フライシュマン






 a.t.b.二〇〇九 December
 リダニウム カストラリア王宮 執務室
 
  
 「殿下。お手紙でございます」
 「ああ。ありがとう」
 秘書官のコルネルがスケジュール通りにやってきて、その日に読まなければならない束になった文書をボックスに投じた。
 執務机の上にはたんまりと書類が積み重なり、山のように盛上がっている。 
 「お下げ致します」
 「ありがとう」
 サイドテーブルに置かれたティーセットを若い侍従が取り下げた。サミュエル・H・ノーリスの所作はしっかりと仕来りに馴染んでいた。
 執務室を去る背中を見送り、シュナイゼルは控え立つコルネルに尋ねた。
 「彼に問題はなさそうかい」
 「ええ。今のところは……」
 「うちの秘書が立ち聞きしたのは間違いない。週末には必ずメルカッサを訪れている」
 「はい」
 「捜査員が虱潰しにビッグマウス≠フ瞬間を押さえるように命じているが……ハロルド・ノーリスの邸宅への訪問者のリストアップは?」
 「上旬のものがそろそろ上がってくる頃です」
 「氏は鉄壁だ。サー・ロンハードの協力を得て調べさせたが隙がない」
 その時、執務室の扉が開いた。秘書としているカノン・マルディーニの出勤である。質のいいマフラーを首に巻き、形のいいコートを着ている。この国ではせいぜいあと半月ほどでお役御免となり、デザインセンスを無視した機能性重視の防寒着が長い冬の友人になることだろう。
 「おはようございます。殿下」
 「おはよう。カノン。今日の分を開けていいよ」
 ローテーブルの上には誰から貰ったのかアドベントカレンダーがいくつもある。
 「よろしいのですか?」
 「お姫さまへの誕生日プレゼントだよ。元素周期表の。開けられる数が少ないけれど、学習目的に作られている」
 元素記号周期表、化学式、鉱石、化石、聖人の名言、馬の玩具などの入った趣向を凝らしたアドベントカレンダーの数々である。
 その中のうち、鉱石のアドベントカレンダーの十七の部屋を指で押し込んだ。サーモンピンクの上に青をかけた不思議な色の混じりをする石を摘み出すと、銀の小物入れに置いた。
 当初の目的を思い出したカノンは口を開いた。
 「……念の為、首都内にある資料化されている限りのデータにはあたりましたわ。より詳細なものは各地方管轄の編纂室に保存されており……。それらも探ったところ……ハロヴァ市に何件か集中しています」
 アストレー・ハロヴァ市。地方政令都市のひとつである。
 カノンは「失礼いたします」と断りを入れ、執務室の書類の上にコピーした書類を置いた。
 「ハロヴァ連続誘拐事件」
 「ここ数年、頻発していた誘拐事件や失踪事件が未解決のまま、ある日ぱったりと途絶えている」
 「ええ。怪事件シリーズのドキュメンタリーで確認しましたわ。よくあるはったりか、こじつけの眉唾物かと思いましたが。アエギスの捜査員の報告と合致する箇所が、複数箇所見受けられます。ウィラード・フライシュマンの名は巧妙に暗号化されており、資料ごとに異なりますが。それで……未解決事件である誘拐事件の被害者の対象は子供から中年。性別に拘りはなく、被害者は一様にして著しく、記憶障害を患っている」
 シュナイゼルは書類を手にし、羅列された計八件の事件の文字を目で追った。
 「カノン。君はどうみる?」
 「該当すると考えられる誘拐事件件数は二十五件。被害者は全国各地。……福祉施設にいた等の証言はありません。各人ある日忽然と姿を消し、自宅に戻るか警察で保護されています。ですが……」
 カノンは、シュナイゼルの柔らかな笑みが端正な唇に宿るのを見た。
 「調べてみる価値はありそうだ。暗号名というのは?」
 「犯罪会の亡霊≠フアナグラムです。資料には何度か登場しています。協力者は数多おり、裏社会とのパイプもあります。その正体は誰に聞いても、一貫性がありません。ある時は、少年。ある時は、老人。中年の主婦……」
 「なるほど。それで亡霊≠ニいうわけだね」
 うん、とシュナイゼルは金の髪を揺らして頷いた。
 「その亡霊が……アルディックに協力しているか、アルディックが協力しているのか定かではないが、匿っていることは考えつく。彼女の研究成果を悪用してね」
 ふと浮かび上がった疑問をカノンは言葉に表した。
 「マネーロンダリングも……ローディックの件もフライシュマンのアドバイスで……?」
 「おそらくは。……ふふ。面白くなってきたね。カストラリア人は高知能犯罪者が多い傾向にあるようだ」
 「感心している場合ではございませんわ。殿下」
 呆れ返り、カノンは半眼で主人を見下ろした。
 知能指数や教育水準の高い地域出身者の犯罪は、単純な盗みや詐欺、傷害、殺人といった単純なものではなく、より高度化している。
 「あはは。大局を相手にしていると、息抜きがしたくなるよ」
 シュナイゼルは実に愉しげに、それこそノエル・アストリアスが相対する時のように頬を緩めていた。



