a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア オパカ ローモロー孤児院
カストラリア南西部、メルカッサから南下し標高がより下がった亜熱帯気候のオパカは、北部で味わう乾燥とは正反対の毛布に包まれたような蒸し暑さが横たわる。じっと佇むだけで汗が滲む。軽くシャワーを浴びたくなるほどの不快感を誤魔化すために、助手席の兵士――ダスター曹長が気を利かせて車内の冷房を強めた。
「あっちぃ〜……水飲むか? ダミアン」
「後ほどいただきます」
「真面目だな……ぶっ倒れる前に飲んどけよ。ああ……。しかし……南部はみんな嫌がる気持ちもよくわかる。特に夏場はな。美味いもんはあるが。フルーツに海鮮、川魚……カレー」
その日はじめてのスコールに呑まれた。強烈に屋根を打ち付け、水飛沫を散らし、タイヤは泥水を巻き上げて悪路を進んだ。訪問先の福祉施設の多くが都市部から離れた場所にあり、舗装されていない道が近代化を果たしても随所に残る。排水と洪水対策からあえてそうしているほか、農業効率を維持するためでもあった。
運転席でハンドルを操りながら、比喩ではなく、立て板に水を流す勢いの雨にワイパーの隙間から前方の景色を、ダミアンは注意深く窺った。
窓ガラスの隙間からは水っぽい空気が滲み込んでくる。
インドの西方より流れ込むガンジス川――その名はサンスクリット語の蓮の名を借用し、パドマリア川と呼んだ。
パドマリア川は無数に枝分かれし広大なデルタを形成している。
――今日はさすがにアクア・ポッドは運休か。
水上幹線――リニア・アクア・ポッドは水面を滑走する船の形をしたカプセルのことで、アジアの動脈となる大河二本を中心に運用されている水上交通である。
「だが、唐突だな」
助手席でマップを広げ指揮を取るダスター曹長が、腕を組みぽつと言い放った。
「……追加日程ですか?」
当初の予定に、シュナイゼルは南西部にある孤児院視察を加えた。
ダスターは「殿下は決められた日程を、途中で変更されることをあまりしない」と言い切った。そのうえで意外だと言いたいのだろう。長らく王室関係の任務に就くダスターがそう評価するなら正しい。
「南まで出張るなら飛行機の方がいいだろうに。帰りはこっちの駐屯地に預けて手ぶらで帰れるのがせめてもの救いか……」
「……お忍びの巡幸でしょう。滞在先も各別荘の見学のようですし」
「まあ、お陰で俺達も良いモノ見させてもらえてるがな。国管理のものなんか一生見られるかどうか」
つい笑みが溢れる。
王女の個人私産見学ツアーと題して、護衛任務につく兵士達は密かに楽しんでいた。
雨上がりのじめつく濃霧がマングローブ天然林を覆い、葉には露が光る。
ローモロー孤児院は、マングローブ天然林の奥地、オパカの外れにある農村地帯にあった。
ベンガル菩提樹の天から垂れた枝は、絞め殺すように幹に巻きついている。それら木々の密集地帯の合間に隠れるようにナノ・バンブー、木材、赤レンガなどを材質に堅牢な建築物がひっそりと佇む。近年建て直されたようだ。
シュナイゼルは予備の靴に履き替え、ローモロー孤児院に降り立った。オフホワイトのリネンとラミーを素材に用いたシャツにスラックス、ネイビーブルーのエスパドリーユ。非公式慰問であれば肩肘張らないラフな装いも問題にならない。相手方にも警戒心を抱かせず聴取を進められる狙いがあった。
「ようこそおいでくださいました。シュナイゼル殿下」
「よろしくお願いします。ビアンキ院長」
浅黒い肌の男ビアンキは、ローモローの院長を務めている。彼の厚く乾いた手を握り、シュナイゼルはトレードマークの微笑を傾けた。
「各地の福祉施設を訪問されているとのお噂を耳にしておりましたが、その……ローモローにもお越しいただけるだなんて。身に余る光栄に存じます」
数十キロ先の干潟の湿った泥の風が吹いた。重たく足を取られそうな匂い。
