a.t.b.二〇一〇 February
カストラリア サロニア ノーストーンリッジ
沿道をナツメヤシが等間隔に並ぶが、森の侵食が激しくその境目は見つけられない。くすんだ色の赤煉瓦の屋敷は、どうしてだかここが初めて訪れた場所には思えなかった。
グレドール・ド・アルディック。サロニア公爵の本邸となる屋敷は爵位の名にあるようサロニア地方のノーストーンリッジにある。
誰とも顔を合わせず、一本の真っ直ぐの白い道を辿り、ダミアンは黒のコートを羽織り屋敷の前までやってきた。窓はどこも閉まり切っていて、カーテンに隠れているし、放置された庭からは。細い根が壁を伝い鎧となっている。シキチョウの美しい鳴き声が森の中から届くが、その音を凌ぐ人工的な音が屋敷の中からすることはない。玄関の大きな扉に手をかけると、ギシと軋むだけで施錠はしっかりなされていた。使用人も、その家族もこの屋敷にいないようだ。
「……彼には御息女がいる」
ぼそりと自分にしか聞こえない独り言をダミアンは口にした。
サロニア公爵には娘がいる。セラフィナ・ド・アルディック。調べたところ、一昨年頃から行方が掴めていない。しかし、警察等で捜索願が提出されている様子もない。王室より王族の親族に与えられる称号を持つ者が、長期間屋敷を空けることがあるだろうか。
伸びきった草が絡み合い、そのうえ枯れており、荒れ放題である。
「……まったく人の気配がしない」
風が吹いた。冬の乾燥した冷たい、森の土の甘い匂いを連れてくる風が。そのなかに幼い子供の弾む吐息と上擦った声が潜んでいた。
ブルネットの長い髪をくるくると一つに纏めた髪型の少女と、金髪の長い髪を持つ少女がすぐそこの屋敷から駆け出してきた。
――『あっちのナツメヤシでジュースが採れるって!』
――『勝手に飲んじゃだめ! むこうの人達のお仕事なんだから!』
――『どうして。味見するだけじゃない。ほんのちょっとだけ!』
――『ティラナ!』
少女たちは軽装で森へ分け入り、ナツメヤシの生える場所へと消えていく。
導かれるように足が森の方へ歩き出した時、かさりと枯れ葉を踏み締める音にダミアンは振り返った。そこには白髪の老婦人が厚着をして立っていた。彼女は驚嘆を隠せないといったように両手で口元を押さえた。
ダミアンは靴先を老婦人へ向け直し、ゆっくりと「ああ……その、私は……」と落ち着かせようと言葉を選びながら近寄った。
知性的なグレーの瞳が恐怖と困惑を映している。両手を翳すダミアンに対して、老婦人は震える声で尋ねた。
「あなたは……? サロニア公のお知り合いですか?」
「失礼ですが、御婦人。どちら様ですか? 私は……ダミアン・モリシャルトです」
「モリシャルト? ……ああ、ええ……私は……ハンス・パブロ・シュミーダー……シュミーダーの妻です。ご存知ないでしょうけど。遺伝子工学博士の……」
「シュミーダー……? ……痛……ッ」
鋭い痛みが頭に走り、ダミアンは片手をこめかみにあてた。よろめく男に向かってシュミーダー夫人は手袋をはめた手で支えようとした。
「大丈夫……?」
「ああ……失敬……、ここ最近……偏頭痛が……。薬を飲めば治まりますから……」
「顔色が随分と悪いわ。飲み物はある? まだ空けていないお水があるから」
「……ありがとうございます」
いそいそとシュミーダー夫人は、バッグの中からペットボトルとハンカチを取り出し、近くの木陰に手を伸ばした。
「そこの木陰で休みましょう」
身を庇うようにダミアンはその裸の木の根元に腰を下ろした。座った途端力が抜け、薄雲の張った空を仰いだ。幹を背の支えにして、肺の奥底に溜まった熱を吐き出した。
「……あなた……」
案じるような声の傍らで、ダミアンは懐から錠剤を取り出した。数えることもなくブチブチと。取れるだけの数を握り込んで、それを口の中へ水と一緒に流し込む。シュミーダー夫人はその錠剤の粒が収まったシートの裏の薬名を読んで、眉間に皺を刻んだ。
「ありがとう。しばらく待てば、楽になる。……シュミーダー夫人で……よろしいですか?」
「え、ええ……。その……こう言ってはなんだけれど、薬の飲み過ぎよ、あなた。……副作用で悪化することだってあるわ。より悪く」
「……ははは。反論のしようがない。その通りです。……飲んだあとは楽になれるが、胃痛が酷くてろくに飲み食いできない。栄養学を義務教育で学ばなかったのかってね。……それよりシュミーダー夫人はどうしてこちらへ?」
話の主役を老婦人にすげ替えると、彼女は古びた屋敷に成り下がった屋敷を眺めて言った。
「夫を捜してるの」
「ご主人を? 行方不明なんですか?」
「ええ。もうずっと。……十年目になるのかしら……」
「十年。それは長い。……こちらへは、毎日通われて?」
「いいえ。毎日ではないけれど……数カ月ごとに。……主人はお屋敷に呼び出されたっきり、帰ってこないの」
