牡羊の落涙U






 a.t.b.二〇〇九 May
 ブリタニア セントダーウィン アリエス宮


 訓練場には力強く風を切る音と、一定の間隔で僅かに勢いづいた吐息が響き渡っている。
 アリエス宮の一角。騎士候からナイトオブシックス――皇妃へ。かつての女騎士のために設えられた、誇りを埃塗れにしないための特別な場所であった。一九九七年五月六日の血の紋章事件。勝利者となったシャルル皇帝と、その剣を捧げ、騎士の功績から皇族入りを果たした庶民出身の少女は今や二児の母親の顔を持つ。
 侍女からタオルを受け取り、熱く湿った白い肌の汗を拭う。吸湿性の優れた素材が、みるみるうちに水分を吸い取っていく。光の射し込む柱廊には穏やかな春風が吹き込み、草花の薫りが熱気を取り払う。
 そこからちらりと見える人影にマリアンヌは足を止めた。ピンク色の蔓薔薇に包みこまれたガゼボの中にはひとり、彼女の息子が相手のいないチェス盤と睨み合っている。
 一昨年の夏。そのガゼボには、目をかけようとした少年がルルーシュを相手取り試合をしていた。
 金色と碧い瞳。優れた体格を持つ――青年といって差し支えないほどの少年のチェスの腕は第二皇子のお眼鏡にかなうだけあり、マリアンヌの助け舟がなければルルーシュは負けていた。

 ノエル・アストリアスといったか。――彼の近況は不明となっている。噂によればちょうど一年前、第二皇子であるシュナイゼルが代表を務めるコルチェスター学院のプロムナードのテロ事件で行方不明となったらしい。らしい――というのも、どのメディアにも口外してはならないと箝口令が敷かれていることや、詳細を知っているはずのシュナイゼルでさえ、同寮下級生である異母弟の第三皇子クロヴィスに話していない。
 クロヴィスにその話を振ってみても、彼は口を閉ざし、堅い沈黙を守るだけだった。
 シュナイゼルにしても、そのプロムナードのテロ事件から即休学し、同年の夏にはカストラリア王国に腰を据え、代理摂政の地位を確立しつつある。婚約者の王女はここ数年、公の場の顔を見せることもあったが、毒殺未遂から再び病床に伏せている。元の木阿弥といったところだ。
 マリアンヌはシャルルの寵愛を受ける妃と評されるだけあり、彼の思惑やその心境には他のどの皇妃よりも近いであろう確信を持っている。
 ――計画がご破算なのは致し方ない。
 ある計画をマリアンヌは忠愛の皇帝とともに推し進めていた。
 その計画には、カストラリアの立地的条件やその古い歴史と血統をあてにしていたところがあったのだが――肝心の王女が使い物にならぬときた。日本にあるとされる遺跡についても調査を行わせており、じき結果が届く頃だ。
 ブリタニア皇室よりも歴史の古さで上回るその両国はともに中立国であり、カストラリアについては政略結婚を口実に探れそうであったが、シュナイゼルは実に食えない男で、たとえ実母を相手にしてもカストラリアの事を話していないようだった。そのアーデリント妃は住まいを皇宮からロングアイランドへ移しているし、マリアンヌ側からカストラリアの遺跡のことはお手上げ状態。当然その事態にシャルルも憂慮している。
 昨夏、貴族社会では王女の死亡説が囁かれたが――その線はないとシャルルの兄は言っていた。
 彼いわく、王女が本当に死んでいるならば、あちらの世界へ強い干渉が起こるらしい。――王女の父、国王が亡くなった時には磁場が乱れ、歓迎のための歌――蠢きと地響きが起こった。歪みの地を任された一族はそれだけの困難と苦難を与えられる。同様のことは極東にしても同じだ。地震の多発する国――プレートの歪の地である。
 カストラリアは岩山の合間にある、歪を治めるための一族であるといわれているのは、本当の話だったというわけだ。同様の秘密を共有するはずの――中華連邦に吸収されたかつての周辺国も密教が多く、そのほとんどが謎に包まれている。カストラリア以外でその謎を解き明かそうとするなら、中華連邦相手に戦争を仕掛けなければならないだろう。
 ――『残念だね。甥と甥嫁の子供をこちらで番わせてみるのも面白いと思っていたのに』
 ――『あら。趣味が悪い』
 ――『ふふ。あの虚無の子と、使いの子、どっちの遺伝子が勝るか見ものだとは思わない?』
 舌っ足らずの物言い。あどけない少年の容姿で、金のうねる豊かな髪を持つ義兄は、赤みのある紫の瞳を輝かせた。
 ――『ずっと君には似ていない子だと思っていたけど――違ったみたいだ。シャルル』
 くすんだ金色の輝きは加齢に伴い白銀へと変わりつつある少年の弟は、彼にしか見せない微笑みを湛えた。

