a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア リダニウム 陸軍駐屯第三基地
ペリスタイルのコロネードを思わせる、壁に囲まれた二対の対面型のレイアウトの議場には、総勢四九八席の定員のうち四三二名が着席し、国防大臣のスピーチに聞き入っている。
公共放送CACによる議会中継で、国防大臣は軍部によるクーデター疑惑の追求への回答に徹し、その答弁は拍手喝采をもって締めくくられた。
食堂の天上付近に掛けられているモニターの前には多くの兵士達が昼食を摂っては、時折議会の映像を眺めていた。
壁際で食後の紅茶を啜るダミアンの肩に、上長であるダスター曹長が手を置いた。
「どうだ?」
「フラネットの奴、下書きのままほとんど改稿せず提出したみたいです」
フラネット。ダミアンに資料作成を命じた幕僚下士官のことである。ダスター曹長は苦虫を噛み潰したような顔でフラネットを非難した。
「なんだって? おいおい……それじゃあ、あいつに体よくこき使われただけってことか。クソ野郎……」
「曹長。言い方というものがありますよ」
ダスターは一旦受け流し、資料の内容について褒めた。
「なかなかいい出来だ。ダミアン。お前は軍人より事務方が向いているんじゃないか?」
「恐縮です」
食堂の窓から蛍光色の光るカラフルな集団が山の方へ進んでいくのが見えた。
「増えてきましたね」とダミアンは目を眇めながら言った。
北部はモンスーンが明けて来て、南部よりもシーズンを先に迎えようとしている。窓に顔を近づけて、ダスターは大きく頷いた。
「今年は早い。それにしても、今日はトレッキングには最高の天気だな。そうだ、週末空いてるか?」
「訓練で散々登ってるのに山登りはご勘弁です」
「いやいや、これからの季節が良いんだって」
雑談を交わしていると、スキンヘッドが特徴的なカモンズ曹長が食堂に入り、ダスターとダミアンの元へ近づいた。
「おーい」
「なんだ。今せっかく面白いとこだってのに」
「何をいうか。話は最後まで聞け。王宮直々の仕事だぞ、貴様ら」
「おっとっと。それは不味いな」
カモンズは咳払いし、任務を告げた。
「再来週の半ばより、中部山岳地への随行だ。いつもの足≠カゃ回れないところらしくてな。日程は四日から六日ほどらしい。……ダスター曹長、モリシャルト軍曹共に任務を頼む」
「了解。拝命いたします」
「よろしい」
ふたりは形式上の敬礼を取った。カモンズは納得したように唸り、早々と食堂を去った。
ダスターは再び窓辺に体を向け「またか」と呟いた。
「また?」
「非公式慰問だ。どういうわけか、全国津々浦々の福祉施設を訪ね回っている。……なんだ、お前は初めてだったか?」
「あぁ……おそらく。リダニウム内の移動には当たったことがありますが」
シュナイゼル摂政殿下はかなり忙しい方である。それは噂ではなく、度々任される送迎の任務で知るところにあったが、非公式慰問については初耳だった。
ダスターは軽く笑い、腰に手をあてた。
「それじゃ事前にブリーフィングが必要だな。相手はブリタニアの皇子様だ。ご丁重に。安心安全を心がけてな」
「曹長。いささか不敬ですよ」
「なあに。こんくらい……。王女様なら、荒い運転でも喜んでくれるかもしれんが」
「王女様とお会いになったことが?」
「あぁ? まあ……俺の初任務が、民間薬品会社との打ち合わせでな。送迎だったんだが。酷かったよ、俺の腕が。車酔いをさせて……恥をかいた。輸送部隊に適正はないと異動も考えたが、運搬物品・対象に合わせた運転技術を獲得するなら続けた方が良いと仰られてな」
「王女様が?」
快活な人柄であることは知っている。しかしダスターが初任務となると、王女の年齢はかなり幼い頃の話となる。
