アジア危機







 a.t.b.二〇〇九 June 
 カストラリア メルカッサ 

 
 記録と特権階級は常に密接に結びついている。
 映像の前は写真。写真の前は絵画で描かれ、古来より歴史を証明してきた。現代の一般市民がカメラや動画を手軽に扱う以前より、王侯貴族達はその権威と富の象徴として、写し取られてきた。
 ゆえに王族や皇族というものには、生まれた瞬間から死ぬその時まで記録として残されるものが数多く存在する。

 シュナイゼルの側近として正式に仕えるようになったカノン・マルディーニは、秘密捜査の合間にこうして、主人を取り巻く周囲の情報を吸収する時間に充てていた。まだ正式登用から日の浅く、慣れぬことばかりの連続だ。
 カノンには、ティラナ・ヴァル・カストリア王女は赤の他人――それどころか縁のない人物であった。それが寄宿舎で出会った少年の正体が王女だった。
 ――実感がわかない。
 少年、ノエル・アストリアスの血液から遺伝子解析が行われ、彼は正真正銘の王女と確定した。失踪先のブリテン諸島でまた消息を絶った。捜索が長期化する懸念から、シュナイゼルは世間を騙すために毒殺事件を工作した。依然として手がかりは不足している。
 ――生まれてから、死ぬまで。
 手の中にある薄いタブレットの液晶には、王室ファンであるロイヤリスト達によって制作された映像が映し出されている。
 カノンが眺めていたのは、おくるみに包まれた生まれたばかりのティラナ王女が、王后に抱かれて産院から登場する映像であった。それまでの伝統的な仕来りでは産後まもなくカメラの前に立つことはタブーであったが、国王が王室改革として慣例を打ち破った。
 このような動画はタイトルを変え、投稿者の見方で種々脚色されていることが殆どである。そしてそれらはネット上には数多く投稿されていた。
 白いワンピース姿の小さな少女が歓迎の花束を抱えている。空港に降り立った曾祖母の前で、片足を後ろに引いて腰を落とし、優雅な淑女の礼を披露している。
 俗にカーテシーという。女性が、上位の王侯貴族に対して行う欧州発の挨拶法である。
 この頃、王女が膝折礼をする相手は両親と曾祖母であった。動画のコメントには両親よりも、彼女にカーテシーをする者の数が勝るだろう≠ニついている。そのコメントは昨年春頃のものだ。ぶら下がっているコメントには今年のものがいくつかある。
 もっとも印象的なものに永遠に失われたかもしれない≠ニある。昨夏の暗殺未遂発表を受けて、王女が女王に羽化することはないと諦観の滲むメッセージだ。
 切り替わって、九歳頃のティラナ王女の映像。
 白毛のポニーを引き連れて農場を歩く姿、論文の国際発表の会見、王宮のバルコニーで両親とともに手を振る姿、壁一面に並ぶ歴代のアルヴェイン朝の国王夫妻とその子供の系図とミニチュアの肖像画――その手前絨毯の上に寝転んで、広げた百科事典を読み耽る姿。
 ロイヤルファミリーのフォトグラフの数々。
 長毛種の大型犬の背に乗ろうとして滑り落ちる三歳。侍従に叱られ、顔を真っ赤に怒りながら泣く四歳。深い泥の水たまりに嵌って、この世の終わりのように泣き叫ぶ五歳。親愛と象徴のプライベートフォト・フィルムは王室広報から公開されているが、クーデター以後少女の成長記録は止まっている。
 ブリタニア皇室にもこのような子供達のフォト・フィルムは存在するが、暗殺やテロの危機に備え、未成年のうちは顔出しを控える傾向にある。よって、集合写真はあれど各個人のプライベート写真は一般公開されていない。
 一方でシュナイゼルの国際的な認知度の高さは、カストラリアで放送されていた番組と国王夫妻の国葬の影響であった。
 お調子者で悪戯好き。どこか落ち着きのない感情豊かな王女の隣で、終始優美な微笑を崩さない美しい金髪の少年。動画のタイトルには、孤児院慰問≠ニある。
 どちらが年上で年下かわからない=\―とぶら下がったコメントを見つけ、そこではじめてカノンの口元にふっと笑みが宿った。
 初対面といわれる空港での出迎えの一幕。公式写真以外に、一般人による隠し撮りもあったのか、鮮明にあらゆる角度からふたりの少年少女の姿が撮影されたものを繋ぎ合わせ編集されたものだ。タイトルは、海抜六〇メートルの国から一四〇〇メートルの国へようこそ=\―。
 二〇〇〇年二月の若きロイヤルカップル婚姻条約署名会見%〇〇七年十一月の青いファーストキス%〇〇八年八月の婚姻無期限凍結・記者会見=\―と続いている。
 一般人が空港や陸路での専用車で邂逅した際に撮影した動画などが溢れかえり、シュナイゼルには悲劇の皇子≠ニ同情的なコメントが並ぶ。
 美しいプリンスの寂しそうな瞳∞王冠が遠のいた。しかし、悲劇は彼の王冠のような輝きを鈍らせる∞主よ彼を守り給え=\―。
 なかには、批判的なコメントがある。
 侵略国の手先∞王女殺し=\―それ以外にも身勝手な妄言が続く。言論の自由を認めるこの国だからこそ一定の批判は許容される。しかし、議会では一部統制を図るべく侮辱罪、不敬罪を盛り込む法改正を望む声も上がっている。