 a.t.b.二〇〇九 December
 アストレー ハロヴァ市 ホーンストーンパブ


 「やあ。ダミアン軍曹」
 「どうも。フランクル」
 カウンターに寄りかかり、グラスに注いだ琥珀色の液体を回し込んでいるダミアンに、男が声を掛けた。
 フランクル・ボン。アストレー・ハロヴァ市警察署で働いている警部補である。
 フランクル警部補は、髭に囲まれた、かさついた薄い唇を舐め、カウンターに両肘を乗せた。制服姿のままのフランクルに、ダミアンは誂うように言った。
 「クリスマス休暇が待ち遠しい?」
 「こっちは関係ないがね。……どうした、珍しい。昼間から飲んで平気か?」
 「そういう君は? 休憩だろう。飲酒運転で帰ればお縄頂戴だ。部下に手柄をプレゼントかい?」
 「よしてくれ。俺はランチ代わりさ。ここのシェパーズパイで腹を膨らませないと落ち着かなくってね。ドラムには程遠い」
 フランクルは腹を叩いて笑った。
 「なんだそれ」
 ダミアンも一笑いし、舌の上に刺激的なアルコールをのせた。それがゆっくりと馴染んでいき口腔内を通じて匂いのなかの景色を読み取る。
 ふと隣のフランクルに目をやると、興味深そうに覗き込んでいた。なぜこんな昼間から酒を呑んでいるのかと尋ねているようだった。
 「あ、ああ。……実をいうと、休職したんだ」
 「そうか。そりゃ突然だな。具合が悪そうだってのに、いいのか? まあ一滴も飲めなかったぶん、取り返したいときもあるか。これから家に戻るのか?」
 「そのつもり」
 度数のきつい酒が大人のミルクがわりだ。
 次第に底がつき千鳥足で家に帰りベッドに潜り込んでぐっすりと眠る。悪夢を見ない方法はこれしかなかった。
 「……あっちにも顔を出せよ。気が向いたらで構わん」
 「ああ……、あっち……?」
 ダミアンは訊き返した。
 「おいおい。すっとぼけるな。もう酔っ払っちまったのか? しっかりしてくれ。あっちは、あっち≠セ。……号令さえかけてくれたら、その用意がある」
 くらりと視界が揺れた。あるいは脳が。それとも眼球が回っているのか。
 ――号令。
 「号令って?」
 「からかうなよ。ボス。……そのマスクに馴染みすぎると勘が鈍ってく。そういう見苦しい格好はあまり見せないでくれ」
 ――なんのことだ?
 片手をカウンターについて、撹拌をやり過ごす。悪酔いが近づいてきている。
 「そうだ。今度会いたいっていう新人が、三人か四人入った。休職したんならちょうどいい。会ってやってくれないか」
 「……ああ。考えておく」
 なんとか返事をした。フランクルは機嫌よく話を続けたがった。
 「クリスマスマーケットは定例通り?」
 ――クリスマスマーケット?
 ダミアンは答えなかった。意味を理解し、考えを巡らせる前に好都合に解釈した彼が鷹揚に頷いた。
 「わかったよ。補充しておく」



