Little UnicornU







 a.t.b.二〇一一  May
 ブリタニア ロングアイランド・ルーヴェンフェルス家


 薄日が差す午後。爽涼な空気が明けた窓から豊かに送り込まれ、レースカーテンが凪ぐ音楽室。花筵のような一面のダンデライオンの黃が眩しい。
 和音の安定した響きにあわせて、金の稲穂が揺れ白黒の鍵盤に影を落とす。譜読みも慣れ。拙かった運指も滑らかだ。一週間前には連弾で、合間の音を押さえることしかできなかったのに、独りでにエチュードを弾きこなしている。
 「素晴らしい! 上達が早いわ。殿下」
 「マルカの教え方が上手だからだよ」
 アーダルベルトはか細く笑い、照れを薄い唇に宿した。
 少年の家庭教師役に就いて一週間。戒律上個人的な金銭受領が不可能であるため、マルカはビタ一文たりとも受け取っていないが、世話になっている教会にはお心付けとして寄付がなされることになっている。
 「あら。お上手なんだから。褒めたってなにも出ないわよ。小さな紳士さん……」
 そこまで言ってみて、マルカはそこで首を傾げた。
 「……ん?」
 小さな違和感。ずっと前にどこかで言ったことがある、デジャヴに引っかかりを覚える。
 音の余韻が音楽室のコルクボードに吸収され、パタパタとカーテンのはためく細かな音が、際立って大きく聞こえた。耳奥ではそこにはないはずの大草原のさざめきが埋め尽くし、金色の黄昏を進む影が脳裏にチラついた。
 「あ……っ」
 がくんと、マルカは体の平衡感覚を喪失しその場に蹲った。ピアノの椅子に座っていたアーダルベルトは、向きを変えて飛び降りた。マルカの肩を支え、少年は彼女の蒼白の顔を覗き込んで心配した。
 「どうかしたの? マルカ! 大丈夫……?」
 「ちょっと、目眩が……」
 目を開けていても、閉じていても。その景色はフィルムに焼き付けた影のように染みつき、そこに存在する。
 「……薬を貰ってこようか? ……そこのソファに横になっていいよ」
 アーダルベルトの勧めに深緑色のシェーズロングのソファの方を見遣るも、マルカは首を緩やかに横に振った。
 「……とんでもない。皇妃様に叱られちゃう。これでもご奉仕活動中なのよ?」
 ゆっくりと立ち上がり、アーダルベルトを椅子に座るように促す。
 「そんなことより、続きを聞かせて。……皇子様ならピアノくらい弾けなきゃ」
 「……皇位継承権はいらないよ」
 「どうして? ルーヴェンフェルスを継ぐから?」
 彼は答えなかった。物憂げな眼差しが絨毯の模様をなぞり続けている。
 「マルカは、このまま……家庭教師でいてくれる?」
 「……アーデリント様次第ね? ……殿下の成績に結果が伴わなかったら、私の教え方が拙いということですもの」
 マルカの答えに、アーダルベルトが声を詰まらせた。 
 ――第二皇子殿下は、お前の年の頃にはすでに五つの言語を完璧に操り、大人たちと渡り合っておいででしたよ。お前も急ぎなさい。シュナイゼル殿下に決して劣ることのないように――
 アーダルベルトの脳裏に過ぎるのは、母アーデリントの冷たい言葉だ。
 数年前まではこうではなかった。もう少し、愛情と労りの心もあった。だが、優秀な兄の境遇が知らず知らず母を追い立てているのが、幼い少年にもその態度を通して伝わっていた。原因は、彼の兄の治める国の政情不安。とくにアーデリントが重要視することが未達成であること。気位の高い人の矜持を揺さぶるにはそれだけで十分だ。その矛先は、弟のアーダルベルトに向いた。母親にとって、アーダルベルトは第二のシュナイゼルだった。ミニチュアの、二番手。一番の影を投影するホワイトボード。金型に流し込まれる、よく熱された錫。完璧な形でなければならない。
