Mary On A Cross







 a.t.b.二〇一一 March
 ブリタニア ニューブリタニア・ノーフォーク


 緑豊かな公園には、昼休みのランチをとるオフィスワーカーの姿、カップル、子供を遊ばせるファミリーで賑わっている。
 ニューブリタニア南東部の都市、ノーフォーク。天然の良港に恵まれた都市には数百万人が住み、近世英国の入植以来から帝国となった今までこの国を支える重要都市のひとつである。白く大きな花をつけるサザン・マグノリアの厚みのある葉が風に揺れる。
 舗装された平べったい道の上。親の呼びかけに気を取られた子供が、ふわりと舞い上がる風船の紐を掴もうとした。女のしなやかな指がそれを器用に掴まえた。
 「はい」
 「ありがと!」
 子供の小さな楓に紐を巻きつけてやる。その日は豊かな風が吹いた。ブラブラと赤い風船は独特な音をたてて揺れ、女の長い金色の髪もけぶるように舞った。
 「ジョージ!」と遠くから再び母親が呼びかけ、誘拐を警戒して女のもとに出ていこうとした。少年は小さな足で駆け出し、白みのグレーカラーのブレザーを引っ掛ける女から離れた。
 昼のかきいれ時であるフードトラックからは、美味しそうなホットドッグ、フィッシュ・アンド・チップス、フライドチキン、サンドイッチ、流行中のトッピングソースのチリソースのスパイシーなにおいが漂う。
 履き慣れないパンプスでかかとを擦りむいた痛みが、女の顔を曇らせる。
 小鳥の囀る公園内の最奥にある公衆トイレは、よく晴れた昼間であるというのに、人を寄せ付けぬ陰鬱な気配がした。壁には同じ公園内とは思えないほどのスプレーの落書きと、一部破損し、剥がれ落ちた破片が地面にそのまま残されている。
 黒黴が四隅に滲む、曇った鏡しかない洗面所の前で、でかかとに絆創膏を貼り付ける。
 ふと、その特徴的なにおいを敏感に嗅ぎ取り、誘惑を我慢できずに足が勝手に動き出す。個室の一番奥。ピッチリと閉ざされた扉の向こうに人の気配がある。一歩後退り、女は体をバネのように跳躍させ、木から木へと飛び移るモモンガのように軽やかに、扉上部にのし上がった。
 「ぎゃああああ!!」
 中に入っていた女は、季節外れの防寒着に包まれている。血走った真っ赤な両目を見開いては、覗き込む女に驚愕のあまり、色気も品性もない叫び声をあげた。
 ニットにマウンテンパーカー、さらにその上に厚手のコート。首巻き、緩いムートンブーツ。寒さ対策≠ヘ万全だ。おかげで顔は尻を炙られている囚人のように赤い。徹底した防寒対策はたとえ、クスリに夢中で路上で眠りこけても凍死することはない。問題は脱水症状だろうが、そこまでの頭は回っていないらしい。何日にもシャワーを浴びていないのか、黒髪は海藻のようにくたり、脂汗で濡れて艶々としている。ヤク中女からはクスリとその体臭の酷い臭いが混ざっている。強姦目当てで入ってくる男をも撃退する激臭である。
 ヤク中女は目を吊り上げ、突如として現れた侵入者を追い払おうと叫んだ。
 「んだよテメエ! 出てけえ!! このッ……!」
 「一箱、頂戴。それ、あげるから」
 金髪の女は、上着の内ポケットに入れていた紙幣を放った。
 ブリタニア・ポンド紙幣が一束。混乱する女の頭に、バサリと叩くように落ちる。調べ物の最中、拾得した現金はあと三束ほど所持していた。
 「ああああ……!?」
 急に頭に異物がぶつかったショックで、なにがなんだかわからないようだ。
 女は身をさらに個室の中に入れ込み、腕を伸ばして内鍵を外した。そうして、飛び退き、キイと音をたてて開かれた扉にヤク中女はパニックでぎゃいぎゃいと騒いだ。女は慣れ親しんだ所作のように足元にある箱を吟味し、まだ新しそうなものを一つ手に入れた。
 「これ、貰ってくね」
 「とっとと出てけええ!!」
 金払いのいい客の背を突き飛ばし、ヤク中女は簡素な建付けの扉をバタンと音を立てて勢いにまかせて閉じた。
 暫くすると、また、あの独特なにおいが、アンモニアのにおいに覆い被さり強くなった。女は入手したばかりの箱を、大切にハンドバッグに仕舞い込む。お守りのようなものだ。
 通り過ぎようとした三枚の、どれも同じ硝子鏡の引力に負ける。名前を呼ばれたような気がした。正しい名前もわからないのに。
 「……お母さん」
 ぽつりと呟く。
 曇った鏡には金髪に翠緑の瞳を持つ女が、ぼんやりと映り込んでは動きを完全に真似してくる。
 



