティラナはネグリジェに厚いカーディガンを羽織った姿で黙々とピンセットを片手に手作業に没頭していた。
 手元の花の色をみるかぎり、青いケシのようだ。リースを編んでいる。
 「……あら。びっくりした。こんばんは。シュナイゼル殿下。眠れないのですか?」
 「寒くてね」
 「湯たんぽを用意させます」
 「ここで何をしているんだい? 大人の時間だよ」
 午後九時以降は大人の時間だ。ブリタニアでも、ここカストラリアでも、子供の就寝時間の文化的差異はなかった。
 「それは、リース?」
 「花冠を編んでいるの」
 「なんの花かな?」
 「ホリドゥラ」
 「古都の名前?」
 緑と鮮やかな青紫のものから、薄青色の花弁の花を組み込ませて、きれいな円環を仕上げている。
 ティラナは顔をあげて説明した。
 「この花の名前が、ホリドゥラなんです。……今の時期は温室にしか咲いていない、六月下旬頃から見頃なの。我が国の国花よ。……そうだ。とってもいい場所があるわ。この国で一番綺麗なところ。天国みたいに」
 「天国に行ったことがないのに?」
 「死んだらいけます。本物は」
 ティラナは一度欠伸をした。 
 「ご興味がありますか? 殿下」
 「ん?」
 「とってもいいものを見せてあげる、と言ったら?」
 シュナイゼルは少女の瞳の中に、ワクワクする遊びを見つけた好奇心旺盛な輝きの光を見た。
 惹きつけられるように、うんと小さく頷くとティラナはにっこり笑った。
 そして、編んだばかりの花冠をそっと紡ぎたてのように細かく柔らかな金糸の頂きに載せた。
 「これは殿下にプレゼントします」
 「貰っていいのかい?」
 「カストラリアへお越しいただいた、歓迎のしるしに」
 茎葉の細かな棘を抜き去った、短く冷涼な夏を彩る天上の妖精。ブルーポピー。正真正銘の高嶺の花。
 
 


 a.t.b.二〇一〇 April
 カストラリア王国  首都リダニウム 


 「捧げー銃!」
 整列する近衛兵達が声高な号令により一斉に銃剣を前身の中央に掲げ、一糸乱れぬ動きで銃口を天に向ける。
 広大な王宮の敷地の一角で式典用の訓練が行われている。
 雪解けと和らいだ冷風花の匂いが混ざる頃、標高の高い、この高地国に遅い春がやってくる。

