原罪






 a.t.b.二〇一〇 August
 カストラリア リダニウム カストラリア王宮

 
 王宮を覆う岩山の一部に張り巡らされた精密危機から、広範囲にわたり半透明のシールドの出現を確認された。テストの項目にある放水作業に従者達が取り掛かるのを、少し離れた庭園から見上げる人物が二人いた。
 「作動しますね。ああ。よかった、これなら上手くいきそうでございますね」
 後ろ手を組んだシュナイゼルは、あちらこちらから非常用の放水シャワーが威力を発揮するのを見上げた。放水銃の口から放出される水をシールドは弾き返し、そのまま地面に滝のように落ちていく。太陽光を受けて七色の虹のアーチが浮かびあがっていた。
 その隣で丸眼鏡をかけた比較的若い男。ヴィコンテ・フォン・ヘルムホルツ伯爵は、相手の遥かな高位な身分に慄くことなく、砕けた口調で言った。
 「まさか。お安い御用です。このくらい」
 研究職の者が比較的優遇されるこの国では、パトロンとなるものは同等程の権威を担う。事業家として名を馳せるヘルムホルツ伯爵は、兵器メーカーの出資を行っているパトロンであり、今回の防御システム開発にも莫大な出資を行った。彼の抱える兵器メーカーはブリタニアの共同研究の実績と互いの協力関係の歴史も長い。
 この強力な防御システムである電磁シールドの実用化には、もう少し時間を要するところであった。建物などの不動のものには風、気圧、空気抵抗が少なく最初の実用化テストにはもってこいのものである。
 「懸念点があるとすれば。外からの守りには強くなりましたが、内側からの防衛システムでしょう。内側は階層分けされた構造に変わり、機能的になった。かつての王宮の姿はせめてもの外観くらいのもの。お手柄でございますね、殿下」
 「出資はしたが、実現させたのは優秀な技術者達の腕によるものだ」
 ヘルムホルツ伯爵は「ご謙遜を」と微苦笑を浮かべ、続けて「今後の構想に修正は?」と展望を知りたがった。
 「以前に伝えた通り、都市インフラ開発に流用させていく。補助金の割り当ては先に議会の承認待ちだ。これを本国への土産にするといい。成果は上々。皇帝陛下にもご納得いただける内容だと思うよ」
 「……お噂では、皇帝陛下に内奏されたとか」
 「他国に積極的に進出すると、翻って、この国の蓄えを減らすことになると上申したよ」
 「なるほど、共同研究の成果は飴と鞭ということ。……王女殿下のご体調にお変わりはございませんか」
 ヘルムホルツ伯爵とて、王女相手には謙虚である。
 シュナイゼルは女王の臣下となる彼らが、そのような言い様をするとき、欲望や野望に関する願いを口にしたい――つまりは、前振りであると読めるようになっていた。
 「王女の許可が必要なことが?」
 「数え切れないくらいある。……たとえば、戦争などは」
 シュナイゼルは微笑みを崩さず、感情を写し込まない瞳で彼の真意を探るために、沈黙を返した。
 「永世中立国だから仕掛ける側の話ではありませんよ。殿下。……我が国は争う者たちの仲裁も行いますが、兵器と医療資源を握っている。ひいては、生殺与奪権を握っているともいえる。まるで、運命の三女神のよう。あるいは、神そのものだ」
 舞台上の演者のように尊大に「神に選ばれし者は、神のご意思の代理人である」と伯爵は胸を張った。
 「伯爵。貴殿は、戦争を正当化したいのかい?」
 伯爵は――王女による号令を望んでいるようだ。
 彼の背景にある兵器産業を考えれば、陳情に近いものである。しかしこの国は戦争には受動的態度を守るきまりがある。
 もっと言葉を選ばずにいえば金儲けをさせてほしい≠ニいうことだ。
