Mary On A CrossU







 a.t.b.二〇一一 April
 ブリタニア ニューヨーク・グレース地区


 日没後の都市部の外れ。華やぐ春風は遥か摩天の塔に隔たれ、深い濃紺の陰は人を透明にしてしまう。賑やかな中心街を下る、ダウンタウンの暗い窓辺の続く通りで、鼠色のフーディーを深く被り、背格好を少年に近づけ大股に歩く。
 この街に長居はできないだろう。数日前までただの一般的な女でいた。それが今や指名手配犯扱いだ。安全な夜を過ごすには、ホテルが安牌だが、証明証となるIDの提示が求められる。
 ニューヨーク中心部では警察がうろつき、個人宅で起きた一件の殺人事件にしては、大掛かりな捜査網が敷かれている。
 街灯直下の路上を集団とすれ違うところだった。
 「いてッ! おい、どこ見て歩いてんだぁおめえ……」
 スラム街に暮らしていそうなストリート系の格好をした男は、数メートルの猶予がある距離感でありながらとんでもない難癖をつけた。無視を貫き立ち去ることを封じられる。トライアングルの頂点を結ぶように取りまれ、ぐるぐると三人の男達の顔を眺め回す。一様にして、白灯の色がゾンビのように青白い。一人が「なんとか言えって」と刃渡りの短いナイフをちらつかせた。これが彼らの狩猟手口なのだろう。
 二人目の男が、女の目深く被っていたフードを捲り上げ感嘆を漏らした。
 「おったまげた。こりゃ、とんでもなく美人だ」
 男達は正体を女と知り、完全に目の色が変わった。
 「なあ。あんた。……どっかで会ったことあるか?」
 三人の中で一番小さい男が首を捻った。
 「あぁ……? 知り合いか?」
 最初の男の尻ポケットには、長方形の箱が突っ込まれている。遠慮のない視線に晒されて、男はにやりと意味深に笑みを深めた。
 「へっ――なんだよ。興味ある? リフレイン。ここいらの売人は元締めに近くてね……サービスしてくれるんだよ。時々。……欲しいか?」
 挑発的で、踏みつけるような目つき。語り口はこれ見よがしな勿体つけるもので、神経を逆撫でする。
 「一晩俺らの相手してくりゃ、売人まで取り次いでやるからよ」
 マルカは、ああそう――と胸中で明らかな落胆の溜息を吐いた。代わりに声を上げたのは男の低く深い声音だった。
 「そこで何をしている」
 四者のいるところより更に薄暗い建物の陰の中。全身が黒く闇と一体化した格好の男が、トランクを片手に佇立している。
 「何って、ナニに決まってるだろ? 去勢済みの用ナシはとっとと失せろ!」
 三人のうちの誰かが嘲笑混じりに飛ばした。マルカは一瞬の隙を突いて、軽い身のこなしで男達から逃れた。
 「げっ――こいつ!」
 男は右手で尻ポケットから擦り盗られたモノに気づき、サッと血相を変えた。それから一気に頭に血が上ったのか、意味不明に乱暴に叫んだ。マルカは陰の男に迫った。グルである可能性は捨てきれなかったが、彼の身なりが神に仕える者の証であることを知り、そのトランクを手にする腕を引いた。
 「神父様? 教会はこの先ですか?」
 三人の男達が動き出した。獲物を取り逃がさんとするハイエナの鋭い視線を浴びて、一目散に大通りを目指すと、そこには警察官が夜の巡回中であちこちに見受けられた。マルカは思わず脱がされていたフードを摘み、再び深く被り直した。
 警察官はすぐに異変に勘づき、神父と若い少年の格好をする女のところに走った。
 「どうかなさいましたか」
 ちらっと神父が背後に視線をやった。三人の男達が、警察官の存在に舌打ちした音が聞こえた。
 「お怪我は? ああ……こちらの女性が……乱暴を受けていて」
 黒い修道服の裾を払い、トランクを反対側の手に持ち替えた神父が、汗をかきながら現況を説明した。「署で調書を取りますか?」と警察官は後方で悪態をつき、中指を突き立てる男を睨んだ。
 「……結構です」
 マルカは顔を背けるように、地面に視線を落とした。
 「お嬢さん。ご自宅はお近くで?」神父が心配そうに訊いた。
 「……いえ。……泊まるところを、探していて」
 正直に答えすぎる必要はないはずだが、教会であれば一晩は凌げるだろうと目算を立てる。
 「失礼ですが、身分証をお持ちですか」これは警察官だった。
