a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア アストレー ステラ・マリス孤児院
運転手のダスター曹長は、凝り固まった筋肉を解すために首と肩を回した。
六十分間の休憩時間。主人達は目的地の孤児院の中に入っている。随行任務の兵士のうち運転役は駐車スペースで待機に徹していた。
「久々に筋肉痛だよ」
「この間の抜き打ち招集ですか?」
「そ。せっかくいいとこだったのによ。壁にぶつけちまった」
右肩の外側を擦ってダスターは自身の失敗談を「情けない。笑えるだろ?」と自嘲気味に笑った。
ルチアに呼び出された日、彼女と別れたあと臨時召集がかかった。
「そんなことより、お前はどうだ。結婚、上手くいきそうか?」
「移民局に仮審査をパスしたので、何事もなければ……このまま……」
「ほお。羨ましい限りだ。女と寝るのでさえ、迂闊に出来やしねえ。困ったもんだよ」
ダスターには特定の恋人はいない。
休憩時間は残り十分と余すところで、正門から回り込み、一行がぞろぞろと戻ってくる姿に「早いな」とダスターは呟いた。
そのまま目配せを受けて、ふたりは殆ど同時に運転席から降りた。
出迎えに直立不動の敬礼の姿勢をとり。眼前を護衛や秘書等に守られて通過するのを待つ。彼らはなにごとかの真剣な話に夢中でいる。軍用トラックのフレームを使用した中型のリムジンに、高貴な男が勿体ないほどの長身を収めた。同乗者が全員乗り込むと、総勢十五名の兵士達は直ぐ様、異常点検と次の目的地までの道順の最終確認を行う。
前後に二台ずつ走らせ、護衛しながら摂政殿下を目的地までお連れする長期任務。ダミアンは先頭車で車列の統率を担っていた。
アストレーからメルカッサまでは長い。
「ドゥム・カ・ヴァイまでは四時間半。休憩は二ポイント。予定時刻までには間に合うだろうな」
「はい。途中イレギュラーとなる妨害状況も考慮に入れていますので、通達の際はルート変更の点、よろしくお願いします」
『了解』と声が揃う。
ダスターとダミアンは先頭車に戻った。
「見たか? 二階から四階まで窓に貼りついて手ェ振ってたぞ。女の子たちが」
「そりゃあ大騒ぎですよ。いい思い出になったでしょう」
ダスターは両腕を擦り、冗談を滲ませて羨ましがった。
「あー羨ましい限りだぜ。一度でいいからモテる男になってみたいよ。道を歩くだけで歓声があちこちから飛んでくる」
「曹長、任務中です」
「休憩時間ちょびっと残ってるだろうが。……それじゃ、出発進行」
ハンドルを握る側でダミアンは、空間投影デバイスのスイッチを入れ、コントロールパネルを開きナビゲーションを開始ボタンを押した。
がたがたと歪な道を走り舗装された公道に乗り上げ、ふと思い出したようにダスターは口にした。
「ドゥム・カ・ヴァイか……殿下は初めてだったな?」
「そのようです」
「春先はいつも、ご家族で滞在されていた離宮だ。俺は二回ある」
ステラ・マリス孤児院の慰問を終えて、その日はメルカッサにある離宮ドゥム・カ・ヴァイへの移動がダミアン達の最終任務であった。
カストラリアの地方には現在借り上げられている王女の別荘や離宮が点在し、巡幸の際の宿泊地はそれらのどこかであった。この数日間の目的地は非公開慰問。行き先々での出待ち≠ヘ少ないはずだが、気は抜けない。事前のルート確認で人通りの少ない道を選択していても、どこから漏れるのかマスコミの追っかけが発生する。
最後尾の車から無線が入る。クリアな伝達に、ダスターは呆れながら地図を開いた。予想通り、その日の追跡が始まったようだ。
「……殿下も大変だ。どこへ行っても着け回される」
「撒きますか?」ダミアンが静かに訊いた。
「……いや。まだだな。先回りされているかもしれない。……いや、このあと引き離すか? 後続のラーデン軍曹との連携を取りつつ、ルートを再確認してくれ。時間もな」
「はい。曹長」
インカムを起動させたダミアンは、後続車と連携を取った。
