a.t.b.二〇〇九 July
日本・静岡 枢木家
書斎を兼ねた応接間は、本と煙草のかおりに充たされている。
「こんにちは。枢木さん」
潮と草木と古い埃のにおいを連れて、ダミアンは空調のよく効いた室内に入った。
「遠路遥々ようこそ。長旅は疲れただろう」
枢木ゲンブは顎で合図を送り、室内に立ち入らないでいた使用人は、それを受けて一礼し、直ぐ様引き下がった。
日に焼けたか元々そうなのか、小麦肌の厚い皮を持つがっしりした大柄の男は、応接用の黒い革張りのソファに座るよう促した。
ダミアンは素直に応じた。ソファに腰を下ろし、床に荷物を置いた。
「ジェット気流の影響は避けられませんね。こればかりは」
地図上、カストラリアから日本へ直行するには容易だと考えるが、実は偏西風の影響で難しく、東南アジア経由で回り込む必要がある。乗り継ぎを含めると、フライト時間はブリタニア間で飛ぶよりも長時間になる。それでいて偏西風の追い風にさえ乗れば地形的に近距離である関西よりも、関東のほうに先に着くのだから不思議な話だ。
ダミアンはにっこり笑い、ボストンバッグを漁っては土産をテーブルの上に並べていった。
「これ、お土産です。あ……どうぞ」
ゲンブは無言でそれを眺め、窓際のブラインドを調整した。
「まあ首相ともあらば、安い土産じゃなあ……ちゃんとした菓子折りのほうがよかったですね」
口数の少ない男の目当てを理解していながら、ぼやきつつダミアンはまだその時ではないと考えていた。
そこへ洋室ノックの音が三回。「入れ」と短くゲンブは応えた。
入ってきたのは男の息子――もうすぐ九歳を迎える少年。枢木朱雀であった。
色素の濃い茶色の癖毛と、翡翠色の大きな瞳。愛らしい顔つきをしているが、この見かけに騙されてはいけない。態度は尊大である。
「ブリキ野郎? ……す、すみません。お父さん」
ゲンブのひと睨みで、スザクは一瞬にして身を縮め、謝罪を口走った。
「あぁ、そうか。前回来た時は会わなかったもんな。スザクくん」
「……? 誰」
怪しい奴。そう人を疑うことを隠さない年頃の少年は先程土蔵で会った皇子同様、ダミアンを探るように見つめた。
ようやくゲンブが口を開いた。
「桐原氏の御兄弟の孫だ」
「そうそう。……スザクくんからすると……えーと……、こりゃまいったな。遠縁だ。遠縁のオジサンさ」
「オジサン」
枢木ゲンブ首相の子息――枢木スザクはダミアンの言葉をなぞるように復唱した。
「今年で三十二歳のね。オジサン。……オジサンでいいよこの際。面倒くさいだろうからさ。……あ、ジュース飲む? お土産。まだ冷えてるよ。保冷剤つきで。はい」
テーブルの上に並べていた缶ジュースの一本を取り、スザクにぽいっと放って渡す。
「ナイスキャッチ」
「あ、ありがとうございます」
ダミアンは荷物の入ったボストンバッグを整理しながら、ゲンブに泊まりの相談を持ちかけた。
「今日は……泊まっていくつもりなんですが。ご都合が悪ければ、近くのホテルを取るので電話を貸していただけますか?」
「客間はいくらでも余ってる。好きに使ってくれ」
「ああ、助かります。……いやあ。いい夏休みになりそうだ。……いやね、京都で大叔父様とお会いする予定だったんだけど、アポ無しで宗像さんがお見えになって。……ろくに報告が済んでないんです。困った困った」
「致し方あるまい」
「無論、承知しています。……それで数日後、皇さんの付添人でこちらに伺うとのことで、その時にしようと約束したわけです」
ゲンブは重々しい口ぶりの中、鼻を鳴らして笑った。
「それが済んだら、小旅行か。気楽なもんだな」
「大変お忙しい総理のお手前失礼いたします。……独身最後の夏なんでゆっくりしますよ」
貰ったばかりの缶ジュースの開栓に悪戦苦闘するスザクに手を貸す。
「開けられる?」
「こんくらい……」
「売店で売ってるこういうのって、カタいよね」
プルタブが中々浮き上がらないようだ。親指をアルミの接地する表面を擦り、力づくで開けてやる。プシュと気持ちのいい音をたてて飲み口が開き、スザクは思わずげー」と感想を漏らした。
「おいしい!」
そう言ってスザクは一気に飲み干した。
「だろ〜。駅の売店で売ってて。保冷剤たっぷりつけてもらって良かったよ」
「オジサン、本当にブリキ……ブリタニア人? 日本人じゃないのか?」
「さっきも間違えられたけど、カストラリアの人間なんだよ」