 「……紛失してしまって」
 「そりゃあいけない。再発行の手続きを済ませましたか?」神父が警察官に同意を求めるような顔で言った。
 「手続きをしようと、思っていたところで……ですが、明日は土曜日ですから。月曜日まで、泊まるところを探しているんです」
 「……なるほど。……よければ、教会にお越しになりませんか」
 「……本当ですか?」
 話が狙い通りに向いて、マルカは俯いた顔の中でほくそ笑んだ。
 

 酒を呑み下した後のように視界がぼやけている。古い木造の天井。長く使われていなかった埃っぽさと、古い蝋燭の芯の燃えた焦げ臭さ。壁にレリーフ代わりに飾られた、キリストの磔刑。質素なベッドの薄くて硬いマットレス。洗濯のりの効いた清潔なシーツ。ふたつの小さな窓の外は真夜中のぺったりとした闇夜が塗りつけられている。
 静脈に打ち込んだリフレインの効きが弱い。横たわる場所が昨日から入った、修道院の来客用の個室であることを思い出せるくらいには。
 「まあ! 目覚めたのね!」
 黒白のウィンプルを被る中年のシスターが、扉から覗き込んでいた。彼女はそのまま真っ直ぐ、マルカの元へ寄り眼前で手を振った。
 「大丈夫? 貴女……もし? ……もし?」
 「……シスター……」
 彼女は責めることをしなかった。それどころかロザリオを手に祈ってくれた。癒しが訪れるように、主のはたらきかけを。慈しみを持ち、隣人を愛した。
 「ええ。……ええ。ここにおりますよ。なにか必要なものはある?」
 「……お水を、いただけますか」
 「わかったわ」
 シスターは扉の元へ行き、光の向こうへ消えた。
 すこしの罪悪感、羞恥が胸を巣食う。愚かな行為であると未だ残る良心の呵責。歯止めをかけられなくなってきている事は自覚していた。性根の腐った悪党からクスリを盗み出すほどに、零落れている。
 リフレインは幸福な記憶を手繰り寄せてくれる。触れ込みではそうだ。幸福な記憶を、大脳や海馬が上手く機能し引き出すことが出来るのであれば。だが、この体では扁桃体の過活動が、かつての恐怖が思い出すことを制限するのか、上手くいくときとそうでない時がある。後者が殆どで注射後には、不快な感覚が長続きするだけの無気力な人間が出来上がる。
 天井に戻した視線を扉に向けると、人影が増えていた。シスターと神父、白衣を着た男が一人。
 「……医師をお呼びしました。勝手なことをとお思いになるでしょうけど」
 シスターの案内で、医師はベッドの側までやってきた。
 「ああ、いえ……」
 どう言っていいかわからなかった。少なからず、教会側の判断は正しいだろう。教会とはそもそも中世の頃には病院の原型としての役割を果たしていたのだから、原点回帰だ。しゃっきりとしない頭をなんとか働かせて、この医師が自分を唆す側の一味でないことを疑った。丸眼鏡をかけた医師は、いくつかリフレインについて質問した。
 服用は何時からか、回数は、どういう気分のときに使いたくなるか。簡単な問診の末に誰がみてもその通りだと納得する診断を下した。
 「禁断症状ですな。離脱症状もあるでしょう。今は服用後で気分は……良い? 悪い?」
 「不快です」
 「ああ……そう。言葉の巡りは悪くないから、その通り悪い≠フでしょう。……とりあえず、水を飲んで、落ち着いて安静に。催吐感がなく、食欲があれば消化の良いものを」
 医師は周囲を見渡して、後方に控えるふたりに話しかけた。
 「彼女が所持する他のクスリは?」
 シスターは前へ進み出て、机の上にのせられている荷物に触れた。
 「荷物を、確認させていただいてもいいかしら」
 「……ええ」
 力のない返事のあと、シスターはバッグの中を探り、先日公衆トイレで手に入れたものを発見した。
 「一箱確認しました。これは……先生に渡してもいいですね?」
 「……はい」
 名残惜しいかな最後の一本だ。それを、シスターは医師に手渡してしまった。それから、神父にそっと質問をした。
 「病院につれていきましょうか?」
 「その方がいいだろうが……身分証がない。福祉を受けるにはIDが必要だ。更生プログラムに繋げるのにも、結局のところ身分証ありきだ。……不法移民の可能性もある。強制送還しようにもパスポートもない。勾留が関の山だろう」
