Mary On A CrossV







 a.t.b.二〇一一 April
 ブリタニア ヒューストン・ベルフォート離宮


 シュナイゼル・エル・ブリタニアが、東ブリタニアにある皇室所有の離宮ベルフォートに到着したのは、午前零時を回ったところだった。
 春の夜雨が足元の照明を霞ませ、露に濡れる濃緑。赤く艶美に染まる茨の園。その庭を抜た先にある、小ぢんまりとした離れは懐古のロマネスク建築を復刻したもので、素材となる石の色が淡い照明によって闇世の中にぼんやりと白く浮き上がって見える。月影のない夜。冷風が足元を冷やし、薔薇の甘い薫香は水気に吸い取られ、嗅覚を曖昧にする。
 有力な証人の滞在が許されていた。
 内線で到着の知らせを受けた現地捜査官のステーマーは、二階から一階へ音をたてずに駆け下りた。玄関ホールでは、長身の青年が濡れたコートを従者に脱がせられているところで、象徴的な金髪が雨露に湿り暗所において妖しく輝いている。彼は、首だけを傾けてステーマーを見た。
 「遅くなってしまったかな」
 「いいえ。……お二方は……殿下がお越しになるまで何も話したくない、と」
 「黙秘している? ……食事にも手をつけていないと聞いたけれど」
 「はい。……我々を信用しているわけではなさそうです」
 ステーマーは体の横にぴったりと腕をくっつけて、階段の中央を開けるよう端に立った。
 「無理もない。……そうだ、夜食の準備を始めてくれるかな。お腹が空いている」
 「Yes, Your Highness」と外套を預かった従者が答え、頭を下げた。別の従者が替わって乾いたタオルを差し出し、シュナイゼルはごく自然な手つきで受け取った。
 「食事の時間もままならなくてね。空港では熱烈な出待ちもいて、出発に時間がかかった」
 「……お二方がお待ちです」
 「彼らの分も頼むよ」
 従者は再度承諾の返事をし、ホールの柱の狭間に飾られている甲冑の騎士の如く不動の姿勢をとった。
 
 豪華な調度品が彩るリビングルームでは、見てすぐに異質だと判る二人の男が、長いソファに浅く腰掛けている。
 その日、ベルフォートの主人の登場に二名の博士は、椅子からもたつきながら起立した。二人に共通しているのは、体は強張り、縦に細長く、痩けた頬。乾燥した老木のような体躯の男と、殆ど髭で埋まった白髪の背の丸まった男。日光を浴びていないせいなのか、肌だけは異様に白くキメが細かい。着の身着のまま逃げ出したらしく、コートはくたくたによれ、スーツの型はかなり古い。手首周りにはほつれと、元々真っ白だったはずのシャツはやや黄ばんでいる。
 一張羅の出で立ち。シュナイゼルは室内にいる従者に目だけで呼び寄せた。
 「……すみません。お二方が……」
 ひそりと従者が囁いた。
 保護から一日半。重要参考人ではあるが、囚人ではない。見窄らしい格好のまま、基本的なもてなしも済んでいないのは儀礼違反だ。
 「構わないよ。……私の到着を待って、真実であるかを確かめようとしているだけだ。食事の準備が整うまでに、着替えを勧めて差し上げてくれるかな」
 「Yes, Your Highness」
 従者は目礼し、二人の男に近寄った。途端、膝から崩れ落ちるようにして、長身の直角の肩を持つ男が謝罪を口走った。
 「もうしわけ……、申し訳ございません……っ! ……シュナイゼル殿下! わ……我々は……」
 絨毯の上に両膝をつき掠れ声でDr.シュミーダーが叫んだ。
 「我々は……悪魔に魂を、売った……!」
 膝を掴むように置かれた両手は、その皮膚がアルコール負けし赤く酷く荒れ、痩せた指の中で一際、薬指で空回りする金環だけが異彩を放っている。その隣に曲がった姿勢のDr.アングレームは、口髭に埋もれた表情の中で、深い後悔を露わにしていた。彼らは客人≠ナはなく、自ら囚人≠選んだ。
 雨の勢いが強まった。
 「カノン」
 遅れて到着したカノンに呼びかける。彼は静かに窓際に寄り、厚いカーテンを引いた。
 「……お話しする前に、何か召し上がってください。……温かい紅茶を用意させましょう」