a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア メルカッサ ドゥム・カ・ヴァイ
ドゥム・カ・ヴァイ――かつて寺院のあった地。一三〇〇年前の話である。
当時の王家が文化保護を目的に離宮として買い上げ、一部を改装。姿形をそのまま現代まで遺している。
森林の中に埋もれる正方形の城で、普段は近辺に住まうガンダ伯爵が管理していた。
中庭には色濃い草花の中に小規模な仏塔が三塔佇む。それを取り囲むように四角の回廊が巡り、木彫の多重の屋根が壁の役割を果たしている。
アストレーより南。標高も下がっている影響か、空気には湿度と淡い熱が混ざっている。
正門前に待つドゥム・カ・ガイを管理する在地貴族――ガンダ伯爵は生地の薄いジャケットを羽織り、停車したリムジンから現れたシュナイゼルに頭を下げた。
「お元気そうで何よりです。ガンダ伯爵」
「遥々リダニウムから、おかえりなさいませ。皇子殿下」
軽い握手を交わし、ガンダ伯が案内役を務める。
リダニウムにある王宮とはまったく趣の異なる造りに、シュナイゼルの双眸はあちらこちらに向いた。
壁や扉の装飾。構造的な前庭の水路。鮮やかなピンク色の大型のシャクナゲが季節外れにも咲いている。青いケシ、高地のラベンダーと固有種が並び、落ち着いた建物の色彩を埋め合わせる彩りをもたらす。
「こちらに滞在するのは初めてでね。……つい見入ってしまった。政府の借り上げ申請のリストに名前があった理由がわかるよ」
「さようでございましょう。基礎工事は何度か行っておりますが、天井や柱の装飾はなるべく遺すようにと言い伝わっておりますゆえ。一三〇〇年前の重要文化財に指定されております」
元寺院の一番外側は石造りで固められているが、中はレルヒの紹介通り、基礎工事の改装を重ね近代的な空間が占められている。外側から内側へかけて進みゆくほど現代様式に移り変わる様は面白みがある。
軽い解説を終え、白みの強いグレーのスーツ姿の女官長レルヒが、王家の紋章を象った金鍵を開けた。
金色に輝く真鍮製のココナッツの実の外観を模した、壺らしきものが扉前にも室内にも置かれており、シュナイゼルは休憩よりも好奇心に駆られてしばし魅入った。
ガンダ伯爵がその立派に鍛えられた身体を慎ましく寄せ、シュナイゼルの背後で短く相槌を打った。
「これは?」
「儀式用の壺でございます。その他にも多種多様な壺がございます。コレクションにはタペストリーや曼荼羅もございますし、のちほどご覧になられるとよろしいでしょう」
「ふむ。興味深いね」
顎に指をあてて感心する。ルームツアーはさぞ刺激的なものになるだろう。
一向にリビングルームに現れない主君に、随行者の一員であるカノンは呆れた声でシュナイゼルを呼んだ。
「殿下」
「ん。ああ、珍しいものだから。つい」
「社会科見学ではございませんよ」
「同じようなものさ。私産見学だ。この国について、二番目に詳しくなければいけないからね。……ガンダ伯爵。目録はつけているのかい?」
ガンダ伯はにこやかに「勿論。目録もございますよ」と応じた。
趣味の余暇は後回し。「それでは、夕刻にまた」と金の装飾付きの時計を眺めてシュナイゼルは言った。
ドローイングルームは暗い木の梁と柱、外から射し込む光が強烈な印象を与えた。光を吸収するほど表面は艶を帯び、その表面をコーティングする塗装の下には過去の時間が閉じ込められている。離宮全体がまるでそのようにひっそりと息づいているようだ。
クッションの置かれた、堅くもしなやかなロッキングチェアに座り脚をうんと伸ばした。四時間半の移動。血流が自然に行き渡り、固定された筋肉が伸びる気持ちよさに息を吐く。
オフホワイトの制服を纏う給仕人が銀色のカートを室内に運び、お茶の用意を始めた。いつもと違う香りに「それは?」と尋ねれば「バター茶でございます。殿下」と若い男が答えた。
「ヤクのミルクと茶葉は黒茶です。岩塩も入れますので塩味が強いかと。替えましょうか?」
「いいや。せっかく用意してもらったんだし、飲むよ。チベット由来のものだね。噂には聞いていたが。腹持ちが良いそうだね」