 困ったと神父は小さく息を吐いた。率直にいって、迷惑千万な正体不明の不法移民と思われているに違いない。事実上、ブリタニア社会での生活の保証は不可能である。まだ、それこそ記憶喪失者を装った方がマシだったかもしれないと、この時マルカは思った。
 医師は白衣を翻し「また何かあれば呼んでください」と言った。
 シスターが替わって、ベッドの側に移り、枕元にかけていた手ぬぐいでマルカの額を拭った。
 「食事はどう? 温かいスープの用意ができますよ。……そうだ。お嬢さん。お名前は……?」
 「なまえ……?」
 それはなんだか、かなり、今更な質問だ。
 まだ名乗っていなかったのだろうか。それさえもあやふやだ。
 「マルカ。……ただのマルカ」
 シスターは微笑み返し、慈愛に満ちた眼差しで深く頷いた。



 a.t.b.一九九八 March 
 カストラリア王宮 書斎


 匂い立つ春にはまだ遠い。
 温室に運び込まれた新顔は、どれも土の中に眠っている。種苗法の審査をクリアしたものは、特別に造らせた別棟での成長が見守られる。この国へやって来る亡命者たちのように。いつかその場所に馴染み、生態系の均衡を崩さない証明と認可を経て、みんなのいる温室の仲間へ入っていく。長い目で見れば一時的な措置だ。少女の手にはいつだって、剪定者としての権利と責任が委ねられている。種の繁栄を認める者。主権者の一存で行く末を決定する強大な力。
 硬くて重い花切狭が太い茎をパチンと音をたてて、斜めの切り口を残して大輪のアマリリスを切り落とした。
 ――『王女様』
 温室に入った侍女が、少女の小さな背に呼びかける。動じることもなく、少女は均されたコンクリートの上に敷いたシートに横たわる、紫色の虚栄心を拾い上げて言った。
 ――『このお花、花瓶にいけて』
 ――『承知いたしました』
 切り花にすれば、くすんだ色味も冴えることだろう。
 ――『イザベル。ギャラリーの中央のソファの側か、ホールの入口辺りなどが目立って、たくさんの人に可愛がって貰えるわ』
 ――『はい。そのようにいたします。……陛下がお呼びです』
 ――『お父様が?』
 侍女のイザベルは、緩みない表情でアマリリスを受け取った。どうもまじめな話らしい。この間、王宮全体のブレーカーを落として一騒ぎ起こした、お説教の続きなのだと思い、苦々しい顔でその王宮のなかで一番静かな場所へと向かった。

 書斎の空気は好きだった。古い本に染みついた昔の香り。時間が静止して、読まれるまで眠り続けている。冬眠する森のなかの腐葉土のように、何物からも隠し守られている安心感がその部屋にはあった。
 午後一番の仕事は書き仕事だと、父は仕事について教えてくれた。四年前のことだ。長椅子で図鑑を読んでいると、今更なことを口にするので『知ってるわ』とそっけなく返した記憶が蘇る。その午後の執務を終えて一時間すれば、そこから昼寝の時間をとる。夜会や晩餐会があるような日は、力尽きぬように特に休養の時間をとっていた。それが長く国王の仕事を続けるコツだと笑って。
 父は昔から病弱だった。
 先代の正妃の最後の子供。四十を過ぎてからの男児で、小さく生まれた。
 先にいる十七人の兄姉らの話をしたがらなかった。隣国の中華連邦出身の愛人を二人の子供達を認知したのがそもそもの原因だと、話題に出せば憤るので誰もがその話題を嫌った。反中連派の貴族と臣民は国外追放を望んだが、国王はそれを国際問題化を危ぶみ拒んだ。老齢に差し掛かり、痴呆症を患い始めた頃、庶子達は結託し、他の愛人の子供たちを唆し、事故を装い次々に殺して回った。
 事態の収束を委ねられた王妃は、暗殺事件に加担した者を含める一族郎党を国外追放した。それまでに王妃の長男と次男は自動車事故、落馬事故で命を落としていた。一人娘の長女は毒殺未遂で全身麻痺となり療養施設に入っている。各個裏付けとなる証言を得て、暗殺関係者は事実上のクーデター犯と認識し、中華連邦内で粛清された。
 王妃は最後に生き残った父を国に呼び寄せて、王位を継ぐよう迫った。
 国王に代わり王妃が摂政を務めていたが、限界があった。譲位を承諾し、父は王になった。その数年後、祖父となる先代は老衰。王妃はさらにそれから三年後、急性心不全でこの世を去った。