 「それも一理ございます。……むしろ私は殿下こそ、宗主国の皇子として、美学をお持ちでいらっしゃるのかと信じておりましたが」
 「摂政だよ。私は」
 「摂政である前に、あなたはブリタニア皇帝の御子であらせられる」
 伯爵は間髪を容れずに跳ね除けた。
 シュナイゼルはそれで怯むような男ではない。
 「神の代理人の代理者であるなら、私が優先すべきは出自ではなく役割だよ。王女殿下は戦争を望んではいないだろうね」
 その毅然な態度に、伯爵は口角を僅かに曲げた。
 「王女殿下の崇高なる志について、殿下はご存知でいらっしゃいますか」
 暗に、王女の叡智の結晶をもっと役立てろ――と言いたいようだ。
 「どのような意図で尋ねているか測りかねるけれど、大局的な理由ではないはずだよ」
 「確かでございますか?」
 「ああ。元気なときに聞いておこうか」
 見えぬ言葉の接戦は、カノン・マルディーニの登場によって終焉を迎えた。
 「是非に。この話お含みおきいただけますよう、お願い申し上げます」
 形式的に頭を下げ、ヘルムホルツ伯爵はシュナイゼルのもとを離れた。替わるようにカノンが芝生の上を進み出た。
 「殿下。失礼いたします。……エンメリック製薬会社の捜査が進みました。例の……ヴァラヌマブを含む計三種の薬品についてですが……購入記録から複数の製薬会社より、持ち出しが確認されたそうですわ」
 「横領犯の特定は」
 「それも特定済みです。問題は、各地に運び屋がおり、それを経由しているようでして……」
 「横領犯はあくまでも中継役ということだね」
 アルディックらしい導線の引き方である。
 マネーロンダリング事件の時のように複雑に仕込まれた人的ネットワークを介し、特殊薬品が搬送されている。もっとも驚くところは、人的な管理が行き届いているという点である。
 カノンは、呼吸をひとつ置いて報告を続けた。
 「それと、もっと重大なことが。……ダミアン・モリシャルトはどうやら中華連邦を抜けて、日本に滞在中ではないかと」
 シールドの様子を見上げていたシュナイゼルはダミアンの名に、カノンを振り返った。
 「日本に? ……それはそれは、大層な長旅だったみたいだね。目的を果たし終えたのかな」
 「レアメタル・アーサック社のボイエガ氏が日本産サクラダイトをインド軍区へ密売していた情報を得ていますが、どうもその工作にフライシュマン――いえ、ダミアンが絡んでいるようです」
 「それは、いつからだい?」
 「捜査によれば、四年前からです」
 「ふむ。それは時期が合わないのではないかな。その頃……ダミアン……いや、彼女は私たちのすぐ近くにいた。君も知っているようにね」
 小さくカノンが頷く。シュナイゼルは足元の芝生の一点を見つめ考えたのち、ある答えを導き出した。
 「すると――……彼女の成り代わる以前のダミアンが、元々優秀な知能犯罪者だったか、フライシュマンがダミアンに成り代わっていたか。そう考えてもいいだろう」
 「つまり……フライシュマンは、実在しない犯罪者の名前ではなく……」
 「そうだね。本物のフライシュマンが実在する。では、どこに? 彼は、フライシュマンとなっているダミアンを野放しにすると思うかい?」 
 かつて、ノエル・アストリアスに替えられた男がどのような行動を取ったか。
 まずは――入れ替わり元の人間に会いに行くだろう。そして、その肉体を戻すように願うのか。もしくは――。



 a.t.b.二〇一〇 9th August
 日本・河口湖 別邸


 ブリタニアのアフリカ戦線・兵力投入の報から数日後。
 中華連邦は当初静観を決め込んでいたが、それから数日してE.U.側の要請を受けて兵を派遣した。