 ポーンと軽やかなメロディが鳴り、アナウンスが機内に流れる。まもなく中部メルカッサに着陸する。
 窓から望める眼下には渓谷となだらかな丘陵の連なりの最中に、都市の集合体がニューロンのような形状を展開している。


 古都ホリドゥラに隣接するメルカッサの都市の街並みは、北部しか知らない者には別の国の景色である。
 シュナイゼルの命で捜査のために訪れているカノンは、国内線のガラス張りの高層階――展望デッキから見下ろして、間違えて隣国の中華連邦に来たのかと錯覚した。
 まったく同じ国とは思えない。文化が異なるのは街並みだけで一目瞭然である。
 チケットに印字された文字には、たしかに同国内の地方都市と首都のリダニウム空港を結んでいる。メルカッサのすぐ隣、ホリドゥラは歴史的建築物などの景観保護条例や立地の空きがないことなどを理由に、ここメルカッサに空港が建設された。医療先進国であるにもかかわらず、インフラに関しては半世紀前まで陸路でしか首都との往復が叶わなかった。
 メルカッサの特徴は、歴史上の流れでこの地方にはアジア人やそのルーツの者が多い。各国にアジアタウンのコミュニティは存在するが、カストラリアはメルカッサに集中し、一地方を名乗れるほどの巨大なコミュニティが広がっている。
 生まれも育ちもブリタニア。生粋のブリタニア人であるカノンには異様に映る。首都の北部は白人ルーツが多く、中部から南部にかけて有色人種と混在するが、君主とその王族が白人種であって、納得がいくのだろうかと思わずにはいられない。
 その疑問を率直にシュナイゼルの前で打ち明けたとき、彼は一頻り笑って言った。

 ――『歴史の話をすると長い。メルカッサに移民局があるのはね、その理由のすべてだよ』

 先々代の終焉時の内紛の原因となったのはメルカッサからだ。厳密には、移民制度を悪用し、先々代の子供達で私兵同士の代理戦争――暗殺事件が頻発した。
 先代セイルの治世では、移民とその二世、三世には厳しい規制が敷かれた。一部では差別的だと声が相次ぐが、二〇〇〇年にクーデターが起き、メルカッサでは移民狩りが発生。それ以後、差別的だとする声は封じ込められ、規制に関して国民は黙認している。そんな中でも、テロ対策の穴は塞いでおくのに越したことはなく、またシュナイゼルはアルディックが秘密のルートを隠し持っている懸念から、新たに膿を出す方針を打ち出した。

 昼間はカフェ。夜はバーに替わるメルカッサの主要ストリートから一本、裏通りに面する小さな店に入った。
 隣近所には輸入品点か香辛料などを取り扱う専門店があるからか、欧州風の内装の店内に独特な香りが漂う。カノンは目的の男の周囲に空席があるかをたしかめて、その背後のボックス席に座った。
 様々なにおいに鼻が効かなくなりそうだと思い、ウェイターにコーヒーを頼む。通りを眺めるガラス張りの大きな窓の反射越しに、カノンは男に合図を送った。
 男は王室直属の諜報員である。彼の手元の紅茶のカップは空で、ティースプーンで反時計回りに三回かき混ぜた。カノンは、テーブルの上に拳を置き二回コツコツと叩いた。諜報員は中身のないカップを飲むふりをして、席を立った。
 ――そう。不調ね。
 大きな成果は上がっていない――という意味である。
 この春、王宮に仕えだした若い侍従、サミュエル・H・ノーリスは、メルカッサにある貿易局の事務次官ハロルドの息子である。
 貿易局はアルディック――サロニア公爵の領地サロニアの湾港も管轄としている。シュナイゼルが睨んだのは、サロニア公とハロルドの関係性――そして、王宮に仕えだしたサミュエルが、ハロルドによる手下ではないかということだった。
 既に先行捜査として貿易局の入るコヴェント・ガーデン・ビルディングに潜入している、王室直属の秘密警察機関に相当する諜報部アエギスの諜報部員によれば、侍従ノーリスと事務次官ノーリスの接触は直接的に皆無。
 だが、侍従ノーリスはメルカッサでのコミュニティのいくつかに所属し、交友関係も広く、捜査にはあと数カ月かかると報告を上げた。――諜報員の伝える不調≠ニはこの捜査のことである。
 そして現在、王宮のサミュエルに目立った様子はなく、仕事ぶりも真面目で周囲との軋轢もない。当分離職もないだろうと彼と面談した侍従長は判断している。
 一杯のコーヒーを飲み、カノンは店を出た。
 次なる目的は、移民局に張り込ませている諜報員とのコンタクトであった。
 支給された携帯が上着の内側でブルブルと震えた。液晶画面には〇一とある。主人であるシュナイゼルからの着信である。仕事の進捗確認だろう。
 「殿下? どうなさいました」
 [すまないね。少し時間がかかりそうだよ。……ニュースは見たかい]
 「……いいえ。たった今、貿易局の捜査員から進捗をきいたところです」
 ニュースの話を続けず、彼は成果を求めた。
 [成果は?]