 王女は自分が生まれてくるまでの話を、父親以外から聞いていた。話を濁す者も多くいたが、しつこく訊いた。

 ――貴女さまは、望まれてお生まれになられたのでございますよ――
 
 最初は気分が良かった。誰からも求められて生まれてきた喜びが。広い王宮生活の退屈さや、日常の理不尽さから逃れ、称賛の数々は自尊心を心地よく満たした。さらなる高みを目指して、大人を驚かせてみせようと難しい本や、物語を読んで自慢をすると、みんなが褒めてくれた。 
 『母親に似たおまえは、素晴らしい健康そのものの体を持っているから、息継ぎが苦手な気持ちはわからないだろう』と父がわざと拗ねることもあった。とても繊細で、神経質で、弱虫だと自虐をする癖が、周りの大人たちを困らせていた。
 みんな、この人に長生きをして欲しいから、ご機嫌になれるような優しい言葉をかける。ちょっと面倒くさい王様だ。王宮で働いている人達がこっそり話し込んでいるのを耳にしていたから。
 父への態度と同じように、本当は心にもないことを『わたし』にも言っているのではないか。この国で特別な家に生まれついた子供に、都合の悪いことを口ににする者がいるだろうか。ならば、王宮の外は? 他の国は? 学究の徒としての目覚めは、存在の証明を果たすことがきっかけだった。世界中の人々が、地球の隅から果てまで、あらゆるところに住まう人々が『わたし』を認めればそれは偽≠ナはなく真≠ナあるといえるはずだと。
 ――『失礼いたします。お父様。食後のお薬は飲んだ?』
 ――『飲んだよ』
 短い挨拶をして部屋に入ると、父はちょうど書き仕事をやり終えたところだった。書斎は相変わらず静かで、川底の砂のように重い空気が沈殿していた。
 ――『新薬の承認まであと半年なんですって。それから、治癒促進シートもこのままいけば、来年には……お父様?』
 彼は両手を組んで、真剣な顔つきで机の上の手をじっと睨んでいた。それが痛みに堪えるような身の強張りと、緊張感。はじめ、体の調子がよくないのだと思った。
 ――『具合が悪いの?』
 慎重に言葉を選んで、父は正面に立つ『わたし』の方を見返した。
 ――『大事な話がある』
 大扉からは三度のノックのあと、秘書官に侍従長、女官らが示し合わせたかのように書斎に入ってくる。いつものお仕事の説明よりも大切な話だとその時確信した。
 ――『……みんな、揃いも揃ってどうしたの?』
 教会で、司祭が聖書を読み上げる時の厳かな響きで、彼は『わたし』の名前を呼んだ。
 ――『ティラナ・アレクサンドラ・マリア・アンナ・カタジナ・ユスティナ・ヴァル・カストリア』
 ――『は、……はい』
 背筋がまっすぐに伸びる。ありえないことが起きている。
 『わたし』は、上からぐっと押さえつけられるような圧に、身を竦ませた。
 フルネームで呼ばれることは、天変地異のお説教レベルの話だ。身を縮こまらせて、小さな声で返事をした。
 ――『今日から、君は法定推定相続人だよ。ティラナ。……この言葉の意味はわかるな』
 『わたし』は、吐きかけた息をそっと呑み込む。
 ある朝、目覚めた囚人が、看守から最後の晩餐のメニュー≠フ話を切り出されたらこんな気分だろう。
 いつだったか、数年前か、弟や妹をねだったことがある。ベルケス公爵のところにいとこが増えるたび、どうして自分には妹や弟が増えないのかと屁理屈を捏ねた。父親の体のことを詳しく知れば知るほど、それが無理な願いで無謀な要求であることを理解しつつも、幼さを盾に何度も願った。
 弟ができれば、ずっとこのまま研究に没頭して、お父様が長生きできる、長命の妙薬も夢じゃないかもね≠ニ精一杯の冗談で紛らわせて。
 『わたし』の目は彷徨った。天井から床まで、虫の這い入る隙間もない本の絨毯に。書斎机の上の積み上がった紙の束。光源のランプ。父の顔。その周囲に並び立つ優秀な文官や従者らの顔。家族ぐるみの付き合いが長く、いつもそんな顔をしないのに、透明な仕切りが立ちはだかったように、式典や荘厳な儀式の段取りを見守る、近衛兵のような堅く真剣な表情を浮かべている。
