a.t.b.二〇一〇 June
中華連邦 首都・洛陽
目の前に現れたのは、満月を模した細かな模様の描かれた表面の、平べったく丸い菓子。
蒸し暑い首都洛陽の街外れ。盛装の上流層と痩身で貧相な流民が角の影に同化する混沌のなか、ダミアンはその片隅の方に馴染んでいた。
「……いいや。いい」
返事は疲労と熱に魘されたあとの、重たく小回りのきかない鈍い声が慈悲を拒む。
洛陽につくまでもそうした慈悲を偽った悪戯の応酬で、体調を崩し半月ほど動けなくなった頃があった。腐った饅頭、水と偽った尿、家畜用の餌、生ゴミ、泥団子。野良犬ならば喜んで食べただろうか。見窄らしい男とは動物以下のようらしく、彼らとて善意だったかもしれない。それらを口に入れた瞬間の喜びようが善意か悪意かなど推敲する余裕もなく、思わしくない体調に振り回され、宿に辿り着く前にゴミ山に沈みこんでいたお陰か、どんな者も手出しをせず厄介なものか、目に見えぬものと扱った。
警戒心から、逆光の中にいる女のようなシルエットを持つ男を睨んだ。
「……水はないか」
要求はすんなりと通り、影が動いた。
唾液もなく、からからの口内を潤したくて堪らなかった。
「これで良ければ」
凛々しく低い声に、女性ではなく少年であると気づいた。
少年は身を屈めた。ベタベタの脂ぎった皮膚。伸び切った無精髭。髪の毛は湿気と汗でへたっている。酸化したたんぱく質、胃酸の含む唾液が乾燥した悪臭を放つ浮浪者の男――ダミアンの虚ろな瞳を覗き込んだ。
ペットボトルに入った水の蓋をねじ回し、差し出した。ダミアンは一瞬過去の嫌がらせを思い出して、指先が固まったが、渇きは脳神経の抑制を突き破った。
少年の名は黎星刻といった。
彼は浮浪者に施しを与え、彼の家でシャワーを浴びさせてくれることになった。
安全な水と腹持ちのいい月餅を胃袋に収め、多少の生気を取り戻したダミアンは黎家の屋敷に入ったとき彼が平民ではないことを知った。
艷やかな長い黒髪。造形のいいかんばせ。黎星刻は長身の美男子であった。
一画の水場で、盥に脱いだ衣類を詰め、ぬるま湯を浴びていく。すると、恐ろしいことに肌から流れる水色は茶色に濁り、その中には小さな虫の死骸が混じっていた。
シャワールームを仕切るカーテンの向こう、床からカーテンの間の隙間に黎星刻の細い足が見えた。
「好きに使ってくれていい。服は洗いに出しておく。着替えとタオルを用意させる。困ればそこにいる者に声をかけると対応する」
「ありがとう。……助けてもらったうえで図々しい願いだが……もう一着、新しい服を用意してくれないか」
着ていた服は煮沸消毒をしても、酷い臭いが繊維の奥深くまで染みついているだろう。着替えは途中追い剥ぎに遭い、貴重品以外は明け渡してしまった。
星刻は「構わん」と短く承諾した。
その言葉端から、彼は急に擦れた咳を繰り返した。
「……貴方、変な咳してるね」
「失敬」と謝り、空咳の波が引くのをお互いに待った。
「……ああ……その、着替えもだけど……歯ブラシ、髭剃りも貰えると助かる」
「わかった」
シャワールームの外に控える使用人に二三言告げて、コップと歯ブラシがすぐに用意された。
呼吸を落ち着けた星刻は「中華連邦のどこ出身だ?」とカーテン越しに質問した。
流れる湯が透明になってきたのを見つめながら、試すように「……どこだと思う」尋ね返すと、ふ、と軽く笑みがシャワールームに響いた。中華連邦人の第一外国語は英語であるが、洛陽の人間ではないことはたしかだとダミアンの英語を聞いて思ったのだろう。
「不思議なことに、わからないから尋ねている。普段は当てられるのだが。……そういえば、名前も聞いていなかったな」
「ダミアン・モリシャルト」
「カストラリア人か」
ダミアンは驚いて、洗髪の泡を流す途中にもかかわらず、シャワーカーテンの方を振り返った。
「正解。びっくりした。一発で言い当てられるなんて」
「黎家の名を聞いて反応が鈍かったからな」
「なるほど。……かなりの家柄みたいだね」
黎家はかなりの名家のようだ。それはこの屋敷に踏み入れた時からそんな気がしていた。それにしても、見た目を抜きにして一発で言い当ててしまうのはなかなかに鋭い。
