a.t.b.二〇〇〇 September
カストラリア ホリドゥラ
ホリドゥラ史跡博物館。
カストラリア中腹部にある古都ホリドゥラは、文化発信地であり、シルクロードの通過点からその隣接するメルカッサともにアジア系のコミュニティが古く残る歴史深い地域である。かつて王が住む首都だったが、宗教的対立から譲歩し、北側の現首都リダニウムへ遷都した歴史がある。その後、移民やアジア系コミュニティはメルカッサに移り、ホリドゥラは当時王族と共にいたものの、北上しなかった残留貴族達の社交界が中心となり文化を花開かせていった。欧州の若い貴族達のグランドツアーの安全基地として役割を果たし、十六世紀後半からの欧州の文化・建築・美術などが多く持ち込まれた。
暗い展示室のスポットライトを浴び浮かび上がる展示品の品々は、数百年以上前の歴史を今に伝えている。この国が国として成立する五世紀頃、またそれ以前のものも。食器、瓶、壺、ガラス製品、銀のカトラリー。幾何学的な植物文様の染織。動物毛のコート。綿や絹の織物。建築物の一部の柱のレプリカ。再現された当時の生活風景の展示。羊飼いの少年が羊を追い立てる場面の蝋人形が立ち、彼の住む家の中の生活が実際の道具で彩られている。
民俗学的知見に基づく充実した内容である。――幼いシュナイゼルはブリタニアで住まいのあるセントダーウィンの、あの田園風景を思い起こしていた。新大陸亡命を図った英国の、文化的・歴史的証明をあのブリテン諸島に置いてきてしまった者たちの子孫。それゆえレガシーへの渇望がブリタニア人の精神のどこかに根ざしていると感じていた。
宮廷の古めかしい中世のドレスコードなどはその最たる例だろう。
カストラリアは違う。歴史の地層の積み重ねが現代≠ニいう今を解き放っている。
――あれは、妄執だ。
いくら素材を軽くしたり、伸縮性のあるものに変えたとて動きにくく、暑苦しく、堅苦しい。
科学はこれほどまでに発展しているというのに、人間の進化はない。だからこそ国是に進化を謳う。
「こちらは中華連邦からのものでございます」
「綺麗なみどり。青磁釉をかけたものですってね」
「はい。そうでございます」
館長の紹介とともに、透明感のある青緑色の陶器をガラス越しに前に観察するティラナは、興味深くため息を漏らした。
中華連邦と山脈を挟み陸続きであるため、海のシルクロードでもたらされた青磁陶器が展示されている。
ふたつの持ち手とくびれのある胴体が特徴的な壺。
古代ギリシャやローマ、地中海地域で使われた貯蔵・運搬用のもので葡萄、ワイン、オリーブ、オリーブオイル、穀物、魚――生活に必要なものを貯蔵するのに役立っていた。
ティラナはその壺の説明文を読んで驚き、隣に佇むシュナイゼルに話しかけた。
「一アンフォラ三九リットルですって。……この……コマーシャルアットってあるでしょ?」
「うん」
「会計記号だったらしいの。元々は。コマーシャルアットの語源はこのアンフォラの形を表した象形文字のようなものだったんじゃないかって」
手のひらを借りて@≠フ形を人差し指で描いていく。
「ごめんあそばせ」
「……くすぐったいよ」
反射的に体を震わせるシュナイゼルに悪戯心が刺激されたのか、腕にまで指のなぞりが進む。
「ティラナ!」
変声期前のソプラノが転がる。
子供二人の後ろで、王女の公務に帯同する女官が咳払いをして、注意の前触れを知らせた。
「……殿下方、こちらは大切な展示品が並んでおりますゆえ……」
「あら。失礼いたしました」
すぐに楚々と王女の顔に戻るティラナは役者のようだ。
史跡博物館の館長は気を利かせて、次の案内を告げた。彼は王室の番組を承知の上でレクリエーションを組んでいた。
「釉薬の説明がございますが、ご覧になりますか」
「え? いくいく! この辺りは深緑色か灰釉のものが多いんでしょ?」