 「感謝申し上げます……」
 Dr.シュミーダーの声は潤み、か細く、震えている。物乞いがパンかワインを恵んで貰い随喜の涙を流すように。
 シュナイゼルは従者の方に視線をやり、片眉を持ち上げた。食事よりも話しが先になりそうだと。彼らが欲しいのは、食事よりも断罪かもしれない。食事の時間が遠のいたのを諦めて、シュナイゼルはその長身を一人掛けのソファに沈めた。
 「……それでは、始めましょうか。長らくお待たせしてしまい申し訳ございません。……Dr.シュミーダー、Dr.アングレーム。どうぞお掛けください」
 二人は言葉に従い、しずしずと長椅子の元いた位置に腰をおさめた。
 「通報するに至った経緯と……王女の現在の行方についてご存知ありませんか」
 質問にいち早く反応を示したのはDr.アングレームの方だった。彼は目を見開き、動揺を隠さなかった。
 「王女さま……王女さまの……現在……? どこまで……ご存知なのですか……?」
 Dr.シュミーダーが、混乱を打ち消すように口を切った。
 「出頭の経緯は……、王女様が、我々にそうするようにと……お命じになられたからでございます」
 「王女が命じたのだね。……彼女は、記憶を取り戻していたのかい?」
 ぴくりとDr.シュミーダーの眉が跳ねた。
 「……捜査官から粗方伝えさせてあるはずだが。……私たちは三年前から捜索を始めている。……彼女が、ノエル・アストリアスだった頃からね」
 「左様、で……ございますか」
 鈍い返事のなかに、諦観が感じ取れる。
 「彼女が、そのきっかけを作った。……思い切った決断力と証拠がなければ、我々は永久に失うところだったでしょう。……何もご存知でない?」
 Dr.アングレームが口を開いた。
 「私共は……外に出ることはおろか、情報にも乏しく。……監視される生活のなかで、常に……その……手術を強要されていました。被験者の……入れ替える……ために……体を……」
 「承知しています。すべて。……手法も、使用薬品も、マインドコントロールに、犠牲者とその数も。無論、首謀者のことも」 
 Dr.アングレームの目尻から、透明な筋が光った。
 「殿下……、如何なさるおつもりですか」
 「……どう、とは?」
 Dr.シュミーダーの問いに、シュナイゼルは首を捻った。
 「あの卑劣漢は……一筋縄ではいきませぬ。……奇術師のように人の心を弄ぶ……! それで何度、……心を捻じ曲げられたことか……」
 卑劣漢ことサロニア公爵の手口に関する詳らかな証言に、シュナイゼルはかつて、ノエルが書き残していた証拠の中にあった催眠術≠フことだと思い至った。
 「貴方がたも、洗脳、いや……催眠術を受けたということですか?」
 「催眠術……、ええ……おそらくは……いや……、それにしては一瞬の出来事で……神通力のような働きで」
 言葉に表すには難しいと彼は唸った。
 「……催眠術と言ったのは、王女が残した言葉です。彼女は何度かそれにかけられ、私の暗殺を企図していたが、実行に至らなかった。ですが……本当の話であるなら、私もいくつかの事象に遭遇しているといえます」
 「なんですと……?」
 実にありえないと言わんばかりに、両者は互いに目配せし動揺を隠さなかった。そして、ある懸念に差し当たり、次第にDr.シュミーダーの顔は蒼白となり、息を呑む声が聞こえた。
 「お待ちください……それでは……、国王夫妻が崩御されたのは……」
 彼らは実に何も知らないまま、十年の年月を過ごしたようだ。あまりにも長い期間。
 あの二〇〇〇年の中に閉じ込められたまま、ひたすら犯罪に加担し、恐怖と生命の危機と隣り合わせの環境にいた。酷なことと理解しつつ、シュナイゼルは真実を告げることに躊躇しなかった。
 「……詳述は割愛しますが、クーデターには多くの扇動≠ェあったことでしょう。当時、私の護衛用に駐留させていたブリタニア軍の第二世代KMFが、モル・タスカン山にて命令ののない稼働が認められた。機体記録が議会で取沙汰され、多くの非難に晒された。第三者委員会による調査で、搭乗者の兵士は記憶にない≠ニ回答しています。……また、先王夫妻の死因は青酸カリによるもので、その後別件の被害者の毒殺にも同様の手口が用いられています」
