◆ ◆ ◆
a.t.b.二〇〇六 September
帝立コルチェスター学院・講義本棟
教室内の会話。天井高くに迫る大きな窓が十三個も連なる大教室。教壇にほど近い窓辺に束柱を背にシュナイゼルは辞書を捲って同級生と談笑していた。唐突に訪れた静寂に誰も彼もの視線が入口に立っている――いまこの学院内に醜聞をもたらしている少年に集中する。奨学生には特別な黒のガウンの着用が義務付けられていたが彼はしていなかった。
シュナイゼルは辞書を閉じて暫しノエルを見つめた。――次はどんな規則違反で咎められるのか。周囲は固唾を呑んで見守る中、先に動いたのはシュナイゼルだった。
「すまないね」と人壁を割ってノエルの方に一直線に進む。同学年の少年達よりもすでに頭一つ抜けている彼は当然のように不良奨学生を見下ろし、不良奨学生は睨み返しているように人々の目に映った。
「おはよう。よく休めたかい」
「おかげさまで」
「それはよかった。靴は見つかったのかい」
「新調しました」
「バッジは?」
「それは諦めました」
「理事長に申請すれば再交付されるようにしてあるよ」
ふたりの簡単なやり取りをみな注意深く聞き入った。高額な演劇が上演されているように。次はどのような問題行動に出るのか期待の熱さえ孕んでいた。ノエルは早くそれを裏切りたくて一礼するとシュナイゼルの脇を通り過ぎた。
教室の最後列の席を取ろうと階段を上った。ブックバンドで縛った教科書と辞書。ノート類と二限の教科書と辞典とペンケースの入った鞄を抱え直して。
いざ最後列の適当な席に荷物を下ろすと、後をついてきていたシュナイゼルも同様に最後列に座ろうとしているのかノエルが着席を待っていた。
「なにか?」
「理由がないといけないのかい。……長身であるというのは、視界を妨げてしまうんだよ」
――なるほど。
ノエルは余計なことを考える前に納得した。余計な会話を増やしたくなかった。
「どうぞ、殿下お先に」
「いいや、好きな席に座って」
シュナイゼルはノエルを先に座らせ、その隣に詰めた。
――なんで真隣に……。
「話したいことがある」
「授業中は私語厳禁ですよ」
「……ふふ」
「は?」
「数々の規則違反と問題行動を起こしておきながら……君の台詞ではないな」
――……それはそうだ。
癪に障るほど正論だった。言い返すのも疲れると見切って高等戦略論のノートを開く。まっさらなページしかないがこうして何か手慰みになるような行動をとらなければこの男の隣で受ける九〇分の授業を乗り越えられそうになかった。
「予習はしてきたかい」
「おおよそは」
「プロスト教授の授業は進度が速い。テストの平均点は三二点、たった二回の穴であっても追いつくには大変だ。辞書を貸すよ」
「やけに……面倒見が良いんですね」
「監督生だからね」
シュナイゼルは人を虜にするであろう微笑みでノエルを見つめた。
――……この……いいや、堪えろ!