 a.t.b.二〇一一 April
 リダニウム カストラリア王宮 執務室


 庭園で育まれている花々が、春を感じ取り可憐な蕾をつくる頃。
 寒露
 [エンメリック製薬会社爆破事件から六か月が経過しました。容疑者の特定を急いでいますが未だ不明。――警察はテロリストの犯行とみており引き続き――]
 モニターからはニュースチャンネルが常時、国内・国外問わずニュースが流れている。昨年九月に起きたカストラリア大手製薬会社、エンメリック製薬会社の爆破事件。表向きの報道では容疑者特定をぼかしているが、内部では着々と関係者の炙り出しと処分・逮捕が進んでいる。
 永久的に完全秘匿化するわけではないため、一時的な報道規制をかけている。
 ラジオ代わりに、ニュースを聞き流しつつ、決裁を進めるシュナイゼルのもとに、絨毯に吸収されるブーツの底打ち音が響き渡る。執務室の扉が、遠慮なく開く。
 「失礼致します。殿下、地中海ルートと、太平洋ルートの捜索が完了致しました」
 「ありがとう。囮は全部で五つ。あちらも対策を相当練り込んでいたみたいだ」
 ダミアン・モリシャルトを警察病院から連れ出した、サロニア公指揮下の工作員は、いくつかのグループに分かれ偽装を行っていた。追跡班を増員し、主に東西に分かれ追わせていた。
 書類から目を離し、報告を続ける青年を見上げると、釈然としないと言いたげに佇むカノンの視線とぶつかった。
 彼のの不満はダミアンを取り逃がしたことではなく、わざわざ餌として野に海に放ったことであった。
 「殿下。貴方には付き従うようにして参りましたが……」
 「おや。私は一度たりとも、すべてを強制した覚えはないよ。機密情報漏洩に関しては禁じているが……君の行動は、君自身の信心だろう?」
 「なっ……」
 思わず呻いた。
 自分自身の問題だと返されて、カノンは梯子を外された気持ちに陥った。
 「学院でもそうでした。……彼の言葉を借りれば、独裁者≠ナす」
 言葉を選ばず、不敬発言であることも承知でカノンはその言葉を口にした。その場には咎める者もおらず、ふたりは寄宿舎の頃の思い出を呼び起こした。
 「ははは。懐かしいね。今にして思えば、それなりに有意義な時間だった」
 「過去を懐かしむために、引き合いに出したつもりではありませんわ」
 遠回しな批判のつもりだと、カノンは棘を滲ませた。カノンにとって、王女と呼ばれる人は王女ではなく、ダミアンでもなく、ノエルだった。たとえ偽りの、与えられた他人の人生と肉体であったとしても、過ごした時間までは他人のものではない。シュナイゼルはあっさりと割り切っているが、異常な出来事≠ナあると、エリア十一となった地で、腐敗と汚泥の中に放置された男の姿を目にした時、痛感したのである。
 いっそ偽物であれと祈った。即時遺伝子解析機器は性能を誇るように、正体を王女と確定させた。事前に最後の目撃者である少年の聴取で、彼が人格者の手本になる行動をとり、子供を逃がしていた。殉教者的振る舞いはダミアンだけでなく、ノエルの頃にも存在していた。
 二者に共通するもの。それが、ティラナ王女の本質であるなら――彼女はまたどこかで、自分自身を消耗させているのかもしれない。
 「わかっているよ。君の怒りは正当だ。私にはない、常識的な感性も賞賛に値する。……だけれどね。必要な行動だったと私は、自分自身を評価している」
 シュナイゼルの言葉は柔らかいが、カノンの抱く感傷を、拒み、撥ねつけるように冷たい。彼は私はそういう人間だよ≠ニ言うように、優れた容姿を際立たせる微笑を浮かべ、話し続けた。
 「エンメリック製薬会社の捜査を行ったところ、人体改造に必要とされる特定三種の薬品の供給源となっていた証拠と、販売部の横領、サロニア公一派による賄賂による買収が発覚した。警察病院内にも協力者が複数名。軍部内、湾港関係者、海運大手企業の関係者……そこらじゅうに協力者がいた。政財界の大物の別荘。個人経営の病院。これらを経由し、特定施設へ移送したようだ。……さらにもっとも深刻なことは、被検体となる児童を、福祉施設・教会経由での人身売買で加担していた。……当捜査で一網打尽さ」
 言葉に尽くしがたいほどの、悪意。凄惨な現実の闇。社会全体が犯罪の温床と化し、今もなに食わぬ顔で存在する。当事件だけで、既に、数百人以上の逮捕者を出している有様だ。
