生え揃う芝生一面が、春の黄色い光に染まる。
開かれた白塗りの扉の向こう。大人の指と子供の指が混ざり合う。それぞれ乗った黒鍵と白鍵が凹凸に沈み込み、張った弦が音を弾き出す。踏まれるペダルがボコボコと底を打ち、音は伸びたり縮んだり、強くなったり弱くなったりを繰り返す。
女は鼻歌で旋律を取り、スローテンポで音の隙間をつくる。
「ふふ〜ふ〜ん……そこ、Aを押してください。A〜……、二箇所同時にA〜」
白く爪先まで精巧に仕上げられたビスクドールのような繊細な指が、女の広げる指の中のAの鍵盤を力不足気味に押し込む。
「そうそう。上手。綺麗に重なりました」
紡ぎたての糸のごとく滑らかな金色が、細かな艶をぴかりと反射する。小さな頭の頂上の旋毛から、くるんと丸まる毛先。俯く陰から覗く睫毛。甘く擦り寄せたくなる、ふっくらと丸い輪郭の頬。
「……どうしたの?」
朝を呼ぶ透明な紫眼が『わたし』を心配そうに下から覗き込む。脳のなかにあるコードをチリチリと焼く刺激。焦げ臭く、脆い断片的な景色。
鍵盤が不協和音を奏でる。
「……どこか、具合が悪いの?」
蹲る横から影が差し込む。丁寧に切り揃えられた爪を持つ指が、柔らかくやさしく手の甲に触れ、目眩の中に多層的な残像が視えた。次に鼻腔に侵入する、甘い。甘いにおい。薔薇のにおい。白い薔薇の。土の感触が蘇ってくる。
「ここに……薔薇は咲いてる?」
「薔薇? このお屋敷にはないけれど……セントダーウィンの宮殿にはあるよ。お母様もお気に入りなんだ。あそこは」
瞼の裏の暗闇のずっと向こうに、夏の明るい真夜中の薔薇の庭が浮かび上がってくる。迷路のような庭の中で、ドレスを持ち上げる手。六本の白い柱――白い薔薇のベッド。ガゼボの中の、サンドイッチ。口の中で刺激が弾ける、甘酸っぱいレモネードの芳香――。
「そうだ。今度一緒に見よう。お母様にお願いしてみるよ」
祈りの時間の囁きよりも、優しい吐息が耳元を掠める。
「……私がご一緒だなんて。なにかの仕来りに反します。殿下」
「そんなことない。もしもお願いが聞き届けられないのなら、この家を離れてウィルゴに戻る決心だってする」
彼はいつだって、誰かの後ろを歩いている。巨大な兄の影を追いかけて。優秀な兄に比べられて。少年の名前が呼ばれるのは常に二番目だ。彼の弟。失敗のしない兄の二番目に求められることは少なく、危うい自己を抱えている。だから、その言葉はせめてもの反抗心からきているのだろう。
「……駆け引きをなさるの? 会えなくなってしまうわ」
「貴女も一緒に行くんだよ」
「え?」
女は驚いた。地平線が混ざり合うところ。空と森林の瞳が迫っていた。
「マルカがどこにも行くあてがないの、知ってるよ。……それなら、僕と一緒にいればいいよ」
「……ですが」
「兄さまだって、僕の頃の年齢には将来を誓いあった方がいたんだ。……僕に真似を求めるなら、これくらいお許しいただかなければ……不公平だよ」
甲に重なる温かな手が、ゆっくりと表面の皮膚を撫でた。少年は弟だが、年齢に似合わない知性と感性を備えている。
「大丈夫だよ。マルカと行くところなら、どんなところだって楽しいに決まってる」
頬に柔らかな唇の感触を受ける。それが初めてではないことのような。埋もれた記憶の山のどこからか音がした。
a.t.b.二〇一一 April
ブリタニア ニューヨーク・グレース地区教会
ステンドグラスの色を纏う七色の光が、オルガンの重低音が絡み、堂内の空気をきらきらと揺らしている。鍵盤を司る迷いのない運指。清澄なソプラノの子どもの声が放射状に広がるアーチの集合点である天井――リブ・ヴォールトの起点に反射し幾重にも老人の溜息のような残響が残る。ひとしきり伴奏を終えて、シスターはふくよかな頬の笑みを奏者に傾け、拍手とともに賞賛の言葉をかけた。
「あらあら。本当にお上手。初見でこんなに弾けるだなんて! 音楽をなさっていたの?」
「……おそらく」
自信のない経験。おかしな返答だと、マルカは自分自身に呆れた。
「マイケルが気の毒なほど心配していたけれど、これなら練習に支障はなさそう。本当にありがとう。マルカ」
「そんな、とんでもない。何かお礼ができればと思っていたので」
侍者を務める青年、マイケルが風邪で来られなくなり、その日の聖歌の練習は休止するかどうかのところをマルカが代役を申し出たのだった。日曜日に彼が演奏している音色を聞き、奇妙なことに演奏する自信があり、自分自身の記憶の回復を助けるはずだと期待を込めて、奉仕に参加することになったのである。
そこへ、マルカへの小さな客人の人影が差し込んだ。
「マルカ! 早く早く!」
「こら。教会ではお静かに! 走ってはなりません」
「はーい。ごめんなさーい」
祈りの場の静寂を掻き乱す子供の素行注意が飛ぶ。対して、指摘を受けた少年の、軽快な謝罪が教会の中によく響く。
近隣に住まう信者の子の託児所代わりとなっている教会では、親が迎えに来るまでの間、ホームワークか教会の手伝いのどちらかをこなす必要があるが、それさえ終わればあとは自由時間となり、思い思いに過ごしはじめる。マルカは教会を去ることも考えていた。だが、ほかに行くあてもなく、馴染み始めた静かな暮らしの心地よさと、闇雲に動くことの無謀さを悟り、追跡者達が現れるのを待とうと腹を据えることにした。