「さすが王女様。お詳しくていらっしゃいます」
感銘を噛み締めるように、館長はゆっくりと深く頷いた。
案内するその後に着いて歩き出したティラナは足を止め、未だガラスケースの前で石のようにじっとしたままのシュナイゼルの隣に並び立った。
「どうしたの、殿下」
最古の王朝のあった五世紀頃の石碑の一部と、テラコッタのシンプルな壺らしい壺の形をした遺物が展示されている。
ホリドゥラの盆地周辺で製造されていたと書かれている。その頃、三世紀からある王朝と北部を治めていた有力氏族――西ローマ、ラテン語で砦を意味するカストリア一族が一つになった。東西からの亡命者達を受け入れ発展と混沌を極める時代。先の宗教対立が問題となり結ばれたばかりの王家は西側の人々の推進を受け、厳しい岩山の国へ帰った。
西ローマの神官系譜が王家の血に混ざり、その子供の時代当時のにローマ帝国の国教化と同様、キリスト教を国教に定めた。
石碑という口承以外の確実な史料が五世紀には色濃く存在する。並んだ壺も、シンプルな形状以外に創意工夫がなされた独特な形・デザインのものもあり、当時の人種の坩堝≠象徴するように図柄だけでも多種多様にあり、見る者を飽きさせない。
シュナイゼルの目はその表面の絵ではなく、輪郭を追っていた。
「殿下は壺の形がお好みなのね?」
「そうかもしれないね」
「大きな壺に入ったことある?」
「……あるのかい?」
思わず顔を逸らし、彼はティラナの顔を見た。
「メイドを驚かそうと思って入ったら、大きな花瓶だったの。びしょ濡れになって叱られたわ。ちょうどお花を出した後だったのに気づかなくって」
くすりと、吐息に混じりの笑い声を漏らしたシュナイゼルにティラナは満足気に笑った。
「釉薬の説明が終わったら陶芸体験ができるってきいたわ! 行きましょう」
サンド色の膨らみの少ないワンピースを翻し、館長や付添人達の待つ方へゆく。
少年はもう一度壺を見遣る。ヒビのない表面。欠けてはいけない。漏れ出してしまったら、せっかく入ったものが出ていって空っぽになってしまう。
一つの小さな隙間も。壺は完璧でなければ、壺ではない。
a.t.b.二〇〇〇 September
ブリタニア ニューヨーク・ロングアイランド ルーヴェンフェルス家
未加工の宝石はまだ川原に落ちている玉石混交の岩の欠片のよう、あるいは渾然一体の様相である。
月に一度のカストラリア訪問を終えて、シュナイゼルは母アーデリントに連れられブリタニア東部にあるロングアイランド――ブリタニア・ルーヴェンフェルス家の屋敷に滞在していた。
ブリタニア建国以前、ブリテン諸島から新大陸に亡命し最初の地となった場所――そこから首都はどんどんと西側へと移し替え、今のカリフォルニア付近に落ち着いた。ルーヴェンフェルス家は軍事系貴族である名残から、大西洋からの敵に警戒し守護の役目とし、防衛の最前線であるこの地からブリタニアに貢献してきた。
厳しい直線的なゴシック様式の灰色の屋敷。冬季には潮風に雪が吹かれる日もある浜辺近くの高級住宅街の一角に、その地一番の屋敷が市役所と見紛う出で立ちで存在する。
堅牢な宝物庫を収める特別室は、銀行の内部のように何重にも分厚いドアに仕切られていた。
シュナイゼルはその日はじめて、くり抜かれたステンレスの中に閉じ込められたような部屋に入った。シルバーに輝く継ぎ目の一つさえ見えない壁に、ガラスケースの中に収められる財宝の数々。先日カストラリアの史跡博物館のように陳列されている。だが、それらは日頃誰の目にも晒されず主人の気分次第で日の目を見る、閉じ込められた特別な物たちだ。
アーデリントはゆったりとしたドレスの裾を捲り、指をさして執事にガラスケースを開けさせた。丁重にそれを外界≠ノ開放した。
「母上。こちらは?」