 マリアンヌの汗は引いていた。
 そろそろ頃合いだ。すべてが。極東にも遺跡が見つかった。次の照準は当然、カストラリアだ。
 彼女はガゼボの中の息子に声をかけ、そろそろ昼寝から目覚める妹姫を起こしにいこうと誘うために歩みよった。
 彼女はその日の朝、第二皇子の帰国の報せをシャルル経由で知っていた。――息子はどうにも、彼にご執心のようで、その報せを耳に入れたならばより熱をあげることはわかりきっていた。
 「もうすぐ帰国されるそうよ。ルルーシュ」
 少年皇子ルルーシュはしばらく母親の声が届いていなかった。遥か小宇宙の彼方に飛び、三桁の思考パターンを巡らせ、宿題を解いているようだった。向き合う譜面はあの日、第二皇子の関心の対象だった少年との対決と同じものだった。マリアンヌの一手で勝利したが、あくまでそれはマリアンヌの力。負けず嫌いのルルーシュは自分の力で勝ちたいのだろうとは容易い想像だ。
 彼は自分の頭上に降る影に違和感を覚え、ようやく母親の訪れに気がついた。
 「え?」
 「あら、上の空。重症ね。お〜い」
 驚きのあまりルルーシュは固まっていた。
 ひらひらと目と鼻の先で手を振ってやる。 
 「シュナイゼル殿下よ」
 「シュナイゼル兄様が……!」
 がたりと音をたてて、ルルーシュは立ち上がった。チェス盤の上から駒がころころと転がり、いくつかがガゼボの外にまで飛び出るところだった。
 「クロヴィス殿下の仰った通りなのね。――お会いするのはいいけど、シュナイゼル殿下には向こうの国の悪口言っちゃだめよ。ルルーシュ」
 「……わかってます」
 クロヴィスからルルーシュの話は聞いていた。
 カストラリアのことを快く思っていないようだ。私情を抱く分には結構だが、マリアンヌは計画のことでシュナイゼルから情報を引き出すには、ルルーシュが失言しないか気掛かりだった。マリアンヌから尋ねるよりも、ルルーシュ相手なら口を割りそうだ。
 マリアンヌはルルーシュを抱き込み、手荒く頭を撫でた。
 「チェスで遊んでくれる大好きなお兄さまを盗られて、寂しいのね。この子ったら」
 「遊びじゃないです……! 僕は真剣に……! わっ……!」
 「ムキになっちゃって〜。コノ〜。かわいい」
 否定しようとするが、子供の可愛い嫉妬だ。
 それに――シュナイゼルがルルーシュ相手にチェスをするようになったのは、投影だろう。それほどまでに、王女の容態が思わしくないのは薄っすらと気づいていた。子供時代の埋め合わせとでもいおうか――ちょうどルルーシュと同じ年頃で大人の政治の世界に漕ぎ出してしまった彼の、短い子供時代の補償をルルーシュを通じて行っている。
 「ん〜。でもねえ、ルルーシュが生まれた年にご婚約をされて、今の摂政殿下におなりあそばされたから。……そんなに落ち込むことないじゃな〜い!? 泣いてるの?」
 「それって、シュナイゼル兄様は向こうの国のものってこと……?」
 「なんでそう目の敵にするの。政略結婚って一番安全な政治外交なのよ? ブリタニア皇族相手に下手な真似なんて出来っこないわ」
 ルルーシュの大きなアメジストの瞳がマリアンヌを見上げた。
 「……皇族に生まれたら、よその国に行かなきゃいけないんですか?」
 「そこは……時と場合による……けど……」
 さらに彼は噛みつくように言った。
 「相手の国とは仲が悪いの? ブリタニアにとってメリットは? 兄様は納得してるの? なんで? 答えてよ母さん」
 「あらら。刺激しちゃった。……ここは私に似たのね」
 マリアンヌは膝を折り、目線をルルーシュに合わせた。
 「私に質問するより、直接殿下に訊いたらいいじゃない。きっと皇宮にお立ち寄りになられるだろうし」
 ルルーシュはどうしていいかわからない、くしゃくしゃの複雑な顔で、転がり落ちた黒のキングに視線を落とした。
 「……お遊びする時間も少なくて、ルルーシュとの対決は楽しんでいるわよ。きっと」
 「本当に……?」
 「そうよ」
 「どうしてよその国のためなんかに……」
 また悪態をついた。
 「政治のお話しなのよ」
 「摂政って偉いの?」
 「偉いわよ。王様がご病気や幼くて政が務められないとき、代わりをするの。……総督のようなものだけど。少し違うわ。……総督以上よ」
 不安げに揺らぐ瞳が、再び確かめるように向けられる。
 「実質、王様よ」
 「王様って父上とどっちが偉いんですか?」
 「あなたのお父様。王を統べるからよ」