「サロニア公爵のお屋敷に?」
「ええ。そう」
薬が効いてきた。飲み過ぎてはいるが、まだ効く≠ルどの体にすこしだけ安心した。今は手に入る薬で間に合わせられるが、さらに酷くなれば病院か軍からか、医療用の薬を窃盗しなくてはならなくなる。
視界が霞み何度か瞬くと、老婦人はそれが効きすぎ≠セと理解したようにダミアンの二の腕に触れた。
「うちへいらして」
「シュミーダーさんのお宅に? こんな身元不詳の男を招いては、危険ですよ。警察に通報したほうがいい」
「ふふ。危険なのはその通りね。だって貴方、今にも死にそうな顔色だもの」
「……亡霊みたいに?」
「ええ。そう。幽霊みたいに。ふふ……!」
老婦人は冗談に笑ったが、ダミアンはなにひとつ笑えなかった。
a.t.b.二〇一〇 February
ホリドゥラ ヨンステールー シュミーダー邸
カストラリア中央地にある古都・ホリドゥラのヨンステールー。大通りより三本裏にある閑静な住宅街、通りの中での一番奥まったところに、シュミーダー博士の邸宅が構えられている。
一軒家で広い敷地内には手入れの行き届いた庭。大きな落葉高木トネリコの脇には、教会にもあるヨーロッパイチイの木が植樹されているが、象徴的な赤い実の季節はとっくに過ぎている。
休眠期の茶色い芝生上には、はっきりとした原色が目立つ子供の遊具も設えてあり、孫が遊びに来るのだろうと想像が膨らんだ。
リビングの壁は天井のクリーム色にあわせた温かなオレンジ色。立体感のあるエンボス加工がされ、よく目を凝らしてみると蔦模様が薄く浮かび上がっている。夫人の趣味は良いようだ。
「いい壁紙ですね。オーダーメイドですか?」
「ええ。最近張り替えたの。気分転換に」
オープンキッチンでシュミーダー夫人はお茶のために水を沸かしていた。
「ごゆっくりなさって。ソファに。……お紅茶は、サンヤラでも構わない? オータムフラッシュよ」
「ご親切にどうも」
ダミアンはそれ以上、物色するのも失礼だと思い大人しくソファに座った。クッションに弾力があり、座り心地は快適だ。
シュミーダー夫人は慣れた手つきで饗す準備を進め、冷蔵庫の扉を開けてはお茶菓子を真剣に選んでいた。
「ミルクは? ミルクティーがおすすめよ」
「ぜひ頂きます」
「クリームケーキもあるわ。……中にはイチイのジャムとベリーを仕込んであるの。それよりも、食べやすいオートミールの方がいいかしら」
「どちらでも構いません」
「遠慮なさらず」
「……差し支えなければ、ケーキを」
ソファからはその向こう。壁に飾られた、額入りの家族写真や賞状が何枚もあった。壁の真下のアンティークのキャビネットの上にも、絵皿、ティーセット、陶器でできた人形、ささやかな書籍。優勝杯。ゴブレット。絵画。そしてやはり写真が目立つ。
それから再び、庭の方へ視線を移した。夫人は素晴らしい功績と記憶、子供や孫に囲まれて暮らすこの家を守り続けているのだと感じた。
「……お孫さんもよく遊びにいらっしゃるのですか?」
「ああ……そうね。結構頻繁に。殆どお守りよ。息子夫婦が遊びに来て、その間ここが託児所」
言葉ではどこか少し煩わしい家族関係のようだが、夫人の声は明るい。
「賑やかで、楽しそうだ」
「楽しいわよ。子供の成長ほど愛おしいものはない。……特に自分の子供より孫は。こんなこと、息子に言ったら傷つくでしょうけど……」
「無理もありません。貴女は……ご立派な博士の生活を支えてこられた」
「お褒め上手ですこと」
内助の功という美談に掻き消えるのは、殆どが女性だ。どれだけ優れていても。どちらかがより優位な場合、その優位な方を支える役を求められる。
たとえ本人にも優れた才能があったとしても。
「写真が気になるならどうぞ」
「ああ。すみません……たくさん飾っていらっしゃるので」
ダミアンの好奇心は勘付かれていた。夫人の許可を得て、ソファから壁へ進み歩いた。額縁の上にも。それを吊るす紐の上にも。埃や塵ひとつなく払われ、大切にされている。
写真は当然、家族のものが占められている。両親、叔父や叔母、兄弟姉妹、従兄弟、友人、夫婦、義娘の家族、その子供たち、孫。
冠婚葬祭。洗礼式後。特別な功労賞を授かった時。学校の入学式、卒業式、就職、成人の儀。人生の節目節目の記録。同一人物の生まれた頃から老いるまで、その連続性が途切れることはない。写真屋がプロモーションに用いるような、理想の家族写真。
ある写真の前で釘付けられたように、魅入った。
「……王女さま」
小さな少女を中央に、白衣を着たシュミーダー博士。他にも複数名研究員が写っている。
撮影場所は、今は裸の木となっているトネリコの真下。見切れた写真端には赤い実のなるイチイの木がある。
医学界の革命児と持て囃されたギフテッド。シュミーダー博士と交友関係にあるのはなんら不思議はない。自信と生命力の満ちる、万能感を持て余す笑顔。過度激動――とギフテッドを特徴づける好奇心旺盛さ、身体的多動・多弁は王女の特徴そのものだった。