並木道の間にある長椅子に腰掛けて。緩やかに動く雲。その隙間から溢れる陽光。そして、春風を浴びる。細胞が目覚める。古いものが廃れ、新しいものに入れ替わる。新陳代謝の働きが皮膚から内蔵から、様々なところで起きている、
ささやかで倹しい生活のなかの幸福を知れば、命の果てが迫っていようと、その先の受難が靴音を立てて待ち構えていたとしても、人生でもっとも輝く時間を取り残した気持ちを埋め合わせるのは、このような瞬間ではなかろうか。
「なにがあったんですか?」
男は静かに涙を流していた。理由をきくと、その場所から少し行ったイトスギの生える墓地に、妻子のために真新しい墓石を建てたそうだ。
「死神がやさしいキスを与えていったよ。……クソくらえ!!」
硬く握った拳が強く、男自身の太腿を叩いた。
「ごめん。驚かせてしまったかな」
「いいえ。悲しむべき時間に、怒るべき時間に、貴方はその行為を果たしているのだと思って」
世界にかなしみはありふれている。たとえ、戦争が起きていようが、なかろうが。日々、人は死にゆく。男は悲しみに歪む顔を、ぐしゃぐしゃにした紙を引き延ばすように食いしばり、無理矢理笑顔をつくりあげた。
「君には、家族はいないのか?」
「……家族……」
マルカの沈み込む声に、男は慎重さを欠いたと恥が募りすぐに詫びた。
「……あ、ああ……もしかしたら失礼な質問だったかもしれない。気を悪くさせたなら謝るよ」
なにかを思い出しても。すぐにそれは一過性の夢幻に消える。
「家族は、いません。……たぶん。……それ自体が悪いことではなくて、そう願っているのかも」
男は隣で、曖昧に、理解出来ないなりの微笑を浮かべた。『わたし』は『わたし』の中にあるいくつもの矛盾した感情や思考が、解いた毛糸がぐちゃぐちゃに絡まり合っていて、元を辿るのにも、辿った途中で苦痛を伴うフラッシュバックをみることも、不快な動悸を味わうことにも疲れ果てていた。
停滞。膠着。怠惰な逃避。空白の名を知る恐怖。何度も挑戦し克服してきたはずだが、それの無意味さを思えば何もかもが億劫に感じられる。膨大で断片的な記憶のなかに、あの男を最終的解決に導くためのヒントが眠っているとわかっていても。
「貴方のために祈ります」
両手を組み合わせ、静かに瞼を閉じる。
自分のことよりも、他人について祈るほうが簡単だ。
クリーム色の壁に埋まるレリーフの陰影が強まる時間。屋外で走り回る子供の声が疎らになりはじめる頃。教会の北口の扉には巣の表面に集う働き蜂のように子供たちがはりついて、中の様子を窺っていた。
「あーあ……」
「どうかしたの?」
残念そうに声をあげる子供のひとりに声をかけると「あの人がここに来ると、俺達邪魔しちゃダメだから中に入れないんだ」と言った。
マルカの目の前には子供たちの壁があり、そこから中がどうなっているかわからない。しかし、教会の正門前には立派なリムジンが停まっているのを見かけた。あの車体の色は先日の日曜礼拝の信者に違いなかった。
「すっごいSPの数!」
「一人雇うのにどれくらいかかるんだろ」
「……皇子様だよ」
目の前にいた少年が振り返ってマルカに教えた。
「皇子様?」
「マルカはなんにも知らないんだなぁ」
「知っているわ。それくらい」
「じゃあ今何人いるか当ててみてよ! みんな教えちゃだめだぞ」
「何人って、全部でってこと?」と尋ねると彼は大きく頷いた。
「えーと……、……ん……? 今は皇暦二〇一一年だから……」
子供たちはヒソヒソと囁きあい、堪えきれないときゃらきゃらと笑った。
「皇子は五〇番台はいった……? 男女比率を当てはめると……、ねえ、皇妃殿下は省くのよね?」
「あったりまえ」
「概算して……一〇一人……?」
「あ〜……ざんねん! ……正解はぁ、一一八人!」
「ふうん?」と、マルカは感情の薄い声を出した。
減ることはあまりないので増えるばかりなのだが。それほど人数が多くなればポピュラーな名前は重複することもあるだろう。
「殿下方の中で名前が被ったらどう呼ぶの? それとも被らないように決まってるの?」
「知るかよそんなこと」
「気になるんだったら、中にいる皇子サマに聞いたらいいじゃん!」
「えー……そんなことで?」
マルカは扉に手をかけ、ひょいと首を中へ入れた。そこには、司祭が皇子と長椅子に腰掛けてなにやら話し込んでいる姿があった。皇子はやはり先日見かけたあの少年で、遠目からでも金色の髪が輝いている。
「一般常識に欠けてるヤバい女がしゃしゃり出たら、不敬罪ですぐ逮捕よ」
「へえ。ジカクはあるんだ。ところで、マルカってシスターじゃないの?」
「……見習いよ? 一応」
ここでは偽装≠選んだ。修道服のベールや黒衣が正体を包み込み、何者でもないシスターという鎧を被って暮らすほうが安全だからだ。教会の一歩外を出れば、殺人事件の容疑者を追う警察が闊歩している。今や教会が安全な檻だった。
「ホントにぃ? なんかガサツだし〜、可愛いくないし〜」
少年は茶化すように言った。
「シスターに可愛いとか関係ないでしょ」
