虚数の中U







 ――極秘 取扱厳重注意――

 配布先:戦略分析室・特別捜査機関
 閲覧権限者:管理責任者の承認を要する
 患者管理番号:S-2010-001
 氏名:ティラナ・ヴァル・カストリア
 身分:カストラリア王国王女
 作成者:クラウス・フォン・ゼーバッハ
 作成日:a.t.b.2010.09.30.

 主訴:多発外傷、意識混濁、発熱
 所見:
 第7・第8肋骨骨折(左側)
 左肩関節脱臼
 体幹部・四肢に多発性挫傷および裂傷
 左腓腹部貫通銃創
 左前腕部に反復性静脈穿刺痕
 腹腔内臓器損傷(一部破裂)——精査要
 胃潰瘍(慢性化所見あり)

 薬物関連所見:
 血中代謝物検査によりリフレイン使用形跡を確認
 市販鎮痛薬の長期乱用歴あり、薬物乱用性頭痛を示唆
 離脱症状の発現に注意を要する

 備考:
 精神科的評価および記憶統合障害の精査を推奨
 専門医による追加精査を要請済み
 外科的介入の目的および施術者の特定が治療方針の決定に不可欠
 患者本人からの情報収集を試みるも、記憶障害により詳細の確認が困難な状態

 外科的介入の痕跡:
 体幹部および四肢に複数の手術痕を確認
 一部は標準的な外科手技と異なる術式による介入痕
 施術時期および目的不明——意図的な組織改変の可能性を示唆
 神経系への介入痕跡あり(詳細精査要)
 骨格構造の一部に非外傷性の改変所見

 慢性疼痛との関連:
 上記外科的介入との因果関係を精査中
 鎮痛薬長期乱用との相関が高い
 神経学的評価:
 リフレイン反復投与による記憶統合障害
 鎮痛薬依存との複合による神経系への複合的影響
 記憶の時系列認識に障害あり——精神科的介入を要する