「君の方こそ、今日は大人しいじゃないか。心を入れ替えたのかい?」
――そんなわけあるはずがないだろ、このハリボテ野郎。
休養期間に編み出した対シュナイゼルの苦肉の策とは、怒りが湧き上がる前に胸中で罵っておくことだった。そしてさらに口内を僅かに甘噛みし衝動を逃がすことだった。
「私に構わないでください」
「無理な相談だな」
「では要件を手短に」
「長い話だよ」
「では放課後、代表室に伺えばよろしいですか?」
「それもいいね。残念だけれど本日は午後から忙しいんだ」
――くそ、ああ言えばこう言う。
握り拳を膝の上に作る。爪が掌にきつく食い込んだ。
教壇にはプロスト教授が上り出欠表を眺めていた。最後列で間髪入れずに私語を続ける声にぴくりと片眉を上げ注意を放った。
「そこ、……私語を慎むように。なんだ……見慣れない顔だと思えばノエル・アストリアスか。復帰早々騒ぎを起こさないようにしてくれたまえよ。ではそうだな――お手並み拝見だ。アストリアス、口頭試問といこうじゃないか」
教室中の空気がカチリと氷の中に閉じ込められたかのように固まった。
「――口頭試問……?」
「プロスト教授の質問に答えるだけでいい。授業の導入時によくやるんだ」
シュナイゼルは机の下で足首のところで持て余す脚を組んだ。プロスト教授の鋭い視線が『立て』と命じている。致し方ないと席を立ち教室全体を見据える。全員が彼に集中していた。プロスト教授は腕を組み、しばらく考えて良問を思いついたのかにやっと笑った。
「――では始める。……自軍が劣勢下で補給線が絶たれた場合、三日以内に戦局を逆転させる戦術を提示せよ。条件については……兵力比一対三、時季は冬季、山岳地帯にあるとする」
――なんだ。よかった簡単だ。
ノエルはもっと難題を問われるのかと身構えたが胸を撫で下ろした。
「……工作が常套手段ですね。これで覆します。まず降雪を利用した撹乱。――夜間に斜面上部で人口雪崩を起こし、敵の補給経路を遮断します。次に局地優勢を作るため、偽装退却で敵を峡谷に誘い込み、狭隘部で火力を集中させる。さらに敵指揮系統を分断させるため、先遣の軽装騎兵で通信・斥候部隊を優先的に捕獲する。三日以内であれば心理的優位を確保し、敵の撤退を誘発できます」
大教室にいるすべての者の視線がノエルを突き刺す。
プロスト教授は丸い眼鏡と口角を押し上げた。
「……ではアストリアス君。君の作戦は雪崩と狭隘地での迎撃に依存しているが、もし気温が急上昇して積雪が不安定になり、雪崩を起こせなかった場合はどうする?しかも敵はすでに偽装退却を見破っている。兵力比は一対三だ」
「雪崩が使えない場合は、山岳機動部隊を用いて補給線を直接叩きます。補給路の橋梁や燃料集積所に電磁雷管を仕掛け、敵が通過する際に遠隔起爆。狭路で敵の進軍を止め、その間に歩兵と第三世代KMFを用いて側面奇襲を行います」
「……では、峡谷封鎖の前に敵が偵察飛行艇を投入し、進軍経路を把握してきたら? 高度な航空兵器はないが、低空からの観測と小型爆弾投下は可能だ」
「峡谷手前に偽の陣地を構築し、観測気球や炊事用煙幕で熱源を増やします。本隊は熱源を遮断し、地形陰に退避。観測飛行艇は速度も高度も低いため、山稜線上に隠した小型投射機で迎撃可能です。仮に小型爆弾を投下されても、偽陣地への損害に留まります」
プロスト教授はくっくっと低く笑いながら続けた。
「……では作戦全体が失敗した場合、撤退の基準は?」
「歩兵戦力の半数、またはKMFの稼働率が四〇%を下回った時点で撤退。敵の進軍を三六時間以上遅延させれば、後方の山岳防衛線が完成します。勝つための戦略と同時に、負けた場合の撤退路も初めから設計すべきです」
ノエルが最後の解答を述べ終えた瞬間、教室の空気がひやりと揺れた。他の生徒たちは互いに目配せし、鼻で笑ったり、小声で皮肉を囁きあった。
プロスト教授はノエルに面白さを見出したのか教壇から前のめりになって声を弾ませた。
「……なるほどでは、外交的抑止策を一例挙げ、隣国への侵攻を防ぎつつ、国益を確保するにはどうする?」
ノエルは暫く考えて答えた。