 耐震緩衝用プレートの上に近代的な建築物と歴史的建築物が入り乱れる、首都リダニウム。
 その首都を取り囲む城塞のような切り立った岩壁は、風雪に削られ鋭さとなだらかさの両側面を保ち、緩急をつけたカーブを描いている。巨人の手の平の上。高地のオアシスは白雪の中に灰色のまだら模様を残す。
 岩山にある研究施設には、荒々しい悪路を走破するために四輪駆動の角ばったモーター車が使われる。しっかりと動物毛の防寒着を着込んだ研究者達が、ぞろぞろと研究施設となっている白亜の城から出てくる。
 「あぁ〜寒い! ひぃ〜!」
 瞬間冷凍の屋外に叫び声をあげるのは、眼鏡をかけた淡い色素の髪色を持つ若い研究者だった。耳が千切れそうだが、それを叫ぶためのエネルギー消費さえ惜しいと、耳当てをぎゅっと抑え込んでは、彼をその地まで連れてきた男を待った。
 「殿下ぁ〜! お早く!」
 「悪いね。先に車の中へ入っていてもいいよ」
 「じゃ、お先に〜! さっぶう!」
 陸の巡洋艦と称する強靭な車の中はサウナのように暑い。
 「ひい! 極端!」
 武装した護衛が数名詰めており、ドアを開けたロイドを睨みつけた。萎縮したロイドは体半分だけ温まった身を、すごすごとふたたび寒空の下へ引き戻した。
 紹介主である神聖ブリタニア帝国第二皇子。またの肩書を、カストラリア王国国事行為臨時代行・摂政――シュナイゼル・エル・ブリタニアは研究施設の入口で、施設の代表者である所長と握手を交わしている。
 首都だけで二十三施設ある軍事関連施設の一つが、この東側の岩山の中腹だ。施設内にはアークリフトと呼ばれる高速エレベーターが通っており、皆わざわざ山側を通ってくるわけではない。ロイドは厳しい気候――この国最初の洗礼を受けていた。
 寒さには慣れてしまったのか、微笑みの皇子の感覚が狂っているのか、シュナイゼルはゆったりとした足取りで待たせている車に近寄った。
 「待たせたね」
 「本当ですよぉ! さ、入って入って。車内でも凍えちゃうから」
 怖い護衛の兵士に気圧され一人では車に乗れないロイドは、シュナイゼルを押し込んでから身を滑り込ませた。
 広い車内だが、ただでさえ二メートルに程近くなった青年の両脇を、肩幅の広い兵士が固めているため圧迫感がある。
 車は動き出し、でこぼこの岩道を下り始めた。
 「怖がらなくても大丈夫だよ。私の身に何も起きなければ、彼らは手出ししない」 
 「わかってますよ。しかし、この車内でむさ苦しく暑いのは……って思っただけで」
 双璧となる兵士は、ジロリとロイドを睨んだ。
 「あはは。これでもだいぶ暖かくなった方だよ。……自然の要塞だ。この厳しさのおかげで中華連邦が目と鼻の先にあろうとも、攻めて来られはしない」
 「そこにナイトメアを配備するって、必要ないんじゃありません?」
 「念には念を入れておくんだよ」
 ナイトメア三十機を各国境付近に配備する――対中華連邦への牽制配備である。
 「あは。共同研究の名目で配備なさるなんて、やり手ですねぇ殿下! 摂政治世のうちにですか? 上司の居ぬ間に」
 「あはは」
 シュナイゼルはそこだけ春風が吹いているかのように、軽やかに笑った。
 「等価交換だよ。こちらとて、医療共同研究として学術的・軍事的利益を供与している」
 「それでも王女殿下の研究を除けてますね? みんなが欲しいのはそこだっていうのに」
 ロイドの鋭い指摘に、彼の微笑が崩れることはなかった。
 「逆鱗に触れたくはないだろう? 今はすっかり元気がないけれど、怒ったら恐ろしいと思うよ」
 「叱られたことないんですか?」
 「何度かね」
 「いやぁ恐ろしい! 殿下が尻に敷かれてるだなんて!」
 「慣れておくものだよ。相手は、女王様だからね」
 下ったはずの道から再び別の坂を上り、山の縁に沿って頑強な車体は碧い王宮を目指した。
 途中でシュナイゼルは運転席の仕切りガラスを叩いた。
 「君の研究施設の候補その二だ」
 アカデミーに入学してますます研究にのめり込んでいったロイドだが、このシュナイゼルにだけは頭が上がらないのは続いていた。この先もずっと世話になるのだろう――と心の何処かで予感はあったが、ロイドに明確な貴族としての政治や矜持はなく、ブリタニア上流社交界随一の出不精だ。好きな研究が出来るなら、なるべく好きにさせてくれて、面倒をみてくれる人がいれば幸運であり、その人についていくものだ。
 だから今回、ブリタニアではなくカストラリアへ来たのも愛国心よりも、良い条件で研究が続けられるならと応じたのだった。
 要するに、職場見学ツアーだ。
 ロイドはてっきりそのままリダニウムの街へ下るのだと思っていた。淡い瞳を丸め、声が裏返った。
 「え、選べるんです?」
 「あちらか、こちらの二棟のどちらか選べるよ。繁華街が近い方と、温泉地が近い方とね提示内容はどちらも同じだ。個室も用意できるし、専用のラボの空きもある」
 「生活基盤で選んでるんですか?」
 「この国は労働基準法が厳しくてね。十七時には終わるよ。そのまま残る者が多いときくが、適宜リフレッシュに街へ下りる。残業代に手当てもつく」
 「殿下ぁ、本国の労働法を変えちゃってください」
 「そうしたいのは山々だけど、陛下のご意向に沿っているんだよ。戦時体制下とブリタニアの国是が噛み合わさると、国家全体が軍事偏重になる。ロイド。君へのオファーの金額がその証拠さ」
 ロイドは「あの皇帝ちゃん……」と小さく呟いた。
 これだけ労働法がなっている国で、あの年若さで医学博士を取得し、基礎研究者である王女に制約はなかったのかと疑問を持った。
 「王女殿下は研究熱心でしたんでしょ?」
 「あの人は時間という概念が極端だから。それに労働者ではないし、雇用契約がないから、気の向くままさ」
 言葉にならずとも伝わる羨望の眼差しに、シュナイゼルはくすりと声を潜めて笑った。
 「公務もあったから、羨ましがる生活ではないと思うよ」
 それこそ、ロイドが無関心な社交界に顔を出す必要があり、貴族達の内情にも精通していなければならない。自国含め他国の動向と要人への関心、人付き合いを欠いては国際社会に影響する立場だ。とくに武装中立国においては命取りとなる。医療リソースの手綱を握るため、多くの戦争する国の抑止力となる。
 もしも、ブリタニアの攻勢を留めるものがあるとするなら、それはカストラリアだろう。
 だからこそ――カストラリアの中核を担う者たちはシュナイゼルに厳しい態度をとっている。彼らはカストラリアがブリタニアに呑み込まれるのではないかと危惧し、現況を好ましく思っていないのは当然として、何ヶ月も姿を見せない王女を不審がるのも時間の問題であった。
 医師にフェイク用の診断書と現状の様子を発表させる工作を行っているものの――実情は居室のベッドは空であるし、捜索は完全に糸口を見失い、足取りは昨夏のブリテン諸島のアイヴスで途絶えている。
 彼女はトム・ヒューストンと名乗り、男に連れ去られたとその港町に住む少女の供述から明らかとなった。
 ティラナの叔父、サロニア公爵ことグレドール・ド・アルディックは領地内の屋敷には一度も帰っていない。屋敷の捜索を行わせたが重要文書は残しておらず、決定的証拠はティラナがノエルとして二年かけて掴んだものと、サロニア公の娘であるセラフィナの供述だった。
 王家に輿入れする者、大臣から首相となった者を輩出し、またその祖先に国王がいる一族出身なだけあり、アルディックの知性は優れている。
 シュナイゼルを出し抜くだけの傑出した資質を持ち得ながら、歪な執着心で世界を掻き回す敵。相手にとって不足はない。

