a.t.b.二〇〇〇 31th October
婚約から早八ヶ月。
悲劇か、試練か、血筋ゆえか、それは将来の展望を夢見る者たちを天界から突き落とした。
花婿衣装よりも先に喪服を纏ったシュナイゼルは、カストラリア・リダニウム国際空港の控室で彼にしては重い口ぶりで言った。
「王女には先見の明があります。……王冠を支えるために、私に称号を約束した」
淡く柔らかな頬――不釣り合いなほど老成した眼差しが母親に向けられる。
安定期で長時間のフライトは誰の目にも危険に映った。医師も止めた。しかし、アーデリントはただあの広大なウィルゴの宮殿で、じっと置物のように時計の針を数えるのは我慢ならなかった。王宮火災から半月。息子は一度もブリタニアに帰らず、そのままカストラリアの摂政となった。やっと帰国した少年はただの息子ではなく、一国の代理人と成り上がった彼の母として何が出来るだろう。だからせめて、見送りくらいはと我を押し通した。
婚約の条文のなかには、婚姻後のカストラリアでの地位と政務の権限と――万が一の地位、摂政となった場合の保障についてもしっかりと記載されていた。
君主が長期外遊で国を空けることや病気や風邪のとき親兄弟が代理で行う場合も同様の君主の代理人≠ニして機能する。――国王夫妻が仮にからくも一命をとりとめていて、王女が健在であれば彼女が摂政となった。もしくは譲位し、幼い女王が誕生した。
異例中の異例である。
アーデリントは何事も時期尚早すぎると思ったが、現実は放たれた矢のごとく誰の手にも止められず、恐ろしい速さで進んでいく。
王女は一度に両親を喪い激しいショックと自身も火災で重傷を負ったことから国葬の喪主さえも務められずにいる。――また国情を左右する状況であることから箝口令が敷かれたが、王位継承権第一位の王女が危篤状態であると知られるのは時間の問題だった。その次に王位継承権第二位の叔父を立てるかどうかの話し合いで、王宮に救援に向かった首相も火災で死亡し、空位であることから、シュナイゼルを女王――王女の摂政とし叔父のベルケスが首相の座を埋めることと相成った。
控室の空気は、剥き出しのステンレスのように冷たく張り詰めていた。
本国の枢密院へ、必要な書類を取りに戻るためだけの帰国。
子供の殻を剥ぎ取り、無理やり大人の皮を着せられる我が子。――いずれそうなることを求めていたのに、いざその時になってみて哀れに思う。
「わたくしにできることは、なにかございますか?」
母親として何ができるか、そんなことはわかりきっていた。カストラリアの問題に口を挟めるのはシュナイゼルだけであることも。わかりきっていながら、本当にらしくない心配をして。彼ははじめて心の底から微笑んでいるように見えた。
「あなたには、何もありませんよ。ご心配なく、母上。――過不足なく健やかにお過ごしください」
早い巣立ちだった。寂しさはなかった。
a.t.b.二〇〇〇 17th October
カストラリア王宮 地下室
窓のない密室の地下の安置室は、冷凍庫の中のように極寒だった。
遺体は気候的環境――自然の防腐剤によって遅滞し、腐敗を妨げられている。
王宮火災から一週間。目まぐるしいスピードで過ぎていき、シュナイゼルはブリタニアになかなか帰れずにいた。王立病院のICUで峠を越えたティラナの容態は安定してきているが、目覚める気配は一向にない。
昨日臨時政府による復興の最中、議会の臨時召集があった。シュナイゼルは病床に伏せる法定推定相続人であるティラナを女王とし、一時的に摂政とする話を公に行われた。猛反発、怒号、野次が噴出し一時大乱闘が沸き起こり――波乱の議場となった。彼ら、とくに貴族院の不満と怒りは予期していた通りになった。
この国を乗っ取るつもりだ=\―誰もがそう叫んだ。
ベルケス公ただ一人が、君主制について説いた。
ブリタニアの傀儡皇子。マキャベリスト。首相には、身内贔屓。前首相デスモイド殺しの疑惑の集中砲火を浴びた。
議会は深夜まで及び、互いに一歩も退かなかった。
――『では共和制に移行するのですか? 共和制のE.U.はどうなったか! 衆愚政治の堕落! 耄碌の民衆! 君主制を放棄した者たちの末路だ!』