 「ありません。次の移民局の結果次第ですわね」
 [では結果次第でそちらへ行くよ]
 「Yes, Your Highness.……ところでニュースとは……いったい」
 そこで彼は「ああ」となんとも曖昧な返事をした。日常の延長線にある他愛ない、あるいは深刻ではない、そんな気配さえも漂わせて。
 [こちらで急遽、葬儀を執り行うことになってね。第五皇妃が薨去された]
 カノンは目を見開き慄き声を上げた。
 「第五皇妃が……!? ……申し訳ございません。大声で。安らかなる眠りをお祈り申し上げます」
 [詳細は口外できないが、予定に影響が出る見通しだ。結果が出次第、報告をよろしく頼むよ]
 カノンは、皇妃とはいえ皇族の訃報に動揺を隠せないでいた。第五皇妃――マリアンヌ・ヴィ・ブリタニア。現皇帝の美貌と聡明さを兼ね備えた寵妃である。血の紋章事件以降、皇族のお住まいとなるセントダーウィンは鉄のセキュリティ網が敷かれているはずだ。病の噂もなく、あるすれば―ー。
 帝国領拡大を続けるブリタニアに対して、被占領国は日に日に憎悪と怨恨を膨らませている。テロリズム――その言葉が頭の片隅で躍った。
 それにしても、シュナイゼルに血縁関係は皆無だが親族である。――特別な感傷に浸っていてほしいとも思わないが、彼の口ぶりでは、死などありふれているようであった。
 「それも日常ですのね」
 すでにカノンとてテロの現場に居合わせている身である。それ以上に、シュナイゼルは慣れてしまっている。彼の従者であると決めた以上――動揺を捨て切らなければならない。彼がそれまで行ってきた子供騙しの反抗――火遊びや悪戯などでは済まない、絶命を望む者による本当の暴力を相手にしなくてはいけないのだから。
 短い通話を終え、庇から光の下へ進み出る。
 一定の距離で下がる、朱色のランタンから垂れる房が、風を浴びて一斉に靡きだした。
 


 a.t.b.二〇〇九 August
 日本・静岡 枢木家


 枢木ゲンブは珈琲の黒々とした水面に映る、自身の顔を見下ろしたまま、鎮座する岩のごとく動かなかった。
 書斎を兼ねた執務室には沈黙が横たわっている。お抱えの諜報員は複数人存在するが、彼ほど優秀な諜報員も奇特である。鋭い眼差しがソファに座るダミアンを捉えた。
 「それで……どうしろと?」
 テーブルを挟んでふたりの男が向かい合って座っている。
 ざらりと産毛を撫でるように不快な、重苦しい空気が漂っていた。
 側近や使用人は退室を命じられることなく、その部屋に居残り、彼らを見守っていた。また腹の底に響く威圧的な声音は、多くの者を萎縮させるだろう。毅然とした態度で向き合うのは桐原泰三の縁戚の男である。多くは、気圧されて物言えぬ者もいるが、一国の為政者相手に立ち向かう度胸に関しては評価されていいだろう――と枢木家の使用人は思った。
 「中立国同盟を結ぶべきです。閣下」
 「……偉くなったものだな。イチ軍曹が」
 日焼けした厚い頬の肉を持ち上げて、枢木ゲンブはにやりと笑った。
 首相の指摘通り、立場不相応の出過ぎた物言いである。ダミアンという男は日本人の血を引いているが、日本国籍を有していない外国人である。さらに、その外国においても特別な地位を有しているかといえば違う。国へ仕える身とは素晴らしいが、その政治的判断を下す立場でもない。戯言以下の進言を聞くのには、いくら知り合いの面子に免じても許容し難い無為な時間である。
 「私への誹謗中傷はいくらでもなさってください。貴重なお時間を頂戴していることも承知の上です。閣下。……しかし、確実な情報です。近々、ブリタニアはインドシナ半島を落とす。各国はカストラリアには仲裁を求めるでしょう。すると、日本に万が一のことが起こっても……」
 「助けを乞う、か……」
 「……ブリタニアからご留学中のお二方がいるとはいえ、楽観視は出来ませんよ」
 宙を眺めながらゲンブは「フッ」と鼻を鳴らした。
 日本とカストラリアに共通点があるとすれば、ブリタニア皇族が政略的目的で滞在していることだ。
 両国の婚姻条約は無期限凍結されているが、誰の目から見てもブリタニアの介入の口実である。
 「貴国が傀儡国家であるのは間違いないが、我々には我々の筋道がある」
 「……傀儡ではない。庇護ですよ。あれは」
 「庇護なものか。あの摂政殿下がいくら建前を述べようと、あれは支配だ。よくわかっているだろう、王女が死んでいるのを隠蔽している――あるいは、暗殺を企て襲撃させたのも摂政の命であったのではと巷で囁かれているが、それを真っ向から否定できないだろう」
 ブリタニアによる、カストラリア王室の乗っ取り計画ではないか――その噂はクーデターの頃から囁かれている。
 ダミアンはきっぱりと否定した。
 「噂は噂です」 
 「なに。既成事実などいくらでも作れる。世継ぎがないなら拵えればいい。その辺の女を捕まえてな。母親に似ておらずとも――偽装はどうとでも出来るだろう、彼の国であれば」