「南部はまだ暖かいですね。湿気が酷い」
「ええ。モンスーン期ももうすぐ終わりかと思えば……観光シーズンが始まりますし、乾季を喜ぶ者も多いですよ」
「今年は豊作だと伺いましたが。こちらの孤児院も奉仕として収穫時期の手伝いをされているそうですね」
「そうです。ええ。収穫期には人手が欠かせませんから。ではこちらへどうぞ。お足元に気をつけて」
玄関前の挨拶を数十名の職員が見守るなか、ビアンキはシュナイゼルを招き入れた。
北部はジャガイモにレンズ豆。中部は小麦やトウモロコシ。南部はコメ。
ヒマラヤの冠の窪地の北部に、豊かな生態系を誇る中部、肥沃なデルタ地帯の南部。南北に長く、寒冷地から熱帯までの気候の多様性を抱える、約六〇〇〇万ヘクタールの国土。大国中華連邦に陥落しなかった中等国家。
「ビアンキ氏はこちらに何年いらっしゃるのですか」
「私ですか? 今年で……四年でしょうか。それがなにか……?」
質問にビアンキは足を止めた。
「前任者はクライン氏でしたね。彼についてなにかご存知ありませんか」
「クライン氏と私は直接やり取りしたことはありません」
「前任者から紹介されて引き継いだということですね」
「紹介……ええ。ジョン・ラックス・ハリントンという方です」
「ハリントン」
曇天がぐずりだし、湿った風がパラパラと水が地上に散らばった。
「ああ! 降ってきた! 申し訳ございません。すぐに戻りますので。きみ、殿下を応接室へお通しして!」
職員の案内で二階にある応接室に通されたシュナイゼルは、窓の外を眺めた。遠方の山が霞に溶けている。
後ろで職員が訊いた。
「アイスティーでよろしいでしょうか?」
「ええ。お願いするよ。……ん?」
風が強く窓を叩きつけている。「やあ。きみ、そこのローモローの子だね? 雨でびしょ濡れじゃないか。早くお戻り!」
運転手のひとり、軍曹のダミアンが怒鳴り声に、階下に視線を落とす。
猫か犬の悪戯を叱っているのかと視線を巡らせたが、それらしき影はどこにもない。
「うわ。やられた」
銀色の筒の出口には、小粒の石がいくつか載せられている。
ダミアンはリムジンの後ろで四つん這いになり、マフラーの中にペンライトの灯りを差し込んだ。
「どうした」と心配するダスターの声に、首だけ彼の方を向けた。
「マフラーに石が詰め込まれてる。さっき子供がそこに蹲っていたから、なにかしてると思ってたけど」
「なんだと? たしかに……小石が入ってる。掻き出し棒は?」
「トランクにある」
カストラリアの自動車はモーターではなく、主にCNG車――天然ガスを内燃機関に採用している。
貿易商品であるサクラダイトよりも、南部の沿岸部――このオパカでは石油のほか多量の天然ガスが採れるためである。外貨獲得を目的に国内インフラでは、こうして他の資源を用いる節約が行われていた。
「名簿を……ですか。お待ち下さい」
簡単な挨拶もそこそこにシュナイゼルのリクエストに、ビアンキはやや困惑を隠さなかった。
各地を非公式慰問しているとは風の噂で知っていたが、名簿などをみてどうするつもりだろうか――といった不信の眼差しである。この際、疑われようが構わない。シュナイゼルは彼にしてな急いでいた。どちらにせよ、サロニア公ことアルディックが敷いたゲームである。常に有利なのはあちらである。どこにいてもシュナイゼルの行動は筒抜けであることを念頭に置きつつ、確かな手応えを求めていた。
なぜならば――ローモロー孤児院は、マルカの、アルディックの娘であるマルカが拾われた施設。サロニアにも程近い。いうなれば、サロニア公の息のかかった敵陣にのこのこ乗り込んでいる状況だ。
「急なお願いで申し訳ございません」
ビアンキは優雅にも頬を吊り上げているが、瞳は懐疑的でシュナイゼルを探っていた。
目は口ほどに物をいう。
「私がなぜこんな事を……と思われるでしょうが、宿題を出されていてね」
「宿題ですか?」