アレクサンドラ王妃の振興で育った先進医療分野は、素晴らしい神の恵みを授かった王女によって成熟期へ向かいつつあった。
「その写真はね。王女さまの二つ目の博士号を取られた時、うちへいらしたの。そこの中庭で並んでお写真をね」
ダミアンの肩越しにシュミーダー夫人が教えた。斜め後ろに目をやり、庭と見比べた。
「綺麗なお庭ですね。王女さまも、イチイの実でジャムをお召し上がりに?」
「そうなの。王女さまは……ロシアンティーにしていたわ。イチイの実の中の種子にはタキシン……毒があるからと、虫眼鏡とピンセットを使って下拵えを手伝ってくれたのよ」
「……王女さまらしい」
華奢な肩を震わせて、「そうね」といって品のいい笑い声を漏らした。
月色は青白く、五感は冴え渡っている。
真冬の冷気が地面を這い、薄雲を押しのけて月明の居場所をつくる。古時計の針がコチコチと音を刻み、その役目にひっそりと耳を傾ける。
ソファの肘掛けに尻を置き、ダミアンは壁の写真を呆然と眺めていた。
昼間の頃よりも淡い色に吸い取られて曖昧な影としてそこに残る、過去の景色。
――王女さま。
草原のなかを追う背。黄昏れを映す双眸。
シュミーダー邸の中庭には離れとなる実験室があった。鍵はかかっていなかった。
タイル張りの表面が月光の輝きに濡れ、小窓に被る木の葉の影が室内に映り込んでいる。
「……ここ、知ってる」
独白は実験台のステンレスに吸い込まれていく。
空のフラスコ。ビーカー。シリンダー。顕微鏡。他のものは戸棚にしっかりと仕舞い込まれている。
電気の入った冷蔵庫の唸る音に、扉を開けると白い靄が広がった。トレーの中に薬瓶がそのまま残されている。トレーの縁に付箋に二〇〇〇年 十一月≠フ日付が記されている。
続けて、透明のカバーのかかった書棚の中のファイルに手を伸ばす。
ファイリングされた資料。手に取るようにわかる内容。乾いた土に水が急速に滲み込んでいくように素早く、それを理解していく。
――こわい。
何が書いてあるのかも。どうしてこの場所を知っているのかも。この場所でなにを志したのかも。
すべてを理解することへの恐怖。
ありありと思い出す、その場所の過去。ダミアンでは見るはずのない景色が浮かんでは消え、浮かんではほろ苦く消えていく。
「思い出したくない」
キン――と、甲高い耳鳴りの端緒。
「思い出したら……」
せっかく薬と睡眠で抑え込んだ痛みが、蘇ってしまう。
厳重に封じ込めなければいけない。
ダミアンの足は無意識に動き、実験室から本邸のゲストルームへ戻っていた。
ホテルのように控えめで清潔なシーツ、ピロ―、デュベの落ち着きのない無臭。そこによく知る涙の味が染み込んで、やるせない不安と緊張を和らげようと、顔を枕に押し付けて、声を殺して泣いた。
遅い朝陽が昇る頃、家主のシュミーダー夫人はゲストルームの扉を三度叩いた。
中からは返事はなく、泊めたはずの男の気配もなかった。
「モリシャルトさん。……モリシャルトさん? 入りますよ」
間を置き密やかな手つきで古い扉のノブを回す。内鍵は掛けられておらず、負担なく開いた。
窓は鋭い陽射しを取り込み、ベッドの上を白に染め上げている。寝具は、使用を疑わせるほどきっちりと整えられている。
夫人は男の痕跡を証明するものに、はっと気づいた。室内にある、小さな丸いテーブルの上には、折りたたまれたメモと紙幣が数枚。
「あら。……宿代だなんていいのに」
メモには――必ず、博士を見つけ出します≠ニ書かれあった。
夫人は、僅かに眉に力が加わるのを感じた。
メッセージの余白に――Acta est fabula.――。
ラテン語である。
物語は終わった∞芝居は終わった≠ニいう意味で、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが、死の間際に人生という一つの舞台が演じ終えられた≠ニ遺した言葉でもある。
「まさか……、まさか……」
あまりの衝撃に言い表すことのできない焦燥感と忌避感に、夫人は急いで階段を下りた。
スリッパが脱げ、玄関先を裸足で飛び出す。
薄い芝生の庭を越え、砂利を足裏にくっつけて、門を越える。静音なヨンステール―の住宅街。車一つ、人っ子ひとりいない。
「モリシャルトさん!」
シュミーダー夫人の叫び声に、木の上で実を啄く小鳥が、慌ただしく一斉に飛び去った。
「――王女さま!」
シュミーダー夫人はリビングにある固定電話に縋りつき、番号を押した。かつて夫が謁見の予定を調整する際に、頻繁に用いた電話番号を。
コールは短いうちに繋がり、息を整える時間もなく、最初の六秒は荒々しい彼女の吐息が送話口を覆い、
[はい。こちらカストラリア王室広報。担当のノイマンです……失礼、大丈夫ですか?]