 「僕が頑張れば、そばにいてくれる?」
 「お決めになられるのは……アーデリント様ですよ」
 祈るように絞り出した懇願だったが、マルカの答えは然るべきものだ。今の少年の味方で、どことなく持ち合わせる孤独を共有出来る相手は彼女しかいなかった。縋る瞳で彼は、清貧と信仰を象徴する黒衣を纏う女性を見上げた。

 小さなユニコーン。
 彼をみていると、そう形容したくなった。
 白くて、靭やかな躰。金色のたてがみの幻獣。無垢と力。そして、癒しを与える。

 
 a.t.b.二〇一一 April
 カストラリア カストラリア王宮・厩舎


 聖週間は春の一大行事だ。
 徒歩行列で大聖堂を練り渡り、シェロの枝とみなしたバナナの葉を民へ配る。王宮の私設礼拝堂で朝課・晩課をこなし、聖木曜の洗足式を見届ける。質素な食事で聖週間の腹を満たす。活動量の多い子供にはエネルギー不足だ。そして礼拝には、お葬式のような真っ黒のベールを被らされ、ひどい退屈の時間をやり過ごさなければならない。『わたし』は毎年その期間の間だけ、路傍に転がる石ころに変えられたかのように、無為に役立たない日々を送る。何も考えず、何も感じず、心を平静に保つことが乗り越えるカギだ。国王による、復活徹夜祭の終わり、バルコニーのアレルヤの唱和を終えると、朝食にエッグベネディクトやキャロットケーキが並ぶ。主日ミサを挟んだあと、ようやく断食明けに祝宴を迎え、豪華な食事の舌鼓を打つ。
 目玉のイベントはエッグハントである。毎年、聖土曜日から主日の夜明け前までに、両親が王宮中のどこかに卵を隠したのを翌朝探し当てるのが恒例行事となっていた。卵の数は十二個だが、最後の一個だけを見つけられず主日を終えてしまった。
 復活祭の聖週間の終わりから数日後、『わたし』は厩舎を探し回っていた。愛馬の部屋に蓄えられた干し草の下が怪しいと目星をつけて。
 ――『あった……! こんなところに残っていたのね。……お父様ったら、お忙しいのにこんな厩舎まで隠しに来るなんて! あとでしっかり見つかったって教えてあげなきゃ』
 予想通り、卵は干し草の下に眠っていた。頭から逆さに水の中に潜り込むように『わたし』は体を突っ込んだ。
 草の海は思った以上に侵入を拒み、いつまでたっても卵に指先を引っ掛けられない。ジタバタと藻掻いていると、髪の毛が何かに引っ張られる感覚がした。
 ――『え? あ……髪を食べないで! 私の髪は干し草じゃないんだから!』
 纏めていたはずの髪型が崩れていく。ロールを解すように二頭の愛馬が髪の毛を喰んでいるようだ。
 遥か後方で、砂利道を歩いてくる足音がした。厩務員だと思い『わたし』は大きな声で助けを求めた。
 ――『……!? だれかぁ、みてないれ、たしゅけて〜!!』
 ――『おや。……復活祭というのは、神の子が墓から這い出る祭りだと記憶していたが』
 その声は子供だった。落ち着いた、子供らしくない冗句つきの。
 ――『羊飼いたちは飼い葉桶に、神の子を見出した。ここの馬たちは何を見出しているのだろうね』
 彼は慌てる様子もなく、ゆっくりと馬を驚かせないように近づいて、干し草の渦に閉じ込められている少女の服の襟を掴んだ。
 助けを得て、漸く干し草の海から這い出て立ち上がれば、べろんべろんと右に左に馬の舌の責め苦にあい『わたし』はさらなる受難に顔を引き攣らた。『うぇ〜』と、嫌悪感を表すには易しく勢いがない。右手に掴んだブルーとイエローにペイントされたエッグが、次第に金貨に見えてくるだろう。