 マリアンヌの説明に、ルルーシュは落ち着きを取り戻したようだ。父親の悪口など一切吐かないマリアンヌのもとで、素晴らしい父親と強い皇帝像が創り上げられている。しかしそれは、なにもルルーシュに限った話ではない。どこの皇妃も子どもたちにはそうやって言い聞かせながら育て上げるだろう。自尊心と愛国心。父親への忠誠心。皇族としての矜持を子供に与えることが母親である妃が施す最初の教育だ。妃の出自はバラバラでも、父親は純然たる高貴な血統を持つのだから。
 八歳のルルーシュは結婚という概念についてわかり始めてきた頃だ。一つ年下のユーフェミアなどは、早い時期から兄姉の会話の中に登場する岩山の国のお姫様≠ノ関心を寄せていたからその話題に限っては妹の方が詳しい。
 聞いたところによれば、シュナイゼルは九歳の頃に三つ歳上の姫君と婚約した。
 ルルーシュもちょうどその頃のシュナイゼルの年齢に差し掛かるが、いまいち実感が持てそうにない。
 ――あの兄様にかぎって、人の勧めるまま決めたわけではないはず。
 ブリタニアの安寧を超えて結婚の約束を取り決めるほど、この国は終わってはいない。――皇宮の中の生活しか知らないルルーシュは世界が如何様な動きで回り、複雑に絡み合い、約束された恩恵を授かるぶん、自国に敵が多いことをまだ知らなかった。
 それに、コーネリアやクロヴィスはそのお姫様に会ったことがあるが、一回り年齢の離れる弟妹たちはその顔を知らなかった。
 「どのようなお姿をされているのですか」
 「あ……そっか、あの番組をみせてなかったわね……。そうねえ。私もお姿を少しだけ拝見しただけで、直接お話ししたわけじゃないし……、そうだ。ウィルゴ宮には肖像画が飾られているはずよ」
 「あの番組……?」
 肖像画はわかるが番組とはなんのことだろう。
 「ブリタニアでは士官学校の教材で一部使われているのよ」
 「……は?」
 ますます理由がわからない。つまり、教育的価値のある番組らしいが、まず王女がテレビ番組を持っていることの方に驚いた。 
 「ちっちゃ〜な頃のシュナイゼル殿下のお姿も見られるわよ」
 「本当に?」
 マリアンヌはルルーシュの手を引きガゼボから出ると、リビングルームにあるタブレットを操作した。
 「ネットのアーカイブじゃ、あんまり載ってないけど……ああ、あったあった、これよこれ」
 「ん……?」
 ソファに座り、母親の手元のタブレットではある一つの動画の再生が始まっていた。
 映像の中には簡易なテロップのオープニングとともに、博物館の入口で館長と挨拶と握手を交わす王女とその隣に幼き頃のシュナイゼルの姿がある。カストラリアは標高の高い山の合間にある国というのは映像ですぐにわかった。光は鋭く青い。残雪に覆われた雄大な峰と、欧州の蜂蜜色とクリーム色の建材を用いた建築物を耐震プレートで支える都市構造。大昔の人が考えた未来の世界の景観である。その欧州と異なるのは、やはり太陽の光の強さ、それにより出来る陰影の濃さなど空の晴れ上がり方といっていい。陰影の濃さは欧州の建築物により強い立体感を与え、赤レンガはより鮮烈な赤に。また空気の霞がないためすぐ目の前に迫りくるような、映像越しにもかかわらず力強いインパクトを与えている。
 薄い色のものでさえ発色がよいので、カメラのレンズやフィルムの性質など関係なく王女の髪色は濃く、シュナイゼルの金髪は鮮やかで、彼の皇族を特徴づける特別な紫色もはっきりわかる。
 「博物館の見学訪問の回ね」
 挨拶のあと館内の見学シーンを挟み、壺作りを行っているところの映像が流れる。
 電動ろくろを回し、曲線のあるきれいな形にしようとして失敗している。
 その後、ひとりで乾燥と仕上げ、続きの焼成の工程をやり切る姿が映っている。マリアンヌは「シュナイゼル殿下は月に一週間ほどあちらに滞在されていたから、王女様おひとりの時はブリタニアに帰ってる時ね」と説明した。
 完成した壺。シュナイゼルが形を作ったほうは初心者とは思えない端正な出来栄えで、売り物に出ていても違和感のない逸品に仕上がっている。
 ――[なんだか私のは釉薬が垂れ流れちゃって、溶けた蝋燭の蝋のようだけれど完成です]
 くびれを持つ壺は淡いクリーム色に優しいブルーがかけられる予定だったが、それが下に流れてスカートのヒラヒラの裾のようになっている。王女はドレスを纏うヒップ――[貴婦人のお尻ね!]とはしゃいでいる。
 「……これね。コゥの言っていた問題発言って」
 ルルーシュは首を傾げる。
 ちなみにコゥ≠ニはユーフェミアの姉、コーネリアの名を縮めた愛称である。ナナリーは異母姉をコゥ姉さま≠ニ呼んでいる。
 今のどこが問題発言なのかルルーシュにはわからなかった。
 王族の姫君の発言は揚げ足ばかり取られる。――シュナイゼル曰く、この回の裏で叱られているらしい。
 「どう? ルルーシュ。これがお相手の方」
 眉間に皺を寄せてルルーシュは画面に映る少女を見つめた。