昔、姫様の代わりに入れ替わって家庭教師の授業でも同様のことを学んだ。まさか経験が活かされる時が来るとは思ってもみなかったが。
「……隣国との経済依存度を意図的に高めます。保有技術や資源の一定共有化を進め、輸出入の停止が双方の損害となる状態を作る。軍事的圧力を匂わせるより、相互利益の枠組みで縛る方が長期的抑止力になります」
プロスト教授は小さく頷き、すぐさま次の質問を放つ。
「では兵站管理。補給線が脅かされる山岳地帯で三千規模の部隊を一ヶ月維持するには?」
「地熱発電と温泉網を利用し、拠点ごとの小規模生産拠点を兼ねさせます。輸送は全て多段階中継制にし、KMFや車両は補給地間で交代使用。燃料は化石燃料と電磁併用で冗長性を確保します」
もはやクラスの半数は既に理解を諦めていた。平均点三十二点の授業で、この密度の回答を即興で出すなど考えられない――といったムードだ。
ノエルの真隣で聞くシュナイゼルだけが、全てを追いながら軽く頬を緩めている。
プロスト教授は丸眼鏡の奥のヘーゼルの瞳をきらりと光らせた。シュナイゼルが面白そうにノエルを見つめているのに気づいたからだ。
「では――最後に。ブリタニア軍の欠点を指摘し、戦略的運営の改善案を述べよ。……第二皇子の御前で、答えられるか?」
生徒達ははっとして最後列の二人を振り返った。誰しもが、プロスト教授の意地の悪さを確信した。
その時、シュナイゼルが口を開いた。
「プロスト教授。我が国の軍事運営方法に異論を唱えるのは、間接的な批判ですか?」
口調は穏やかで、教室に仄かな笑いが広がる。
「……はぁ」
「ん? どうしたアストリアス。お手上げか? さすがに殿下の御前で失言を極めるのは懲り懲りか? 殿下は寛容な方であらせられる。現に君が処罰は下されていないように」
「帝国批判に繋がるため解答を却下します。それに時間が足りません。プロスト教授、本来の授業に対する妨害になりませんか?」
「……妨害ではない。これも授業形式の一つといえよう。では、殿下。当授業での発言に関して……寛大にご対応いただけますかな?」
「ええ。問題ありません。私も興味がある。……さあ、続けて」
「……ある程度考えつきますが……現状における主要な課題は四つに大別されます。第一に、貴族主義が色濃く残り、階層間の機動性が欠如していること。第二に、現場部隊への裁量権が乏しく、戦局変化への即応が困難であること。第三に、電磁技術への過度な依存により、補給拠点や兵站線が容易に予測・攪乱され得ること。そして第四に、占領地域における軍事的圧政が反発を助長している点です。加えて、今後KMFの高度化と運用拡大を図るのであれば、動力源がサクラダイトに一極依存している現状は、長期的脆弱性を孕みます。サクラダイトは常温超伝導を実現する稀有なレアメタルとして、その効率性は比類なきものですが、代替可能なエネルギー源の確立には、基礎研究の飛躍的進展が不可欠でしょう」
教室は水を打ったような静けさに包まれている。舌が回りすぎて喉の乾きも覚える。もはやいい加減にしてほしいと力なくノエルは窓の外の青を遠くに見つめた。
そのノエルの隣席で微かな震えと低く抑えた声が人々の関心を奪った。
体の揺れに連なり金色の髪の光沢が小刻みに波打った。
「ふ――はははは……!」
――この人って声をあげて笑うのか。
聴衆の胸中も一緒だった。第二皇子は「いや失礼」とひと言謝って教壇に立つプロスト教授に向き直った。
「あまりに的確で、なおかつ我が軍の急所をここまで鮮やかに並べ立てるとはね。……アーバンド伯爵が軍略方面に明るいとは恐れ入ったよ」
「……プロスト教授。そろそろ着席しても?」
「ああ。見事だったよアストリアス。――諸君も彼を見習うよりほかない。精進なさい」
教室は騒然としたまま授業に突入した。ノエルは席に座り脱力のあまり机に突伏した。シュナイゼルとは反対画の出入り口の方に顔を向けていた。
「辞書を枕代わりにするつもりかい」
「……あぁ……失礼しました」
ちょうどよい位置に辞書を置いて顔の下敷きにしてしまったのを詫びる。彼に辞書を返し、持ってきていたブックバンドで締められた教科書を右手だけで開く。糊がきいていてページを上手く開くことが出来ず、顎を押し当てメリメリと痕をつけていく。隣席の青年は粗雑な扱いに呆れるか顔でも顰めていることだろう。
