日本






 a.t.b.二〇一〇 10th August
 日本・河口湖


 別荘の邸宅の離れは、神社の境内にある土蔵よりもずっと快適だった。
 湿気のある熱が捌け、涼風が湖を越えて吹き渡り、朝晩はカーディガンを羽織らないと鼻水が出るほどだ。なによりも、土蔵のように小さく縮こまっていなければいけないわけではない。
 日本にきて待遇の酷さに嫌な思いをすることも多々あったが、河口湖擁する五大湖周辺での十日間は幸せの絶頂期であったのかもしれない。
 クリスタルの置き時計がキャビネットの上で秒針を刻んでいる。時刻は十時過ぎである。ナナリーは朝食を摂ったあと眠ってしまった。その日は午後から釣りの約束をしていた。
 「ルルーシュ!」
 スザクが広い庭先から土足厳禁であるにもかかわらず、ズカズカとリビングルームに上がってきた。
 呼吸は乱れ、滝に打たれたような汗をかいている。
 「やあ。スザク。……ひどい汗だ。なにか飲むかい?」
 ルルーシュは冷蔵庫に入っている富士山の天然水のペットボトルを思い出して、立ち上がった。
 スザクが掠れた声で怒鳴り、爪が食い込むほどの強い力でルルーシュの細い方を掴んだ。
 「そんな呑気なこと、してる場合じゃない!」
 「な、おい、痛っ、急に掴むなって! ナナリーが……!」
 隣室ではナナリーが眠っている。盲目になってから、彼女はいつの間にか眠っていることが増えた。彼がルルーシュをどこかへ連れ立つならナナリーに一言いってからでなければ。強い不安から夜泣きすることもある妹だ。ルルーシュの焦りとは裏腹にスザクの掌は熱く汗ばみ、その握力は強く、抵抗しようもなくルルーシュは離れから外の世界へと引っ張り出されていった。

 それは唐突だった。
 いつだって運命を変えることは無防備なとき、用意なくやってくる。
 その日はなにかいつもと違う音が風に混ざっていると、ルルーシュはスザクの後ろを追いかけながら思っていた。
 空に重い音が這っている。飛行機が頭上を飛んでいる時に耳にする音。それが一機ではないだろうということ。
 ――そんな、ばかな。
 嫌な予感がした。白いシャツの背中はスザクを笑っていられないほど、湿り気を帯びて皮膚に貼り付いている。
 邸宅から蛇行する道を駆け下り、コテージの合間を、蝉時雨の雑木林の間を潜り、用水路、畦道――住宅地を走り抜け、向日葵の植わった眼の前に小高い崖が現れた。
 普段から屋外で遊び慣れたスザクは、崖上を易々と登り切るが、ルルーシュの弱々しい脚力では高みを踏み越えるには今ひとつである。スザクは友人を引き上げるために手を差し伸べ、ルルーシュも友人の手を握った。
 向日葵畑を登りきった時、世界から音が消えたような錯覚に陥った。
 ルルーシュは直面した現実に際して、次第に、己の呼吸音も忘れていった。
 ブリタニア軍の大型輸送機の大群が、国際的に重要な鉱床を秘める不死の山。爽快な水色と白峰――富士山を越えて、すぐそこへ迫ってきていた。
 
 世界の三分の一を支配する神聖ブリタニア帝国は、極東の島国・日本に対し武力侵攻を開始した。
 二〇一〇年――サクラダイトの配分でブリタニア、中華連邦、E.U.の三大国のパワーバランスに影響を与えていた日本は、外交的には中立の立場を表明していた。国際情勢的には一種不可侵な存在であった。
 仮に武力で日本を支配すれば全世界を敵に回すことになり、世界大戦の引き金となりかねない。それよりは緩衝地域的な役割をもたせ、独立を維持させた方が支障がないという考え方が当時の国際情勢では主流であった。
 だが、しかし――その常識を打ち破ったのが、覇権国家主義を全面に押し出していた神聖ブリタニア帝国第九八代皇帝、シャルル・ジ・ブリタニアである。――日本に留学の名目で皇子皇女を人質にしていたうえでの、ブリタニアによる電撃的侵攻であった。




