a.t.b.二〇一二 June
カストラリア リダニウム・カストラリア王宮
天井にまで迫る窓は換気のために開け放たれ、吹き込む初夏の熱が山から降りる湿潤の風が肌を撫でていった。
Dr.ゼーバッハは病衣の長裾から伸びる脚に触れ、上から下へと異常がないか順繰りに確認していった。意識が覚醒してからというもの、体全体の疼痛が慢性化し、就寝前に軽いマッサージを施さなければ眠れないほどだ。
「腕と脚がずっと痛いわ。これは成長痛なの?」
「ええ。王女様。……お若い頃に採取されたもので復元し、調整のために十代の半ばのお身体から形作っている状態でございまして」
ベッドの主となって半月。本当のところ一年以上も仮死状態にいたようなものだが、Dr.ゼーバッハの説明通りこの肉体は成長途中発育真っ盛りということらしい。
「元となった生体細胞が子供時代のものだからということなのね」
「左様でございます」
にこやかに応じるDr.ゼーバッハは、小さな椅子から尻をはみ出させてカルテに書き込んでいった。ベッドの上で身を起こすティラナは、この肉体の状況を一時的に王宮火災′繧フ治療の続きだと教えられていた。もっとも建前であることくらいは見抜いている。事情の大半を中略して、子供時代の細胞で発育不良を活性化させる治療というのはやや無理がある。人体は意識がなかろうと成長をするもので、もし成長だけを目的とするのなら細胞を用いる必要などはないからだ。
退屈な病人生活での楽しみは、身の回りの世話をする侍女たちに冗談をかけることくらいのものだ。「ふうん」と曖昧に頷いてティラナは何事かと考えを巡らせた。
「……この技術が一般化されたら、スーパーアンチエイジングになるわ。それで一儲けってわけ。いいビジネスプランだと思わない? みんなのボーナスも増えるわ!」
「まあ。王女様ったら」
侍女のひとりルイーゼが笑った。「反カトリック的商業主義者の発想?」と聞き返せば、一連のやり取りを聞いているDr.ゼーバッハの失笑が漏れた。清貧を重視するカトリックに金銭主義は卑しいものと扱われる。
「笑い事じゃないのよ? 親知らずの歯髄から歯の再生だって可能だっていうのに! ……あら、物好きな見物客が増えたわ、いらっしゃい。異端審問所へ引き渡すか、パパ≠ノ密告なさる?」
「残念なことに私の国は反カトリックであり、離脱者の末裔だからね……宗教改革でも始めるつもりかい?」
「また家が火あぶり≠ノなるのはごめんだわ」
不謹慎な冗句に、訪問者のシュナイゼルは咳払いをして侍女に話しかけるように仕切り直した。
「失礼。レディたち。会話の花を咲かせているところにお邪魔したね」
ベッドの上でティラナは腕を組み、ルイーゼが困った様子で返答する前に割り込んだ。
「まったくよ。おじゃま虫のご登場ね。へそくりを貯めるための秘密会議だったのに!」
「……非常に興味をそそられるね。私を差し置いて、夏休みの計画でも立てていたのかな」
「摂政殿下のあなたからしたら、万年夏休みの私には贅沢な計画だって仰っしゃりたいんでしょ?」
「おや。それは被害妄想だよ。味気のない夏とこれでおさらばだというのに」
シュナイゼルはベッドの傍らに回り込み、そっと首を伸ばすとティラナの頬に唇を寄せた。
「……? ……夏休みくらいお国に帰ったっていいのよ?」
「ははは。ここで鈍いふりをされるとは。……今年は帰らないよ。仕事が山積みだからね」
「ここで偉そうにしている、大きな赤ちゃんのお世話で大変ってことね」
得意の自虐に数人の侍女が口元をそっと押さえた。その程度で咎めるようなことはしないティラナへ、シュナイゼルは肯定を示すようにキスが反対側の頬とを往復し「もう!」と彼女が喚いた。
「……さあ着替えて。デートに誘いに来たのを忘れるところだったよ」
「デート? ルームツアーじゃない。せいぜいお散歩よ。首輪付きの」
ぐだぐだと文句をいうティラナをそのままに、シュナイゼルの目配せを受けた侍女が、カバー付きの衣装を何着か運んできては目の前で並べてみせた。
「どちらをお召しになりますか?」
カバーの外れた衣装はどれもアースカラーの落ち着いた色を基調としたもので、違いといえば素材やレイヤーの量にあった。