「器用だね」
「……あんまり私語してると立たされますよ」
「私ではなく、君がね」
「……はぁ……」
腕時計を確認すると残り時間が八〇分もあった。
「この授業って出席数とテストが評価点でしたっけ」
「概ねそうだね。口頭試問はポイントが高い。プロスト教授は温情をかけてくださったと思うよ」
――今のが小テスト代わりということだろう。つまり、他の授業でも同様に小テスト≠ェ実施されるかもしれない。
ノエルは緩慢な動きで起き上がり、鞄に入れていた他教科の教科書を何冊か広げた。
◆ ◆ ◆
a.t.b.二〇〇六 September
帝立コルチェスター学院・第二講義棟
本棟の高等戦略論のプロスト教授はブリタニア帝国軍のアドバイザーとして関わる本物の軍略部門の顧問で、帝国士官学校と兼任していることは彼のプロフィールや授業シラバスを熟読していれば『その筋の人』であるのは間違いない肩書きの人物である。
そして学院内でもっとも有名人となってしまったアストリアス公爵嫡男・アーバンド伯爵ことノエル・アストリアスは療養から復帰後のこの初回授業も波乱の幕開けとなった。二限目の法学概論は講義本棟の最南端の大教室から真逆の北側に位置する第二講義棟の外れにあり、該当受講者はこの時間誰よりも駆け足で向かっていた。
彼はまったく無自覚で無頓着でもたもたと気怠げに一限目の教科書やノートを鞄に詰めて二限目の講義棟の在処などまったく関心外でいる。
ノエルはシュナイゼルの顔を見ないように少し視線を外しがちで顔を合わせるようになり、しかしそれまで反抗的だった発言・態度を顧みれば一触即発の大事故に発展するものではない――彼なりの術を身に着けたようだった。それには感心した。
「……なんですかまだ何か用が?」
「アストリアス君、次の授業の教室はここから七分かかるのを知っているのかな」
「……はぁ?」
「やっぱり知らなかったんだね。それじゃあ案内するよ。おいで」
「……待ってください殿下も同じ授業なんです……!? かっ……!?」
シュナイゼルは自分の持ち物を抱え、ノエルの肩を持ち廊下に出た。歩幅が合わず転びかけるノエルはバタバタと革靴を大理石の床を打ち鳴らした。「ちょっと殿下! ちゃんと歩けますって!」とジタバタと抵抗とともに叫ばれた声は教会のように高い天井に吸い込まれていく。廊下にたむろする他生徒は真っ二つに割れ一つのアーチのように直線的に続いた。
合流地点で他の教室から出てきた教官の影にシュナイゼルがピタリと立ち止まる。
「これはこれは殿下。……おお、君がアストリアスか。あのプロスト教授がスキップしながらやって来るもんだから驚いてしまったよ。先程の授業の口頭試問しっかり受け答えする生徒は殿下以来だといって喜んでいたよ。私も見てみたかったなあ」
「クロックス教官。すみませんが……次の授業がアーチ教授の法学概論なんです。……素晴らしい解答でしたよ彼は」
「おお……! 次は法学概論だって? アーチ教授も口頭試問が期待できそうだね。彼らはスパルタだ。……授業に伺っても?」
「ご自由に。さあ、行こうかアストリアス君」
ノエルは誰の目からみても引き攣った顔をしていた。彼の胸中はまさに嫌な予感が的中したと毒づいているに違いない。
一気に表情が曇り足取りの重くなったノエルを引き摺り、シュナイゼルは始業の予鈴までに第二講義棟の大教室へ入った。出欠表に名前を書き込み、最後列へ向かう。教室の壁には何人かの教官達が噂を聞きつけてきたのかひそひそと内緒話に興じていた。
「殿下。ごきげんよう。……そちらが例の……?」
「はい。彼がアストリアスです。ボーマンド教官。……挨拶しなさい」
「……どうも。アストリアスです」
ノエルは戸惑い混じりに渋々挨拶をした。
「……なんで、あれはなんなんです?」
「オーディエンスだよ。掛けて」
またもや最後列でシュナイゼルの真隣の席を促され、ノエルの体はカクッと機械仕掛け人形のように奇妙な動きを見せた。