「驚くだろ? 幼い頃から聡明な方だった。公にほとんどお見えにならない今、我々世代と今の若者では王室への考え方が違う。そうは思わないか? 新人を教育していると特にそう感じる」
「愛国心が?」
「それもある。……忠誠心だ。国民のための国防は当然として……。……歴史に敬意と関心を喪う民衆に支持されて幸福か? キラータ、リッチャヴィの生きた宝石の価値を安売りしているみたいに」
「だからこそ、国防大臣はクーデターの関与の否定を行ったのだと思いますよ」
ダスターは一息つき「それもそうだ」と言った。
問題は民衆に流布する噂――マスメディアによる過激な情報操作と扇動であろう。
「死亡説や摂政による暗殺説が出回っているみたいですが」
「なんだって? ……不謹慎だ。きわめて。民族的瓦解を促進する、工作の類だ。隣国や反王制組織のな」
ダミアンも小さく頷く。
この点は法重視、不敬罪の規制が緩くなった現体制の弱点だろう。軸となる君主本人がただ一言私情を漏らせば、それは聖旨となり、体制は旧来の時代に逆戻りだ。代理人の摂政周りで浮いたスキャンダルが一つないせいで、捏造が捏造を、噂がさらなる噂へと尾ひれをつける事態になっている。
「……曹長が、そんなに信仰に篤い方だとは思いませんでしたよ」
「まったくだ。俺自身でさえ驚いてる」
休憩時間終了の号令とラッパが営内中に響き渡った。
a.t.b.二〇〇九 September
リダニウム カストラリア王宮
執務室はたっぷりの日差しを取り込み、間接照明いらずの明るさであった。
半世紀前まではリダニウムは盆地構造の地形条件から、砂埃と排ガス、大気汚染が視界不良を引き起こしていた。セイル治世で近代化改革が進み、地震対策プレートにあわせて緑化が進み、また高層ビル壁面に設置された大気浄化法に基づく静電フィールド――通称大気浄化カーテンやバイオ・ミストなどにより環境問題がクリーン化されている。どれも空気中に漂う有害物質を含む粒子に電圧をかけるか、吸着させ酵素の分解力で汚染を軽減させるものである。これにより、視界不良となることなく日中の日照時間も確保されていた。
完璧な青空の広がる昼過ぎ。軽い昼食としてサンドイッチと紅茶をとるシュナイゼルの視線は、テレビの議会中継の様子に注がれていた。
「いいスピーチだ。サー・ロンハードの功績を称えなくてはね」
賛辞を口にする主君の隣で、侍従長ハーゲンはカノン・マルディーニの分の紅茶を注いでいた。
「あの……私の分は結構でございますわ」
「何を仰るのですか。殿下が御学友をお連れになることなどございませんでしたから」
「御学友……」
丁重な辞退もなにも、既にカップの中で透明度の高い赤褐色の液体が満たされている。茶葉は勿論のことカストラリア産である。飲み干さなければ失礼にあたるだろう。トレーの上のソーサーとカップは、カストラリア産高級陶器メーカー作製の深い紅色のオリエントな文様で彩られ、それはそれは高級品と見てわかる代物である。
それまでカノンは外での情報収集活動が多く、王宮に上がったことがなかった。
「遠慮はいらないよ。君が飲んでくれたほうが、王宮の者の仕事になる」
「ああ……はあ。それでは、遠慮なくいただきます」
上等なカウチに腰掛け、コルチェスター学院時代とは異なる緊張感とともにカノンはカップを持った。
そうしているうちに、テレビからは拍手喝采が鳴り響き、全員の目が画面に釘付けになった。
「なにか取引をなさったのですか。殿下」
ハーゲンがシュナイゼルに尋ねた。
「少しね。情勢を考慮して一つご協力いただいた。……クーデター時、陸軍所有の発射機や砲台が利用されていた。当時の第三者委員会による聞き取り調査では協力者は出てこなかったが……それからマスメディアの餌食になっている」
「……これから、何が起こるか、ご存知なので?」
ごく慎重な声色でハーゲンは、主君に問いかけた。