「あまりこだわりはないの。……でも病人らしくないほうがいいわ。そのピエロみたいなフリルはナシね。レースは動くと擦れて痒くなるし窮屈なのも……、こだわりが多いですって? 普通の服でいいの。ここは家の中よ? シャツにサマーセーター、シンプルなパンツでいいの。寒さ対策に分厚いソックスも。ピエロはバルコニーに立つ時だけにしたいわ。真っ赤なリップを塗ってね」
饒舌な注文に侍女のひとりが慌てて衣装室に駆けていき、要望通りに取り揃えられたのをみて、ティラナは満足気に頷いたのだった。
「それでは殿方のみなさんはご退室いただくか、くるりと半回転して壁の絵とお好きな朝食のお話しをなさって! まあ、殿下ったら。ドレスのお召替えが必要なの? サイズはあったかしら。あなたぴったりの」
侍従や医師が退室するなか一歩も動き出さないシュナイゼルに、ティラナは笑い混じりに冗句を投じた。
「……ふふ。わかったよ」
彼はそう言い残して退室したその出入り口の扉前に衝立が立てられる。
幾ばくかのプライバシーを保証された寝室で着替えると、一番最後に侍女が持ってきたばかりのシューズボックスを開けた。刺激を軽減するコンソール入りのゴムシューズ。豪奢なシャンデリアと、高級シャンパンパーティーに出掛けられるような華やかさはない。転倒防止、セルフダンスを防ぐための逸品だ。
白い手のひらが眼の前に現れる。
「お手をどうぞ。マイレディ」
「……あら。どうもありがとう。入っていいってまだ許可してないけど」
差し出された腕を頼りに立ち上がったティラナだが、その歩行の調子をみてシュナイゼルは提案を囁いた。
「車椅子を用意させるかい? 足が痛むだろう。安静にしていたほうがいい」
「大袈裟なんだから。すっかり病人じゃない」
「ここ十数年間、その状態でなかった時の方が少ないと思うよ」
笑いながらシュナイゼルはそう言った。なんて悪口だろう。
「ひどいわ」
「事実さ。……さあ座って」
いつの間にか侍女によって車椅子が用意され、ティラナは不承不承そこに腰を下ろした。
屋外は気持ちの良い陽射しと風が吹き渡っている。草花や土、澄み切った空から蒸せる生命のにおい。埃被った古いものを天日干しにするには程遠い日。
灰色がかったの水色に浸る鳥影の大群が、気流に乗って一方通行に通り過ぎる。蒸し暑いモンスーン特有の湿気ばかりの、身動きを制する煩わしい気温と、雲と霧に近い標高が衣服をしっとりとさせ、繊維の張りを失わせる。「ピエロの真似事をしなくて正解だったわ」と言えば背中越しにシュナイゼルの笑い声が耳朶に伝った。
「……それで。そのひどい病人の頃のお話は、いつ聞かせてくださるのかしら?」
「記憶の回復次第だよ。順番を間違えると、余計に混乱するだろうから」
「……全部計画通りに進めたいってことね」
肝心な話をする時、その主導権はシュナイゼルが握っている。どこまで思い出せるのかも、思い出す必要があるのかも。目覚めて最初の日、彼はパニックに陥らないように細心の注意をはらい、時間をかけてじっくりと昔話をした。昔話といっても、数カ月以内の話ばかりで本当に大切で重要な、それまでの出来事には一切触れようとしない。
王宮および王室の職員は、一時的な王様の命令を絶対に守っている。当たり障りない上辺の会話ばかり。両親が薨去し、ブリタニア皇家出身であるはずの少年が、婚約者の代理人を務めて君主制を維持している。摂政とはいうが、誰にでも出来る仕事ではない。
国家として称号でも授けなければいけない功労者である。ティラナがするべきことは、諸手をあげて謝意を示す必要がある。――だが、ティラナの心境は複雑な紋様を描き出していた。
子どもの時間は終わりだと、誰が言うまでもなく、モラトリアムと反抗期に、涙まじりにお別れのキスを交わさなければ。理性は、頭の中に居座る警察官は、年月を浪費し心を置き去りに大人の年齢に達した王女を、厳しく律しようとしている。記憶は抜き去られ、骨や神経が露出しているドライソケットみたいに、不意に疼痛が襲いかかる。
「私は……神殿に行ったのよね?」
車椅子を押したまま、彼は答えた。
「脱走したよ。困ったことに、また監視の目を掻い潜って。常習性を危険視しているところだ」
「困らせてばかり?」
「あはは。おかげで目を逸らす暇もないよ」
「あら。お世話さま」