――『話にならない! 我々がいっているのは、女王を出せということだ! 病床に伏せている? それが真実かどうか!』
――『カルテのコピーをご覧になったでしょう。心神喪失状態だ!』
――『御本人が承諾したわけでないなら効力はない。先の婚姻条約はあくまでも婚姻後に効力が発揮されるものだ。未婚の段階で摂政とする箇所はないだろう』
――『今は有事ですぞ! 王女は、女王は意思疎通が出来ない状態だと何度いったら……!』
押し問答が果てしなく続いた。
ティラナの症状が頭部に銃弾を受けていると公表しなかったのはICU入りを特定されないためと、クーデターの犯人を炙り出すためだった。
最終的に見届け役として、法務官と認証官を召喚した。カストラリアの国家主義を証明するため、シュナイゼルは王宮復興費用を拠出することで手を打った。
日の届かない地下室。側近達が交代制で国王夫妻の棺を日夜守っていた。
質素な棺の中でふたりは永遠の眠りに就いていた。シュナイゼルが目を凝らしていると、「……あまりご覧になられないほうが」と侍従長ハーゲンが気遣った。
「綺麗な状態だね」
「ええ……外傷はあまり。……死因は急性シアン中毒――つまり、青酸カリの服用です」
青酸カリ。たった〇.二グラムで細胞の呼吸を止め、数分以内に死に至る毒物である。
それまでシュナイゼルは、ふたりの死因を一酸化炭素中毒であると考えていた。
「他殺ではない?」
「……自死の可能性が。……なぜ至ったのか、理由はわかりかねますが」
両陛下共々自らの命を粗末に扱うはずがない。それは誰もが思った。不可解な死に納得いかなかった。
国王にしても、王后にしても、次代が育ち切るまで国と体制を堅守しようという姿勢があったのは周知の事実である。
「副葬品の選択はいかがなさいましょう」と秘書官のコルネルが尋ねた。
「……突然のことで……。しかし陛下なら、遺言書を作成しておいでです。幸い執務室は焼けておりませんので、その内容に準じて行いましょう」
ハーゲンが言い終えたあと、どこからか風の音が聞こえた。
「これは何の音だい?」
「何、と申しますと?」
「風の音がする。ここは地下室なのに」
「……地上の方の音ではないでしょうか」
地下通路の奥にまだ部屋があるとは、この時のシュナイゼルは知らなかった。
「ハーゲン」
「はい」
ハーゲンは身を屈めて、シュナイゼルに耳を向けた。
「ティラナを病院から移して。こちらに」
「こちら……というと、研究棟の方にございますか?」
「うん。……誰にも知らさないように頼むよ」
「身の安全を最優先に?」
「そうだよ。頭を撃たれたということは、撃った人間は殺したと思っている。それがまだ生きているなら、収容先の病院を襲いにいくかもしれない。危険な状況なんだよ」
ハーゲンが深く頷いた。
「承知いたしました。殿下」
病院から移送させても問題ない程度には回復している。クーデター直後の混乱期。誤魔化しの効く今のうちでなければ、そのうちメディアやスパイが嗅ぎ回る。頭部の銃創など深刻な状況が国外に漏れ出てしまえば、隣国の付け入る隙を与えるに決まっている。
その時、地下室の奥の入口の門番が訪問者の名を告げた。
「殿下。ベルケス公がお見えです」
「どうぞ」
ベルケス公は安置室に入るなり首を竦めた。
「ご挨拶申し上げます。シュナイゼル殿下。お休みになられましたか?」
「すこしだけ眠ったよ」
ベルケス公は並んだふたつの棺のうち、彼の姉のユスティナの棺を覗き込み、その白い額に口づけた。
姿勢を正すと訪問の目的を率直に明かした。
「国葬の日取りについてのご相談に参りました。……大聖堂におさめる棺や、副葬品、葬列の並び順についても。通常は首相と次期君主となる王位継承順位第一位の者が相談する事柄ですが、王女殿下に代わり、私がすべて一人で取り決めしてしまうのはと思いまして」
「わかったよ」
「国葬を営む場合、今の悲惨な市内の状況の整備にも予算が割けますし、カンフル剤になるでしょう。これから厳冬に入りますし、冬期の交通機能や、地下水道管凍結防止のための点検も兼ねて既に工事は始めております」