「王女からです」
場は苦笑いに包まれた。
「難しそうですね」
ビアンキは大きく頷いて言った。
「あはは。難解です。実に」
シュナイゼルはビアンキの背に向けていた怜悧な瞳を眇めた。
ビアンキは戸棚を探り、背後に向けて尋ねた。
「誰をお探しで?」
「マリーナ。……それと、マルカを」
「マリーナと、マルカですか。わかりました」
屋外の風は嵐に変わろうとしていた。
一階の駐車場にリムジンを並び入れて、唸る風に兵士達は灰色の空を見上げていた。
ベンガル湾でサイクロンが発生し、南部上陸は免れているものの、風が非常に強く航空に影響を与えるだろう。
「今晩は足止めを食らいそうだ」
兵士のなかの誰かがそう口にして、ダミアンは腕時計を確認した。
「予定では、明日、殿下はリダニウムへ。一度、空港へ問い合わせてみます」
ダスターが「ああ。頼む」と煙草の煙を燻らせて言った。
サロニア空港に問い合わせ、今後の見通しを立てる情報を得たダミアンは二階の応接室へ繋がる階段を上る途中、踊り場で携帯電話に向かって話し込むビアンキ院長の姿を見かけた。
「捜査の手がこちらにも……ええ……、嗅ぎつけているかと……」
ダミアンは足を止め、階段を下った。二階へはその階段しか知らなかった。気にせず通り過ぎることも出来たが聞き耳を立てるのも礼を欠く。ゆっくりとまた一段退いた。
「……はい。マルカを捜しておられます。サロニア公」
「……マルカ……?」
耳馴染みのよい音の響きに、ビアンキを見上げた。彼はダミアンの視線に全く気がついていない様子だ。
――むかし、ローモローにいたの――
不思議な感覚。得体の知れない既視感にダミアンは首を捻った。
いつの頃の記憶だろう。
クリーム色の壁、黄金色の光が淡い陰を天上にゆらゆらと揺れている。
なにも身につけていない、白いトルソーのような子供の姿。
――ローモローは孤児院の名前で……赤ちゃんの頃に孤児院の前で拾われたの――
ダミアンには、脳裏に響く声の正体がなにかわからない。
ベッドに横になる、少女の琥珀の眼差し。
――マルカ。ただのマルカ――
――『マルカ』――
名前を復唱する声は、幼い少女の声をしていた。
「マルカ」――ぼそりと声で名前をなぞる。
ダミアンは頭を横に振る。少年の声かもしれないのに、なぜ少女だと思ったのだろう。
その時、こめかみに鋭い痛みが走り、我慢ならず片手で押さえた。
包帯に覆われた顔の中で、少女の大きな瞳が細められる。口元は吐息で包帯が押し上げられ浮いたり沈んだりを繰り返している。
彼女は何かを、口にした。何かを、呼んだ。名前を、呼んだ。耳を澄ませる。彼女の眼の前にいる、わたしにむかって――。
「モリシャルト軍曹」
「……はい。なんでしょう」
なんて言っていたのか――その記憶を読み込む前に現実に立ち返る。
摂政殿下お抱えの側近。女性と見紛うほどの、嫋やかな微笑みを浮かべるカノン・マルディーニが背後に立っていた。
「ビアンキ院長は、只今取り込み中で……」
「あらそうなの。本日は此方に逗留すると、殿下が仰ったわ。ついさっき」
「ご報告ありがとうございます。今後のスケジュール共有を後ほど他の者にも致します。ビアンキ院長には滞在用の部屋の供出いただけないかご確認をしていいただけますか」
「ええ」
スケジュールの再調整に追われているうちにダミアンは微細な違和感を忘れていった。
a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア オパカ ローモロー孤児院
子供たちが、無邪気に走り回っている。
遊戯室は活気に満ち、天上をくるくると回る竹のプロペラが、停滞しがちな空気をかき混ぜている。
夕食後だというのに、なんて元気なんだと感心する。
板間の上を室内履きでキュッキュッと音をたてて追いかけ回す子供らを壁際で眺めていると、制服の裾をくいとひく幼き者の手があった。明るいうちに車に悪戯を仕掛けた少年が感情を宿さない表情でそこにいる。