 a.t.b.二〇一〇 September
 リダニウム カストラリア王宮 戦略分析室


 電子カルテには以下、長々とガンジス川のごとく所見が続く。
 戦略分析室内の片隅で、シュナイゼルは上がってきた電子カルテに管理責任者として署名し、返信したばかりだった。
 エリア十一となった日本で、カストラリアの医療支援リソースを最大活用し、大手術が行われるとはゆめゆめ思わなかったであろう。
 インカム先でカノンの溜息が憂いを帯びている。彼は、特別機内で搬送中のダミアン――ティラナに付き添いながら特別回線で通話を行っていた。
 ダミアン・モリシャルトの公的記録は、警察病院で終止符を打つことになるだろう。
 「カルテは読んだよ。……空港に到着後、一旦警察病院へ搬送するように。偽装用にカルテをもう一式用意を。その後、回収する。意識は?」
 [……現在意識は不明瞭。疎通は不可能です。……術前になにやらお話しになっている様子ではありましたが、私たちには解さず……たしか、ユニコーンと]
 「ユニコーン?」
 [はい。……殿下?]
 シュナイゼルの口元に笑みが浮かんだ。
 「薬物の影響ではないかな」
 [薬物……リフレインですか]
 「ユニコーンは、私の愛称だよ」
 カノンは意外そうな声をあげた。
 さぞ子供の好むファンシーなキャラクター姿を想像しているに違いないが、可愛いものではない。
 「リフレインの使用は経緯は、収容所かい?」
 [はい。……監督責任者は濁しましたが捜索させたところ、ストックを確認致しました。押収済みです]
 「ブリタニア軍部に注意喚起と警告を伝えたよ。風紀改善されるかどうかは期待できないが」
 重大な国際条約違反行為である。
 通常看過される事ではないが、ダミアンの正体が公的に詳らかに出来る存在でないため、事を大々的にする事もなく内々の処理に留まるだろう。
 ふたたび、デバイスモニターに映るカルテの文字に目を落とし、シュナイゼルは髪を掻きあげて溜息を吐いた。
 ブリタニア・カストラリア間で交わされている、三つの条約に関しても重大な過失と背信行為である。
 「……やれやれ。第三条違反だね。軍籍の確認を怠ったわけではないだろうに。関わった兵士の処遇については、ブリタニア軍規に則って進めるように勧告するよ。……表沙汰にはできないからね」
 [本当に、よろしいのですか]
 「……それでは軽い刑罰だと言いたげだね。カノン」
 彼の言い条はもっともである。
 一国の国家元首が受ける仕打ちではないーーという話ではない。それどころか、占領国に滞在する捕虜の中で条約に守護されるカストラリア人が、みすみすブリタニア人兵士の一存で生命の危機に瀕する事態は、その身分がどうであれ、国際裁判に発展してはブリタニアはカストラリアに確実に敗訴する。深刻な国際法違反であり大スキャンダルである。ブリタニアが国際法遵守から離脱することもあり得るが、カストラリアが声明を発表すればたちどころにブリタニアは孤立無援の窮地に立たされ、現在の占領国が反旗を翻すだろう。
 ブリタニアの国際的な信用失墜。カストラリアの独立の法的根拠となる。
 カノンの非難的態度は至極当然である。
 だが、その正体がトップシークレットである限り、当件は永遠に闇に葬られる。
 「将来を守るには、それ以外の方法はないんだよ。この――悍ましい秘密を我々は隠し通さなければ。命尽き天に召される時まで」
 この立場に生まれついてしまった以上、シュナイゼルの抱える秘密は人よりも多い。特別な立場に優越感を抱く性質でもなく、多くの者が庇護を受けるため、自ら秘密を明け渡してくることが殆どである。
 国家の安寧のためには、王女に関するすべての事柄が虚数の中にある。埋没した、現実にあるのに不可視の領域。
 「恐がらせてしまったかな」
 「……いいえ」
 カノンの声は強張っている。上流階級の洗礼とは、倫理観や道徳だけでは裁けない秘密の共有である。
 やれ皇族だ、王族だ。ロマンチックな話はお伽噺の世界のものだ。半永久的な特権階級の世界を維持するために、周囲の者は命を懸けて秘密を守って死んでいく。これには、シュナイゼルとて宿命は免れない。
 電話口の向こうが一気に慌ただしくなった。
 男の叫び声が音を割る。それが、彼女のものだとすぐにシュナイゼルは理解に至った。
 「容態は」
 [申し訳ございません。殿下。……せん妄状態ではないかと]
 「ユニコーンの、怪物をみたのかもしれないね」
 カノンが反芻したが、ダミアンの咆哮に掻き消えていった。
 
 そこはどこだかわからなかった。
 暗闇なのか、光の中にいるのか。それとも両方の世界のあわいにいるのか。
 天地も世界の輪郭も掴めず、降り頻る強い雨のような嵐の轟音に紛れて、時折人の言葉らしきものを捉えるばかりで。
 白と黒、灰色が混ざる視界。だが、キンと強い耳鳴りが駆け抜けて、そいつの正体ばかりは誤魔化せない。
 たくさんの黒い塊が覗き込んでいる。その中でも、あの男であると本能が訴えかけている。
 ――わたしには、わかる。
 誰に化けようと。誰になりかわろうと。その腐りきった魂までは偽れない。
 ――おまえの、せいだ。
 その男は、愉快げに人の中で『わたし』を眺めている。
 ――おまえ、を、ゆるさない。
 
 「……ろ、して……やる……」
 言葉は掠れ、呼吸に包まれていた。
 ストレッチャーの上で暴れる男を五人がかりで押さえ込むが、一人が尻餅をついた。
 ダミアンの呟きは誰の耳にも届いていない。
 「強めのものを入れましょうか」医師のひとりが捜査の医療責任者であるゼーバッハ医師に伺った。
 「しかし……これ以上血圧を下げるわけには。内臓への負担を考慮するなら、空港到着後が望ましいでしょう。ひとまず、量を増やそう」
 「ベルトを固定して!」
 「王女さま。失礼いたします」
 口々に会話が飛び交う。
 長いフライトに耐えきれるほどの体力は僅かばかり。
 臨時医療センターで、一時心停止の危機に陥るも、蘇生を繰り返す十二時間の大手術を終えての七日目。
 胴と四肢には頑丈なベルトを巻きつけ、見かけはまさに国際指名手配犯の姿である。
 次第に薬が効きはじめて猛然と暴れ狂う騒乱の熱が引き下がり、静まり返る機内。
 酸素マスク越しからする寝息の音に、みな一様にして胸を撫で下ろす。ーー一部始終を見守っていたカノンの耳にシュナイゼルの落ち着いた声が触れる。
 [伝えていた対策はしてあるね?]
 「はい。問題ありませんわ」
 有無を言わさぬ指示。
 シュナイゼルは万が一に備え、ある命令をカノンに与えていた。
 心中、容赦のない男だ。いっそ畏怖の念を抱くほどである。