 a.t.b.二〇〇九 December
 メルカッサ ホロウズタウン

 
 酔いに沈みこんだ意識が浮上し、ダミアンは薄目を開けた。
 室内は暗い。静かで、隣室の物音さえ伝わってこない。天井は宿舎の頑丈なものではなく安く脆そうな材質特有の光沢がある。屋外の光が分厚いカーテンの隙間から這入り、ちょうど目元に被さった。
 「変な感じ」
 誰もいない空間に向かってそう呟く。
 体調は相変わらず酷かったが、違和感を違和感と捉えられる程度には落ち着いていた。なんとなく手を枕元にやると、ベッドまで持ち込んでいたペットボトルが甲にぶつかった。中で水がダブンと波うった。
 重石を体中に仕込んだように緩慢な動きで、ダミアンはゆっくりと身を起こした。
 まだ違和感は続いていた。
 部屋を荒らされたわけでもない。整理整頓の行き届いた、集合住宅の一室。日当たり良好。角部屋という優良物件だが、帰宅は滅多にない。休暇中に過ごすだけの部屋。移民三世の賃貸条件が通りやすいのはメルカッサの良いところだ。
 違和感は拭えない。ダミアンは覚醒しきらない頭を回した。
 他人の家に遊びに来たような、居心地の悪さ。自分のベッドのにおいさえ、他人のにおいを嗅いだ時のような遠慮と不安が残る。
 ――兵舎生活が長すぎただけだ。
 腹の中が引き攣るような痛みに、背中を海老のように丸めた。
 ベッドに入ってからどれくらい経ったのか。携帯電話を感覚で手繰り寄せて確認した。パブで呑んでから、丸々三日が経過していた。驚きのあまり二度見した。その間、婚約者のルチアからの着信が重なっている。心配をかけたようだ。
 だが折り返す気力に乏しく、ベッドの下の床に両足を立てるも、次の瞬間には倒れ込んでしまった。
 窓辺には小さな机がある。その天板の裏になにか人工物の光がピカピカと等間隔のリズムに光った。
 ダミアンはその這いつくばる姿勢のまま、机ににじり寄った。体を引き摺るたびに埃が一緒にくっついてきたのもお構い無しに、その光る機器を伸びた爪先でつつくと、カタリとなにかが外れる音がした。
 ダミアンは起き上がった。
 引き出しを引き抜くと、奥に固定された鉄製の小箱。表面をなぞると筐体の中心のセンサーが光の筋道を露わに天井に点をあてた。
 光を覆うように指を置き、カチリとまた音が鳴った。箱には横一直線に切れ目が入り込み、蓋が勝手に持ち上がる。隠し小箱だ。
 小箱の中には、小型記録媒体がひとつ。
 まったく身に覚えのない代物だ。
 ダミアンは机の上にあったパソコンを起動させ、小型記録媒体を差し込みんでデータを確認した。 
 モニターに開かれたデータは殆どが文書系で、中身は何者か、赤の他人のプロファイル――文字の羅列、情報が溢れかえっている。
 頭痛が始まり、脳の中心がジクジクと痛む。
 指で眉間を挟み、揉み込んだ。 
 ――なぜだろう。すべてについて、記憶がない。
 機密情報を知りたいハッカーがいるならば、このメモリ内の情報は宝の山だ。
 官僚や政治家、軍、警察の汚職。賄賂。貴族や富豪の信託情報。風聞を汚すスキャンダル。売国奴。諜報員の名簿。移民斡旋業者。さらにディープウェブの違法取引市場情報の経路。各々の情報一つにつき単価は億を下らない価値がある。
 驚くのはカストラリアだけでなく、中華連邦、E.U.、ブリタニアと国を問わず存在することだ。
 ――どうして、そんなものが――僕の机に?
 目眩がする。
 一番の疑問は、これほど換金性の高い情報を握っている人間が一介の兵士として国に仕えていることだ。
 ――なんで軍なんかに……?
 ダミアンはデータの中にロックのかかった文書の存在に気づいた。
 パスワードに心当たりなどない。ヒントに立ち現れた文言には――神々。あるいは人々。動物。植物。鉱物。ありとあらゆるもの。
 ――Metamorphōseōn librī――
 ラテン語を打ち込む。メタモルポーセオーン・リブリー。変身物語である。
 ロックが解除された。
 度し難いほど醜悪がそこにはあった。
 何かをみた。しかし、それ以上の形容を、言葉という皮の中に詰め込むことが不可能なほど拒絶した。
 衝撃が嘔吐の引き金となり、ダミアンはトイレへ駆け込んだ。