「もしもし? あの……ごめんなさい……通話を切らないで頂戴。……お話しを聞いていただきたいの。怪しい男が……サロニア公爵のお屋敷に……」
なんと説明すればいいか迷い、混乱をそのままに、夫人は胸騒ぎを落ち着かせようと胸元を激しく擦った。
この国で、とんでもないことが起きている。
実験。功績。研究。王女の才能。才能への心酔。野望の話。秘密文書。クーデター。夫の失踪。研究員の告発と失踪。不信な男との邂逅。メモの余白のメッセージ――。
彼女の記憶する限りの、過去の様々な点と点が、繋がりだした。
a.t.b.二〇一〇 February
カストラリア リダニウム マレー総合研究所
センサー開発企業。アンハルトのマレー総合研究所では、秘密裏にあるセキュリティ・センサーの開発計画が進行していた。
ブリタニアのアカデミーの直轄研究機関と、カストラリアのモールストン研究所で、エネルギーシールドの共同開発にロイド・アスプルンドを携わせ見事な成果を上げた。スペインでも開発が進むKMFグラスゴーへの搭載には課題が残っているため見送ることになったが、当技術を建築物及びインフラへ流用するなど、耐久テストを兼ねて初期導入が始まっていた。
これらの研究主導実績を引っ提げて、眼鏡の天才博士ロイドは今週ブリタニアのアカデミーの元鞘に収まった。
一方でシュナイゼルには極秘で進めさせていた、生体セキュリティシステム研究があった。
よく冷え込んだ日で、外は大粒の雪が吹雪いている。
マレー総合研究所の研究棟の一角。シュナイゼルは研究所のダウストン所長から連絡を受け、視察に訪れていた。
「こちらのシートを指に巻きつけてください。粘着力で密着します」
研究員の指示に従い、他人の指紋を転写済みのシートを人差し指の第三関節までを巻きつける。
生体情報転写シート。治癒促進シートの理論を応用し、上皮組織の遺伝子情報を転写・培養して、指紋や虹彩などの生体認証を偽装する特殊シートである。
ノエル・アストリアスが潜入捜査を行う際に使用していた。この度、最新のセキュリティシステムにより、他者の生体情報を転写する特殊シートを貫通し、本人の生体情報を読み取れるようになった。
開発されたセンサーの前に指を翳すと、ものの三秒ほどでシュナイゼルの生体情報を読み取り、液晶画面に結果を投影した。
「表面シートの情報を通過するね?」
「ええ。問題ございません」
「立体スキャンも可能かな」
「こちらもお試しください。超極細針で痛みなく血液を採取いたします」
ダウストン所長の助手が機器を差し出した。血液中の酸素濃度や脈拍を計測するパルスオキシメーターの形状の機器に、指先を機器に挿入するとピッと甲高い音が響いたあと、液晶画面に測定結果が表示される。
「……うん。問題なさそうだ」
網の強化は移民犯罪対策を建前に進められることになる。
南方経済回廊こと経済特区の助言の本命は、このセキュリティを公に法案通過させるためのトリガーである。
「来月以降にテスト運用を始めよう」
「承知致しました」
指に巻いていた透明なシートをペリと剥がす。指先には傷ひとつ視認できない。
「実用化まで短期間。無理を言って悪かったね」
ダウストン所長は、シュナイゼルの柔らかな謝罪を受けて、慌てて居直った。
「いえいえ。ランゲ国防大臣のお墨付きですから。……経済特区にもご活用いただけると伺っておりますが」
「ああ、うん。そのつもりで進めてかまわないよ。国策といってもいい。貴社の技術力は成功を収めるための要になる」
助手が低姿勢で「テスト環境の想定は如何様に?」とシュナイゼルに尋ねた。
「私が決めても大丈夫かな」
すかさずダウストン所長が答えた。
「問題ありませんよ。個人私産の範囲内です。オーナーの代理人として意向に沿う形で、十分通ります」
「情けない限りだよ。……彼女に叱られてしまうね」
「そう仰らず。議会の認可もございますし」
これまた時代の変遷の狭間と、制度の中間地点での、灰色に近い合法な行為である。
カストラリア王室において、王室財務局の私財管理部門の裏には、王女の私設投資機関がある。
主に研究に纏わる特許やそのライセンス、国内企業の株を一元管理している。保有株の内訳は製薬・医療・軍需・インフラ産業を網羅。――いってしまえば国内企業の約三割に相当する企業の筆頭株主といえる。
国王夫妻崩御以前から譲渡は進められてきてはいたが、一手に相続し、殆どが王女と王室の資産扱いとなっている。表向き昏睡状態の王女に代わって、シュナイゼルは全権の代行人として、これらを議会の承認を得て管理受託している。
さらにマネーロンダリング事件により、銀行倒産を瀬戸際に防いだ一昨年から金融業が加わり、君臨すれども統治せずの原則にはまだまだほど遠く――資本主義という裏口によって国家元首にインフラ基盤を買い支えられている。
立憲君主制とは統治権、軍統帥権、徴税権を放棄しなければならない。