「こいつマルカのこと好きなんだよ」
その隣の別の少年がさらに茶化し、彼を笑い者にした。
「は!? ちっげえし! ちげーし!」
「シスターは神と結婚するって知ってるわよね?」
「だから違うって!」
少年の顔は赤く大袈裟に否定しているが、どうやらその通りのようだ。小さな子供でも男性である。しかし、やはりまだ子供なのか、夕方の迎えにやってきた母親の姿をいち早く見つけると、彼は「お母さん!」とその場から走り出した。母親は両手を広げ、少年をその腕の中に抱き込んだ。
その後から他の子供達も続々と迎えがやってきて、ひとり、ひとり、またひとりと親の元へと帰っていく。
「お母さん!」
マルカの表情は哀切に満ち、扉の前でしばらく佇んでいた。
――あの子達には、帰るところがある。
家に帰れば夕食が待っている。サラダにチキン、ミネストローネ。豆粒のように小さくなっていく影が滲むころ、マルカはその生活を羨ましいと思っていることに気づいた。理想的な温かな家庭。犬を数匹、猫を一匹、鶏を三羽飼っている。畑で採った野菜を洗い、湯がき、アクを取り、すり潰したり煮込んだり、新鮮な肉を捌きシチューをつくる。子供は三人くらいいる。森と平野のいいところに石造りの家が密集する町で、家の外にはたくさんの色彩豊かな花を植えて飾りつける。夕食が出来上がった頃、夫が帰って来る。愛情のキスを交わし、祈りを捧げてから食事を始め、一日の出来事を教え合う。
退屈な平凡な人生を多くの人は望まないだろう。それが手に入らない者だけが憧れている。
「なにを祈っているの?」
長椅子で長く祈り続けているうちは、世界から解き放たれていて、信じる泉の向こうからエネルギーが流れ込んでくるようだったが、不意にそれが呼び声に中断されてしまう。
「……え? あ……」
マルカは祈りの姿勢を解き、すぐに立ち上がった。日曜日と、一昨日にも教会を訪れた少年がそこに立っていた。今日も来るとは思っていなかったが、彼は週に三度も教会で祈りを捧げていることになる。聖週間は来週にあり彼の家も忙しいはずだ。とりわけ、教会に多額の寄付をする名家であるならば。
この何にでもない週の教会の祈りは今日で最後である。
「申し訳ございません。すぐに退出いたしますので」
「待って」
マルカは長椅子から出ていこうとしたが、少年は許さなかった。その顔だちは端整で、間違っても市井の路上を歩いていることはない。もしも誤って一人きりでいればものの数分で誘拐されてしまうだろう。だが彼は、見た目よりもかなり大人びていた。
「……今日はひとりなの?」
「え?」
「昨日はたくさん、いたから」
彼は教会の中から北口の方を眺めていたのだろう。マルカが子供たちと一緒に、中の様子を気にしていたように。
「ああ……あの子達は今日はいませんよ。殿下。今日は貴方様お一人です。……殿下は、熱心に祈られているのですね。日曜日にもお越しになっていらっしゃいましたし」
「……うん。ここに来ると……安心するから」
マルカは訪れた沈黙に「ああ……」と声を出し「祈っていたのは……母です」と答えた。小さく美しい皇子は僅かに首を傾けた。
「先程の答えです。母について祈っていました」
「母……」
少年は、ステンドグラスの天使の絵を見上げながら呟いた。望み通りの回答ではなかったのか、物憂げに皇族出身者に多い紫の瞳を眇めた。
「なにか、気に障ることを言ってしまいましたか」
「違うよ。僕は……親不孝者かもしれないと思っただけ。……二番目だから。僕は」
「二番目……」マルカの唇は、自然と同じ言葉を繰り返していた。そして迷宮のような頭のどこかで、ピリピリと痛みが走った。
「どう頑張ってみても、一番にはなれない。……僕は、兄さまとは違うのに」
ブリタニア皇族には兄弟姉妹が多い。マルカには全く縁のない家庭環境だが、母親違いの子供同士でも、同じ母親を持っていても苦労が多いことだろう。悩みについては星の数ほどあり、無闇に同意したり心情を慮り過ぎるのも失礼にあたると考え、殆どの者が口を噤むか、愛想笑いでやり過ごすに違いない。
少年が足繁く教会に通うのは、どうしてか共感できそうだとマルカは思った。
安全地帯への逃避。自分探し。信心への委ね。深い祈りと、救いの声への期待と渇望。――そして、アイデンティティ。
「殿下がご存知でないご自身を、探しに行ってみるのはいかがでしょうか」
「それは、どういうこと?」
少年は訊き返した。
「隠れている素晴らしいところ……お母様やお兄様がお知りにならない、優れているところが眠っているはずです」
「僕ひとりで見つけられる?」
宝石のような瞳は、不安に揺らいだ。マルカは膝を床について少年を見上げた。東から射し込む色付きの光が、白磁の頬を染め上げている。
「……では、僭越ながら。……その謙虚な御心ではないでしょうか。お気持ちの在り処を見つけていることは、解決への旅が、すでに始まっているのです」
「旅……。ねえ、貴女は……、旅に出たことはあるの?」
「……まだ旅の途中です、殿下」
ふふ、と少年は微笑を浮かべ「それじゃあ、仲間?」とマルカに尋ね返した。
「そうですね。仲間かもしれません」