この少年はかなりの切れ者だ。
「服の用意に時間がかかる。ゆっくりしてくといい」
「何から何まで、感謝に尽きないよ」
ダミアンはバスタブに栓をし、湯を溜め出した。底に尻をつけ、縁に頭をのせる。星刻の気配がシャワールームから消え、コホコホと咳の音が遠ざかっていく。彼のお礼を考えているうちに、麻酔を打ち込まれたかのように、すこんと意識が途切れた。
a.t.b.二〇一〇 February
カストラリア王宮 サンルーム
ぷっくりと肉厚な、淡い色の葉の愛らしい多肉植物たち。時期外れの高山植物の花々。低地の熱帯が条件のモンステラが、あたたかな窓際の隅を陣取っている。
厳しい冬の間、生存に適さない植物にとって、どうやらその場所はノアの方舟のようだ。
白で統一されたサンルームの扉が開いた。数名の護衛と秘書をつけた王宮の主の到着に、シュミーダー博士の妻、クリスティン・シュミーダーははっと顔を上げ、宮廷作法に不慣れながら足を後ろにひき、腰を落とした。
「慌ただしくてすみません。どうぞ。おかけになってください」
「はい。シュナイゼル殿下」
浅く遠慮がちにソファに座り、滅多に目にすることのないサンルームの内装に視線を巡らせた。
「天候の調子がよければ、庭の方にもご案内できたのですが」
クリスティン・シュミーダーは「とんでもない」と不躾な好奇心に対して、若く美しい青年に謝った。彼女の人生において、直視を憚られるほど美しい異性はいなかった。
並みのモデルでも珍しい長身。偏りのない均整の取れた体躯。まっすぐに伸びた姿勢。立体的な造形の顔の中で光る、知性的な紫がかった青い瞳。おとぎ話の王子様を具現化したような見事な金色の髪。
女王となるべき人の夫。テレビや新聞・ネットのニュースの写真画像、会見動画で拝見するよりも遥かに輝きを放っている。王宮の中とあって公の装いよりも、カシミヤのペールラベンダー色のハイネックセーター、トラウザーと落ち着いた格好をしている。
斜め向かいのソファに彼が座り、給仕人を指で呼んだ。
「……お好みの銘柄があればお申しつけ下さい。……ダージリンはいかがでしょう。シャトレ侯爵領地のものでしてね。シーズンになるといただくのですが、消費しきれなくてね」
「え、ええ。よろしければ……」
シュミーダー夫人はぎこちなく、成り行きに任せることにした。
何度も謁見する者は勝手がわかっているのだろうが、初対面の摂政にはどのような返答が適しているかなどわかるはずがない。特に青年はカストラリア人ではなく、ブリタニア人である。ブリタニア人でも東西の気候で気質が異なると噂に聞く。それを言ってしまえば、王女などはカストラリア人にしては開放的な性格ではあったのだが。
「通報してくださって、ありがとうございます。聴取にも応じていただいた」
早速本題に入るのだとシュミーダー夫人は身を強張らせた。
「王女さまは……、いらっしゃらないのですね……?」
核心を突く問いに、シュナイゼルは首を僅かに傾けた。
「そのお話しをするには……先に、貴女の今後についての説明と同意が頂きたいのですが、構いませんか。事態はかなり深刻でしてね」
「は……はい。……そのつもりで王宮へ参じた次第でございます」
はぐらかされた――このとき、¥シュミーダー夫人は思った。呼び出しに応じたものの立場は当然、若い摂政の青年の方が強く、それが彼女の遠くに置いてきた複雑な干渉を蘇らせていった。シュナイゼルの背後に置物か壁のように静かな人達は黙ってふたりのやり取りを聞いていた。
静まり返る間を埋め合わせるのは給仕の者がお茶の支度をする、茶器をセッティングしたり、菓子の用意や、湯を注ぐ音ばかりであった。
「クリスティン・ハーロット女史。生薬学の才媛だったと伺っています」
「……ずっと昔の話です。殿下」
裏で調べていたのであろう。当然といえば当然の作法である。相手に失礼がないよう、皇族や王族は常に謁見者の情報を収集し相手のことを気遣う。いっときの会話の相手であろうとも、社交の種を見失わない。外交のスペシャリストであることは、幼い王女の成長を見守っていた頃から知っている。