煮出した黒茶にヤクのミルクと岩塩を混ぜ合わせた、高地特有の飲み物である。カップを持ち上げ一口飲んでみると、飲み慣れたミルクティーよりも舌にのる重さ――スープのようなコクがある。
給仕人の男は昔からここで雇われているのだろう。日に焼けた暗い肌。手首のシミや傷跡は普段は周辺の森林の管理を手掛けている証だ。
「カロリーが高いので、王女さまはご朝食と一緒に飲まれておいででした」
「効率的だ。彼女らしいね」
その時、重厚な扉が開いた。捜査官が現れ黙礼した。
「提供いただいたボイスレコーダーのバックアップが完了しました」
「ご苦労さま。さっそくデータを聴こう」
アストレーのステラ・マリス孤児院訪問でひとつ成果があがっていた。セラフィナ・ド・アルディックがかつて一般人に紛れて働いていた施設であり、数カ月に渡って調査を進めていたところ、先日当時の職員が匿名でダビング済みのボイスレコーダーの提供があった。その内容をもとに今回の慰問で院長に軽いヒアリングを行った。院長はおしなべて当事者ではないため、一切知らない≠ニ回答した。
捜査員をはじめレルヒとカノンの顔が曇り動きが鈍く、シュナイゼルは「調査の一環だよ」と押し進めようとした。
一連の証拠はすべて把握しているし、そうしなければならないと考えていた。
最も生真面目な性格のレルヒが首を振った。
「……珍しいね。レルヒが渋い顔をするほどだとは。却って好奇心が疼くよ。……君は聴いたのかい。カノン?」
「一部だけですわ。殿下。お勧めはいたしません」
「では、要点を先に。始めて」
捜査官からコピーしたボイスレコーダーを受け取り、彼女は淡々と内容を列挙した。
アルディック――もとい、サロニア公爵の行う人体実験に関する被害者達の改造<vロセスであった。
「サロニア公の行う改造実験には、……肉体の交換℃闖p前に、被検体AとBにそれぞれ自白剤を投与し、名前、経歴、その他パーソナル情報を喋らせ録音します。交換¥p後、催眠状態に陥らせて、お互いの録音した情報を聞かる。洗脳していく手口です」
「そのボイスレコーダーには残っているんだね?」
「はい。件数は一〇二件。証拠としては十分です」
「……その中に、彼女のものはあるのかな」
「……王女さまのものは確認されておりません。残念ながら。……ただ……」
レルヒは言い淀んだ。
「ただ?」
続きを促す。
彼女は悩み、息をついた。
「趣向といいましょうか……王女さまのお名前が一部登場します」
「どうして?」
「それは……お聞きになったほうが早いでしょう」
「だが私には聞かせたくない」
「……ええ」
シュナイゼルは前髪を撫でて笑った。
「ボイスレコーダーを」そういって、渡すように腕を伸ばした。
レルヒは改造実験のプロセスの説明を続けた。
「洗脳は一度だけでは済みません。何度も繰り返し、繰り返し行われます。柔軟な頭脳、体力、人生経験の差が少ないこと。他、被検体の知能指数や処理能力を含む感情知性の高さなどが、入れ替わりの精度を強力なものにします」
「つまりは、被検体の多くが子供、若年層であるということかい?」
「はい」
指先でシャープな顎をなぞり、それまでの予想と乖離しない結果に納得した。
「ふむ。予想通りだね。ローディックが入れ替わっていなかったのは、肉体的問題もある?」
「おそらくは……」
「ブリタニアで発見された遺体は……サロニア公の実験では失敗作≠ニいうことか。生存率も事実若年者に偏っている。因果関係はあるようだし、確定的だね」
今後、捜査要件はかなり絞れるだろう。
万が一を考慮し、シュナイゼルは証人保護の手続きについて触れた。
「証拠提供者には手厚い保護を徹底するように」
「勿論です」
レルヒは捜査官に目で合図を送った。
「レルヒ。証言通り証拠を手に入れることが出来た。セラフィナ嬢が目撃したという男達の噂話を信じてもいいだろう。……私の推測ではね、誘拐事件は……先王の勅書にあった博士の名簿リスト。その中のトップと二番目で間違いないよ。捜索は?」