 ジャーナリストたちは連日、昼夜問わず取材に精を出している。王室関係者。側近。謁見する貴族の中にも。また、直接王室宛に取材を申し込む勇者がいる。カノンのもとにも、取材申し込みがあった。家族を持つ者のなかには、家の前で出待ちをかけられているケースもあり、事態は深刻である。
 根も葉もない噂から、信憑性のある説まで。ゴシップ誌では眉唾物と揶揄を受けながら世間を賑わせている。
 侍従サミュエルの一時拘束の件もあり、王室内のトップシークレットに触れることのない従者の間でも動揺と憶測が広がっている。
 「刑務所の新設を急いだ方が良いね。数が足りないくらいだよ」冗談めいた声でシュナイゼルは言った。
 それは、大袈裟な冗談でもなんでもなかった。
 「彼女ひとりを助け出すよりも、犯罪の手口をリアルタイムで追う方が成果が大きかった。これだけでは、いけないかい?」
 「個人よりも、大多数を選んだ」
 「いずれ、彼女に還元される証拠だよ」
 「お言葉ですが……、貴方は……王女がどのような環境にいたか、その目で確かめられたわけではありません。……ブリタニア軍の憲兵団の処分も手ぬるい……」
 シュナイゼルはその広い肩を竦めた。
 「まだ、納得がいっていないみたいだね」
 「当然です」
 きっぱりと断じるカノンに、シュナイゼルは目を細めた。
 「私の見通しが甘く……失策だったと、詫びればいいのかい。判断を誤った?」
 「それは……」
 言い淀んだ。カノンの主張は単純だ。敵に引き渡すことで、再び王女の身体を乱暴に徒に扱われ、望みもしない他人に替えられる余地を与えることが、重篤な内面崩壊を引き起こす懸念である。シュナイゼルに限って配慮を怠らないと信じていたが、囮に出す意味については腑に落ちなかった。
 「それで君の溜飲が下がるのであればいくらでも謝るが、……私の目的は変わらないよ。将来の話をしている。……彼女を玉座に据えるとき、信用の置けない敵ばかりの国に価値があるとでも?」
 「もっと個人的な。内面の話ですわ」
 「君は、ノエルしか知らない。ダミアンとは一時的な接触に留まる。……もっとも重要な、王女のことを知らない」
 「ええ。それは、承知しています」
 「……私とて、本当の意味で彼女については知らない。どの姿が、本当のティラナなのかをね。……大局的にみて、個人の実存の話は重要ではない」
 カノンは何か思いついたが、それを言い表すのをやめた。
 つまり、それは――見た目が王女≠ナさえあれば構わない。機能を果たしさえすればいい。冷酷な考え方である。愛情を微塵にも感じられないほどの。
 「膿を出し切ることが、課せられた仕事だ。……役割でもある」
 「皇子とは名ばかりの、リアリストであることは詫びるよ」
 手にしていた万年筆を所定のペン皿に戻した時、執務室に新たな報告者、捜査かのラキーユが訪れた。彼は息を弾ませ、乱れた後れ毛にも、曲がったネクタイにも気遣う余裕がないほど急ぎの用件らしい。
 「殿下……、失礼致します」
 「既に、なにか進展があったようだね」
 「ブリタニア南部ヒューストン。セント・アンソニーより匿名の通報が……喫緊の事態でありましたので、ご報告を前にアエギスが独断で保護を急がせている状況です」
 「保護?」シュナイゼルの傍らに控えたカノンが首を捻った。ラキーユは息を落ち着かせ、ゆっくりと名前を告げた。
 「二名のドクターです。Dr.シュミーダー、Drアングレーム……」
 シュナイゼルとカノンの二人は、はっと驚き、互いの見合わせた。
 「お二人の最初の通報内容は所在地と……王室に取り次いでくれとだけで。……サロニア公の監視の目を掻い潜るには、それ以上の事を話せないのでしょう。現地捜査官を緊急招集し現場に派遣させています」
 ヒューストンは、エリア三にほど近い南部の港を擁する地方である。本物のノエル・アストリアスが、青酸カリで死亡した遺体が発見されたニューロンドンと隣接する地である。
 「カノン。おびき寄せられているのかな」
 「……出頭と考えてもよろしいのではありませんか」
 「うん。一理ある。保護後、彼らと会うよ。……いいや、こちらから参ろう。重要参考人だ。午後から四日後までの予定のキャンセルを」
 カノンは首肯し、首席秘書官コルネル卿のいる王室秘書官室にて、引き継ぎを行うために執務室を去った。