 

 a.t.b.二〇一〇 October
 カストラリア リダニウム警察病院


 「ダミアン!」
 警察病院の一階受付窓口に、一人の女が駆け込んできた。
 今朝、ルチア・マッケンジーの携帯宛に婚約者の帰国の着信があった。本人ではなく、カストラリア警察からのものだった。ブリタニアによる日本侵攻に巻き込まれていたが、支援に入ったカストラリア軍に保護されたという嬉しい知らせであった。
 カウンターにいる医療事務員がディスプレイ上でリストを確認し「失礼ですが、貴女は」と関係性を尋ねた。
 「ダミアン・モリシャルトの……彼の婚約者です」
 「身分証の提示をお願いします」
 ルチアは黙って、鞄の中から身分証のIDを取り出した。
 「ああ。ありがとう。……たしかに」
 事務員はIDを照合し本人確認を済ませたところに、男性医師が二名通りがかった。
 「ああ、ちょうどよかった。モリシャルトさんのご身内の方がお見えになりました」
 「……どうする?」
 「……ここで喚かれても面倒だ。一旦通せ」
 短いやり取りのあと、医師らは今にも掴みかからんとするほどの威勢のいい女の前に立った。
 「移民局の審査票もいる?!」
 「いえいえ。御本人であることは事務員が確認致しましたので、どうぞこちらへ」
 
 ダミアンの病室は個室で、サイドテーブルには立派な白百合の生花が活けられていた。
 ベッドの上に眠るダミアンは穏やかに眠っている。
 備え付けの椅子に座っていると、ノックのあとに扉が開いた。
 医師か看護師だろうと見上げた先には、薄手の長いコートを羽織る長身のーー眩い金色の髪を持つ青年が佇み、ルチアを見下ろしていた。
 「……あなた……えっ……、どうして……? あのう……ダミアンになにか御用でしょうか」
 一瞬にして困惑が広がる。この国で彼を知らぬ者はいない。
 見紛うはずのない麗しい摂政殿下。そんな尊い身分の人がなぜこの場所にいるのだろうか。ルチアはただただ圧倒され、目を見開いたままであった。
 「お初にお目にかかります。お話をうかがえるかな。ルチア・マッケンジーさん」
 「あ、あの……」
 「そこにいる彼は、偽物だね?」
 ルチアは思わず「はい?」と訊き返した。
 シュナイゼルの背後からスーツ姿の数名の男達が現れ、ダミアンのベッドの周りを囲み何やら計測器を指に挟み込ませた。電子音が鳴り、その中のひとりが「別人です」と重々しく判定結果を口にする。
 「べ、別人……?」
 何が何やら。状況が飲み込めていないルチアは、慌ててダミアンに近寄り、その顔をよく眺めた。
 「本物の彼をどこへやったのかな」
 その質問は完全にルチアへ向けられている。
 「な、なんのことだか……」
 「セキュリティルームは押さえた。監視カメラの捏造は不可能だ、ルチア・マッケンジー。……ダミアン・モリシャルトの婚約者。年齢は三〇。交際期間は三年。……君の本当の正体。……中身は、ウィラード・フライシュマンだね?」
 ルチアは俯き、赤い口元がにやりと綺麗に歪んだ。
 「あーあ。……バレちゃったか」
 ルチアは力を抜きながら呟いた。
 ふつふつと笑いが込み上げてくる。もう少しばかり健気な婚約者の芝居を打つのも面白いだろうが、廊下の外の気配が増えそれどころではないようだ。
 「はじめてよ。人に見破られたのは」
 長い金髪を揺らしシュナイゼルを振り返る。
 「でも、ざーんねん」
 瞬間、轟音と共に爆風が窓を叩きつけた。強くしなり、バリバリと二枚割れ、硝子が病室内に飛散した。
 「殿下!」スーツの男達が勢いよくシュナイゼルを廊下側へ追いやる。
 「殿下。……エンメリック製薬会社で爆発があったとのことです。ネルマルク通りにて、追跡中の別班が爆破に巻き込まれたと思われます」
 ルチア・マッケンジーことフライシュマンは、かすり傷ひとつなく挑発的な笑顔を浮かべてそこにいる。
 「……彼女を尋問室へ」
 乾いた声だった。
 窓の外は黒煙が風に押し流され、豊かに吹き溢れている。
 捜査官が続々と病室に飛び込み、ルチアを拘束した。