「王女さまが……四歳の頃から、私共夫婦は指導教官として……お役に立てるよう尽力して参りました。言葉の習得よりも先に、生物の方に関心がおありで。……こんな話は余計かしら」
「いいえ。ぜひお聞かせください」
その上品で柔らかな微笑みを向けられて、年頃の乙女であったなら、恋敗れて三日三晩枕を濡らして眠るだろう。
いつの間にか、あれこれと話が弾んだ。
はじめて王女さまとお会いした日の話。それ以前から、家庭教師の打診を受けていたこと。最初の座学は失敗し、フィールドワークに森に出かけたこと。虫の採集、草花、鳥、蟻の巣の観察、日時計の実験、モノの分解を一人遊びで行っていたこと。
翻って王宮では侍女たちに悪戯をけしかけ、並べたぬいぐるみを生徒扱いし、その日発見した事を延々と語り聞かせる先生だったこと。
彼は大学の講義室の最前列で、居眠りをしない熱心な学生のように語り手を安心させる力があった。
人々に理想化された、天使か聖人か。温和な青年の魅惑。優れた傾聴力が、彼の為せる技であると気づいたとき、頃合いだと本題に入った。
「夫人。この後、セーフティハウスへお連れすることになります。……使いの者に、ご自宅にあって必要なものを取りに行かせることも出来ます。ご入用のものは都度仰っていただければ、用意させます」
流れるように与えられる情報。すでに決まりきった順番の説明。シュミーダー夫人は、細かな皺の目立つ顔を顰めた。
落ち着いた様子から、彼女は何人も同じような人々を匿っている≠ニ推察した。
どれくらいの長い間、そうした生活を送ることになるのか。離れて暮らしている、他の家族とは会えるのか。そういった懸念も先回りして、シュナイゼルは「ご安心下さい。ご家族には警備をつけますし、安全は保証されます。面会も随時可能です」と言い切った。
「王女さまは……」
潤いの少ない唇が、無意識に敬称を溢した。
はっきりと確認しておきたかった。
真実に打ちひしがれて泣き出すような、感情的な女だと思われるほど、自分は軟弱ではないと証明したかった。ステレオタイプの女の烙印を押させないように。多くの功績が男に吸い取られてきたところに、あの少女は日陰者たちの救世主だった。年齢は祖母と孫ほど離れていた。時代が代わりつつあった。シュミーダー夫人は、どうか彼女の類まれなる才能の芽を潰さないように、守りたいと願ってきた。そしてまた、この目の前の貴人が自分の頃の、権威主義的な男性とは違うと信じたい一心で、その声が硬くなるのを制御できなかった。
「王宮には、いらっしゃらない?」
「貴女の仰るように、危機的状況にあります」
上流階層の遠回しな物言いには懲り懲りだ。だが、彼が悪いわけではないと言い聞かせた。
シュミーダー夫人は、言葉を直接的に表した。
「……あの実験で……別人に替えられてしまったのは、ご存知なのですね?」
シュナイゼルは困ったようにやんわりと微笑み返した。それから、短く「承知しています」と認め、質問を切り返した。
「教えていただきたいのですが、……シュミーダー夫人は、当件についてどこまでご認識されていますか」
「……主人が、しばしば王宮と連絡を取っていることは知っていました。……王女さまのご指導に関するものとばかり。……失踪してから、入るなと言われていた書斎に入ることに決めて……誓約書を発見したのです。国王陛下との誓約を」
「禁忌実験のことですね」
あっさりとシュナイゼルが認めたので、悍ましい計画の始終さえ把握しているのだとわかった。
「……はい。勅命とはいえ、断るべきことでした。研究者として、失格です」
あの人と自分は違う。境界線を引くようにシュミーダー夫人は非難した。
同時に、自分の配偶者が計画に携わり、醜態を晒していることを恥じ入った。彼がいかに罪人であるか。
王女の影武者となる少女を変身させるばかりか、悪人に脅された挙げ句、命惜しくて、王女にも同じ行為を働いたのだ。そして、この若者から妻となる人を奪い去った。
