a.t.b.二〇〇九 25th March
スイス ベルン州 グシュタード
ベルン州にある山間のなだらかな緑は凍てつく白銀に覆われている。
開放されたゲレンデでは、蛍光色の目立つウェアを着込んだスキーヤーが滑らかに斜面を下りていく。
グシュタードは世界でも有数の超富裕層向けの高級山岳リゾート地となっており、滑走を終えたスキーヤーを下で待ち受けるのはお抱えの使用人達と迎えのハイヤーである。
ハイヤーに乗り、滞在先のホテルか山小屋風の別荘――シャレーへ戻り、着替えては冬の社交界に顔を出し、何もない′i色を楽しみながら談笑し、テニストーナメントに興じる。
大地主とホスト役を兼ねるポニャトフスキ家は、ホテル・クリスタル・デ・アルプの名で数十軒の長期滞在を想定した邸宅型ホテルを経営している。
山の中腹地から五台のハイヤーが列をなして下るのを、富裕層のスキーヤー達はこぞって眺めた。
彼らの多くは、誰がどのような事情でこの場所を訪れても、騒ぎ立てず沈黙を守り干渉しない暗黙の了解を心得ていたが、別荘地に警護車両を前後に挟む車列を組んで訪れるのは決まって王族である。
ポニャトフスキ家はかつてポーランド王国の元王族である。車列は眺めのいいエリアから下降するように移動する。その高待遇ぶりは縁故の証明であり、ましてや現役の王家は――と類推すると好奇心を刺激するのは当然だった。
ゲレンデの途中から興味心から足を留めた親子がいた。
子供はあれは何?と手袋をはめた指でさした。
「王様が乗っているんだよ」
「王様?」
「若くて、独りぼっちの王様が」
首を傾げた子供に父親は語った。
低地では雪解けが始まっていた。
雪の下からは、黄色い小さな太陽の花が顔を覗かせている。
車列の中央のハイヤーの扉を従者が開けた。その様子をひと目見ようと周囲には人の壁が出来上がっていた。
金釦を縫い付けた外套。首元を埋めるウールのマフラー、羊皮の手袋。雪に紛れる白で統一された装い。紫外線の乱反射を遮る黒い偏光サングラスだけが、そこに存在感を与えている。
お忍びでの訪問を聞きつけたばかりのメディア関係者が防寒着を甘く装い、ドタドタと道端に三脚を立てた。
注目などお構い無しで白の皇子――シュナイゼル・エル・ブリタニアは教会の門を潜った。
雪に埋もれる白い壁と博愛のブルーの屋根。象徴の十字と聖母像。平日の午前だが教会内には信者の姿があった、除雪車の駆動音が地響きが一面に伝っている。
教会のシスターが長身の来訪者を出迎えると、ゆったりとした黒袖で裏手の小屋の方を指し示した。
偏光サングラスを片手で外し、教会内のレッドカーペットをまっすぐ歩き、適当な列の一つ、木製の長椅子に腰掛けた。
正面には祭壇と十字に磔にされる神の息子がある。光を取り込むために設えられたバラ窓と、色彩豊かなステンドグラスが嵌っている。聖書の中の場面――使いである天使ガブリエルが受胎告知を受ける聖母の姿が描かれている。
シュナイゼルは身を丸め前列の椅子の背凭れに組んだ両手をついた。そこに額を預け、しばし祈りに耽った。
三月二十五日は聖告を記念した祭日にあたる。
祈りを終え静かに長椅子を離れたシュナイゼルを、ロザリオを下げた神父が声をかけた。
表の道ではなく裏手の方から、と神父は帰り道について教えた。
「ありがとう。……すまないね。この日に騒ぎ立ててしまって。……彼女は裏手にいるんだったね」
「ええ。殿下。先日子羊が生まれまして。その世話につきっきりです」
にこやかな笑みを湛える神父と二、三言やり取りを交わした。
シュナイゼルの足は、聖母マリア教会の裏手にある雪原の中に建つ小屋に向いた。
白銀の光を反射する小屋の板は凍っていた。
冴える空気から一変。小屋の中に足を踏み入れると、獣臭さ、ほのかに甘くスモーキーな干し草の香。大きく開け放たれた四角い窓の麓で、修道女が一人蹲り、黒と白の同居する小さな子羊の世話をしている。
「やあ」
燻んだ金髪を隠す黒のウィンプルが動き、乾燥した草の上の鮮やかな影も連なる。緩やかに、ペリドットの瞳が訪問者を見上げた。
a.t.b.二〇〇九 23th March
スイス ベルン ポニャトフスキ家
州都のベルンはドイツ語の熊の名を持つスイスの連邦首都である。
美しい旧市街は中世の街並みをそのままに、遠方にグルテン山、アーレ川ループ、橙褐色の屋根の連なりと、いくつかの時計塔や大聖堂、歴史的な彫像で装飾された色鮮やかな噴水が至る所に点在している。
高台のローゼンガルテンには数百種類の薔薇が栽培されている。池の畔を歩く家族連れ、カップルを横目に坂道を黒の車列が横切っていく。
門のむこう。ミルクティー色の壁と軒下。陰から、群青と渋いグリーンのあわい混色のセーターを着た壮年の男が現れ、約束の時間ぴったりに到着したゲストのために出迎えた。
男は深い金色の髪を後ろまで撫でつけ、人好きのする微笑を浮かべ、白い外套の青年に手を差し出した。
「ようこそ。シュナイゼル殿下」