君主の私産と国家財産の完全な分離が肝要であるが、その手続は完全に至っておらず、またその中途半端な状況が国難を切り抜けるのに役立てられてきた。
ゆえにその気になれば経済制裁――戦争を始めることも終わらせることもできる力と好条件が、再びシュナイゼルに味方した。
「シュナイゼル殿下」
研究室の扉を潜って現れたのは、ひとりのブリタニア貴族だった。
呼び出された紳士は白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、目線の先のシュナイゼルに黙礼した。
「ご紹介しましょう。こちらがアッシュフォード卿です。ダウストン所長」
「これは! お噂はかねがね……ようこそおいでくださりました」
ダウストン所長は頭を下げ、部屋に入ってきたアッシュフォード卿の手を握った。
「元貴族でございます。あちらでは、もはや芽がありませんから……」
「我が国では、通過儀礼さえクリアできれば身分は保証されます」
ダウストン所長は力強く励ました。
マリアンヌ皇妃の支援を失ったいま、事業を継続するにあたりアッシュフォード財団は、カストラリアのアクィロ・セントラル信託銀行から融資を受けることとなった。ルーベン・K・アッシュフォードことアッシュフォード卿は、幾度もカストラリアを訪問していた。その日、同じく国防省直轄の研究所であるアンハルト財閥の、マレー総合研究所の視察に招かれたというのが経緯である。
アッシュフォード卿は、ブリタニア宮廷で馴染んだ見事な所作を披露した。優雅に腰を折り、シュナイゼルの手を取っては感謝を述べた。
「この御恩には必ずや報いること、お約束申し上げます」
「心より歓迎いたしますよ」
面を上げたアッシュフォード卿は、恐る恐る申し出た。
「……我が事業の越境≠ノ伴い、本国から何名かご紹介したい研究者がおりまして。ガニメデ開発にも携わった、アインシュタイン氏の招聘を予定しております。……それについては問題はございませんか」
「担当者をつけましょう。……招聘につきましては、制度内に移住保障を含めた推薦枠があります。そちらをご活用ください」
「は。至れり尽くせり。深謝申し上げます」
「その他、お困りになることについては、そちらのダウストン氏にご相談ください。彼も技術系移民制度を利用してカストラリアに帰化した方です」
シュナイゼルの紹介に、ダウストン所長は目を細めて頷いた。
マレー総合研究所での目的を粗方果たし終えて、シュナイゼルはそうだ、とダウストン所長を振り返った。
「……ダウストン。テスト予定地についてだけれど、手始めに、空港・湾港にテストをかけようか」
「承知致しました。殿下」
ダウストン所長が答えた時、廊下から慌ただしい靴音が響き渡った。ノックを数度。現れたのは、目に厳しいレッドの蛍光色のトレッキング用のジャケットを着たカノンだった。
「失礼いたしますわ。殿下。次のご予定の時間が迫っております」
「すまないね。あとは適切に進めてくれるかな」
「はい。殿下」
切迫した表情のカノンを一瞥し、シュナイゼルは廊下に出た。
捜査官が数名、研究所の前で待ち構えており「お急ぎを」と呼びかけた。
マレー総合研究所から、王宮へ移動する白塗りの極地用高機動車の車内。カノンは硬い声で状況を説明した。
「広報課へ通報がありました。アエギス行きのものが。内容は……数日前にサロニア公の屋敷に不審な人物が現れたと」
「うん?」とシュナイゼルは首を傾げ、それがどのような意味か瞬時に理解した。
「サロニア公の関係者かい? ……通報者の詳細を教えてくれるかな」
「ホリドゥラ。ヨンステール―。フライトン通り五七八。一軒家の固定電話回線からです。ハンス・パブロ・シュミーダー氏の妻、クリスティン・シュミーダー夫人ですわ」
「シュミーダー……? 博士のリストの上位二人のうちの一人?」
「ええ」
「Dr.シュミーダーの奥方か。……子供は全員巣立っている。……彼女は夫を捜して度々屋敷を訪ねていることは把握しているよ。同じく、行方不明となっているエリス・デ・アングレーム博士の父、アンドゥール男爵と懇意にしている。男爵は……なにかに気づいているご様子でね。昨夏、ヴァルグレイで根掘り葉掘り訊かれた」
「……王女のご様子を?」
「それもあるし、研究周りのことでね。シュミーダー夫人も同様だろう。警察にではなく……王室へ通報したのはそういうことじゃないかな」
「実験のことをご存知だということですの?」
「身内だよ。彼らは。とくにシュミーダー夫人は……彼女自身も研究者だった。通報内容の詳細は戦略分析室で?」
「ええ」
「シュミーダー夫人の保護を命じるかもしれないね。その準備を」
同乗する捜査官が頷いた。
王宮に到着後。アーク・リフトを経由し、地下の戦略分析室に急ぐ道すがら、シュナイゼルはカノンに問いを投げかけた。