スザクは「うん?」と首を捻った。
「カストラリア……なに? さっきって言った? まさか、土蔵に……あいつ!」
スザクは矢継ぎ早に呟いて納得の末、応接室から飛び出ようとした。
ダミアンは慌てて腕を伸ばし、細い腕を取った。
「ちょっ、ちょ、ちょっと待った。待った。喧嘩腰でどこに行くのさ。ここでゆっくりお菓子を食べてってよ」
またゲンブの物言わぬ命令を受け、スザクは渋々とダミアンの隣にちょこんと座った。
「……オジサンは、何日ここにいるの」
「ここには、あと五日くらいかな。そのあと各地を巡って夏休みは終わり。仕事に復帰だ」
「仕事はなにしてるんだ?」
「軍人だよ」
「軍人……人を、殺す? あっ……いや……」
失言だと瞬時に理解し、スザクは顔を背けた。
「いいんだよ。軍人の基本は、どう言い繕っても、有事の際に人を殺せるかどうかだ。人を殺す訓練を受けているよ」
スザクはダミアンの穏やかな声には似つかわしくない、言葉の数々に少し動揺した。
「拳銃の使い方とかも習う? 合気道とか、柔道は?」
「おおよそは習うよ」
体術の中にそれらの基本的動作があり、日々の訓練の中に入っている。
一気に興味を持ったのか、スザクは目を輝かせてダミアンに迫った。
「あとでなんか教えてくれる?」
「あはは。いいよ。……スザクくんはなにか習っているの」
「拳法!」
「おお〜、これは強そうだ。習うべきは僕の方かもしれないな」
カストラリアではレスリングやボクシングの方が馴染み深かった。
スザクは腕を組み、誇らしげに笑った。
スザクに引き摺られて、彼の通う道場を訪ねることになった。
道場につくなりスザクは水場に一直線に走っていった。床の雑巾がけからしなければいけないルールがあるそうだ。
ダミアンは先に道場の引き戸をガラリと開けて、中の様子を覗いた。明かりはついており、道場の中心では一人の男が静かに竹刀を振っている。――すぐに気配を悟り、彼はダミアンを振り返った。
ダミアンは背筋をピンと伸ばしたあと、深く礼をした。
「中佐殿」
「久しぶりだな。休暇中だろう」
「はい。短い夏休みであります」
男の名は、藤堂鏡志朗。
一見寡黙で硬派な武士然とした、日本軍人である。
土足厳禁の張り紙に従い、下駄箱に脱いだ靴を揃えて収める。
音もなく起立した藤堂のもとへダミアンは進み出た。
「よく帰ってきたな。……日本に戻れば良い。出世の道は遠いだろう。防衛大に入り直せばすぐに士官だ」
「それは、カストラリアの国籍を放棄してしまうので難しいんです。軍を辞めたら民間に就職を考えていますが、いまのところ給与は悪くありませんから続けるつもりです」
玄関に立ったスザクが声を張った。
「藤堂先生! 本日もよろしくお願いします!」
道着の袴姿、荷物を包んだ風呂敷を背に負い、手には絞りたての雑巾。スザクは下駄を下駄箱に入れて、キビキビとした動きで礼をするなり道場内の端へ走り、所定の位置について雑巾がけを始めた。
「スザクくんに稽古をつけているんですね。知らなかった。毎年来ているのに」
「日本男児のなんたるかを教えてくれと、せがまれてな」
「快活な子ですね。明日は木登りに誘われましたよ。ついでにカブト捕りも」
「ぜひ付き添ってやってくれ。大人の目が必要だ」
「勿論です」
軽快な足音とともに、道場の床はピカピカに磨き上げられていく。
「枢木さんとは話を済ませたか」
「気になりますか?」
「ああ」
ダミアンは藤堂の視線を受け流した。
「世間話ですよ。それとご祝儀の額の相談を」
「フッ……抜け目のないやつだ」
「僕もやろうかな。雑巾がけ」
袖を捲り「僕もやる」とスザクに声をかける。
少年は「じゃあ競争だ!」と喜んで勝負を持ちかけた。
スザクの稽古の付き添いには思わぬ習得があった。
あの本職の軍人相手の仕込みなだけあり、彼の腕前は立派なもので大会でも負け知らずという。
帰りがけの頃にはスザクは警戒心を解き、お喋りになっていた。ダミアンは彼から道場近くの駄菓子屋の話を聞き、明日の支度だといって立ち寄ることにした。
半世紀前からその文房具店と駄菓子屋を兼ねた店はあったそうだ、とスザクは語った。彼の祖父母から教えられたと。駄菓子屋の店主は腰の曲がった老婆で、白髪を蓄え、引き戸の音では来店に気がつかないからベルを鳴らして報せなくてはならない。
「すみませーん」