 a.t.b.二〇一〇 September
 カストラリア リダニウム 取調室


 密室とは抜け穴を作らないことをいう。その条件を構造から地下になるが、それがどれほどの深い場所にあるか。このヒマラヤの地においては計り知れない。
 かつては海を挟み大陸を隔てていた地形が、衝突し隆起したものがヒマラヤの山脈を形成している。つまり古の時代そこは深い海。
 地下とは深海のさらに下。ディープシー、あるいはアビス。隠語としてそのアビス≠ヘ無限を思わせる深淵の暗闇の中ひっそりと存在しーートップシークレットの特務機関が管理する尋問・収容施設であった。
 夏の終わりにしては鳥肌が立つほどの冷気が足元から忍び寄る冷暗所の一室に、木製の椅子に座る目隠しされた女がいた。
 女の手首手足には脱走防止に拘束具が取り付けられ、室内の至る所には別室からモニタリングするカメラがそこかしこに設置され、まさに蟻の入る隙もない。
 「遅くなって悪かったね。さて、始めようか」
 物音をたてず静かに入室した男の気配に、ルチア・マッケンジーはマスク越しにその方を見た。その場の尋問官となったシュナイゼル・エル・ブリタニアは静かに真正面の椅子に腰掛けた。
 シュナイゼルは非常に落ち着いていた。アルディックことサロニア公爵が何らかの手段を用いてダミアンーーティラナ王女の身を狙うことを承知で、彼は計画を練っていた。全ては予定調和である。つまり、作戦は上手く行っていた。ダミアンの体には万が一のことを想定し、追跡を可能にするマイクロチップを注射してある。その瞬間も現在地を把握し、アルディックのねぐらを暴く餌となっている。
 カノンはその作戦を耳に入れた時、わかりやすく顔を引き攣らせていたが。
 並行して、捜査官チームの別班にダミアンの移送先を追わせながら他の情報を引き出すことが狙いである。
 「目隠しは外してくれない。……せっかくお会いできたのだから、皇子様の綺麗な……ご尊顔を拝みたいわ。……そういうプレイがお好きなら結構なことだけど」
 シュナイゼルはくすりと笑うと、尋問室の隅に立つ捜査官に目線を寄越した。
 「外して差し上げなさい」
 捜査官は黙礼すると、女の方に寄り目隠しを解いた。
 銀嶺を輝かせる早朝の光を思わせるアイスブルーが、特別な淡い紫と相対する。
 「ウィラード・フライシュマンというのは、君の本名かい」
 「さぁて。どうかしら。その優秀な頭でお考えになって頂戴。……逆に、どうして私がそうだと思ったのか教えていただける?」
 「簡単な捜査だ。ただ貴方を追っていれば、たどり着いた」
 ルチアはフッと片方の口角だけを持ち上げた。
 捜査官達の協力をもとに、ルチア・マッケンジーの監視は数カ月前から始めていた。彼女の行動に問題点はなかったが唯一不審なところがあったとすれば、何度も王室記念リダニウム大図書館に通っていたことだ。借りた書籍はなく、数日に一度広大な図書館内のあちこちを探る様子から何かを探している≠ニ読んだシュナイゼルはカノンが押収した、スキャンダルデータの宝庫である小型デバイスの持ち主ではないかと見当をつけたのである。
 「あぁ……そう。そういうこと。……あのデータを手に入れたんだ」
 「あれは、君のものかい」
 「知ってるくせに。……アレを見たあとの……ショックを受けて可哀想な顔を貴方にも見せてあげたいくらい」
 わざとらしく歓心を買うように、くすんと泣き真似をした。
 「しょんぼりした彼を慰めてあげたわ」
 挑発に乗らないシュナイゼルに、ルチアは盛大な溜息を吐き方を竦めた。
 「はあ〜……つまんない男。正常位しか知らないマンネリ野郎だ。肩が凝ってきた。……もういいや。……それで、何が知りたいんだ? 皇子サマ」
 女の艶笑が、男の嗤笑に。声色が変わった。
 「サロニア公爵の所在について、知っていることは?」
 「さあね。あの人は神出鬼没だ。どんな奴だってわかりようがない。……ダミアンはあの人を捜して極東に行ったが見つけられなかった」