「ところで……サロニア公の本当の目的はなんだと思う?」
「私にお尋ねになるのですか?」
「率直な意見を聞きたいんだよ」
カノンは「んん」と唸った。
「失礼を承知で申し上げるなら……王統の断絶に尽きるかと思いますが」
「ああ。そうだね。手の込んだ、意地の悪いやり方で。だけど、もう少し意見が欲しい」
「……他にいったい」
暗い廊下の突き当たりにある戦略分析室までの道のりは長い。
「うぅん。そうだね。私には彼の気持ちがわからない。特に、実姉に横恋慕するような性質が」
カノンは主人の意図を探った。少しずつシュナイゼルの思考については、読めてきた頃合いだ。移動中の会話にしては、ややセンセーショナルなテーマであるが。
「殿下は、王女を愛しておられないのですか?」
「……おやおや。私の――彼女を愛する感情を、彼と同一のものとしていいのかい?」
「……それは……」
苦笑交じりにシュナイゼルはカノンに訊き返し、どう答えていいか迷わせた。
「難問かな」
短い一言が、カノンの負けず嫌いを刺激した。返答の声音に力が籠もる。
「……王女が貴方様以外にご関心を向けられていたら、おわかりになるのではありませんか?」
「彼女は関心事を多く持つ」
「他人に。……愛人などの話ですわ」
戦略分析室の扉の前でシュナイゼルが足を止め、カノンとその他、追従する従者達がその場に留まった。
「仮定の話かい?」
「勿論、仮定ですわ」
シュナイゼルは思案しつつ、扉を開けた。
「……どうかな。私以上に、釣り合う者がいるとは思えないけど。……嫉妬心を抱いたとしても、振り向かせるまでが実力のうちさ」
「……ん――まあ、殿下ほどであればそう考えるのも無理はございませんわね」
戦略分析室内のスタッフが、シュナイゼルの登場にざっと立ち上がり頭を下げた。「続けて」と彼は作業の再開を指示し、奥のカウチに座った。
お茶の準備を進める侍従を傍らに、そこで彼はふふ、と笑い声をあげた。
「しかし、カノン。それは仮定の話としては弱い。なぜなら私は、いわば奪われる側≠フ立場だ。奪う側の本質の話がしたい」
たしかにそうだ、とカノンはまた唸った。
「これが理解でなければ……、サロニア公が彼女に何を求めているのか、次の一手が読めないよ。……確実に私に敗北の味を味わわせるならば、一連の事件の暴露と罪を王室に、王女に被せることだ。これが最大の一網打尽にする切り札。奥の手だろう。……その手段を講じるまで我々は劣勢であるし、劣勢を維持しなければならない。わかるね?」
「それは……」
「Dr.シュミーダーは人質である可能性が非常に高い。シュミーダー夫人の聴取を行うが、次の一手が打たれる。確実に。何かが動く」
用意された紅茶を飲んで、シュナイゼルは捜査官を呼び立てた。
「それでは、詳細を聞かせてくれるかな」
蒸気にのって、薫香が無機質な部屋を漂った。
a.t.b.二〇一〇 April
中華連邦 チベット区
砂埃が建付けの悪い簡素な窓を、ガタガタと震わせた。そこでは四六時中同じような音が音楽再生するのときの、ループモードのように続いた。
ヒマラヤ越えには二十日かかった。
諜報員の情報筋から、三月から空港と湾港のセキュリティ検査が厳しくなると知り、越境のチャンスはその時しかなかった。
酸素マスクを口に当て呼吸を整えながら、山南市・ダナンの安宿から街並みを見下ろした。
国境線を越えるだけで、まったく景色が違う隣国は時代が遡ったかのようだ。不衛生でインフラは壊れ、貧しく、侘しい。洛陽ではそうではないらしいが、首都から離れれば途端に精彩を欠く人民の生活がそこかしこにある。経済が停滞し総じて貧困に喘ぐ人々の慎ましさ。不法移民がカストラリアに亡命し、そこで根付くためにどんな仕事にも手を染め、内紛の手先として暗躍した時代。
有刺鉄線より強固な防衛線が張り巡らされては、都合が悪い。どうやらこのダミアンという男の素性は極悪人で、犯罪界の英雄フライシュマンの中身であった。
砂漠化の進むこの土地の、乾いた砂が風に吹かれて舞い上がった。
それでは、本当の自分は何者だというのだろう。
――……いいや。
正確には、既に気づいている。それについて考え始めると、意識を向けると、心臓が痛み、肺は収縮し、胃液がせりあがる強烈な感覚に倒れ込んでしまう。
酸素ボンベ付きの吸入器を口元に押し込んだ。
呼吸が常に浅く、以前よりも立ち眩みが酷くなっていた。理由は――そう働き出した思考を拒否した。拒絶を覆い隠すように名前を唱える。
「……マルカ」
その名前を唱えるだけで、いくらか苦痛がマシになる。
「マルカ――マルカ……」
――本当の名前を知っているくせに。
認めたくなかった。
違和感の正体から、自分自身が、マルカでさえないことに気づくことと――現実ではその正体が立証困難なことは子供でもわかる。
正体とは、よく熱された油入りの鉄の大鍋のようだ。
――私が……私であることを、誰が信じてくれる?