「ふっ。父のことはわからないよ。しかし……仮に今後強硬姿勢が弱まることなく続くのであれば、……私の立場も危うくなる。たとえ暗殺を企てる計略があろうと、国民と軍部を対立させるわけにはいかない」
シュナイゼルを討つ。これが実行されると既に疑惑の軍部が国民と対立する。そうしている間に隣国が押し寄せてくる。これが最悪のシナリオである。実情がどうであれ建前は必要だ。
ハーゲンは得心がいったように「手を打ったのですね?」と尋ねた。
「隙を与えては餌食になる。隣国のね。最善策は……話し合いを持てればいいが……」
空になった皿を執務机の端に置き、引き出しの二段目からレターセットを取り出した。
「ハーゲン。……午後の謁見には参謀総長がお越しになるね?」
「はい。ロンハード卿でございますね。予定通り伺っています」
シュナイゼルは手紙に文字を書き進めながら「彼は此方側につくだろう」と言った。
その言葉にカノンがはっとしたように振り返った。
サー・ロンハード。カストラリア王国・国防参謀総長である。
今夏、ヴァルグレイ湖畔で開催された夜会で一番の収穫といっていい。
九年前には海軍中将であったロンハードは現在、海軍大将と数年ごとの任期経て国防参謀総長の職にある。ブリタニアと違い、海軍の地位は軍種として高位ではないが国防の要である。とりわけ、現在緊張関係にあるアジア――太平洋海域で海軍は東南アジア諸国と緊密な連携をとりつつ、ブリタニア海軍を警戒している。
a.t.b.二〇〇九 August
カストラリア ヴァルグレイ湖畔
ヴァルグレイ湖畔のホテルを見下ろす小高い丘。王室所有のサルビアブルーの別荘の前に黒塗りの高級車が停まった。
ミッドナイトブルーのジャケット、黒のトラウザーズには太い金線が真っ直ぐ入り、武勲の証である肩章とメダルが左胸を彩り、鏡のように磨かれたエナメル靴は光がなくとも輝く。開放された白い両開きの玄関扉を大柄の男は潜った。王宮に比べて、手狭なホールの中央に待ち構える大階段を侍従に案内され、堂々とした足捌きで登った。
落日まであと二時間ある。
夜会は数日間かけて行われる。そのうちの中日であった。
書斎の前廊下で呼ばれるまでの間、用意された椅子を横目に、ロンハードは壁に沿うように直立不動でいた。
やがて侍従が室内から扉を開けると『ユーサー・ロンハード卿でございます』と高らかに名を読み上げた。
書斎では執務机に向かう青年がひとりきり。摂政殿下に呼び立てられた多くの者が想像していることだろう。もしかすると王女は公にお出にならないだけで、私有地内では健やかにお暮らしあそばされているのではないかと。
期待を持ち、詮索を含めた不躾な視線には慣れているのか、黒いインクのついたペン先を布で拭い、美術的価値のある高名な画家が死しても隠し持つコレクションの中で息づく――そのように美しい青年は軽やかに微笑んだ。
――『お招きいただき感謝申し上げます。シュナイゼル殿下』
王女の若き代理人は、いくつか並んだ統一性のあるデザインのソファの方へ手を差し伸べて、『どうぞ』と着席を促した。
同時に部屋の入口から従者がカートを押し入れて、優れた調度品に同化したように、ごく自然に透明人間の仕草でお茶の準備を始めた。
――『サー・ロンハード参謀総長。出世されましたね』
――『はい。殿下。久しく――といっても八ヶ月ぶりでございます。改めて、栄えある名誉を賜りましたこと、生涯の誇りといたします』
ソファに着く前にロンハードは深々と礼をした。
九年前の頃よりも、シュナイゼルのカストラリア語は馴染んでいた。この国で完璧なカストラリア語を話す事のできる者は、カストリア家だけだろう。彼らが基準である。王女は両親の影響を受けて、スラヴ系言語と一部ドイツ語の癖の混ざった発音が特徴的である。