つられて顔が緊張からほどける。それからゆっくりと舌が滑らかになり、ふたりは長椅子に腰掛け、鐘の音が始まるまで旅の話をした。
遠い昔どこかで出会った旧い友人と、久しぶりに話すような。とても愉快で、漲る熱にわくわくと胸が弾んだ。
a.t.b.一九九九 October
ブリタニア ニューロンドン・ハフマンコンベンションセンター
隣接するヒューストンのダラスにほど近い、南部の港ニューロンドンでは、三年に一度開催される国際シンポジウムが開催されていた。
会場となるコンベンションセンターのホール裏の通路では、場違いなほど子供の泣き声が反響していた。
火がついたように激しい泣き声を、透明人間の囁き声のように扱わなければならない。叱責などたとえ招待客であろうと、主催者であろうと、高名な学者であろうと手出しを避ける相手をどう宥めようか。
硝子張りの見晴らしの良い、待合室の長椅子の上。ドレスの下に履く薄手のストッキングが見えることもお構い無し。編んだ髪は解け、全身をジタバタと死にかけの虫の足掻く格好を、その場にいた侍女らは『王女様』と呼びかけ宥めていた。少女の母親は忙しく、失礼を詫びに相手の学者のもとにいた。何人もの相手と握手を交わす約束があったにもかかわらず。
涙は掘削で噴き上がった、温泉のように勢いづいている。老齢の教授の論文の誤りを訂正し、その大衆の目前で恥をかかせた。その直後、会場で泣き喚いているのだから、叱責を受けて号泣しているのだと誰もが思っている。それは違った。もっと原始的で、深遠な理由があった。
頭の中には、父のための議会で集まった老獪たる面々が何を進言したのか、その言葉の数々を思い返していた。
――『陛下。時期尚早でしょうが、些かこの辺りで弁えてみてはいかがでございましょう?』――
――『弁える?』――
――『王女様のご研究についてでございます』――
――『……教会の……とくに貴方がたのような人々からすれば、奇想天外、冒涜的な価値観を持つ女性はお好みではありませんね?』――
父の声は不機嫌で、言葉には刺々しく、鋭さが表れている。分厚い扉の向こうだというのに、一言一句はっきりと聞き取れるほど父の声は昂奮している。『わたし』は、発作で倒れてしまわないか心配になり、隣室の扉の隙間から中を窺っていた。
鮮烈な緋色のキャソック、重なる白レースのチュニックの揺らめきが、長方形の会議室の中の半分以上を埋め、その視点からでは父の姿は見えずただ声を拾うばかりであった。
父の反論に声を弱めた聖職者のひとりが『……さようなことでは……』と言い渋る。
『わたし』は胸の中が薄暗くなるのを感じていた。嫌な直感が働いて、耳を塞いでしまいたくなるのを我慢した。
――『国にも貢献している。立派な奉仕です。我々王室の予算もそこから拠出している。貴方がたへの寄付金も……王女の知性の産物です。……それとも、女性に養われる甲斐性のなさを嘆いておられるのですか』――
会議室は沈黙に落ち込んだ。誰かが『しかし……』とそれでもなお、食い下がろうとする声に、父は激昂した。椅子が乱暴に倒れる音が床に響いた。
――『これ以上何を望む? 私たちは上手くいけば平穏に暮らしていけた。聖別もいらない。豪華絢爛な生活など端から望んでいない! 相続にいくら金を費やし、あらゆる改革を手掛けた! 近代化はどこにでも必要だ。この腐りきった、私を虐げ、兄や姉らを死に追いやった者共の尻拭いを……しなくてはならない! 一生をこの……檻の中で暮らしていくのに、まだ文句があるというのか!?』――
――『陛下……どうか、お気持ちをお鎮めください……!』
涙が溢れ、袖を強く目元を擦った。こうなっては手をつけられないことを誰もが知っていた。
父にとっては、カストラリアもカストリア家も呪縛そのものでしかないからだ。『わたし』が生まれるずっと前の話。写真の中でしか知らない、祖父母や伯父や伯母たちの顔。誰も話したがらない家族の歴史。他人ばかりの家。暗い顔をすると、誰かが密告してしまう監視だらけの生活。耳に伝わるのは、陽口ばかりではない。先代国王時代からの従者を雇い続けているからだ。
――『教会はなにをしていた!? 父の秘密の恋愛を支持していたのか?! 不倫を推奨したのか? お宅の支援団体は中華連邦経由で支援を受けていると報告を受けているぞ!』――
止まらぬ怒号に誰かが怯み、声を詰まらせた。
――『夏家を一族郎党処したといいながら、温情をかけて新生児を縁戚に引き渡したそうだな? 団体理事の孟家がその赤子を養育している。調べはついている。覚悟しろ。その上で私を操作しようとつけ狙っているかもしれないが、そうはいかない! 国賊め、私の前から消え失せろ!』――
もはや我慢ならぬと、キャソックを翻し足早に出ていく者がいた。
――『ナバロ枢機卿……!』――
――『追うな。それとも貴方がたも同胞か?』――
聖職者たちの人の壁が崩れ、隙間越しに父の長身が見えた。周囲の者を睨みつけ、圧倒する顔は未だ見たことのない一面で『わたし』は密かに動揺した。
――『滅相もない!』――
父の側にいた一人が叫んだ。
――『ならば、彼を破門宣告しろ。長としての正式な依願書状が必要なら私が書く!』――