「ご挨拶いたします。カジミェシュ陛下」
「くく……。よしてくれ、もうただの旧い家だ。さあ、入って入って。アップルパイを焼いたばかりでね。うちのはカスタードが格別さ。……先日の葬儀では作る暇がなくてね。じっくり饗すことが出来ずすまなかった。今日こそはぜひ食べて帰ってくれ」
「お構いなく」
カジミェシュ・アウグストゥス・ポニャトフスキ。
ポーランド王国――またポーランド・リトアニア共和国の最後の国王、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを擁する一族の末裔。今年のはじめ、当主となったばかりの四十二歳。普段はモントルーで湖と山を望む歴史ある城と、ベルン内にあるこの邸宅とは別の城に暮らしている。
王族の末裔――カジミェシュは、シュナイゼルに入室を促した。
長細いギャラリー代わりの廊下を突き進むと、シックな赤を基色とするリビングがある。中華連邦から輸入した手織りの高級絨毯。傘付きのランプの数々。大きな大理石の暖炉。金色の精巧な置き時計。アームチェア、ウィングチェア、チェスターフィールドソファは総て、本革の艷やかな光を帯びる赤褐色に統一されている。
「血の入れ替えには最適期だろ?」
ウィングチェアの対面にあるチェスターフィールドソファに腰を落とすと、隣接するキッチンに戻ったカジミェシュは両手にミトンをはめ、角皿に移したアップルパイを運びながら言った。
ボタニカル柄の壁には家族写真、古い肖像画、鹿の剥製、現代アートの抽象的な筆致の絵が飾られている。
特別な来客用にとリビングのテーブル上にはカトラリーがすでに用意されている。
使用人はたしかに存在したが、カジミェシュは人を饗すことを好む性格で、てきぱきと段取りよく仕事をこなした。キッチンの冷蔵庫の冷凍室を開け、アイスクリームボックスを引っ張り出すと、箱ごとそれをシュナイゼルに見せた。
「どうだ? でかいだろ」
シュナイゼルは軽く笑った。
「うちは甘党が勢揃いでね。アップルパイには、こうして、アイスクリームを乗せる」
アイスクリームディッシャーで綺麗な丸い塊を掘り出し、熱々のアップルパイのうえに添える。アイスクリームは冷気を放ち、溶け出すのには時間がかかるだろう。
「二つ? 三つ?」
「三つ」
「いいね。そう来なくちゃ」
そうして、追加の二個がまた添えられる。
グシュタードの牧場の乳牛から絞った、乳脂肪分二〇%の濃厚なバニラアイス。それを少しずつ溶かしながら一緒に食べるのがポニャトフスキ家伝統らしい。
「褒められた食べ方じゃないかもしれないが――旨いことに変わりない。ティラナなんか泊まりに来た時、夜中にホットケーキを焼いて一人で食べてた。アイスは二個だ。たっぷりと蜂蜜をかけてね」
夜中に盗み食いの話を知って、シュナイゼルは一昨年の夏のウィルゴ宮を思い出した。真夜中にサンドイッチを作って、庭園のガゼボで食べた時のことを。
おとなしいシュナイゼルの反応にカジミェシュは、その話が辛い現状を突きつけるものだと思ったのか、努めて明るい声で「よし、大人の味を加えよう」といって手を叩いた。
サイドテーブルには、グラス類と酒のボトルや瓶が並び、照明を受けて琥珀の光を放っている。
「シャンパン、ワイン、ブランデー、ウィスキー? もう飲めるだろ? 全部試したか?」
なんでもある、とカジミェシュは付け加えた。
「ブランデーを」
「ここはまだ£立だから、コニャックかアルマニャックを選べる」
ユーロピアとブリタニアの関係を案じて、カジミェシュはこの場所が中立地帯であるから問題ないと示した。
「……コニャックをお願いします」
「ふっ。なるほど。ストレート? トワイスアップ? ロックか? ソーダ割りもできる」
「ストレート」
面白そうに頷いて、カジミェシュはグラスにコニャックを注いだ。
「ありがとうございます」
シュナイゼルの分を渡し、カジミェシュは自分の分を用意した。
彼は一旦奥にあるワインセラーのもとへ行き、お気に入りの一本を抱えて戻ってきた。
「夏はローザンヌ。冬はグシュタードがいい。いい社交シーズンだ。……ティラナはグシュタードが好きだったな」
言いながら、カジミェシュはコルクの栓を抜いた。
「スキーを嗜まれたでしょう」
「ええ。そりゃ勿論。母親の運動神経の良さを受け継いだし、父親の神経質さが都会の喧騒を嫌った」
グシュタード・マウンテン・ライズ。
富裕層のためのリゾート地。白銀のゲレンデをスイスイと自由自在に滑る姿が、容易に目に浮かんだ。
ワイングラスに注ぎ、彼はようやく所定のウィングチェアへ座った。「グシュタードには?」とシュナイゼルに尋ねかけた。
「これからです」
シュナイゼルのスイス訪問はポニャトフスキ家に関するものだった。その主な要因であるセラフィナ・ド・アルディックの身柄を引き受けたのは、ポニャトフスキのグランドマザーであるカタジナへの挨拶と、セラフィナの事情聴取を兼ねていた。