言語・言葉とは生物のように進化し、一定ではない。操る人間自体が不変のものではないのだから。完璧な言語というものは存在し得えず、同コミュニティにのみ通用する暗号の役割を果たしてきた。
もしも、摂政殿下との間に子供が誕生すれば、その子のカストラリア語はより複雑な取り合わせとなるだろう。カストラリア語は、国家と王家のルーツ、その成り立ちのすべてを内包する。さらにこの言語を習得した者のメリットは、世界に分布する約三割の他言語の学習を容易にする。
仮に、第一言語がカストラリア語の話者がいればその両親の出身とルーツを言い当てるのに、カストラリア語の熟語の中で特定のワードを喋らせれば判る。ロンハードの長い軍役生活で培われた能力のひとつだ。
彼の声音自体は優美であるが、硬質な響きを伴う時があった。
母君がドイツ系名門貴族である所以であろう。
緊張の解れないロンハードにもう一度、安堵を招く微笑を傾けると、シュナイゼルはペンを置いてテーブルに置かれている茶器を手にした。
ロンハードは平民出身だが、軍退役時に叙勲リストに加わり、一代貴族と高級職出身者のみに与される勲章が授与された。昨年十二月にそれまで停滞していたリストは消化されていったが、多くの者がその栄誉を、正統なる君主の手から賜りたかったであろう。
彼に呼び立てられた者の苦労は、世間話であろう。本題にいきなり入るなど、無粋極まりない愚の骨頂である。ここは社交界の裏舞台である。
ブリタニア人。皇族という支配者階級。食べる者も文化圏も異なる。――多くの者は神よりも、王女を希求するに違いない。
二周りも下の青年との共通話題。
王女がいればあれこれと会話が弾む。社交界の不文律を守ると、自ずと王女から話題を振らなければいけないからだ。
シュナイゼルとて、相手の戸惑いを見通せぬわけがなく、何人とも同じ沈黙を味わったがゆえの打開策として、会話の切り口を作ることにした。
――『王女がいれば、随分賑やかでしょうね』
――『ああ。……そうですね。湖の方から吹く風の音がよく聞こえる。落ち着くには良い別荘ですね』
――『ここは比較的小さな方ですが、こうした別荘や離宮が国内にあと十九ほどあります。国外には五つ。そのうち二つは島です。……王宮でさえ持て余しているのに。身に余る贅だ』
ロンハードは『ああ……』と溜息の混ざった相槌を打った。
先々代の所有物ばかりである。億万長者と聞こえは良いが、手入れの行き渡る人員が過不足なくあってこそだ。先王セイルも相続には苦労したと聞く。クーデターで夫妻が共倒れし、一気に相続人である王女へ押し寄せた。当時、貴族出身の軍人達からは不憫でならないと同情の声が漏れ聞こえた。
――『相続が、さぞ大変でしたでしょう。いくつか貸し出しているとも耳にしました。国内はこのヴァルグレイを含む三つの別荘を除いて、公邸扱いでしたね?』
――『ええ。首相から親切な提案を受けましてね。……生前贈与で計画的に進めていれば痛手ではなかったでしょうが……特例法を通していませんでしたから、国民と同様の法を適用され、相続税が嵩みましたね』
――『ご愁傷さまでございます』
――『どうも』
シュナイゼルは紅茶で喉を潤した。
あれほど気の回るセイル国王は、王から法定推定相続人への王室特例を組んでいなかった。
特例とは相続税を非課税とすることである。遺言書や勅令にはまず王后への相続についての記載はあったが、娘へは途中であった痕跡が見受けられた。
国民と同じ義務を課すことを建前に全資産を相続した後、ベルケス公が一時国へ管理委託を決め、公邸や博物館や美術館等として公開し、収益で補填している。
――『王女さまが塞ぎ込まれるのも、無理はございませんね』
――『ご理解いただけますか』
――『非貴族階級出身の私には、天文学的数字です。……背負うものの重さが異なる』
――『そんな貴公も、貴族となった』