 ここは標高の高い長野にほど近い山梨の杜の中。
 邸中にある窓からは周囲を囲む木々と木の葉の色を染うつし、瑞々しい彩りが壁や柱や板間に淡く漂っている。ここは、枢木家の所有する別邸のひとつで、普段は本邸にも近い熱海の浜に面した屋敷で夏を過ごすらしい。
 枢木首相との溝は深くなるばかりで、もはや話し合いも成立しない。戦争は止められないだろう。
 摂政殿下の判断次第、返答次第である。また時間との戦いでもある。
 ダミアンが取るべき行動は、見切りをつけてあの男を探し当てることだったが、肉体の方が先に限界を迎えようとしていた。
 ――酷い暑さだ。
 避暑地だというのに。
 ――汗が止まらない。
 タオルで額を拭う。
 洗面台の鏡の中。映る男の顔は日焼けとは異なる肌の暗さを持ち、今しがたプールにでも飛び込んできたのかというほど滝汗をかいている。
 寝不足。そして、昨晩は薬を抜いていたがゆえの飢餓感に晒され、指先は細かに震えている。今夜もこの禁断症状に耐えなければならないと思うと、少し憂鬱だ。
 数粒の錠剤を水入りのコップを傾け、流し込む。
 小瓶の中には数日前、薬局で買ったばかりの市販薬がたっぷりと残っている。
 十五時間。苦痛を野放しにしておけるほどの体力はない。やむを得ず、ひとときの安息を得るために。薬物乱用頭痛が生じ、その苦痛を和らげるためにまた薬を飲む。そうして、薬なしでは保てなくなっていく。
 今更、止めることができるだろうか。
 首相の妹である枢木マフユの配慮により、幾日かの滞在を許されたダミアンは、子供たちを連れこの山の避暑地で夏を過ごすことになった。
 スザクは朝早く近くの小川で魚を獲りに使用人付きで出掛けた。別邸に残ったのは体調が思わしくないダミアンと、ルルーシュとナナリー。あとは数名の使用人だけだ。
 枢木からはしばらく離れられないだろう。
 自室として使用するゲストルームにある固定電話から、桐原家へ架電する。
 電話口に立った玲子のぶっきらぼうな態度が相変わらずだったが退屈だから、さっさと京都に帰ってこい≠ニおおよそそのような意味の言葉を口にした。
 「……君のおじいさまはなにも?」
 「なんやのそれ。意味深なこと言うて」
 「……だったらいいんだ」
 電話を終えるか迷った時、玲子が「おじいさまに替わる?」と訊いた。
 「そこにいらっしゃる?」
 玲子はふーんと鼻から抜けるような声を出し、奥の居間を覗き込んだようだった。「おる」と短く答えて、送話口から離れた口が「おじいさま、ダミアン!」と呼ぶのが聞こえた。
 桐原が玲子と替わり、軽い近況を伝えたのち数日前から始まったブリタニアのアフリカ戦線の話に触れた。
 「あれは陽動作戦です。直ちに軍部に伝達してください。……それから、人質を安全な国へ亡命させてください。お二人が亡くなれば、……ブリタニア側にジェノサイドの大義名分。口実を与えることになります」
 長い沈黙を経て、桐原は「命令か?」と一言を発した。
 枢木ゲンブとの交渉決裂はすでに桐原の耳に入っている。ダミアンは仕事に失敗した男だ。その男から、起こるかもしれない♂ツ能性の話を、あっさり信じて動くほど短絡的ではないと彼の口ぶりから感じた。
 話半分で桐原は行動をとるだろう。ダミアンは信用しすぎることを諦め、いつ来るかわからないブリタニアによる侵攻に備えて手を打つ他なかった。
 ダミアンはゲストルームから身を引きずってよたよたと庭に出た。盗聴対策機器のついた携帯電話で、福岡の桂木に連絡を入れ、先日の話の条件を急遽変更し、サクラダイトを融通する代わりカストラリアへ出す密輸船に人を乗せる約束を取り付けた。