「原石です。宝石の」
「これから宝石になるんですね」
「そうです。磨く前のもの、……こちらは研磨済みのものです。加工しやすいように、先日整えたばかりの」
宝石はいくつかあった。アーデリントの言うように、これらの石の命運はこちらに委ねられていると教えるように、彼女は一つ一つ石のあらましを説いた。
「十一月には王女の誕生日がございますでしょう。お披露目にはぴったりのタイミングです。ファーストジュエリーには早いですが、その頃には別のものを用意すればいいだけです」
アーデリントの物言いは、ティラナの誕生日に合わせてジュエリーの準備をしろということだ。
誕生日の日は注目度が最も高まる絶好の機会だ。否が応でも王女の装いは目に触れる。婚約発表を行う際は指輪を手渡すのが通例だが、婚姻まではあと最低七年かかるためジュエリーの形式には拘らないのだろう。
「女王の戴冠もありますし、あちらとて準備を怠らないでしょう。……この意味がおわかりね?」
「はい」
全身全霊をかけて歴史に爪痕を残す。アーデリントの野心は猛獣のように逞しい。
彼女は息子に言い聞かせた。
「シュナイゼル。カストラリア王家は古き血筋。生半可な石では、あちらの歴史に負けてしまいます。……こちらをお使いなさい。これは我がルーヴェンフェルス家が、ナポレオンの戦火から守り抜いたプロイセンの至宝です」
アーデリントが執事に合図を送り、厳重に管理された金庫の中から取り出し、その素晴らしい輝きを包む小箱をガラスケースの上に置いた。
大粒――手掴みしても余りある晴天の青を反射する深い海の清々しさ。
「ブルーダイヤモンドでございます」
執事が一言告げた。
「四五.五カラットあります」
指に載せるには大きすぎるゴロッとした塊の比類なき美しさ。決して市場に出回ることのないまさに至宝。金銭的価値はつけられない歴史的遺物といえる。
「ルーヴェンフェルス・ブルー」
神託のようにその名が明かされる。人工顔料のプルシアン・ブルーに匹敵する青く輝ける石を巡り、ルーヴェンフェルス家で一体いくつの血が流れたのだろうか。
「婚約指輪とは別に、パリュールやティアラ、王冠を作らせるのも良いでしょう。宝石においてカストラリアの地理的軍配が挙がることは必至ですが、ただの石、宝石とは異なります。輝ける歴史なのです」
「家宝なのでは?」
「今が使い時ですよ。恥をかかせてはなりません」
あちらにも、こちらにも。
アーデリントの瞳の奥が底光りする。
シャルル帝時代初の王族結婚。皇室ともなれば、世話を焼くのは皇室≠サのもののように思えるが、皇妃を何人も抱える現皇帝では妃の家の役割となる。
アーデリントがそこまで躍起になるのは、過去一八六〇年代頃コーネリアやユーフェミアを擁するリ家から――クレア・リ・ブリタニアがブリタニアの帝位についた家筋であるからだろう。
女帝の末裔。それだけで家格は頭一つ抜けている。ルーヴェンフェルスは王族に仕える貴族から皇族に、さらに王族との縁組すれば地位は盤石となる。――クレア帝と異なり、夫の姓により家名や王朝の名を塗り替えることさえできる。だが――シュナイゼルには母親ほどの野心はない。家名も王朝名も生まれてくる次代が決めることだからだ。
アーデリントは厳重に保管されていた他の小箱も開けさせた。
コーンフラワーブルーサファイア、天然の赤みの強いピンクトパーズ。どれも希少価値の高い優れた宝石だ。
「……ティラナは研究で薬品を扱うこともありますし、指はサイズがこれから変わるから。今はネックレスのほうがいいでしょう」
「わかりました。十一月まで日がありませんが、デザイナーと職人には話を通してあります。殿下。ご自分でディレクターを交えて準備を進められますね?」
「もちろん」
シュナイゼルはにこやかに返事した。