 ゲンブの言及するように、偽装は十分可能だ。
 「欧州の旧王室とて、誰の子かわからぬ子が紛れているという。なにも珍しい話ではない。そうでなければ近親交配が進み、革命より先に廃れていたであろうな。……そして、子に王位を継承させれば……確実にブリタニアの手中に収まる」
 それも正しかった。
 彼が乗っ取り計画だと断言するように、筋は通っている。
 ダミアンは軍務の一環で摂政殿下の移動任務にあたることがある。そこで知り得る多くの情報は口外厳禁であるものの、ブリタニアとの共同研究をはじめ、私的に親族を王宮に招くなど、干渉が見受けられる。
 沈黙に気をよくしたのか、ゲンブはテーブルの上から煙草の箱を弄り、一本を引き抜くと、火を先端に灯し吸い出した。
 「だが、戦争は避けねばなるまい。……それには……あの足の悪い盲目の姫君にも使い道があるだろう」
 「……彼女をどうする気です」
 ゆっくりと溜め込んだ紫煙を吐き出し男は言った。
 「政略結婚だ」
 ダミアンは顔を顰めた。
 「……どなたと? ……唯一の御子息には皇の姫君がいらっしゃる」
 「私とだ」
 「は?」
 開いた口が塞がらなかった。
 率直な感想を堪えきれず「年齢が開きすぎています」とまろび出て、くくっと喉を鳴らし男は笑った。彼には死に別れた妻との間にスザクがいる。年下の母親。悍ましい響きである。それ以上に、醜悪な発想にダミアンの表情は強張るばかりである。
 「政略とは建前の約束だ。本人ではなく、その肩書きに意味が集約されている。違うか?」
 「ご自身のお立場とご年齢との差をお考えになったほうがよろしいでしょう。御子息もいらっしゃる手前でありますし、なにより国際的に未成年の女児を相手にするのは……かなり問題かと。それにそれこそ、ブリタニアとの交渉が必要です。パイプはおありで?」
 「捨てられた命も同然であろう、あれらは」
 ふたりの子供は親から捨てられた――と平然と言い放った。
 「カストラリアとは違う。そう言いたいか」
 「お言葉ですが、閣下。それでは意味をなしません」
 「なんだと?」
 「お二人が捨てられた命も同然というならば、政治的効力も期待できないということですよ。あなたの主張は目論見と矛盾しているということです」
 ダミアンの言葉に、表情を消してゲンブは黙り込んだ。
 妙案のつもりだったのだろうか。政略結婚とは同盟関係を結ぶこと以上に双方の利害の一致が前提となる。
 「カストラリアの時とは違うと?」
 「ええ。なにもかも」
 男の視線が彷徨った。窓から射し込む光が執務机の上、ステンドグラス風のテーブルランプの色をきらりと反射させた。ダミアンは前のめりになった。
 「中立国同盟を。閣下」
 眉間の皺がより深くなり「若造が」と、彼は吐き捨てるように言った。



 a.t.b.二〇〇九 June
 カストラリア リダニウム

 
 贅沢なほど広い車内で彼はいつも手前の座席に座った。誰にそうしろと言われたのか、それとも自分自身で最初からそう決めているのか。乗り入れしやすい手前のシートで、決して上座である奥には行かない。カノンはそんな些細なことさえも気になりはしたものの、不必要なやり取りを好まないだろうと機会を逃してきた。
 王女捜しと同時並行で、首謀者の男が忌々しい人体実験を行っていると思しき場所の捜査を進めていた。春頃に王女の従姉妹、セラフィナ・ド・アルディックが証言した施設はメルカッサとアストレーにあった。
 第五皇妃の葬儀から、カストラリアに戻ったシュナイゼルのスケジュールは寸分の隙もないほど詰まっている。国際空港から乗り込んだリムジンの中で彼はようやく深い溜息を吐いた。
 どこへ行っても彼にはストーカー≠ェはりついている。しかし、溜息の原因は追跡者達ではないようだった。
 車内にはこの国の従僕や捜査員が数人同乗し、移動の合間にてきぱきと彼の世話をした。この後は非公式外事局の総会が控えている。
 「それで? はじめてくれるかい」
 タイミングを見計らうカノンを促し、シュナイゼルは懐中時計で時刻を確認した。
 「メルカッサの聖マルグリット慈愛院。アストレーのステラ・マリス孤児院。……入所者の面談を先月末から開始致しております」
 「ああ」
 「各施設の責任者には、王立大学の大学院の臨床心理ケア研修ということで許可を得ています」
 「ありがとう」
 学生時代から使っている銀の懐中時計の蓋を閉じ、暫くなにか考え事に耽った。
 各施設では先行して大学機関の名を建前に調査が始まっている。実際に大学教授に協力を仰いだ上で、面談を実施しているため偽りではない。
 「問題は……セラフィナ様の仰ったような、入れ替わりを決定づける証拠となる、入れ替わり先とのリンクが困難ということです」 