 「……あとは……パスポートとIDだ」
 カストラリア亡命後の身分証の確保。
 先日のやり取りが聞き間違いでなければ、枢木ゲンブは二人の要人を裏取引で引き渡す可能性がある。
 母后を喪い、後ろ盾の国が人質の効力を自ら放棄する。聡い子供達にはその意味がわかるだろう。ひどい裏切りを経験することは避けられない。
 ブリタニアの皇子皇女が侵攻後にも残留することは、双方にとって良い選択ではない。日本人に良心を期待することは不可能だ。敵国の皇子らを政治利用する者が群がるのが目に見えている。
 ダミアンに出来ることは、国外退避の足掛かりを築くことだ。
 それには、亡命後の身分証の用意や、身元引受人をたてる準備が要る。これらをクリアするには専門家が必要だが、その専門家に取り次ぐ人間が日本には数えるほどしかいない。会う約束を取り付けても数日は必要だろう。
 「オジサン! 見て!」
 庭の方から明るい声が差し込んだ。
 魚を獲りにいっていたスザクが水色の大バケツを両手に持っている。地面に置くと、波々に入った水の中でヤマメがすいすいと泳いでいる。
 「たくさん釣れたね」
 「塩焼きにしたら美味しいって」
 「じゃあお昼ごはんにしよう。そういえば、朝は食べたの?」
 「トーストを一枚と、昨日のカレーの残り」
 朝食は摂ったとはいうが、活動後には栄養補給がいる。時刻は十時過ぎ。デザート用に作ってあったプリンを食べさせようと思い、スザクを連れて台所へ向かった。

 「この部屋、寒い」
 五分丈のシャツの裾から細くて白い腕がぶるっと震えた。
 「ごめん。空調切ろうか」
 ダミアンがソファから立ち上がると「いや」と黒髪の少年ルルーシュは止めた。そして、持ってきていたカーディガンを羽織り、ふたりの間にあるテーブルにあるチェスの盤面をもう一度睨んだ。
 やはりまだ寒いのか、大きな紫水晶の瞳をダミアンに向けて「やっぱり寒い」と素直に言った。
 壁にかかる操作盤の電源をオフにし、空調はやがて稼働停止した。
 「窓を開けるくらいでいいだろう。暑がりなのか?」
 気温計をみれば二十度台前半だ。虫も中に入ってくるかもしれないが、窓を開放し網戸で十分涼をとれる。
 「……ああ」
 鼻声が気になったのか、ルルーシュは怪訝な顔つきでダミアンを見つめた。
 「風邪か? ナナリーのが移ったのか?」
 「大丈夫。少なくとも、ナナリーちゃんのせいではない。去年から引き摺ってて」
 「ビョーインは行ったのか?」
 「ん、ああ。まあ」
 「フツウの人間は、病気になったら医者が来てくれるんじゃなくて、ビョーインに行かなきゃいけないって、あいつが」
 スザクがルルーシュに教えたのだろう。
 もっともスザクとて、病院よりもかかりつけ医が自宅訪問する家庭で育っている。
 戦局はルルーシュが優勢だ。
 「ふむう……」不満げに腕を組んで、目の前の白皙の美少年が唸った。
 「君が勝っているのに、そんな顔をされると困るよ」
 「子供だからって、手加減してるんじゃないのか」
 「してないよ」
 「嘘だ」
 その言葉に、どきりと心臓が跳ねた。
 「素人にしては、ヘンな戦術を使うし」
 「戦術。難しい言葉をよく知ってるね」
 ルルーシュは当たり前のことだろう≠ニ片眉を上げ、フンと鼻を鳴らした。少年のプライドを刺激したのだろうか。「子供扱いしてる」と彼は言い切った。
 濃い紫の瞳。噂にきく本物の、その色をはじめて見た時の衝撃。そのあと、十五番染色体の話を彼にしたことを思い出した。
 ――彼?
 彼は、目の前の少年ほどの色をしていなかった。
 ――いつ?