「ハンス・パブロ・シュミーダー博士と……エリス・デ・アングレーム博士ですね。依然として消息不明です。世間ではウィラード・フライシュマン事件に巻き込まれたのではないかと噂されています」
セイル国王勅書をもとに結成された、特別医療班の責任者で優秀な脳外科医――Dr.ブレイモアはそのリストの三番目の博士であるが、他の上位二名は行方不明となっていた。
分子生物学――遺伝子工学の権威である、Dr.シュミーダー。免疫学の権威のDr.アングレーム。
Dr.ブレイモアはマルカをティラナに改造する最初期の現場には居合わせておらず、何もかも知らないようだった。だが、彼いわくその二名の博士はティラナ王女の研究面で指導員として携わっており、彼女の基礎理論の造詣にも深いとのことだった。
シュナイゼルとベルケス公が分割管理する最新論文のテーマからも両者が加わっていることは明らかであり、密な関係性を築いていたようだ。マルカの体内に遺されていたティラナの生体細胞は盲点≠ノ隠されていた。眼球の内側である。神経が複雑に干渉しあう繊細な箇所であるため、三人目のドクターに脳外科医を指定したということだろう。
「ウィラード・フライシュマン?」
三人目の耳慣れない名に、シュナイゼルは訝しげに首を傾げた。
「はい。表立って犯罪行為が確認されているわけではありませんが……殺人事件の容疑者達が口を揃えてフライシュマンの名を挙げています」
「その事件の内容は?」
「……容疑者らの引き起こした事件。特筆すべきは、外国人犯罪でしょうか」
「移民局の方では問題は上がっていないと聞いたが」
シュナイゼルは大人しく控えているカノンを見つめた。
カノンが答えた。
「証拠が上がっておりません。殿下。……ゆえに断定が不可能であり、推定……ということになります」
「漏れなく教えてほしい。そういう情報は」
「申し訳ございません。以後気をつけます」
カノンの自己判断も平時であれば許容できるものだったが、手を打つには急がなければならない今、寛容ではいられない。
続けてレルヒに情報を求めた。
「それで、外国人犯罪の具体的な犯罪は?」
「多くは薬物事犯、海賊製品の売買、カード・個人情報のスキミング等です。最も多いのは不法入国・残留です。そのために個人IDの売買がダークウェブ上で出回っています」
「うん。……いくつか件数をあげて、首相へ提言するよ。アドバイスとしてね」
「いかがなさるおつもりで?」
シュナイゼルは、ロッキングチェアに深く体重を預けた。
「大義名分が欲しいんだよ。囲いのね」
a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア メルカッサ ドゥム・カ・ヴァイ
剥き出しの岩山の北部と湿潤な南部を繋ぐ、森林被覆率七〇パーセント以上の中部は、その自然豊かな環境を保護するために王立ダパロ国立自然公園が存在する。山間にある街はシーズン初めの観光客で賑わいをみせ、夜の十時だというのに灯りが天上の闇を照らしている。
「聖マルグリット慈恵院の滞在期間は三日ほど。殿下の随行者は八名。身辺警護には五名つきます。殿下には離宮にご滞在いただいて、我々は外れの林で野営を行う。夜間は四時間ごとに交代し、仮眠をとるように」
ダミアンの説明に兵士達は伸びやかな返事とともに持ち場につく者、休憩に入る者に分かれた。
深夜二時。
標高数千メートルの地の夜は肌寒い。
「モリシャルト」
テント内で次の夜番の準備をしていると、幕が上がりラーデン軍曹が顔を出して、マグカップを持つ手を差し入れた。
「ダージリンだ。ここの料理人がせっかくだからって淹れてくれた」
「ああ。ありがたい。薄ら寒くって。そういえば、もうすぐ秋摘みの時期だ」
白い湯気がほんのり漂う。ステンレス製のマグを受け取り、ダミアンは熱々の紅茶を啜った。
中部のこのメルカッサは、かつてインドだった地域を取り込んでいた。近辺にある茶葉の名産地もカストラリアにある。現在中華連邦の一部地域となったインドからは亡命者がメルカッサに逃げ込んでくる。