教室に散らばっていた生徒がアーチ教授の入室にいそいそと席に着く。背後に集まった教官達はのべ八人。三十二人がどうして教官らが揃っているのかと口々に話し合っている。
「静粛に。本日はご観覧の教官方がいらっしゃる。ご承知おきを。――さてさて前回の復習を前に……今日は殿下のお隣は珍しく……話題の人物がいらっしゃいますな……? 教官方のお目当てとお察しします、ここは一つ口頭試問と参りましょうかね」
くすりとシュナイゼルが笑った。
ノエルは宙を仰ぎ見て椅子をだらしなく引いた。諦めの境地に達していた。
「ノエル・アストリアスです。アーチ教授。……お手柔らかにお願いします……」
「よろしい、アストリアス。この授業はまだ初回だと思うので今一度説明しよう。シラバスにあるよう私の授業は法学を取り扱う。帝国における法学、概念、法の機能と目的、体系、解釈と運用。そして法の歴史と思想をね。我が国は帝政であるから法は原則皇帝陛下の勅命と帝国法が最高法規である。これが基礎だよ。難しくて居眠りをするのも構わないが……隣には最高法規に準ずる御方が控えているから程々に」
ここで教室中に何人かの忍び笑いが重なり不気味なさざめきが生じた。
――……っち。
ノエルは面白くなさそうに内心舌打ちした。シュナイゼルは苦笑し頬杖をつきまさにこれから調理されようとしている少年を眺めた。
――クソが。覚えてろ……皇子。
なにか口汚く罵りたいが完膚なきまでに非の打ち所のない金髪碧眼の皇子を形容する言葉が思いつかなかった。それどころか、ショーウインドウの中にある新しい玩具を前にした少年のように期待に満ちた瞳がいつもより光を帯びている気がする。そうしてみると年相応の愛らしささえ感じるのだから、ぞわりと悪寒が走った。
――最高法規に睨まれた蛙だ……。
「では口頭試問を開始する。……初歩問題だ。属州で皇帝勅命と現地法が矛盾した場合、どちらが優先されるか?」
「……皇帝勅命です。帝国法の体系において、勅命はあらゆる法の上位に位置します」
「よろしい。話をよく聞いているね。続ける。中立的地位を持つ属州で、交戦国への物資輸送が発覚した場合、帝国法ではどのように扱われるか?」
「中立義務違反として、軍政下に移行し、輸送関係者は反逆罪または外患誘致罪で裁かれます」
「よろしい。地方貴族が帝国議会の決定を拒否した場合、法的措置は?」
「……皇帝令による領地剥奪または爵位停止。必要に応じて軍事介入が可能です」
「良好だ。……では、そうだな……せっかく殿下の御前であるので……なにかわかりやすいものを出題しようか。安心なさい。誤っていようともすぐに訂正していただけるぞ」
教室中に生徒と教官達の笑い声が広がる。
――早く終われ、早く終われ、早く質問しろ。
ノエルは堪えるように口内の肉を奥歯で噛んだ。
「……そうだな。……プライベートの話題で恐縮ですが皇族に関する法規も立派な帝国法の一部ですのでご了承を、第二皇子殿下」
「よろしいですよ」
「ではアストリアス、いやアーバンド伯爵。あなたは浮き名を流す御仁と聞き及んでおります。ここは公平に参りましょう」
つまり、シュナイゼル・エル・ブリタニアに対してもノエル・アストリアスに対しても人権的・社会的地位を無視したダーティな問いかけを行うぞという意味である。
「第一に皇族と貴族の法的性質と参りましょう。殿下は皇族、アーバンド伯爵は公爵家嫡男にあらせられます。教室には貴族外の身分の生徒も多数同席していますので、彼らの示しになるもの教育的見地からこれを問いに設定しお二人からご指南を賜りたいと存じます。――ではアーバンド伯爵、第一に皇族と貴族とは何でしょう?」
「基本原則について……ですね?」
「いかにも」
「……皇族と貴族。まず皇族から。皇族は帝国法において治世の君主の子女のこと。貴族とは君主外戚また傍流の血統を保持し維持する者・家とします。そしてこの皇族と貴族とは帝国法の第一原則は、その地位と特権に伴う公的義務を負う。義務は平時・戦時問わず履行されるべきものとされ、怠れば爵位剥奪・財産の没収などの制裁が課せられる……」
「殿下、相違ございませんか」
「相違ないよ」
気分良くアーチ教授は鼻を鳴らした。