 「ふむ。……国内の行方不明者を過去数十年に遡り、五歳から八十歳の人物に絞るのは至難の業だ。せいぜい十歳から五十歳前後の範囲が望ましい。……ネクシウムの第四研究所の遺体の年齢で高齢者はなかった。ティラナを含め、フクロウの館の生存者、ウーゴ・マッテオ・ガルシアの年齢を考慮すると、実験に耐えうる年齢域はそのあたりだろう」
 総当りでは非効率的だと、シュナイゼルは指摘している。
 「両施設の入所者の聞き取りも重要だが、なんらかの理由で施設を離れた者がいるはずだ」
 「……その人物は、アルディックの協力者か、脱走者?」
 「そうだね。……もっとも懸念すべき事態がひとつ。……他人名義で犯罪の実行者となることだ。指名手配されてもまた入れ替わり≠行えば足はつかない。その拠点を突き止めることがチェックの近道だ」 
 「ええ」
 「彼は使い捨ての駒を、使い捨てることに躊躇がないようだからね。ローディックに慈悲はかけなかったようだ。……歯髄ともに大腿骨の骨髄の解析では本人とされている」
 フランドロ・ローディックはセラペント刑務所火災で焼身遺体として発見された。
 警察は、収監されていた囚人データと遺体の骨髄から判明する遺伝子解析を進めているが、異なる人物が紛れ込んでいる報告は現在上がっていない。
 「ネクシウムで発見された遺体タグの、暗号場所に関しては、ティラナの推測通りとして……」
 「……それもかなり難航しています。地域名だけでは広範囲。手当たり次第といっても、当件を露見させるわけにも参りませんし……動きを悟られることも避けなければ」
 八方塞がりである。
 シュナイゼルが窓の外に目を遣りながら話しを続けようとした時、携帯が鳴った。
 「……ああ。私だ。……空港を出たところだよ」
 話しぶりから、通話の相手は王宮にいる侍従長あたりであろう。
 「今年の開催についてはベルケス公と相談中だ。足場を固めるには必要な通過儀礼だろうというのがー―共通見解だよ。……心配してくれるのかい? 言うほどでもない。気にしていては代理は務まらないさ。これからヴィラ・ドーロへ向かう。首相もお見えになるし、……決めるよ。ああ、ではまた」
 短いやり取り。その中でヴィラ・ドーロの名が気にかかった。
 ヴィラ・ドーロ――黄金の館、サロン会場となっている建物の名称である。
 表向きは高級ホテルであるが、シュナイゼル曰く非公式外事局の会場の一つに指定されているそうだ。柔らかな微笑を湛え彼はカノンの方をみて、話の説明をはじめた。
 「話の途中ですまなかったね。……中部プラド・ヴェルデ地方にあるヴァルグレイ湖には、湖のすぐ近くにホテルがあってね。そこで毎年、王室主催の夜会が催される。昨年は潰れてしまったから、今年は開催しなければいけないんだ」
 社交界シーズンに宮廷主催の夜会――ブリタニアも似たようなものである。結婚適齢期の貴族令嬢による君主への挨拶と、社交界デビューの場であったデビュタントはカストラリアでは廃止されたそうだ。
 ブリタニアの貴族数に比較すれば小規模であるものの、少数精鋭の名門揃いである。富と不労の象徴である上流階級だが、国家貢献を是とするため世襲制だけで保つ家は後ろ指をさされる。これにより貴族階級でありながらその家の次男以降には軍に入隊か政界進出、研究職、起業する者が多く――個人タイトルを重視する傾向が強い。たとえ個人に才能がなくとも投資や寄付、慈善活動等の行為が称賛される。
 国力増強政策。反移民政策を補完する。いわば鎖国。そして、国粋主義である。大国が三つも存在し緊迫感ある戦時体制下――排外主義な点はブリタニアと同じであるが、支配を行わない隔絶され、ブリタニアの庇護下の中立国であることがカストラリアの特徴である。反移民政策自体は国王による禊であり――恒久的な規制ではなかったはずだとシュナイゼルは云う。
 奇しくも、この締め付けがあることで国内外の人流と動向は掴みやすくなっている。すでにシュナイゼルのある計画は水面下で既に動き出していた。
 「お一人では大変でございましょう」
 カノンは滑らかな声で同情した。
 「貴族達の動向を把握するには、良い機会になる。――彼は欠席するだろうが、招待状を出すよ」
 毛髪と同色の睫毛が下がる。
 「私の目当てはサロニア公の出席ではない。彼の代理人――つまり、協力者を洗い出すことだ。説明するまでもないかな」
 その言葉と眼差しはカノンに対する教育だった。
 はっきりと明言しないものの、シュナイゼルは説明するまでもなく意図を理解する者を求めていた。
 その方が、周囲に気取られる心配もなくなる。こうして密室となる空間ならまだしも、屋外で一々説明されて納得するようでは、彼の駒以上の存在になり得る資格はない。
 カノンの苦労はこれ以外にもあった。没落寸前の一介の貴族の障壁は数多ある。まず、ブリタニアと異なる宮廷の仕来りも覚え直しである。