勢いの収まらぬ父の肩に触れ、彼は倒れていない椅子に座らせた。父はテーブルの上に積み重なった書類や書状の山から、新品の便箋を引っ張り出して万年筆を握った。『陛下……。どうか、お休みくださいませ』人だかりの中、誰かが宥めた。
――『貴方がたが、私の仕事を増やしている』――
――『ええ、気休めに過ぎぬことは承知しております。我々の不徳の致すところ、力不足ゆえ招いた横着の数々。……ですが、どうかご自愛を。王が健勝であられることこそが、我ら臣民の唯一のしるべなのです』――
その集団の中では若い聖職者であった。落ち着きを払い、滔々と進言し、紙面をなぞる力の入る王の視線が彼に向いた。
――『……ジーン大司教。……ここに貴方の名前が必要だ。推薦状だ。ヴァチカンにも是非を問う』――
父は、書面の下の空白を指して言った。若いジーン司教と呼ばれた彼はそこで態度を崩した。反転したように、今は父の方が冷静さを取り戻していた。
――『陛下!? しかし……、これを贔屓と取られることもあろうかと』――
――『……貴方は現代的な人だと聞いている。その感覚と感性が今後、この王室には必要だ。埃を叩き、誇りある国への足掛かりとなるだろう。……後進のためにも若い血を入れたほうがいい。異論はないな? ある者は直ちにこの場から去るのみ』――
ジーン司教は父から万年筆を受け取り、慎重に言葉を重ねた。
――『……陛下。恐れ多くも、私には……ナバロ枢機卿の仰ったことの中に賛意する箇所がございます。……王女様のご研究と活躍が我々を救い、富ませ、母なる源流であることと、教義に対する懸念は矛盾しないのでございます。複数の先進的な研究について……制限を設けなければ、なりません。王女様をお護りするためにも必要な事柄でございます。……将来の国王……女王となるお方です。一介の科学者であれば批難に晒されても、時が忘れ去らせることでしょう。ですが……女王は、歴史に残ります。王女様のご名誉を想っての具申、どうかお許しください』――
『わたし』は雲行きの怪しい会話に耳を澄ませた。
――『研究はライフワークになるだろう。……だが、王位に就けばそれどころではない。……いいや、貴方がたの主張は王に、王以外の仕事を望んでいない。そういうことだろう』
嫌だと叫んでしまいたいのを堪えた。
――辞めさせないで。
唇を噛みしめる。手にした生きる理由を、目標を奪わないで。
――もっと、頑張らなきゃ。
お父様に長生きをしてもらわなきゃ。自由な時間が終わってしまわないように。
叱責を受けた時、すべてが否定されたように感じた。景色は灰色に。余りあるほどの自信が、水をかけられた炎のように勢いを失い、なぜだか、すべてを誤ったような、道を踏み外した浮遊感が足元にあった。小さなことだ。今にして思えば、子供の浅はかな自信が大人の矜持を損ね、正当な指摘を受けただけ。なのにもかかわらず、王女は自分自身に課していた完璧主義に穴を開けられ、裏切られ、ひどく取り乱したのだ。
――『どうぞ』
白いハンカチが、顔を赤く泣き腫らした少女の前に現れる。思いもよらない慰めに、泣き声も一気に下火となる。
――『どうして泣いているんだい。……とても素晴らしい発表だったのに』
綺麗な声をしている。子供の声のはずなのに、大人のような落ち着きのある音程を保ち、優しく語りかけてくる。熱くなった目頭は億劫なほど力が入らず、潤んだ視界は何もかもをぼやかした。
ハンカチを受け取ると、その質感が素晴らしく滑らかで、上質な生地だとわかり、少女は『うえっ!?』と変な声をあげた。目元を押さえ、水気を拭き取っていくと、身を屈め覗き込んでいる性別不詳の子供がいた。クピドのような曲線美と星の輝きの金髪。白く透き通るような肌。知的な美しい青紫色の瞳。ドレスシャツにズボン。薄手のコートを羽織っている。邪悪とは無縁そうな気高き幻獣の幼体。同じホモ・サピエンスであることを恥じ入るほどの優れた容姿。少女の短い人生のなかで、珍しいもの、奇妙なもの、不思議なものには多大に関心を寄せてきたが、美しいものにはまったく無防備であった。なぜなら美しいとは、より直感的で主観的であるからで、基準などは存在し得ないからだ。しかし、その瞬間に常識を覆すほどの美貌が眼の前に迫っていた。
――なんて、うつくしいのかしら。
文字通り目を奪われた少女の頭には、好奇心が渦巻いた。非人間的な存在が目の前にいるとき、なんて言葉をかけるだろう。
――『ねえ、あなた。本当に私と同じ、細胞分裂で増える生き物なの? 誰か、天界の彫刻家が気まぐれに命を吹き込んだだけじゃないの?』
――『……おや。人間かどうか疑っているのかい。……ふふ、困ったな』
柳眉を八の字に下げて、男の子なのか女の子なのかもわからない幼い人は『確かめてみる?』と首を少しだけ傾けた。少女は何のことか見当がつかず『……? どういうこと?』と尋ね返した。自分の英語が上手く伝わっていないのかもしれない、と思っていると頬に柔らかな感触を受け、不意を突かれた少女は飛び上がった。
――『なっななな……なに?!』
――『しょっぱい味がする』
まるで料理の味見をするように、幼い人は感想を口にした。