「よろしい。では次に軍役義務について……」
――まだ続くのか。
飽きが来たノエルは目を細め前方の生徒達を見下ろした。彼らはどうやら一限目の生徒達よりも熱心なのか聞き入る者、ノートに書き写す者、辞書を開き一言一句確認する者と異なる特色の表れに性根が真面目な分付き合ってやろうという気分にさせた。
そこから三つ四つ、最低限の原則を説き終わった後、前の生徒が欠伸を噛み殺した、
「そろそろ飽きてくる者もいる頃だ……さてお遊びといきましょう。アーバンド伯爵。ブリタニアにおける貴族間婚姻に関する法のうち、重婚の可否について述べたまえ」
アーチ教授はウインクをすると、教室の壁で立ち見をする教官の何人かが吹き出した。社交界におけるノエル・アストリアスはかなり遊び人のようだ。『わたし』はこの少年の成り代わりをさせられているのをこの時初めて恨んだ。
「……帝国民法典第百十二条において、帝国内での重婚は原則禁止とされています。ただし皇帝勅許、もしくは戦略的同盟のための特例条項に基づく場合は、その限りではありません。もっとも、特例が認められるのは国家間条約や領地統合に資する場合のみで、私的情愛を理由にすることはありません」
「つまり、貴族であっても重婚は容易には認められぬと?」
「はい。爵位と領地は責務であり、遊興のための婚姻乱用は家門の威信を損ねます。むしろ複数の婚姻は、その家が背負う義務を幾重にも増すだけのこと。……本来、誓いは一度で足りるはずです。」
ノエルの解答に教室が俄にざわつきだす。誰かが「妙に高潔なこと言うな……」と呟いた。するとシュナイゼルが顔を逸らし何度か肩を震わせてノエルに問うた。
「それは我が皇族にも向けられた言葉かい?」
「皇族は貴族以下の婚姻制度と異なります」
「ああ。皇帝陛下には皇妃が数多いらっしゃる。私はそのうちの一人の女性の息子だ。皇族は婚姻においてのみ帝国法ではなく皇室法に従うことになっているよ。よって適用外だ」
教室の前列に座る生徒が挙手しアーチ教授の許しを貰って起立した。
「第二皇子殿下の場合、すでに外国王室との王室婚約がございますが、これは重婚の可否にどう影響すると思いますか?」
『わたし』は考え込んだ。かつて王室法顧問が姫様に教え込んでいるのを聞いていた記憶を手繰り寄せた。
「影響しません。殿下の場合は王朝間婚約であり、これは国家間の合意に基づく“条約”に準じます。従って、相手国の王室法の範囲内で複数婚姻も可能です」
「……ふふ。さすがだな、私の婚約契約条項まで知っているとは」
シュナイゼルは机に両肘をついて手を組んだ。
また別の生徒が挙手しノエルに追加の質問を投げかけた。なんとか鼻を明かしたい様子だった。
「王朝婚約には法律・外交的な立場の呼称は三つあります。複数の性質についての解説を……」
「私が解説しましょう」
シュナイゼルが組んでいた長い脚を解いて立ち上がった。質問した生徒は驚いて上ずった声を発し着席した。
「私には周知の事実として婚約者がいます。先約とは性質を指し今登場した条約に基づき正式な婚約契約があるということ。その破棄には法的・外交的手続きを含め、双方の同意が必要となります。続いて二つ目に継続婚約の性質、これはたとえ戦争や政変があっても破棄されない限り継続します。三つ目は相互承認婚約といって……両国の政府・王室双方が正式に承認した婚約であり、国際条約扱いとなります。この場合、個人の意思だけで解消できず、国家間の協議が必要になります。条約破棄に及んだ場合には賠償や同盟関係の破棄に直結する可能性がある……」
淀みなく正確にシュナイゼルは自身の婚約条件について説明した。さすがに『わたし』とて全てを知っていたわけではないため内心驚いていた。
「殿下はその三つの性質を持つ条約を兼ねた婚姻契約を締結している――ということでしょうか」
ノエルの確認にシュナイゼルはちらと彼を一瞥した。
「いかにも。……三十三回もサインを書いたよ。私の婚姻成立時には皇位継承権順位から抹消され、兄妹達の順位が繰り上がりになる」
――……そういえば署名式も代理で何度も入れ替わった。姫様は緊張すると震えて何度も書き損じるといって泣きべそをかいていた。