忘却の箱庭







 睫毛の毛先の一本一本に、オーナメントがくくりつけられているかと思うほど、瞼が重い。
 クリスマスのもみの木。知恵の樹の実の象徴はいくらあってもかまわない。オーナメントボール同士をくっつけて、どこまで重さを増やせばこの大木は倒れるだろう。子どもの悪戯は尽きない。たくさんのボールに引っ張られて、歪に傾く形に変えられたツリーの前でクリスマスの家族写真を撮る。専属カメラマンも苦笑い。右と左の肩に二人の片手に支えられている。真っ赤なセーターを被せてもらって。大勢の大人たちに笑って≠ニ励まされれば天邪鬼が顔を出す。舌を出してやろうと画策すると、左の上であとで頭に六十三個めの知恵の実を飾ってあげるわ。おばかさん≠ニ母が囁いた。
 ――おばかじゃないもん。博士だもん――
 ――このお写真、聖下もご覧になるのよ? 恥ずかしいわ。今から替わりの樹を運び込ませるわけにもいかないのに――
 右上の父は軽く咳払いし、こみ上げる笑いを誤魔化した。
 ――明日の朝刊、クロニクルの見出しを当てるよ。イタズラ姫のご活躍で来年はやや右寄り≠ノなるだろう――
 ――あなた。やめて。調子に乗らせるわ――
 ――聖下には僕からご説明する。それで問題ないだろう――
 カメラマンの助手が大広間中に響く声でカウントをする。フラッシュが焚かれ、その瞬間がフイルムに永遠に焼き付く。歪なツリーの下の三人家族。ヘンテコな家族写真。
 ――ああ幸せ。ずっとこのままだったらいいのに。
 焦げ臭いにおいが幸せの下地から、裏から漂う。足元から立ち昇る腐臭。仲良く並ぶ骸。その間には入り込めない。
 ――私も一緒にいきたい。
 すべてを知って、それでも生きていかなくてはいけない? 耐えていかなくてはいけない?
 そこで二の足を踏む。長い時間が諦めてくれるのを待って。しゃがみ込んで、黒々とした骨の見える顔をいつまでも眺める。高い頬。落ち窪んだ眼窩。愛を込めてキスをすれば、死に近づけるだろうか。『わたし』は手を伸ばす。腐蝕を求めて。
 黒、白、黒、白。明滅する視界の狭間で、誰かが呼んでいる。それが遠のいて、何も聴こえなくなったあと――また誰かが呼んでいる。洞窟の中で何重にもビブラートする音の波紋のように。しつこく耳に残る。接着剤から引き剥がすようにゆっくりと瞼を持ち上げると、眼球がチクチクと不快な刺激に視野がぼやけた。世界は大きさも色彩も、なにもかも曖昧で膨らんで見える。――とにかく気怠く、憂鬱で、ついさきほどまでに視た景色に怒りと虚しさの消化が間に合っていない。
 ボタニカルの装飾的な天井の模様が、ぐるぐるとせわしなく踊っている。その傍ら、彼が『わたし』の冷たい手の甲を撫でている。動じる様子もなく、椅子から腰を浮かせると、夢と現実が不確かな腑抜けた顔を覗き込んだ。
 「……私がわかるかい?」
 もしも。彼の肖像画を描くとしたならば、半透明の翅を生やした小人の妖精がやってきて、鱗粉つきの蜂蜜で描くだろう。
 「……妖精」
 「うん?」
 美しい青年は微笑を浮かべては、計算尽くの心地の良い角度で首を傾げる。妖精などこの世界にはいない。すこしずつ、じわりじわりと生が現実の、物質世界に戻ってきたことを脳が受け入れていく。
 ――……ああ。そうか。
 死ねなかったのだと。
 優れた頭脳は健在で、鏡を見なくともすべてが自分自身の肉体に回帰したのだと思い至る。
 何度も薄暗い部屋から、他人の皮を被って外の世界に這い出てきたように状況を呑み込んでいく。こんな時にかぎって、無知蒙昧な知能を羨ましいと初めて感じた。
 ――死んでいない。