遺伝子解析の結果だけを人々は信じるか?
違う。人々は単純だ。結果などは手を加えることができる。しかし、生身は違う。とくに後天的に肉体を変質させるものは。そんなことは禁忌だと、誰もが知っているから。
「私は、マルカ」
都合のいい思い込み。心地のいい嘘。優しい偽りの草叢へと逃げ込む。露の雫で舌の渇きを癒やす。名前という呪文に安心する。
そう思うことで、傷口に瘡蓋をつくる。罪に向き合わなければならない、その時まで時間を稼ぐために。まだその時ではないと知っている。その傷は皮膚がビリビリと裂けているし、だらだらと血液が垂れ流れているままなのだから。
絞り出した声が、外の砂嵐の音に掻き消える。
ローモロー孤児院で視た、断片的な記憶。王宮に仕えていた頃の記憶。おそらくは、王女の影武者であった記憶。ピースを繋げ合わせていくことも苦痛を伴った。またその真実を理解しようと記憶を咀嚼すると、とめどなく涙が溢れた。
「マルカ……」
もう少し低地へ下りたほうがいい。東へ向かい、集めた情報からあの男――王女の叔父を訪ねるために。
「あの男を見つけ出して……殺す」
そうしなければ、この悪魔のような所業が今後も続くだろう。
「殺してやる……」
『わたし』をこんな化け物に変えた男を。
天の国への切符を燃やした男を。
a.t.b.二〇一〇 27th February
カストラリア リダニウム
戦略分析室は徐々に慌ただしくなっていった。
シュナイゼルは多くのモニターの中で、一番端の取調室の様子を注視していた。シュミーダー夫人の極秘聴取が行われている。
その脇で捜査官達が電話口で各所とやり取りを続け、ひとりがシュナイゼルの方を窺いみた。
「はい。ええ……ただいま報告中です。……口を割った? 秘密クラブの中心人物に陸軍関係者?」
捜査官はシュナイゼルに近づき、送話口を手で押さえながら告げた。
「マークしていたアストレー・ハロヴァ市警のフランクル・ボン警部補が口を割りました」
「彼もクラブの会員?」
「ええ。そのクラブの会員メンバーは主に中産階級と公務員で構成されています。……こちらでお仕えしている新人の侍従、サミュエル・H・ノーリスは……秘密クラブの会員と突き止めてはいたようですが、そのクラブはここ一年ほど動きがなかったようです」
別の捜査官の声が上がった。
「秘密クラブの中心人物の名前が割り出せました。名前は――ダミアン・カズキ・モリシャルト」
その発表に、シュナイゼルの側で予定調整を行うカノンが鋭く反応した。
「ダミアン? ……まさか、陸軍兵站部隊出身?」
「ええ。その通りです」
シュナイゼルが口を挟んだ。
「たしか彼は、ローモロー慰問時に運転手を務めていたね」
「はい。陸軍兵站部隊。階級は軍曹です。直ちに軍部に問い合わせますわ」
カノンは専用端末を替え、支給された捜査用の携帯で軍部へ連絡を入れた。捜査官は受話器を耳に、そのままシュナイゼルに情報を語り聞かせた。
「続けます。フランクル・ボン警部補は……ハロヴァ市で起きた複数の誘拐事件の関与を認め、その手口と被害者の居場所、……それから……例の、ウィラード・フライシュマンの名を挙げたようで」
「……引き当てたみたいだね」
シュナイゼルの自然と口角があがる。
隣でカノンが軍部からの情報を口にした。
「モリシャルト軍曹は、休職中だそうです。営内医務から休養を推奨されたようです」
「取り調べを行おう。プロフィールの送信を。……本人に連絡を取りなさい」
「それが。現在は……一箇所に留まっていないようです」
「ん? 軍曹は休職中では?」
「ええ……。そのはずですが、動きが活発です。……自宅を捜査させますか?」
「ああ。押さえて。関係者を洗い出すこと」
その時、戦略分析室の扉が開いた。シュミーダー夫人の極秘聴取にあたっていた捜査官のラキーユが、シュナイゼルのもとにやってきて耳元で囁いた。
「失礼致します。殿下。……シュミーダー夫人の聴取を極秘で行いました。その……」
「結果は?」