「なんてお詫びすればよいか。……いえ、そのようなやさしい話ではない。……冒涜です。罪深いこと」
シュナイゼルは何も口にしなかった。ただ黙って何かを考えていた。
「貴女がサロニア公爵邸に足繁く通うのは、彼が諸悪の根源だと認識されていますか」
「やはり、そうなの」
「今ので確信に変わった?」
「……殿下が仰るのなら、間違いないことでしょう」
「残念なことに。クーデターも、公の所業です。……他にも多くの余罪があり、我々は証拠を把握しています」
喉の渇きを癒すように、まだ温かい紅茶をシュナイゼルは口に含んだ。
シュミーダー夫人は、サロニア公爵邸の訪問の経緯を口にした。
「サロニア公爵の屋敷で……夫の消息が途絶えたの。警察にも届出ています」
「ええ。存じています」
「王女さまは……手紙の最後にいつも格言を残すこともご存知?」
「もちろんです」
すべて心得ている。
人間らしさの薄い優美な微笑。話し始めて時間が経つというのに、いつまでも現実感がなかった。
青年は小さく首肯し、もう一度紅茶を啜った。
シュミーダー夫人は、掴みどころのないブリタニア人の皇子を試すついでに、夫の罪を告発することにした。
「……免疫機能の低下を抑制するために開発された免疫抑制薬を、私名義でロット発注をかけていたことを把握しました。……具体的には……」
ちらりと彼を見遣ると眉を少しだけ上げて「うん」と品を作り続きを促した。
「どうぞ。続けてください。こう言ってはなんですが、代理人であり管理者として、王女の論文で少しは鍛えられています」
「免疫抑制薬というのは、現在一般流通するものとは少し違っていて……主に移植手術等などで用いられるものです。ヴァラヌマブといって、臓器摘出後や移植後に免疫を落とさず、改造組織への攻撃を止める局所的な制御薬です。使用するには、医療機関からの申請が一般的ですが……大量発注するには、研究機関などに限られていまして……夫は、私の名義でそれらを仕入れていた」
「ヴァラヌマブ。……王女の論文ですね。貴女が先行研究者であったことも承知しています」
複数の薬品に関するものが、二十八本の論文の中に含まれている。シュミーダー夫人は、青年が名ばかりの摂政ではないことは、数え切れない実績から知っていたが、噂に違わず研究内容にも深く関心を寄せていることに感悦した。
「……王女さまは、私の研究の後継を担ったといってもいいでしょう。……彼女は共同研究者に一線を退いている私の名を掲載してくださった」
王女の義理堅い親切が、夫の影に隠れる者でいたクリスティン・ハーロットに、特許収入と名誉という光を与えた。
しかし、それを彼は悪用した。
「……夫は……私の名誉も傷つけた」
矜持に従い彼女は目元を軽く押さえ、誤魔化すように冷え切った紅茶を飲み下した。
「ヴァラヌマブは……有限ということですね?」
「ヴァラヌマブは……ええ。そうですわね」
ヴァラヌマブは特殊薬品であり、発注者、あるいは横領者の特定を進めれば、ある程度関与する協力者や幇助犯を洗い出せるだろう。
「禁忌実験に使用された薬については捜査中でして。よければ手がかりになるような……そう、他の薬についてご存知ありませんか」
「私は……実験の詳細はよく知らないの。……だけれど、人の肉体を替えることは、大規模な移植手術のようなものです。……免疫の拒絶反応を抑制、消去、書き換えることなどが主でしょう。炎症の鎮静といった薬品も用いられているはず。……ヴァラヌマブの他には、カルテシムス、ソルナセプト……あたりでしょうか」
シュナイゼルはソファの背後に控える秘書に目で合図を送る。淡い茶色の髪色の秘書は手帳を開き、すぐさま薬品名を書き取った。
シュミーダー夫人は親切心で薬名を復唱した。
「感謝します。シュミーダー夫人」
「王女さまを……見つけてください。殿下」
「お約束いたします」
秘書が後ろから他の護衛の耳打ちを受けて、ふたりの会話の終了を告げた。
王女が不在ということは、青年が言葉そのものすべてを引き受けているのだと。
a.t.b.二〇一〇 June
日本・福岡 小島