 力の入らない首から下の体を見遣る。絶望の墨色が滲みだす。薬のような苦味が胸の中を埋め尽くし、呼吸する贅沢を奪い去る。脳裏には火花のように幻覚が飛び散った。鮮烈な回顧は刹那的で、夢の残滓が思考よりも先に唇を突き動かす。
 「……あの男は……死んだの……?」
 頭の中は混乱していた。かき混ぜすぎて何もかもが正しくないように感じる。口から出た言葉の意味に思考が追いつけていない。
 長い沈黙の末、問い質したのは、あの男の生死についてだった。だが、優しげな金髪の男は、無感動な薄い笑みを貼り付けるだけで、役立ちそうな情報を教えてくれそうにない。それはそのはず、彼の質問に答えていないのだから、おあいこだ。
 「私が誰だか思い出してからだよ」
 余裕を崩さぬ落ち着いた声に『わたし』は苛立ち「……ばかばかしい」と吐き捨てる。刺々しい悪態に対し、効いていないような顔と戯けた口調で「おや。――傷つくよ。その言葉は、私でもね」と彼は言った。
 「……がっかりさせないために、がっかりさせているの」
 「何についてだい?」
 彼女の要領を得ず、主語のない言葉をシュナイゼルは追いかける。「これからについて」と短く言った。
 「まだ早いよ」と落ち着きすぎた声が返した。『わたし』は動きづらい、痛みの伴う眼球をぐるりと回して美しい男を睨みつけた。効果はない。それどころか、嬉しそうに目を細めている。
 「まだ早い」
 もう一度彼は念を押すように口にして、大きな掌が、そうすることが自然で当たり前であるかのように女の手を握った。
 よくよくベッドの周囲を見渡せば、その部屋の壁際には秘書官。医師が三人。女官に侍従、侍女らが控えめに様子を窺っている。すると、部屋の外にも多くの従者らが控えているに違いない。大袈裟な溜息を吐いて、くしゃりと顔を歪めた。
 「……生きていることを、嘆けばいいの?」
 その言葉を耳にし、殆どの者の顔色が変わったのを見逃さなかった。彼以外の。その彼だけは、くすくすと笑っている。
 「……やれやれ。……以前よりも調子が戻ったことを祝おう。王女の頭脳は健在だという証左だよ、諸君」と、大勢の従者を振り返って言った。
 耳を疑った。彼の言葉に引っかかりを覚え「以前より?」と訊き返す。
 「……私は、私でないときがあったの?」
 「憶えていないのかい?」
 そこで彼は本当に目を丸めた。
 「まったく」
 視界はまだクリアにならない。それどころか、自分の言葉や記憶もあやふやだ。手の甲を緩やかに往復していた、端正な指の動きが止まる。
 「話してあげても構わないよ。……その頃のほうが、実に病人らしかったし、愛らしかった。年相応にね」
 「気色の悪いことを言わないで」
 「……ははは。……すこし寂しいけれど、今のが貴女の本当の姿のようだ」
 鋭く反抗的な返しに彼は喜んだ。どんな酷い言葉も吸収してしまいそうなほどに。
 「……そうでもないわ。……今は、虫の居所が悪いの。とっても」
 どうしてそこまで腹立たしいのか。理由もわからなくなってくる。ついさっきまで思い出せていたのに。ひどく不鮮明な、液状化した――曖昧模糊な感覚に囚われている。彼はもう一度、自分の名前を憶えているかと尋ねた。
 「……私が誰だか、わかる?」
 『わたし』は、不思議なことに、その名前だけは覚えていることに気づき、不満を隠さずに口を尖らせた。
 「――……シュナイゼル」
 彼は――シュナイゼル・エル・ブリタニアは、望んでいた言葉を聞いて目を眇めた。
 「貴女自身のお名前は?」と窺い見る瞳と交わり、『わたし』は本当になんて馬鹿げた問いかと思った。
 「ティラナ。……ティラナ・ヴァル・カストリア。……洗礼名も言う?」