 a.t.b.二〇〇九 July
 日本・京都 


 枢木家に招集されたのは初夏のことだった。
 日本の空港は、海産物からとる出汁と大豆を原料とするソイソースの香りがする。
 羽田の国際線から陸路で京都へ。富士山の鉱床から採掘される国際商品である高温超伝導体――サクラダイトにより実現するリニア新幹線で、東京から京都までは六十七分で着く。
 サクラダイトは名前の通り、日本の国花の名ををいただく鉱石資源なだけあり世界最大の産出地である。国際シェア率が高く、その多くが先進的電子技術に必要不可欠な動力源であり、他の資源や産業が少ない日本にとって、サクラダイトは強国相手の強力な切り札だった。
 神の与えた恵み――富士山は古より不死の山と呼ばれているが、日本人を永久的に不滅のものとする恩恵を授けている。
 車窓からものの数分で過ぎる極東の麗峰を眺め――はるか遠い祖先に思いを馳せた。
 移民局の申請は一週間ほどで渡航の認可処理を受け、無事カストラリアから日本へ飛ぶことができた。


 リダニウム国際空港のカウンターに人影は少ない。
 今どきオンライン以外で搭乗手続きをするのは、急ぎの人間か、移民だけだ。
 ID入りの身分証とパスポートを提示し、機械に読み込ませる。ものの数秒の読み取りで完了し、カウンター内でスタッフが目視で渡航可能な人物かを確認している。
 ――『ご利用いただきありがとうございます。渡航目的は?』
 グランドスタッフが愛想よく微笑みかけ、出入国審査のような質問をする。
 ――『日本へ。……観光です。夏季休暇です』
 ――『夏季休暇でございますか。観光はどちらへ?』
 ――『京都へ行ってから、静岡へ』
 ――『関西空港着の便に変更可能ですが……』
 ――『ああ。これでいいんです。これで。関西よりも、羽田の方が早く着く。偏西風の影響がありますからね。追い風で早いんです』
 ――『……あぁ、すみません! お急ぎでございましたか。失礼いたしました』
 ――『休暇が移動時間に割かれるのは、勿体ないですからね』
 ――『そうですね。それではよい休暇を』
 ―ー『ありがとう』
 挨拶を終え、搭乗手続きの次は、保安検査と出国審査がある。
 これも自動化ゲートを通過することは出来ない。保安検査場を過ぎ、すいすいと大型荷物を運ぶレーンのようにゲートを何食わぬ顔で通り抜けていく人々を尻目に、出国審査のカウンターを目指す。なんて億劫な時間だろうか。

 森下・カズキ・ダミアン。――またの名を、ダミアン・カズキ・モリシャルト。
 カストラリア王国における移民。 帰化三世の名前である。カストラリアは、その歴史から長年、移民を受け容れてきた国の一つだった。
 しかし、ここ数十年で反移民政策に切り替わり、帰化要件の難易度が格段に跳ね上がった。
 最低居住歴は十年以上。もしくは永住権を持ち、継続的な就労実績を持つこと。公用語の言語――カストラリア語、英語、フランス語、ドイツ語。いずれかの話者であること、二重国籍でないこと、犯罪経歴がないこと。
 陸軍に所属するダミアンには渡航申請ではこのようにハンデを受ける。他国へ渡航する場合、渡航日の直前に移民局へ行き申請を行う必要があった。犯罪防止の観点から、機密情報や武器を取り扱う職業であり、その横流しを防ぐためである。