 a.t.b.二〇一一 April
 ブリタニア ニューブリタニア・ニューヨーク


 ブリタニア東部にあるニューブリタニア。そこは、ニューヨークの郊外にある住宅街の中庭つきの一軒家だった。壁には蔦が這い、自然の侵食が始まっている。だが、玄関と中庭に続く小道を彩る、茨の手入れは行き届いている。
 長めのブザー音が辺りに聞こえるほど鳴り響く。表に立つのは、落ち着いた軽めの灰色のスーツ姿の女だ。暗めの長い金髪は前髪を後ろに流し、後頭部で団子で纏められている。
 室内モニターで、訪問者の顔を確認した家主が応じた。
 [はい。どちら様でしょう]
 「バーナードさんでいらっしゃいますね。私、ミセンハイマー・ユニオン保険の者でして。新商品のご提案を致しております」
 [……失礼だけれど、保険の営業はお断りしているの]
 バーナードは億劫で堪らず保険屋の女を追い払おうとした。女は食い下がった。
 「そう仰らず。お一人の方でも、充実したプランをご提供させていただいております。……万が一の事態に備えて、遺言書作成のお手伝いも承っておりまして、たとえば福祉施設への寄付や病院への寄付、大学機関など専門の士業への取り次ぎ実績がございます」
 「私まだ四十代なのよ。早すぎるし、余計なお節介はやめて」
 バーナードは「もういい? 切るわよ」と溜息混じりに脅した。保険屋の女は「お待ちください」と言い続けた。
 「……国外への福祉施設への寄付について調査を行っておりまして……」
 「えぇ?」
 一瞬、保険屋の女が何を言ったのか。バーナードはすぐに切れば良かったのに出来なかった。それまでカメラに見切れていた女の顔が、真正面に据えられたからだ。バーナードには見覚えのある顔だった。なにせよ――よく似ていたからだ。
 保険屋の女は愛想よく笑っていた。
 「……カストラリアのローモロー孤児院への献金について、なにかご存知ですよね?」
 「あなた……」
 「失礼致しました。本日のところはお暇して、また日を改めてお伺いします」
 それ以上は通報されそうだと、危機を察知したのかもしれない。保険屋の女は一歩引き下がった。
 「……待ちなさい!」
 バーナードはマイク越しに引き留めた。
 「待って! あなた、誰? 誰の差し金!?」
 「……お心あたりがあるようですね」
 保険屋の女は意味深な言葉を口にする。それは殆ど答えをいっている。バーナードはモニターを消し、急いで玄関に飛び出た。滅多に体を動かさない女は、たった数メートルの距離で息を切らした。あるいは、恐ろしい予感が緊張の糸を張り、無駄に心拍数を増やしているからだ。
 「あ……っ……あなた……」
 保険屋の女はただそこに立っている。背丈はパンプスの底上げで多少高く見える。ゲルマン系ではなく、東スラヴ系の暗い自然な金髪を持っている。そのせいか骨格も華奢で肩幅が狭い。服装は露出の少ないパンツスタイルのスーツ。黒いビジネスバッグ。無難で面白みのない格好なのに、やけに興味を惹きつける。
 「アン・バーナードさん……いえ、本当のお名前は、ナターリア・フィッツ=オーブリーさんですね?」
 真命を言い当てられた女は体が硬直し、二の句を継げなくなった。
 玄関に続く小さな門を勝手に押し開けて、保険屋の女がすらりとした足をアン・バーナードのもとへ向けた。
 「ただいま、お母さん」と、おそらく純粋なブリタニア人ではなさそうな女が言った。
 「だ……誰なのっ! あなたはっ!?」
 奥歯がぶつかり合う音が聞こえてきそうなほどの狼狽ぶりに、女は小さく笑うとヒール音をたてて、さらにゆっくりと迫った。
 「マルカ。……ただの、マルカ」
 「マルカ……?」
 尋ね返した。
 混乱して、アン・バーナードの脳みその中のデータベースから、それを引き出すのに手間取った。
 「思い出せませんか。貴女の罪の名前なのに」
 女は、すこし寂しそうに笑う。詩を諳んじさせればポッドキャスト配信で有名になれるほどの心地の良い声をしている。アン・バーナードはやがて、マルカが誰であるか思い当たった。しかし、彼女が本物である確証がないことも同時に思い至った。
 「あ……いえ……そんなはず……だって、マルカは……」
 「マルカは死んだはず。いえ……殺したはず……」
 恐怖が足元からがっしりと捕まえた。それは感覚的にヒリヒリとしていて、肌の上を滞りなく滑った。
 「やめて! 近寄らないで!」
 金切り声に臆する様子もなく、マルカと名乗る綺麗な女は眼前に迫った。
 「里親に引き取らせて、殺すように頼み込んだ。大枚をはたいて……」
 アン・バーナードはどうにかして拒絶を示すために、マルカの頬を思いっきり叩いた。
 乾いた音が、緑の中に響き渡る。苦痛を苦痛とも思わず、マルカの微笑みは古い邸に飾られている肖像画のように固定されている。
 「せっかく再会したんだから、お茶くらい飲もうよ。お土産もある。……お母さん」
 死神だ。鋭い鎌を引っ提げた、髑髏に人間の肉を貼り付けた死神である。
 いつの間にか、死神はアン・バーナードの肩に手をやり玄関を越えていた。
  