そしてもう一度、世界でただ一つのブルーダイヤモンドを見下ろす。
次に会ったら、彼女はどんな反応をするだろう。きっとその石の成分の話をするに違いない。
無機質な人形のような鼓動が弾みをつけ、不可思議な漲る力が頬に加わり、少年の口元に笑みを生み出した。
a.t.b.二〇〇〇 9th October
ブリタニア セントダーウィン ウィルゴ宮
安定期に入ったアーデリントの腹は華奢な体には異様な大きさに見えた。
性別の片方だけがその期間の間、異形な姿形を留める。敵に狙われやすく、わかりやすくか弱い。社会の摂理はそれが自然なことだと教え込み、均し、一般化されているが、変化し続ける曖昧な状態だ。
シュナイゼルは自分も昔、その母の腹の中に収まっていたと知識で理解していても、やはり薄い皮膚の下、その筋肉量の少ない骨と内臓と脂肪で覆われた空間の中に住んでいたことがあると思うのは、不思議な気分がした。
宮の中の一番広いリビングのソファで、アーデリントは新聞を読み、チェスを指し、時々うたた寝をしてはどこかに電話をかける時間を過ごしている。人に厳しく、したたかな野心を持つひとでも、息苦しそうにしている。それであっても、その期間は病人ではないというのだからこれもまた不思議でならない。
ソファの後ろに立ち、クッションを下にあてて楽な姿勢でいるアーデリントに声をかけた。その声は驚かせないように慎重に、いつも以上に抑揚がきいていた。
「大きくなると苦しいのですか?」
「ええ。内臓を圧迫しているんですもの。動きにくくって、億劫。庭いじりでもしたいけれど、しゃがめないわ」
損をする方の性別だと、シュナイゼルは冷淡に思った。
どれだけ医療や生命科学が進歩しようが、肉体を介する出産期間を圧縮することは不可能だ。より小さく誕生すると発達と発育に影響を与え、人間ではなく人工的な環境で生育すれば愛着形成に問題が出る。その宿命を、いずれ彼女に与えることになる。――母親のように、どれほど日頃、強権的な態度をとる存在であっても生物学的な性の役割を超越することは不可能なのだと。
アーデリントは言った。
「望んで授かる幸せを思えば、些末事です」
幸せ。
母にとって幸せとはなんだろう。
絶対的な地位? 自己効力感を高める結果の獲得?
シュナイゼルは彼女の望むものを与えられそうだ。社会と歴史にその名を刻む子供をつくった。
――では、どうして二人目を望むんだろう。
まだ欲があるというのか。なんの欲だというのか。
近頃の父は、あの事件以降ただ一人の妃にご執心なことくらい、アーデリントほどの女性であれば識っている。――事件のあと、帝位が揺るぎないものになった父帝のもとには多くの妃が宛てがわれ、来るもの拒まずでいる。新しい妃の浮かれように比べれば、計算尽くしの生産≠ノほかならない。
だが、シュナイゼルはその質問を口にしなかった。社会と家にとって必要であるから子供を儲ける。愛情という副産物は必要だが主体ではない。それが出来るのはしがらみがないか、労働力を不要とする平民だけだ。
「……殿下。ネックレスの方はいかが? 進められているのですか?」
「滞りなく進んでいますよ。十分間に合いそうです」
「そう。それならよかった」
アーデリントは目を細め、誕生日に併せた婚約お披露目の場の王女の衣装について口走った。
「そうそう。ドレスの方なんですけれど――」
その時、唐突な馬の嘶きがウィルゴ宮に響き渡った。
午前十時十五分。
第一報がペンドラゴン皇宮から早馬で届いた。緊急の報せは余程のことがなければありえない。
シュナイゼルにしては珍しく、嫌な動悸がした。
「何事です!」
アーデリントが声を荒らげ、ソファから身を起こそうとしたのをシュナイゼルは制した。
「母上はご安静になさってください」
「殿下!」