 a.t.b.二〇〇九 26th March
 スイス ベルン州 グシュタード 


 「ブリタニアの坊や」
 ハイヤーから降りたシュナイゼルを出迎えたのは、小柄な老婆の声だった。
 華やかな小花柄のヘッドスカーフで、すっかり色褪せた亜麻色の髪を覆い隠している。杖をついて歩く老女は凍結した路面の上を杖で叩きながら歩いている。一般市民にまぎれて、そうして生活している。地元に暮らさない者であれば、誰もこの老婦人が高貴な出であることなど想像だにしないだろう。
 シュナイゼルは路上で胸に手をあてて首を竦めた。
 「クイーン・マザー・カタジナ」
 呼びかければ、老婦人はけたけたと笑い出した。
 「……よしとくれ。もう旧いの。家は」
 ポーランド風に王太后、クルーロヴァ・マトゥカ、もしくは未亡人の王妃、クルーロヴァ・ヴドヴァ――である一〇〇歳に程近い老婦人は、満更でもない様子で、ふっくらとしたハリのある赤い頬を持ち上げた。
 祖母と孫はしっかりと似ているようだ。クイーン・マザー・カタジナはティラナの曾祖母にあたる。
 「昨晩のグランドホテルでは、淑女泣かせだったらしいじゃないか」
 「はは。さすが、お耳が早い」
 「私はどうだっていいんだけどね。色々な話が飛び込んでくるのよ。こんな年寄りになにをしろって言うんだか」
 各国の富裕層と貴族達がこぞって集まるパーティーが、夜毎どこかしらの五つ星ホテルで催される。裏外交の場であり、平民出身者にとってみればそのコミュニティに入り込む余地がある唯一の機会である。昨晩の夜会は、人酔いをするほどの大盛況ぶりだった。終始壁の華になるか、誰かと踊っていれば気の紛らわしになるだろうが、普段貴族以下の階級と交わることのないシュナイゼルを檻に入れられた子羊のように、獰猛な野心家たちが狙っていた。
 「あの子がいれば、向かうところ敵なしだったものだろうが……」
 「ええ。それはもう」
 ポニャトフスキ家の用意した別荘に籠っていればいいが、なにぶん独り身での滞在だ。ティラナがいれば静養や、別件を理由に不参加を決め込むこともできるだろう。特にひとりでいる理由もなく、せっかくのスイス滞在、ホストの顔を立てるために夜会に出席した。
 通常パートナー不在での参加は浮くが、シュナイゼルに限っては王女が病床に伏している′的理由により免れている。ダンスをわざわざ踊る必要もなく、その点は気楽だった。ただのブリタニアの皇子であればそういうわけにもいかなかったが、思わぬところでそのマスクに助けられている。
 カタジナの言い放った淑女泣かせ≠ニは、運よく踊りに漕ぎ着ければ儲けもの。断られれば衆目を前に赤っ恥をかくという意味だ。君主とその相当の立場では義務としてのダンスも限られてくる。
 「代行の立場で出過ぎた真似は致しませんよ。クイーン・マザー」
 「少しくらい羽目外したってバチは当たらないよ。私だったら、いい男を捕まえて、侍らすわね。しこたま酒を飲ませて、部屋に引っ張っりこんでやるの。未婚と未亡人は罪に問われやしないよ!」
 「貴女なら今でも通用しますよ」
 カタジナは気持ちのいい笑い声をあげた。物言いは豪快であるが、実はその手腕もなかなかのものである。 
 「あの子とは会ったの。セラフィナとは」
 「お会いしましたよ」
 雪道の上に杖をつき一歩を踏み出したカタジナに、シュナイゼルはそっと腕を差し出した。約束のレストランはすぐそこだった。
 色素の薄くなった瞳で青年の顔を見上げ、カタジナは喜んだ。
 「あら。いい男。……若い時のあの人にそっくり。……透き通る金髪。青い瞳。赤ん坊みたいな肌をしていた。この歳になると、みんな赤ん坊に見えてくる」
 シュナイゼルは微笑みを湛え、カタジナの碧い瞳を見つめた。
 厳密にはゲルマン系とスラヴ系の色味や風合いは異なる。ゲルマン系の方が白金が多く、東欧系は色幅が広い。カタジナの夫はその中にあってもより白金寄りだったのだろう。
 その時、人工的な音がクリアに聞こえた。
 歩き出したふたりの遥か向こう――道脇の茂みから、メディア関係者が数名カメラを携えていた。
 「すみません。パパラッチです。屋内にしましょうか」
 「いいのよ。撮りたいだけ撮らせておけば」
 レストランのテラス席は屋外用の薪ストーブが焚かれていた。
 カタジナはお気に入りの席に座ると、すぐに現れた給仕係に注文をつけた。
 「うんと熱いお茶を淹れて! そこにブランデーを垂らしこんでおくれ」
 「はい。大奥様」
 給仕係は銀盆を抱えレストランの中へ戻った。
 雪よけのパラソルの下、冷たい風と熱い風が混ざり合うちょうどいい暖かさ。
 シュナイゼルはカタジナの真正面の椅子に腰を落ち着けると、事前に準備がなされていた料理がすぐにテーブルに運ばれてきた。
 深皿の上には茹でたベビーポテト、ブロッコリー、ピクルス、ベーコン。給仕係は、その上に熱々のラクレットチーズをたっぷりと溶かし削ぎ落としていった。
 「たんと召し上がれ」