インフラの復興は最優先事項だ。国葬――即ち、パレードを行うことを意味する。
数十万人いる軍隊から数千人と国家元首の親族、聖職者、内閣閣僚、外国の要人が大聖堂までの道のりを騎馬と徒歩で進む。
「国際中継は?」
「おそらくなされるかと。国営放送の放映権の申請がいくつか既にあります」
「日取りも未定だというのに?」
ベルケス公は咳払いした。
「……それが我が国の立場ということです。要人の弔問のためにもスケジュールを早めに出すよう外務省に届いておりますが、安全性の問題を考慮し、回答を控えております。方々弔問外交の機会を潰されたくないのでしょう」
弔問外交とは葬儀の場を利用し、他国の要人との間で国益に関わる事柄を、非公式に話し合う外交活動のことである。
冠婚葬祭は主に国営中継・放送で全世界に。カストラリア王室との関係性を内外にアピールする絶好の政治的舞台である。
当然、この機会はブリタニアにしても、ユーロ・ブリタニア、E.U.、中華連邦、その他の独立国、中立国が対立や垣根を超えて互いの裏交渉を行う重要拠点となり得る。
参列者は君主制を採用しない国ではその時の国家元首が出席するが、主に王族が代表として出席する。
「ローマからも弔電と慰問の問い合わせがありますが……いかんせん、クーデター直後。厳しい状況です。我が国にとっても」
嘆息し、棺の夫妻を眺めては悔しそうに「死をもってしても、平和外交の礎を築けぬとは……首謀者はとんでもない奴だ」と言った。
しばしの沈黙が流れ、それを打ち破ったのは地下室の門番の声だった。
「アルディック公爵がお見えです」
硬い靴音を響かせて、アルディック公は安置室に入室した。
「皆様お揃いで。……ご挨拶申し上げます。シュナイゼル殿下」
狭い安置室を見渡し、シュナイゼルを見下ろすとわざとらしく腰を折った。
そしてそのまま棺に向かい、ユスティナの棺を覗き込んだ。
「姉さん」
アルディック公は棺の中のユスティナの両頬に、それぞれ頬を寄せ、キスをした。
「……一度にお二人を喪うとは。これほどの国難があろうか」
そうしてにやりと似つかわしくない笑みを浮かべ、軽妙な態度でベルケス公に迫った。
「話し合いは進んでる? 喪主は兄さんが務めるんだろ?」
「それは……」
「……おいおい。まさか、そこの殿下にやらせるっていうんじゃないよな? 昨日の今日で代理人に決まったのはいいけどさ。首相と兼役を気にするなら、喪主を優先すればいいだろう、兄さん」
ベルケス公の反応に聡く理解したアルディック公は肩を竦め、さらに続けた。
「おじい様方が納得するかね? まあいい。……葬列の順路は? 並び順は? 参列者が少ないんだから間隔は広いだろうな。ポニャトフスキは呼ぶんだろ、ん?」
「そのつもりだ。……あまり、ご迷惑をかけないように」
ベルケス公が釘を刺すように言い、アルディック公はそれを躱すように受け流す。二人のやり取りは闘牛場の牛とマタドールに似ていた。
「迷惑? 私がいつかけた? ……まあ、いい。寂しいのも可哀想だし。……人数かさ増ししとかないと、テレビ中継がスッカスカだぞ? ははは。我が国の問題は政治でも臣民の不満でもなく、王室の慢性的人員不足だ」
アルディック公は人差し指でシュナイゼルの肩を小突いた。
「頑張ってくれよ、皇子様。私を大叔父にしてくれ」
「サロニア公!」
我慢の限界か、ベルケス公はアルディック公の肩を掴み安置室の入口に追いやった。
「嫌だなあ。……それで、ティラナは? 起き上がれないんだって? 国葬にも出られないのは、大問題だ」
「……何が言いたい?」
「見舞いに行っても?」
ベルケス公は険しい表情で黙り込んだ。無言の拒絶だった。
「おいおい。なんだよ。かわいい姪の面会くらい出来るだろ。薄情者だな」
最後の挨拶だと、アルディック公は再び押し入り、棺の中のユスティナに顔を寄せた。
愛しているよ。姉さん――。
囁きは淡く、沈殿した冷気の中に染み込んでいく。琥珀の中に閉じ込められた化石のように、その言葉が耳に残り続けている。
a.t.b.二〇〇九 30th May
ブリタニア セントダーウィン 特別医療棟
アリエス宮での悲劇は、瞬く間にセントダーウィンと宮廷中に広まった。