 ぺたりと尻を地べたつけ足を広げる『わたし』の前に、憎らしいほどまっさらで、汚れのない少年が立って見下ろしていた。せめての負け惜しみを込めて、口を尖らせて言ってやる。
 ――『……復活したわよ。文句ある?』
 ――『ふふ。……おかえり。かわいいエッグハンターさん』
 顔中には、馬の唾液に貼り付いた干し草。水分を含み萎れたような髪が、肩に絡みついている。
 ――『これのどこが、かわいいのよ。お世辞にしたって不様よ。ブリタニア流の皮肉のつもり?』
 彼は何も答えず、馬の方に関心を向けた。
 ――『立派な躰をしているね。……これは貴女の馬?』
 ――『そうよ、殿下。そっちの鹿毛はメリーゴーランドって名前。栗毛の子はマロングラッセ。愉快でしょ』
 ――『マロングラッセはともかく、メリーゴーランド? テーマパークの遊具の名前だ』
 ――『遊びに行ったことあるの?』
 ――『ないよ。賑やかで楽しそうだけれどね』
 ――『メリーゴーランドには白馬のほうがいいのかもしれないけど、私にとっては十分……その子が楽しませてくれるの』
 楽しくて回る。由来を思えばそれ以上の名前を思いつかなかった。
 鹿毛の艷やかな毛並みを撫でる。馬は人の気持ちを読み取る。気持ち以外にも、その性格も。お調子者の飼い主も弁える相手である少年には、メリーゴーランドも態度を変えるようだ。彼はブルブルと鼻を震わせて、少年に擦り寄る。マロングラッセも動き回り、反対側から身を寄せて懐いている。すこしのジェラシーをジョークに変えてみせる。
 ――『……殿下なら、ゾウでも跪かせられそう』
 ――『そうかい?』
 ――『そうよ。金のたてがみのユニコーンさん』
 意外だ、と大きな紫目を丸めてきょとんとするので『わたし』は『……さっきのお返し……?』と取り繕うように言うと、彼は優しく目を細めた。
 ――『ノアの方舟に乗れなかった獣だよ』
 『わたし』は肩を震わせて笑った。
 ――『あら。ご謙遜。……じゃあ私が一生涯飼ってあげるわ』
 ――『本当かい?』
 伝統的な神話や寓話――フィシオロゴスなどでは、ユニコーンは純粋な乙女≠ノしか近づかないとされている。
 ――『この世で最 も美しい、最も誇り高い、最も恐ろしい、最も優しい動物≠諱x
 人さし指を立てて『わたし』はそれらしい権威を借りる。ちょっぴり恥ずかしくなったから、これくらいの気持ちの誤魔化しは必要だ。ほんの少しの。彼は意地悪そうな顔で、いじわるなことを言った。
 ――『私を捕まえつづけるには、清くなければいけないよ』
 『わたし』は目を瞬かせた。その言葉通りでいるなら、清い女性で居続けなければいけなくなるだろう。王女様は。
 ――『清いままでは、ケンタウロスさえ産めないわ』
 ――『……我が子を、インフェルノで暴力者の地獄。血の河フレジェトンタの畔に立ち、さらばえ逃れようとする者たちに向けて弓を射させるのかい?』
 ダンテの神曲を引用し、皇子は齢に似合わない教養を誇った。
 ――『むう……口がお上手ね』
 ――『貴女ほどでは』
 彼は笑った。相変わらず、この世ならざる天使のような美しい姿形で。黙っているだけでニュンペーが群がり、ゼウスが攫いにやってきてしまうだろう。
 ――『皇子様。今日はなにをして遊ぶの?』
 ――『……私がただ遊びにきていると思っているのかい?』
 ――『花婿修行なのは知っているわ。……いかにして、このじゃじゃ馬娘を飼い慣らせるか。秘密の裏技を思いつくためにね!』