レジ横の会計のテーブルに設置された銀色のベルを鳴らすと、店の奥から声がした。
老婆はスザクの言う通り腰が曲がっていたが、声や喋りは見かけよりも若々しかった。
「はいはい。なんでしょ」
ダミアンは店にある駄菓子の中から、箱とポットに入ったのを指さして尋ねた。
「これ全部まとめて買いたいんですが、大丈夫ですか?」
「いいですよ。でも、どうして?」
「……どうして? ……今朝、子供たちが大勢ここに入っていくのを何度か見かけたもので。これから来る子で好きなものが買えなくなったら嫌な気持ちになると思ったんです」
ダミアンの説明に、店主の老婆は加齢で色素の薄くなった瞳を丸めて、それから大笑いした。
「……ええ? あはは、ふふ。あらあら! そんなことを考えてるなんて。ごめんなさいね。笑っちゃって。……大丈夫ですよ。奥にまだたくさん在庫はあります」
着いてきていたスザクにOKサインを送った。好きなものを買っていい、という意味だ。
彼は遠慮せず、店の中から好物の菓子をかき集めてきては会計台に載せていく。
「それじゃ、ゼリーとスナック菓子と、サイダーを。……明日山登りするんです。子供たちの付き添いで」
「はいはい。そうなの。坊っちゃんたちを連れて?」
「ええ。夏休みですからね。……あとは……この辺に、薬局かなにか……あります?」
老婆は目を凝らした。スザクのお付の者だと彼女は思ったようで、ダミアンの日本語の流暢な発音に彼が外国人であることにまったく気づかなかったようだ。
「あなたこの辺の人じゃないの?」
「ああ……その、帰省中でして。普段は海外にいます。土地勘はあまりない方で、すみません」
「そうだったの。……薬局は大通り出たところを真っ直ぐ北にいって、二つ目の道を右に曲がったらミドリ薬局があります。看板もあるからすぐわかるわ」
「ありがとうございます」
丁寧にお礼を言うと老婆は微笑み「困ったら坊っちゃんに教えてもらって」とスザクを見下ろした。
a.t.b.二〇〇九 August
日本・静岡 山奥
熱海から北西にある山中は、絶好のカブト捕りスポットらしい。
その日もよく晴れ、富士山の美しい姿が見える。フォトグラファーが橋の上で仕事をしているのを邪魔しないように子供たちを連れ、ダミアンは山奥へと入っていった。
スザクには友達が多い。傍からはそう見えるが、ほかの子供達は遠慮しているか、親から言われての付き合いがあるようだ。
親がテレビや新聞、ラジオ、様々な媒体で触れる機会のある子供とは窮屈なものだ。彼もそれを理解しているのか、父親のイメージを崩さないように、余計なことは言わないし、他の子供達も余計な詮索をしないように躾けられている。
神職系であるということは、地域に根ざす有力者ということだ。
カブト捕りに出かけるのも、他の子供を伴って連れ立つのも、社会の縮図、社交辞令だとダミアンは思った。
ダミアンは子供たちの列の中で最も足の遅い子に合わせて、彼のことについて尋ねてみた。
「ゆっくり歩いていいよ。それにしても、スザクくんって元気だよね」
声をかけられた少年は、返事をせずダミアン緊張した面持ちで見上げた。
「あぁ……ごめんごめん。怖いかな。そうだよね」
遠目で見れば日本人に見えるが、近くに寄ればその体格や顔つきがより日本人離れしているとわかるらしい。カストラリアとは真逆だ。欧州人とアジア人、とくに日本人の血が混ざると他の混血よりも小柄に見えるし、無難な色をしている。軍隊の中であれば赴任先の駐屯基地によって扱いが様々だ。
食事もタンパク質源で効率的な配慮が行われる。肉基準か魚基準か。野菜はどの種類からの方が胃に負荷が少なく腸の吸収率が優れているか。医療先進国なだけあり、好きなものを食べるよりも、身体的な特徴に合わせたメニューが割り当てられている。どんな時でもその食材が入手可能なわけでもないし、食べられるものを食べる必要があるといって周期ごとにメニューが変更されるが、実際に肉などを摂取したあと体の鈍さを感じると――この体は日本人であるのだと思うことがある。
「オジサンってさ」
「うん」
「ニホンジン?」
「……見た目はそう見える人もいるし、違うと思う人もいるけど、国籍はカストラリア人だよ。でも体は日本人の要素が多め」
「なんだそれ。わかんねー」
「そうだよね」
カストラリア人だけでなく他民族・他人種との混血は概ね同じ苦労をしているだろう。