 緊張を紛らわせたくて、語り合うのに必要な、年齢の近い子供は『わたし』にはいなかった。ひとりなのだと。不意に孤独の味がわかる。この感覚は誰にも理解されないのだろうとおもうと、惨めなほど哀しく、胸の奥がツンと疼いた。世界でただひとり。この国のお姫様は、『わたし』しかいない。
 父の瞳は承諾を求めていた。聞き分けのいい、大人の要求に素直な子供の返事を。
 ――『……はい。お父様』
 少しだけ膝を屈める挨拶をした。
 ――『よろしい』
 安心したように、父の口元が綻んだ。
 『わたし』にはわかる。重荷を分かち合う者がいない者が、新鮮で丈夫なあとを引き継ぐ者がいることの喜び。たった今、『わたし』が至ったばかりの孤独を、この男性は長らく堪えてきた。それは同時に、妹や弟が生まれることがないことを肯定する。彼は焦りからも解放され、天使が天の国へ救い出してくれるような心からの安堵を抱いているだろう。
 王とは、最も恵まれた、富と権力の囚人である。
 その二つを臣民に食わせ少し弱くなったけれど、依然として国民は王の国に住む住人である。
 ――『……今日から二十四時間、警護がつくことになる。最初はびっくりするかもしれないけど、そのうち慣れる』
 『わたし』はやんわり微笑んだ。精一杯の誤魔化しを看破されるだろう。
 二四時間。三六五日。死ぬまで何十人もの大人に囲まれ続ける生活。断頭台までの階段を登るような心地だ。
 聡い父は、ゆったりとした口調で昔話をした。
 『父さんは、ある日……仕事先に出勤しようと家の扉を開けたら……ごらん。こんな風に大勢の大人の……警護が待ち構えていて、宮廷からの使者が君のおばあさまからの勅書を読み上げたんだ。……そうして、王様になった』
 父は周囲を固める従者たちの顔を眺めて言った。彼は笑っていたが、泣いているようにもみえた。
 子どもの頃から躾けられた、得意の愛想笑いを浮かべるおべっか使いたちが、やはり微笑を浮かべた。
 ――人殺し。
 非道い言葉だと思ったが、それ以外に見つからなかった。
 玉座のために争い、誰も玉座に座ることが出来なかった者たちが、この大人しく病弱な人を血で汚された牢獄へ連れ戻したのだ。廷臣が従臣らに、黄金の下地が見えるまで穢れを濯ぐべくモップがけをやらせてもその赤褐色の薄泥を隠すことは出来ない。さらに歓迎の血のスープを飲ませ、埃かぶった古い肉を食らわせ、終身刑を命じる。
 ――『これが王という務めだよ。ティラナ』
 なんて、絶望的な響きだろう。
 幸せではないのに、幸せなふりをしなくてはいけない。
 ――まともな人は、王になんてなりたがらない。
 嫌だとは言えるわけがない。この家の、この王室の歴史を知っているのなら、王位を放棄することがいかに国家を切り崩し分断するかを。そして、王女ティラナには次の王位を譲る相手がいなかった。
 体の弱い人がこうして、何年も職務を遂行しているのに、自分だけは逃れようだなんて。
 ――誰が、こんなものになりたがるの。
 父がこの宣言をするということは――譲位も近いのかもしれない。嫌な予感が、突如重石となって両肩にのしかかった気がした。
 ――王様になんか、なりたくない。王様になんて。
 
 寝覚めは最悪だった。胸の激しい動悸と発汗。火の中に焚べられているような熱さ。嫌な喉の渇き。
 狭いベッドの上で、不快な身体的感覚に囚われているうちに、夢の内容は霧の中に溶けていった。
 


 a.t.b.二〇一一 April
 ブリタニア ニューヨーク・グレース地区教会


 鮮やかな黄色の綿毛のような小花が風にそよぐ。
 春を告げるミモザ――アカシアの木が発する甘い匂いが、開けた窓からふわりと入り込み、肺の底を擽った。レンガ色の胸元を持つコマドリが音や人の気配にに臆することなく、地面に散らばる小花を啄んでいる。
 修道院を隔てるアカシアの木の向こうからは、パイプオルガンの滑らかな伴奏。清らかな聖歌が届く。
 聖書の説教の声が途絶え、やがて日曜のミサに集った信者たちはぞろぞろと教会を去っていく。
 司祭とシスターが勤めに出払っている間に、朝食と洗濯を終え、手持ち無沙汰になったマルカはふらりと教会の敷居を跨いだ。中に人は疎らで、囁きあうほどの厳かな会話が不明瞭に、残響が折り重なる。人気のない片隅には柱の間を一枚絵が埋めている。一枚一枚をじっくりと確かめるように観賞していると、一仕事を終えたシスターが「こちらにいらしてたの」と呼び止めた。マルカは驚くことなく、絵について話をした。