 「おかえりなさいませ」
 「こんにちは。暑くなってきましたね」
 使用人の男が表立ち、ダミアンを迎え入れた。
 日本の夏は恐ろしく湿度が高く、蒸し器の中に閉じ込められたかのように暑い。特に熱気の逃げ場のない盆地では。皮膚がふやけそうだと思いながら首にかけたタオルで汗を拭った。
 武家屋敷を取り囲む竹林の中は、真っ昼間だというのに光と外界を遮り、静寂な別世界を作り出している。正門を潜り真っ直ぐ一本道。風が吹けばハラハラと空から笹の葉が舞い落ちて、石畳の上を緑で彩る。
 内門前には出迎えはいなかったが、期待していたというわけでもなかった。
 「それでは。私はこれで」
 「ありがとうございます」
 使用人の男が頭を下げ柔らかな声で別れを言った。ダミアンはボストンバッグを玄関先に置くか迷い、中庭の方からする話し声に惹かれるように玄関を出て回り込んだ。
 長い裾のワンピースを着た若い女と少女が、中庭でビニールプールを膨らませてボールすくいをしている。
 「あっ。ダミアン! ダミアンやないの」
 ダミアンの訪れに気づいたのは、若い女の方――桐原玲子といった。
 「玲子さん。お久しぶりです」
 「なんやぁ。堅いなぁ。あんなに人懐っこい子ぉやったのに」
 「だいぶ昔の話ですよ。二十年くらい」
 縁側にボストンバッグを置き、凝り固まった筋肉を解すために伸びをする。
 玲子の足元のビニールプールではしゃがみこんで、熱心にポイでボールを掬っていた少女が顔を一瞬上げた。ダミアンは邪魔しないように、先に大叔父である桐原泰三の所在について尋ねた。
 「大叔父様は?」
 「おじい様なら、今日は打ち合わせで嵯峨野に行ってはります。お車呼びましょか」
 「いやいや。こちらで待たせてもらいます」
 「ほな。なんか持ってこさせるわ」
 「ありがとう。あ、これ、お土産」
 「そんなん気ぃ遣わんでええのに……」
 羽田の土産物売り場で買った菓子だ。カストラリアからの土産は手荷物検査が長引くため持ってこなかった。
 玲子は包装紙に包まれた土産の箱を受け取り、縁側に上がった。
 数代前、旧財閥家の桐原家からカストラリアに渡った者の子孫。
 サクラダイト採掘における技術アドバイザーとして現地就労し、国家貢献が認められそのまま現地の女性と結婚した。
 ダミアンはその孫で、直系子孫の玲子とははとこ≠ニいうことになる。
 女中にお茶の用意を頼むと「それにしても」と玲子はダミアンをじっくりと眺め回しては、にやりと笑った。
 「ん?」
 「ほんま、たまにしか帰ってきはらへんのに、日本語が上手なこと!」
 「……下手ですか?」
 「あんなあ、そんな真に受けんといて! ほんまに上手や言うてるん」
 「あはは。玲子さんほどでは」
 「今どき、こないな言葉使わはるの、この辺のお人らだけやわ。井の中の蛙大海を知らず≠「うてな、お外に出た時、こっちが恥ずかしゅうなるわ。うちのおじいさんかて、もうこないな古い言葉使わはらへんのに……」
 態とらしく品を作って玲子は訛り≠強調した。
 彼女は生まれも育ちもこの場所にある。総領姫である皇家の姫ほどではないが、大切に護られ育てられる。
 「……ダミアンが羨ましいわ。今度結婚するゆうて、そっちの方から連絡来たんやけど、ほんまの話?」
 玲子はダミアンの瞳を覗き込んだ。
 そっちとは両親からだろう。傍流は本家よりも制約が殆どなく、とくに外国に移った場合この限りではない。玲子が羨ましがるのは無理もない。京都六家の一角。一生を家に縛られて生きる。
 彼女の眼差しに本音が見え隠れする。恋愛結婚などとは無縁の世界。立場とそれまで慣れ親しんだ生き方を保証されるには、役立たなければならないことを玲子は理解している。彼女の前でダミアンの自由≠ネ実情を明かすことは刺激物だろう。 
 「……もう? 噂は恐いなあ」
 「ほんまなんや。ダミアン、エエ年やもんなぁ。階級なんぼになったん」
 玲子は僅かに肩を落とした。
 「軍曹」
 「ほお〜それ、すごいん?」
 「平均的じゃないかな」
 「国によって軍の階級はちゃうし、ようわからへんわ」
 ダミアンは苦笑した。
 尋ねておきながらこの返し。その年齢にして、自由恋愛で結婚。男だから許されてる≠羨ましいと思っているのが彼女の本心である。
 彼女はダミアンよりさほど年齢が変わらないが、だからこそだろう。