 「ああ……」とどちらともなく、言葉にならぬ溜息が場を支配する。
 「サロニア公がなにか、特別な催眠術の能力を持っている事は否定しません。記憶の欠損を引き起こし、……本人の意思を捻じ曲げる効果さえあるのではないかと考えています。多くの事例を確認し、この目で実際にその場を目撃したこともある」
 シュナイゼルの言葉を受けてDr.アングレームが、ゆっくりと頷いた。
 「私たちは、……あの男……サロニア公爵に呼び立てられ、……陛下との禁忌の実験に関する秘密を世間に暴露すると……脅されたのでございます。……いつどこで、その情報を見聞きしたのか……ともかく全てが筒抜けで……。その暴露がなされれば……ゆくゆくは王女さまのお立場にも皺寄せがいくと考えて……やむを得ず、協力を……」
 「その話は、クーデター直後の話ですね?」
 「……はい」
 そこで言葉が切れ、深い沈黙が流れた。
 「経緯については掴めました。それで……話を戻しますが、王女の現在の行方についてはご存知ありませんか。記憶についても」
 Dr.シュミーダーは視線を巡らせて緩やかに語り始めた。
 「まず……記憶からですが……一時的な回復だと、考えております。薬物のショックによる幼児退行といいましょうか……」
 「リフレインの投与を?」
 「ええ……、ああ……そこまで、ご存知でありましたか」
 それは軽薄な響きを伴っていた。窓際に立つカノンが、不快そうに眉を顰めた。
 引き続きDr.シュミーダーは述べる。
 「王女さまが何をご覧になったのかは、存じませぬが……それを、命令を実行しなければ、我々の命が脅かされる状況にございました」
 「詭弁ね」
 冷ややかな指摘に、かつての権威も威光も廃れた男は身を小さくした。
 「お二人の他に専門のドクターがいるなら、今日まで生存を許すはずがないわ。安全は保証されていたはずです」
 彼は自分の立場を思い出し、私情を挟んだことを詫びた。
 「出過ぎた発言をお許しください。殿下」
 「……君の意見はもっともだよ。カノン」
 いかなる理由があろうとも、彼らの罪は重く、果てがない。
 「尊体を徒に傷つけた」
 シュナイゼルの言葉に、両者は虚を突かれたかのように目を開け、愕然とし、力なく項垂れた。
 空気が張り詰める。たった一言で二人の男を縛り付け、服従の姿勢に至らしめるには十分過ぎるほどの効力があった。四角い肩を落とし、Dr.シュミーダーは顔を片手で押さえつけては、声にもならぬ苦悶の唸り声をあげる。
 王とは聖別を受け、神によりその権威を授からんとする。信仰をその肉体に一身に宿す者であり、即ち聖体に等しい。保身のためといえども彼らの行為は国家への反逆≠ニいっても間違いない。
 「サロニア公の目的を尋ねても?」
 「……扉を……」
 「扉を?」
 「扉を開放させることを、望んでおられるようでした。その扉が、何かの暗号なのか、実在するものか、どこにあるのかは……王女さまでしか知り得ぬことでしょう」
 今一度、シュナイゼルはリフレインの効能についてカノンに尋ねた。
 「……リフレインの効果は、過去の記憶の反芻だったかな?」
 「はい。強い幻覚症状を発症します」
 「なるほど。よくわかったよ。彼の執念深さが。……さながらショック療法といったところのようだ。……それで、現在の彼女の姿は……誰≠ナ、どこにいるのかな?」
 はっと顔を上げたDr.シュミーダーは、憚られると濁した。だが、もはや隠し通すことは不可能だと悟ったのか、声を絞り出して詳細を語りだした。
 「サロニア公の御息女……いえ……正確には、非公式の……ええ……非公認のお相手の方との間にお生まれになった……」
 「……マルカ?」
 シュナイゼルの出した名前に、彼らの絶望の色が濃くなる。
 「セイル王の企てた影武者計画。……最初の犠牲者だ。……だが、残念なことに彼女は亡くなってしまった」
 「そんな……!?」
 勢いよくDr.シュミーダーは腰を浮かせた。シュナイゼルはふうと息を吐き、彼を見上げた。