 シュナイゼルは組んだ脚の上で、両手を握った。
 「王女と入れ替わる前からあったダミアンの犯罪行為は、君のものかな」
 「どう思う? ……推理をお聞かせ願おう」
 フライシュマンは試すように言った。
 「平凡な兵士ダミアンと君が先に入れ替わっていたが、王女に器を譲り、君はダミアンの婚約者に成り代わっていた……そう考えているよ」
 「あっぱれだ。大正解」
 フライシュマンは人差し指をシュナイゼルに向けた。
 「見返りはサロニア公からの援助?」
 「それもある。……だが、彼の計画はもっと壮大で夢がある」
 「夢?」
 「この世界の果てだよ」
 抽象的な含みのある物言い。シュナイゼルは瞬きをひとつ、続きを促す。
 「人類は長らく進化していない。……ああ、いや……お宅の国の価値観の話じゃない。もっと生物学的な、進化の話だ。どれだけ戦争を繰り出し、階級闘争をヤろうが……あれは進化というものではない。むしろ現状維持であり、退化だ。所詮既存社会の猿山のボスを決めるだけの世界だ。戦争をするなら大型のロボットはいらない。敵の大将の首を取るのに大袈裟な戦いはナンセンスだ」
 「否定はしないよ」
 「彼の作る社会は、人間の肉体を自由に換えられる社会だ。毎日着替える服のように。すると……枠組みなど無価値になる。好きなように他人になり、貴族が平民に、平民が貴族になることもできる。あるいは……何年も生き続けられるようになる」
 たしかに壮大な計画であるが、まるで荒唐無稽なSF小説の筋書きだ。
 仮にそれが事実だとするならば、すでに問題は起き始めている。
 シュナイゼルは「その計画に、王女の研究を利用している」と相槌を打った。
 「ああ。能力主義には限界が来る。平均回帰は必ず起こる。どんな人間にも、社会にも。文明にも。今が最高潮だ。王女のような天才は二度と人類史には現れない」
 夢物語の理屈にティラナを利用する。それは理解できるが、あの肉体の消耗具合を知るいま、詭弁にしか聞こえなかった。
 「矛盾しているとは考えないかい。その天才を、疲弊させている」
 「お互い様だろ?」フライシュマンが鼻で笑った。
 「俺達にしてみれば、王女の肩書きこそが猿轡だ。見栄と規律の縛りばかりで、退屈な人生のまま消耗し、退屈な人間のために時間を浪費させられる。劣ったその他大勢のためにーー限界値を狭めている。だからお気に入りの肉体を、選ばせてやっているんだよ」
 シュナイゼルはすっと瞳を眇めた。
 「王女に人生のサンプルを与えている?」
 「そうだ。理解が早くて助かる。……いや、優秀だとは聞いていたがこれほどとは」
 心底嬉しそうにフライシュマンは笑みを深めたが、対してシュナイゼルは呆れ果てた。
 「……彼女が研究を続けるには国家が必要だ。人間も。資源も。個人的な情熱も。それを……サロニア公に用意ができるとは考えられないが。君の理想論で語っているのでは? 王女の意思を損ねている」
 指摘にフライシュマンの眉が、ピクリと跳ね、喉奥で「……たかが一年未満の関係性の分際で」と呟くも、その聞き取れないほどの小声をシュナイゼルの耳は確かに拾い上げていた。
 「知っているよ。貴方よりは」
 「だが、インポだってことは知らない」
 フライシュマンには、落ち着きを払う美貌の青年が、意表を突かれ言葉を失っているように見えた。
 「くくく……、知るわけねぇよなぁ。……あの人は、俺を……せっかく似せて作ってくれたのに。それときたら。……お姫さまは、愛しの皇子様の顔も思い出せなかったよ。……お誂え向きの、この金色の素晴らしい髪も、瞳も」
 これ見よがしに自身の金髪をさらりと振り、フライシュマンは「勃つんならもう少し面白い実験をしてやろうと考えていたが、ありゃ駄目だ」とせせら笑った。
 「次の手はある。もうわかるよな。別に皇子様が相手じゃなくたっていい。そんな正当性の話じゃない。綺麗なものじゃあ……」