 ほんの退屈しのぎ。十五番、十一番、十六番の染色体の話をしたあと、髪の色にも触れ、X染色体の話もした。
 彼は『今から、私のX染色体の元の人に会う気持ちは?』と尋ねた。
 ――あれは……。
 ――『もし、そのX≠フご自慢の金色が引き継がれなかったら、がっかりするでしょうね!』
 その言葉は『わたし』のものだ。
 母親である女性から貰うX染色体と、未知と不明を表す数学的な代入文字であるXをかけて、『わたし』の自虐に彼は肩を震わせて笑ったのだった。
 不意に喚起される一瞬の幻覚。
 「オジサン。僕達に隠し事してないか?」
 少年の声に現実へと引き戻される。
 「どうしたんだい。突然」
 ルルーシュは駒を掌に収めて、神妙な顔つきで探りかけた。
 「……昨日の晩、勝手にどこかに出掛けて、明け方に帰ってきたのを、ナナリーが聞いてるんだ」
 知られていたようだ。
 昨晩から未明にかけて、ダミアンは車を拝借し、長野にある貸別荘で子供たちの亡命の準備を進めていた。
 北陸地方から近畿地方、中国地方へと沿って脱出する経路を確保するための最初の拠点だ。
 ダミアンはルルーシュにいつ打ち明けるか、タイミングを測りかねていた。海上輸送後の皇子と皇女の引受人にはマーク・ボイエガを指定するとして、目隠ししたまま十日以上連れ回す事は実質的に不可能である。
 この亡命作戦を成功させるには、少なくともルルーシュの同意と協力が必要であった。
 しかし――。
 「そのうち話せるようになる。今は、まだ」呻くように告げた。



 a.t.b.二〇一〇 10th August
 日本・長野 山中


 丑三つ時。
 真夏には怪談がつきものだ。おどろおどろしい身の毛のよだつ話を聞いて、寒さを作り上げて暑さを和らげる。
 柳の下の美人な幽霊が立ち尽くす話、不自然な時間帯に道端で佇んでいる女。――まさに、真夜中の山道はそういった話には都合がいい。長野へ向かう勾配の強い森の中。時折、腐敗した生物から生じる黄リンが、空気中で酸化する現象か、ニホンジカの光る双眸が火の玉と思しきものにみえることがある。
 大昔の人々はそうした、根拠のあることを知りようがなく、不可思議なものとして取り扱ってきた。
 大抵のことは見間違いか、誤解である。
 だが、ダミアンはその道の途中で、人影をはっきりとみた。
 「え?」
 少し通り過ぎて車を停めるか迷い、帰り道にもいれば声をかけることに決めた。この車に人を乗せて別荘まで連れて行くと足がつくからだ。
 そして帰り道に、その人影はやはり道の脇を伝うように歩いていた。
 運転をするために薬を抜いているせいで、少し気分が悪かった。それが苦痛による幻覚ではないか、と冷静な頭脳が指摘したが、その人影は年若い娘であり真夜中に何をしているのだと尋ねる必要があるだろう。
 ブレーキをぎっと踏んだ。
 枢木家の所有する車の中でも、かなり年季の入った電気自動車である。
 車の窓を開けて、ダミアンはその――緑髪の美しい少女に声をかけた。
 「すみません。……別荘の方に戻られる予定ですか? それとも、この先のコテージに? 数十キロ先ですけど」
 少女は長い髪を揺らし、綺麗なアンバーの瞳をダミアンに向けた。その色が、とてつもなく懐かしく思えた。
 彼女はじっとダミアンを見据え、無言を貫いた。
 このときダミアンは人間ではないものに声をかけてしまったのではないか、と思い至った。
 しかし、怪談に登場するような女霊の陰気臭さを少女からは何も匂わず、神秘的で物静かな品の良さそうな見かけをしている。怪談ではなく幻想譚といったほうがよく、それゆえか相手に恐怖心を抱かなかった。
 「よければ、目的地までお送りしましょうか? こんな真夜中ですし、夜行性の動物が徘徊している」