 「ええなぁ。……うちは行き遅れや噂されてるわ。皇ほどでもないし、かってそんなそんじょそこらの会社員の男捕まえるのも反対されるんも目に見えてるし……」
 「……あぁ、うん。相談に乗ろうか?」
 「いけずやろ? こんなんやから愛想尽かされたんやわ」
 ダミアンは内心困り果てた。年の近いはとこ。玲子はダミアンの近況を知るまで安心していたに違いない。だが、自身の立場を思い出し、いい雰囲気になっていた相手に結婚の話をちらつかせたのかもしれない。そして終わりを迎えた。その相手は家が納得しないであろう立場だったことは、火を見るより明らかだ。
 「見合いは受けてる?」
 「嫌やわ。しょうもない……」
 彼女を外に連れ出す白馬の王子様は平民の中にはいないだろう。なにせ、逃避のための恋愛結婚など上手く行きようがない。相手の男が破滅するか、現実を知りお手つきになった玲子が実家に戻るかだ。それはそれで惨めな将来となる。
 「なあ。おじい様に会うたら、言っといて。このまま縁談の話ばっかし寄せるんやったらここ出てくさかい……」
 「……ははは。思い切ったね……ダメ元でよければ……」
 「お頼み申します」
 ビニールプールのボールすくいに没頭していた綾子が勢いよく立ち上がった。
 手にあるボウルには掬ったボールが山盛りだ。
 「ダミアン! 見てみて! ポイ一本で全部掬えたの!」
 「ええ、すごい! どうやったの」
 「知りたい〜?」
 綾子は玲子より二十も離れた妹である。
 得意げな綾子からポイを動かす時にコツがあるといってレクチャーを受けている最中、ぽつりと「おねえちゃん失恋してん」とダミアンの耳元で綾子が説明した。
 「なんか、わかれさせやにあたった、って」
 「綾子ちゃん……」
 別れさせ屋だ。工作員によって恋人や夫婦の関係を引き裂くことをいう。
 縁側に腰掛け、しばし思索にふけっていた玲子だったが内緒話は筒抜けなのか「綾子ちゃん、軍曹ってどれくらいエラいのんやろ?」と話題を蒸し返した。
 「グンソー?」
 「あはは。アカンわ……ミリオタやったら詳しいんやろなぁ。所属は言うてええの?」
 「ざっくり、輸送部隊だよ。物資や、武器や、電力輸送とか、作戦に必要なものを計画して運搬する」
 組んだ脚の上で玲子は頬杖をついた。
 「ほーん……エラいなぁ」
 またもや彼女の言葉には裏があるような気がしたが、ダミアンにいい感情を向けられているわけではないだろう。
 大した階級でもないのに、好きな人と結婚できて≠ニ玲子の墨色の瞳が物語っている。下士官にあたる軍曹は全体の階級で見れば低いが現場では中堅相当である。現場の駆動力として重要なコアを担うが、縁のない者には理解が難しいだろう。
 「ほんで、今回はなんで日本に?」
 「静岡の方に呼ばれたんだよ」
 「静岡……というと、枢木のほう? またなんで?」
 「ああ、まあ……それは……」
 ダミアンは言い淀んだ。
 「あんた、揺すられてへんやろな? 今そういうのしたら、懲戒解雇なんやろ? そんなことしたらあかん。うちから口利きしたろか?」
 「いやいやいや! 玲子さんにそんな」
 軍の階級には疎いくせに、密談≠ノは敏感だ。桐原家の血筋というものだろう。実際、枢木の家が招集するときは玲子の想像するように、それとなく情勢への意見を求められる。日本とカストラリアは同じ中立国。地理的に中華連邦にも近く、現在の国家元首が摂政となっているブリタニア皇室出身者ならば外政を含めた動向の事細かな情報を得られるはずだ――という魂胆だ。
 しかし、ダミアンは現場の軍人であり士官以上の情報にアクセス出来るわけがない。――普通の軍人であれば。
 その時、着物姿の女中がダミアンを呼びにやってきた。
 「お車、やっぱし呼んどきました」
 渡りに舟である。
 ダミアンは重いボストンバッグを肩に掛けた。
 「さっさと飲み、お茶!」
 一旦動き出した足で元に戻った。縁側に出された盆に乗せられたコップを手にし、よく冷えた緑茶を胃に流し込んだ。
 「ごちそうさま。ごめんね。騒がしくて。……それじゃ!」
 来た道を引き返し、竹林の一本道を走り抜ける。
 正門前には女中の言うように、一台の黒光りするハイヤーが横付けされていた。
 ダミアンは汗を拭い、後部座席に乗り込み行き先を伝えた。
 「ありがとうございます。……嵯峨野の京閣園まで」
 車内はよく冷えている。居心地の悪い熱を取り払うのにはちょうどよかった。