 くすくすと細かに、可愛らしい乳歯をみせて少年は笑った。そして、あの白いハンカチで『わたし』の顔にかざし、馬の唾液と湿った髪を拭った。兄が年下の弟や妹にするように優しい手つきで。
 馬小屋が急速に遠いのいていく。それまで入っていた私から、『わたし』の背に見えない翼か、素晴らしく丈夫で長いワイヤーがくっついていて、引っ張り出されているみたいに。これが夢なのだと気づくと、鮮やかであった色や形が褪せて崩れて、一気に曖昧になっていく。次第に白い靄に包まれ、淡くとけていく。
 
 鐘楼の鐘の音が、目覚めの釣り糸だった。室内は冷たさと暖かさの色の中間にいて、ライト付きの水槽の中みたいに幻想的だ。
 「……ユニコーン……?」
 まだ寝惚けている。はやくマルカに戻らなければ。そう思いついた時、どうしてそのようにしなければいけないのか疑問が過った。だけれども、マルカ以外の自分は、自分ではないような違和感と、たしかだという自信がないのだ。



 a.t.b.二〇一一 May
 ブリタニア ロングアイランド・ルーヴェンフェルス家


 「トイレの水通り、よくなりましたよ」
 ガラガラとステンレス製の銀色のバケツを片手に、マルカは広大な屋敷の東側の廊下をまっすぐ進み、頼まれていた用事の終わりをハウスメイドに報告する。本当は彼女――エイレスの割り当てなのだが、午後までに仕上げなければならない仕事が山のようにあり、アーダルベルトのレッスンのためだけに訪問するマルカに、彼女はやむを得ず頼み込んだのだった。
 エイレスはバケツを受け取りながら「ありがとう」と感謝を告げた。
 「ありがとう。本当に頼りになるわ。業者を呼ぶ手間暇が省けた。……修道院に長居するよりかは、うちで雇ってもらいなさいよ。お給金もいいし。なによりここで働いたらどこへ行っても一発で面接が通るんだもの。お得よ。第二皇子様の母后のお屋敷なんて外国でも通用するわ」
 「信仰心は大切よ」
 マルカの鉄壁の返しに、エイレスは腰に手をあてて「ふん……」と溜息混じりに頷いてみせた。
 「……まあ。そうよね。俗物のお節介なんて……通用するわけないか。……あたしなんて、あわよくば貴族の殿方に見初められて、社交界入り出来やしないかとロマンスを期待しているのに。……薄汚い我欲煩悩に塗れる人間とは、真反対に位置する人には想像つかないでしょうね」
 「そんなことはないわ。私だって、願いのひとつやふたつはあります」
 「たとえば?」
 「……世界平和とか」
 メイドは目を丸めて呆れたように言った。
 「真面目ねぇ。あ、そうだ……お夕食一緒にどう? といっても、あたし達のスペースだから、ご立派な食堂とはいかないけど。でもここの料理長の賄いは絶品よ。今日くらいは、修道院の慎ましい食事はやめにしない?」
 「ありがたいけれど……」
 食事の誘いを断るマルカは、エイレスの肩越しに視線に注視する。
 角からひょっこり顔を覗かせているのは、人見知りをすることで有名な第十二皇子殿下アーダルベルトだった。
 「マルカ……!」
 「殿下。……ごめんなさい。もう行くわ」
 一礼し、裾を翻すとマルカは少年のもとへ向かった。
 「あーぁ。どうやって取り入ったのか必殺技を聞き出したかったのにぃ!」
 遺されたエイレスはバケツを揺らし、小声で悔しがった。

 お屋敷の一階。西側にある、音楽室にはピアノが二台ある。真っ黒の表面には傷ひとつなく、ぴかぴかに磨かれている。譜面台が部屋の片隅に二つ。隣室の準備室には他の楽器もあるそうだが、アーダルベルトのレッスンはピアノが中心だった。書棚には楽譜が作曲者ごとに丁寧に分類され、アルファベット順にぎっしりと詰め込まれている。ピアノの真後ろにある、小さなテーブルの上には数冊の分厚い教科書に楽譜。離れたところにコースターを敷いたレモン水のコップが並び、アーダルベルトの譜読みの最中などにはソファに座って見守った。