 a.t.b.二〇〇九 26th December
 リダニウム カストラリア王宮


 王女捜索の第一線。アエギス捜査員のひとり、エリー・ド・ラキーユは戦略分析室の扉から直通の通路を経由して、シュナイゼルの在室する執務室へ急いだ。
 挨拶も早々にラキーユはシュナイゼルに書類を数枚手渡した。
 「アストレーで昨日、行方不明届が提出されました。それも数件。場所はフォイト・ノルトのクリスマスマーケット。行方不明となったのは八歳から十一歳の児童四名。性別は男女混合でございます」
 少し離れた壁際で、端末を操作している最中だったカノンが顔を上げた。
 「受理場所は?」
 「ハロヴァ市警察署です」
 「ハロヴァ市警……」
 口をついて復唱するカノンをちらとラキーユは見遣った。
 「内偵を頼むよ」
 「はい。殿下」
 ラキーユは白手袋を嵌め直し、執務室を去った。



 a.t.b.二〇〇九 26th December
 アストレー ハロヴァ市 ホーンストーンパブ

 
 「よお。ダミアン。どうした神妙な顔して」
 カウンターで水を飲むダミアンの肩をフランクル・ボンが叩いた。
 彼はバーテンダーに酒をつくるよう頼んだ。
 「ダミアン、水だけか?」
 「今日は、呑まない。この前の悪酔いで少し懲りたんだ」
 ダミアンは肩を竦めてみせた。何枚も服と防寒着を重ねているのに、背筋に寒気が纏わりついていた。
 ミネラルウォーターの中身を移し替えただけの高価な水を、ほんの少し飲み下して、ダミアンは舌回りが滑らかになるように整えた。
 「久々に、あっちに顔を出してみようと思うんだ」
 「へえ。何か新しいネタを掴んだのか?」
 フランクルは身を寄せ、出来上がったばかりの酒のグラスを、水の入ったコップにあてた。
 「……まあね。興味ある?」
 「もちろんだとも」
 ダミアンは食らいついた、と思った。
 フランクルなら何かを知っているはずだとわかっていた。ダミアンはクレジットカードを出し、フランクルの伝票といっしょにバーテンダーに差し出した。
 「僕のカードで会計を。……今すぐ行こう」
 「今すぐ? 急ぎ? 無茶だ」
 「……悪い。実をいうと、昨日も呑んでた。それで……頭が回ってないんだ」
 カウンターに肘をつき頭を抱えると、フランクルは本気で心配しているのか慌てて背中を擦った。
 「おいおい。しっかりしてくれ。……言い出しっぺがよ。お前が招集だっつって場所と日時決めて、メンバーに声かけりゃそれで済む。俺が興味あるやつ誘っておけばいいだろ?」
 「ああ……そりゃいい。頼むよ」
 俯きながらダミアンは口角を上げた。
 「それで、日程は? ……それよか、いいネタ仕込んできたんだろうな?」
 フランクルの問いにダミアンはそのまま彼を見つめ返した。