 a.t.b.二〇〇九 July
 日本・静岡 枢木神社


 枢木神社訪問は一年ぶりだった。
 昨春ぶりに登る長い階段も、登り切った先の鳥居の足元から振り返って、見渡せる駿河湾の景色も変わりない。せいぜい周囲の木々の生い茂り方くらいのものだ。
 荷物を足元に置いて、海から吹く潮風を体全身で受け止める。カモメとウミネコの鳴き声。晴天に恵まれた日。真っ青な海には、漁を終え戻ってきた白い船がちらほら見える。カストラリアのリダニウムには山ばかりで海が無いというのに、ひどく懐かしさを覚える。
 ――不思議だ。
 挨拶を済ませたら漁港に行って海鮮丼を食べようと決心し、荷物を背負い直して境内に足を踏み入れた。
 授与所、社務所を抜け、まずは手水舎で両手口を清め本殿を詣でる。神社内に人気はなく、蝉の音、鳥の囀りと手水舎でちょろちょろと湧き出す水の音が心地よく響く。
 ふと、奥に見える土蔵の扉が開いていることに気づいた。
 あえて開放している――とも思ったが、野良猫や野良犬、そのほかの動物が入り込んでしまうこともある。なんとなしに近づくと暗い中で人影がささっと動いた。
 「誰だッ!」
 変声期前の鋭い高音が、森閑とした敷地内の空気を切り裂く。
 自然と一歩、二歩と迫っていた。少年は土蔵前に出て立ちはだかった。きめ細やかな色白の肌。艶のある黒髪は、襟足でぱつっと一直線に切り揃えられている。大きく深い色のアメジストの瞳。彫りの深い顔つき。年頃は十歳前後。体の線は細くしなやかで、清潔感のあるホワイトの開襟のシャツにサスペンダー付きのズボンを履いている。姿勢はしゃんと伸び良家の子供の佇まいである。
 そして、日本人ではない。少年は先程、英語で叫んだばかりだ。
 ――枢木家には、こんな子供はいない。
 ダミアンはゆっくりと、少年に近寄った。近づくにつれ、少年の意志の強そうな瞳がぎらついているが、その小さな体が小刻みに震えているのがわかった。サバンナの猛獣かと思いきや、ヤマアラシなのかもしれない。
 ――紫水晶の瞳。
 二メートルほどの距離に迫ったとき、その瞳の色についてダミアンは既視感を覚えた。
 紫系統の虹彩の色は稀で、主に高貴な血筋を意味する。世界においてその紫の瞳の身体的特徴を持つ一族はブリタニア皇家であるが、近年隆盛期を迎えるブリタニア帝国で皇家に近しい子供は数多いる。
 国際報道では、ブリタニアから友好親善のための留学で、第十一皇子と第十二皇女が日本に渡ったと先日報じられていた。つまり、少年はブリタニアの皇子である。そしてこの神社は日本の中枢を担う一族であり、現政権の首相、枢木玄武の生家――枢木家の敷地内である。引受先としては文句無しの家であるが、土蔵暮らしとは驚いた。
 ――そうか。中には、妹がいるのか。