 少年はマルカの手を引いて音楽室に入ると、並べた楽譜を指さして「次はどんな曲がいい?」と訊いた。アーダルベルトの演奏の上達ぶりは舌を巻く程で、音楽の才があることは間違いなかった。
 「エチュードまであっという間だったのに? 頑張り屋さんね」
 夕陽のなかで彼は嬉しそうににっこりと笑い、顔に流れた金の一房を耳にかけた。ふっくらとした頬は薔薇色に甘く色づいている。分別のつかない子供だったらば、頬を擦り寄せただろう。
 ――殿下のレッスンには相応しい教師が必要だわ。
 教えられることは殆ど無くなっていた。アーダルベルトには見事な才能があり、その世界で名を馳せることも夢ではない。然るべきアカデミーに入り、高度な教育を受ける方が理に適っている。彼のための次の一曲を、楽譜から探しながらマルカはそう思った。
 「なにか弾いて聞かせてみてよ。お願い。あと一曲だけ」
 アーダルベルトはマルカが修道院に帰る時間を知っていたから、引き留めたかったのだろう。マルカは素直に従うことにした。修道院に帰っても、祈って、食事をして、また祈って、体を清めて、祈り、静かに眠りに就くだけだからだ。
 静かにピアノの前に座り、軽く指の運動をさせてから、弾き慣れた音を流す。
 「アヴェ・マリア?」
 察しよく、少年は前奏だけで曲名を言い当てた。マルカは微笑み返し、弾き続けた。
 
背後を振り返ると、ソファの上でうとうとと眠りの波にさらわれていくアーダルベルトの姿がある。日に焼けていないまっさらな肌は、窓から射し込む光に対して陰が濃くなり、瞳の輝きが瞼に覆い隠されていた。
 「殿下? ……眠っちゃったのね」
 そっと呼びかけてみても、起きる様子はない。いつしか曲は終わり、椅子から立ち上がろうか迷った。気持ちよく寝息をたてる彼を残して、挨拶もせずに去ることが失礼にあたらないか。無粋に起こすことも躊躇われた。そして、足をペダルに置き直し、鍵盤に両指を触れさせた。
 パニス・アンジェリクス。聖体賛歌の調べを奏ではじめ、静寂を埋め合わせることにした。その曲はまだ覚えたてのものだが、教会で何度も聞いた耳馴染みのあるミサ・ソレムニスである。
 灼熱の日が沈み、宵の帳の下りるとき。その濃密な透明な翼が、天の国へと連れ帰ろうと――。
 鍵盤の上には夜のように暗い影が被さっていた。やがて巨きな闇が動き、『わたし』を隠すように包み込んだ。死神が来たのだと思った。鋭く銀色に輝く鎌が首筋に押し当てられていると錯覚し、体全身が、頭の天辺から足の爪先までが一気に凍りついた。
 「あ――」
 ほとんど音のない吐息が、唇から漏れ出た。
 もちろん音は止んでいた。音楽は終わり、春は遠のき、地表は焼かれ、煉獄に導かれるだろう。
 「――Panis Angelicus」
 耳の側で誰かが囁いた。
 音楽に夢中で人の気配に気がつかなかった。
 「天使のパンが、人間のパンとなる。天上のパンが、すべての象徴に終止符を打つ。おお、驚くべきこと——貧しく、卑しく、低い者が主を食す。貧しい者、貧しい者、僕、そして謙遜な者が――」
 詩を諳んじる。ラテン語の詩を歌うように。まるでベッドの中で眠りへと誘うための呪文を唱えるみたいに流暢で、心をかき乱す声をしていた。
 「帰ろう」
 鍵盤に射す影は囁いた。
 ――どこへ?