 椅子を引き立ち上がたシュナイゼルは、大きな掌をフライシュマンの頬に添えた。
 「君を見て、思い出さなかった?」
 抑揚のない声が正面に迫る。長い睫毛の陰の中に浮かぶ神秘的な色が、フライシュマンを射抜く。
 「私の瞳をよく見るといい。……どうかな。本物の色は。君の皮となった遺伝子のスイッチには、この色を発現するものが含まれていない」
 十五番、十一番、十六番ーー。
 シュナイゼルの優れた容姿を褒める時、彼女は遺伝子の話をするのがお決まりだった。特別な色の発現には遺伝子のスイッチが鍵となる。
 OCA2遺伝子の作用がメラニンの産出量を制御。基調となる青をつくり九番染色体が赤みを調整する。五番染色体がメラニン合成の微細調整と、虹彩の透明度や深みに影響を与える。複合的なスイッチの偶然の影響で生まれる色彩。単一遺伝子では説明できず、再現性が極めて低い潜性形質である。
 ーー『九番と五番、十五番が、偶然そう決めた色』
 彼女ならば、そのゲノム領域の話を必ず用いて、その色の素晴らしさを説くだろう。そして自虐をも口にする。
 「その話のあと、へりくだってティラナはこう言うよ。あなたの色は潜性遺伝子の奇跡だから、次の世代には引き継がれないでしょうね=[ー彼女は君の瞳を褒めたかい?」
 「褒めたさ! 心酔していた! 思い出さなかっただけだ!」
 フライシュマンは噛みつくように怒鳴った。
 「詭弁だよ。君を褒めた彼女は、ティラナではないのだから」
 身を強張らせた男を羞恥と敗北感が憤怒を駆り立てた。そして狂気的な暴力性が牙を剥かんとした、その瞬間。
 「殿下」
 動きを見切った捜査官が、フライシュマンを背中から床に組み敷いた。
 「俺を殺してみろ! あのクソアマが犯されるのが見られるぞ! 用済みになったら、脳みそをプレゼントしてやるよ。……っくくくく……! あっはっはははは……!!」
 じたばたと押さえつけられる下で藻掻き、取調室に下卑た哄笑が迸る。
 シュナイゼルは男を見下ろし、崩さずにいる微笑みの温度は下がっていく。
 「カノン」シュナイゼルの呼名に、取調室の外にいたカノンが扉を開けた。
 「捜査のご協力に感謝するよ。ルチア・マッケンジーさん」
 踵を返すシュナイゼルに、フライシュマンは叫んだ。
 「逃げる気かァ!? 悔しいんだろ!! なんとか言ったらどうだ……!!」
 扉は無慈悲にも閉め切られ、負け犬の遠吠えはぶった斬られる。それ以上の尋問は時間の無駄であった。
 「捜査官にはリストを消化するようにと」
 「はい」
 短く返答し、カノンは服装を正す主人に目を遣る。やれやれと、面皮を剥いだばかりのシュナイゼルは笑った。
 「拍子抜けだね。本物のフライシュマンは低劣俗悪そのものとは。実際あの釣り餌となったデータはフライシュマンではなく、アルディックが用意したものだったのかもしれないな」
 「サロニア公の立てた役者ということですか?」
 「そんなものかな。……まあいい。偽物のダミアンと引き換えに、本物のダミアンを手に入れた。今後の良い材料になるだろう」
 「……ええ。ですが、ご体調面に懸念が」
 術後の安静期間。気掛かりだと率直な指摘に頷くも異を唱える。
 「サロニア公にとって、王女の死は例外だよ。もし死を望むのなら、とっくの昔に迎えている」
 フライシュマンの見識や分析が、その妄想に拠るものでなく真に穿っていれば、サロニア公に王女を殺める道筋はない。
 「さて、追跡の方は?」
 「滞りなく進んでいます。ですが、爆破の影響もありやや出遅れた形です。……撹乱のつもりなのでしょうか」
 「それもあるだろう。一番は、証拠隠滅も図ったのではないかな」
 「証拠隠滅……まさか、エンメリック製薬会社の?」
 シュナイゼルの笑みは平時と変わらないがすぐに押さえさせなさい≠ニ命じている。言わず語らずのうちに、カノンはその心を読み取った。