――『有り難いことでございます。生活が大きく変わるといったことはありませんが、サーと称号がつくことは大変気分が良いですよ。常に褒められているような気分にさせてくれる』
――『現在の国防参謀総長の任期は三年ないし四年ですが、その後についてはなにかお考えですか?』
――『気が早いですね。まだ始まったばかりです。情勢が……』
そこでロンハードは言葉を切った。
話を続けるにはブリタニア批判は避けて通れないからだ。
シュナイゼルは静かに促した。
――『構いません。ここはカストラリアで、皇族批判にはあたりません。閣下』
ロンハードは一度咳払いし、続けた。
――『情勢が安定的ではないので、引き継ぎに気を遣います。何事も』
シュナイゼルは頷いた。
任期は大抵三年であるが、その間に有事が起これば重役者達の期間は延長される。特に海軍出身のロンハードは実態の把握に長けているのだから、事実である。ブリタニア帝国と帝国海軍は、太平洋海域での軍事作戦行動の頻度を増やしている。
――『警戒されるのは無理もありません。安全保障の面からいって、多くの国家の敵です。私のバックグラウンドは』
元海軍大将は困ったように首を捻った。
――『どれほど国に尽くそうとも、現状が上塗りする。……一時的とはいえ、……国民を飢え死に≠ウせるわけには参りませんからね』
シュナイゼルの言葉を聞いて、ロンハードは軽く口角を持ち上げた。
九年前。晩餐の場を預かったティラナの言葉を引用した。
――『彼女なら、もっと上手なジョークを言うかな』
――『恐れながら。その通りでございますね。王女様ならば、猫とネズミのゲーム≠ナしょうか』
――『はは。お見逸れしたよ』
ヴァルグレイ湖畔ホテルで開催される夜会に出席する貴族のうち、すでに特定が進んでいるサロニア公爵と関係する欠席者は三名。
数百名もの貴族の中にはスパイが紛れている。慎重を期すべきだ。
シュナイゼルはそこで、平民の出の一代貴族であるサー・ロンハードに目をつけた。
ロンハードが貴族入りを果たしたのはごく最近で、なにより海軍出身である。暗礁に乗り上げている貿易局の捜査の突破口を開くには、海軍ルートが必要であった。
敵か味方かといった篩を掛けるには、手始めに信仰を試そう。
――『サー・ロンハード。貴公にご協力いただきたい話があります』
――『私にでございますか?』
――『なに、悪い話ではありません』
青年は悪魔をも魅了する微笑みで得意の交渉に入った。
a.t.b.二〇〇九 September
リダニウム ホテル・セレニタス
リダニウム内にある八軒あるそのうちの一つ。
国賓・貴賓を饗すときであれば無難な宿泊先の候補に必ず上るといっていい五つ星の名門ホテル、ホテル・セレニタス。
もっとも国賓クラスの客人は一定のサービスが保証される高級ホテルではなく、政府が借り上げている王女の私産である別荘や離宮への招待を心待ちにしている。いわば迎賓館のことである。王女が借り上げを解いてしまうと、私邸扱いとなるため個人的な関係性を築かなければ拝観は叶わない。
国賓や貴賓の送迎には王室専属運転手が担うことが殆どであるが、季節によっては個人的な休日にヒマラヤのトレッキングを楽しむ人も多く、岩山を車を走らせるために招集がかかる。
そして、外務大臣や首相は私的交流にホテルのバーに連れたって接待をするのが定番コースだ。
普段は送迎でロータリーまでで終わる場所に、一般客として館内を練り歩くのは不思議な感じだった。ダミアンは約束の時間に、指定場所のバーへと急いでいた。
最上階にあるラウンジバーは、ラグジュアリーの行き届いた目眩のするほど別世界の光に包まれていた。コンセプトは宇宙であった。
天井には惑星のオブジェ。クリスタルの輝きは星々を。床の大理石は地層を彷彿とさせる縞模様が波打つ。地球を表現している。隅々にまで美意識の宿るその空間において、砂埃の被る軍の制服姿などマナー違反である。