日本は海洋国家で混血といえど、中華連邦からの渡来が多く、見た目の差異が少ないゆえ自己申告しない限りそうだとわからない。ゆえに見た目がはっきりと異なる者への反応が大げさであると感じる。よそ者を見慣れていない特有の視線とでもいおうか。
少年はもう一度警戒心の籠もった目でダミアンを睨んで、山を駆け出した。
山奥の拓けた場所にある川辺りには、苔むす大きな岩と石がゴロゴロと転がっている。
カストラリアで見る岩よりも日本のものはどこかナイーブだ。山の森林に囲われ絞られた光が落ち、空気もしっとりとして肺に吸い込むと潤うようだ。なにより香りがいい。木や土の中の微生物の活動が生み出す湿潤。自然の循環を肌で感じる。生きている感触とは、そういうものを指すのだろう。
ダミアンは深呼吸を終え、子供たちの見守りをあわせて、一人ずつ声をかけていった。
「双眼鏡を覗いてごらん。カワセミだ」
「ここの水辺には蛍がたくさんいるんだな〜」
「靴紐が解けてるよ。しっかり結んで」
「ヒルに吸われないよう袖をしっかり下ろすんだ」
子供たちは遠巻きにその異邦人を観察した。
互いに顔を見合わせ、こそこそと大人が口にする偏見を吸収した子供たちは戸惑いを隠せなかった。
「あのオジサン、日本人じゃないの?」
「カストラリア人なんだって」
「どこの国それ? ブリキじゃなくて?」
「うちの父さん言ってた、ブリキは卑怯な奴ばっかなんだって!」
ダミアンはブリキ≠フワードに覆い被せるように大きく叫んだ。
「みんな、川には勝手に入らないこと! いい?」
子供たちは疎らな返事をし、蜘蛛の子を散らすように森の中へ入った。
ダミアンはそういえばスザクの姿がいないことに気づき、子供の一人に尋ねた。
「スザクくんは?」
「あっち!」
ぴんと指さした方向に、薄い長袖と半ズボンを履いたスザクの後ろ姿がある。木の前に立ち、カブト捕りの仕込みをしているところだった。
「時間が少しかかるね。スザクくんをみてて」
「はーい」
別の子供がずんずんと山頂付近にある、展望台のルートに進んでいるのを見逃さなかったダミアンは、後を追いかけた。
展望台には、他の登山客や夏休みで遊んでいる、子供の姿があった。
「いい景色だ。おやつはここでみんなで食べようか。……何が見える?」
「向こうの富士山が見える」
「そりゃあ、このあたりはだいたい富士山が見えるさ。あはは」
日本で一番高い山。日本の象徴で、その山麓で枢木一族は日本にとって重要なアイデンティティと資源を守ってきた。
仕込みを終えたスザクがダミアンに追いついた。彼は、聳え立つ富士山を見上げたまま動かなかった。
「夕方頃に捕まえられそうだね」
「ああ。……なあ、オジサンのところはさ……富士山より高いんだろ?」
「だいたい富士山の二.三五倍あるよ」
「へえ……八〇〇〇メートル級。ヒマラヤって山がいっぱいあるんだろ」
「そうだよ。囲まれているから。エベレストが見えるよ」
旧英人であるジョージ・エベレストにちなんで名付けられた世界最高峰の山の名前である。アレクサンドラ王妃の移民政策の中で多くの学者が招集され、彼もカストラリアで軍で経験を積んだ後、測量調査で連峰の正確な調査を行う任務を与えられた。エベレストには現地名が既に存在していたが、その貢献と功績を称え彼をナイトに叙し、山の名とした。
日本人からすれば、現地語ではなく、外国人の名前を通称とする山の傍らで暮らすのは、奇異に映るだろう。
展望台には東屋があり、そこで子供たちは駄菓子屋で買ったおやつを食べて、体を休めた。
夏休みの宿題をわざわざ持ってきていた子の面倒を見ていると、その隣から別の子が覗き込んだ。
「オジサン、学校の先生なの?」
「学校の先生? いいや。軍人だよ」
「……んー。ここわかんない」
日本の公立小学校の進度は、カストラリアの同年齢のマイナス二学年といえるだろう。とはいえ識字率は高く、読み書きが出来るだけで、世界の多くの人々よりも、社会を生きるために必要な基礎は備わっている。
「掛け算ができるんだから、できるよ。この二を何回掛けたら頭の六になる?」
「さん」
「そうだよ。答えは三。同じように下の計算もやってみようか」
いつの間にか展望台から下りて、通ってきた川辺に戻っていたようだ。
スザクとほか数名の子供が展望台の入口から東屋を目指して歩いてくる。スザクの手にはバケツがあった。