「お急ぎになられますよう。……そのシュミーダー夫人のもとにいた男ですが、王女さまではないかと……」
シュナイゼルは顔を上げ、ラキーユの両目を見つめ返した。
「聴取した情報を元に、男の近影を洗い出しました」
同じくシュミーダー夫人の聴取に参加していた捜査官がモニターに映像を映し出した。
ホリドゥラのヨンステール―中央駅。プラットホームに設置された防犯カメラ映像である。白む映像の中は人でごった返す駅の一角を捉えている。
「防犯カメラの映像を一部切り取ったものです。中央に映るのがシュミーダー夫人。その隣に歩いている男が……。映像を拡大します」
映像はズームされ、男の顔がより大きく鮮明になる。特徴の少ないこの国では、無難な顔つきの男。
思わずカノンが「あっ」と音が漏れた口元を押さえた。
「フライシュマン……モリシャルト軍曹です。これは」
捜査官が「……なんだって?!」と首を傾げ、映像に目を凝らした。
「ウィラード・フライシュマンが、こんな平凡な男だっていうのか?」
戦略分析室内のスタッフが持ち場を離れ、モニターの前に詰めかけた。どよめく室内で、
「随分と身近に潜んでいたようだね」――シュナイゼルは誰にも知られることのない程の小さな声で呟いた。
「フライシュマンはなぜ夫人と接触をしたんだい?」
シュナイゼルは、シュミーダー夫人の聴取を行った捜査員に尋ねた。
「シュミーダー夫人は数日前、サロニア公の屋敷を訪問したそうです。そこでこの男と邂逅し、ヨンステールーの自宅に招いたと。理由は、酷く体調が優れない様子だったことと、サロニア公の関係者であれば、詳しい話を聞けるのではないかと考えたそうです」
「夫人は危険な冒険をしたね。……なにか、特筆すべき点は」
「……なにも、といいたいところですが……奇妙な行動が一点。研究室で泣いていたそうです」
「研究室?」
「はい。ご自宅の研究室があるそうでして……夜半、その部屋の中で泣いていたと仰っています。一晩明けた翌朝。宿泊費とメモを残して去ったそうです。こちらがそのメモのコピーです」
ラキーユは白い紙をシュナイゼルに手渡した。夫人の所持するメモを写したもの、メッセージが紙の中央にくっきりと印刷されている。
「必ず、博士を見つけ出します=v
シュナイゼルは正しく読み上げた。カノンがそっと紙を覗き込んだ。
「そして……Acta est fabula」
そのラテン語の意味。溜息混じりにシュナイゼルは言った。
「アクタ・エスト・ファーブラ。劇は終わった。……すべてが完了した。……ラテン語の格言を残すのは、ティラナのサイン代わりだよ」
肘掛けに腕を立て、シュナイゼルは頭をついた。室内の喧騒は落し蓋をしたように、一時的に静まり返った。
「不審な男をサロニア公の関係者だと、シュミーダー夫人は考えた。しかし、これらの置き土産を発見し、……特にサインの癖から王女ではないかと思い至った。そして匿名の通報を行った。そういうことかな。経緯は」
「はい」
「夫人はいったい何を導き出したのか、わかる気がするよ。遺伝子工学のDr.シュミーダーの実験の内容を理解していただろうし、彼女は王女と面識は無論ある。……遺伝子工学は、王女の四番目の分野である生化学と連携が必須だ。基礎と応用。……人体実験についても、なにかご存知かもしれないな」
シュナイゼルは緩やかな金髪を揺らし、緩慢な動きでカウチから立ち上がった。
「夫人を上のサンルームへお招きしよう。直接話しがしたい」
捜査官ラキーユが首を短く竦め「失礼いたします」と、戦略分析室を後にした。
シュナイゼルはほうと息を吐いた。そしてもう一度、モニターに映り込む黒いコート姿の男に目を凝らした。
「恐るべきことが現実に起きてしまった。犯罪者の皮の下に隠しこまれるとは」
小さな声を聞き漏らさず、カノンはシュナイゼルを見下ろした。最悪の状況に比して、声の調子には余裕があった。
「私の一手の方が、少し遅かったみたいだ」
そのとき。シュナイゼルの額の皮膚がほんの僅かに、ぴくと微動するのを見逃さなかった。