 なぜ少年が隠れずに土蔵の前に出て来るのか、それはもう一人妹の皇女がいるからだろう。少女は一月前、兄妹の住む宮殿でテロの銃撃があり母親の皇妃を亡くしている。その際、皇女は足を負傷し車椅子に乗るようになった。
 ダミアンは治療ならば、日本ではなくカストラリアで十分行えると思ったが、政治とは、均衡を維持しつつも利益を獲得する損得シーソーゲームであり、国家間であれば国益を優先する。そこにいち軍人の意見など介入する余地があろうものか。
 どうしていいか迷い、ダミアンはもう一歩足を振り出した時だった。
 「……君は……」
 「それ以上、近づくな……ッ!」
 少年は威嚇した。
 ダミアンは密かに周囲を確認した。兄妹の土蔵を囲むのは生い茂る木々と、さらにもう少し奥まったところにある枢木家の屋敷くらいのものだが――取り囲む木の陰に人影が立っている。それはもはや木の一部であるとしか思えないほど微動だにせず、沈黙を守り、地蔵のようにじっとこちらのやり取りを窺っている。
 枢木ゲンブのつけたSPの影はあるが、どうやら形式だけのようだ。
 なぜなら、軍人であるダミアンが不用意に土蔵に――守護すべき対象である兄妹ふたりのいるところに接近しても手を出さないでいるのだから。
 ダミアンは荷物を地面に置いて、両手を挙げた。
 「ごめん。驚かせて。……なにもしないから、落ち着いてほしい」
 少年の警戒心は解けないが、向こうもダミアンが日本人でないことに気づいたようだった。そして、英語が自然と通じる相手に安堵しているようでもあった。
 「お前……ブリタニア人?」
 ダミアンの容姿は無難な茶髪にブラウンアイだが、顔つきや体つきはアジア人にしては彫りが深く大柄である。
 「僕はカストラリア人だよ」
 「カストラリア人? どうしてカストラリア人がここにいるんだ?」
 「用事があって、枢木家に来たんだ」
 「お前も、クルルギの仲間なのか!?」
 彼の昂りは枢木に対して向けられているのか、日本人に対して向けられているのか判別不可能だ。
 「仲間? という程でも。……ただ話すだけだよ」
 ダミアンはそう言って、その場に屈み、荷物の中から土産用に買っていたものをビニール袋に移し替えた。
 「そうだ。これ、よかったら飲む? 差し入れで持ってきたんだけど数が多いから。山梨の桃ジュース。あとは八ツ橋」
 「え? ……あっち行け!」
 一瞬意表を突かれた少年は目を丸めたが、懐柔を拒むように跳ね除けた。
 ダミアンは小さく笑い、土産入りの袋を土蔵の脇に置いた。
 「ここに置いておくね。……温くなると美味しくないから、早めに飲むのがおすすめ。それじゃあね」
 それ以上は余計に刺激するだけだろう。引き際を心得てダミアンは荷物を持ち直すと枢木家の方へ進んだ。
 