 
 a.t.b.二〇〇九 November
 カストラリア メルカッサ ポーツマス・タワー


 早い黄昏の頃。
 三十二階展望フロアのバーには、おめかしをした男女が七〇人から八〇人ほどが詰めかけていた。
 太った男。痩せた女。美容に拘りのある女。時計とカフスを自慢する男。饒舌なトークで盛り上がる小集団。
 ワンフロア丸ごとバーとかなり広い。磨りガラスの扉が開放されて、デッキまで行き来できるが、多くの者はグラスを片手に屋内スペースに入り、主役の登場を待ち侘びていた。
 フロアの中央まで進み出たインディゴブルーのタキシード姿の男が、黄金色のシャンパンを手に始めの挨拶を述べた。
 「ようこそ諸君。秘密クラブへ」
 司会の男が手を差し向け主役を舞台に招いた。
 「皆さんお待ちかね。早速ご登場いただこう。我らがキングの復活だ!」
 気をつけなければ見逃してしまうほど、静かで地味な灰色のスーツの男が人垣の中央へ現れる。
 人々は瞳を輝かせる。拍手。拍手。拍手。
 「ウィラード・フライシュマン!」
 拍手が一際厚くなる。
 「紹介させてくれ」
 フライシュマン――そう呼ばれた男を呼び止めた。白髪交じりの壮年の男であった。その男の右脇に立つ金髪の青年が、緊張で強張り、機械仕掛けの動きで無理やり笑いかけた。
 「こちら、サミュエル・H・ノーリスだ。貿易局事務次官のノーリス氏の御子息で……あなたのファンですよ」
 「お会いできて光栄です。Mr.フライシュマン。ずっとこの日を待ちわびていました」
 青年ノーリスは声と手を震わせて、握手を求めた。彼の瞳は潤んでいる。
 「……どうも」
 フライシュマンは青年の湿った手を握り返した。
 「僕……ずっと貴方にお会いしたくて……それで……あちこちに顔を出して……」
 ノーリスは熱くフライシュマンへの恋の経過を語る。恍惚に染まる彼の独壇場。誰も邪魔することはなく、終始微笑みを崩さずにいるフライシュマンに注目していた。
 その場にいるすべての人間が、ダミアンをフライシュマンだと信じ込んでいた。

 

 a.t.b.二〇一〇 January
 メルカッサ ホロウズタウン


 年が変わった。
 一桁繰り上がっただけだというのに、九と一〇では視えない境目を越えたほんの寂しさがある。
 アパートの角部屋の自室で、ダミアンは吸血鬼のような生活を送っていた。床は冷たく、末端の手足も氷のようで動かない。それと反対に、頭は常に旧式のガスコンロの炎で炊かれている鍋のようにグツグツと沸騰していた。
 原因不明の高熱――ではない。
 それがなぜ起きているか。二週間前理解に至った。
 自分が何者であるか。
 ――僕は、なんだ……?
 ダミアン・カズキ・モリシャルト。
 移民三世の日本人の血を持つ男。職業軍人。日本の財閥、桐原財閥の系譜。
 ――なんで。
 ウィラード・フライシュマン。
 ちょっとした好奇心だった。あの恐ろしい文書の末文には、おはよう。怪物。お前が目覚めるのを待っていた。お前が何者か知りたいなら、ウィラード・フライシュマンの名を授けよう。この計画を止める勇気があるならば、いずれ彼のもとにいくだろう=\―。
 文書は筆舌に尽くし難い、変身物語≠ェ描かれていた。
 思い出すだけで吐き気と目眩がする。
 資料画像にはモザイク処理のない、生身の人間の――時々人間の姿形を維持していないグロテスクな入れ替わり≠フ工程が詳細に記載されていた。
 それが鮮烈に記憶に残り、逃れたくてもフラッシュバックが襲いかかってくる。それまでの苦痛を上塗りし、ダミアンの精神を確実に削っていく。
 そして、ダミアンは薬に頼り、ダミアンの素性を知っていそうな男、フランクル・ボンを操作して秘密クラブの存在をたしかめた。
 ――……間違いなく。フライシュマンだった。
 メルカッサ ポーツマス・タワー。あの会場で。大勢の人々に取り囲まれた日。
 ダミアンは周囲から、裏の顔ではウィラード・フライシュマンとして認識されていた。
 彼は、表の犯罪者を操るカリスマで、その世界の亡霊だった。
 秘密の変身物語&カ書と末文を組み合わせるならば――ダミアンはなぜかフライシュマン≠ナあった頃を忘れているか、フライシュマンと自分自身が入れ替わっているか。その仮説に至り、ついぞベッドから起き上がれなくなった。