 「……おまえ」
 「え? ああ、はい」
 英語だ。
 透明感のある柔らかな声に鋭さが残る、見かけよりも大人びている感触を得た。
 「ひどいにおいがする」
 「ひどい、におい?」
 ダミアンは虚を突かれ、腕や脇を鼻を近づけて、すんとにおった。
 酒も煙草も飲まないのに臭うという。汗のにおいのことだろうか。
 自分自身の体臭というものは気づきにくいと理解しているが、相当ひどいのか。それとも遠回しにお断りという意味だろうか。
 「これは……すみません。ご不快な思いをさせてしまって」
 少女が窓の上に乗せたダミアンの片腕に、ほっそりした白魚の指が触れた瞬間。なにかがみえた。
 地上から潜っていく、岩の中。
 洞窟。さらに奥。地下。深い道。冷たい風の吹く、吸い込まれるように進んでいく先に、巨大な石扉が立ちはだかる。
 小さき手が彷徨っている。そしてなにかに引き寄せられるか、引き摺り込まれるように体が勝手に吸い込まれていく。
 『わたし』は叫んでいた。
 光から闇のあと、ふたたび光が瞼の裏にちらついた。
 「え……?」
 目を覚まし、顔をあげると、あの少女はいなくなっていた。
 車を出て、周囲を見渡してみるも、どこにもその影はない。
 車内のデジタル表記の時計を確認すれば、二時間半ほど意識を失っていたようだ。バッテリーの残量が尽きかけている。予備のものと交換しなければ。
 ハシブトガラスの「アー」という鳴き声が、山林に響き渡る。東の空の光が、山中にも届きはじめていた。



 a.t.b.二〇一〇 10th August
 日本・河口湖


 別荘の邸宅の離れは、神社の境内にある土蔵よりもずっと快適だった。
 湿気のある熱が捌け、涼風が湖を越えて吹き渡り、朝晩はカーディガンを羽織らないと鼻水が出るほどだ。なによりも、土蔵のように小さく縮こまっていなければいけないわけではない。
 日本にきて待遇の酷さに嫌な思いをすることも多々あったが、河口湖擁する五大湖周辺での十日間は幸せの絶頂期であったのかもしれない。
 クリスタルの置き時計がキャビネットの上で秒針を刻んでいる。時刻は十時過ぎである。ナナリーは朝食を摂ったあと眠ってしまった。その日は午後から釣りの約束をしていた。
 「ルルーシュ!」
 スザクが広い庭先から土足厳禁であるにもかかわらず、ズカズカとリビングルームに上がってきた。
 呼吸は乱れ、滝に打たれたような汗をかいている。
 「やあ。スザク。……ひどい汗だ。なにか飲むかい?」
 ルルーシュは冷蔵庫に入っている富士山の天然水のペットボトルを思い出して、立ち上がった。
 スザクが掠れた声で怒鳴り、爪が食い込むほどの強い力でルルーシュの細い方を掴んだ。
 「そんな呑気なこと、してる場合じゃない!」
 「な、おい、痛っ、急に掴むなって! ナナリーが……!」
 隣室ではナナリーが眠っている。盲目になってから、彼女はいつの間にか眠っていることが増えた。彼がルルーシュをどこかへ連れ立つならナナリーに一言いってからでなければ。強い不安から夜泣きすることもある妹だ。ルルーシュの焦りとは裏腹にスザクの掌は熱く汗ばみ、その握力は強く、抵抗しようもなくルルーシュは離れから外の世界へと引っ張り出されていった。

 唐突だった。
 いつだって運命を変えることは無防備なとき、用意なくやってくる。
 その日はなにかいつもと違う音が風に混ざっていると、ルルーシュはスザクの後ろを追いかけながら思っていた。
 空に重い音が這っている。飛行機が頭上を飛んでいる時に耳にする音。それが一機ではないだろうということ。
 ――そんな、ばかな。
 嫌な予感がした。白いシャツの背中はスザクを笑っていられないほど、湿り気を帯びて皮膚に貼り付いている。