 「立派な絵。聖カタリナの殉教ですね。キリストと神秘の結婚。……カタリナを娶ろうとしたローマ皇帝マクセンティウスは、五十人の哲学者をカタリナのもとに送り込み、議論によってキリスト教の教えを棄てさせようとするが……カタリナの学識によって論破され、逆に洗礼を受けてキリスト教徒になる。激怒した皇帝は迫害に転じ、聖女は最後には斬首されて殉教する』
 シスターは隣に並び、殉教の絵画を一緒に眺めた。
 「イタリア・ルネッサンス絵画に多いモチーフですね。この絵画は、十九世紀に持ち込まれたんですか?」
 「ええ。その通り。……まるでその場を見てきたかのように仰るのね。最初の入植の頃に持ち込まれたものもあるけれど、比較的状態のよいものよ」
 チークのない赤みの頬を丸く持ち上げて、シスターは微笑んだ。その目線は絵画から、マルカの服装に移っていた。
 「よくお似合いよ。私のお古で悪いけれど、サイズがぴったりでよかった」
 「用意してくださって、ありがとうございます」
 「ご体調のほうはいかが?」
 「完璧とは言い難いですが、良好です」
 まだ残っていたミサの参列者の最後の集団が列をなして、中央の身廊を歩いていく。
 「みなさん、ブランチの時間ですね」
 それでも、まだ人影が残っている。入口にほど近い、端の壁画前。マルカのように立ち尽くす、小さき人影がとりわけ視線を惹く。
 「あの子供は?」
 「彼のお母様が、司祭とお話し中だから待っているの」
 そう教えられて、祭壇付近で話し込む男女の方を見る。黒のヴェールを被った淑女の顔は見通せないが、長身で肩がすっきりと直角に伸び、真っ直ぐな姿勢が高貴な身分であろうことは間違いないと直感が告げている。
 緩やかに波打つ金髪を持つ少年は、教会内に飾られている壁画をじっくりと観察している。背丈は小さく、年の頃は十歳前後。良質な生地。仕立ての良いグレーのブレザーに縦縞のトラウザーズ。よく磨かれたチャコールグレーの革靴。ポーラーハットを抱え、手にはステッキが握られている。淑女の子供であろうことは一目瞭然で、背格好と、教会内のどこを見渡しても、その少年の身なりに相応しいのを彼女以外見つけられないからである。
 「帰りますよ」
 「はい。お母様」
 話し終えた淑女は、身廊を通過し、扉口前に待つ少年のところへ行った。教会の前には複数の、これまた見事な濃紺と金の制服の従者が親子を待っている。母の後について、少年は帽子を被り直した。門前には白のリムジンが控えている。車体の何処かに紋章が刻まれているはずだが、マルカのいる場所からは遠すぎて見えない。だが、階級は貴族階級以上であろう。
 「……貴族の方ですか?」
 「貴族どころか。皇族であらせられますよ。当教会には寄付をいただいていて……」
 「……皇族はペンドラゴンの方にお住まいでは?」
 「特別な待遇を受けられているようですよ」
 皇族の数は多く、妃もその子供の数も増え続けている。国内の貴族をまとめ上げ、経済を活性化させ、帝国の繁栄の地盤を築いた、九八代皇帝シャルル・ジ・ブリタニア。小国時代には想像つかなかいほどの大繁栄。ブリタニア国内以外からも多くの女性が輿入れし、帝国の血肉を供給し続けている。


 いつのことだろう。
 綺羅びやかな大広間のシャンデリアの上に、迷い込んだ蝶が留まり続けていた。誰もそのことに気づかず、仲間も助けに来ず、時折翅をはためかせて舞う一匹を憐れみ、夜中にこっそり脚立を引き摺って、助けに行ってやろうと考えていた。
 ――『こちら、リヒテンシュタイン公国のフランツ・ヨゼフ・フォン・ホーエンタール殿下でございます』
 侍従が滑らかに名前を紹介する声で、王女の視線は天井から地上へ移った。
 ――『ティラナ王女殿下。お初にお目にかかります。お噂はかねがね伺っております』
 リヒテンシュタイン公国元首の弟ホーエンタール公は、細くしなやかな体を優雅に丸め胸に手をあてた。もみあげから続く口髭は成熟の証。年齢は二十代半ばらしいが、見た目以上に老けて見える。