現インド軍州では元インドの地域であった名残から、茶葉には関税なしで交易が行われている。旧英国の統治領であったインドは中華連邦に領土を塗りつぶされ、ダージリンやアッサム、ドアーズなどの銘柄を含む紅茶貿易で、ブリタニアは大本の中華連邦を挟むため、一旦カストラリアを挟んで輸入していた。
ちなみにサンヤラとはカストラリア語で、アッサムのことだ。
体を温めたあと離宮周辺の警備任務が始まる。静まり返った暗い森の中は夜行性の動物たちの時間。ヒマラヤフクロウをはじめいくつかの種類のフクロウの声が絶え間なく響く。この周辺はフクロウだけで十七種類ほど分布している。
「賑やかなこった」
「フクロウのトレッキングコースもありますよ」
長い林道を徒歩で最小限の灯りだけで練り歩く。王室所有の敷地内から街へ続く道を双眼鏡で見下ろす。自然公園とあるように照明となる街灯は街の方からその間には一切なく、そこだけ切り抜かれた空洞のように黒に染まっている。
だが――。
闇の中、ちらちらと白いなにかが見え隠れする。
「問題ないな」
「いえ……なにかいます」
「あ? ゴーストの類か? 冗談やめろよ」
「人だと思いますよ」
「余計気味悪ぃじゃねえか……その双眼鏡貸せよ」
双眼鏡のレンズ内でその白い影は自由自在に踊っていた。影の形からして小さく、人でいえば子供のようだ。
「ラーデン軍曹。子供がいます」
「なんだと? こんな時間にほっつき歩いてる馬鹿がいるかよ」
顔を引き攣らせてラーデンはダミアンから双眼鏡を受け取り、その方向を覗き込んだ。
「……しょうがない。行くぞ」
ダミアンの言う通り、林道を下がった先の場所にいたのは小さな女の子だった。厚手の長いワンピース。素足である。
近隣の民家の子供だと考えるが、何度尋ねてみても、少女は名前もどこから来たのかも答えなかった。
「警察に連絡だ。ダミアン」
「そうですね」
ダミアンはしゃがみ込み少女に目線をあわせた。どこか別の世界を見つめているように瞳に力がない。
唇の血色が悪く、足は頼りなくふらついている。
――被虐待児か?
そっと触れた手首は冷たく、質感は本物だが、それこそ幽霊のようである。
「ラーデン軍曹。一旦離宮へいって、この子に温かい飲み物を与えましょう。倒れそうだ」
「……しょうがない。担いでくれ」
「わかりました。……お嬢さん。失礼するよ」
ダミアンは少女を抱き上げ、野営地へ戻った。
ラーデン軍曹が再び紅茶を貰いに行っている間、毛布で彼女を包みこんだ。
「甘い物はすき?」
携帯していたキャラメルの箱を見せる。一瞬そちらに視線が向いた。声は聞こえているようだ。
暫くして茂みががさりと音をたてて揺れた。ラーデンの帰還だと振り向くと意外な人物の登場に思わず慄いた。
「……え……。シュナイゼル殿下? なぜこの時間に……」
「夜行性のフクロウを観てみたくてね。暗視ゴーグルはあるかな」
暗視ゴーグルでナイトサファリといったところらしい。
それよりも、シュナイゼルはひとりで離宮の外を歩き回っているのか、お供がひとりもいない。
「殿下。お一人ですか?」
「私有地だよ。ここは。外には君たちもいる」
「人間の脅威はございませんが……野生生物が多くおりますゆえ。お一人でいることは避けていただきたいです」
仮にもブリタニア皇族である。カストラリア国内で何かあれば、責任を厳しく問われる。国際問題に発展しかねない。
ダミアンの心配もお構い無しにシュナイゼルは、彼の足元にいる少女を覗き込んだ。
「この子は?」
「先程巡回中に発見し、保護した少女です。警察へ届ける前に休ませようと思いこちらに」
シュナイゼルは人を陶酔させる微笑を浮かべて、少女の名を尋ねた。
「レディ。お名前を教えてくれるかい?」
「……ジョージ、フランク、アルフォンソ……」
名前らしきものを口の中で呟く少女。
それも名前は男の子のものだ。ダミアンは困惑した。
「……うん? きみは、女の子だね?」
――ジョージ、フランク、アルフォンソ……。