「君は……カイだね? 名前を教えてもらったよ。悪い子だ。……そういえば、指は怪我してない?」
エンジンを切ったあととはいえ、マフラー稼働直後はかなり高温のはずだ。泣き叫ぶリアクションもなかったことから、平気なのだろうが気になった。
職員から教えてもらった、その少年の名前はカイといった。
彼はダミアンの質問に一切答えず、繰り返し袖をひいた。
「おっと……そんなに引っ張らないでくれよ」
カイは黙って、ダミアンを遊戯室から廊下へ連れ出した。日が完全に落ちた廊下は暗く、わびしく、吹き溜まる温く湿った空気が居座り、すこしおどろおどろしい。簡素な窓の外では胃腸の中のように、増幅された風の音がうねっている。
図書室へ押し込まれると、カイはいくつもの棚が並ぶなか人目につかない奥へ誘導した。室内には人っ子一人いなかった。
彼は何も答えず、発さず、ある一冊の分厚い本を本棚から引っ張って、それをダミアンに差し出した。
本のクリーム色の頁をパラパラと捲ると、そこに一通の少し黄ばんだ手紙が挟まっている。
「……? これは? 手紙だね。読んでほしいの? なになに……? これを読んだ方は……どうか冗談とは思わず……」
数枚綴りの手紙の一枚目を読んでいくと、書き出しが告発文のようだと勘が働いた。
「……カイ。このお手紙は誰から渡されたんだい?」
カイは澄んだ赤褐色の瞳を真っ直ぐで見上げている。返事はない。
「教えちゃだめって言われた?」
口が糊付けられたかのように、カイは何も口にしなかった。
「文字の感じから察するに……大人の筆跡だ」
告発だろうか。そのとき、夕方頃のビアンキの様子を思い返した。
再びカイの手がダミアンの制服の裾を握った。少年は図書室中の隠された手紙や書類をダミアンに見つけ出させた。
それらには、ローモロー孤児院では複数の金を積んで里親に子供を引き取らせていたこと。――また、その子供達は入れ替わり≠ニ呼ばれる暗号の出来事に関与していると記されていた。
――孤児院が金を払って子供を……?
手当てとなる補助金が里親に支給されることはなんら不思議ではない。だが、それは国や自治体からのもので孤児院が関与することではないはずだ。――つまり、孤児院は養育者となる里親に金と子供を交換していることになるが。
ダミアンの背筋がぞわりと粟立った。触れてはいけない、知ってはいけないような感触に不快感が募る。
「……カイ。……カイ?」
周囲を見渡すと、カイの姿は忽然と消えていた。
図書室の前の扉からダスター曹長の声が掛かった。
「おーい。ダミアン。定刻だ」
ダミアンは慌てて資料を服の生地に巻き付けて制服の裏に隠し込んだ。
「ダスター曹長」
「……ん? おい、扉閉まってるぞ。鍵を開けてくれ」
「え?」
ダミアンは入口に近づき、引き戸に手をやった。たしかに内鍵がかかっている。
鍵をかけた覚えは皆無だった。あの少年の悪戯だと踏んで「やられたよ」と溜息を吐いた。
扉を開けるなりダスターは不思議そうな顔で尋ねた。
「どうした。なんで図書室にいたんだ」
「さっき子供に連れてこられてね。ほら、今日車の悪戯をしたっていう……あ、悪いもう一回確認させてくれ」
十列ほどの戸棚が並ぶ手狭な図書室を隈無く探すが、カイの姿はどこにもない。戸棚の上下、陰、窓際のカーテンの後ろ。隣室に繋がっていそうな扉などを確かめてみるが固く施錠されている。
「……おかしいな。廊下に子供が出ていった姿は見なかった?」
「いいや。俺が廊下に出た時は誰も見なかったが」
「そんなはず……だって図書室には誰も残ってない」
ダスターは肩を竦めた。
「変な夢でも見てたんじゃないか? そんなことより早く。お待たせしてはいけない」
「変な夢……?」
ダミアンは思わず、制服の裏に隠した資料の手触りを服の上から確認した。
――それでは、これは一体なんだ?