 二箇所目の研究所を訪問し終えた頃、早い落日の翳りが山の峰の隙間から零れ落ちていた。
 気温は一気に下がり、冷え込んできている。
 研究所の厳重なゲートが開くと、王立輸送隊所属の新型トラックが待機していた。運転席から降りて敬礼したのは、軍曹の階級章を付けた兵士だった。彼は一瞬の隙もなく車両の最終点検を終え、後部座席の警護兵に目配せをした。
 軍曹は曹長を伴い、研究所前で待つシュナイゼルの前で敬礼した。
 「殿下。準備が整いました。足場が悪いのでお気をつけください」
 「陸軍の輸送部隊だ。下までこれで降りよう」
 「やった〜!」
 低地出身のロイドは寒さが相当堪えるのか、ガタガタと体を震わせている。
 「モリシャルト頼んだぞ」
 「はい。ダスター曹長」
 軍曹はシュナイゼルらを先導し、軍用車両のドアを開けた。
 警護兵が中に数人詰めているのをみて、ロイドは何度目かのため息をついた。
 要人が乗り込んだのを見届け、軍曹は運転席に座ると無駄のないハンドルさばきで、慎重に、しかし力強く山岳の曲がりくねった坂道へとトラックを進ませた。
 帰りの車内でロイドは、そういえばと私語を求めた。
 「新たなエリア制圧も順調だとか」
 「うん、陛下のご命令だからね」
 「あっちの?」
 「……ああ。あちらのね」
 「こちらは?」
 「ぐっすり眠り姫だよ」
 ロイドは腹を抱えて笑った。同乗する警護兵は彫像のように表情に変化はなかったが、冷ややかな目つきをしていた。
 ブリタニア人の偏見を醸成する前にシュナイゼルは話題をロイドに移した。
 「本国では予算が下りにくい研究もこちらで名目上可能だろう。ロイド」
 「いやぁ〜殿下はクレバーですね?」
 「褒め言葉として受け取っておくよ」
 日暮れに染まる景色を見ようと窓に顔を向けると、「エネルギーシールド」とロイドははっきりと口にした。
 「ん?」
 「僕を呼んでこっちのメンバーにアサインさせたのは、それが目的でしょうって話ですよ!」
 たしかにエネルギーシールド開発の狙いはある。カストラリアの信用を得るには必要な貢献だった。
 「君の論文が興味深くてね。ナイトメアの実用化にはデータが必要だろう?」
 「王宮に取り付けるためじゃないですか? 殿下の本当の狙いは」
 「あははは……!」
 シュナイゼルは声をあげて笑った。
 ロイドは変人の類だが、盲目ではない。人の本質を見極める才覚がある。
 「少し外れたね」と言えば彼は興味深そうに口角を持ち上げた。 
 王宮へ進む道を下る途中、私有地に差し掛かりシュナイゼルは運転を止めさせた。
 「今度はなんですか?」
 「いい時間帯だ。せっかくだから、たまには観ておきたくてね。……すまない。ここで一旦降ろしてくれ」
 「はい。殿下」
 運転席の軍曹が返事した。
 
 「素晴らしい。絶景!」
 はじめは何のことかと、ひたすら続く斜面をシュナイゼルに着いて登ったロイドを待ち受けていたのは、黄金色に染まる山の眺望だった。雪の白が光を取り込み、輝きを帯びている。
 登山靴が雪の上を踏みつけ、断崖絶壁の切っ先に立つ。
 「ここは王室が管理していてね。無断立入厳禁なんだ」
 「特別待遇受けちゃってます!」
 まだ草は雪の下に埋もれている。この場所の真価を発揮するのは夏頃だ。
 「……それにしても、君にも自然を愛でる心が残っているのだね」
 「人を機械かなにかだと思ってます? 殿下」
 「欠けているところは似ていると思っているが」
 「えぇ〜?」
 遥か眼下の街を挟み、反対側の峰から吹き込んでくる風が、細氷を空高く運んでいく。
 「フォトグラファーがいくら積んでもこの絶景は撮れないよ」
 よく管理された人工的な自然の中で育てられたシュナイゼルにとって、本物の自然のもつ、人間の都合を無視する強靭な環境は衝撃的だった。あれは、五月の頃だった。



 a.t.b.二〇〇〇 May  
 カストラリア王宮 温室


 宝石が生まれる瞬間を見たことがあるのなら、研磨する前の薄汚れた原石の外殻も知るだろう。
 その頃、神聖ブリタニア帝国から十三時間かけて、このアジアの要衝地を訪れた。中華連邦領土が抱く地域。海に面しながら堆い山脈の高低差や自然の要塞に守られ、歴史あるカストラリア王国は極東の日本とならび中立国を保っていた。