少女はもう一度その名を繰り返した。発しようとした単語を別の単語に言い間違える。まるで失語症における、喚語困難――語性錯語のように。
名前がわかりようがなければ、警察に連れていっても難しいだろう。しかし、そうはいってもこのまま預かっておくわけにはいくまい。
「警察に連絡します」
ダミアンは携帯電話で最寄りの署に架電した。
脱走か、迷子と思しき少女。見た目の特徴を端的に伝えると、生活安全課の職員は[ああ、それだったらブラージ養護院に連絡を。メルカッサの孤児院です]と回答した。
「ブラージ養護院ですね。……失礼ですが、その養護院の方からなにか連絡は?」
[あーはい。一旦保留にしてもいいですか? こっちから連絡取ってみますので]
保留音が流れだすと、離宮の厨房に紅茶を貰いに行っていたラーデン軍曹が水筒を片手に戻ってくるところだった。
彼はシュナイゼルの姿をひと目見て、低姿勢に頭を垂れた。
「夜の散歩だよ」とシュナイゼルはダミアンと同じように説明した。
「ラーデン軍曹。ただいま警察に通報を行っています」
ダミアンが携帯電話を耳に当てて言い、ラーデンは少女の前に身を屈め、紅茶を蓋のカップに注いだ。
電話口に職員が戻ってきた。ブラージ養護院に問い合わせたところ、一名行方不明になっていると発覚したそうだ。その子供はこの数ヶ月、夜になると養護院を抜け出しては保護される、お騒がせな子供のようだった。
「脱走常習犯? ……はあ。わかりました。ブラージ養護院に連絡を……ああ。ありがとうございます。それでは、はい。私の方でお送り致しますので……はい。問題ございません」
通話を終えると、すぐそこでシュナイゼルが「解決できそうかい」と尋ねた。
「ブラージ養護院に直接連絡を入れます。殿下はお休みになってください。私の方で送りますので」
「いいや。すっかり目が覚めてしまったから、散歩ついでに同伴するよ」
「……お言葉ですが、殿下。それでは護衛の人員を増やさねばなりません。明日の午後にはマルグリット慈愛院の慰問の予定がございます」
ダミアンの諫言に取り合おうともせず、彼は多くの人を相手にする時の微笑を崩さずに「君一人では心許ないかな?」と念押しした。多くの者はここで折れるだろう。ダミアンとて傅く相手に向かって意見したいわけではない。
「……そういうわけではございませんが。……規定上、皇族や王族の方には最低三名以上の護衛が必要です。専属部隊は非公式慰問とあって今回お連れになっていない分、増員が必要です。御身のお立場をお考え下さい」
「ふぅん。……それでは、人数が足りていればいいんだね」
シュナイゼルは懐から携帯電話を取り出し、誰かを呼び出した。
五分後。着の身着のまま、上着を羽織った秘書と思しき青年が林の中に到着した。
ダミアンは彼を知っていたし、彼もダミアンの姿を認識するなり驚いた。
「こんな時間にどうなさったので……、あなた……!」
「知り合いかい?」シュナイゼルは双方を見比べた。
「え、いえ……顔見知りですわ。殿下」
王室記念リダニウム大図書館で探し物≠していた、あの中性的な青年である。
ダミアンは、彼がまさか摂政殿下にほど近い身分とは知らずに取った無礼な物言いの数々を思い出し、恥じた。
「貴方は……、失礼いたしました! 先日は……出過ぎた真似を致しました。殿下の側近の方とは思わず」
姿勢を正し深く頭を下げると、青年は慌てたように声を詰まらせた。
「彼がなにか粗相をしたのかい」
「いいえ。むしろ……心構えをお教え頂きましたわ」
「うちの者が世話になったみたいだね。顔を上げなさい」
シュナイゼルの抑揚の少ない声がダミアンに命じたが、その頭は下がったままだった。
「とんでもございません。……処罰であれば、直ちに軍部の方へ通達願います」
「それは困るね。明日からの運転手が不足してしまう。……それに、彼は狭量ではない。寛大に見逃す。そうだろう、カノン」
やや込み上げる笑いを混じえるシュナイゼルに「勿論でございます。殿下」とカノンが同調した。