胸中のつぶやきに応じるように、幼い声が耳奥で反響した。
――ローモローには、時々おばけがでるわ――
「……いや、そんな……」
非科学的な話だ。出るかもしれない噂ではなくでる≠ニいうのだから。
――古い本の中には隠された暗号文書が眠ってるの。それを見つけたら、次の日にはその子は消えちゃう――
どこで聞いた話なのか、これが夢でないというのか。
カイという名をたしかに、職員から教えてもらったはずで、彼はどこかに隠れているはずなのだ。
a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア オパカ ローモロー孤児院
気象庁より暴風警戒令が発表された南部。夜を孤児院に留まる判断を下したシュナイゼルのもとに、独自回線で秘書官から一本の連絡が入った。
それと同時に首相及び官邸からカノンを介して有事≠フ報せに、割り当てられた客間の空気は一気に凍りついた。
「タイを掌握した?」
シュナイゼルが落ち着きを払いそう訊き返した時、客間の扉が開いた。二名の兵士が顔を出した。
「曹長、これはいったい」
「……扉を閉めろ」
「はい」
空気を察して兵士達は壁際に並んだ。
部屋の片隅では側近が相槌を打ち、内容をメモにしたためている。びゅうと雨風がしなった。窓ガラスがカタカタと音を立て、物々しい空気が漂う。
カノンはインカムでやり取りを続けながら、シュナイゼルに告げた。
「中華連邦の方からの使者がすでにタイ王国と交渉を始めているようです」
「ふむん。……困ったねえ。東側はまだ影響を前線の受けていないから動きようがない。首相官邸からは?」
「タイ政府は仲裁を求めるそうです」
「……私向きの話だね?」
シュナイゼルの瞳が鋭く光った。
本来、そこに君主とその代理人の出る幕はない。政を含めて、外事に関するすべてを政府と内閣に委ねられる。
電話の向こうの首相の言い分はシュナイゼルの読み通りである。その非常に優れた推察力に、カノンはさすがだと感服した。
「ええ。中華連邦と、ブリタニアからの統治権と今後を……」
絶対君主制のブリタニア。天子を頂点とする君主制共産主義国家・中華連邦。立憲君主制へ移行し年月の浅いタイ王国。
互いの国教は異なるが、後者の二カ国はカストラリアの近隣国であり、歴史的交流期間も長い。
「……父君には、困らせられてばかりだ。私の立場をご一考いただきたいね。……あちらも同じ立憲君主制。話の分かる者に同席願うのは当然だ。第三国として、仲裁は大いに結構だが……こういう時、彼女のほうが適任者だと思うよね」
シュナイゼルは困ったように眉尻を下げて苦笑を浮かべた。
中立国にとって、外交的介入はお家芸である。軍事同盟に属さず、建前上エリア四としてエリア制の中に組み込まれているものの、依然として立憲君主制を継続するカストラリアはその秩序を放棄していない。
タイは、歴史的にも仲裁となる前例を持つカストラリアに味方について欲しいだろう。
なにせ侵略国出身の第二皇子がいる。ブリタニア側に有利に働きかけを行えるはずだという希望を与えている。この希望というのが厄介である。期待をさせるだけ、相手の落胆が大きくなる。
だからこそ、フラットな関係性でいられる王女ないしは女王の名の下に介入する方が望ましいと――シュナイゼルは述べているのである。
水面下で王女捜索を継続するなかで、国内世論の風向きを変えることは望ましくない。裏外交などこの世には腐る程存在するが、今回は実にタイミングの悪い迷惑千万な話である。
「中華連邦ともにブリタニア宰相府に通達を。協議の場を設けるとね」
「承知致しました」
「……ベルケス首相からは?」
「ご出立の日程調整を行いたいと。外務大臣を随行させるお考えです」
「規定通りだね。大臣には是非ともご同行願おう。そうでなければ建前を守れない。気象予報は?」
カノンは携帯で気象予報を確認した。
「気象庁の発表では、明日の午後には東側に嵐に逸れるとか」
「では、明日の早朝にこちらを発とう」
シュナイゼルの美しい瞳が壁際に並ぶ兵士に流れた。曹長が目配せをし、ダミアンは短く首肯した。
早朝に出発するための準備をしろという合図だ。
黙礼し、ダミアンは割り当てられた客間から退室した。
a.t.b.二〇〇九 September
カストラリア リダニウム 陸軍駐屯第三基地
「二枚舌どころか、三枚舌だ、場合によっちゃ四枚舌だよ」
「誰がです?」
食堂の片隅でカレーを食べながら、ダスターはテレビモニターを眺めては、感心したように頻りに頷いた。
向かいの席に座るダミアンは、背後のモニターに首を回し、昼のニュースでタイより帰国した摂政殿下の報道に注目した。追加の孤児院慰問から十日が経過し、八日間交渉を終えての凱旋である。
「殿下だよ。シュナイゼル皇子殿下様々だ。無血開城。いったいどんな条件を呑ませたのやら」
中華連邦とブリタニアによる分割占領で合意に至った。ブリタニアの貪欲な手のひらがインドシナ半島に伸び、タイを――新領土エリア一〇を手に入れた。軍事占領を回避したのはひとえに裏交渉の成果だ。