 百日紅の木の上でパッケージングをした葉と樹皮を交互に眺め満足気に口の端を持ち上げて、温室の天井の特殊ガラス越しに、葉と花の隙間からこぼれる陽光に透かしたりしてみせた。
 それを遠くで見つめるシュナイゼルの訪れにも気づかず、ひとりで楽しむ少女になんて声をかけようかと思案し、少年はゆっくりと近寄った。
 季節は春を過ぎたが、カストラリアの春はようやく雪解けの本格的になってきた五月頃に始まる。
 やはり夏の花を生育するのには、この温室は最適だ。温度を調整し一定の条件を保つ。とくに冬は暖をとるために連日入り浸っているのは、温室の片隅にテントが張ってあるのを知ってからわかったことだ。
 ――『こんなところにいたんだ』
 ――『えっ?』
 わかりやすく足音を立てて近づいたのに、ティラナは驚いた。
 座っていた枝の、つるりとした部分とざらりとした箇所の間の感覚的な狭間でとっていたバランスを崩し、後ろから地上へ落下した。高さはさほどなく。どすんと。柔らかな芝生の上に転がり、スカートは捲り上がって中の下に履いていた短い肌着でさえ、あわれにも露出し、驚きと困惑、羞恥心でティラナの頬は赤く染まっている。
 ――『で、殿下! お越しになるなら一言仰ってください!』
 ――『ハーゲンには伝えたよ』
 バサバサと淑女にあるまじき荒々しさで急ぎ裾を整え、ティラナは芝生上に両膝をついている。
 ――『えっ。もう、嫌だわ……ご覧になった?』
 シュナイゼルは『いや?』と首を捻った。見えてしまったとしても。
 ――『さっき一緒にお茶をしようとおっしゃっていたから。なかなか戻ってこないから探しにきたんだよ』
 ――『えっ――そ、……ごめんなさい。なんてこと……』
 難解なも問題と対峙する時のように眉間に影をつくり、なにか言いかけて、ティラナは深く押し黙った。
 ――『……さあ。お手を』
 ――『あっ。はい』
 差し伸べたシュナイゼルの手を、ティラナは躊躇いがちにとった。
 助け起こすと、身長は彼女の方が高く、少し見上げる位置に顔があった。
 ティラナはことある事にシュナイゼルを小さな紳士さん≠ニ呼んだ。兄弟姉妹は名前をそのまま呼ぶか敬称をつけるばかりで、またシュナイゼルに渾名をつけること自体が畏れ多く、誰も親しみを覚えるような綽名をつけなかったが――ティラナは違った。
 他にもいくつか、クッキー≠セとかユニコーン≠ェある。
 本人曰く――クッキーが好物だからとのこと。これには納得がいったが、ユニコーンに関しては、“まさしくヴォルテールの通り≠セから――らしい。思想家ヴォルテールの『バビロンの王女』の中にこの世で最も美しい、最も誇り高い、最も恐ろしい、最も優しい動物≠ニある。

 サンルームに移動するとお茶の準備が整えられていた。
 白いテーブルと椅子。温かな紅茶。ブリタニアと違って自国で栽培されている茶葉を使用している。お茶請けには焼き上がったばかりの芳醇な香りを放つクッキーが並ぶ。
 『レーションの中に美味しいクッキーはあるのかしら』
 レーションとは軍隊や災害時等に配給される携帯用戦闘糧食のことだ。傍に控えていた侍従たちは顔を見合わせる中、陸軍上がりの侍従長は咳払いし『クッキーはございます』と返答した。
 ――『それって美味しい?』
 ――『美味しいかどうか、主観的な判断でございますが、……カロリー補給を最優先とした内容ですので……』
 ――『味の善し悪しは、士気にかかわるわ。メニューの見直しはしているの?』
 ――『五、六年に一度改良してございます』
 ――『そう。……それじゃあ今度、紹介する映像を撮ってもらいましょう。災害時に民間人に配布することもありえますし、食べ方やメニュー内容を知るきっかけは必要です』
 ティラナの提案に、ハーゲンは深く頷いた。
 ――『はい。王女様』
 日曜朝に放送される番組に取り入れるらしい。内容としてはかなり易しく理に適っているため、侍従たちの表情は柔らかい。
 ――『実演をお願いね、ハーゲン』
 ――『私でございますか?』
 ――『だってあなた陸軍出身でしょう、いいお手本よ。それとも元高級将校はレーションなど食べないとおっしゃるの?』
 ――『いえいえ。とんでもございません』
 ハーゲンは胸に手をあて笑みを浮かべた。
 三枚目のクッキーを齧ると、ティラナの方に盛られている皿からクッキーが一枚も減っていないことに気付いた。
 『食べないのかい?』
 ――『……実は昼食をたくさん食べ過ぎて、お腹が空いていないの』
 その頃はティラナの言葉を信じていたが、今になってみればティラナは影武者としての生活の中でティラナ王女の召し上がるものに手を付けてはいけない<求[ルを課していたのだろう。
 些細な点だが、公式の食事会を除いて、飲み物以外を口にすることはなかった。
 シュナイゼルは『ああ、そういえば』と論文の話を切り出した。
 ――『論文を拝読しました。遺伝子検証の』
 ――『遺伝子検証……ということは、エリザベス三世とアレクサンドラ王妃の遺伝子検証のものですか?』
 シュナイゼルの首肯に、ティラナは照れ隠しからか、慌てて首を横に振った。
 ――『……その論文は……共著者というだけで、私はとくに役立っていません』
 ――『ご謙遜を。すでに複数の博士号を取得されている方が、そのような事をおっしゃれば無学者の立つ瀬がない』
 ――『……殿下は私の立場ゆえに甘く見られているとは、お考えにならないのですか』
 ――『思わないね』
 シュナイゼルは微笑んだ。
 伝統的に機能的な役割分担を重視する宗教の下、男性優位の社会軸とティラナが父王の庇護下にあり、過剰に持ち上げられているのではないか――と思っているようだった。
 ――『あら。まあ』
 憂いはゆくゆく晴れるだろう。彼女が大人になり、結婚し、父王のあとを継ぐ時が来れば否が応でも国教会は女王を認める。神の下に従う第一人者が女性となるだけで、今ある悩みの大半は杞憂に変わり、厳格な宗教社会に変革をもたらす。
 ――『殿下は研究にご興味があって?』
 『うん』
 ――『ご興味のある分野もおありで?』
 ――『拘りはあまりないよ』
 ティラナは目を泳がせては、しばらく沈黙した。
 ――『どうかした?』
 ――『ええと……。……殿下、今晩お時間があれば、お連れしたい場所があります』
 ――『どこへいくの』
 ――『それは着いてからのお楽しみですよ』
 ふふんと得意げにティラナは鼻を鳴らした。