「オジサン! 捕まえた!」
「手で捕まえたの? すごい! ……なあ。さっき川に勝手に入っちゃいけないって言ったよな?」
「うっ」
スザクは短く呻いた。
水を張った青いバケツの中には、数匹アユが狭いのに身が擦れないように泳いでいる。
「仕掛けは上手くできた? カブトの方。反対側にも仕掛けるって言ってただろう」
「六時くらいには引っかかってると思う」
「楽しみだな」
ルールを無視して魚獲りに行ったことを咎められずに済み一安心したのか、スザクは東屋の中の空いている長椅子に座った。
まだ残っているスナック菓子の袋に手を突っ込むと、サクサクのチップスを口へ運んだ。そういえばスザクは他の子よりも身軽だ。
「スザクくんは、夏休みの宿題は終わった?」
「……まだ」
「持ってきてない?」
「持ってくるかよ。こんなとこに」
「強い侍になる! って言ってたじゃん」
「今は夏休みだし」
「休みあるんだ」
くすり、と誰かの忍び笑いの声が聞こえた。
スザクの瞳が周囲を彷徨うと、子供たちは肩を小さくし、居心地の悪い空気になった。
「じゃあ、あとでみんなで鬼ごっこしよう」
「オジサン。元気だな」
なぜだかスザクは呆れ顔でダミアンを見た。
「え? ノッてくれないの? 今は……まだ二時だし、夕方までたっぷり時間あるよ」
「じゃあ、木登りする。オジサンは何メートル登れるんだ?」
「メートル……? ロープ登りの訓練はあるけど……登れるものがある限り……? 棒だと十五メートルじゃないかな」
「まじで!?」
興奮して立ち上がったスザクは食い気味に、ダミアンに軍隊の話をせがんだ。
他の子は話題が移ったことで、止まっていた宿題の手を動かし始めたのだった。
a.t.b.二〇〇九 August
日本・静岡 枢木神社
カブト捕りの成果は、誇れるほど素晴らしいものだった。
虫かごの中には数匹のカブトは昆虫ゼリーを食べている。バケツに入れていたアユは下山前に放流した。山道を下りるたびに水が跳ねるからである。
山登りでかいた汗を流すべく、枢木家へ帰る途中、銭湯に寄った。源泉かけ流し。泉質はカルシウム・ナトリウム――塩化物・硫酸塩温泉。
味は苦く、やや甘い。湯上りから数十分経ってもぽかぽかする温かさである。
待合室に設置されたマッサージチェアに揉みほぐされながら、窓から吹く夜風を浴びる。
「あー……気持ちいい〜、ごくらく〜」
「じじむさっ」
瓶入りのフルーツ牛乳を飲んでいたスザクが、マッサージチェアに揺すられているダミアンを軽く一蹴した。
「オジサンだからね。もう三十を越えてくると一気に来るよ。この間まで平気だったことが、疲れやすくなったりさ」
「軍人だろ?」
「軍人だから余計に痛感するのさ」
大荷物を抱えようやっと本当の帰路につく。
明るい夜空には、茜色が滲んでいる。
「今晩は寿司握ってくれるって言ってた」
「寿司?! そんな大層な……」
「昨日は結局、俺が引き止めちゃったせいで行きたかった漁港の店、閉まっちゃったんだろ?」
「気にしてたの? 別にいいんだよ、そういうこと気にしなくって。まだもう少しここに滞在するんだし。でも、ありがとう」
照れくさそうに鼻の下を指で擦りながら、スザクは「へっ」と笑った。
「ほんとう。いい湯だったな」
「カストラリアには温泉はないの?」
「あるよ。だけどシャワーで軽く済ませちゃうかな。いつでも呼び出されてもいいように。ゆっくり浸かったことがない。……だから今日は久しぶりにのんびり出来てよかったよ」
そこで先程の光景を思い出したのだろう。スザクは「銭湯、戻る?」と訊いた。
「今日はもう大丈夫だよ。……ふぁ〜あ。……今晩はぐっすり眠れそうだ」
「もう寝るのか?」
「もうって、帰って食事したら、すぐ九時だ。子供は寝る時間だぞ〜」
スザクは口をへの字に曲げた。
枢木神社の境内に入り、屋敷へ向かう途中だった。
あの白い土蔵の前で、あの少年がいた。
「あ」
彼は土蔵の敷居となる煙返し石の上に座り、ぼんやりと黄昏れていたが、ダミアンとスザクの姿を認めるなり立ち上がった。
「……こんばんは。昨日ぶりだね」
「なにしに来たんだよ」
「通りすがりだよ。カブト捕りに出かけて、駅前の銭湯に寄ってさ」
「カブト……?」
カブトが何のことかわからない少年皇子に、ダミアンはスザクの手にあった虫かごを掲げてみせた。
「これこれ」
「うわぁっ! なんだこのキショいの!」