「曾孫の結婚式までは、長生きするそうな。息子が死んでもお元気そうだよ。毎日寝酒を欠かさない。葉巻も。……こりゃ、ある日突然ポックリ逝くタイプとみた。女は男が早死したほうが健康長寿の妙薬みたいだ」
くくっと喉を鳴らして、カジミェシュは笑った。
「シャンパン、ワイン、ブランデー、ウィスキーよりも」
「そう! さあ、君も長生きしてくれ。あの子がゆっくり死ねるように。では、乾杯」
カジミェシュはワイングラスを小高く掲げたあと、シュナイゼルのグラスを鳴らした。
a.t.b.二〇〇九 April
ブリタニア セントダーウィン アリエス宮
女の子がひとり泣いている。
どこまでも続く青い草原の中には色とりどりの花が咲き誇り、色彩派の絵画作品のようにロマンチックであるのに、誰もその涙を止めるものはなかった。
激しい喧嘩は生まれて初めてだった。波打つアッシュブロンドの髪。高い位置に二つに結び。小さなプリンセスの頭上を小鳥が美しい歌をうたい飛び回っている。それでも啜り泣く声の慰めには、いまひとつだった。
啜り泣く少女の声を聞いたのは、ウォリック宮からアリエス宮に住まう弟妹を訪ねた腹違いの兄、クロヴィス・ラ・ブリタニアだった。名門の帝立コルチェスター学院の春季休暇最中の彼は、普段会えない兄弟と余暇を過ごす時間を愛していた。
「おや。かわいそうに」
アリエス宮の女主人の娘、ナナリー・ヴィ・ブリタニアは兄よりも活発で天真爛漫。この宮を訪れて泣いていることはあまりない。むしろ兄のルルーシュに悪戯を仕掛けたり、走り回ったり、少し歳上の姉のユーフェミアと共謀して彼を困らせてばかりいる。そんな彼女がぐずぐずと、美しい庭園と地続きの芝生の上で膝を崩して目元を擦っている。
アリエスには母親であるマリアンヌは不在のようだ。乳母は声をかけるタイミングを見計らっているのか、建物の円柱の陰から様子をうかがっている。
クロヴィスは致し方ないとわかりやすい咳払いをすると、声を張り、異母弟のルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの名を呼んだ。
「ルルーシュッ!」
彼は屋内の子供部屋にいた。明るく優しい色の壁紙。ふたりの兄妹が仲良く眠るための大きなベッド。玩具はキャビネットの中。お気に入りのぬいぐるみがベッドの上と椅子の上に客人のように座っている。
天上まで伸びる高い窓は開け放たれていて、そこからナナリーの様子は見えているはずなのに、動こうとしていない。
普段の彼ならありえない様子に、クロヴィスは目を瞠った。
「なんですか。クロヴィス兄さん」
声の調子は悪く、暗い。なぜナナリーが泣いているのか、少し解るような気がした。
「まずは挨拶だろう。ルルーシュ」
「ご挨拶申し上げます……クロヴィス兄様」
ルルーシュは立派な椅子から立ち、目上の者にするように腰を一度屈め、頭を垂れた。
「庭でナナリー姫が泣いているじゃあないか。妹を泣かせる兄がいていいと思うか?」
「勝手に泣いたのはナナリーの方だ」
「らしくないことを。……いつもの君なら、ナナリーのことを真剣に大切に想っているのに。どうしたんだい? 喧嘩をした?」
「ナナリーが急に泣いて怒って、ああなったんです」
遊んでいたら勝手に玩具が壊れてしまった、そんな言い訳のように妹の涙に無気力で無関心で、まったくもってルルーシュらしくない様子にクロヴィスは怒りを削がれ、むしろ心配が勝った。
「急に? そんなわけない。必ず理由があるさ。待っていなさい」
クロヴィスはルルーシュのいる子供部屋から立ち去り、屋外の庭園に出た。
ナナリーは未だしくしくと泣いている。
ゆっくりと、驚かさないように、クロヴィスは近づいた。
「やあ。ナナリー姫」
「……ぐずっ……ぐず……クロヴィス……おにいさま……」
「そんなに泣いては、せっかくの可愛らしいお顔が腫れてしまうよ」
クロヴィスは姿勢を低くして、ナナリーの側にそっと膝をついた。
「何があったんだい? 話してごらん」
「お兄さまったら……」
ナナリーはしゃくり上げながら、涙の理由を語った。
「クロヴィス兄さん」
一度外に出たクロヴィスが再び子供部屋に戻ってきて、ルルーシュは彼の顔の方を見た。
「事情はわかった」
「……ナナリーは」
「そんなに気にしているなら、慰めにいってやればいいだろう」
「だって……僕は……悪くないし……」
俯くと、母親譲りの漆黒の髪の陰が色白の肌の上に落ちた。責任を取り合わずいじけるような呟き。クロヴィスはテーブルの上にあるチェス盤を引っ張り、ルルーシュに宣戦布告した。
「ルルーシュ」
「なにを……?」
「いつもなら、吹っかけてくるのは君の方じゃないか。今日は私からお誘いするよ」
先に椅子に座り着席を促した。
「さあ、座って。今日は勝てそうな気がする」
「む……」
少年の唇を引き結ばれ、眉に力が籠もった。
負けず嫌いに火がついた。クロヴィスは異母弟の性格を見越していた。
クロヴィスは窓越しに、ナナリーについた乳母に目配せして、コインを手に握った。