 a.t.b.二〇〇〇 May
 カストラリア 高原  


 高原の夜の風は冷たかった。
 王宮を囲む山の反対側へ降り、再び急勾配の坂を登ると、なだらかな緑が広がっている。
 何枚も防寒着を重ねた雪だるまの格好で、足元の誘導光を頼りに草の上を踏んだ。ミドルカットの登山靴は、泥と草露に触れ湿り気を帯びている。
 シュナイゼルを連れ出したティラナはランタンを片手に厚い皮の手袋を嵌めた手で、同じように寒さから守られた少年の手を引いた。
 ――『サイズが合ってよかったですね』
 ――『ティラナの靴?』
 ――『二年前に履いていたものです。着いたら温かいものを飲みましょう。水筒に入れて持ってきたんです』
 シュナイゼルはこくりと頷いた。
 ティラナの足取りに迷いはなく、舗装されきっていない道をサクサクと進む。
 ――『貴女はここへよく来るんだね』
 ――『ここも私のお庭ですからね。……なんて』
 ふと見上げた天空の光はすぐそこまで迫っているように、大きく、肉眼でもはっきりと見える。
 大気が薄く、地上の光が届かない、天にもっとも近い場所。すぐそこに満天の星空が広がっている。
 シュナイゼルは感嘆を漏らした。ティラナは登ってきた道を振り返り、然程の距離はないのに遥か遠くに見える王宮を指さした。
 ――『ここから見渡せるんですよ。ほら王宮もあんなに小さい。向こうの山の麓に、うっすら光が灯っているのもわかりますか』
 ――『うん。綺麗だね』
 ――『これが私の国です。……殿下のいる国に比べれば霞んでしまうかもしれませんね。でも私は誇りに思っています。……資源に恵まれていても取り尽くしてしまえば何も無くなってしまうこの国のために……私はなにか役に立てると思って。……とはいえ、人に恵まれているから成せることばかりです』
 いつになく、その日のティラナは弱気だった。
 ――『貴女の研究は民間でも活用されている』
 ――『……誰かから吹き込まれたのですか?』
 ――『調べたさ』
 この女性を相手に無関心でいられる者は、よほどの自己陶酔者だけだろう。
 ――『貴女が平民であったなら、もっと自由があったと思うよ。……不敬かな?』
 ――『いいえ。私もただの人だったら、ここまでのめり込めたかわかりません』
 ティラナは背負っていた登山用リュックを降ろして、レジャーシートと水筒とランチボックスを取り出した。
 シートを敷き座ると、足が楽になった。
 『さあ体が冷えてお辛いでしょう。温かい紅茶がありますよ』
 水筒から熱い紅茶をステンレス素材の保温マグカップに注ぎ、シュナイゼルの手に握らせた。
 ――『小腹が空きましたか。サンドイッチもあります』
 ――『なんのサンドイッチ?』
 ――『キューカンバーとチーズとハムが入ってます。マスタードとマヨネーズも』
 ――『美味しそうだね』
 ランチボックスの中を開け、手に取ったサンドイッチをシュナイゼルに傾けた。
 ――『さあ、召し上がれ』
 サンドイッチは美味しかった。柔らかなパン、食感のよいキューカンバー。歯切れのよいチーズと厚いハム。
 隣に座るティラナは紅茶を飲み、果てのない宙を見上げた。
 ――『一等星の欠片を宝石に仕舞い込めたらと思うけれど、実際はただのガスと塵の円盤で構成されている』
 彼女は問いかけるでもなく、独り言のように言った。
 ニット帽の中に仕舞い込んだ長いブルネットの後れ毛が風に揺れた。
 