 邸宅から蛇行する道を駆け下り、コテージの合間を、蝉時雨の雑木林の間を潜り、用水路、畦道――住宅地を走り抜け、向日葵の植わった眼の前に小高い崖が現れた。
 普段から屋外で遊び慣れたスザクは、崖上を易々と登り切るが、ルルーシュの弱々しい脚力では高みを踏み越えるには今ひとつである。スザクは友人を引き上げるために手を差し伸べ、ルルーシュも友人の手を握った。
 向日葵畑を登りきった時、世界から音が消えたような錯覚に陥った。
 ルルーシュは直面した現実に際して、次第に、己の呼吸音も忘れていった。
 ブリタニア軍の大型輸送機の大群が、国際的に重要な鉱床を秘める不死の山。爽快な水色と白峰――富士山を越えて、すぐそこへ迫ってきていた。


 
 a.t.b.二〇一〇 17th August
 日本・河口湖
 

 テレビ画面は公共放送を除いて二社のみが報道を続けていた。
 八月十日の午後。臨時放送で第二次太平洋戦争が開戦を報じてまもなく、同時多方から一気にブリタニア軍による同時攻撃が行われた。特に、サクラダイトの主要採掘場である富士山は二十四時間以内に制圧された。
 戦局的には既に、大敗を喫している状況である。
 厚いカーテンで窓を閉め切ったリビングで、ダミアンはテレビの電源を落とした。熱海方面から警報が時折鳴り響いては、戦場の音が風に乗って流れ込んでくる。
 「――ああ……」
 なんでもなく息を漏らし、ソファに腰掛ける。
 首相の妹、マフユが市街地で軍事作戦が行われている状況を電話で教えてくれた。神社には避難場所として安全に機能していたが、熱海に帰って来るのは危険だと判断し、備蓄も十分ある別邸で一週間ほど過ごすことになった。
 しんと静まり返る邸の中、スリッパの底が床を叩く音が近づいた。
 「オジサン……」
 スザクだ。思い詰めた顔で、じっと何かを堪えるように拳を握っている。
 ダミアンは「今日はもう眠りなさい」と私室へ帰そうとした。
 「目と鼻の先に……あいつらが、ブリタニアがいるんだろ」
 反ブリタニア感情を煽るために、日本国内では枢木政権中は敵性勢力としてプロパガンダが広く発信されていた。スザクは彼の父親がその情報操作を牽引していたことを知らないが、いざ戦争が始まり、日々ニュースで知る情況から憎悪を抱くことがあってもおかしくはない。
 俯くスザクの後ろ、リビングの出入り口にルルーシュの姿が現れて、ダミアンは呼びかけた。
 「ナナリーちゃんは」
 「ナナリーは、眠ったよ。……でも、すぐに魘されて起きる」
 環境の変化が心身にあらわれているようだ。不安。混乱。恐怖。パニック――無理もない。
 ニュースは各地のことを確かに教えてくれるが、山を下りた市街地の詳細状況は戒厳令と箝口令が敷かれている今、推測ばかりだ。十日のラジオでは、開戦の号令が鳴り響き、日本はブリタニアの宣戦布告を受け入れた。そこから先は情報は報道管制もあり、チグハグになっていった。
 その日の夕刻になり、枢木首相は官邸記者会見で徹底抗戦を唱え、国防大臣経由で応戦を命じ、各軍事施設をはじめ基地が作戦に移りだしたが、その頃には駿河湾から侵入したブリタニア軍が富士山に手をつけていた。
 それには同日夜、ダミアンが山手から海側を望見し、駿河湾にブリタニア帝国軍籍の軍艦の影があったのを確認している。
 太平洋側を囲むブリタニア海軍は、エリア一〇を経由して一気に攻め込んできたものだろう。制圧に大きく貢献したのは最新兵器=\―人型自在戦闘装甲騎・ナイトメアフレームである。このKMFが地上戦で大きな戦果をあげた。
 静寂に包まれるリビングに、電話のベルが鳴り響いた。
 すぐさま電話に出た。
 「はい。ダミアンです。……枢木首相が……? はい……」