 起きている限りそれが続き、気を失うか、薬で誤魔化して起き上がるか、その繰り返しに日々が明けていった。
 ポーンと軽やかな音が鳴った。訪問客を知らせる音なのか、頭の中の幻聴なのかわからない。
 ヘッドボードに寄りかかり、瞼を閉じていた。高い音が水辺で波紋を作るように重なり、自分自身が金属の棒の如くぶるぶると震えている気がした。
 ガチャンと扉が開く音がした。
 人の気配が部屋に入ってきた。
 「ぶっ倒れてないか心配で。来ちゃった」
 音が大きく歪み、まるで水中越しの声がかろうじて意識を取り留めていた。
 「真っ暗! 閉め切っちゃって。ビタミンD不足よ。ちゃんとご飯食べてるの? 買い物には? 全然食材ないし」
 買い物袋。衣擦れの音。冷蔵庫を開け閉めする音が腹の底に響く。
 訪問者。彼の婚約者のルチアは長く美しいブロンドヘアを掻き上げて、ダミアンの真っ青な顔を窺った。
 「……大丈夫なの? 病院には行ったんでしょ?」
 「……心配ありがとう……休めてきているよ」
 絞り出した声は掠れて殆ど老人だ。 
 「嘘よ。あなたの ことはわかる。声が暗い」
 「……なんでもお見通し?」
 「うん。お見通し」
 ルチアが閉め切ったカーテンを開けた。
 強烈な陽射しが室内を闇から光の世界に変えた。
 「外にも出てないんじゃない? どこか遊びに出かけましょうよ」
 「ごめん。……今度ね」
 「ええ? そんなこと言ったって帰らないわよ」
 「……え?」
 思わず眇めた目で彼女を見上げる。綺麗な金髪が陽光に透けてより白み、後光がさし逆光で顔が影に消えている。
 暗い中で彼女の読めない表情の中に、懐かしい夕焼けと草原の薫りが鋭く、視神経を痛めつけた。
 「うっ……」
 ダミアンは顔を覆い、俯き、強烈な刺激をやり過ごすことだけに集中した。
 ――……今のは、なに?
 「大丈夫? 顔色、ほんとに悪い。病院に行く? スープくらいなら作れそう。それを飲んだら」
 ルチアはキッチンに向かう足を止め、ベッドの上で置物になっているダミアンに近寄って、痩けた頬にキスをした。
 「ダミアン……? ……体が冷たい。……温める方法を教えてあげようか?」
 明らかな病人になんて誘いをかけるのだろう。ぼんやりとダミアンは思ったが、それを指摘する言葉も冗句をとばす元気がない。
 「……スープを飲ませて」
 「わかった。その後、病院に行きましょう。連れて行ってあげる」
 瞼の向こうでルチアが笑った。
 「愛しているわ」
 再び柔らかな唇の感触を受けて、ダミアンの睫毛の下から涙が筋の軌跡を描いた。
 口吻の痕から、ブクブクと腫れ上がっていくような熱い疼きを覚えた。
 