 不意に景色が切り替わる。それは、黄金色の光。短い夏の終わり、つかの間の秋の日。
 ――もっとみせてあげる――
 編み込まれた長く濃いブルネットの髪、狼の明るい瞳。高原をくるくると活発に走り回る健脚。揺れる裾の短い若草色のワンピース。
 ――シュナイゼル……!――
 広大な金色の迫る麓。差し伸ばされる白く柔らかい手。弾むソプラノ。
 ――もっとみせてあげる。このうつくしい国。わたくしの国を――
 晴れた霧のが鼻先を濡らす感触。鱗粉のように吹きこぼれる光、ちりちりと漲り弾ける情熱。午睡の一筋の光明。頂に挿す祝福の王冠。
 追いかければ軽快に遠ざかり、気まぐれに戻って来る淡い熱。
 風が吹き、草の色に刈りとられて、いなくなって。
 ――ティラナ。……ティラナ……?――
 消えたのは彼女の方なのに。
 迷子になったのは、シュナイゼルの方であるように、心細くなっていく。
 景色が暗く淡くぼんやりと。瓶底から世界を覗き見るように不確かに滲み狭まり、消えてしまう。


 穏やかな微睡みの中にあった。
 「殿下? ……殿下? 失礼いたします。……バスタブで溺れているのかと思いましたわ」
 柔らかな青年の声が、シュナイゼルの意識を現実へと連れ戻した。
 ノックとともに浴室に入ってきた青年、カノン・マルディーニは浴室内の煙たさに手で煽った。バスタブの中で乳白色の温かい湯に浸かり、シミ一つない白肌の上裸を晒す青年は、傍らの小さなテーブルの上で燻らせていた葉巻を指に挟み込んだ。
 一度口内に煙を仕入れて、ふうと息を吐き出した。白煙が水中の中に溶け出した絵の具のように揺らめいた。
 「……溺死していればいかほど楽だったろうね」
 「そんな。物騒なこと」
 喚起のために小窓を少し開けると、切れのある空気が光に混ざって差し込んだ。