黒髪の少年は大げさに体を震わせて仰け反った。
「え? そんなにビックリする……? 虫苦手なほう? なんかごめん」
謝ったあと、脇に立つスザクを見下ろすと、彼はルルーシュを静かに睨んでいた。一方、ルルーシュも虫への恐怖よりも、目の前の同年齢ほどの少年に、鋭い視線を向けている。
「もしかして、喧嘩してる?」
「……そういうわけじゃ」
スザクはバツの悪そうに顔を逸らした。居心地が悪いと彼はそうする癖があるようだ。
「そうだなあ……トランプで遊ぼうか?」
「は?」
「あ?」
突然の提案に、少年とスザクは揃って声をあげた。
ダミアンの予定を知っているスザクはすかさず口出しをした。
「オジサン、夕飯食べて寝るんじゃなかったのかよ」
「スザクくんは、夜ふかししたいんだろ?」
もごもごと返答に窮するスザクを置いて、ダミアンはルルーシュに質問した。
「ルルーシュくんはご飯食べた?」
「それは……とっくに済んでる」
「よし。じゃあトランプパーティー開催だ。夕飯を貰ってくるから、先にお家に入ってなさい」
それを聞いたスザクは目を見開いて、少年を指さした。
「おい、こいつもか?」
「は? おまえ口のきき方気をつけろ! 僕に向かって何様だ!?」
「スザク様だ!」
不遜な態度に少年皇子はプライドを刺激され威勢よく言い返すが、スザクのガツンとした態度に面食らった。
「あははは。仲良くなれそうだ。それじゃあ一旦戻るから、ふたりは蔵に入ってて」
感情をぶつけ合える仲は実はとても貴重なものだ。世の中は嘘ばかりなのだから。だから、ふたりは仲良くなれるだろうとダミアンは思った。
枢木家の本家へ向かうダミアンの背後で、少年――ルルーシュは急に現れた妙な大人にやはり困惑を禁じ得なかった。
「……なに、あの人」
「オジサン」
「オジサン?」
ルルーシュは尋ね返した。
スザクは簡単な英語くらいは喋れたが。それにしてもオジサン≠ニいうのは英語にはない。完全に日本語だ。
「オジサンって……なんていうんだっけ……んーと、アンクル?」
「アンクル? 親戚のおじさんなのか?」
「それはそうなんだけど、オジサンの場合は……もっと自虐的? ちなみに三十二歳。軍人で、もうすぐケッコン? するらしい」
「ふうん」
ルルーシュは曖昧な返事をした。
素性がわかれば怖いものはない。本当にブリタニア人ではないらしい。彼がどうしてブリタニア人にみえるのか、ルルーシュ自身納得のいく答えはない。
所作も物言いも言われてみれば日本人である。
ダミアンが戻って来るまで、会話は途切れたままだった。
「中に入ってて!」
ダミアンが叫んでいる。
一度引っ込んで玄関先に現れたかと思えば、厨房係にあれこれと持たせられているようだ。
大荷物を置きにいって、岡持ちに料理を詰めて戻ってきたダミアンは戻った時に着ていたシャツと違う色をしていた。
「汗臭いと思ってさ〜早着替え。あ。スザクくんの替えも貰ってきたよ」
「ありがとう、オジサン」
「寿司は生臭いから、土蔵前で食べるよ。スザクくん、おしぼりとって」
スザクは岡持ちの中の、白いタオルを絞り固めたものを取り、手を拭いた。敷居を椅子がわりに座り込むと、寿司桶をダミアンから受け取る。
「いやはや。良家の子息にこんな真似させたと大叔父様に知られちゃ、雷が落ちるね」
「まったくだ」
スザクの物言いは決して険のあるものではない。一方で少年は青筋を立てていた。
「野蛮人だ」
「ピクニックと一緒だって。食べるモノがサンドイッチじゃないだけさ」
食事を手早く終えて、ダミアンは腕時計の時間を確認した。相手は成長期の子供だ。夜ふかしは、せいぜい十時までにしなければいけないだろう。
土蔵の中は暗い。少年の住まいに入るなりダミアンは「お邪魔しまーす」と大きな声で言った。
「きゃっ! どなたですか……?」
少女の高い悲鳴が暗闇のなかよく通った。
「ナナリー! ごめんよ。驚かせて」
後ろにいた少年がダミアンを押しのけて、土蔵の中に駆け込んだ。
少年は軽く睨みつけた。
「……ごめん、驚かせた? 女の子がいたんだね」
入口付近にある古い照明のスイッチを押して、蔵内の明かりをつけた。少女は奥の畳の上。敷かれた布団から這い出して、土蔵の入口を窺うように柱の陰から顔を覗かせていた。
ダミアンは、あえて、兄妹の事情を知らない大人のふりをした。