――『……当然だわ。涙は水分のほかにミネラルとか、タンパク質とか脂質が含まれているんだもの』
――『興奮しているときは、塩味が強くなる』
少女の頬は赤みが増した。無礼とは思わなかったが、彼女が日頃、直接的なキスをする相手は家族以外にいなかった。
――『もしも、私が人間でないなら涙の味には無関心で、その味を知覚することはないよ。ティラナ姫』
――『どうして私のことを知っているの?』
――『貴女は、世界で一番有名なプリンセスだよ』
これ以上ない賛辞であるはずなのに、ちくりと胸を刺す痛みを感じた。
――『……そんなこと、ないわ』
少女は瞼を伏せた。
幼い人は、褒め言葉のつもりだったようだ。そんなにがっかりするだなんて思わず、不思議そうな表情を浮かべていた。
――世界中の人が、私を認めてしまったら……。
研究の情熱も、目標は達成されてしまったようなものだ。それではいけないのだ。もっと、もっと、高い次の目標が必要になる。
――次の目標を、考えなきゃ……。
悔し涙がどろりと脈をつくる。
そうして束の間の夢はミキサーにかけなおされ、形を失っていく。
a.t.b.二〇一一 April
ブリタニア ニューヨーク・グレース地区教会
西の空からやってきた朱色は、紫を渡り濃紺を巻き込んでいた。
長い祈りのなかで、マルカの意識は遠い昔に戻っていた。夢路から帰って来るときには、すべてを忘れてしまう。物悲しさを味わうのが好きではなかったが。その彼女の隣で、長椅子に腰掛けて祭壇を見上げる少年が、囁くように言った。
「代わりがたくさんいる。僕じゃなきゃいけないことなんて、ないんだ」
「そうなの?」
濡れた頬を手のひらで拭う。何事もなかったかのように装って、マルカは訊き返した。
「兄様のスペアなんだ」
「お兄さんは……どんな人なの?」
繊細な色の瞳を巡らせて、彼はひどく悲しげに「なんでもできる」と呟いた。
膝丈のズボンから出る白い脚がぷらりと動き、椅子の下に影が揺れる。
「なんでも? なんでもっていっても、色々あるわ」
「勉強も、運動も……できるし……おねしょして叱られたりなんかしない」
「おねしょしたの? 恥ずかしいことじゃないわ。……私も一昨日、こわい夢をみて……お漏らししちゃった」
「そうなんだ」と、彼は少しだけ照れくさそうに笑った。そして、誤魔化すように「チェスは得意?」とマルカに尋ねた。
「チェス……さあ……わからない。やってみる?」
やったことはあるみたいだ。だが、誰とどこでプレイしたかが曖昧だった。
美しい少年は言った。
「お母様が強いんだ。……敗けてばっかり。本当はやりたくないけど……相手をするとすごく喜ぶから」
「お母さま想いなのね。素敵ね」
コモンルームに使い古したチェス盤があったことを思い出して、マルカはそれを取りに行って、二人で長椅子の上でチェスをすることにした。
ボードと駒の表面には細かい傷が、あちこちについている。塗装がところどころ剥がれているような年季の入ったもので、高貴な人に扱わせるには申し訳ない状態にマルカは謝った。
「どうして謝るの。扱いやすくていいと思う。……家にあるものは素材が重くて、考えに集中したいのに、道具を大事にしなくてはいけないと、意識が逸れてしまうんだ」
マルカは失笑した。
「なにがおかしいの?」
「殿下はお兄さんのことを、気にしているようですけれど……誰も平凡などとは思いません」
「お世辞じゃない?」
「まさか。……チェスの腕前だって、ほら。並みのものではございません」
彼のなかでは兄が常に比較対象なようだ。だから他の物差しはなく、実は平均以上のレベルを獲得しているのだと、無自覚でいるみたいだ。少年は納得がいっていないのか渋い顔でいる。ブリタニア皇族は秀でた貴族階級から輿入れする妃も多いゆえに、その才能も子供に実直に遺伝しているのだろう。
「マルカはどこで覚えたの? ……とても難しいよ。やったことがないっていうのは、嘘でしょ?」
「最初におねしょした頃の記憶が思い出せないのと同じよ」
「……ふふ。あはは……!」
くしゃりと顔に皺を寄せて、少年は笑った。その時、教会の入口の扉が音もなく開き、長い裾のドレスを纏う淑女がいた。日曜日には見えなかったその顔にベールはなく、少年と同じ金色の髪の持ち主であった。
「アディ。……アディ。……アーダルベルト」
皇妃は凛とした声で、少年の名を呼んだ。「お母様」と、アーダルベルトと呼ばれた少年が立ち上がり、長椅子から出ていく。母親の両腕に戻る時間だ。
アーダルベルトは、入口へ伸びる身廊の途中で白い脚を止めて、マルカを振り返った。
「……今日はありがとう。……そういえば、まだ貴女のお名前を知らないや」
「マルカよ」
アーダルベルトははにかんで次の約束を取り付けた。
「マルカ。……ねえ。また話を聞いてくれる?」
「もちろんでございます。殿下」
a.t.b.二〇一一 April
ブリタニア ニューロンドン・娼婦街
四月も残すところ数日に迫っていた。
聖週間のために一時カストラリアへ戻り、それから再びブリタニアでの捜査を再開した最初の日。シュナイゼルは手にしたばかりの情報に珍しく、長い時間を使っていた。空港から目的地へ向かうリムジンの車内で、シートに座る秘書役のカノンに率直に疑問を呈した。