宮廷からの使者が長いウィルゴの前庭を走り抜けてきて、窓の外からシュナイゼルに呼びかけた。
「シュナイゼル殿下。――つい今しがた……カストラリア王国で王宮火災が発生したと公共放送CAC局が発表を……」
「なんだって?」
テレビを点けたアーデリントの悲鳴が、平穏を切り裂いた。
「母上」
「なんなのですかっ! これはっ!」
動揺と混乱に腹を抱え、彼女はソファに深く沈み込んだ。
衛星放送――リアルタイム中継でカストラリア公共放送CAC局の映像がテレビ画面一杯に映し出されている。
中継先のカストラリアは、もうすぐ日付変更線を迎える時刻である。
濃紺の闇に、血のような朱色の光が首都リダニウムを染めあげている。岩山に覆われた王宮に火球が降り落ち――宇宙から隕石が落下するようにある種の神秘的な光景である。消火活動に消防庁の出動要請がかかり、必死の消火活動が進められている様子がカメラの中で確認できる。放水銃から放出される水量では王宮の外壁を濡らすばかりで、延焼し内部にまで回る炎を打ち消すことができていない。
また風が強く、上空からの放水活動をしたくても小型飛行機の使用を躊躇っているようだ。増改築を繰り返した王宮の中でもっとも新しい一階フロアはスプリンクラーが作動して水が出ているのか、濡れた格好で王宮の外に飛び出す職員が何人かいる。
シュナイゼルは窓から身を乗り出して、使者に尋ねた。
「王宮へ連絡は?」
「避難行動に移っており、通信がとれません」
「国王一家の安否確認も?」
「現状では……なにも」
使者は弱々しく、首を横に振る。
「専用機は動かせるかい」
「殿下? まさか……カストラリアに?」
「他になにが? これは完全な……クーデターだよ。どう見ても不審火ではない。外側から火球を打ち込まれている。モンスーン時期の過ぎた――乾季の夜を狙っているんだ。つまり――今は延焼しやすい危険な時期だということだ」
六月から九月の雨季を終えたカストラリアは乾季に入る。夏の期間に植物が成長した山岳地帯では谷風や斜面を駆け上がる風が強く、火が斜面を上る際は極めて速いスピードで延焼する。十月は湿った南西モンスーンが去り、乾燥した冷たい空気が流れ込み始める時期。湿度が急低下し、さらに標高が高いほど空気が薄く日射が強いため、地表の可燃物がさらに熱せられ、発火・延焼が容易になる。リダニウムの標高は一〇〇〇メートルを超えている。航空機を使用すれば風をかき回し、自然の導火線に火をつけることになるだろう。悪条件は完璧に揃っている。
伝令の使者はかすれた声で言った。
「今から準備をすると……最低でも数時間時間を要します」
「早く進めて」
「Yes, Your Highness」
使者は携帯を取り出した。軍の方に連絡を入れ、急遽皇室専用機を動かす準備に入った。燃料的問題から、途中経由する空港への補給時間を含めると十三時間以上のフライトは避けられないものだった。
シュナイゼルは十五時頃、ブリタニアを発った。カストラリアに十九時頃到着した。
a.t.b.二〇〇〇 10th October
カストラリア 首都リダニウム
灰降る首都は世界の終焉のように濁り、どこまでも見通せない雲の中に抱かれてしまったように昏い。
首都リダニウムの交通機能は麻痺し、渋滞と火災、混乱、犯罪が横行していた。
王宮にもっとも近い拓けた場所は庭園しかなく、やむを得ずそこに皇族専用航空機は着陸した。
降り立って真っ先に吸ったにおいは、肺を強烈に締め上げるほどの異臭、腐臭、血生臭さだった。秋口の落日は早く、足元の色は夕陽の沈み込む暗さに負けて判別つかないが、靴裏に引き伸ばした痕跡が何者かの血液であることはたしかだった。研究棟付近には黒い塊のような人の死体がそこかしこに点在し、王宮に近づくにつれ死体の人数は増えていった。