 「……貴方がたは本当に……情報を何も与えられず、施設にいたようだね」
 Dr.アングレームが施設について触れた。
 「……施設は、地下にありました。地上への出口は一箇所。抜け穴もあるでしょうが……監視要員を考慮すれば出入り口は、少なければ少ないほうがいい」
 そこに捜査官のステーマーが、大判の茶封筒から該当資料の束を引っ張り出してきた。
 「殿下。押収した資料です。……地下にはまだ、収容者がいましたが全員解放済みで、病院に搬送してあります」
 「チェックしよう」
 小辞典ほどの厚さにもなる資料には、大量の付箋が貼られている。紫は最重要を意味し、シュナイゼルは迷いなく十三ほどの紫付箋を順に確認していった。現場に入った捜査官の撮影した写真もあり、冷たいタイル張りの手術室、鉄格子のある廊下の左右には独房のような簡素なベッドと簡易トイレが見て取れる。ベッドの上で囚人が横たわり、廊下に向けて足を向けている。そして全員が点滴のチューブに繋がれ、酸素吸入器を装着している無機質な監獄である。
 ダミアンの手術に携わったゼーバッハ医師が、低品質な薬品を多用し、臓器が一部癒着している痕跡から、収容施設での医療環境は劣悪ではないかと見解を述べていた。
 「……こちらの女性ですか?」
 カノンが資料にクリップされた写真を覗き込んだ。
 「ああ。……マルカだ。……私の知る彼女はティラナの姿をしているから、馴染まないが……きわめて悪質な&マ身だよ」
 マグショット写真の金髪碧眼の女の顔。シュナイゼルはその顔がすぐにティラナの母、ユスティナに酷似していることに気づいた。サロニア公爵の願望がすべて昇華された傑作。
 「殿下。彼女の行方は追えそうです」
 「なにか手がかりがあるのかい」
 「アン・バーナード殺害事件です。数日前からニュースでやっている……その事件で、この顔に似た女性が指名手配されています」
 カノンの説明に強く反応を示したのは、Dr.シュミーダーだった。
 「Dr.シュミーダー。アン・バーナードをご存知でしたか」
 「ええ。その……バーナードは……偽名です。……本名はナターリア・フィッツ=オーブリー。……サロニア公の愛人でございます。フィッツ=オーブリーは貴族名鑑をご参照いただくと古い公爵号に行き当たるでしょう」
 「マルカは……彼とこの女性との間に生まれた子供だ」
 資料には本物のマルカに関する情報がいくつか載っている。生後間もなくローモロー孤児院に預けられ、八歳頃に里親に引き取られている。里親宅では酷い火傷を負う。当時、治癒促進シートの実用化後、各病院で実施されていた臨床医療でマルカは好条件の患者となった。
 「王女さまは……その資料をご覧になり……彼女のもとを訪ねると仰せに……」Dr.アングレームの言葉を背後に、サロニア公の今後の推測を立て、「ふむ」とシュナイゼルは納得した。彼は、マルカを追い詰めるだろう。殺しはしない。あらゆる手を尽くし、求める記憶を手に入れるまで試みる。
 「カノン。この事件の担当はニューヨーク警察かい」
 「問い合わせますか」
 「介入し、情報を回すように頼んで」
 「Yes, Your Highness」
 シュナイゼルは資料を膝上に置き、二人の男を見据えた。
 「他に、彼女はなにか……言い残していたことはあるかな」
 「……殺す=vと呟いたDr.シュミーダーに視線が集まる。ちょうど去りかけたカノンの足がぴたりと止まり、そのまま振り返った。
 「……あの男を、殺す=c…とだけ。……そして、私たちは……叱責を賜った。……何度も肉体を換えた影響か、全身麻酔の持続時間が減少し……五か月も必要で……。薬品の供給も滞るようになったので……内臓の再生には足らず、不完全な目覚めであったことは間違いないでしょう。……王女さまは……夢現に私たちに呼びかけ、出頭までの時間を稼ぐために、注射器と麻酔薬……他に、リフレインの残数を尋ねられました。私どもは、ご一緒に保護を申し出るようお引き留めを致しましたが……ご意志が堅く……」
 「それで、ノコノコ二人だけで出てきたっていうの?!」