 a.t.b.二〇〇九 April
 カストラリア王宮

 ふやけた指をタオルに馴染ませ、シュナイゼルは葉巻を咥えたまま言った。
 「書類を」
 短い命令を受け、カノンは抱えていたファイルから書類を引き抜こうとしてシュナイゼルの手がまだ湿っているのに気づいた。
 「お渡ししたら。濡れてしまいますわ」
 「では、そこで読み上げて」
 差し出した腕を湯に引っ込めて首まで深く浸かった。水位が上昇し、水面から僅かにバスタブの縁から湯が滴った。誰もが羨む輝く金髪は水気を含み、しっとりと肌の上に貼り付いている。
 カノンにはブリタニアでの調査を依頼していた。
 シュナイゼルはもはやコルチェスターの生徒ではなく、主にブリタニアとカストラリアを行き来する生活を送っていたし、彼と関わり続ける必要はなくなっていた。二〇〇八年の五月以来、明らかに人生の転換期を迎えた。それはシュナイゼル以外の多くの者がそうであるように、カノンも同じだった。
 深入りにも線引が必要だとシュナイゼルは考え、カノンには卒業を約束させたが――個人的な罪悪感からか、はたまた事の顛末が気になるからか、彼は何か出来ることはないかと仕事を求めた。
 春季休暇も残り僅かなこの日、簡単なテストを兼ねて、事件の渦中にある製薬会社の公式捜査に加わったカノンは結果報告のため、カストラリアを訪れた。
 バスタブの後ろで読み上げられる報告を聞いて、シュナイゼルは目を瞑りながら言った。
 「調査ご苦労さま。……及第点といったところかな」
 「正攻法で取るとそうなりますわ」
 「手段について拘ってはいないよ。……あれだけ私に楯突いたことのある君が、まるで牙を抜かれたようだ」
 前髪を濡れた手で掻き上げ撫でつけては、ちらりと背後を見遣った。
 「怖くなったかい」
 中性的な美貌の青年は、まっすぐとシュナイゼルを見つめた。
 「君は、機会が来れば証言台に立つか、学院の方の様子を教えてくれるだけで構わないんだ……」
 「あなたを放っておくと、壊れてしまいそうだと思いましたので」
 「壊れる? 私が? あははは。面白いことをいうね。カノンは」
 一度戻した灰皿の上で弱くなった煙をみて、燻そうと再び葉巻を口に咥え、ライターを取った。
 水気で上手くギザギザとした円筒――フリント・ホイールが回らずにいるシュナイゼルに、カノンは自身のライターをすかさず懐から出して、煙の少なくなった先端を炙った。
 「ありがとう」
 本国のある大陸南の一帯のうちの一つ、ドミニカ産の葉巻だ。強く甘い薫りがゆるやかに、濃厚に漂う。
 カノンは足元のタイル張りの床に視線を落とした。高級ワインのボトルが乱雑に並べられている。愛好家がみれば激怒するだろう。
 「……そうだ、いい話があるよ。カノン。協力してもらったお礼に、君の事業にいくらか融資できる。いくら欲しい?」 
 「結構ですわ」
 光の速さですっぱりと断るカノンに、シュナイゼルは青紫色の大きな瞳を晒した。
 「おや。……ふふ。気が変わったら教えて」
 「私にもプライドというものがございます。それに……やさぐれたままのあなたにしておくわけにはいかないと、覚悟を決めました」
 笑みをこぼしシュナイゼルは肩を揺らした。湯船に波紋が大きく広がった。
 「やさぐれている? そうかな」
 「ええ。朝から葉巻にお酒。これが爛れていないですって?」
 「葉巻はノエルからの没収品だよ。……ワインは、彼の部屋に残ってた。高かったから、もったいないだろう?」
 「それを、やさぐれているというのですよ。殿下」
 長い腕で栓の開いていないボトルを拾い上げると、カノンに手渡した。
 「取り引きまでして手に入れたのに、飲む暇もなかったんだろうね。……未開封のものはワインセラーに保管させておいてくれ」
 ラベルを確認すると、一本で雇っている研究員の一年辺りの年収に相当する額だと知り、カノンは思わず両腕で抱え込んだ。
 そこへ浴室の扉を叩く音が二人の会話を中断させた。
 ワインレッドの制服を着用した若い侍従だった。腕にはタオルを数枚かけ、キビキビとした動きでシュナイゼルのもとに寄った。
 若い侍従は「殿下」と呼びかけながら黙礼した。
 「新顔だね」
 「先日採用された、ノーリスです。殿下」
 「出身は?」
 「メルカッサです。……士官学校から陸軍に進み、この度、王宮にお仕えする運びとなりました」
 簡単な自己紹介を聞き、「ふうん」とシュナイゼルは曖昧に頷いた。
 「先日のスイス訪問を受けて、クイーン・マザー・カタジナからお手紙が届いております」
 「うん。わかったよ。……さて、仕事の時間だね」
 灰皿に葉巻を置き、バスタブの白い縁に両手をかけ立ち上がると飛沫がタイルに散った。
 なめらかな乳白色の湯が、窓から射し込む光に黄金色の煌めきを放っている。
 ノーリスは手際よくバスタオルを広げ、バスマットに降り立ったシュナイゼルの体を拭いた。
 この王宮には、ブリタニアのように黒子然とした従者はいない。一人ひとり身分や役職があれど、名前や個人がはっきりと残っている――と数ヶ月前、ペンドラゴン皇宮に付き添った時のことを思い出して、カノンは密かに思った。
 「メルカッサというと、移民の多いところだったね」
 「はい。コミュニティが豊かです。国内ではトップかと思います」
 「……君のお父上は、貿易局の事務次官。ハロルド・エドワード・ノーリス氏」
 「はい。覚えめでたく恐縮でございます、殿下」
 ノーリスは姿勢を低くした。
 王宮に上がって直に世話をする仕事は初めてだからか、表情に強張りがある。
 水気を拭き取り、バスローブを羽織らせるとノーリスは一度浴室から出ていった。
 シュナイゼルは腰元を締め、葉巻を咥えるなり、冷たい色の壁に寄りかかった。
 「貿易局か……彼をスパイするのは気が引けるが。やむを得ないよね」
 カノンはノーリスが立ち去った方を一瞥した。
 「本人照合が一致するか調べさせてくれ。この春、何人か雇ったから彼らもね」
 「Yes, Your Highness」
 承諾したものの、彼の表情は素直に疑問を呈している。
 「人手は足りているのに? と言いたげだね」
 「なっ。……ええ」
 「その通りだよ。……使用人は増えるが、仕える者が増えたわけではない。余剰人員の抱え込みすぎは赤字ではないか。私もそう思う。……これはね、カムフラージュの一環だ。毎年そうしている。九月は忙しいから、三月採用でね。試用期間を挟んで九月にはちょうどよい人数に落ち着かせる」  
 そうは言っても、ティラナ不在の王宮ではあらゆる仕事が閑職だ。 
 今年は誕生日のお披露目も数年前に逆戻りになるだろうし、クリスマスメッセージとて放送はないだろう。
 機能不全に陥っている。それでも使用人達の人数は増やした。
 「非公式外事局への介入、王室監査局と王室研究開発局を創設したから大量採用だよ。既存職員は兼任で戦略分析室にも入って貰ったし、フォローが必要だ」
 非公式外事局は、外務省とは別に、他国の王室、中立国の要人、または対立国の非公式な接触チャネルを維持・管理する。
 摂政シュナイゼルより以前、アルヴェイン朝が始まって以来、非公式外事局はある。数百年の堅牢の秘密はこの外事局が担っていると言っても過言ではない。
 紛争や戦争はある日突然起こり得るように見えるが、必ず地下談合が存在し、カストラリアが仲裁を行ってきた。
 この非公式外事局は俗にいう――秘密結社のような色合いがある。政財界を含む各業界から軍事・宗教から、社会を構成する権威者がメンバーが加入しているからだ。そして、様々なルーツを持つカストラリア人の国粋主義、国家主義とは、中立の理念である。
 一方で複雑なアイデンティティや多様性を歓迎する反面、自国の利益が第一主義であるため、それに適わないと判断されれば排斥が行われる自浄作用の強い特徴があった。とくに外国の皇族であるシュナイゼルに対して、彼らは禊として強い貢献を求めた。