「先日、エンメリック製薬役員と、Dr.シュミーダーが口を割ったトランス≠ニいう薬の件なんだけれど」
「それが、いかがしましたか?」
保護した二名の博士をカストラリアへ移送し、その先で同時進行していた製薬会社関係の事情聴取で不可思議な話を聞いたのである。一見すればなんてことない情報の一つになぜ拘るのか。答えは簡単で、首謀者であるサロニア公が今まで取ってきた行動に無駄は存在せず、常に彼が必要とする目的を果たしていたからである。
「彼がそうする必要性に、理解が及ばなくてね」
「殿下ほどの方が、そう仰るだなんて」
「うん。……ティラナの遺伝子情報……ミトコンドリアDNAを用いた薬剤を他人に投与することで、カストリア王家の血縁者を創出する。……つまり王位継承者を……擁立することだと考えた。しかし……このトランス≠フ投与を受けた人物に共通する対象の層の条件が一定ではない」
エンメリック製薬会社の役員は、サロニア公からある薬の製作を命じられた。十二年前に莫大な賄賂を受け取って、長く工作活動と実験にも強力してきた。造らせた薬とは、液体状のもので多くは注射器を使用し効果を与える。その薬品の中の成分には、ティラナ王女の遺伝子情報を含んでおり、捜査機関は最も深刻な最悪のケース。――即ち、他者の遺伝子情報を書き換える、エピジェネティック改変を危惧し、シュナイゼルに特A課題として報告が上げられた。
莫大な賄賂をクーデターのあった前年に受け取り、水面下で計画が進められていた。決定的な証拠と、作らせた薬品が事実有害であると確定すれば、シュナイゼルの考える勝利条件をクリアする。勝負は大詰めである。だが、肝心の薬品に王女の遺伝子情報が使用されてはいたが、人体に対して一生涯遺伝子改変を引き起こす有害性は認められなかったのである。
カノンは、シュナイゼルの問題提起の箇所を洗い出し、その思考を読み解いた。
「……もし、王位継承者を必要とするなら若年者、それも出産適齢期の女性に投与する方が効率的である。ということですね?」
シュナイゼルが小さく頷いた。
「ああ。……それに遺伝子情報は母系相伝のもので、王家特有の遺伝子性質を優先していない。だから、継承者の擁立が目的とすると……目的は別のところにあるのだろうね。……彼は、ユスティナ后に固執しているが、その子供達には冷淡であるし、それ以上のスペアを欲しがっているようにも見えない。また、王家の血統の損壊を目論むにしてもやはり……生殖適齢期を過ぎた層にも投与する意図不明が障壁となる」
有害性であることは、まさしくその通りだが、振り切ってはいない。
サロニア公には選択的な意図が存在しているはずだが、及ばぬ理解に重要ななにかを見落としている――とシュナイゼルは考えていた。
「さらに面白いのは、トランス≠二種類作らせている。……注射後数時間で分解されるものと、長期的に体内に残存するもの。しかし、エピジェネティック改変を引き起こす、遺伝子汚染≠ヘ目的から除外されている。……なぜだろう?」
カノンは顎に手をあて、その薬品が今まで明らかにならなかった要因を探った。
「……被害者の体内から痕跡を……消すため、ではないでしょうか」
「消すため……か。たしかに、捜査を難航させた。我々が常に後追いばかりを続けるのは、証拠がその場限りに留まりがちだからだ」
「ええ……」
薬品は投与後一定の期間が経過すると、体内に吸収され浄化されてしまう性質を持つ。カノンの考えは、的を射ているだろう。
「なぜ、ティラナの遺伝子情報である必要があるのか。……未知の情報が存在する?」
シュナイゼルは向かい側に座るカノンの顔を一瞥した。その顔には、お手上げだと書いてある。やがて、リムジンは港町の歓楽街付近に停車した。
現在マルカと名乗っているであろう、ティラナは地下収容施設から脱出後、港町を経由し北上していった。アン・バーナード事件発生後もう一件、ニューヨーク・グレース地区での不良グループ殺人事件に容疑者として挙げられている。現在も捜索が進められているが、消息は依然として不明である。
特別捜査機関には事件発生地であるニューヨークで警察の情報を併せつつも、独自で捜索させている。
その日、シュナイゼルが足跡をたどりニューヨークまでの寄り道に興味を示したのは、不審な女の情報が各地から寄せられていたからであった。ブリタニアでは紙幣を使用しないわけではないが、IDに紐づけるなどしたクレジットカードの使用率が高く、現金使用は使用形跡に残りにくい反面、人の記憶に残りやすい。老齢であればまだしも、成人済みの若い女が現金決済ばかりする。社会的信用のない女。
地下収容施設で監視員を眠らせ、監禁室に幽閉した後、彼女は拳銃とその施設に保管してあった金庫を破り、多額の現金を逃亡資金にしている。
「ここは潮風が厳しいね」
「港がすぐそこにありますから」
低い建物の上空、その隙間から磯の香りが吹きつけ、青年ふたりは柔らかな髪を風に遊ばせた。歓楽街の中でも外れにある、所謂売春地区にはシュナイゼルのような身なりの男はよく目立った。夕暮れ時の通りには、準備を始める女たち。早くも客がその辺りに散らばっていた。彼らの多くは珍動物を前にした時のように、驚きと好奇心を無遠慮に晒している。