青い調光色の中で際立つシルバーと赤のスツールの上で、待ち人の金髪の女が、音もなく振り向いた。
誘ったのは彼女の方からだった。男に断りを入れる理由も権限もなく、メールを受けて慌てて半休を取得した。
ツヤのある肩を出した、ラベンダーカラーの長いワンピース姿の彼女。ルチア・マッケンジーは、左手首に巻いた細いチェーンの腕時計を確認した。
「遅かったわね。ダミアン」
「ごめん。仕事が長引いて」
「それはわかってるわ」
滅多に着ない生地の厚いシャツと濃紺のスラックス姿で、ダミアンはルチアの隣の席に腰掛けた。
上空からフレグランスの混ざったような香りとともに、微風が下りてきていた。シトラスが短い夏を演出している。
カウンターの向こうでは、バーテンダーの白黒制服の青年がグラスを磨いていた。やや薄暗い雰囲気の中にバーの光が淡く浮き上がっている。
「お酒は?」
「まだよ。せっかくだから、乾杯しようと思って」
「下でセールを見かけたけど、いいの?」
待ち合わせ場所がバーなのは、彼女の勤務先がこのホテルの入るテナントのワンフロアにオフィスがあるからだ。時刻は十八時。乾杯にはまだ早いような気がした。ルチアは波打つ金髪をそっと耳にかけて、下からダミアンを見上げた。
「ショッピングをするの? そんなのいつだって出来るわよ。それに、私より貴方の方が服が必要だと思うわ」
「……宿舎にはこれしかなかったんだよ。ドレスコードは問題ないはず。フロントでは止められなかった。ドアマンにも」
ルチアはじっくりとコーディネートを品定めした。彼女は道端でリップを塗り直すほど見え方に拘りのある人だった。
「汗を拭いて」
「ああ。暑くてね。ごめん」
「待って。拭いてあげる」
ポケットに入れたハンカチを漁ろうとする腕を止め、彼女は自らハンドバッグの中から取り出したハンカチで、ダミアンの顔の汗を拭った。
バッグの中で彼女の生活を想像させる香りと、いつも身につけている香水の混ざった匂いが妙に居た堪れない気持ちにさせた。
ダミアンは気を紛らわせようとカウンター台に置かれたメニューを眺め、その価格に息を詰まらせた。
クオリティは五つ星級である。一杯ならまだしも、ふたりで二杯も飲めばディナー代を凌ぐ。
「……どうしたの?」
「うん。まあ大丈夫」
結婚式費用やその後の生活費を考えて、給与の半分を貯蓄を回しているがデート代を惜しんでいては男の名が廃る。
食費には補助があるため格安であるし、公共交通機関の利用、指定医療機関での受診が無料である。国防に力を入れるだけあり、軍事保険に加入していれば、万が一事故や病気で働けなくなっても給与の八割が保証される。さらに軍役期間内は年金は国が肩代わりするため、就職先に職業軍人を選択する者は多い。
アルコールを呑むか呑まないか、暫く考えて無難に落ち着く。
「僕はアップルジュースを。ルチアは?」
「呑まないの?」
「半休は取ったけど、いつ呼び出されるかわからない」
「なにそれ。休みの意味ないじゃない」
「そういうものだよ、こういう仕事なんだ」
ルチアは面白くなさそうに、柳眉を片側だけ吊り上げた。
彼女は一人、サンセットをイメージした、赤いグラデーションが綺麗な見栄えのいいカクテルを頼んだ。
「それでこんな素晴らしいバーに僕を呼び出して、どうしたの」
「ふふ……それがねえ。通ったのよ。申請が」
「申請って……」
「移民局のよ! 仮認可だけど!」
「本当に!?」
飛び跳ねて喜ぶ勢いでルチアはダミアンに抱きついた。
彼女は酔いが回りだしているのか、重くヒールを履いた片足だけでは自分を支えられず、体がぐらついた。
「おっと……水を貰おうルチア。……すみません。水を一杯お願いします」
「居ても立っても居られなくって! それで……勢いで誘っちゃった。……お祝いだと思って、奢ってくれる?」
「もちろん。いいよ」