捜査のためにブリタニアに滞在させていたカストラリアのドクターを招集し二カ国間協定に基づき、処置に加わるように依頼したものの、マリアンヌ皇妃は銃撃により即死。皇宮内にある特別医療棟では、ルルーシュの妹姫にあたるナナリーの処置にあたらせていた。
手の施しようのない出来事に皇宮内には厳重な箝口令が敷かれ、水を打ったように静まり返っていた。
通例では皇族は皇室専用の皇陵に埋葬される。数日以内に定められた手順に従い葬儀を執り行った後、皇陵へ埋葬する段取りとなっている。
喪主は長子が務めなければならないが、妹の状態が気掛かりでそれどころではない。
マリアンヌ皇妃の遺体の再生処置、防腐処理、化粧を施し終えたのを見届けたシュナイゼルは、廊下に出された長椅子に座って目を瞑り、九年前のことを思い出していた。
そこへ靴音が廊下の向こう側から迫ってきては、薄緑色の医療用ガウン姿のシュナイゼルの前で立ち止まった。
「兄上。マリアンヌ様のご実家に連絡がつきました」
「ああ、うん。葬儀は小規模で済むよう手配をしているよ。テロとあっては参列者も近親者のみになる。――マリアンヌ皇妃の出自を鑑みると――やっかみも多いだろうし、遺された二人の安全のことも考えなければね」
事実列挙に対し、コーネリアは暗く厳しい表情で俯いた。
「……私の責任です」
「コーネリア」
「しかし……ッ!」
「あの日は事前に皇妃から警護を引き上げるよう直々に命を受けている。それは確かだ。君は従っただけだ」
コーネリアは唇を引き結んだ。その顔はのっぺりと白く血色が悪い。
「眠れたかい。麗しい花の君に見送られるほうがマリアンヌ皇妃も嬉しいと思うよ?」
「こんな時にお戯れを」
「こんな時だからさ」
「兄上……、すみません……口さがないことを」
気が回らず――とコーネリアは言いたげに視線を逸らした。
九年前から他国を背負い、暗殺未遂で伏せている婚約者を抱えている。実情に詳しくない者からみればシュナイゼルは人より多くを背負って生きている。――多くの皇族はその点から彼に物申すことを殆どしなかった。ある者は、女王に成り代わって統治する王。ある者は、未婚のまま他国に縛りつけられている哀れな皇子。ある者は、愛する姫君を支える健気な皇子。――見方は多種多様。ブリタニアの国益を思いとった行動が、今日まで帝国の繁栄を下支えしているのは間違いない。
皇族――ひいては、シャルル帝の子供の中で誰よりも優れ、抜きん出た存在である。政略結婚は結婚という部分に重きを置けば未達成だが、シュナイゼルは十分に成果をあげている。エリア八の占領政策にも彼の立場と土壇場の裏交渉がなければ、融和的支配は実現しなかったことをコーネリアはよくよく理解していた。
カストラリアの信用を借りて実現する帝国の安寧。もし王女が健在であれば、ブリタニアの多くの堕落した貴族の有り様をみて呆れ返るだろう。
たった一日違いで早く生まれた優秀な兄、シュナイゼルはゴム手袋をはめた手でマスクを下げた。
「……喪主はどうしようか」
「ルルーシュは……」
「務まるかな?」
テロ事件を受けルルーシュは憔悴しきっており、予断を許さない状態のナナリーのそばを片時も離れないでいる。
まだ八歳の子供だ。
「マリアンヌ皇妃のご家族の中から代理で務めさせることも出来る。……ルルーシュ」
シュナイゼルはコーネリアの背後――廊下の遥か向こうからやってくる少年の名を呼んだ。ルルーシュは、はっとして、パタパタとシュナイゼルのもとに駆け寄った。
「シュナイゼル……兄さん……おか……母さんは……っ」
崩れ落ちたルルーシュは、シュナイゼルの膝に縋りはらはらと涙を流した。異母兄妹は顔を見合わせた。
「私が話をするよ、コーネリア。……君は休むか……難しそうなら参列者にご連絡を。埋葬までの段取りの確認を頼めるかな」
「わかりました。お気遣い感謝いたします、兄上」
コーネリアはマントを翻し、特別医療棟の長い廊下を去った。
その背を見届けて、シュナイゼルは手袋を外した手で、ぐずぐずと泣き崩れる少年の艷やかな黒髪を撫でた。――ルルーシュやナナリーの境遇はティラナに似ていた。彼女が運よく入れ替わらずにいれば、この少年のように涙に明け暮れていただろうか。