 
 a.t.b.二〇一一 March
 ブリタニア・ニューロンドン 娼婦街


 海沿いの街から街へ。
 どこもかしこも潮風が吹いて、そのにおいがいつの間にか自分のものになっている。
 海があるということは、切り離せないものが船乗りの男達が楽しみにする風俗街である。人、モノ、金が集まりやすい水辺。寄港地は栄え、歓楽街が維持される。人の流れと交流が盛んな地域は情報も集まりやすい。
 あの場所から出て、人捜しをするのであれば内陸よりも沿岸地域を伝っていくのがセオリーだ。彼女はブリタニアにいる。彼女が伝達するコードの頭の番号は、いつもブリタニアの国際ナンバーであったからだ。

 歓楽街の端に閉じ込められたかのように仕切られた一画。娼婦街は夜を前に店先に立て看板を引き出し、開店準備を始める女たちの姿が見受けられた。
 都市部とは異なり、寄港地のある場所では客の殆どが海軍や貿易関係者、地元の漁師となる。
 「人を捜しているんです」
 「人捜し?」
 電飾のスイッチを入れた短髪の女は、珍しい女客の質問を繰り返した。
 身なりはアケスケな娼婦と比べようもないくらいまともである。英語の発音は、たとえ下層のスラングを真似していても、上流階級出身特有の高雅なアクセントが隠れている。
 「……警察に行ったら? たぶんここじゃ、いなさそう。それとも、そっちな方……? 名前は?」
 わざわざ娼婦街にやって来るということは、客である可能性も捨てきれないと娼婦は思った。同性婚は概して禁じられているが、同性愛まで否定されているわけではない。レズビアン受けのする女は男女両方から好かれる。大抵はいい男が掻っ攫っていくのだが。
 「アン・バーナード」
 「アン? それがあんたの名前?」
 「私? 私は……マルカ。たぶん」
 「たぶん……?」
 変な会話だ。
 声をかけてきた女の尋ね人は、アン・バーナード。
 相手は綺麗な顔をした女だが、どこか浮世離れした雰囲気を持つ。娼婦は「知らないよ」と言うつもりでいた。そこに一人、カーディガンを羽織ったミニスカート。派手な赤髪にパーマをかけた女が出勤してきた。
 「誰〜。その子。新入り? キレイな子じゃん、売上いい線いくんじゃない〜? 先に言っとくけど、ウチの客取んないでよねぇ〜!」
 「違う。人捜ししてるんだってさ」
 「人捜しぃ〜?」
 「アン・バーナードって女。知ってる?」
 赤毛の女は髪をいじりながら「知らなぁい」と言い、身なりのいい女を舐め回すように見た。
 マルカと名乗った女は、さらに質問を重ねた。
 「……ここには、ないの?」
 「は? なにが」
 「……リフレイン」
 娼婦は目を見開き、赤毛の女に囁いた。
 「げっ。こいつヤク中かよ!? どおりで、なんかヘンだと思った!」
 「リフレイン〜?」
 「知らないのあんた。幸福麻薬。打ったら一番幸せだった過去にひとっ飛び。夢見心地らしい。……あんた……大人しく病院行ったほうがいいよ」
 いかにヤバい女であるか、赤毛の娼婦には伝わっていないようだ。彼女は面白おかしく笑いだして、身を乗り出した。
 「お金ないんじゃないのぉ〜? こんなトコ彷徨いてるわけだしぃ……客の取り方教えてあげよっか」
 「どうも、親切にありがとう」
 マルカは人形のように微笑み、踵を返した。
 その半月後、アン・バーナードの名前は一件のある殺人事件として轟くことになる。