花の精霊のようだね、とは濃いピンクの髪色を持つユーフェミアの異母兄、シュナイゼルによる比喩である。
このところ中々顔を合わせることも難しくなっているシュナイゼルは今、外国にいる。兄弟姉妹の中で唯一、結婚にもっとも近いといわれた兄だが、婚約者である王女が臥せて代わりに国を治めている。
ユーフェミアには生まれてこの方、ひとりぼっちという感覚がない。宮殿には多くの召使いと乳母、侍女やメイド、血の繋がった姉、宮の外の別の宮では母親違いの兄弟姉妹がたくさん暮らしている。
兄弟がいると喧嘩をすることや、取り合いや、躾の時に他の兄弟に比べられたりもする。しかし、賑やかで温かく幸福に満ちた笑い声が世界一の国の広大な宮殿の中にはある。
シュナイゼルのお相手のお姫様は十二歳で塔の中に閉じ込められた髪長姫――ラプンツェルのように、高い岩がちの山の上に住んでいる。そこに親兄弟はなく、天気は悪く、召使いに囲まれて暮らしている。寂しそうなお姫様。異母兄であるシュナイゼルはお姫様に会いにいく。歌声に誘われて。
母である皇妃にお許しを貰い、ユーフェミアはアリエス宮を訪れた。
士官学校の休暇入りは明日からの姉のコーネリアは明日宮に帰って来る。それまでの暇つぶしにと、あちこちの他の兄弟のもとを通い遊び回っていたがその日はルルーシュやナナリーのいるところにやって来たのだった。
アリエス宮の門を越え、宮殿内に進むとすぐ柱廊の傍らから望める庭園と芝生の敷地、いくつかのガゼボが目に付く。そんな中、この宮のお姫様が乳母に背中を擦られて、慰められている。
ユーフェミアは軽やかに近寄り、ナナリーに声をかけた。乳母ははっとして顔をあげた。
「あら? どうしたの? ナナリー!」
「ユーフェミア様」
「ごきげんよう。ナナちゃんが泣いているのはどうして?」
「それが……」
乳母はその場所から真っ直ぐ、宮殿の窓の一つに視線を向けた。そこは兄妹の子供部屋で、中には先に遊びに来ていた異母兄のクロヴィスとチェスに興じているルルーシュの姿があった。
「ルルーシュの仕業? 珍しい。こんなこともあるのね! わかったわ。……ナナちゃんは私と一緒に遊びましょうか!」
「ユフィねえさま」
ユーフェミアはナナリーの頭を優しく撫で、それから両手を掬い、立ち上がらせた。
少女の目元は赤く少し腫れぼったくなっていた。ユーフェミアは少し首を傾けて、乳母にナナリーの目のことを指摘し、保冷剤を持ってくるよう合図を送った。
ユーフェミアはナナリーの手を握り、ガゼボの中へ誘った。
「そうだ。ラプンツェルを読んであげます。御本があったでしょう? 以前、シュナイゼルお兄様が読んでくださった物語集に」
シュナイゼルはラプンツェルを読んでくれたが、途中、時間がなくて話を巻き上げてしまった。
その時も、彼はお姫様のいる国へいそいそと出かけていった。ユーフェミアは本当の物語を知らない。ナナリーに語りきかせながら、恐ろしい冒険に駆り出されていることを知った。
ラプンツェルは王子と密会していたが、魔女に失言し、関係が知られてしまう。激怒した魔女はラプンツェルの髪を切り、荒野へ追放。王子も塔から突き落とされ、茂みの棘で刺されて両目を失明する。
「ユフィ姉さま?」
「ん……うん……」
ユーフェミアの沈み込んだ声に、今度はナナリーが心配する番だった。
ラプンツェルは逢瀬と密会を重ねる中、王子との子を身籠ったまま追放され、荒野で出産する。そこに放浪を続けていた盲目の王子がラプンツェルと再会を果たす。彼女の流す涙が王子の目に触れ、視力が回復し――家族は幸せに暮らす。
物語では、最後には必ずハッピーエンドになる。
しかし、本物の、現実はどうだろうか。現実には、不思議な魔法も存在しないのではないだろうか。
「シュナイゼルお兄様……」
彼はこの物語を読んでどう思ったのだろう。
誰よりも賢くて、物知りで、宮廷で働く父帝の側近や貴族達と難しい話を交わしている、働き者の皇子様。
「……らしくない」
呆れた――と、クロヴィスの呟きに、ルルーシュの大きな紫紺の瞳が睨んだ。
子供部屋でチェスの対決を続けるクロヴィスとルルーシュはいつもよりもかなり、白熱していた。
珍しくクロヴィスの方が勝てそうだったのだ。
「いつもならとっくに敗けている頃合いだよ。……勝負に身が入っていない。心ここにあらずのようだ」
「だって……」
口を尖らせ、両肩を寄せるルルーシュは小動物のように縮こまった。
ルルーシュはぶつぶつと文句を言った。
――シュナイゼル兄様が全然、相手してくれないから――
皇宮内でルルーシュのチェスをよくみていたのはシュナイゼルだった。すべてが優れ、非の打ち所がない完璧な異母兄。一度も勝てた事のない相手。マリアンヌからチェスの手ほどきを受けたルルーシュに、人に合わせてばかりのシュナイゼルが能動的にチェスをしようか、と誘ったのが始まりだった。