「それじゃあ、もう一杯」
「もう一杯?」
「ええ? そういう意味でしょ? すみません、ピーチ系でさっぱりしたのをちょうだい!」
ルチアはずるずると落ちた尻をスツールに位置を戻し、追加注文をつけた。この様子では、デートは難しいだろう。ディナーの線は消えた。
「ああ、ええ……酔いすぎないように何か食べよう。ナッツ以外に。フルーツの盛り合わせを」
バーテンダーはにこやかに承りカウンター内の奥へ消えた。
ものの数分程度で、よく冷えたフルーツが一杯に盛られた皿をサーブされ、ルチアは機嫌よくそれを摘んだ。
「正式に認可が下りるのもそのうちね。……ねえ、新居はどこにするか考えましょうよ」
「うん。わかった。……候補は? といっても、異動もあるし……賃貸だと思うけど」
「そんなのわかってる。いまさらよ。こっちも在宅でなんとかなるから気にしないで。出勤しなきゃいけない日もあるけど手当ても出るし」
ルチアは瑞々しいマスカットの実を皮から押し出し、酒に沈めた。
「ツッコミはなし。アレンジよ。これが美味しいの」
ピーチの果肉と混ざり円い実が浮かび上がる。
見入っていると「本当に一杯も呑まないの?」と訊いた。
「いいよ。美味しそうだけどね。遠慮なくどうぞ」
ふふ、と彼女は酒で熱くなった吐息を漏らし二杯目のカクテルを呷った。
日の長い夏の終わりの乾いた風は、熱気を取り払うのにちょうどいい温度をしていた。
開放された歩行者デッキに出ると、金曜日の夜の賑やかな混雑の波に流れた。ルチアは白く細い腕をダミアンの二の腕に絡めた。
はぐれないように反対側の肩に手をやると、彼女は仕掛けに掛かった獲物をほくそ笑むように喉を鳴らした。
喧騒の中をすり抜けて、細い通路に押し込またかと思えば、アルコールで熱くなった両手が両頬を包み込み、果実の甘さが残る唇が合わさった。
「……ここのホテル。当泊だと安いの。知ってる?」
不意打ちの誘いは、口内に広がる甘露よりも甘やかだ。
迫る博愛のアイスブルーの瞳。リダニウム大聖堂のステンドグラスから抜け出してきた聖女のように美しい。
サインを逃すほど疎いわけではない。
彼女の肩を優しく覆いそっと身を引き離した。ルチアはすぐに不満を投げかけた。
「……そういうのは、まだ早いよ。僕らには。ルチア」
「早いって……お子様じゃないのよ。今どきティーンエイジャーだってキス以上のことはする」
一理ある。福祉に手厚いこの国には、不幸な妊娠にも安全網が敷かれている。
「結婚前だし……タイミングがある。親戚にバレたら……僕にも君にも、立場はない。破談になるかもしれないし、結婚自体許可が……」
「なに。そんなこと。教会に行って悔い改めましたと反省するフリをすればいい。簡単なことよ」
「それは……」
嘘つきだよ。――という言葉は二度目のキスに遮られた。
教えの前では、婚前交渉は大罪とみなされる。告白というゆるしの秘跡を通じて、悔い改める必要がある。
だが――現代においてその価値観は軟化し、信徒の交際中の未婚成人の多くが、教会の公式見解とは別に肉体関係を持つことは許容されると考えている。
「古臭い考え。そんな伝統的なことやってて許されるのは王様やお貴族様だけ。だいたい。女の方がこうして、迫ってるのに……断るってわけ?」
「それは……僕には勿体ないくらいの女性だよ。だから、大切にしたいんだ」
殺し文句にルチアはたじろいだ。
あまりにもベタな、使い古された表現で照れ臭くなる。二の句を継げず舞い落ちた沈黙に、通路の外の雑踏が大きく聞こえる。大袈裟に誤魔化すように「あなたって意外とお堅い」とルチアは早口で言った。
「そういう教えだよ。ちゃんと守らなきゃ。タクシーを呼ぶよ」
細くしなやかな指を捕らえる。
期待外れの、味気のない逢瀬だっただろうか。
ルチアをタクシーで家まで送らせたあと、携帯がポケットの中で震えた。