 満足気にくつりと喉を鳴らして笑い「いいよ」と首を短く横に振る。「我が女王陛下」と唱え、シュナイゼルは握り直した手の甲にキスを落とした。



 a.t.b.二〇一二 June
 カストラリア カストラリア王宮・主寝室

 
 ネグリジェの裾下から潜り込んだ手が聴診器を宛てがい、Dr.ゼーバッハは銀色の太い眉を持ち上げた。
 「問題ございません」と告げるその脇で、助手の若い医師がパソコンで開いたカルテに打ち込んでいる。他に数人の医師と看護師が部屋の中に並び、さらに部屋の外に絶えず動いている人の気配に、気持ちが落ち着かなかない。この場にプライバシーは皆無だ。「ここをヴェルサイユ宮殿と名付けたほうがいいくらいね」と皮肉を言えば何人かが愛想笑いを浮かべた。
 「……それじゃあ、暫くはベッドの住人でいてもいいのかしら」
 「もちろんでございます」
 Dr.ゼーバッハは笑顔のまま、聴診器を首に掛け直した。彼が丸椅子から退くと、次の順番を控えた別の専門医がそこに座って準備を始めた。身体的な検査は終わりだ。解いたネグリジェのリボンを指で掬い、くるくると巻き上げて結びあげる。シュナイゼルは主寝室の出入り口に近い壁際で女官と話し込んでいたが、その時間も終わり、顔をティラナの方に向けた。
 「……そんな端っこにいないで、こっちに来たら?」
 「おや。……顔も見たくないと言い出すのではないかと思っただけだよ」
 「気分が悪いだけよ」
 「八つ当たりにも可愛げが欲しいよ。前みたいに」
 前≠ニはいったい何時の話なのか。別人について賛辞を述べられているようで、内心落ち着かない。
 「なあに。……そんなプレイを楽しんでいたっていうの?」
 「楽しんでいたと思うよ?」と、シュナイゼルは際立つ長身をゆったりと動かして、ベッドに近寄った。現実をはっきりと認識するごとに、ティラナはそれまで覚えていたはずの、明確な記憶の輪郭を喪失していった。客観的にみれば恐ろしい状態なのだが、その感覚さえも鈍く、今は顔をみれば相手の名前を漸く思い出せるといったところだ。主寝室の外からは哀れむ息遣いが聞こえた。
 「本当に忘れてしまったのかい」
 「……そのうち、上手く思い出せるようになるはず……今までだってそうやって……、今まで……?」
 言いかけて、ティラナは眉根を寄せる。
 高い位置から見下ろすシュナイゼルの表情は彼にしては%ワっている。それがジョークでは済まされないと証明するように、深刻な厳しさが透けて、深刻な状態なのだと自覚を促される。
 ――彼にしては=H
 引っかかる。それもおかしな感覚だ。
 比較対象となる基準を識っていなければ養われないもの。蓄積の厚さ。つまり、無意識の堆肥がピラミッドのように、地中深くに眠っていると訴えかけてきている。
 ティラナはどうにか、その記憶の正体を掘り起こそうと、こめかみに手をあてた。
 「ああ……」
 どうか≠ニ祈り念じるように溜息を吐き、何もかもを整理する。視界に入る情報だけでも、かなりの時間が経過しているとわかる。
 ――かなりの時間? それはいったい、いつから、いつまでの話だというの。
 白い手の覗くネグリジェの裾を腕ごと持ち上げる。締め付けのない、緩やかな、なめらかな肌触り。既製品のタグなど存在しない一品物の寝衣。ライムグリーンの軽やかな色合い。寝返りを打つのに気を散らすレースは少なめ。装飾を排除し、実に機能的。ティラナの好みに合わせられている。
 「……ふたりきりにして」
 その命令だけで、従者たちは黙って目礼すると、主寝室を一斉に立ち去った。何もかも思い通りだ。
 大きな扉が静かに閉まる。シュナイゼルは確認することもなく、ベッドの脇にある椅子に腰掛けた。
 「どれくらい眠っていたの?」