 ナイトメア三十機を各国境付近に配備する。――対中華連邦への牽制配備を行ったのはまさにこの為である。
 彼らの見解では、金融犯罪の補償はティラナ王女の資産でありシュナイゼルのものではない。真にカストラリアへ貢献を行ったかどうかでは疑念を抱く者は、その愛国心≠試している。
 あとは、エネルギーシールドを張り巡らせるインフラ整備を行えば、ある程度評価を得られるだろう――というところまで来た。
 それらと同時並行で新設した王室監査局は、王室内務局や財務局の運営が透明かつ適正であるかを監査する、独立した機関であった。国民の王室に対する信頼を維持するために、その存在が不可欠と判断したからだ。
 戦略分析室に至っては、ブリタニア、ユーロ・ブリタニア、ユーロピア連合、中華連邦の動向に関する最高機密情報を収集・分析し、摂政であるシュナイゼルの戦略立案を補佐する。水面下では、女王の行方不明に関する最高度の隠蔽工作と情報管理も担う。――王女のベッドが空なのを知る者たち全員はこの戦略分析室に籍がある。
 こうして体制を整えても、生体人体実験を受けているティラナの捜索は砂漠の砂の中から一粒のダイヤを見つけ出すようなもので、すでに暗礁に乗り上げている。

 ただ一つ、いえることがあるとするならば、アルディックはティラナを簡単に死なせることは、決してしないだろうということだ。
 ティラナの姿のマルカをシュナイゼルの目の前で自殺に追いやった可能性を鑑みれば、アルディックは、シュナイゼルに心理的に揺さぶりかけるだろう。フェティッシュ的な残虐性から、必ずティラナを使って仕掛けてくるはずだが、ティラナとて操られっぱなしというわけではない。その最たる例が、ノエル・アストリアスだった。
 彼は暗殺の任務を与えられながら、それに抗い、多くの証拠を残した。
 解決策は血液検査を行い、遺伝子解析を行わせるものだが、物理的リソースと時間の問題が嵩む。ティラナの智慧の結晶である薬品を用いてもサンプルを出すのに数時間はかかり、比較や分析を行うにはより効率的はシステム構築が必要だ。
 
 生体認証システムを開発する企業と組み、新規プロジェクトを推進させるには表向きの大義名分が不足していた。
 
 シュナイゼルは重い煙を吐き、憂いを帯びた眼差しを窓の方へ向けた。
 カノンは案じて話題を切り替えた。
 「そういえば、ロイドが喜んでいましたわ。こっちの予算枠に」
 先日招いたロイドの顔が過ぎり、シュナイゼルは僅かに唇の端を持ち上げた。
 「お姫様の恩恵だよ。ブリタニアは戦争をするから軍事関係が重宝されるが、こちらは戦争をしていなくても研究職は食いっぱぐれない。ブリタニアは今でこそ世界中の研究者を食っているけれど、十年二十年先も同じかどうかはわからない」
 「移住を考えてるって」
 「さて、それはどうかな。審査はかなり厳しいときく。私はすでに洗礼を受けたがね。多様性を謳いながら、実のところ外国人嫌いだ。世襲制だけの貴族は弾かれるのが、この国の階級社会の特徴だね」
 ブリタニアは武功を立てれば一定の出世が見込める。カストラリアは戦争をしないし、個人能力主義がかなり強い。先代から始まった反移民政策で十数年経とうが人口に大きな変動はない。出る者は少なく、入る者も少ない。特権階級は厳しいノブレス・オブリージュを求められ余計なことは出来ない。アルディックが凶行に至っているのは、地の利がある地方の公爵に叙したからだ。
 これに関しては、王后含む姉弟らの身内への甘さが原因といってよいだろう。
 カノンは顔を顰めた。
 「洗礼とは……」
 「色々だよ。私に子のひとりでもいれば信用に足るらしいが。……臥せて≠ィられるのでね。困ったよ」
 一般的に子はかすがいというが、シュナイゼルにとっては人質と担保の役割を果たすだろう。
 議会・枢密院ともに承認を得たシュナイゼルは昨年八月以降、非公式外事局のメンバーに加わったが、ベルケス公の推挙があったからだ。
 ブリタニアに皇籍と皇位継承権を持つ者、カストラリア王室王位継承権第一位を駕ぐ摂政の立場の者をメンバーに加えるかどうか。――組織内では一悶着あったようだ。宣誓書にはブリタニアの利益を優先した場合、即刻除籍処分と、相応の補償を行うものとする誓約があり、シュナイゼルは迷わずサインした。
 非公式外事局の掌握は、アルディックを引きずり出し、白日のもとに晒したうえで裁きを受けさせるに必要な勝利条件の一つだからだ。
 「カノンには……貿易局とノエルの主催していたパーティーに出席したブリタニア貴族の取り調べを行ってもらおうかな」
 「はい」
 「それと……不法移民摘発を徹底してデータ提出を頼むよ。それが上手くいったら、テストに合格だ」
 「Yes, Your Highness」
 カノンは深い礼をとった。
 「……しかし殿下、これからいったい何をなさるおつもりですか?」
 「何だと思う?」
 終いだと葉巻を灰皿に押し付けて、シュナイゼルは未来を見据えるように目を細めた。
 「大義名分が欲しいんだよ」



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午前四時の異邦人
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