学院の休暇。とくに夏冬にしか宮殿に長期帰省しないシュナイゼルにはこぞって他の兄弟達が押し寄せて、遊びを強請った。貴重な時間を我先にと埋めていくのを遠目で眺めていたところに、彼は「チェスを始めたと聞いたよ」と――。
初めての対決はそれは酷いもので、当然ルルーシュは惨敗を喫した。
――そんなに落ち込まないで。ルルーシュ。君の頭は柔らかくて物覚えがいいから、すぐに上達するよ――
負けた事は素直に悔しかった。
勝てるとも思わなかったが、シュナイゼルは年下が相手だからと手加減せずその強さを示した。
シュナイゼルの休暇中の二度目の訪問でもう一度チェスを指した。
――前より少し考えられるようになってきたね。次に会う頃にはもっと強くなってるから、楽しみにしているよ――
ルルーシュは次があることに喜んだ。またこの人気者の兄が自分を相手してくれる。もしかしたら褒めてくれると、期待と情熱に火がついた。シュナイゼルがチェスをするとき、他の兄弟姉妹といる時よりも、ほんの僅かだが、彼の瞳の中に強さが宿るのを知っていた。
その翌年、衝撃的な光景を目の当たりにした。
シュナイゼルとクロヴィスの滞在する貴族学院の行事内のプログラム。シュナイゼルが寮を代表して、ある一人の同級生とチェス対決を行った。
試合は終始冗長な会話と観客の笑い声、試合の内容など、どうでもいいような賑やかさであったが、ルルーシュだけは真剣にふたりの盤面を見つめていた。
ゲーム自体はステイルメイトで引き分けとなったが、ルルーシュにとってみればシュナイゼルがあれほど長く翻弄されている事はあり得ない≠アとだった。同時に、ルルーシュがいつも負けている理由や、シュナイゼルに勝つための道筋のヒントがその試合には隠されていた。
ルルーシュはその後、ユーフェミアを伴って学院の食堂に入っていくふたりの姿を追った。
白いテーブルクロスのかかったテーブルで、食事をしているところだった。
シュナイゼルが自分達の存在に気づき、招き寄せ、その少年を紹介した。彼は公爵の息子で、伯爵。名前をノエル・アストリアスといった。
兄がノエル・アストリアスにご執心なのは、その眼差しで十分すぎるほど伝わった。同時に焦りと危機感が募った。シュナイゼルの関心がすべて彼に移ろいでしまったら。もうチェスの相手をしてくれなくなるのではないか。
だからこそ、ルルーシュはノエルに挑戦を叩きつけた。
ノエルはシュナイゼルと違って、子供には子供のレベルをと手加減する人間で、いくら加減をするな≠ニいっても手を抜いていた。勝負に不真面目な奴。それが第一印象で――この少年を気に入るシュナイゼルに少し嫌気がさした。
クロヴィスはため息混じりに言った。
「シュナイゼル兄上はお忙しいんだ」
「あ……」
要するに、シュナイゼルとチェスが出来なくて寂しい。単純な理由だ。
ルルーシュが彼に執着するのは、もう一つ理由がある。
母のマリアンヌのせいにしたくはないが、マリアンヌの出身とその家柄の問題でルルーシュはこの皇宮での生活――とりわけ他兄弟とその皇妃から冷遇されていた。
クリスマスにアリエス宮から出ずに、交流を持たないことを知ったのは昨年のことだった。
それまでその聖なる日に、皇宮にあるインペリアル・サロンでプレゼントを交換しあったり、一緒にお茶を飲んだりすることなど知らなかった。
セントダーウィン通りの表道に大量のリムジンが通るのをみて、その列がクリスマス交流帰りだと知った時、少年の心には明確にこのブリタニア皇帝の子供とその母親に序列があることを知らしめ、社会を教えた。
ルルーシュは母親を差し置いてでも自分と仲良くしてくれる、リ家姉妹やクロヴィス――そして、シュナイゼルに対して、より信頼を置くようになった。
クロヴィスは次の一手を考えるルルーシュを前に、窓の外を眺めた。
「ちょうど今のルルーシュの頃ぐらいから、忙しい方だった。私は絵ばかり描いていた」
シュナイゼルがブリタニアにいない理由は、彼が外国にばかりいるからだとルルーシュは知っていた。
それもただそこへ行くのではなく、結婚相手の国の仕事を肩代わりしているのだと、以前コーネリアが教えてくれた。
「結婚ってそんなに大事?」
ブリタニアにいたほうが幸せなのに。
ここには何でもある。美しい自然。めったに言葉を交わすことの出来ない強い父の姿。ブリタニアを超える国は世界に存在しない。なににも侵されない堅牢で幸福な世界。優しく、温かい場所から遠くの国へ行ってしまうなんて。ずっと楽しいことだけをして暮らしていけばいいのに、とルルーシュは子供心からそう思っていた。
「……あんな小さな国……寒いし、ひもじそうなのに」
クロヴィスは咎めるように「ルルーシュ」と呼んだ。
カストラリアは小規模といいながらブリタニアと相対的な比較であり、実際は中規模であり、国民人口・約五四〇〇万人を抱えている立派な文明国である。
「帝国史はやっただろう?」
「……それは」
「我が国だって、今の国になる前は……それこそ、そのカストラリアに劣るほど小さな国だったこともある。……そのことはシュナイゼル兄上の前で言ったらダメだ」