雨季特有の閉塞的な曇り空と瑞々しい青葉の艶。ふやけそうなほどの湿りと土の匂い。
打ちつける雨は、造りのいい別荘の窓を突き通すことなく、心地のいい音を奏でていた。
華やかなレース模様のテーブルクロスの白に、ワインの赤と琥珀色が染まっている。近世の西洋を志向する室内には輸入家具が数多く、さぞ管理が大変だろうと思わせる逸品がその日の客人を迎えるにあたり、塵ひとつ曇りひとつなく磨きあげられている。
ダミアンは洛陽に七日ほど滞在し、その後日本に渡った。探らせていた諜報員の情報では、サロニア公爵は日本にいるらしい。ちょうど同じタイミングで、サクラダイトを密輸・インド横流しの件に噛んでいる、日本のサクラダイト輸出・管理部門の桂木という男から連絡が入った。
桂木はフライシュマンの協力者で、カストラリアのレアメタル企業、レアメタル・アーサックのマーク・ボイエガと秘密裏に結託していたが、桐原財閥の下級監査部門の監査に引っかかり近々、正式な捜査が入りそうだと泣き言を漏らすので、罠を疑いながら東進。日本を訪れることにしたのだった。
ダミアンは出されたワインを一口呑み、単刀直入に質問した。
「……公は日本にいると伺ったのですが。貴方ならなにか、知っているのではありませんか」
「いえ……私は……、大勢いるビジネスパートナーに過ぎません。……貴方の方が一番お詳しいはずです。貴方が……判らないことは、私共にも……わかりません」
桂木は冷静さ欠いて焦っている様子だ。莫大な利益に目が眩んで犯罪に手を染めたが、小心者らしい。
「そんなことより。ボイエガ氏にお伝えいただきたい。……供給量を減量したいと」
「……そうですか」
「……え?」
反対を予想していたのか、それともフライシュマンの反応があっさりしていることに困惑しているのか、何度か「ああ、あの」と桂木は吃った。
ダミアンは抑揚のない声で、彼の話を肯定した。
「私も潮時だと考えていましてね。桂木さん」
「は……?」
「私の方も……桐原氏の名誉があります。そろそろ勘付かれる頃合いだということです。煙を嗅ぎつけられる前に逃げた方がいいでしょう」
「だ、だが……それだと……」
桂木は未練があるのか口をモゴモゴさせた。
「貴方が仰ったんじゃありませんか。たった今」
「こ、交渉を……!」
「はい?」
「わ、私は、供給量を減らしたいといっただけで……辞めたいとは一言も申し上げておりません!」
ダミアンは椅子から立ち上がった。外の雨は弱まっていた。ランチのために用意された肉の皿を桂木の方に差し出した。
「……桂木さん。潮目を読んだほうがいい。確実に負けますよ。旨い汁の味だったから、もう少し、もう少しだけと啜っているうちに、猛禽類の嘴が貴方の首裏を咥えるでしょう」
「そんな!」と桂木は悲鳴をあげた。
毅然とダミアンは突きつけた。
「蚊のように気づかれてはいけません。痒みを残しては。ボイエガ氏にもそのように伝えます」
桂木は、別荘を去ろうとするダミアンの背に追い縋った。
小雨の中、なだらかな坂を下っていく。
腐敗はどこにでもある。
日本にもブリタニアにも、カストラリアにも。
ブルルと携帯電話が震える。臆することなくダミアンは出た。声の調子を変えて、ダミアンになりきる。
「はい。……お久しぶりです。桐原翁、今ちょうど日本に来たところでして。はい。休職中なんです」
小島を取り囲む海には、往復する船が鋼色に輝いていた。
a.t.b.二〇一〇 July
リダニウム カストラリア王宮 執務室
中華連邦の勢力圏内にありながら、見せかけの占領政策で独立状態を保つ、極めて特殊な交的結節点の国カストラリアに、極東から極秘文書の通達があったのは、爽やかな夏のはじめの深夜のことであった。
深夜一時過ぎ。急遽王宮に馳せ参じたのは首相、外務大臣、国防大臣の三名であった。
深夜零時頃に通達があり、外務大臣と首相で打ち合わせた後内容を精査したところ、喫緊の案件だとして王室に一報があった。
薄手のガウンを羽織り、執務室のソファで瞼を閉じていたシュナイゼルは、侍従のノックに扉の方に首を振った。