シュナイゼルと随伴する者達は着陸直前の一時間前、現地の駐留ブリタニア軍との連携を図り、護衛官長は合流した。
王宮は未だ燃え燻っている。もうすぐ火災から二十四時間を迎えるが、消火活動は追いついていなかった。外側から見るよりも、内側が相当焼けている。――生存者の職員がバタバタとあちこちを走り回っているが、誰もシュナイゼルに構っている余裕はない。外部や内閣と連携が取れないほど統制されていないか、役職者が指揮を取れない状態である。緊急マニュアルには全員屋外退避が前提となるが、中に人が詰まっていて行き倒れる様子から国王一家は避難していないと考えた。
シュナイゼルは護衛官長を通じ、臨時政府を先に発足するのを急がせようと口を開きかけたとき、遠くから彼を認め駆け寄る人影に気づいた。
「殿下……! シュナイゼル殿下!」
「ハーゲン……!」
侍従長のハーゲンは炎が迫ろうとする場所から遠ざけようと、シュナイゼルを抱き竦めた。
濃紺の制服の下のシャツ姿で袖は燃え捲れあがり、髪の毛は逆立ち、肌は黒煤に汚れていた。なにより全身に焦げ臭いにおいがこびりついていた。
「状況は……」
「全体の状況は、不確かでございます」
安全な小さな庭のところまで下がり、長い溜息を吐きながらハーゲンは両膝を力なく芝生の上についた。
「……残念な……お知らせが……」
ハーゲンはそう言って、哀しみと苦痛、憐れみを押し込めようと保とうと筋肉が痙攣している顔を、黒い手で擦り隠そうとした。
シュナイゼルの背筋に言いようのない、恐れが迫りきて駆け上った。
「国王陛下夫妻が……崩御されました」
永い一瞬だった。
侍従長は項垂れた。
その中で、憂慮すべき点は――継承順位第一位の法定推定相続人の安否だ。
「ティラナは」
シュナイゼルは疲労で力の出ない彼の瞳を見下ろした。
「ティラナはどこ」
弾けた火の粉が風にのってふたりを包んだ。
「……ええ……」
応えようのないそれが、手を尽くしたあとだというのは言うまでもなかった。
「ハーゲン殿!」
闇夜を切り裂く一声が鋭く届く。
ハーゲンは芝生の上に手をつき、なんとか立ち上がった。
全身軽装で汗に濡れた男――ハーゲンは彼を「ベルケス公!」と応じた。
「よくご無事で……!」
「王女殿下の救命にあたった! 朝方病院に搬送した!」
「まことに……!?」
驚愕するハーゲンの傍らで、ベルケス公はすぐにシュナイゼルの存在に気づき、礼をとった。
「シュナイゼル殿下……!? まさか、ブリタニアから……!」
「ティラナは」
「詳細は後ほど。今は……、ハーゲン殿。私は臨時政府の指揮権を行使するようにと、内閣から報せを受けています。これからその対応に」
「はい……はい!」
「殿下方を頼みますぞ。……臨時政府組閣後、王宮の統率は一時的に内閣が執ります。その場合、あなたには仕事がある。殿下の付添人の候補を見繕い、ご対応願います。……ともかく鎮静化と反政府組織の炙り出し、リダニウムの混乱を収めねば……陛下夫妻はどちらに?」
「あ……あぁ……陛下は……」
ハーゲンはたじろぎ、諦めきったように静かな声で告げた。
「崩御されました」
「……なんだと? ……これは……まずい。……どちらで?」
ベルケス公の計算の中には国王一家が無事であることが前提であったようだ。
彼は乾いた肌を指先で掻いた。ハーゲンは火災から今までの行動と、国王夫妻の状況を説明した。
「中庭でございます……。ご遺体は私と数名の侍従で、地下室の方へ安置いたしました。……見張りを立ててあります」
「承知しました。……今後のことを考えるには、時間が不足している……、……ティラナ王女のご容態も芳しくありません。今夜が峠です。……王室における継承順位を考慮すると暫定的に私が担う可能性も高い。なにせ……ほかに直系の親族はいません。国王側の親戚は追放者ばかりですし。擁立したとて国民は納得しません。……遡れば、たしかに王族は存在しますが、外国で、王后側の親族では、それも国民は納得しないでしょう。私とて反発をくらう」