ルルーシュは眉を顰めた。
小鳥が白い糞を落としても動じぬ、穏やかな異母兄が剣幕になるとは到底考えられなかった。
ふとゲームが進んだ盤上に視線を落としたクロヴィスは、忽ち青ざめていった。
「やられた!」
クロヴィスはしてやったりと勝利を確信したルルーシュによって、一気に敗けに転じた。
a.t.b.二〇〇九 25th March
スイス グシュタード 聖マリア教会
畜舎の中はほんのりと暖かいような気がした。
木で編まれた窓の外をシュナイゼルは眺めながら、吹き込む風の中には雪のにおいしかないことを残念がった。
「春はもう少し先だね」
「……シュナイゼル殿下」
婚約者の従姉妹が抱き上げた子羊を見て、柔らかく微笑んだ。
「こちらの春の方が、正確のようだ」
一見ぬいぐるみのように愛くるしい、白い体に手足と目鼻口耳の黒いヴァレー・ブラックノーズ・シープはスイス原産の羊だ。
季節繁殖動物である子羊は、日照時間の少なくなる秋季に決まって交配するため、春には必ず出産する。
厳しい寒さの続くスイスの最初の春の到来を告げる生命の息吹。放牧はもう少し先となる。
「ええ。……お抱きになります?」
「いいのかい」
「どうぞ」
そういって、彼女はシュナイゼルに子羊を差し出した。
わたわたと四肢が動き、宙を駆けている。
「蹴られたりしないといいけど」
「大丈夫ですよ。おとなしくて、人懐っこいから」
腕の中に収めた子羊の腹部を覗き込んで「雄だね」と言った。子羊は舌を出しペロペロとシュナイゼルの白くて冷たい頬を舐めた。セラフィナの言う通り、おとなしくて人懐っこい性格のようだ。
「よく懐いてる。……三日前に産まれたばかりなの」
「そう。……ここでの生活はどうだい」
「慣れとは恐ろしいものです。……静かだし……誰も干渉してこない。まだ事が公になっていないから……今のうちのことだわ。……ここへ来たということは……私にお話を聴きに来たのでしょう」
セラフィナはしばし間を置いたあと、シュナイゼルの意図を汲み取り、本題に入った。
「そうだね。……協力してくれるかい?」
「……ええ。……毎日主にお話ししているから、慣れたわ」
セラフィナは子羊を優しく受け取って、母親のもとへ返した。
黒のウィンプルを整えて「あちらでお話しを」と、手を修道院の方角へ差し出した。
修道院の応接室は質素な木造造りだった。
スノーホワイトの壁、バーチの羽目板。温かなキャンドルの灯火と聖像画の金色の反射。淹れたての熱い紅茶と素朴なクッキーの控えめな甘さ――それらは、皮膚の外側から毛布で包み込まれるような心地の良さがある。
祭日の聖歌の歌声が、教会の方から聞こえてきた。
「なにからお話ししましょうか」
「……早速だけど。アルディックについて、どやって調べたのか……気付いたのか。……聞かせてくれるかい?」
セラフィナは頷くと、落ち着いた調子で話し始めた。
「話を聞いてしまったの。……屋敷の中で聞いたわ。誰が話していたかはわからない。……内容は、論文をどうやって入手したのか、とか」
シュナイゼルは、じっとセラフィナの瞳を見つめ続きを促した。
「……うちの家系で論文の話が出るのは、ティラナのところしかあり得ないの。……ポニャトフスキの一族は研究について無関心……というより、王族が細かな労働をするべきじゃないとさえ思っているから。……奉仕と労働は違うという価値観をお持ちでいる」
「……だから、その論文がティラナのものではないかと思ったんだね?」
「はい。……それ以前から、父……、――忌々しいあの男の、ティラナを見る目は常軌を逸していた……と思う。今になってみて、それが正しかったといえる。違和感を覚えたけれど、……開けてはいけないものを開けてしまう気がした」
僅かに瞼を伏せて視線を外し、少し遠いところを見遣りながら話し続けた。その仕草が、ティラナに似ていた。
「……私は、あの男の世間体を、体裁を取り繕うために……生まれた子供だった……としたらって……。枕を濡らす夜がたくさんあった」
「クーデターが起きた時、サロニア公はどちらに?」
「屋敷にいました。サロニアの。……テレビで燃えている王宮が映っていた。リビングのソファに座って、項垂れているように見えた。その後、どこかに電話をかけていた」
「何か言っていたかい」
「準備をしろ≠ニ」
再びふたりの視線が交差した。
紅茶から漂う湯気が光の中で、水の中のように揺れ動いた。
「私は救援のための準備かと思った。あの男は、立ち尽くす私に向かってリダニウムに行く≠ニ告げて出ていった。……でも、本当は違ったみたい。準備はとっくに完成していて、ティラナを攫いに行ったんだわ」
「アリバイ作りのために屋敷にいた?」
「……そうかもしれません」
私を。娘という目撃者を――と加えた。
「セラフィナ嬢が聞いたという話は、いつ頃のこと?」