軍部の一部から下りてくる情報によれば、タイ政府に対してブリタニアの総督指名権と、タイ王室には一時亡命受け入れの約束を。また首都と宗教聖域を特定の保護地区とすること。中華連邦には、インド軍州とタイ、中継地のカストラリアを加えた南方経済回廊を構築する案を提案し、利益の何割かを洛陽に直接供与する約束をとりつけたのではないかといわれている。こうすることで、広大な領土を持つ中華連邦のなかで化外の地と呼ばれるインド軍区と、中央・洛陽への反乱・独立の機運を抑えることができる。カストラリア中央部から南部の経済効果が高まるうえ、南アジアから東南アジアの追従を引き込める狙いがある。――反移民政策を掲げるカストラリアだが、このように一部地域を経済特区に開放することで批判を回避する狙いだろう。
「……五枚舌。いや六枚舌ですよ」
「なんだって?」
「ブリタニア、中華連邦、インド軍区、中華連邦と同盟国のE.U.、タイ。……そして我が国です。曹長」
「たまげたなぁ、譲歩にE.U.は手も足も出ない、か」
トレーを返却しようと立った時、ポケットの中で携帯が震えた。
「すみません。ちょっと」
「おー。彼女か?」
着信相手は婚約者のルチアではない。ダミアンは食堂の脇にある無人の給湯室に入った。
「……はい。ダミアンです。桐原さん」
相手はフィクサー・桐原泰三であった。
用件はブリタニアのタイ侵攻であろう。予想通り、彼は何度か進言していた同盟の相談をダミアンに持ちかけてきた。枢木首相に変化があったか、桐原の意見が変わったか。
「今回穏便に事が済んだのは摂政殿下のお手柄でしょう。裏交渉が行われています。首都以外で一部軍事行動がありましたが、即時鎮圧。通達後二十四時間以内に交渉の場を取り付けています。外務大臣が同行しています、参謀総長も裏でバックアップを」
[アジアの危機であるから当然の采配であろう。……して、日本もいずれはその危機に晒される、か?]
「時間の問題ですよ。水面下で取りなしたとはいえ、タイも事実上エリア一〇となったいま――ブリタニアの次なる目標は日本に向く。確実です。断言できます」
後半に行くにつれ語気が強まった。
桐原は[では、お主が取りなせるのか?]と冷たく浴びせかけた。
「取りなす?」
[ブリタニアの第二皇子。カストラリアの摂政に。中立国同盟を結ぶには説得が要るだろう――しかし、ただの一介の兵士に耳を貸すか?]
「殿下とて、考えなしの方ではありません。私如きが指摘するまでもないでしょう。安全保障についてはよくご理解されています」
[それは不毛な期待というものよ。わかっておろう]
「経済特区を二カ国間を取り持つ口実で……助言されています」
[それは主権……政治への干渉では?]
「助言の範疇です。国家危機ですよ。翁」
両者の刃が言葉にかわって鍔迫り合いが続く。
「……日本には……殿下の弟君や妹君がいらっしゃいます。気にかけていないとは考えられませんが……」
[亡命を助太刀すると? 立憲君主制の王とは――飾り物にすぎん、彼奴が借り物の王ならば尚更]
桐原は一刀両断した。
もし、親族であることを理由に亡命に手を貸せば身内贔屓だと批判される。この脆い君主制国家において。外国の、侵略国側出身の摂政という立場が非難を避ける難しさ。桐原の指摘は尤もだった。彼が実行に移せば容易だが、王女暗殺未遂のテロリストの台頭する我が国で、摂政のスキャンダルは生命線を潰しかねない。
「……殿下は、捨て置くだろうと仰るのですか」
[なぜそこまで固執する?]
意表を突く問いかけに復唱した。
「固執?」
[貴様の物言いは使役される身には余りある大局観であるし、若人の語る幼稚な戯言よ]
それも真っ当な指摘である。
自覚がないわけではない。この湧き上がるものの出処がダミアン自身にも掴めなかった。
この世界のルールを敷く特権階級でもあるまいし、赤子のような万能感は、せめて青春期に卒業していなければいけない代物だ。
ダミアンがこのまま実現化しようにも、シュナイゼルを説得した先にはこの国の議会があり、同盟を実現するということは国を動かすということである。首相は王族の縁戚であるが、シュナイゼルの肉親というわけではない。
そしてダミアンに強力な人脈はない。どこまでも机上の空論に過ぎないのだ。
キーンと頭蓋骨内から耳介に反響する耳鳴りに、側頭部を押さえる。
「……では、どうすれば?」
[皇を通して、王室と連携を取れれば十分実現可能であった]
桐原の肉声の近似値から割り当てられる音声が、何重にもハウリングし、その微細な遅延が頭脳の酔いを巡らせる。
「……殿下も王室の一員ですが」
[所詮、代理人だ。ブリタニア人。皇籍も皇位継承権も返上しておらんな。王として半人前であろうて。先代とは交流がある。しかし、こう今は……侵略国側の者が介入しておっては機密とやらも筒抜けよ]
「ご覧になったはずです! この数日、殿下の仲裁をなさっていたお姿を」
[日本はビタ一文たりとも明け渡す用意がない。――タイは既に中華連邦に懐柔を受けていた。落とし所は最初から決まっていた。あの若造は仕上がった劇に加わったに過ぎぬ]
ダミアンは閉口した。何か言いたかったが、シュナイゼルの考えを完全に理解し判断できるほど情報リソースがなかった。
「なにを求めていらっしゃるのか。貴殿は」
[貴様の誘い水に乗ったまで。豪語するからには何か策があるのか確かめるためであったが……見当違いだったか]
無意識に唇を噛んだ。
[眠っていると噂の王女を叩き起こしてみせるか?]