 カタジナは付け合せのスープを、スプーンで掬って口に運んだ。
 それから付け合せのハードパンを千切ると、チーズを絡めて実に美味しそうに食事を味わった。
 また人工的な音が鳴り、妙な静寂が間を過った。
 「貴女の長寿の秘訣を知りたがっているんですよ」
 「長寿の秘訣……? お喋りだよ。詩の朗読、演奏会をやったりね。観劇もする。そうして一日、一日が過ぎていく。時折、若い者からエネルギーをもらうためにちょっかいかけたりして」
 茶目っ気のある目つきでカタジナはシュナイゼルを見つめたあと、指で給仕係を呼んだ。
 「ねえ。あなた。あの方たちにお茶をお出しておやり。お代は私が持ちますから」
 「よろしいのですか?」
 給仕係はやや戸惑いつつ確認した。
 「構いませんそんなもの。年寄りの娯楽にばかり使われるものじゃないのよ、貨幣というのは。さあ、行った行った!」
 一礼しその場を離れた給仕係の背に向かって何かを思い出したカタジナは、「ケーキも頼みますよ!」と叫んだ。
 ブロッコリーを口に運びながら、シュナイゼルは茂みの奥の人影をこっそり数えた。
 忍ぶ気遣いさえ皆無な蛍光色のパーカーを着たパパラッチ達、はざっと数えただけでも八人はいる。
 再び食事をはじめたカタジナは、秘密の話をするように身を低めて囁いた。
 「長生きの秘訣はね、……ああいう青い不届き者の面食らうトコを見ることさ!」
 くすりとシュナイゼルは笑った。
 レストランから給仕係数名が、料理の載った大きな銀盆を両手にパパラッチの前に出た。彼らは間抜けな顔、苦笑い、撤収しようとカメラを片付けそうになる手を出す者、こちらを睨んだまま動かない者――と様々な反応をみせた。カタジナはデザートのケーキをつついて上機嫌だった。
 食後の紅茶のアッサムに温かいミルクを注ぎながら、シュナイゼルは謝辞を述べた。
 「セラフィナ嬢の身柄を引き受けてくださって、感謝しています」
 「あぁ……そんなもの大したことじゃない。……お節介焼くことくらいしか老人にはやるべき事がないから、ちょうどよかった。……ティラナはどうだい」
 「相変わらずですよ」
 「目覚めてもない?」
 「ええ。セラフィナ嬢の仰った通りです。クイーン・マザー」
 二杯目の紅茶を注ぎ、角砂糖を二個落としたカタジナへシュナイゼルの探る眼差しが向く。
 パパラッチは食事をかきこみながら様子を窺っている。
 キャロットケーキのクリームチーズの雪に埋もれる、橙色のキャロットのトッピングを銀色のフォークがつつく。
 「なあに。私は口が堅い。あとは、今までの人に言えない秘密を引き受けて棺桶に入るだけ。……あの子からの話を聞いて、坊やがわざわざ、ポニャトフスキを頼りに来たのも腑に落ちたものでね。……未婚の夫が代理で国事行為に携わらなければならないなんて、前代未聞だから。どんな理由が隠れているものかと思えば……」
 カタジナは一つ深いため息をついた。
 「身内からとんでもない悲劇を生み出してしまったね。――代わって私が謝りますよ。シュナイゼル殿下。――滅んだ国の末裔が、滅ぼす側に立とうだなんて、これも因果かもしれない」
 「仏教ですね」
 「ええ。東洋思想には発見がある。私たちは西洋思想に囚われすぎている。此度の件はまさに……個人主義の破滅、科学の暴走」
 言い終えて、暫く考え込んだカタジナは、シュナイゼルがグシュタード訪問の目的がカタジナ自身にあると推理した。
 「こちらのことは、私が目を光らせておくよ」
 「助かります。クイーン・マザー・カタジナ」
 一族の長の妃を務めただけあり、物事の察しが良い老婦人は知性の宿る瞳を白銀の景色に投げやった。
 「今のカストラリアは首の皮一枚で繋がっている状態だよ。坊やのおかげでね」
 薄く微笑んだ。
 「……ルーフォンドが頼んだのかい? んまあ、そうせざるを得ない状況であっただろうね」
 「間違いなく」
 「……見返りには何を望む?」
 「見返りなど」
 「大抵は、それがなければ選ばない茨の道だ」
 「特には」 
 カタジナの手際はいい。過去何度もそうして渉外を行ってきたように。この地で旧王家として幅を利かせ続けるだけの能力を備えている。
 短く言ったあと、「ああ、しかし――」とシュナイゼルは言葉を繋いだ。
 「彼女が玉座に座ることを望んでいますよ」
 「偽りなく?」
 カタジナは驚いたように目を丸めた。
 シュナイゼルはその立場と実行力、結果から野心家であると受け止められるが正しくない。カタジナはシュナイゼルがその野心家だと考えたようだった。
 「はい。……彼女自体に価値がある。その価値に私が付随する。――でなければ、期待など塵のようなものです」
 ああ――とカタジナは息を漏らし、シュナイゼルの主体が曾孫に委ねられている事をすぐに理解した。水を吸収する珪藻土のようだと彼女は思った。
 「渇ききっているんだね」
 カタジナは――彼の本質、その正体が何かを千里眼で透視したように言い当ててみせた。
 返事の代わりに、彼は綺麗な眉を持ち上げた。