「では、どうしろと……!?」
ハーゲンは声を荒らげた。彼らしくもない態度だが、国家危機を前に平然としていられるわけがない。
「世襲君主制から互選となる選挙制が代替法か、もしくは共和制への移行手続き……となりますが、この混乱と、クーデターの目的が不明の状況で国家体制の選択を早めるのは危険でしょう。中華連邦の影もある。我が国は君主制を堅守すべきだ。……王女のご快復を待つことを表向きに、早急に代理人を立てる必要があります」
ベルケスの主張は理路整然としている。
「国王陛下が崩御された瞬間から、王女は事実上君主となります。――女王陛下は意思疎通が不可能な状態にありますが、唯一、現状を打破し君主制を維持する方法がございます。――シュナイゼル殿下。……この国のために、お力添えをいただけますか」
ベルケスは膝をつき、頭を下げた。
シュナイゼルは「ティラナに会ってから決めるよ」と言った。
彼は深く頷きハーゲンに目配せした。
王宮まで走ってくる人影が数人、ベルケスを呼んだ。
「ベルケス大臣! お早く!」
「今行く!」
ベルケス公は立ち上がり「ご一考を」とシュナイゼルに囁いた。
「王女殿下の収容先の病院の住所です。ICUのフロアに入ればご案内いただけるでしょう」
「はい。ご武運を」
ハーゲンは走り書きのメモをベルケス公から受け取った。ティラナの搬送された病院の名前と住所が書かれている。
「ベルケス公!」
「臨時政府を発足します。ご協力を!」
官邸職員は口々にベルケス公を呼んだ。
a.t.b.二〇〇〇 11th October
カストラリア 王立記念病院 集中治療室
深夜をまわった王立記念病院のロビーや通路は、怪我人や避難してきた市民で溢れかえっていた。
私語、咳、呻吟、泣き声。真昼のように騒然とするそこは消毒液と血のにおいに満たされている。シュナイゼルはハーゲンとともにその病院のICUのあるフロアに直行した。仕切られた空間の間で手を洗い、消毒液で滅菌し、ガウンとマスクを纏う。室内では機器のアラームが忙しなく鳴り響き、医師と看護師が入り乱れながら対応している。
最奥の個室の前で青いガウン姿の青年が一人佇んでいる。彼はハーゲンの到着に目を瞠り、小さく頭を下げた。
「無事だったか、コルネル……!」
「ええ。私は官舎の方でしたので……。夜勤の者は、残念でしたね……」
「……ああ」
国王の最側近のひとり、秘書官のコルネルだった。
互いに沈痛な面差しで言葉を失った。コルネルは気を取り直し、傍にいる少年に身の清潔を優先して軽い礼をとった。
「殿下」
居直ると、磨りガラス越しに見える寝台の上で人工心肺で生命を維持する少女の姿について、彼は口を開いた。
「頭部に銃弾を受けていて、大手術だったようです。詳細は主治医からあるでしょう。……王女殿下については」
「コルネル。……女王陛下だ」
ハーゲンは声を抑えて言った。コルネルは言葉を詰まらせ「まことに?」と絞り出すのが精一杯だった。
「……では、ご説明は、シュナイゼル殿下が?」
「そうなります」
国王の崩御の報せを受けた側近の一時的に職務を放棄した――様々な感情の去来。虚脱、やり切れなさ、将来への不安、さまざまな葛藤の末――静かな祈りを捧げて青年は寝台の上の少女に十字を切った。
そして疲弊のあまり顔色の悪いハーゲンを気遣った。
「食事は摂られましたか?」
「いいや。……それどころではなく……」
「なにかお持ちします。控室の方で召し上がれるものを」
「ああ。……中に入っても?」
ハーゲンの質問にコルネルは「そこの記録帳に記名をお願いします」と言った。