「……クーデターから一ヶ月経った頃です。庭いじりをしていたら、何人かのスーツ姿の男達が……玄関から門の方へ歩いていくのが見えて。……論文を手に入れたことを驚いているようでした。……そして、誰かが、誘拐事件……? 行方不明者の噂話をしていた」
「行方不明者?」
シュナイゼルの綺麗な眉が寄った。
「お名前ははっきりと憶えていなくて。ごめんなさい。……男性の方よ。一人ではなかった。……その方達は、あの男の計画には関わっていたみたいだけど、詳細までは知らされていない立場の人だったのかもしれません。……私はその頃は不審に思ったけれど、誰かに相談出来ることでもなかった。……母は幼いころに他界していたから」
セラフィナは掠れた声を潤すために、紅茶を口に含んだ。
「調査をしようと思ったのは、あの男が屋敷を空けることが多くなったから。……それまでも忙しい人ではあったけれど、数カ月以上帰らないようになってきたの。……それで、数年前、あの男が屋敷からどこへ向かうのか、尾行することにした。……メルカッサ、アストレー。……どこも郊外や田舎の方の療養所や孤児院だった」
シュナイゼルは懐からペンとメモ帳を取り出した。
「療養所と孤児院の名前は覚えているかい」
「ええ。……私が書きましょうか」
「お願いするよ」
セラフィナにペンとメモ帳を手渡すと、空いた頁にサラサラと書き込んでいった。
「……数年前というと、あの晩餐会の夜のことを聞いてもいいかな」
書きながら、記憶を思い返して数年前の話を彼女は語った。
「ティラナから晩餐会の招待状が来たわ。ちゃんと御璽が押されていました。……親族なのに顔を見たのは久しぶりで、お元気そうで相変わらずだと思ったのよ。……私は、あの男の所業についてティラナに相談したかった。……実際には、そんな暇はなかったし、なんだかよくわからない企てに利用されたみたいでしたね?」
晩餐会の夜。密室にセラフィナとふたりきりにされ、ティラナは足早にどこかへ隠れてしまった。
ふたりは顔を見合わせて軽く微笑んだ。
「その晩餐会が終わったあと、屋敷に戻って……眠りにつこうとした時、あの男が階下で大勢の男たちと話し合っているのを聞いたわ。……とても、恐ろしかった。当然、一睡もできずに朝を迎えた」
「私に保護を求めたんだね」
「ええ……この際、相談するのは、殿下のほうが確実だと思った」
セラフィナは住所を書き終え、シュナイゼルにペンとメモ帳を返却した。
「……私はしばらく、友人の家に居候しながら、証拠を集めることにした。嫌な胸騒ぎがしたから。……そこの住所の中にある孤児院で、職員として数カ月働いてみることにしたの。……働くなんて初めてのことだったけど、上手くいったわ。……孤児院では行方不明の子供が……いたの」
シュナイゼルは首を傾げた。
「そうよね。普通、行方不明になるとかでしょう。違うの。その孤児院に、行方不明となっている子がいた≠フ。どうして気づいたかというと、一度警察に相談しようと警察署を訪ねた時に、失踪者の顔が載ったポスターを見かけていて……見覚えがあったからよ。……それも一人じゃない。三人ほどいた。その子たちにこっそり、名前を訊いてみたんだけど……子供達はね、ポスターに載っていた名前とは違う名前を名乗ったの……」
セラフィナは膝の上で拳をきゅっと握り締めた。
「そこから……私は、各地の孤児院を訪ね歩いた。……カストラリア全国を。その途中、ヴァラグラードの養護院で……ノエルと出会った。……彼は、本当に……ティラナなのね?」
「そうだよ」
セラフィナの碧色が哀しく揺れた。
指先で目元を擦り、鼻先が赤らんでいった。
「……ノエル……いえ、ティラナは……養護院の地下室で立ち尽くしていた。私の気配に振り返り、心底驚いた顔をして。…………あの子は私を警戒していた。アルディックの娘なんだから当然の反応よ。どうしてここに来たのかと質問された。……私もまさか中身がティラナだなんて思わないし、不審な男相手だったから、この孤児院について調べているのだけど何か知らない? と尋ね返したの」
濡れた睫毛が輝いて、瞬きと一緒にきらりと光った。
「ティラナは……この孤児院の何について調べているのか≠ニ、また質問を重ねたわ。私は少し苛立って、あなたこそ、とお互い譲らなかった」
海底のように薄暗い、埃が藻屑やプランクトンのように漂う。厳かな光の中。呼吸は距離を掴み、正しくお互いの位置を探るようにどちらが先に相手の素性と目的を喋るかに費やされた。
――ここでは、ある実験が、行われていたと……したら?――
セラフィナが先だった。
一度吐き出した呼吸を呑み込み、金色の癖のある髪を持つ少年は一歩、足を踏み込んだ。
――実験? ……それは……体と中身が違う子供の……ための……実験?――
「私たちは驚きあって、彼女は思わず私を抱きしめた。あの子は、私も犠牲者のひとりだと思ったんだとおもう。私は……訂正して、その実験が、どうやら身内が関わっている可能性があるから調べていると告げた」
――身内……?――
忘れがたい、絶句。