「殿下。お休みのところ夜分遅くに大変失礼致します。ベルケス首相、バーンズ外務大臣、ランゲ国防大臣でございます」
スーツ姿で馳せ参じた三者のうち、ベルケス首相が「シュナイゼル殿下」と呼びかけて、それぞれ頭を下げ入室を果たした。
「お茶の用意を」と侍従に命じ、シュナイゼルは執務机についた。外務大臣が首相と国防大臣の顔を見回して、抱えて持ってきていた文書をそっと机上に置いた。
「つい先刻。日本国より特殊暗号化された文書を受信し、それを変換したものとなります」
「拝見しよう」
すでに翻訳された文章をシュナイゼルが読み終えるまで、三者の緊張は張り詰めていた。
【極秘通達】外交往来文書
【件名】極東情勢の安定化及びサクラダイト特別供給に関する緊急提案について
送信:日本国総理大臣官邸
受信:カストラリア王国 外務省 宛
【挨拶】
日本国政府は、カストラリア王国の繁栄を心より希求するとともに、現在ご療養中と聞き及んでおりますティラナ・ヴァル・カストリア王女殿下の一日も早いご快癒を、日本国民を代表して深く祈念いたします。
殿下が築かれた先進的な医療知見は、我が国の医学界にとっても希望の光であり続けております
【前文】
我が国政府は、近年のアジア地域における軍事的緊張の高まり、特にエリア10(旧タイ王国)の陥落に伴う不安定化を深く憂慮しております。
貴国は中華連邦の経済圏にありながら、ブリタニア皇室の叡智を戴くという稀有な立場にあり、東西の均衡を司る「理性の要」であると認識しております。
【提案項目】
1.中立的仲裁の要請
現在、中華連邦を筆頭とする近隣諸国が実施している対ブリタニア経済制裁は、サクラダイト流通を滞らせ、世界経済に壊滅的な打撃を与えかねません。
枢木内閣は、シュナイゼル・エル・ブリタニア殿下による、ブリタニア本国と中華連邦、並びに日本間の「四者平和会談」の主催を要請いたします。
2.カストラリアへの優先供給枠の設定
・我が国は、貴国が国策として推進される高度医療インフラの維持、および王室直轄の研究機関における安定的エネルギー需要に寄与すべく、日本産サクラダイトの「特別優先供給枠」を新設する用意がございます。
本枠に基づき、貴国指定の施設向け供給分に関しては、国際市場価格の変動に左右されない固定の特別優遇価格を適用し、いかなる情勢下においても優先的な入港を保証することを確約いたします。
・ティラナ・ヴァル・カストリア王女殿下が基礎理論を構築された「細胞培養および治癒促進技術」と、我が国の「サクラダイト高度精製技術」を融合させた、官民合同の技術交換プログラムの創設を打診いたします。
これに伴い、我が国はサクラダイト精製における未公開の触媒技術の一部を、貴国との共同研究に限り開示する準備を整えております。これは、王女殿下が志された「科学による人類の救済」を、両国の連携によって具現化しようとするものであります。
我が国は、貴国が中華連邦内において有する独自の政治的地位を尊重し、貴国政府が国際舞台で行う平和的提案に対し、全面的に同調し、支援する用意があることを改めて表明いたします。
【結び】
平和の道は、剣ではなく対話によって拓かれるものと信じております。
殿下の賢明なるご判断を、極東の民は渇望しております。
「……やれやれ」
珍しい嘆息に顔色を窺う大臣二名、寡黙にシュナイゼルの判断を待つ首相は、文書の文字を睨んでいた。
「返答は今すぐした方がいいかな?」
「なるべく早期に返答を致した方がよろしいかと存じます」
シュナイゼルの問いにベルケス公は断じた。
「私ごときの請願では、あちらの陛下はお考えを改めないだろうね」
「……殿下」
ブリタニアの皇子が、ブリタニアの日本侵攻は避けられないだろう――ということをはっきり口にしている。臣下達は互いの顔を見合わせて、鼻息だけの溜息を漏らした。
「枢木首相は、四者平和会談を望んでいるようだね。……便宜上は話し合いだが、先の旧タイを思ってのことだろう」
先のエリア一〇の事実上の占領をもって、中華連邦とカストラリアを除く周辺のアジア国、ならびにE.U.に強力な経済制裁が発動。