 「カノン」
 凄まじい爆発にシュナイゼルは窘めるが、本来の直情的な性質を抑え込めるほどの真実はどこにもない。博士らは責められることを当然とし、粛々と話し続けた。
 「……ごもっともでございます。……出頭するには、段階的に……準備が必要でした。他にも収容者がいましたし、全員が二十四時間以内に不慮の事態に陥らぬようコンディションを揃えるには……。王女さまご自身が囮になり、彼らの目を逸らす時間が。……その他にも、監視員の排除も必要でしたから。……アン・バーナードの元を訪ねたのは、弱みを握るためだったのでしょう。……彼女は多くの場合においてサロニア公の仲介者でもありました。クレジットカード、口座、証券口座、株式……足がつかないように、組織の構成員達への給与として支払いを行っていたようですし……ペーパーカンパニーの名義もあるかと」
 「リフレインで、その情報を監視員に自白させた?」――シュナイゼルが尋ねた。
 「……はい」
 「彼女なら、やりかねない。……とすると……王女がアン・バーナードの殺害の容疑にかけられている今、サロニア公は相当焦っているか、組織内での瓦解もすでに起き始めている可能性さえある。……これは、チェックも近いね。我々のクイーンは素晴らしい働きをみせている」
 肩を揺らしてシュナイゼルは笑った。
 「カノン。本部のラキーユに共有した後、警察との渉外に注意のうえ、独自班に包囲網作戦の展開を開始するよう命令を」
 「Yes, Your Highness」
 カノンはリビングルームの大扉を開けた。シュナイゼルは柱時計をたしかめた。夜は深まりすぎた。決定的な交渉を持ちかけるには、今日ではない。資料をステーマーに手渡し、シャツのボタンを一つ開けると緩慢に立ち上がった。
 「……夜も遅い。食事と紅茶を部屋に持って行かせます。お二方はお休みになってください」
 男二人は揃いもそろって何か言いかけたがそのままやり過ごし、深々と頭を下げた。


 水中を彷徨うようなふざけた気怠さと灰色の視界。廃水か泥水に泳ぐ魚に生まれたほうが幸せだ。
 ――『いつまで続けるんだ』
 ――『私語を慎め……』
 音は不明瞭に馬鹿らしいほど大袈裟に大きくなったり小さくなったり、気持ち悪く聞こえる。
 ――『しかし……我々の命が……』
 無影灯直下で腹を割かれている時に、目覚めるのは二度目だ。
 ――『ああっ……』
 ――『お目覚めになられたようです』
 手術着に血液が噴射したが、それほど驚いている様子ではない。麻酔の効きが悪い。早く増やして欲しいと願っていると、頭上で影が動いた。マスク越しに誰が誰だかはっきりしない。暫くすると意識が歪み始め、強い光がかき混ぜられていく。再び、耳元でぼそぼそと話す声だけが残り、彼らのやり取りが延々と続いた。
 ――『あぁ……量が足りなかったか。いや、効き目がなかったのか』
 ――『脳機能の低下を引き起こす――それにしても……』
 ホワイトアウト。消し飛んだ空白の先――鈍色の埃っぽい天井の陰の中で『わたし』は死の秒針を数えた。足元の通路には一日三度、影が通り過ぎる。定期的な観察にやってきては記録をして、どこかへ消えてしまう。頭はからっぽで、恐いとか、悲しいとか、嬉しいとかの感情も、何かをしなければならない焦燥感も不安もない。石像に生まれ変わった心地は、時間の経過さえ気にならなかった。横たわり、目を開けたり閉じたりして、そういえば、こんな風にしていつも誰か≠ェ始まるのを繰り返してきたのだと思い出すと――不思議なことに今は、誰だろう≠ニ気づき、するすると見知った問題を解く時のやり方を勝手に思い出していった。頑なに閉じていた蓋を少しだけ開けていくと、胸に痛みが走る。針金を挿し込んで、心臓を取り出そうと試みるように。
 人影がやってくる。数えて七七回目の訪問。本当はそれよりも多くの日々が過ぎているだろう。
 彼は慎重な手つきで『わたし』の体を触診し、呼吸音を聞き、バイタルをチェックした。
 ――『はじ、を……しりなさい、あなた……』