ブリタニア人の兄妹ふたり。枢木家に預けられた子供。カストラリアの君主代理人がブリタニア人であるならば、その国の軍人でニュースを知らないわけがない。白々しい気もしたが、そのほうが上手くいくような気がしたからだ。
ルルーシュの切れのある頭脳は違和感に気づき、スザクに囁く。
「……こいつに僕たちのこと喋ってないのか?」
「てっきり知ってるもんだと思ってたんだ」
それにはスザクも完全同意した。少年ふたりは緊張感を持ち、ナナリーの前に跪くダミアンの背中をじっと見つめた。
「お嬢さん、お名前は?」
「え……あ、はい。……ナナリーです」
「綺麗なお名前だね」
ルルーシュは「おい」と呼び、ダミアンの肩を引き倒すようにして、ナナリーとの間に入った。
「な、なに?」
「ナナリー。こいつに近づいちゃダメだ」
「名前を訊いただけじゃないか」
そこでふと、スザクはこのオジサン≠フ本名を知らないことに気がついた。
「オジサン、名前は?」
ダミアンはスザクを振り返った。
「あれ? 名乗ってなかったっけ」
「自分でオジサンって呼べって言った」
「ああ。そうか。あははは! 僕の名前はね、ダミアン・カズキ・モリシャルト……日本だと森下って苗字になるんだ。カストラリアでは帰化した時にちょっと名前が変わるようになってるんだよ」
「へー」
日本語の音は母音が強く、子音の強い言葉のなかにおいて発音しづらいものがある。
よって、森下はモリシャルト、もしくはモリシャール、モリシャートなど都度変わる。
「でもオジサンのままでいいよ。本当に今更な気がするから。……そうだ、そういえばまだ君の名前を聞いていなかった。なんていうの?」
少年はたじろいだ。馴れ馴れしい軍人の、ブリタニア人にも見える男。警戒心。疑心。人間不信。自分たちを知っているはずなのに、無知を装う男。何がしたいのか動機が不明の男。
息を吸い込み、そっと名乗った。
「……ルルーシュ」
ダミアンは表情を変えることなく「そう。ルルーシュくんでいい?」と確認した。
ファミリーネームを求めなかった。ルルーシュは確信に至った。
一方、ダミアンの目的は決して動揺させることではなかった。改めてナナリーに向き直り、持ってきていたトランプを取り出してバラバラと紙の音をたてた。
「僕はダミアン。さっきスザクくんと遊ぶ約束をしてね。色々あってここで、トランプをしようって話になったんだよ」
「ナナリーちゃんも遊ぼうか」
「えっ?」
声をあげたのはナナリーだった。まさか自分にスポットが当たるとは思わなかったといった驚き方だ。
「三人で遊びたいだろ? オジサンがアシストするよ」
ナナリーは瞼を閉じた目で、三人の気配を辿るように眺めた。ルルーシュは断ってもいいんだぞ――と言おうか迷ったが、ナナリーの自主性を壊したくないと躊躇った。
子供たち三人はそれぞれ遊ぶにしても、どうやってするのか戸惑った。
だがそれを口にすれば、ナナリーに体が不自由なことを思い知らせてしまう。デリケートな話題に触れるからこそ、誰も何も言えなくなっていた。
ダミアンはナナリーに確認した。
「手の平にマークを書くんだけど、触って大丈夫?」
「は、はい」
ナナリーの手はきゅっと握りしめられ、両膝の上にのせられている。
ダミアンがゆっくりと少女の手に触れようとした時、ルルーシュが我慢ならず引き止めた。
「おい、お前! ナナリーに変なことするんじゃない! ナナリーそいつから離れるんだ」
「えっ。ええ、でも、お兄さま……!」
暗闇の世界。ルルーシュの言葉だけを頼りに生活をするナナリーにとって、変なこと≠ヘそのままの通りダミアンが言葉と異なる行動をした、と受け取るのは自然のことで、酷く動揺し両手で腕を抱え込んでその場に蹲ってしまった。
それにはルルーシュもやりすぎたと思ったのか、ためらいがちに「ああ……今のはちょっと、言い過ぎた……」と反省を示した。ダミアンは動じることはなかった。彼らが今の生活になったのは今年に入って、この数ヶ月以内のことだからだ。
ナナリーにしても、ルルーシュにしても。人生と環境の劇的な変化に、精神と肉体が追いついていない。失敗は多いだろう。
「ナナリーちゃんが嫌ならいいよ。オジサンは気にしないから。ゲームを眺めているだけでも楽しめるかもしれないからね」
ルルーシュは唇を噛み締め、名前を呼びながらナナリーに触れた。びくりと少女の肩が跳ねた。