 「最近のかい? それとも、一年前までの話かな」
 「……最近と一年前? それって、区切りがあるということ?」
 「そうだね。貴女は短期間の間に都度、記憶を喪失している。リセットに近いかな」
 シュナイゼルの説明はかなり的確で、リセットというワードにすんなりと腹落ちする。
 「そう。やっぱり、憶えていない期間は……最低でも一年以上はあるのね。……今は何年? 皇暦は?」
 「……皇暦二〇一二年。……あと五か月で、貴女の誕生日だよ」
 「……二十五になるのね。それにしては、体が子供すぎる気がする」
 「そのうち大きくなるよ」
 彼の言葉通りに腕や足の痛みは漫然と続いている。骨の伸長に筋肉と腱が引っ張られて生じている痛みだ。
 確信的な口ぶりに、長期的な昏睡状態の発育不良ではなさそうだとティラナは思った。また、かなりの長い空白があるにもかかわらず、シュナイゼルの顔を見て驚きを感じないのはある程度の慣れ≠経験しているのかもしれない。だが、それさえあやふやだ。
 もどかしさにティラナは目を瞑る。
 「さっきまですべてを、思い出せていたの。完璧に。自信があった。夢の中のことを思い出したまま……でも、ほとんど現実の話みたい。……十二年、十一年も眠っていたのじゃないかと思ったけれど。……たぶん、それは間違っていて……予想と違うだろうということを悲しんでいるわ」
 「私が誰だかわかるかい?」
 「……さっき答えたじゃない。シュナイゼル」
 何度目かの名前を問われ、やけくそ気味に答える。
 「名前はね。私が何者で、私たちがどんな関係性か復習しよう」
 「それって、重要な話?」
 苦笑しながら彼は「重要だよ。どんな話よりも」と言った。
 「婚約者でしょう……? 私の」
 「うん。その通り。……他には?」
 「他に……? 婚約者ということは、まだ結婚していないんでしょう?」
 求める答えを引き出そうとシュナイゼルは質問を続けるが、的外れのようだ。
 「たしかにそうだ。……だけど、その話ではないよ」
 「まどろっこしいわ。はっきり仰って」
 苛立たしいのを抑えつけて、正しい答えを促す。一つ一つ正確に検査されるのは、気持ちの良いものではない。
 「……私なりの優しさなのだけれど。……お望み通り教えてあげようか。……私はね。君の代わりに摂政を務めている」
 やっと情報量のある答えを得て、彼が出し惜しむ理由がわかった。優しさ≠ネのはその通りだ。遠回しな優しさだ。特別な青紫は片時も視線を外すことなくティラナの瞳に向けられている。
 「……十二年前から?」
 「ああ」
 「……お父さまもお母さまも死んだの?」
 「残念な話だけれど。……あの男が、そうした」
 「あの男=H」
 尋ね返すと、八の字に眉を下げて彼は短く笑った。
 「先ほど貴女が自分で言ったんだよ。……もう忘れてしまったんだね」
 寂しそうに、どこかが痛んでならないと眉間に小さな皺が寄るのをみて、新鮮な汗がティラナの肌のうえを伝った。
 巨大な不安の雲が頭上を覆い隠している。口にした言葉は辛うじて思い出せたが、そんなにすぐに忘れてしまう自分自身にショックを受けた。まるで硝子に熱い吐息を吹きかけて、その曇りが消え失せていくようなほどの速さで。自分自身の記憶力がまったく頼りにならないのを痛感し、ティラナは苦い顔つきになった。
 「何を知ったんだい」
 心情を知ってか知らずか、彼は問いかけを止めなかった。
 「何を? 何についての質問?」
 わからないことは無限にある。今の自分自身がどこまで正確であるかさえ不安がつき纏う。よくよく考え込んでみれば、どうして自分の名前と彼の名前だけは憶えているのかさえ、上手く説明できない。絶妙な歯痒さにむっとしてティラナは拳で太腿の上を叩いた。