 『わたし』は自分自身の唇の動きがわからなかったが、そんな音を、言葉を発していた。彼は暗がりの中で慌ててもう一人を呼んだ。四つの眼が『わたし』を見下ろし、そして膝を折り、指で十字を切った。


 
 a.t.b.二〇一一 April
 ブリタニア ニューヨーク・グレース地区教会  

 
 [昨日、ニューヨーク市グレース地区のアンダーストリートにおいて、極めて凄惨な凶悪事件が発生しました。地元警察の発表によりますと、現場では複数の男性が倒れているのが発見されましたが、いずれも鋭利な刃物のようなもので下腹部を切除されるという、極めて異様な状態で放置されていたとのことです。現場付近の防犯カメラには犯人とみられる人物の姿が記録されており、当局は現在、映像の解析を進めるとともに容疑者の特定を急いでいます。犯人は現在も刃物を持ったまま逃走中とみられ、警察は近隣住民に対し、不要不急の外出を控えるとともに、不審な人物を見かけた際は直ちに通報するよう強く呼びかけています――]
 修道院のコモンルームにある、小さなテレビモニターの色褪せた色彩は、ごくごく近隣の風景を映し出している。画面の中では、リポーターが訴えかけるような険しい表情で、事件のあらましをマイクに吹き込んでいる。モニターの中のテロップと、被害者の顔写真と名前が表示される。貰った修道服に内ポケットを繕っている手が止まった。マルカには、その顔に見覚えがあったからだ。
 「……この男たち……」
 ニュースは同じ内容を繰り返した。
 数日前の夜。マルカに声をかけてきた男達の顔写真がめいっぱい映っている。遺体が発見されたのは翌朝で、周辺の防犯カメラでの捜査が進められているそうだ。すると、警察はフードを被った人物について、事情聴取を始めているに違いない。
 アン・バーナード事件のことを思い出した時。ちょうどニュースの方でも、アン・バーナードの容疑者と同一犯である可能性があるとぼやけた映像の女の姿を明らかにした。どくりと心臓が不自然な驚き方をした。無意識に握り込んだ針先が、手のひらに傷をつけた。痛みを感じなかった。
 ――この教会に、長居はできない。
 警察は教会にやってくるだろうか。
 この修道院に寝泊まりしだしてから数日、外には出ていない。街中での捜査は進められているが、どんな風になっているかは知らない。もしも、防犯カメラの映像解析結果ではっきりと面が割れれば、前者の事件と同一犯が確定し、捜査が本格化するだろう。逃亡を続けるのであれば、今のうちに手を打つ必要があった。なにより――。
 「マルカ。すこし手伝っていただけないかしら」
 「は、はい」
 コモンルームに突然朗らかな声が反響し、マルカは慌ててテレビを消した。シスターは袖を捲り上げて、コップの水を飲んで何の気なしに仕事に誘った。
 「重いものを運ぶのは得意? 畑で野菜の収穫を始めているの」
 「もちろん……」
 声に覇気はなく、緊張で震えていた。教会の人々は、ニュースを把握していないのだろうか。
 いいや、とマルカは首を振る。今はそうでも、いずれ知ることになるだろう。もし、彼らがマルカを疑い始めたならば迷わず警察に引き渡すだろうし、そうなってしまっては手遅れだ。
 ――あの男は、マルカが施設から逃げ出したのを知っている。
 あの男に捕まれば、次に待ち受けているのは、死だ。二名の博士が安全に逃亡し、保護されているのかさえ今のところ知る手立てがないが。
 施設の脱走から半月。あの男はいよいよ公権力を操作し、マルカを追い詰めようとしているのだろう。
 シスターの呼ぶ声を振り切り、マルカはコモンルームを飛び出して、割り当てられた個室に走った。ベッドの枕をひっくり返し、隠し持っていた拳銃の弾数を調べた。十二発ある。地下収容施設で監視員から盗み取った代物である。
 「……武器はこれだけ」
 あの男は必ず『わたし』を捜しだして捕まえるだろう。問題はただひとつ、一対一に持ち込むにはどのような条件が必要なのかが、マルカにはわからなかった。




65
午前四時の異邦人
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