「まさか。そんなこと」
出来るわけがない。それに。
――不可能だ。
反対側の拳を握る。
王女は噂通り王宮の外にも出ていない。数多くの別荘や離宮にお姿はおろか、私生活の研究活動にも動きはない。
永久凍土の中で時を止めているみたいだ。
――まるで死を偽っているかのように。
得体の知れない、落胆と虚脱感が強まる。
食堂のテレビはいつの間にか報道から、大衆向けのジョーク番組に移り変わっていた。
〈病魔が崇高なる岩山の国に襲いかかった。歴史の裂け目はいつも女に委ねられている。一人は流行感冒に斃れ、もう一人は魔物に斃れるのか?〉
ステージに登壇する今流行りの人気コメディアンは、観客に向かって、この国は病魔に侵されていると王国のふたりしかいない女性君主である女王と王女を風刺し――痛烈なジョークを高らかに叫んでは大笑を誘った。
一〇〇〇年のアルヴェイン王朝と王家の風刺など、半世紀前までは不敬罪の極みであった。民主化がユーモアによる大衆消費を許している。
前王朝であるヒマヴァット朝は、最後に女王が戴冠しその子供の代から王朝が切り替わった。女王は流行感冒で斃れ、わずか十年の治世を終えた。王位を継承した八歳の息子は少年王となった。その在位期間は六四年。彼の直系の子孫は戴冠を首を長くして待ちわびた。
コメディアンはその歴史になぞらえて、現王女を揶揄している。
〈気高き乙女は病を克服した! 魔物には屈するのか?〉
テレビの中。現王女の風刺に、観客達はくすくすと笑いを滲ませた。
胸騒ぎと不快感が、胸の中で雨雲をつくる。ダミアンの耳には、もはや桐原の声は届いていなかった。
ぷつりと国際通話を切り、リモコンでテレビの映像も消した。
静まり返ったのも束の間。屋外から忌避感のある号笛が針先となり、鼓膜をつついた。
キンキンと耳障りな音は、迫っては曲がり膨らみ、不協和音を奏でる。銅鑼の震撼のような激しい耳鳴りに、コンロの下に蹲った。
a.t.b.二〇〇九 November
カストラリア リダニウム
珈琲は、ヒマラヤの清澄な青い光を取り込んで、感動的な黒蝶真珠の輝きを映し出していた。
郊外にある山の中腹にある街からは、リダニウムを一望することができる。人気の行楽スポットにある一軒のカフェで、恋人同士にしては冷ややかな話し合いの場が持たれた。
寒がりの彼女は、ふわふわと柔らかなウール素材のセーターを纏い、冬に進んでいた。――冬。まさに、ルチアの態度も、ふたりの関係性も吹き荒ぶ冷風が横切っていた。
「それで、大丈夫なの? 病院には?」
「行ったよ。三回も。心療内科、精神科、脳神経内科……今はセカンド・オピニオンの最中」
「休職するの?」
棘のある声音は心配よりも先に、確定作業の決定に必要な言葉でしかないようだ。
数カ月で急速になにかが変わりつつあった。ダミアンは気づかないようにしていたが、その日、ついに突きつけられるのだと覚悟を決めていた。
「……その方が現実的だ。休職中には補償も出る。保険申請だってするよ。生活に問題はない」
声の調子が狂わないように精一杯力を込めて音の高さを揃えたが、却って抑揚のない無機質さが浮き彫りになった。
美しい婚約者のルチアは、戸惑いを瞳に浮かべ、皮膚の裏側を探る、含みのある物言いをした。
「もしなにかの病気だったら、治療に専念する?」
「ああ。……ご両親には……僕から……言おうか?」
「……反対されるわ」
「そうだね」
「結婚を反対されるわ」
「わかってる。……でも、病気は大抵治る。素晴らしい医療技術がこの国にはある」
先進医療技術は死を克服しようとしている。