「それにしても驚いたわ。輸送部隊だったなんて」
「……本当に失礼致しました。お名前を教えていただけますか?」
「カノン・マルディーニ。良いのよ。過去のことは忘れて。よろしく」
カノンが手を差し伸べ、ダミアンはその手を掴んだ。
ラーデン軍曹を伴い、シュナイゼルの護衛に最低三名の要件を満たしたうえで、一同は車で、離宮から数キロメートル北上したところにあるブラージ養護院を訪問した。
養護院前には院長と副院長が待っていた。時刻は深夜三時を回っていた。
少女は副院長によって抱き上げられた。
「マリーナ! マリーナ!! どこへ行っていたの!?」
車から降りた人影のなかにまさか国の摂政を務める青年が紛れているとは、想像だにしないだろう。院長は何度も目を瞬かせて叫んだ。
「……シュナイゼル殿下!? ……これは御前で大変失礼致しました」
「院長。今はプライベートです。お気になさらず」
「しかし……」
院長は「ドゥム・カ・ヴァイでお過ごしに?」と尋ね、シュナイゼルは短く返事をした。
マリーナと呼ばれた少女は副院長の腕の中でもがくと、運転席から出てきたダミアンの腰に縋り付いた。
「きみは、マリーナというんだね。さ、マリーナちゃん。お家についたよ」
ぶるぶると少女の薄い身体が震えている。
「……ここじゃない……ここじゃ……」
「マリーナちゃん」
ダミアンを見上げた瞳には鋭い光が浮かんでいる。
恐怖ゆえの震慄。
「まっくらは……いや……」
「真っ暗……?」
要領を得ない少女のつぶやき。どうしていいかダミアンは戸惑いを隠さず、院長の顔を見た。
「……院長。……マリーナはいつもこのような行動を?」
「私共が運営を担うようになった頃には脱走癖がありました。ドクターにも何度か診せましたが……小児期や成長期にはよくある事だそうです」
「そうですか。……良ければ、養護院の中を見学させていただいてもよろしいですか?」
「え?」
その申し出は考えていなかった、といった反応だった。
「……マリーナの部屋を見ても? なにか恐いものがあるのかも」
「え、ええと……他の子を起こさないようにしてください。先日も、マリーナが大声で叫んだせいで起きた子が寝不足気味で……」
「わかりました」
マリーナは制服の裾からきゅっと握った手を離さない。
シュナイゼルに車で待機するように口を開きかけたが、彼の方が早かった。
「君が行くなら私もついていくことになる。護衛の人数が不足してしまうよ」
マリーナを送ると言い出したのは自分自身だ。ダミアンは小さく肩を竦めた。
a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア メルカッサ ブラージ養護院
新しい塗りたての壁は建物の外観を裏切るように、ホワイトを混色した、まろやかなパステル調に統一されている。
「こちらがマリーナの部屋です」
院長がマリーナの部屋へダミアン達を案内した。ここではひとりひとりに個室が与えられているようだ。
「昔から同じ部屋ですか?」
なんとなく思いついた質問をぶつけた。
「そうです。記録では三歳頃から養護院に入っています。私たちは一年前に前運営者から引き継ぎました」
「一年前ですか。ずいぶん最近ですね。これはマリーナが描いた絵ですか?」
壁には、画用紙にクレヨンで描かれた絵がざっと見渡して十枚程度飾られている。ぐるぐると円の連続を展開しているが――茶色のみで地面、木、高い山、雲といった自然物の描画が目立つ。
「あれ……?」
ダミアンはすぐにその違和感に気づいた。
室内を見渡していたカノンが「どうかした?」と首を傾げた。
「……いえ。マリーナの描く絵には……人が描かれていないんです」
「え? あら本当だわ」
「どの絵にも人はいない。すると彼女はこの木か地面、山や雲のどれかに拘っている。一番気になるのは……色調の暗さと……モノの配置です」
茶色を特別好んでいるという考え方も出来るが、画面配置のチグハグ感からして、強い不安やストレス、思考の混乱が見受けられる。マリーナの精神状況は芳しくない――率直にそう感じる。