 a.t.b.二〇一〇 Sep?te?ber
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 「やあ。お姫さま。ご気分はいかがかな」
 深い闇が明けた先には、あの男がいた。
 薬の効能は意識を揺籃のなかへ留まらせて、舌へ与える力さえも奪い去っている。
 「……ぁ、ぅ、ぐ……ぁ……」
 その拙い、歯擦音にも満たぬ赤子の呻きが男を悦ばせるばかりで、ひどい恥辱を味わった。
 男はビリリと、面となっていた皮を剥がした。
 醜悪なマスクだ。自分は肉体を換えることはしないらしい。
 「いつ回収しようか迷ったけど、こっちで大手術する手間が省けた。君の愛しの婚約者には感謝しないと」
 涙が溢れたのに気づいたのは、男が指で拭ったからだ。
 「かわいそうなお姫さま。俺を追わせるために、餌にされて。放り出された。がっかりしたよな? 曲りなりにも女を囮に使うとは。とんだ冷血漢野郎だが……この一族にはピッタリお似合いかもな」
 「……ーーぃぅ……あ、う……」
 「陰湿な一族。どこまでも醜悪で、忌々しい血。俺にも君にも流れる古臭いものだ。……ブリタニアも大して変わらないらしい」
 闇の中で男の双眸が光る。何度も恐れた執着の眼差し。
 「こんな腐ったものは、世のため人のため、消え去るべきだ。そうは思わないかい」
 よく回らない頭が、男の言葉を理解しようと足掻いている。
 「……大昔に消え去っていれば、姉さんは……しがらみに囚われることも、おまえを産むこともなかった」
 ーーこんな男のために。殺されたというのか。
 包帯の下でキシキシと歯噛みする。頭上にある機器が、急激な心拍数と血圧上昇にアラーム音を発した。
 「俺はね。もっとも憎い男と、もっとも愛おしい女に似たおまえが、おまえ自身の手で国を滅ぼすのを見届けたい」
 ーー殺してやる!!!
 渾身の力を振り絞って寝台の上で暴れてやると、男は期待通りと言わんばかりに、にやりと厭らしく嘲笑った。
 「そうこなくっちゃ。それで、リフレインで何か思い出せたか? お姫さま」
 「……ひ……」
 その名に、体は拒絶反応を示した。過剰な震えがガタガタとどこからかやってくる。世界が溶解し、ぐるぐると撹拌し続ける終わりのない悪夢をーー心地良いと感じる者がいるとは到底信じ難い話である。
 男の手には、混乱と絶望の効能を持つ注射器が握られている。
 「面白いものだと思って、拝借してきたんだ。始末したついでに。……今度は良い夢をみられるぞ」
 声にならぬ悲鳴をあげる。
 男が容赦したことなど一度もないように、抵抗虚しくそれが再び侵入し、体中を破壊する。
 「おやすみ」
 夢などない。
 夢などは、みない。
 幸せな夢など、どこにも存在しないのだから。
 永遠に、子供の頃の時間のまま、止まってしまっているのだから。



62
午前四時の異邦人
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