 a.t.b.二〇〇九 27th May
 ブリタニア セントダーウィン アリエス宮


 この世界にあるすべての色を取り揃えたような花が咲き誇る季節。
 アリエスという名の城で、ルルーシュは希望に膨らまし、子供部屋のテーブルの上に置かれているチェス盤を眺めていた。
 「お兄さま! テレビをご覧になって!」
 妹ナナリーの声がする。
 ルルーシュはナナリーのいる方に向かい、テレビを見た。ニュース番組が流れており、空港に皇族専用航空機のタラップを踏むシュナイゼルが映っている。
 [帝国第二皇子のシュナイゼル殿下が、本日午前、一ヶ月ぶりに帝都ペンドラゴンへと帰還されました。空路。ペンドラゴン空港に到着されたシュナイゼル殿下は、長旅の疲れも見せず、お出迎えの観衆に笑顔を向けられました]
 群衆の声援に応え、軽く手を挙げるシュナイゼル。傍らにはカストラリアの外交官と軍人が控えている。降り立った先、滑走路の傍らで両国の簡易的な引き継ぎが行われる。
 テレビを前に、ルルーシュとナナリーは顔を見合わせて笑いあった。
 滑走路から空港――空港からリムジンで皇宮へ目指す長蛇の車列を、横暴で慇懃無礼なメディアが追いかける。金魚のフンのように。
 ニュース映像は終わり、天気のコーナーに移ろいでもルルーシュは残像が見えているかのように、画面から目が逸らせなかった。
 人々を統べる王。その王をさらに束ねる強い皇帝。
 ルルーシュは誇らしかった。母親違いの兄、自分を含めてその父親はこの世界の頂きにいる。誰よりも優れ、尊敬され、傅かれ、立派な人たちと血が繋がっている。
 二つの国どころか、世界中を忙しなく行き来している。彼が動くたび報道がなされる。憧憬と陶酔。子供じみた万能感の繭の中。
 働き者の王様の姿。自ら動く王様。民衆はその姿に心動かされる。
 ――マクベス王とはちがって、一人でなんでも出来る、賢王なんだ。
 一年前の冬。クリスマス演劇で主役で輝いていた異母兄。
 カストラリアのリダニウム国際空港で専用機から降りる兄を出迎える人々の笑顔。称賛。喜び。
 民に求められている、素晴らしい王様。
 向こうのお姫様は仕事をサボって兄に押し付けている怠け者なんじゃないか。ルルーシュは会ったこともない、映像の中に残る王女の姿を思い出して、内心毒づいた。 

 

 a.t.b.二〇〇九 27th May
 ブリタニア ニューロンドン 州警察署


 シュナイゼルのブリタニアの緊急帰国は事態に進展があったからだ。
 アルウィニアのニューロンドン。ブリタニア南部にある港町。――かつて、ノエルがそこからブリテン諸島へ密航するために寄った港がある。
 しかし、今回はその港ではなく州警察署に直行しなければならなかった。
 「お手柄だよ。カノン。よく頑張ったね」
 [お褒めに預かり光栄ですわ。殿下]
 携帯電話の相手。通話先はカノン・マルディーニだ。
 カストラリアのサロニアから、ブリタニアのエイムスバレーの労働地区。
 ノエルの残した証拠から、エリア政策を敷く他国から不法に労働者をかき集め、ブリタニアで工作員として働かせていたことが突き止められた。
 それを足掛かりにカノンはノエルの最後の足跡が残るニューロンドンを調べていた矢先、数日前不審死のある遺体が倉庫から発見されたと報告を受け、州警察署で預かっていた。
 「もうすぐ到着するよ。数十分ほどだ」
 通話先のカノンは先に州警察署の中に待機している。
 リムジンに同乗する、カストラリアから連れているドクターと捜査官は、彼の護衛に見えるようスーツを着ている。
 「準備をお願いするよ」
 「はい。殿下」
 州警察署に到着し、裏口から中へ入る。
 警察官は素早く地階へとシュナイゼル一行を通した。廊下の長椅子に座って待っていたカノンが立ち上がった。
 「捜査お疲れ様」
 「ありがとうございます、殿下」
 霊安室に入ると、その部屋の中央の寝台の上に布をかけられたひとりの遺体があった。
 「検体採取は構わない?」
 「ご遺族の許可はすでに取得済みですわ。殿下」
 「そう。では、始めて」
 ドクターが黙礼し、布をそっと捲りあげる。
 青白い死相。死斑。青紫色の唇。膨らんだ顔、肉体、微かな腐臭。一昨年の夏、フェルサイド・マナーの嵐の夜。ノエルを殺害しようと銃口を向けた男。フェルナンド・ボークナンの死体である。死後一週間以内であり、実に最近まで存命していたが、ここニューロンドンの港町の倉庫で遺体で発見された。
 ネクシウム・バイオ製薬の役員であったボークナンはアルディックの非人道的実験の数々を知っているはずだが、ボークナンの入れ替わり先は不明だ。そして、本物のノエルの死亡は貴重な証言者を失ったことになる。
 「血液検査と解析結果を」
 ブリタニア側の捜査官から書類を受け取り、シュナイゼルは頷いた。
 さらにそれをカストラリア側のドクターに手渡す。
 老眼鏡を押し上げて、ドクターは内容に目を凝らした。持ってきていた鞄から別のファイルにある書類と照会し、ふむと唸った。
 「……ノエル・アストリアス、本物≠フ方ですな」
 霊安室内中の視線がドクターに集中する。
 「これで、本人と成り代わりの別人の証明に繋がるでしょう」
 シュナイゼルが口を開いた。
 「ノエルの生体情報は皇宮のセキュリティにも登録されています。ボークナン氏は一度も訪れたことのない場所です」 
 ドクターはよく頷いた。
 「入れ替わり先の人間と、元となった人間の遺伝子情報が揃いましたので、一件確定致しましたな」
 「ニューロンドンにアルディックの関係施設があるかもしれない。本人の潜伏先にも繋がるはずだ。捜査を続けて。発見された倉庫を見に行こうか」 
 シュナイゼルの言葉に各々首肯する。
 「……ところで、死因の方は?」
 動き出した者の足取りを留めるシュナイゼルの質問に、警察官とブリタニア側の捜査官の短いやりとりを経て言った。
 「急性シアン中毒。青酸カリの服用でございます」
 シュナイゼルは思わず眉を顰めた。
 「む……?」
 「いかがなさいましたか」
 「……いいや」
 シュナイゼルの中で、それは始めての事柄ではなかった。
 それと同時に、ある事実が浮き彫りになるのを感じていた。  