 青い困惑が胸中を占める。
 マルカは振り返ることを拒んだ。音楽室にも齎され、宵闇に同化していく影の中を見下ろしながら。
 「やっと捕まえた。旅は終わりだよ」
 また、闇の中から声がした。
 「帰ろう。……ティラナ」
 男はその名を呼ぶ。『わたし』を揺さぶりかけようと。
 ベール越しに耳奥に響く。受け入れがたい名前を、忘れたがっている名前を、熱心に思い出させようとする。コートからはほんのりと重たい雨のにおいが漂った。深い影の中で、鍵盤の上に置いた指に端正な白い指が重なり、土に根を食い込ませるように絡みつく。音がダランと重たく鳴った。彼よりも石像のような冷たい温度に『わたし』は自分自身に驚いて泣き出したくなった。
 「ティラナ」
 もう一度名前を呼ぶ。『わたし』は応じない。恐ろしい呪文のようだと感じた。もしも、この呪文が効果を発揮するとしたら、自分が掴み始めた今の感覚を、完全に喪失してしまうような不安が襲いかかった。錠前に鍵が挿し込まれ、ガチャガチャと音を立てている。時間が厚底ブーツの踵をすり減らしてきた。そろそろ正しい靴に履き替えなければいけない。別れを告げなければならない。終わりのときがきた。
 ――開けたくない。
 白い閃光が一瞬のうちに駆け巡り、『わたし』の意識を取り戻そうと、様々な景色を蘇らせる。
 ――開けたくない。
 軍人だったこと。学生だったこと。この人≠暗殺するように条件づけられていたこと。様々な人生を経験していたこと。これらが、死の間際の走馬灯のように。何度も『わたし』のもとに挨拶しに扉を叩く死神の、生死の循環の恒例儀式が、この瞬間にもやって来ていた。
 ――開けたくない。
 恐い記憶が噛みつこうと犬歯を光らせている。思い出したくない。
 「……い、や――っ」
 拒絶を示すために。マルカは重なった手を引き剥がそうと、左手で男の手を掴んだ。背中に立つ彼に驚きも焦りもなく、為すがままに解放した。マルカは椅子から窓際に飛び退いて、顔を合わせないように背けるのに必死だった。
 「兄さま……?」
 束の間の微睡みから起き上がった、少年の甘い声が場に広がる。
 「今日は来る予定じゃ……なかったはず……」
 ソファの上からカーペットに飛び降りて、彼はなにかを察したのかマルカの方に近寄ろうと足を踏み出した。それを制したのは少年の兄だった。
 「起こしてしまったね。アディ。……眠るならベッドの上にしなさい。エイレス。連れて行ってあげてくれるかな」
 「Yes, Your Highness」と承諾したのは、音楽室の入口まで来ていたメイドのエイレスだった。彼女は音楽室に入り、腰を屈める会釈をしてアーダルベルトに近づいた。少年は弾けるように顔を上げ、メイドの伸ばしかけた手を払いマルカのもとへ駆け寄った。
 「マルカ……!」
 後ろ手に掴んだ厚いカーテンの裾をゆっくりと放し、マルカはアーダルベルトの目線に合わせて床に膝をついた。
 一瞬そうするかどうか迷いながら、彼を腕の中に招き入れた。
 「……殿下。……レッスンはまた次回に持ち越しです。……殿下?」
 彫りの深い影の中。天空にほど近い、青紫色の花の色が揺れる。記憶の蘇りを拒むように思わず、目線を逸らしたのをみて、アーダルベルトは傷ついた顔を隠さなかった。
 「……帰らないで」
 なによりも切なく、いじらしい願い。
 「帰らないで。そばにいて」
 立ち込める静寂。圧迫感のある空気が、音楽室を鉄格子の中だと錯覚させる。
 「今日は家に泊まっていってよ。いいでしょう? 兄さまだって、せっかく家に帰ってきたのだし……お母様のお許しなら、僕が貰うから……いかないで……」
 すぐそこで、埋め込まれた石像のように佇立する兄を少年は首だけ振り返った。弟が比べられてばかりいる兄はなんの感情も浮かんでいない顔で、白い肌が青い夜の中で際立つ。少年には理解っている。彼の知性が兄を越えることが難しくとも、劣悪ではないからだ。非凡な。愛くるしい。温かな心臓を持つ。幼さを。子供時代を生きている。アーダルベルトには、兄にはなくて、彼にしかない才能がある。