――もっとも、この少年に負うべき責任も地位も、国家的歴史も存在しないが。
君主制の法定推定相続人、生命科学の責任、宗教的首長。いなくては国家が成り立たない存在と、皇帝の五番目の妃、十一番目の皇子と十二番目の皇女では、いてもいなくても国家は滞りなく続いていく。明日いきなり国家体制の見直しを迫られるような状況にはなならないし、その発言力の強さも影響力も共通点は重ならない。
それでも、親を喪ったゆえの悲痛さ。嘆きを前に――あの日、見ることのなかった涙を彼は流していて、本当はそうしてあげたかったことをシュナイゼルは弟にしていた。
もしも、そうだったなら――一晩中手を握って慰め続けただろう。肉親を喪った彼女の家族は、血の繋がりのないシュナイゼルだけだ。親よりも長い時間を共に過ごすことになる相手。宗教上、一度婚姻してしまえば生涯離婚を許されることのない人であり、離婚したくば彼女の意思と国王至上法でなければ不可能である。
シュナイゼルは長椅子から腰を上げ、止まらない涙を腕で拭う少年の背を擦り、すぐそこにある霊安室のパネルに暗証番号を打った。
扉がスライドし、湿度と温度を下げた薄暗い部屋に入る。
室内の中央には白い木製の箱があり、脇のクロスのかかった長机には、マリアンヌに縁ある勲章や記念品など副葬品が並べ置かれている。
「顔をあげてごらん。……綺麗にしたから大丈夫だよ。ルルーシュ」
掛け声とともにルルーシュははっと顔を上げて、母親の棺のもとに走った。
「母さん、……母さん! 母さん……ッ、母さん……! 母さん……!」
涙が硬質な床の上に散った。
よく着ていたオレンジ色のドレスは血液の色が抜けず、ロイヤルブルーの正装に召し替えられた。
肉体の血は拭われ、内臓の損傷箇所は復元された。きれいに整えられた顔は静かに眠るだけで、そのうち起き出してきそうなほど穏やかな表情を浮かべている。
シュナイゼルは背伸びをして棺の中に身を乗り出すルルーシュから離れ、霊安室の入口付近に立つ、マリアンヌ付きの従者に話しかけた。
「ナナリーはどうだい」
「シュナイゼル殿下。……それが……下肢の神経の損傷が激しく……」
「うん」
「殿下のお力添えをいただけないかと、ルルーシュ様は」
密やかに従者は少年の代わりに願い出た。いつの間にか、カストラリアの先進医療技術の話を耳に入れていたのだろう。
シュナイゼルは一度、棺の中の母に愛惜のキスを贈るルルーシュの背中を見つめた。
「……復元と修復は可能ではあるよ。……だけれどね、それにはカストラリアから専門医を呼ぶ必要があることと――先進医療技術漏洩にあたるから、難しい話だね」
「そこをなんとか……なりませんでしょうか」
同情を誘う慎み深い声で主の想い訴えかける。だが、シュナイゼルにも立場がある。
「身内贔屓と捉えられては、失脚してしまうんだ。私は。心証的な問題ではなく、そういう誓約を交わしている。ブリタニアの国益にも係わることだよ」
ブリタニアに招聘するのにはリスクを伴うが、逆は不問だろう――と、シュナイゼルは提案を持ちかけた。
「――だが、カストラリアに来るなら対処は十分可能だよ。歩行機能の回復まで進めるかについては、子供の内なら間に合うはずだ。……問題は目の方だろうね」
「ええ。……精神的ショックによる心因性視覚障害だそうです。角膜、水晶体、網膜などに異常はみられません。女児に多い傾向があります」
「マリアンヌ皇妃の暗殺現場を目撃してしまったのだから、計り知れないショックを受けたのだろうね。光には反応する?」
「多少は」
「ふうむ。……私は医師ではないから。担当のドクターに相談し、紹介状を書いて持ってこさせなさい。取り次ぐよ」
「まことですか……!」
ゴム手袋を外しながらシュナイゼルは言った。
「ナナリーの体が長時間フライトに耐えられるようになれば、問題ないと思うよ」
皇宮内の空気は、誰が皇妃暗殺の首謀者か互いを疑い殺伐としている。
魔の手が彼女のふたりの子供に伸びる懸念もある。宮廷議会ではふたりの今後について日夜話し合われているが、決着はついていない。安全面を考慮しマリアンヌの実家で暮らすか、そのままアリエス宮に留まるか。皇妃の後ろ盾であるアッシュフォード家に引き取らせるかどうかも話にのぼった。