「どうかな、ナナリー。……無理しちゃ駄目だ。昨日今日会ったばっかりの奴の言いなりなんかならなくっていい」
ナナリーは顔を上げた。兄とふたりだけの異国の生活。外の世界を知るルルーシュがナナリーを守るために庇っていることなど、わかりきっている。生活の一切合切を。身の回りのことも。介助も、会話も。ろくに動けないでいる自分に絶望している。――しかし、世界はその絶望に無関心で、今まで暮らしてきた温かい場所より、もっと冷たい場所があることを知った。
確かにこの顔も見えない成人男性の物言いは、ナナリーだけで本当か嘘かなど判別できない。
このままでいいのだろうか。――ナナリーは考えていた。
一生このまま。兄にしがみついて生きていくのだろうか。
それに、異国に来てから楽しいことは何一つない。音と嗅覚と味覚、触覚の世界。いつもどこからかザワザワと木のざわめきよりも間延びした音が届く。あれは海の音なんだよ、とルルーシュは言っていた。
海は絵本の世界でしかしらない。少し血のにおいにも――。
ナナリーは嫌な記憶を振り払うように、ぎゅっと視えない目を瞑った。
暗い世界に慣れていないと、思考が上手に定まらないことを知った。意識をしっかりと保ち、遊びたいか、そうでないかについて考えて――刺激を求めたい――欲求が勝った。
「え……ええ……、少しだけ……遊びたいです」
「ナナリー……」
ルルーシュの声は不安げに揺らいだ。
ダミアンは少し微笑んだ。
「一回だけ試してみようか」
「は、はい」
提案にナナリーはこくりと頷いた。
「……ルルーシュくん。失礼するよ。それじゃ、挨拶に握手しようか。左手を掴むよ」
ゆっくりとダミアンは右手をナナリーの左手に触れ、厚い掌で包みこんだ。少女の手はひんやりと冷たく、皮膚は乾いていた。
「大丈夫かな。……ルルーシュくんもいつも声掛けしているよね。間違いない?」
「あ、ああ」
「ナナリーちゃんはトランプで遊んだことはある? ルールを知っている?」
「ある」
「マークはわかる? キングやクイーンの文字の頭文字も」
ナナリー本人が答えた。
「……えっと……わかります」
兄妹ふたりは緊張していた。その様子を邪魔することなくスザクはただ見守っていた。
枢木家の人間とも、桐原家の人間とも、その他の親戚の人間、雇っているSPたちとも、近所の噂を盲信する住民たちとも異なる大人。
腫れ物扱いにするか、異国とはいえ他国の皇族の敬意を払わない無粋な者たちと明らかに違う。
「ゆっくりなぞって、アルファベットの頭文字とマークを書くようにするよ。数字は指先で叩く回数だけ。……ボーイズ、ゲームは時間がかかってもいいね? 今日決着がつかなかったら次回に持ち越し!」
「えー」
「おい、お前」
ルルーシュは不躾に文句を言いかけた。ダミアンは入口近くに置いた袋の中を指した。
「そこにあるお菓子でも食べて待ってろ〜。今日の山登りの余りだけど。食べ過ぎは注意してね。……それじゃあ、ナナリーちゃん。ちょっとだけ作戦会議をしようか」
「は、はい」
ゲームはシンプルなババ抜き。
ナナリーとはカードのサインを決めた。カードを読み込んだダミアンが左から順にカードの中身を教えていく。あくまで考えるのはナナリー自身だ。
少女は物覚えが非常に良かった。それこそ、まるで視えているかのように。子供の脳の発達の目覚ましい適応力にダミアンは恐れ入った。これにはルルーシュとスザクも同じく舌を巻いた。
「く、くそ……!」
「なにッ!?」
仰け反ったスザクに、ルルーシュは彼の手札を思わず覗き込んだ。
「おい、こっち覗くなって! 手札見えちゃうじゃんか!」
「ふふふ」
ナナリーは淑やかに不敵に笑った。
「やったぞ。ナナリーちゃん。それにしても、ゲームが上手い。もしかしてすっごく勝負強い才能の持ち主かもしれないね」
「オジサンさんのおかげです」
「オジサンのなかにさん≠ヘ入ってるんだよ。ナナリーちゃん。オジサンだけでいいんだよ」
「そうなのですか?」
ルルーシュとスザクは自分自身の手札をじっくりと眺め、それからあることに気づいて、互いの顔を見合わせた。
「! あ……」
「ナナリーが笑った……!」
この数ヶ月間。不幸に晒され、周囲を気遣って無理に笑うばかりだった少女が。
ルルーシュの目尻には自然と歓喜の涙が浮かんでいた。
スザクは驚いた。ルルーシュの新たな一面に。そして彼は心の底から妹を大切にしているのだと。