 a.t.b.二〇一〇 February
 カストラリア ホリドゥラ サ・バレストリ


 ホリドゥラ。サ・パレストリ。古都のビジネス街は景観保護法で色褪せたミードの色と、高層階の建築物は綺麗に芝刈り機という条例によって揃えられている。しかし、周囲の山々が世界の頂点に君臨するならばその制限はあっても無いようなものである。
 髪色にあわせた落ち着いたブラウンのスーツは、よくある植木鉢のように自然に景観に馴染んだ。
 一区離れた先の教会が鐘を鳴らした。ビジネス街には人が溢れ、飲食店の多く立ち並ぶエリアへと昼食を求めて一方向に進む。工場の規則正しい生産ラインのようだ。その様子を遥か上から硝子越しに見下ろす男が、来客に顔を向けた。 
 「お久しぶりです。Mrアルト」
 「こちらこそ。シュルツさん」
 ブラウンスーツの男――ダミアンは、寒色寄りの落ち着いたグレーに無難な斜めストライプのネクタイを締める男と握手をした。
 キリアン・ホーエン・シュルツ。
 艶のある頬は血色よく、一見すれば脂ののる働き盛りのビジネスマンだ。例のデータリストに名前があった人物のひとり。会うのは四人目だ。
 シュルツの本名はリチャード・マシューズ。ブリタニア人である。彼らは表向き各省庁で働いているが諜報員である。彼の名は文書通り諜報員として活動している。――シュルツと会うことで、その文書が偽りのない正真正銘の事実を担保するものだとダミアンは確信した。
 これらの諜報員は、ブリタニア、中華連邦、EUなど、各国から志望者がフライシュマンを頼って偽装工作を行う。より正しくいえば、フライシュマンが直接手を下したり関係を持つことは滅多になく、その間に何人ものブローカーを挟んでいるようだ。
 誰もフライシュマンの本当の姿を知っているものはい。だが、ダミアンの姿をフライシュマンの現在の姿として皆認識しており、こうして直に会うと彼らは酷く興奮し、瞳を輝かせ、猛烈なキスを迫る勢いで信仰心を露わにする。
 表向きシュルツと名乗っているマシューズは、にこやかな金融街のビジネスマンが相手の安心を引き出すために、型崩れを許さない糊付けたような微笑みを浮かべた。
 「……現在は、軍にいらっしゃるとか」
 「ええ。現場です。意外でしょう」
 「貴方にしては。それにしてもお目にかかれるなんて。思いも寄りませんでした」
 ダミアンは笑みだけで受け流した。
 「……スーツの具合はいかがですか?」
 「スーツ」
 気になる単語を拾い上げる。
 「貴方の衣装≠ナす。その、今の。彼に相談して、手に入れたと仰っていたではありませんか」
 ちょいと人差し指でシュルツは胸のあたりを指した。
 「着心地は、……まずまずですよ」
 自身の体に視線を落とし、ダミアンはそれらしい冗句を挟んだ。
 そしてアイスブレイクもそこそこに、本題を切り出した。
 「彼とは最近連絡をとっていなくてね。シュルツさんはご存知ありませんか」
 「彼の……居場所ですか? それは私よりも、貴方の方がお詳しいでしょう」
 「ああ。そうでした。……いやね。スーツを着ると記憶がこんがらがるんです。他人になりきるというのは想像以上に気疲れする。四六時中他人≠ナいるというのは。貴方ならよくわかるでしょう」
 ダミアンの言葉にシュルツはククッと喉を鳴らして笑った。そのまま同意した。
 「ええ。肝心なのは……目立たないことです。どこにでもいる存在。人物。我々は、そのコミュニティに染まり切る。本当の自分など、存在しないようにね」
 「その通りだ。まったく暑苦しい。このスーツは」
 シュルツの軽やかな笑いを誘った。ダミアンは作り笑いの下でこう思った。
 ――本物のフライシュマンはどこにいるのだろう。
 どこからか見張っている? 掌の上を転がっている?
 フライシュマンが何者かわかっても、既にウイルスの侵入を許し、感染した世界に収集がつけられるというのだろうか。
 「ああ。そういえば。マーク・ボイエガを籠絡し……日本から独自ルートでサクラダイトを輸入していると小耳に挟みましたよ」
 「……ああ。……せっかくフィクサーの大甥に収まった。いい機会を逃してはいけないだろう」
 マーク・ボイエガはカストラリアにおけるサクラダイトを含むレアメタル事業を手掛ける企業の現CEOである。ダミアンの祖父はその企業の創設者に技術協力員として日本から招かれ、サクラダイトを実用化するまでの技術供与と開発研究を行った。初代CEOは祖父の後援者であり、ダミアン・モリシャルトの古いパイプを犯罪王フライシュマンは悪用したようだった。
 フライシュマンが仕組んだと思われる文書を全て読み込んだ上で理解に至ったことは――日本から未承認かつ非公認のサクラダイト取引を、旧隣国のインドに横流しし、そこで莫大な利益を得て犯罪資金にしている――ということだ。
 マーク・ボイエガと利益は折半。それでいても莫大な富が残る。
 「インドとは話がついていますよ」
 「さすがだ。貴方は――あの方が見込んだだけはある」
 シュルツがあの方≠ニ言った。
 あの文書がフライシュマンが残したメッセージだとするなら、その中に登場する彼≠ヘシュルツのいう者と同一人物だろう。
 「……あの方は今どちらに?」
 「えーと……ブリタニア、E.U.、中華連邦……色々なところに潜ってるみたいですし、私ではわかりません」
 「そうですか」
 「……ところで、あの方のお名前に変わりはありませんね?」
 シュルツはきょとんとした。フライシュマンの冗句だと思い、それからまた喉の底を震わせるような笑い声をあげた。
 「サロニア公はおかわりありませんよ。なんたって、そのスーツは彼からのプレゼントなんでしょ?」
 ダミアンは薄く笑い「そうでしたね」と話を合わせた。



55
午前四時の異邦人
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