 黒髪の少年――ルルーシュは、その無駄のない動きをする男が背を向け、姿が見えなくなるまで睨みつけていた。
 体全体が強張り、緊張ゆえに呼吸は浅く、嫌な汗をかいた。オンボロの土蔵にやってくる人間は少ない。ここは枢木神社ではあるが、枢木家の敷地内であり、参拝者は境内の方で事足りる。元々宝物殿をおさめる倉庫の役割を果たしていたようだが、だとすると枢木家以外の人間にはもっと無関係だ。
 だから、関心を向けて近づいてくる人間がいれば悪い企みを持っているか、この蔵の住人の事情を知りながら危害を与える人間だと思うのは当然だろう。
 熱したルルーシュの緊張を解いたのは時間の経過ではなく、その背後の柱の後ろから、兄と見ず知らずの者のやり取りを窺っていた妹の声だった。
 「お兄さま。怒っていらっしゃるのですか?」
 ルルーシュの意識が現実へ引き戻され、ナナリーの方を振り返り、何度か周囲を確認してから土蔵の中に戻った。
 土蔵の扉を閉め切ると中の光源が少なく、内側が暗くなるうえ埃っぽいから、開けっ放しにせざるを得ない。畳上に敷かれた布団から起き上がったナナリーの目の前に跪き、その丸い額に手をあてた。綺麗なアッシュブロンドの細い毛が汗に濡れ、繊細な肌に貼りついている。
 「あ、ああ……ナナリー、ごめん。大きな声を出したりして。……熱は……まだ少しある。ゆっくり寝てていいんだ」
 「どなたが、いらっしゃったのです? ブリタニア……って? 英語でお話しされていましたよね」
 「違うんだ。僕が勘違いしただけで。勝手に……。……あっちはカストラリア人だって」
 ナナリーは小さく首を傾げた。
 「カストラリア?」
 「うん」
 「シュナイゼルお兄さまのいらっしゃるところ?」
 「……あ、ああ。……そうだよ。……カストラリアは日本とも仲が悪くないみたいだ。……枢木に用事があるって言ってた」
 ルルーシュの声には力がなく、どんどん萎んでいった。
 カストラリア――その国名を耳にするだけで、苦々しくも、辛い、裏切りの味を思い出す。
 「もしかしたら……」
 ナナリーの脚の治療にシュナイゼルは前向きな回答をしたとアリエスの従者から聞いていた。それにシャルルにも具申を行ったとも。――それでありながら、カストラリアではなく日本へ渡ることになってしまった。
 表向きは留学だが、実際のところ人質扱いだ。
 シュナイゼルは愚鈍ではないし、その意味を測り幼い兄妹を憐れんで、カストラリアから手を回してくれるのではないか。
 ルルーシュが淡い期待だと自覚しながらも願ってしまうのは、シュナイゼルが似た境遇と経験をしているはずだと――思っているからである。政略で他国へ渡った経験。シャルル帝の子供の中ではシュナイゼルだけの固有の経験だったが、ルルーシュとナナリーも相成った。
 ぽつりと降ってきた雫を頬で受けて、ルルーシュは眉を顰めた。
 いくら人質といえど皇子と皇女が政略として日本に渡り、神社の敷地内にある、埃が舞い、雨漏りのする古い粗末な土蔵暮らしだなんて、あっていい待遇ではないはずだ。
 この実情をシュナイゼルが知ったら――。
 ルルーシュは少なからずとも異母兄が助けてくれるかもしれないと希望を抱いていた。
 しかし、現実的に考えてみてシュナイゼルはカストラリアの中でも王様≠フような存在だ。遠い場所から常に望遠鏡を覗き見ているわけでもなし、弟妹の様子を知ることも、こちらから伝える手段さえ閉ざされていて、彼が兄妹の窮状を知ることは不可能なのである。
 小さなつぶやきから無言でいるルルーシュに、不安になったナナリーはせっついた。
 「? ……どうかなさったんですか?」
 「ううん! なんでもないよ、ナナリー。……そうだ……。ナナリー、喉が乾いているかい」
 「すこしだけ」
 「わかった。準備するよ。待ってて」
 ルルーシュは立ち上がり、飲み物の準備に取り掛かろうと小さな冷蔵庫の前に立った。その時、先程あの不審な男が土蔵脇に置いていったジュースのことを思い出した。
 半開きの土蔵の厚い扉を押し開け、外をよく確認する。
 ビニール袋はまだそこにあった。素早く回収し、ルルーシュはビニール袋の中をよくよくみてみると、入っていたのは缶ジュースばかりではなかった。
 「あ……」
 袋の中には、ジュースの他に八ツ橋、ゼリーや缶詰、スナック菓子、キャラメルが入っていた。
 個包装されていることから、大袋から小分けにしやすいようにしているのだろう。
 あの男が土蔵前を通ったら礼の一つは言うべきだろうか。
 蔵の外に出ると、遠目で窺う見張りのほかに誰もいない。濃い緑の樹木に覆われた神社の敷地内には、蝉の音が喧しく反響していた。




48
午前四時の異邦人
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