 法定推定相続人と相成り、次に始まったのはお妃選びならぬ、お婿選びであった。急いているとは誰もが理解していた。世間一般の口約束程の婚約などでもなく、しっかりと書状を交わし、署名も必要となるというのだから、事はかなり大袈裟なほど真面目である。気乗りのしない王女よりも、周囲の大人の方に熱が入っていた。月に一度ほど、どこからともなく候補が現れては、顔を合わせる選定の場が設けられていた。見合いとは名ばかりで、常に王女側に決定権があった。

 ――『年齢がかなり高いわ』
 ホーエンタール公が去った後。王女は、率直な感想を侍従長ハーゲンに零した。彼は、その気になるように相手の調書から得た情報を常に頭の中にストックしているようで、すらすらと長所を述べた。
 ――『殿下は研究職に就かれておいでですし、姫様ともお話しが合うかと存じます』
 ――『職業の問題ではないわ。……考えてもみて? 私が成人したとき、彼は三十代後半よ? 大昔なら老齢よ。……それに、生物学的にも生殖適齢期としてはピークが……』
 ハーゲンは咳払いし、王女の言葉を遮るように『王女様。今は、現代でございます』と言った。
 遠回しに嫌だ≠ニ伝えているが、大人には深い政治的な事情もある。王女は敗けじと、ホーエンタールが将来の伴侶に相応しくないと思う情報を仕入れていたので、それを口に出した。
 ――『あとは、そう。……とっても遊び人だって聞いたわ。彼、国中の三分の一の女性を口説き落としているって話よ』
 ――『ええ……これにつきましては、公殿下ご自身の道徳心に委ねられますが……』
 ――『そうでしょう!? リヒテンシュタインのあの小さな国で三分の一よ? 殆どお手つきってことよ! 結婚なんてしたら国民の何割かが反対するのは反民主主義といえるのではなくて? ……串刺し姫は御免よ』
 リヒテンシュタイン公国の女性人口は約二万人程度。その三分の一。約六.六千人である。噂に尾ひれがつき拡大解釈で盛られた数字であることは、言うまでもない。
 ――『では、ルクセンブルク大公弟のアロイス殿下をお招きいたしましょうか』
 侍従長の新たな提案。王女は、椅子に座り、足をぶらぶらと遊ばせて、ぶっきらぼうに言った。
 ――『アロイス殿下って……今年成人されたばかりの?』
 ――『お詳しい。その通りでございます。大公弟は、大公よりも十五ほど齢が離れておいでで……』
 ――『ご説明、親切にありがとう。いただいた、なが〜いリストには目を通してあります』
 ならば話が早いと情報を省略し、ハーゲンは懸念点を先に洗い出して念を押した。
 ――『女性との噂話も少なく……軍経験もおありで、厳しい規律にも慣れておいでです。宗派も問題ございません』
 ――『……む……』
 ――『姫様?』
 王女は口を尖らせて唸った。ルクセンブルクの名でピンと来なかったが、経歴を聞いているうちにあることを思い出したのだった。
 『……むむう……』と、王女はさらに深く唸った。
 先に、オランダ、ベルギーからも適齢期の王子の名で申し込みがあった。辛うじて年齢が近い王子らは年相応といってよく。誰も美しい詩の話や、音楽の話、投資の話や知的好奇心を満たす話に興味はなく、領地やお雇いのコックやパティシエのつくるお菓子、偉大なる君主の話ばかり。身の回りにある宝物の話を一生懸命にするが、さほど深みはなく、自慢話の領域から飛び越えた者はいない。
 ――君主になるのは、私なのだけれど。
 幼い王子であれば、どれほど大きな野望を語ろうとも、自身の立場が将来二番目≠ノなることを知らないし、ある程度常識を弁えた年頃の王子は二番目≠ノ収まることに不服で遠回しな嫌味を口にする。
 ――『スペインのマリアナ姫から教えてもらったわ。彼には実は好きな人がいるって』
 ――『真でございますか?』
 ――『どう嘘をつくのよ。マリアナは結婚したばかりで、彼女がアロイス殿下のことが好きって可能性はないわ。……たぶん。……私が仮に、もしもの話、アロイス殿下がいいなんて言ったら、ふたりは引き裂かれちゃうのよ。そういうことはしたくないわ。……あ、政略結婚はそういうものだってお説教はナシ!』
 王女は不貞腐れるようにそっぽを向いて、『そもそも。許嫁を決めるなんて早いと思わない?』と、不毛な現状への抑止力を願った。