 「貴女は、あの神殿のところに入ったんだよ」
 「神殿……ですって?」
 神殿とは王室の祭祀所で、殆ど立ち入ることは許されていない。ティラナでさえ、父から立ち入ることを禁じられていた。だが、そこへ赴いた記憶というのは、その他の物事よりも鮮明に思い出しやすいところに残されていた。夜にしては明るい岩場の入口のビジョンが、切り取られた一枚の写真が頭に浮かぶ。
 「神殿? ……禁じられた場所に? ……たしかに行ったような気がするわ。なんで? ……その日は、満月だった?」
 一瞬考えて、彼はすぐに答えを教えてくれた。
 「そうだね。外が存分に明るかった。満月だよ」
 「……今夜は……?」
 「半月じゃないかな」
 「十日も経っているのね」
 それ以降の記憶は皆無で、その記憶の断片的なところの前後で倒れたのだろう。経過日数に落ち込む彼女の手にシュナイゼルは全体的に大きな手を重ね、包み込むように握った。
 「助けが必要かな」
 感情をあまり入れ込みすぎない柔らかい声が涙を誘う。彼はティラナの深刻な心情を裏切り、どこか嬉しそうにしている。
 「……みっともないくらい、必要よ。……涙が出る」
 じわりと視界が滲んでいく。指の腹で水気を拭うが、目頭の熱は高まるばかり。
 「でも……人前では泣いちゃだめなの。王族は。人間らしい感情で振り回しちゃいけないんですって。……どんなに哀しくても」
 涙を流さないための言い訳を探さなければ、簡単に諦めてしまいそうになる。子供の頃はとにかくすべてに抵抗していた。
 「……全部知っているの? ずっとベッドの上の住人じゃないってことくらいはわかるわ。体中の筋肉が動くもの。骨はともかくね。……十二年前から、今まで……私が、どうしていたのか」
 「おおよそは、知っているつもりだよ。……貴女は、たくさん名前を持っていて、貴女でない他人の人生を生きていた」
 とてつもなく嫌な予感が背筋を天馬の如く駆け抜ける。緊張のあまり、吐息が唇を乾かし、肺を締め付ける感触に目を伏せた。
 「……話してくれる?」
 一拍置いて彼は抑揚のない声で「……怖いといったら君は驚くかい」と言った。
 シュナイゼルが言うとそれは冗句に聞こえる。恐怖なんて彼の中にある砂漠をいくら探っても見つからないだろうと、なぜか知っている。
 「怖くなんかないわ」
 「怖いよ。すごく。とてもおそろしい。君は……何度かショックを受けて記憶を失っているし、私にはそれを御する術がない」
 このようなことが何度も繰り返されているという示唆に、ティラナはうっと言葉を詰まらせた。他人の人生を生きていた≠ニ聞くだけで鼓動が跳ね上がるほど脆弱な精神性に、何度目かの溜息をつきたくなる。水面下に眠る氷塊の鋒に皮膚が破け去り、傷の箇所がジンジンと痛み脈打っている。しばし立ち込める静寂に彼が今日はやめにしよう≠ニ言い出しかねないと思い、ティラナは話を強くせがんだ。
 「おねがい」
 「貴女がそうやって無理矢理にでも思い出して、最悪のケースを免れたことがないと考えるよ」
 彼の主張はもっともだ。もしそれが嘘だというのなら、こんな風に不安定な状態に陥ってはいないだろう。
 「思い出してはいけないの?」
 「諸刃の剣だよ」
 ただ眠っていただけなら、これほど勿体つけることもない。喩えは、はっきりと確信的で、それ以上話すことを辞めたがっている。
 「思っている以上に繊細で脆いんだよ、貴女は。……お父上に似てね」
 「侮っているの?」
 なんだか馬鹿にされた気分だと、ティラナは語気を強めた。
 「美徳だ。何にもかえ難い。……私は貴女のお父上から託された」