a.t.b.二〇〇九 30th May
ブリタニア 皇宮 宮廷議会室
宮廷議会室前の小ホールでは、参加者である貴族と枢密院関係者の廷臣が揃っていた。
従者の一人が、取次役で一人の老年の貴族を背にシュナイゼルの元へ進み出た。
「殿下。お忙しいところ申し訳ございません」
「ああ。全くだよ」
「ええ……」
従者は驚いて肩を揺らし、低姿勢で身を竦めた。
「はは。構わないよ。それで、どうしたんだい」
ちらと背後の男を見遣った。彼もまた頭を垂れ、絨毯の模様に視線が向いている。無理難題の要望が飛び出すのであろうと予想した。
「お口添えを賜りたく……」
「かような場で拝謁を許されましたこと、感謝申し上げます。シュナイゼル殿下」
貴族の正装でその男は一歩前へ出て緊張で肩が直角のまま、シュナイゼルに挨拶を述べた。
「あなたは?」
「ルーベン・K・アッシュフォードでございます。殿下」
「ガニメデ開発を手掛けていらっしゃる、アッシュフォードですね?」
初対面での要望として提案しづらいと重い口に、致し方なく会話の助け舟を出してやると、アッシュフォード家当主は顔をあげ、その表情はぱっと華やいだ。
「ええ! その通りでございます。さすがKMF方面にも明るいと存じておりましたが……」
「スポンサー探しなら、あいにく両手が塞がっていてね。……まずは要件を聞きましょう」
ルーベンは声を詰まらせ、一瞬黙った。
「僭越ながら。マリアンヌ皇妃の御子息と御息女であらせられる、ルルーシュ皇子殿下とナナリー皇女殿下のことにございます……」
それだけである程度の内容に得心がいったが、シュナイゼルは口を挟まず「続けてください」と促した。
「あ、はい。……非常に恐縮にございますが、おふたりの身柄を殿下の……カストラリア王国でお引き受け願えませんでしょうか」
「ふむ。……身元引受……つまり、暗に亡命を願い出ている」
「え、ええ」
アッシュフォード財団の開発したガニメデは、マリアンヌ皇妃の象徴的機体である。双方は一蓮托生の関係で、皇妃はガニメデのテストパイロットを務めていた。その彼女が没したことで後援貴族であるアッシュフォードにとっては大きな痛手となることは確実であった。
ブリタニア宮廷内に慈悲はない。強きものが挫かれ弱き者へ転落すれば、一敗地に塗れる。
アッシュフォード家にとって、このたった数日以内で将来の見通しが絶望的であると見通しが立ち、そのためにどうにか、策を打つためわざわざ宮廷へ馳せ参じたというあたりだろう。その先見的な視野の広さ。あのマリアンヌとの付き合いを行ってきた者であると、シュナイゼルは感服した。
アッシュフォードの長であるルーベンの、マリアンヌの遺児をカストラリアに亡命させれば、自然とアッシュフォードもブリタニアから脱してガニメデ開発の継続を望めるのではないか――という魂胆だろう。
シュナイゼルとて利はある。防衛力の抜本的強化において、ガニメデのアッシュフォードをカストラリアに置けば合法的に、ブリタニアとカストラリアの共同研究の強固なパイプ役となる。
KMF開発で先進的なのはブリタニアである。カストラリアへ直に配備すれば本来の永世中立国≠フ要件にある軍事同盟≠ 破ったことと見なされ、カストラリアがブリタニアの攻撃対象となるリスクを与える。表向き属領扱いでありながら、灰色の曖昧な状態を続けるには建前上両国間の共同研究≠ェ唯一の隠れ蓑であった。
カストラリアの医療リソースと先進的技術をナナリーに施し、兄妹を亡命させる見返りに、軍事テクノロジーの流用と供与。バランスは取れる。シュナイゼルの考える通りに事が進めば、カストラリアでの――とくに非公式外事局での評価は不動のものになるだろう。
シュナイゼルは瞳を細めた。
「……わかりました。口添えというからには、陛下への上申ですね?」
「はい。まことに……! いやはや、恐れ入ります。殿下」
ルーベンは安堵の息をついた。
貴族社交界で失墜を免れるかもしれない――期待は明らかに指先の震えにも表れていた。