階下で、副院長に足を洗ってもらっていたマリーナが部屋に戻ってきた。
だが、彼女は部屋の入口から一歩も動かなかった。改めてぐるりと室内を眺め回したが、脅威と感じるようなものは無さそうにみえる。
副院長の隣に立つシュナイゼルが腕を組んだ。
「マリーナの寝かしつけはどんな風に行っていますか?」
「他の子とさして変わりありませんが」
ダミアンはもう一度、マリーナを見下ろした。少女の手には小さな人形があった。
そっと膝を折り話しかけた。
「マリーナちゃん。それはお友達かな」
「わたし」
「わたし?」
不思議な回答である。
「……お名前は、なんていうの」
小さな声がぽつりと「ティラナ」と呼んだ。
「……ティラナ……あはは。お姫様と同じ名前だね」
「そうなの。お姫さまなの」
氷が融解するようにマリーナの顔が綻んだ。
小さく繊細な指先が、フェルトと毛糸を縫い付けた人形の表面を撫でた。
ダミアンの隣にいたカノンは、急に焦ったようにシュナイゼルのもとへ寄り耳打ちした。
a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア メルカッサ ドゥム・カ・ヴァイ
白いレーブルクロスの敷かれたテーブルには、プルーンのオムレツ、サラダ、パン、スープと紅茶。簡素なメニューが並ぶ。
昼食の時間が流れるダイニングルームに、遠慮のない足取りで現れたのは優秀な女官長だった。
「失礼いたします、殿下。ブラージ養護院について精査が完了しました」
「ああ。ありがとう。……これからマルグリットへ行かなければいけないが、簡単に教えてくれるかな」
シュナイゼルはブラージ養護院の件で、レルヒに情報共有し朝から調べさせていた。
「結論から言って、過去の傾向と合致します」
「うん。そうだろうね。私も同意見だ。おそらく、ブラージも黒だよ。ただし、彼らに悪意はなくその前歴には詳しくない」
「ええ」
過去の傾向――それは、ヴァラグラードのフクロウの館をはじめ、セラフィナの挙げたアストレーのステラ・マリス孤児院、そしてブラージ養護院。さらに、その後予定に入っているマルグリット慈恵院も、福祉施設として運営歴は長いのに対して、院長等の運営者は後任を務めていることだ。
前任者は存在するが、連絡を取りつづけている。だが、ヴァラグラードに関しても音信不通が続いていた。
ブラージ養護院のマリーナの様子は終始どこか浮ついていて物言いも覚束ない。
彼女の抱えていた人形とその名前。
「王族の名にあやかって、子供に名付けることは珍しいことではない。……だがね、彼女は孤児だ。その名前は誰かが教え込んだ。いったい誰が?」
シュナイゼルは口角を上げた。
「例のボイスレコーダー。朝方聞いたよ。気になったままでは眠れないからね」
レルヒは咎めなかった。
理知的な光を持つ双眸は彼の言葉を待った。
「あの少女がどこから来たのか探る必要がある。結果がわかれば……マリーナにも証言台に立ってもらわなければ」
真っ直ぐとテーブルの向こうを見据えた。そこには大きな肖像画が壁に掛けられていた。前王朝ヒマヴァットの最後の女王の姿が佇んでいた。
[むかし、むかし、あるところに……]
ボイスレコーダーから発するノイズ混じりの音声がリムジンの車内を満たした。何人ものの被験者の中の子供だった。
出発時刻まで残り五分ほどで、カノンが息を切らして厚いドアを開けた。
「……なにか、わかったかい」
「マリーナは、ローモロー孤児院出身だそうです」
ローモローの名にシュナイゼルは目を丸め、込み上げる笑いを抑えられなかった。
「ローモロー? はは。これは……また奇妙な繋がりだね。……いいや。点と点が繋がったかもしれない」
「ご存知なのですか?」
「一言で説明するのは、私の頭脳と舌を持ってしても難解だよ、カノン」
ローモロー。
ティラナと入れ替わっていた少女――マルカの過ごした孤児院の名前である。
[むかし、むかし、あるところに……とてもかしこいお姫さまがいわのお城にくらしていました]