 言語についても同様で、ブリタニアでは英語が第一言語だが、この国では当人のルーツ次第で第一言語が変わる。宮廷内に通訳者はいるものの、あくまで王とその家族、謁見する賓客と貴族に配慮するものであって、従者が利用していいわけがない。
 そして、王宮に仕える者たちは選りすぐりのエリート揃いである。――ブリタニアほど広大で、群雄割拠、弱肉強食の派閥とひしめき合い。互いを蹴落とし合う卑劣的態度はなく、集団として纏まりのあるおとなしい人々が多い。
 だが、あくまでも忠誠心はカストリア一族へ向けられている。
 これにはシュナイゼルとて力の及ばない領域である。――どう逆立ちしても、彼は外国の皇子であるし、王女なくしては存在の正統性がない。彼に他意があろうとなかろうと。反移民政策とクーデターが向かい風となり、母国ブリタニアの強硬姿勢が国際情勢に緊張感を与える行動に相関して、より厳しい立場に追いやられるだろう。
 ――急がなければ。
 カノンはシュナイゼルよりも王宮内の空気に敏感でいた。
 彼よりも従者たちの目線が近いから、尚更心情の理解ができる。現在の代理王の面前で陰口を叩く者はいまい。君主制の危機にありながら、それを維持する雇い主に向けて、不遜な態度は許されざる悪徳である。しかしながら個々の心境は憂いに満ちている。致し方のない事である。
 巷のゴシップでは、王女死亡説も囁かれている。これに王宮仕えの者が情報に疎いわけがない。そして――昨年またブリタニアは統治エリアを増やしたばかりだ。エリア九。旧ニュージーランドである。
 いくらシュナイゼルが王室に並々ならぬ忠誠と貢献をしても、結果が出るまで信用を置くことを控えているよそよそしさを肌で感じる。
 彼いわく、王女不在の実態が王宮内の一部の従者たちに露見してからはっきりしたらしい。
 カノンが未だ友人であった少年の正体が、王女だったことを受け入れ切れていないように、彼らもまた、それまで仕えていた少女が偽物であったことを受け入れられていない。
 一連のあり得ない話を信じようとする時、彼らが信仰していた前国王が、許されざる罪を犯していたことさえも認めなくてはならない。
 空中分解が起きかねない亀裂。シュナイゼルはただ一人、継ぎ接ぎの上に立ち続けている。
 ブリタニアの貴族が従者、あるいは側近として彼を支えるには。それには、――失態は許されない。カノンの失態はシュナイゼルの立場を危険に晒すことに繋がる。だからこそ。彼の一挙手一投足に注意と意識を払い、細かく意図を読み取る。不満があれど、声を荒げることも激しい叱責もしない。凪のような人の、ほんの些細なシグナルを的確に汲み取る。
 カストラリアの侍従長は、例外的に真意を確認することもあるが――子供の頃から見てきた名残であろう。こういってはなんだが、侍従長は彼の実の父親よりも父親のようである。
 直々にご教示を仰ぐ幸運に恵まれたことに感謝し、今一度カノンは身を引き締めた。
シュナイゼルは捜査員に「スケジュールは」と尋ねた。公務外で空いた日に捜査の予定を入れている、その確認であった。
 「先にお決めになられたような編成です。殿下」
 「……振興チャリティなどにも顔を出す必要があるが、体がいくらあっても足りない。参ったね。ははは。そのおかげで重要な冠婚葬祭ばかりで埋まっている。親族が多いのも困りものだね」
 そうは言うもののそういう場こそが社交場となる。接待、紹介、取り計らい。これが外交の基礎だ。招待されれば出席する。逆も然りだ。シュナイゼルは顔がとにかく広い。メールでのやり取りもあるが、手紙やカードなどアナログな仕事もある。精彩を欠く退屈な仕事の連続――とはいえ、これ以上の適職はないだろうというほど満足にこなしてみせる。
 さしあたってカノンはそれまで抱いていた疑問を投げかけた。
 「……第五皇妃殿下の件も、当件と関わりがあるとお考えでいらっしゃいますか?」
 「いいや。あれは、別件だろう。……彼女との接点はたしかにあったけれど、特別なやり取りはなかった。夏には皇妃の長子ルルーシュと……冬には私の母とチェスをした。それ以上のことは何も無い」
 やれやれとシュナイゼルは肩を竦めた。
 「あてが外れたね」
 「え?」
 「いや。ルルーシュとナナリーのことだよ。……父君に具申を行ったが、取り合ってもらえなかった。……ふたりをこちらの国へ渡るようにと伝えていた」
 「存じておりますわ。宮廷内でも噂になっておりましたし……」
 「うん。……あの人の胸の内はわからないさ。神か読心術者でもない限りは」
 人を石に変える瞳を、彼は再び外の景色へと向けた。
 「アッシュフォード卿には手紙を書くとするよ。ブリタニアでは先がないだろうから」
 「お優しいのですね」
 溜息混じりにふっと軽く笑い「必要なことをしているだけさ。時間稼ぎにはなる」と呟いた。
 「国防省直轄の研究所、開発機構にポストがないか聞いてみるよ」
 一定の成果を出せば、カストラリアでも貴族としての地位が約束される。