今やこの飛び地の親ブリタニアのカストラリアが、ブリタニア最大の貿易相手国である。ブリタニアが締め出されている他国からカストラリアが輸入し、それをブリタニアが輸入している。体裁上の属領であることで税制優遇が可能でローコストで実現している。ブリタニアは経済的にも領土拡大しなければ却って国益を損なう状況であった。
日本政府の提案するサクラダイト特別優先供給枠。カストラリアと日本の両国共同技術強力・交流を持ち、表の冷戦状況の裏でブリタニアに供給する――という見方も出来る。カストラリアの医療技術を供出することで国際的イニシアチブも取れるだろう。三国だけならここで完結する。だが、日本の背後の中華連邦の存在を無視することはできない。――そういった事情が日本側にはあるようだ。
シュナイゼルは、父シャルル・ジ・ブリタニアに物申しても、予め決まっているような決定を覆すところにないのを知っている。本国の軍拡の動向。長年の軍事偏重の姿勢は崩れず、勢いづいている。
いかんせんカストラリアとてその恩恵を授かっている。――なにより、正統な君主不在のディスアドバンテージを埋め合わせるには、もう少しブリタニアの力は必要だろう。
また、四者平和会談の実施の実現も危ういところがある。会談で合意形成を図ったとして、それでも日本のサクラダイトの代替になるような施策や、一旦双方を退かせる大義名分が不足していた。すでに避けられないものであると理解があったが、シュナイゼルには摂政としての立場で、適切な回答を行う必要があった。
シュナイゼルは答えを出す前に、まず首相に意見を求めた。
「内閣はどのようにお考えかな。首相は?」
「恩を売っておく、というのも戦略のひとつかと存じます。シュナイゼル殿下」
「そうだね。……バーンズ外務大臣はどのように考えているかな」
首相の隣に立つ、バーンズ外務大臣が述べた。
「四者平和会談についてですが、旧タイと同条件で進めれば、日本全土の占領ではなく、分割占領となり、軋轢を生みかねない状況も想定しております」
「うん。それも一理あるよ。枢木首相の考えはサクラダイト供出だけで収めたいところだろう。しかし、一筋縄ではいかない。中華連邦は日本進出にかなり前向きと聞いている。この話に中華連邦が登場するのはそういうことだろう。……三者の衝突は免れないし、南方回廊の経済特区だけでは吸収できない規模だ。極東は」
中華連邦は経済特区を実施のうえ、極東を望むだろう。
カストラリアができることは、大国相手にその国に代わる利益を捻出し宥めることが主だ。永世中立国は直接的な支援は不可能である。代替となる別の枠組みを用いて、遠回しに中立姿勢を保つ必要がある。
「ランゲ国防大臣は」
「恐れながら。王女殿下の私産による都合≠つけられてはいかがでしょうか」
「……これ以上勝手に弄ると、私の面目が立たなくなるのだがね」
「し、失礼致しました」
「いいや。そう考えるのも無理もない。……彼女ならそうしただろう。もしくは、もっと効果的な解決策を講じているはずだ」
外務大臣が「王女さまがご健在であられれば……」と言葉を溢した。
誰もが何も否定しなかった。
そして、何度思い馳せたことだろう。
ティラナがいれば並大抵のことにも融通がきく。たとえば、医療物資となる輸出品目を取り下げるだけでも絶大な効果を発揮する。ブリタニアの専制に真っ向から提案も可能だろう。中華連邦相手にも歴史を遡って縁戚関係である由縁から、話し合いに持ち込める。ほかにもE.U.には貴族を介し旧名家に働きかけることができる。
四者会談を持たずとも、日本とカストラリアで同盟を結ぶことも。
中立国同盟を結べば、ブリタニアは手出し不可能となり、中華連邦も最前線の日本が完全な中立地帯として機能することで国防上の安全が保たれる。
しかしこれを実現するには、やはり親を立てる必要がある。カストラリアがブリタニアの庇護を得ている状況で、その親に歯向かうことは現状失策といっていいだろう。――それに、シュナイゼルが摂政である以上は、日本は同盟を結ぶことを渋るはずである。体裁の悪さ、属領国の属領。