シュナイゼルの細い肩を少し押して、ハーゲンは記録帳の前に立った。仕切られた隣室のモニターが窓越しに見えた。少年はベッド脇の精密機器に触れないよう気をつけて傍に立った。
「ティラナ」
名前を呼んでみても、返事はなかった。
頭を含めて顔を埋めるように白い包帯が巻かれている。身体の上に薄手の毛布がかけられ、胸が一定の間隔で規則正しく上下している。近くのゴミ箱には、処置の際に出た使い捨てのゴム手袋、包帯、吸引管、脱脂綿などが入っている。
シュナイゼルは、重傷の婚約者を前に自身の感情が動かない方に驚いた。
茫然自失とも異なる。シュナイゼルは包帯の白の向こうに、カストラリアの今後のことを想像していた。
反政府の首謀者は不明だが、起きたのは王宮を火の海にした事実上のクーデター。
王位継承権第一位はこの通り、瀕死の重傷を負っている。
ベルケスの話に従えば、婚姻条約に基づきシュナイゼルが代理摂政を担うことになる。
当然、婚約を破棄することも選択肢の内にはあった。破棄すれば重荷を背負わなくてもよくなる。出会ってまだ八ヶ月。将来の見通しの立たない国家とその王女の生命のために、ブリタニア側が時間と労力を費やす必要性があるか否か。
シュナイゼルが切り捨てれば、カストラリアは中華連邦に呑み込まれるだろう。――そうなった時、危惧すべきはカストラリアの高水準の医療リソースやその他の鉱物資源が中華連邦側に吸収されることだった。
それはブリタニアの脅威となり得る。
中華連邦を挟んで二カ国の永世中立国のうち、片割れである。極東の日本は地下資源サクラダイトを巡って冷戦状況が続いている。対して、カストラリアは国際シェア率は日本に比べ僅少であるものの、融通がきく。なにより、医療リソースに関しては国際首位である。さらに同じ欧州のルーツを持つ王室と宗教観からの摩擦が少ない。
――この政略結婚の効果はそれだけに留まらない。
日本に対して、同じ中立国であるカストラリアとブリタニアの友好関係が周知されることで、交渉の切り札としての効果を期待している。
日本人は同類に安心するのは本当の話らしい。カストラリアがブリタニアに譲歩するなら、悪い話ではないだろう≠ニ緩みが生まれる。
実際、日本側からは一時条件緩和案が提出される見込みがある。王室は各国の国家元首との交流もあり、ブリタニア側から呑ませられない条件も仲裁でいかようにも平和的交渉は可能だ。
中華連邦には牽制を、日本には同調バイアス――社会的証明を。
すでにこの婚約関係は国際情勢の切り札になりつつあった。――万が一、ティラナが死んだとしても――シュナイゼルには同情の花束が贈られるだろう。それも切り札になる。一生王女の亡霊がつき纏うことになったとしても。
「……ティラナ、手を握るよ」
シュナイゼルは、薄い毛布の隙間から出ている白い手をそっと握った。
ティラナの手は温かく、少し湿り気を帯びていた。空調の暖かさと機器による延命で峠というわりに、生命力を感じる体温をしていた。
「あたたかい」
小さく呟いた。
婚約を破棄しないことは、却ってその二つの国家への効果をより増すだろう。
非常時に陥っても、ブリタニアが撤退しない。――エリア統治における、融和政策のプロパガンダとしても効果的だ。その見通しを本国の父帝と廷臣にも、その他の国家にしても――武ではなく和をもって制する。これを示すことができる。
一頻り考えたあと、シュナイゼルは傍らに跪いた。握った彼女の手ごと額の前で祈った。どれだけの時間そうしていただろう。
「殿下。お休みになるのでしたら、仮眠室を作らせますので……」
主治医を伴い戻ってきたハーゲンが、そっとシュナイゼルに言葉をかけた。
「一緒にいたいんだ。すこしでも長く」
婚約者の瀕死に際して、絶望を――それとも、親愛の情を募らせる少年に見えるだろうか。