 その代わり仕事はタイトだが。――このように他国で事情があって伸び代があるにもかかわらず敗れ去ったものを受け入れることが、カストラリアの伝統である。そのようにして大きくなった国は――今やハゲワシと呼ばれている。
 「話を戻そう。それで、移民局の方はどうだい」
 「はい。移民局の方は――」
 首都一等地、黄金の館までの道沿いに。
 長い冬と春を終え、低地では珍しい高山植物が、色鮮やかな緑の中で花弁を太陽に捧げていた。



 a.t.b.二〇〇九 August
 カストラリア 王室記念リダニウム大図書館


 首都以内の図書館は全部で二十三ほどある。その中でも王室が拠出し運営起点となった図書館がここ王室記念リダニウム大図書館であった。
 円形のドーム状の屋根。高い天井までに埋め尽くされるサークルに沿う湾曲した本棚、工芸的に細部まで工夫が施されてぴったりと収まる蔵書の数々。
 検索用のPCは埋まっている。カウンターの司書には五名が列をつくっている。音もなく息をつき、ダミアンは壁に掛かった館内のマップを眺め見て目星をつけた。
 夏季休暇を終えカストラリアに帰国したダミアンは、彼の所属である陸軍駐屯第三基地で本部から来た幕僚下士官に資料探しを命じられた。
 営内の食堂で昼食を摂っている最中だった。
 ――『資料ですか?』
 彼自身の仕事ではないか。野暮な指摘を喉の奥から漏らさないように唾を飲み込んだが、お見通しのようだ。
 同階級であるにもかかわらず、彼はそうしてのらりくらりと本部付きの役職に就いたのだろう。世渡り上手である。
 ――『新任の大臣の方針だ。議会答弁で必要になる資料作成のために、必要でね。データベース参照じゃいけないのかって? みんなそう思ってるよ』
 ――『私の仕事の範疇でしょうか。それは』
 幕僚下士官は眉をぴくりと震わせた。近くで話を立ち聞きしているダスター曹長が青筋を立てた。
 もっといえばこの手の使いっ走りは文官などの仕事である。
 ダスター曹長はふたりの間に入りなあなあと宥めた。
 ――『口答えしたくなる気持ちもわかる。だが、バタバタしてる。見ろ、夏季休暇を各自とってるからな。お前だっていくつか仕事を増やされて苛つくのもわかるが。……大臣は、新年度初っ端外したくないんだろうよ』
 後半の部分を声のボリュームを下げて囁いた。
 どうだと幕僚下士官はダミアンを見下ろした。
 ――『報告時、連名にしておいてやる。君もいずれ幕僚へ上がる身だ。今のうちに大臣レベルの視点に触れておけ』
 ――『……私がですか?』
 ――『出世したいだろ? あとは、わかるな』
 意味ありげな目が探る。そこには、ほのかな違和感があった。
 幕僚下士官は、ダミアンに現場の実態を含めたデータと、過去の軍関係者に与えた領地と資金の流れについて調べるよう命じた。
 九月最初の議会で国防大臣は、クーデター・国家反逆加勢疑惑について軍部の潔白を示したいのだろう。我々軍の頭から現場の兵士まで、いかに厳格に法と秩序を遵守しているか=\―疑われるほどの背信行為も他の信仰も持ち合わせていない≠ニ。だから奇妙にも、下士官に資料作成を命じる意義はそこにある。
 資料作成には軍内資料室、王室記念図書館の閲覧不可の資料が必要であった。カウンター近くのテーブルに座り、司書の列が消化されていくのを待つことにした。
 柔らかな赤みのある色素の薄いブラウン。後ろで一纏めに垂らした、長髪が揺れる。一見女性のように見えるが、靭やかな直線と肩幅の広さ。骨盤の狭さは男性的である。通りがかった女性司書が花顔柳腰な青年に声をかける。
 「なにかお探しですか?」
 「ああ。過去数十年の民間軍事会社に関する資料を探しておりまして……」
 青年は司書に案内され、薔薇の花弁のように幾重にも並ぶ本棚の奥へと消えていった。
 静かな図書館ではあったが、常に低い音読の声が環境音に紛れて這っている。一人の成人男性が背を海老のように丸めて分厚い本を開いている。白い頁と鼻先をくっつけてしまうほどの至近距離で、ブツブツと呟いている彼は、この図書館の有名人である。
 「すみません。こちらのテーブルを利用してもよろしいですか?」
 「ええ。どうぞ。お好きなように」
 その声は先程司書とともに資料を探しに出かけた青年だった。見かけの印象を損なわない美しい微笑を湛え斜め前の席に座った。数冊のファイリングされたバインダーがテーブルの上に重ねられている。
 背表紙には持ち出し厳禁物のイエローのテーピング。民間軍事会社についての調査。捲る内側の頁は新聞の切り抜きが多い。新聞の上部の印刷技術は地方により特徴が異なる。彼は地方で発行されたものの中から情報を探っているようだ。仮に、軍事会社の情報を求めるなら国防省か軍部資料室に問い合わせる方が理にかなっている。
 ――さっきのは口実か。それとも。