  a.t.b.二〇〇九 27th May
 ブリタニア セントダーウィン ウィルゴ宮


 その日、シュナイゼルがウィルゴ宮に戻ったのは日がとっぷり暮れてからだった。
 ニューロンドンの湾港倉庫内はコンテナが残っていたが、目ぼしい物的証拠は得られなかった。仮説だが、本物のノエル・アストリアスがニューロンドンに立ち寄ったのはティラナのノエル・アストリアスがそこから亡命した情報を掴んだからではないか。だが、彼は死んだ。
 「お預かりいたします」
 メイドがコートを受け取ったあと、そばに控えていた侍女が昼間の訪問者の話をシュナイゼルに伝えた。
 「ルルーシュが?」
 「チェスの対局をいたしたい≠ニの伝言を預かっております。如何なさいましょうか?」
 シュナイゼルはいないかとわざわざウィルゴまで訪ねてきたそうな。そいえば異母弟とチェスをしたのはいつぶりだろうかと思い馳せる。
 「……随分久しぶりなものだね。ここ最近忙しかったから。……腕が鈍ってしまったかな」
 「お断りすることも出来ますよ」
 「いいや。……明日アリエス宮に伺うと伝えてくれるかい? 午後から休みにしよう」
 「Yes, Your Highness」
 侍女は丁寧なお辞儀をし、アリエスに使いを出した。
 一ヶ月ぶりのウィルゴ宮は相変わらずひとりだ。そこには家族もいない。書斎には積み上がったボックスがある。相手方も返事には時間を要することを承知だ。相談事ばかりが使者を通じて嵩んでいく。
 「紅茶を淹れてもらえるかな」
 「Yes, Your Highness」
 従僕が返事をし、さっと姿を消す。静寂がたちどころに執務室に戻り、すぐ外にある庭園の茨が風に吹かれてかさかさと擦れている。
 大きな窓を開けて、新鮮な空気を招き入れる。薔薇の芳香がふわりと漂う。
 月は探さなければほとんど見えないほど薄く、遠い。
 
 
 
 a.t.b.二〇〇九 28th May
 ブリタニア セントダーウィン アリエス宮


 
 よく晴れた日だった。
 午後の日差しはアリエス宮を照らし、屋外と屋内に白と黒の鮮やかな陰影をつけていた。ウィルゴ宮と異なるのは、内装のほか、調度品、植えられている植物の種類や、その色の豊かさだろうか。いつでもここは永遠の春が留まっている。
 「シュナイゼル兄上」
 アリエス宮に住む皇妃マリアンヌの長子――ルルーシュとのチェスをするために訪れたシュナイゼルを呼び止めたのは、彼と一日しか生まれた日が変わらない妹のコーネリアだった。
 「これはこれは。コーネリア姫。大躍進だと聞いたよ。マリアンヌ皇妃の特別警護隊を率いると申し出たんだって?」
 「あの方は皆の憧れの方ですから。誉れ高い任務だと思っております」
 「うん」とシュナイゼルは頷いた。
 彼女は貴族学院を学び舎としたシュナイゼルと異なり士官学校を選んだ。憧れの人の背中を追い、ついぞその人の宮殿護衛に就くという夢を果たした。
 閃光のマリアンヌ――その秀でた頭脳と戰場での戦いぶりは見事である。シュナイゼルは知性に興味関心を持ち、アリエス宮に通っていた。優れた母親の知性を引き継いだ息子ルルーシュも、その齢にして頭角を現しはじめている。
 マリアンヌ・ヴィ・ブリタニアは皇帝の寵妃だ。
 多くの皇妃は認めたくない事実の一つではあったが、シュナイゼルは自身の母親がシャルルからどのような立場で扱われているか、政治的な立ち位置に価値を置いていない。アーデリントは賢く利益追求し、第二皇子であるシュナイゼルと弟のアーダルベルトを儲けた。彼女はすべての目的を果たしたようであるし、シュナイゼルも既に自分の立場を保持しているがゆえに、多くの弟妹が母親の地位と扱いで一喜一憂し、またその背を押されて帝国の将来のための期待を背負わされる重圧を然程にも感じていなかった。
そうした――自身の子供のために序列を決めてしまう皇妃達が、自身の立場を明確にし、優れていると思うには下級の存在が必要で――その下級とは自然とマリアンヌ妃に向けられていった。
 生まれは平民出身。階級は騎士侯。ナイトオブラウンズにまで上り詰めた庶民の英雄である。しかし――上流階級出身の他の皇妃からすれば目の敵にされやすい立場にある。コーネリアはユーフェミアを含めてその母親が上流貴族出身の出であり、マリアンヌを慕う彼女が護衛を務めることで仇なす者を退けることができる。まさにうってつけの立場といえよう。
 豊かなヴァイオレットの髪を後ろに縛り、コーネリアは動きやすい格好でアリエス宮の巡回任務を行っている最中だった。
 「兄上は……ルルーシュですか?」
 「そうだよ。チェスのお誘いを受けてね。なかなか帰って来られないから、こういう時くらいは、兄らしいことをしてやらないとね」
 「お忙しいのですからご無理をなさらずとも」
 「……寂しい気持ちは少しわかるんだよ」
 「兄上」
 柱廊の影の中。見通せない薄明の紫を前に、コーネリアは返答を迷った。
 出会いから八ヶ月で訪れた悲劇。あの日の喧騒、空港に急ぐ兄の後ろ姿を忘れられない。数日後にテレビ報道で流れたかの国の惨状と混沌は、泡沫の夢を謳歌するブリタニアの明日の光景かもしれぬとコーネリアは思ったものだ。
 婚約後の挨拶で皇宮を訪問した際には物怖じせず、コーネリア含むシュナイゼルの兄弟姉妹達とお喋りをする時間があった。外国の王女。住む国の気候も習慣も文化も異なる。年齢の近い少女は快活で物知り。王族としての仕事も始めていたし、人類社会に絶大な貢献をする子供といわれてしまえば、何もかもが大人びて見えた。
 一瞬の間を切り裂いたのは異母弟であるルルーシュの甲高い声だった。
 「兄上!」
 「……やあ。ルルーシュ。お招きありがとう」
 子供部屋から一直線。駆けてきたルルーシュを前に、シュナイゼルは膝をついた。
 