「早々にお暇いたしましょう。……ゴシップに貢献なさるのは得策ではございません」
「社会見学だよ。カノン。……彼女がどうしてこの場所に来たのか興味がある」
「情報収集なのではありませんか?」
「それ以外についてさ」
カノンは呆れ顔で背後を歩く主人を見返した。彼は「あはは」と笑い、食えない態度で誤魔化した。
「ここです」と言って、カノンが立ち止まった店は開店準備中であった。
安い煙草の煙と香が淡く漂う。店前で女二人が地面にしゃがみこんで煙草を吹かしている。二人のうち一人が、シュナイゼルたちに気づき、にやりと婀娜っぽい目つきで笑った。
「オニーサンたち〜。筆下ろしにきたの?」
隣で煙草を吸う女が咎めた。
「馬鹿。あんた。……こんな上玉、場末にいる女じゃ務まんないよ」
「コールガール呼びな〜性病伝染される前に。……きゃははは!」
カノンはコートの中から一枚の写真を取り、女たちの前に掲げて見せ、シュナイゼルが尋ねた。
「ここにマルカという女性はいるかな」
「マルカ? 探しゃいくらでも……あぁ〜ナルホド。……オニーサンに似合いの処女じゃなくて、売春婦ならたくさんいるけどね!」
「あっはははは……!」
品のない笑い声が通りに響く。通行人は忍び笑いを漏らし遠巻きに眺めている。シュナイゼルは注目を受け流し、淡々と質問を続けた。
「この女性を捜していてね。情報によれば、彼女はここに来たことがあるみたいだ」
女二人が写真に目を寄せて、囁きあった。
「あぁ〜この顔……あのヤク中女じゃない?」
「ん? ほんとだー」
「この女、人捜ししててー……アン・バーナードって女を捜してたけど。……ん、ちょっとねえ! ヤバいんじゃない?! アン・バーナードってよく考えたら、この間からニュースになってる殺人事件じゃん!」
「え?!」
女二人はマルカに見覚えがあり、その顔が容疑者として逃亡中の女の顔だと気づいたようだ。そして、慌てて呑んでいた煙草をさっと背後に隠し、大きく見開かれた両眼がぎょろぎょろと彷徨った。
「……オニーサンたち、……もしかして、ケイサツ?」
「貴女のその煙草、見せてもらってもいい?」カノンは違和感に気づいて手を伸ばし、女たちは強く拒んだ。
「えっちょっと、ヤダ、触んないで!」
「まじでその女のことは知らないの。人捜ししてたヤク中!」
「薬はなにを?」シュナイゼルが訊いた。
女は乱暴に吐き捨てるように言った。
「リフレイン! 幸福麻薬! はい終わり! お客にもなんないなら、さっさと行ってよね!」
振り払おうとする女に、シュナイゼルはカノンの耳元で報酬を渡すように言った。
「カノン。チップを」
「……わかりました」
別のポケットの中に詰めていた紙幣を何枚かを引き抜き、カノンは女たちの手に握らせると、わかりやすく二人の目の色が変わった。
黒い外套の捜査官が二人のもとに現れた。リムジンに電話番として待機させていたが、何やら知らせが入ったようだ。
「用事は終わったところだよ」
「……殿下。ブリタニア皇宮を介してご連絡をいただいております」
「介してというと、母上かな。随分と久しいね」
娼婦街を去り、停めたリムジンに乗り込む。
「帰国時には、顔を見せるようにと言われているのだけれど。話題は決まっている」
一に現在のカストラリアの話。二に王女の容態。三にやはり王女に関係する話だ。助言と小言をのらりくらし躱し、母親の気持ちを宥める、健気な息子を演じなければならない。「まあ」とカノンは同情めいた相槌を打った。
シュナイゼルは私用の携帯からルーヴェンフェルスに架電することにした。
「……お久しぶりです。母上。……ウィルゴに?」
アーデリントの用事はウィルゴでの茶会の誘いであった。アーダルベルトが咲き頃を迎える薔薇を観たいと言い出したようで、ついでにシュナイゼルもどうかという話だ。
「せっかくのお誘いですが、所用が重なっていましてね」
電話口に立つアーデリントの背後はなにやら賑やかだ。厳格なルーヴェンフェルスの屋敷には似つかわしくないほどの活気。甲高いはしゃぎ声は、アーダルベルトのものだろう。人見知りをするアーダルベルトに、お気に入りの家庭教師が見つかったようだ。
「アディは元気そうだね。……家庭教師を? ……まだ?」
アーデリントは困り果てた様子で愚痴を言い募った。
家庭教師といっても、最近教会に住み始めたばかりの身寄りのない修道女で、報酬を寄付に上乗せることになったのだが、味を占めた教会側がさらに寄進を求めるようになったのだという。
「なんと? ……彼女の名前です」
耳を疑ったのは鉄面皮な教会の態度ではなく、家庭教師となる修道女の名前だった。
アーデリントは「マルカよ」と答えた。
「……彼女は、金髪碧眼?」
「ええ」とアーデリントは肯定し、「チェスの腕前が立派よ」と付け加えた。
固まったシュナイゼルに、カノンはおそるおそる呼びかけた。
「殿下?」
「……見つけたよ。カノン。……チェックだ」
勝利への王手がかかり、シュナイゼルの口角は自然と持ち上がった。