 ――『恐れながら。ごく平均的な時期かと存じます』
 ハーゲンは多くの事例を鑑みて否定した。王女は恨めしげに彼を睨んだ。
 ――『……それじゃあ、なあに? みんなは黙って受け入れるのに、私ときたら妥協知らずの、アレコレ要求の多い面倒なお姫様ってこと?』
 ――『そのようなつもりではございませんが』
 王子たちは子供だが、大人と子供の識別は出来る年齢だ。猫を被ることもする。たとえば大人の前ではいい子のふりをすることさえあるし、ふとした瞬間に、本音や素の本性を悟らせる一面を見せる。王女は『あなたの前じゃ、みんないい子のふりをするし……』と続けた。
 ――『前例が少ないから、どうしたらいいかわからないけれど……二番目になるのをみんな嫌がるわ。だいたいみんな次男だから余計にそう感じるのかも。長男は国を継ぐのに、自分は女よりも下だ≠チて……やっぱり惨めな思いを抱えることになる?』
 ハーゲンは驚きを隠さず、躊躇いがちに『人によりけりかと……』と返した。
 そんな風に、相応しいものばかりを求めて条件を狭めていくと、地球上にいる王子は絶滅してしまうだろう。ならば条件を引き下げる必要がある。
 ――『国内の男の人じゃだめ?』
 ――『貴賤結婚にあたりますし……それこそお相手の方の荷が重いでしょう』
 ――『その考えは……、それこそ、少し古いとは思わない? お母様だって貴族よ』
 ――『ユスティナ様は国王を輩出したポニャトフスキ家の血筋でありますし、並みの貴族とは理由が異なります』
 ――『並みの貴族なんていないわ。祖先を辿ればみんな王族のはずよ。……そうだ。ブリタニアでは、あまり拘っていないわよ? ……現皇帝は平民からお妃様をお迎えになっているもの』
 ――『あちらは旧英国貴族、リカルド公の傍流の血筋でございます』
 御由緒の話がみんな好きだ。歴史の教科書を開けば、先祖が一緒だとか、敵同士であるとか。人生そのものが研究対象のモルモットだ。
 定番の切り返しを食らい、王女は頬を膨らませた。
 ――『むううぅ……次で最後にするわ。決まらないならしばらくこのお話は置いておきましょう。また決まらなかったら……ヘンな噂がたって、心配され通しだもの。それに私には将来のお婿さんを決めることより、やるべき事がいっぱいあるのはご存知でしょ? ハーゲン』
 ――『勿論、承知しております。しかし、姫様。貴女様は法定推定相続人でございます。いくら醜聞を晒そうが、早々にお決めになっていただかなくてはなりません』
 ハーゲンの申すことも正当性があるが、そうやって背中を押されると大多数の者の望みのなかに、女王不要論≠ェ透けて見える。一種のジンクスであり、信用に能わぬ言説と理解しつつも、頭の片隅に存在していた。
 ――『……あなたもジンクスを信じている?』
 ――『ジンクス?』
 ハーゲンはまるで初めて耳にしたように首を傾げた。
 ――『女王の時代はとっても短いし、不吉なことがたくさん起こるとされているわ。とっても不安なのはわかるけれど。……だからお父様が少しでも長く玉座に座っていただくために、努力しているじゃない』
 ――『姫様が、ご病弱の陛下を誰よりも労っておいでなのは……周知の事実でございますよ』
 彼は膝をつき、王女の目線に合わせて酷く気遣った。
 ――『お父様を……安心させてあげた方がいいっていう、アドバイス?』
 ティラナが女王になることや王女であることなど関係無しに、早期に世継ぎを儲けることが父親への孝行であり、国の安寧である。ハーゲンの無言は肯定しているように思えた。器であり役割であり、ティラナなどどこにもいないし、真に必要ではないのかもしれない。唯一性を羨まれることが幸福だとは思わない。それは、機能としては致命的な欠陥だからだ。
 ――……こんな家に生まれなければよかったわ。
 あれだけ宙を飛び回っていたはずなのに、疲れ果てた蝶は、奇麗な翅を絨毯の上に散らしていた。




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午前四時の異邦人
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