 
 a.t.b.二〇一一 April
 ブリタニア ニューブリタニア・ニューヨーク


 「私に復讐しに来たの?」
 「そんな物騒な」
 リビングのソファで対座するふたりの間には、形容できない緊張感が横たわっていた。
 アン・バーナードの言葉は鋭く、隠しようもなく、客人を饗すホスピタリティ精神が欠けていた。大声で叫べば、近隣に住む住人の誰かが警察に通報してくれる事を見越しているように、口にするたびに声は大きくなっていった。
 「殺しに来たのね!?」
 かなり強い言葉だ。
 「……何が目的なの!?」
 マルカは沈黙を貫き、唇をくっつけ合わせたままだ。
 こんなにヒステリックな女が母親だとは思わなかった。落胆から伏し目がちに、その正面の顔ではなく、庭で開花の最盛期を迎えている、赤い薔薇に向けた。
 「なんとか言いなさいよッ!!」
 怯えた目でアン・バーナードは、思い切りが良く引き出しのところへ走って、隠していた拳銃を手に握った。
 その背中に向けてマルカは「マルカのお父さんの居場所。知ってるんでしょ」と尋ねた。
 「え……!?」
 アン・バーナードは勢いよく振り返った。
 「し……知らないわよ。あの人のことなんか」
 動揺のあまり声がひっくり返っていた。彼女は知っているに違いない。
 「そんなはずないわ。だって……お父さんからお金、受け取ってるんでしょう」
 「……なんでそれ……」
 「調べたの。全部調べたわ。……こんなに立派なお家にも住まわせて貰ってる。生活費も貰ってる。呆れちゃった。……不倫相手の女に入れ込んでる男。その男に甘やかされて暮らしているなんて」
 また金切り声が耳を劈く。すべてを否定したがっていた。
 「でも、マルカが生きているとは教えてもらっていなかった」
 うるさい、うるさい、うるさい――と、マルカの言葉を否定するばかりになった。癇癪持ちの愛人。期待していたものは何もないみたいだ。
 「マルカを……殺すように仕向けたのはお母さんの勝手な判断?」
 氷結されたように、アン・バーナードの動きが止まる。マルカは続けた。
 「……お父さんに黙って、不倫の痕跡を消そうとした」
 「違う!」
 強く否定するが、この女の否定は肯定の裏返しだ。
 「ローモローの寄付記録と、里親のフレッジ家……ロータス・フレッジの口座振り込み履歴は把握している」
 「嘘おっしゃい! はったりよ!」
 「私は……フレッジ夫妻に暖炉にくべられた」
 悲しい過去の話だ。火傷の痕など、どこにもない。
 マルカは愛人の子供として生を受け、穢れた血を漂白するために愛人の女が独断で孤児院に隠し込んだ。しかし、父親の領土内にある施設であったため、密告は時間の問題であり、里親に金銭を渡して養子として引き取らせた。さらに、金を積み事故を装い殺人を依願した。
 「理由はなんでも良かったのよ。……暖炉に押し込められて、大火傷を負って……死にかけたけれど……生きている。……私は……一命を取り留めて……王宮にお仕えすることになった。恩返しのために」
 不運なことに、マルカは生き延びてしまった。
 「王女さまのおかげね」
 アン・バーナードの焦点はただ一点、マルカに向けられているが意識はそこにない。
 「お父さんはお母さんの罪を知っているわ」