国家が官民一体となり、数百年かけて取り組んできた人類の叡智が、この国では平民であっても享受できる。カストラリア国民が他国民に羨ましがられる特権である。中流層以上がこぞって移民申請を行う動機でもある。
ダミアンは黙って、珈琲の黒い表面の反射の色のみを見つめた。
ルチアほどの女性が、移民三世である男を相手に付き合っているのも、特権欲しさだとは薄々気づいていた。
本音では家族を移住させたいだろうが、そうするには子供が必要だった。
十年前、国王が最後に議会とともに推進していた反移民政策の法案が通過し、新規移民には子の有無が要件に加わった。福祉を得るために国際結婚が増え、制度を悪用する者が多く存在したからだろう。
子供がいる場合、離婚やその他の問題からカップルは身軽でいられなくなる。移民要件にある宗教審査も含めると、優先的に許可が下りやすいカトリックと なる。差別ではなく区別として、カトリックは同性婚を認めていない。離婚の自由化が進む他国よりも厳格な体制が維持されているこの国では、離婚は社会的に白い目で見られやすい。
だから、ルチアはそのしがらみに囚われるまえに、問題になりそうならば引き際を見極めようとしているのだろう。
問題とは、ダミアン側の問題である。
「僕の、なにが良くないと思ってる?」
長い金色の髪を耳にかけて「最近のあなた、ヘンよ」とぼそりと言った。
「……ヘンって? そりゃ……体調は良くないし、仕事で忙しくてなかなか会えないから、寂しい思いをさせているかもしれないけど」
「そうじゃないわ」
「……どういうこと?」
ルチアは少し俯いた。
「うまく言えない。……でも……人が変わったというか……」
困惑するのはダミアンの方だった。もっと深刻な事情から別れ話に発展すると考えていたからだ。
「そんなこと、ないよ。僕は僕だ」
「そういうところよ」
そう言われても、本当に心当たりがなかった。
「……わからない。もっと上手く説明できるかい」
やんわりと首を横に振り苦く笑うと、彼女は眉根を寄せて言った。
「落ち着きすぎてるっていうのかしら」
どうしていいか、どう答えていいか。ダミアンの所在なく動かした手が白いカップの持ち手を握った。
「そうよ。やっぱり。人が変わった――そんなふうに見える」
その時はじめて、彼女を恐ろしいと感じた。
夢をみた。
いつの間にか、夢の中にいた。
草の擦れ合う音。暗幕の淡い星空を見上げているだけの画。
見下ろすと二本の白い脚が見えた。子供の脚だ。目線はかなり低く、ゼエハアと擦れた息が上がっている。
突如、夜空は昼間のようにピカッと明るくなり、世界は漂白された。再び宵の色が戻る時、そこへ巨大な火球が上空から地上へ迫りくるのが見えた。
――逃げなきゃ。
どこへ?
――逃げなきゃ。
どこへでも。
――『姫様、もうすぐです』
暗闇の果てを目指して『わたし』は背中に感じる重みに呼びかけ続ける。
――『お気をたしかに』
白い吐息が耳と頬に吹きかかる。なんて生々しい夢だろう。
指先に力を入れ、梯子から落ちないようにしがみつきながら、冷たく氷のような地下をめざしている。
やがて呼吸は薄れていき、急に重さが消えた。
――『姫様、ひめさま』
何度呼びかけても背中から応答はない。
――『マルカ』
か細い囁きに振り返ると腐肉をぶら下げた白い髑髏がすぐそこにあった。
「うわあああぁぁ――ッ!」
心拍数が跳ね上がり、ぜいぜいと引き摺る呼吸、耳元で脈打つ鼓動音がうるさい。大粒の汗が蟻地獄のように浮かんでいる。
瞼をこじ開けると青白い早朝の光が天井にほんのりと差し込んで、そこが地獄ではないと安心させてくれた。
ドンドンドンと扉を叩く激しい音が覚醒を促した。
外では隣室の軍曹が、安否確認のためにダミアンの名前を呼んでいる。