 相手はマフユだった。彼女は、枢木首相が明日本邸に戻ることを教えてくれた。
 スザクは父の名が出てぱっと顔をダミアンに向けた。
 「父さんが、なんて?」
 「明日、本邸に一旦帰宅されるそうだよ」
 「父さんに会える?」
 「うん。会える」
 マフユとの電話を切り、ダミアンは壁にかかった車のキーを手に入れた。
 「……僕は備蓄品をかき集めて、車に積んでくる。神社には避難している人も多いだろうから」
 「僕も手伝う」
 ルルーシュが、リビングから出ようとするダミアンを追いかけた。
 「ありがたいけど……夜も遅い。君はナナリーちゃんの側にいなさい。スザクくんも」
 ふたりの少年に就寝を言いつけてダミアンは別邸から屋外の駐車スペースへと向かった。
 まだ水や電気が寸断される事態には陥っていなかったが、それもいつまで保つか不安がつき纏う。
 車の予備バッテリーをトランクに入れ、運転席に乗り込んだところで、ガラス越しにくぐもった少年の声が聞こえた。
 「オジサン」
 「……ルルーシュくん」
 ルルーシュは運転席側の窓ガラスに顔を近づけた。ダミアンはガラスの仕切りを下げた。
 「どこに行くんだ。まさか、僕達を置いていくんじゃないだろうな」
 「違うよ。……備蓄を取りに行くんだ」
 「どこに」
 「……この山の奥」
 辺りは真っ暗だ。うっすらと縁取る稜線を残して、空洞のような黒い塊の山をルルーシュは睨んだ。
 「……最近ずっとこそこそしていたのは?」
 「オジサンの秘密基地に、……もしもの事があったらと運んでいたんだ」
 「もしも? じゃあ、オジサンはこうなることを知ってたのか。なんで教えてくれなかった?」
 するすると状況を理解し、頭脳明晰な少年は痛いところを狙い撃ちしてくる。遠慮のない物言いに苦笑を溢れる。ダミアンはキーを抜いて、車を降りることにした。
 「タイミングだよ。……それに何度か、首相にも直訴した。受け入れられなかったけど」
 「僕達には何も言わなかった」
 「タイミングだよ。いつ攻めてくるのか、戦略も、規模もわからなかった。僕は……日本軍の人間でも、ブリタニアの人間でもない」
 不服そうにルルーシュは眉間に皺を寄せた。
 「僕が出来ることは、君たちふたりを……ふたりの亡命を手伝うことだけだ」
 「亡命……?」
 彼は呟き、それからダミアンの行動がそれによるものだと繋がったのか「僕達のために?」と訊き返した。
 「信じてくれるといいけど」
 「あいつは。……スザクは一緒に行けないのか?」
 人質として引き渡された先で出来た、年齢の近い子供。彼らはもはやそれだけの関係性ではない。親しさを覚え、肉親よりも感情を共有することだってあるだろう。
 「スザクくんは……、わからない。彼は……首相の息子だ。勝手に亡命させるのにも理由が必要になる。彼を亡命させるに、必要な理由と手順がある」
 「僕達は……」
 「君たちには、お兄さんがいる」
 ダミアンの言葉に、ルルーシュの表情がむっと曇った。
 「……シュナイゼル」
 母親違いの兄の名を口にしたルルーシュは、苦々しい顔つきになった。
 シュナイゼルは亡命を承諾するだろう。今、ふたりの兄妹が頼れるのは彼しかいない。
 「お兄さんのことは、嫌い?」
 一年前。ルルーシュは、彼のことを嘘つきだ≠ニ言っていた。仲はよくないみたいだが、私情を挟む余地は命を前にして皆無だ。
 「好きだった」ルルーシュは喉の奥で絞り出した。
 「……そう」
 ダミアンは土の上に膝をつき、ルルーシュに目線を合わせた。
 「ルルーシュ殿下。亡命なさるかどうか、進退をご決断ください」
 薄暗い中、少年の神秘の紫が揺れた。
  



59
午前四時の異邦人
top