失望、混沌、憎悪、悔恨、恐怖――。
ノエル――ティラナの顔は引き攣り、ぽろりと涙が零れ落ちた。
セラフィナよりも、先に真実に辿り着いた者の顔。
「ティラナは口を押さえて、吐き気を催していた。酷い汗をかいていた。……私は彼女を抱えて地下室を出た。一緒に来ていたご友人がやって来て、養護院の医務室まで一緒に運んだわ。ベッドのうえで、泣いていた。……その養護院で、昔その実験を受けた子供の一人だったと教えてくれた。……今度は私が驚いた。こんな残酷なことを、あの男は、ずっと前から続けているのだと知って」
「……酷く傷ついただろうね」
より深く、ティラナの内面にセラフィナは言及した。
「ええ。傷つくどころか……精神的凌辱よ。……昔言ってた。研究成果は子どものようなものだって」
自分が生み出した子どもが人を殺し、自分にも刃を向けている。アルディックによって怪物に変えられてしまった、情熱と知性の結晶――子ども達。底知れぬ絶望。
「……自分の研究が、多くの人々の人生を捻じ曲げて、苦しめている。本人でさえ犠牲になって。……自分の存在をスプーンで削り取るような苦痛を味わいながら」
また溢れかけた涙を彼女は指で拭った。
「彼の目的は何だと思う? 貴女の目からみて」
「――……歪んだ愛情表現」
皮肉な言葉だ。
あの男に愛情を求める立場の娘には、愛情表現に相当してみえる。――たしかに、とシュナイゼルは納得した。セラフィナに告げていないだけで、もう一人の彼の娘も、計画の中で先鋭として殺されてしまったとみている。
ティラナには人類の損失に繋がるダメージを着実に与えている。どれだけ増殖を抑制しようとも増え続けるそれは、いずれ自分の細胞の一つになりかわり自己破壊を続けるだろう。――それさえも、姪に対するメッセージだ。
たとえ肉体の死を克服しようとも、脳や精神の死を克服することは出来ないだろう≠ニ。
さらに彼のその先の目論見は、君主として醜態を晒し、機能不全に陥るさまを見てみたいのだ、と。たとえティラナが真に肉体を正しく自分のものに出来たとしても、元のような性格には戻らないだろう。
譲位するのか、外国人に? 自分を苦しめた母方の親族に? 王朝を断絶させ君主制を終わらせるのか? ――どれを選択しても、実情を知らぬ親戚や大勢の民衆が、寄って集って批難を浴びせかける。
今まで散々世話になっておきながら、選択を失敗すると歯向かっては被害者の皮をかぶった加害者に変貌する。――生涯を城や宮殿のなかで飼い殺しにされ、私生活の情報を切り売りし、結婚相手も、子供の有無も、過去の歴史と君主とを比較した批評を書かれ、金の遣い方が悪ければ重箱の隅をつつかれる。
それに嫌気が差しても退路はなく、芸能人や政治家のように任期も辞任も許されず、生きている限り重圧がのしかかり、人前では笑顔を振り撒かなければならない。
最後には、――自分自身の選択肢で滅びの時を迎える。
滅んだ時、ようやく人々は彼女の偉大さに気づき、心の底から同情し涙を流すだろう。
セラフィナは他に質問はないかと促した。
「殿下、それでよろしいのですか?」
「……うん。いいよ。話してくれてありがとう。セラフィナ嬢」
ペンとメモ帳を懐へ仕舞う。
教会の方からはオルガンの多重奏が響いている。
裏通りに回った黒光りするハイヤーに乗り込むとき、セラフィナは言った。
「そうだ。明日の朝、おばあさまがお会いしたいって仰っていましたわ。殿下」
「クイーン・マザー・カタジナが?」
「ええ。……ティラナのことは、教えちゃったの。怒らないでくださる?」
「彼の魔の手がクイーン・マザーに及ばないとは言い切れないけれど、彼女が理解者になるなら時間は稼げるだろうね」
「ありがとうございます。殿下」
彼女が腰を落とし挨拶をすると、狭い通路の邪魔にならないように道の壁際に背をつけた。
車は滞在先のポニャトフスキの別荘へと雪と氷の道を上っていく。待ち伏せしていたパパラッチが、想定通りの道順で現れなかった車列に慌てふためいている。
防弾ガラス仕様の窓から、雪景色を眺めながらシュナイゼルは思った。
アルディックの目論見のなかには、シュナイゼルがティラナから離反するシナリオも入っているはずだ――と。
彼女が病人であればあるほど、その巻き添えと皺寄せをシュナイゼルが引き受けることになる。――事実、そうなっている。
――しかし、見当外れだ。
彼の男の想定する苦痛の論理は、シュナイゼルには当てはまらない。
何もすることがない方が、もう少し効果があっただろう。――可哀想で労しいと彼女にたいして思うことがあっても、嘆き悲しむほどではない。恋愛詩人の描く恋に溺れる主人公ではない。怒りを覚えて突き放すかしないかで葛藤することもない。
選択で迷う段階はすでに、クーデター直後の段階で終わっていた。
ティラナを連れ戻したら、戴冠させ、結婚し、子供を儲ける。この計画に変更はないし――今後もない。彼女が誤って変数的選択を――死を選ばない限りは。