 「お父さまからお願いされて、お守り役をやらされているってわけね。……うんざりしているんでしょう? このやり取りも何度目? 苦労に見合わない結果に呆れてる?」
 「性急だよ。悲観的にならないで」
 彼はブレーキのレバーを引いた。無性に腹立たしく、悲しい感情が胸の中を占めているが、どうすることもできない。
 「……わかるわけないわ。こんなに惨めな気持ち。……いっそ大人しく死んでいたほうがマシ」
 「それは受け入れられないよ。困ってしまう。みんなが」
 反論を封じ込めるように「私にとっても」と言いながら、シュナイゼルは頬を寄せた。大きな体を持つ彼には、ほんの僅かな動きでティラナに迫ることができる。造作もないことだった。
 「すべてを話すよ。でもそのかわり、生き続けると誓って欲しい」
 頬に触れる冷たい頬に対して、その言葉は熱を保っている。
 「……みんなのために? あなたのために?」
 「すべてのために」
 涙を流しながらティラナは笑った。
 すべてなど、王冠の重量を超えている。首がもげても頭にくっついていれば文句がなさそうなほどに。無茶苦茶だ。そうでなくとも既にこの身は死刑宣告を受けた囚人だ。生まれながらの囚人が、不透明な処刑日に怯えて暮らして服薬自殺を図ったのに、運よく目覚めたとき、その日が明らかになった心地。
 「強めの、モルヒネが欲しい」
 「モルヒネ?」
 彼は涙のにおいを嗅ぎながら、なんの比喩だと尋ねた。
 「それよりもフェンタニルかオキシコドンがなきゃ耐えられない」
 「困ったね。すっかり薬物中毒者だ」
 「末期よ。この血統の末期がん患者。悪性腫瘍は全身に転移している」
 こともなげに「恐ろしいな。当たらずといえども遠からず」と相槌を打つのに、「安楽死は必要よ」とティラナは念を押すように言った。
 そうして、片眉を深く沈めて「私に心中をしろと?」と彼は首を捻った。
 「貴方には帰れる場所があるわ。私にはない。私が私である以上、揺りかごから墓場までここだと決まっている」
 シュナイゼルは身を引き、椅子に座り直した。
 「聞き入れられないな。思う壺だよ。ティラナ。……あの男≠フ願望に従う方法を選んでしまっては」
 ティラナは恨めしげにシュナイゼルを睨んだ。交換条件には大いなる好条件が必要だ。生き続けろと願うならば、それ相応の対価が。
 「私が貴女のモルヒネであれば、喜んで貰えるのかな」
 「夢の神になるっていうの?」
 モルヒネの語源、ギリシャ神話に登場するモルフェウスは夢の神で形つくるもの、夢をもたらす者である。
 「安寧の眠りをもたらすには、私が必要だろう?」シュナイゼルは得意げに言った。
 「薄暗い洞窟の黒檀のベッドに、ケシの花に囲まれて暮らしている?」
 「ホリドゥラに囲まれてね」
 にやりと笑うので脇腹を指で突きたくなった。
 「……上手いこといったつもり?」
 「おや。なかなかの出来栄えかと自賛したいところだが」
 呆れたくなったが、彼はなにをしても喜ぶだろう。長い年月を経て、少年の頃のあの可愛らしさはすっかり抜け落ちて、すっかりいじわるになってしまったようだ。恋しさを偲び、ふうと息を漏らす。
 「……話してちょうだい」
 「誓ってくれるね?」
 シュナイゼルは最終確認をした。ロマンスの甘さの一欠片もない圧力に屈しまいと、ティラナは胡乱な目つきで「それは、あなたの効き目次第ね」切り返した。彼は満足したように頷いて、軽やかに笑った。
 「ははは。……これは、弱ったな。……では、最近の話からはじめようか」



69
午前四時の異邦人
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