 「行かないで。マルカ。どこにも行っちゃ嫌だ! ずっと、ずっと、そばにいてよ!」
 アーダルベルトは叫び、兄を見上げた。
 「連れていかないで! 兄さま!」
 アーダルベルトは浅い眠りのなかで、兄の言葉を聞いたのだろう。
 「いったい何の騒ぎです?」
 場の空気を切り裂くのは淑女の冷徹な一声。子供たちの母親。すべてを掌握し、管理する監督者。その場にいないはずのお気に入りの子供の顔を、目敏く見つけて機嫌のよい声で、弟の精神を蝕む悪性腫瘍。
 「あら。殿下ったら。いらしていたの。お越しになるのなら一言頂戴といっているでしょう。……シュナイゼル」
 「……居ても立ってもいられなくて、来てしまいました。母上」
 そう言って、彼女は息子を呼び寄せた。シュナイゼルはそれに応じ、彼女の頬にキスを数度繰り返した。幼い頃から仕込まれた教育を徹底し、望む通りに振る舞う兄に、弟は母親を味方につけようと追い縋った。
 「お母様! マルカが帰っちゃうんだ……今日はここに泊めてもいいよね? 一日だけだから!」
 「彼女は修道女なのですよ。教会の規則を守るべきです」
 敢然と母親は正論を突き返す。その言葉は重く、鉄壁だ。この家では彼女が絶対的な法典のように機能しているだけに、強固かつ堅牢な防壁であり、立ち向かう勇気は褒められても、二度目はない。
 「違う。兄さまが、マルカを……」
 「今日はもう遅い。アディ。お母様の仰る通りだよ。彼女を教会に帰さなければ」
 悠然と微笑むシュナイゼルは、母親の威に感謝しただろう。優等生な兄をそれまで愛してきた。どれほど比較され、二番煎じの愛であっても。甘んじていられたのは、兄が決して敵ではなく、いざとなったら助けてくれる存在だと信じていたからだ。
 「うそだ……」
 アーダルベルトの瞳の奥には絶望の色が広がる。
 「兄さまのうそつき!」
 「なんてことを仰るのです。アーダルベルト。謝りなさい」
 母親は目を剥いて弟を叱った。我関せず焉。シュナイゼルはそれさえも計算ずくだと、成り行きを見守っている。少年は兄を睨みつけ、叫んだ。
 「いやだ! 謝らない!」
 「まあなんて子!」
 それ以上は我慢の限界だった。この家族の関係を壊したくないと、マルカは思い、俯いたまま音もなく立ち上がった。
 その場で腰を落とし、優雅に裾を持ち上げて、アーダルベルトと淑女に挨拶をした。広がった黒のスカートは、翼を広げたコウモリのよう。それが別れの挨拶だと、察したアーダルベルトは嘆いた。
 「マルカ! 行っちゃいやだ! マルカ!」
 走り出そうとした少年の進行方向に、シュナイゼルは立ちふさがった。アーダルベルトは長大な壁を押しのけようとし、兄に細い腕を握られ悲鳴を上げた。
 「申し訳ございません母上。お茶を楽しむ時間もなさそうです。……今夜のところは。また日を改めてお伺いいたします」
 「そうね。なるべく近いうちがいいわ」
 「ええ、なるべく」
 マルカはもう一度会釈をすると、足早に音楽室を飛び出した。
 「送っていこう。雨が降り出したから」と彼は言った。
 シュナイゼルは動き出した。廊下に出るやいなや、マルカを逃さないように華奢な肩に手をかけた。ダンスが始まる前のように歩調をあわせて、ふたりは廊下を進み玄関ホールに出た。屋敷中の使用人達が列をなし、恭しく頭を垂れ、無彩色のアーチを交互に形作っている。泣きじゃくるアーダルベルトの声が、歪んだ讃美歌に聞こえた。
 シュナイゼルは修道女の耳元で囁いた。表向きの演出を加えた、無難な会話を装うために。
 「貴女の噂を耳にしてね。……素晴らしい家庭教師だと。……弟が迷惑をかけたみたいだ。彼の兄として謝罪するよ。感謝の印として、教会の寄付を多めに寄進しよう」
 なんて白々しい会話だろうか。成立しない独り言を聞かせて、彼はその場を乗り切った。マルカは彼の声を拒み、言葉として認識しないように、自身の靴先の丸みに意識を集中させていた。



67
午前四時の異邦人
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