 情報アクセスは不慣れか、別の情報を探っている。しかし、禁書コーナーのアーカイブス。
 一体どんな情報を求めているのか。ダミアンはほんの好奇心で彼に声をかけた。
 「大変そうですね」
 「ん……? ああ……無茶振りは慣れていますから」
 紙面を滑らせていた、淡く落ち着いたブルーの瞳がダミアンを捕捉する。
 「……なにか事件をお探しですか?」
 「え?」
 少しの驚きと警戒心を募らせた彼の顔の筋肉に、僅かに力が籠もった。
 緊張を解すようにダミアンは笑いかけた。
 「だって貴方、過去発行された新聞ばかり調べている。地方紙、主要新聞は経済欄ではなく、同じく地方版。そして、そちらにある、リストアップ済みの方には、誘拐事件ばかり。……職業は探偵さん?」
 「……あ、ええ。まあ、そんなところですわ」
 英語。遠回しかつ柔和な熟語の表現。気候的にいえば開放的な地域のアクセント。だが、不快感を与えるほどの癖の強さではない。
 「……貴方、ブリタニア人でしょう」
 綺麗な青年はそのまま固まった。
 奇術師の手品に言葉を失う客であれば、どれほど素晴らしいだろうか。不信な眼差しを拒むようにダミアンは手をかざした。
 「アクセントが少し」
 そう言って、彼は「ああ。わかりやすいですか?」と訊き返した。
 「……色々なルーツを持つ方がいるので、この国には。相手に尋ねるより前にそのアクセントでどこ出身か見当つけるんです。リダニウムの人は特にそういうところがあるかな。探る癖がある。南へ行くほどかなりルーズです。それこそ様々な人が暮らしている。探偵をされているのなら、まず、アクセントを覚えた方がいいですよ。相手の言っていることが嘘か本当か、言葉だけでは誤魔化されてしまう」
 青年はじっと目を凝らし、お返しだと言わんばかりに「軍人の方ですよね?」と言い当てた。
 「私ですか? そうですよ。一応軍人。体格でわかりやすいでしょう。あとは、歩き方かな」
 彼の探る視線は、胸元と左側にある腕章に移った。それをすぐに察して掌で覆い隠す。
 「おっと!」
 「え」
 「カンニング防止です。階級章をみて相手を判断しているようでは、半人前だ。制服を替えれば偽装できるような格好なんてものは先入観を招く。アクセントは違う。真似してもしきれない箇所が絶対にある。それに、そこの出身なら、知っている常識や習慣で見破ることが出来る。貴方の仕事は、相手の嘘を見破らなくてはならない。……どうですか?」
 「ふふ。その通りですわ」
 十代後半から二十代前半の青年。探偵としてはまだまだ初心者。エスタンブリッシュな言い回しが混ざる。ブリタニア人。
 移民ではなく観光客という線も考えつくが、図書館で禁書を探るのはスパイ行為とも取れる。それにしては外国人を偽らないのは間抜けだが。さらに彼の関心はカストラリア国内の誘拐事件。単純なメディア関係者の取材旅行か。
 ダミアンの沈黙に反して、青年はちらりと広々とした館内の片隅から響く音読について質問をした。
 「……あそこでさっきからブツブツ言ってる方は?」
 「彼はここの住人です。司書も注意しません。そういう特性の方なので。……非常に物知りな方ですよ。どうしても困った時は、尋ねてみるのも手だ。そう。彼の目標はこの図書館にある記録や書物を全て頭の中に取り込むことです。世界記録を樹立するかもしれない。……だから彼がわからない≠ニ答えたら、まだ読んでいないということです」
 「なるほど。つまり……彼の読んだ本を除けば、絞れるということね?」
 「ご明察。そうです。……ただし声をかける時、質問はかなり詳細に用意しなければ、彼は癇癪を起こします」
 「貴方は彼を頼ったことがありますの?」
 どこか怖々と見つめる彼には余程奇異に映るのだろう。カストラリアは、超競争社会であるブリタニアと対極に位置する福祉国家である。
 ダミアンはふと思い返してみて「一度だけ」と答えた。――だが、どんな質問をしたかは不思議と思い出せなかった。
 「……声をかけるタイミングはトイレに行きたくなった時。足をゆすり始めたら合図です。彼をトイレに連れていき用を立すよう促すだけ。ぐずってもこちらが感情的になってはいけません。ルーティン通りに動くのを待ってください」
 その時、カウンターに立っていた司書がふたりのいるテーブルの方に顔を向けた。
 青年は注意を受けると思い、声を潜めた。
 「事細かにありがとう。参考にさせていただくわ」
 「お邪魔してすみませんでした。順番が来たのでこれにて失礼」
 ダミアンは苦笑いを零し、椅子から立った。
 図書館内に反響する低い呪文が途絶え、今度はカタカタとテーブルの振動音に変わった。




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午前四時の異邦人
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