そうならないために、日本国政府は先手を打ってきた。
「先方の要件から意思を再確認し、四者平和会談の準備を始めると回答を」
「はい。殿下」
バーンズ外務大臣が頷いた。
「ブリタニアの調整も進めよう」
ベルケス公が首肯し、腕時計を確認した。時刻は深夜二時を回っていた。
a.t.b.二〇一〇 July
日本・京都 桐原邸
蝉の鳴き声。蒸し暑さ。気怠さ。風にのって届く竹林の笹のざわめき。
鮮麗な緑と寂寥が同居する世界。
繭の中で翅を閉じたまま、ずっとそうしていたかった。
滑るような足捌きと障子を引き開ける物音と、鈍い光が闇の住処を照らし込んだ。
「閉め切ってたらカビるで。あんた」
桐原玲子が呆れた声で、室内の空気を新鮮な空気と入れ替えていった。四方の襖や障子を次々に開け放ち、滞留する鬱屈とした気が押し流されていく。
「もう少し寝かせて……」
「もお十一時やで。お昼なんにする?」
その家のヒエラルキーの上位者である玲子は、布団の中で芋虫になる男を、行儀悪く足先で揺すり「おーい」と呼びかけた。
「……なんやほんまにぃ〜。日本帰ってきてぐうたら。食っちゃ寝。食っちゃ寝。……今度は彼女連れてくるいう約束どないなったん?」
「……そんな場合じゃないんだよ。玲子さん」
ガラガラの声を億劫にダミアンは絞り出した。声帯を殆ど使わない生活で、それらは鈍り、音は濁っている。頭上にあるはずの吸い飲みを探るも見当たらず、しょうがないと重い体を起こす。もはや軍人とは名ばかり。筋力の衰えようは外見にすっかり現れていた。
「えーともしかして、破談……? ええ……? えぇ……!?」
「なんでそっちが驚くの。……でも、時間の問題。休職のまま退職だな」
玲子はそれには何も言及せずに「お昼持って来るわ」と、縁側から台所へ歩いていった。
――結婚。
婚約者ときいて、ダミアンはルチア・マッケンジーのことをぼんやりと思い返した。
ダミアン・モリシャルトの婚約者。
彼女は被害者だ。いつの間にか、ダミアンの中身はすり替えられていたのだから。
日本に来てから数日経った頃、早々に、ルチアには将来性がないことを白状した。カストラリアに戻ることは暫くないだろう。ダミアンの人生に付き合わせるのは、長い目で見ても彼女の為にならない。
――『……ごめん……ルチア』
別れを告げると、ルチアは電話の向こうで『私はまだ諦めてないから』と言った。
――『君にはもっといい人が見つかるよ』
ありきたりな言葉を押し付けて、非道い男だなと我ながら思った。
時々差し込む幻覚のような、夢のような、過去らしきものの断片が精神病の一種であれば、大人しく病院に入りたいほどに。――あの隠されていた文書さえ知らなければ、そうしていただろう。知性が病態の認知ができるほどの水準は、かえって息苦しいものだ。
「……はい、お昼」
玲子が御膳を両手に持って、ダミアンの寝泊まりするお座敷に再びあがり、それを胡座をかく彼の前にそっと置いた。
お粥に、梅干しや鰹節、昆布などの薬味。柔らかく野菜を煮込んだもの、すりおろしのりんごと消化しやすい病人食が並ぶ。
「なんで振ったん。あんまりやわ」
ダミアンは黙って食事に手をつけた。空腹は感じていなかったが、薬を飲むために、なにかを胃に入れておかなければいけなかった。
無言の男をひと睨みし、玲子は嫌味を隠さず「男はみーんなそうや。都合悪なったら、あっさり……」と毒づきながらどこかへ消えた。
つい先日。彼女の二十歳年下の妹の綾子が、また見合いが上手くいかなかった話をしてくれた。
何度かデートも重ね、あともう少しのところだったそうだ。桐原の家の方の都合か、相手方の家が辞退したか、とにかくまた流れたそうな。
「相変わらず、虫の居所が悪い」
桐原家の姫君としての焦り。それが羨ましく思えた。たとえ相手が決まっていなくとも、結婚が上手くいかなくとも、玲子への期待が失われていったとしても、妹がいるからだ。
頭を横に振った。いらぬ感傷を封じ込めるために。
午後からは、桐原の会議に同行することになっていた。食後の痛み止めを飲み、着替えの準備に取り掛かった。