  

  a.t.b.二〇〇九 28th May
 ブリタニア セントダーウィン アリエス宮

 月明かりのない夜だった。
 僅かな照明だけが灯る、城のグレイトホールの吹き抜け構造の二階と一階を繋ぐ長い階段の途中で、ふたつの影が向かい合っていた。
 艷やかな黒髪の宮の主と、階下に待ち受ける長い金の髪の小柄な少年。
 「何なの。V.V.。急用って。人払いはしておいたわ。コーネリアも下がらせたし」
 「ごめんね。マリアンヌ。シャルルがいないところで」
 「アーカーシャの剣の件なら――」
 「うん? いや、シャルルのことなんだ。君に出会ってから、シャルルは変わってしまったよ」
 「V.V.?」
 「互いに理解しあっていくのが楽しくなってきたみたいなんだ。このままだと、僕達の契約はなかったことにされちゃう。僕だけ取り残されちゃう。――だからさ」
 少年の薄い唇が微かに笑みの形を作った。
 「神話の時代から、男を惑わすのは女だって話――」


 盤上の黒のキングは押されていた。シュナイゼルの長い指が白のナイトを進め「チェックメイト」を告げる。
 壁に掛かった時計は夜八時を目前にしている。子供の時間にしては、夜ふかしだ。
 「今日はもう遅い。今夜はここまでにしよう」
 ルルーシュは椅子から勢いよく立ち上がり、何度目かの再挑戦を申し出た。
 「もう一回! もう一度だけ勝負してよシュナイゼル兄さん!」
 負けず嫌いで、諦めの悪い少年。しかし確実に腕を上げている。
 「駄目だよ。ルルーシュ。マリアンヌ妃にここまで遅くなることは言ってないだろう」
 悔しい。心残りと、次の対局がいつになるか見通しの立たないことをルルーシュは知っていた。多忙なシュナイゼルがルルーシュのために時間をいつだって割いてくれるほど、彼を取り巻く状況が許しはしないだろう。
 「君は頭は回るのに、そういったことには詰めが甘いんだから」
 ルルーシュはシュナイゼルとの勝負――目先のことに囚われて、自分のための猶予を勘定に入れていなかった。
 ライフル銃の断続的な射撃音が反響した。
 この平穏な離宮内では聞くはずのない銃声。それもごく至近距離で。ルルーシュの鼓動は一気に激しく鳴った。子供部屋から飛び出し、ホールの方へと急いだ。
 「母さん……! ナナリー……!」
 大階段の下で横たわり、血の海に沈む女性。紛れもない母親と下敷きになる妹の姿。眼下に広がる凄絶な光景に、ルルーシュは声にならぬ悲鳴をあげた。



 a.t.b.二〇〇九 May
 黄昏の間


 どこかの永遠の黄昏。
 黄金色のまばゆい光の中で、宙に浮いた優美なドーリア式とイオニア式が融合する神殿の階段に、少年が腰掛け、赤紫の双眸が果てしなく続く雲の上の世界を眺めていた。
 「女に絆されて、愛に目覚めてしまったのは、君だけじゃないみたい。シャルル。――きっと、君の息子も同じだよ」
 その場に彼の呼びかける人はいない。
 そこにたどり着くには、必要な条件が揃っていなければならない。よってV.V.はいま独りきりでいられる。
 表の世界では蜂の巣をつついたような大混乱であろう。
 厚い雲の下にそこはない。この場所は擬似空間であり、現実ではない。
 「それはいい変化というのかな。裏切りというのかな」
 少年の独白は続く。
 「君は僕を。あの子はブリタニアを裏切っているんだ――フフフ」
 永遠に子供の姿を象る変化なき自己と対照的に、彼の弟や甥は日々生命の宿命と――訪れるべきではない揺らめきの中にいる。
 「約束、守ってよ」
 拙い子供の言葉は黄昏の光明のなかに溶けていった。



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午前四時の異邦人
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