 彼女は記憶の中か、過去の時間に呑まれているのか、静まり返っている。
 「居場所、知ってる?」
 「知らない。たとえ知っていようと、教えるものですか!」
 もはや何を言っても堂々巡りだと、マルカは判断し、ソファから静かに立ち上がった。
 アン・バーナードは手にした拳銃の、銃口をマルカに突きつけた。
 「お母さんが……私を捨てなければ……歯車は狂わなかったかもしれない」
 「……何を言ってるの……?」
 「お父さんは……貴女を愛してたわけじゃない」
 「いい加減にして」
 厳しく低い声で命令した。この女に育てられていたら、毎日その声で躾けられて気を病んでいたことだろう。
 「貴女は……代わりだから」
 「だ、黙らないと、撃つわよ!」
 「お母さんは、代わりなの。ユスティナの」
 ガクガクと両腕が震えている。これでは照準が定まらず、大きく外すだろう。それも狙いかもしれない。
 「セーフティは外した?」
 マルカは情けをかけるように、憐れむように言った。
 「……あっ?」
 「撃つの慣れてないもの。構え方でわかる。……お父さんの居場所、知ってるでしょう」
 アン・バーナードの恐怖と緊張は頂点を超えた。妙に力み、拳銃のトリガーは引かれ、最初の一発が天井に穴をあける。一番動揺をしていたのは、撃たれるはずだだったマルカではなく撃った本人だった。
 「あ……っ……あ、あぁ……っ!」
 「……また来るわ。お話しにならないもの」 
 アン・バーナードはまともに話を続けられないだろう。今日は潮時だ。マルカは彼女の脇を通り抜けて、玄関から外へ出た。
 
 銃を手にしたまま、アン・バーナードは去っていく女の背中を凝視していた。
 扉が閉まったあと、近くにあった電話の受話器を持ち上げた。彼に電話をしなければいけないと駆り立てられていた。
 「もしもし――? どういうこと? あなた……どうして、教えてくれなかったのッ!?」
 男は電話の向こうで笑っていた。
 「あの子は、処分したって、言ったじゃないッ! 嘘だったってこと!? あなた、私に嘘をついていたっていうの!?」
 [あの子は……元気だった?]
 「は?」
 男は、まともに取り合おうとする気がないらしい。 
 再びブザー音がこだまする。
 アン・バーナードは非常に苛立っていた。あの女だろうと思い、勇み足で、確認を怠り、玄関の扉を開けた。
 「――いい加減に――ッ!」
 ぴたりと薄い皮膚に感じたのは、硬質で冷たい感触。光の中で佇むのは複数人の男か女かもわからない集団。すくなくとも、その中にあのマルカはいなかった。
 眉間に宛てがわれるものが銃口だと、ゆっくりと理解する。だが、猶予などはない。逃げ去るには遅すぎた。逃げ去るには、恐怖が邪魔していた。逃げ場所もなかった。なぜなら、この家こそがアン・バーナードを名乗る女の終着点であったのだから。
 耳奥に今しがた聞いたばかりの言葉が繰り返される。
 ――お母さんは、代わりなの。ユスティナの――
 玄関に広がる朱が、じわりじわりと土に吸い込まれていくのが最期の景色だった。




63
午前四時の異邦人
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