庭園に差し掛かった。裏手の神殿へは長い道のりだ。研究棟のあるエリアを目前に、その白く舗装された道に赤い斑点や黒い人影の塊点々と続く――嫌な景色が頭を掠めたが、シュナイゼルの声によってそれは打ち消された。
「綺麗に咲いたね」
元通りに修復されている。なにもかもが刷新されることなく、時間だけを巻き戻したかのように。
一方でシュナイゼルは、今の状態のティラナがこの場所を、ノエルの頃に訪れたことが蘇ることも期待したが、煮えきらない曖昧な表情で眺めた。身の回りのものすべてが記憶を復活させる接点であるが、ラインを引くことが重要らしいとシュナイゼルは理解し始めていた。ある事柄と事柄を紐づける関連図。それはまるで、要素と要素の結合を表す構造式だ。
「昔、花冠をつくってくれた。ホリドゥラの花を編み込んだ綺麗な花冠を。歓迎の印に」
「……夜に、温室に来た時のことね?」
ティラナは車椅子を押すシュナイゼルを振り返る。
「その時貰った花冠はどうしたの?」
「持ち帰ってドライフラワーにしたような憶えがあるよ」
気を良くしたティラナは頬を丸めた。
「あなたが言うなら間違いないわ。……私の憶えていることよりも正確ですもの」
「私が嘘をついているかもしれないよ?」
「嘘? 都合のいい嘘をね。……私のことが好きだっていう嘘を?」
「冗句が過ぎるよ。ティラナ」
戯けてみせたシュナイゼルに、細い首を捻った。
「そうかしら。政略結婚に愛情は重要ではないわ。制度が機能すればいい。最低限ね」
「貴女のいう最低限という閾値は高いと思っているよ」
「理想が高すぎる?」
「多くの挑戦者はエベレストを知っていても、踏破せずに人生を終えるのと同じだよ」
「……それはそうね」
峰の縁が淡く銀に輝く頃。花園の中。追従する従者たちと僅かな距離を挟み、その告白にも似た秘密の言葉は、肺を満たす薫香に紛れる。
「貴女という山を登りきるよ。私は。生涯を懸けて」
まるで、毒のように。
密やかな侵入に、ティラナは大袈裟に声を上げた。
「……びっくりした! どこでそんな気障な言葉を覚えてきたのよ!」
「あはは。……自習時間は長かったからね」
神殿に続く洞窟の前で車椅子を停めさせて、やや頼りない足取りでティラナはシートから腰を上げた。
「歩けるわ。ここから先は車椅子じゃ進めないでしょう。すぐに戻ってくる。……やましいことがなければね!」
「疑っているのかい?」
「いいえ? ……それで、あなたは神殿には入ったの?」
シュナイゼルは侍従からハンディライトを受け取り、カチリと音をたてて照明を点けると、暗い彼方に光を射した。
「貴女が倒れているのを運び出したのは私だよ」
「第一発見者ということね。私が死んでいたら真っ先に疑われる人」
シュナイゼルはくすりと微笑んだ。風がびゅうと音をたてて洞窟の中に吹き込む。
「……まるで私たちを吸い込もうとしているみたい」
笑い声のような風音が強くもう一度吹いた。
シュナイゼルの右腕に手を絡めて進む洞窟はいつまでも靴音が反響し、回りまわって後ろから誰かがくっついてきているような錯覚をもたらした。
耳奥ではそんな音は聞こえないはずなのに、子供の激しい息遣い、喘鳴がうねっている。あれは風の音。まるで魔笛≠セ。
「なにか思い出せたかい」
「……上手く繋がらないの」
「というと?」
従来の薬物探知犬のように隈無く探り当てようとするが、匂いに触れてもその正体がどこがどこに繋がるかまではわからない。なぜなら、本来その点を繋げる役割をするのは主人である人間が行うからで、犬は必要な仕事を果たすだけでいいからだ。ティラナは犬と人間の両方の仕事に追われていた。
「……あなたと婚約をした事実を受け入れているわ。……それにしては、不可解な記憶がいくつかあって」
断片的にピースはあるが、隣り合うもの同士の合致箇所と合わない状態ということだろう。
「……全部知っているの? さすがに知らないことのひとつやふたつはあるはず」
「知らないことは知らないと答えるよ。私は貴女と常に一緒にいたわけではない。だけど、大まかな時期と行動順路は把握している」
「あなたはメモリーカプセルね」とティラナは笑いながら言った。
何気ない喩えだったかもしれない。
シュナイゼルはその言葉をきいて眉を跳ねさせた。皮肉なことに、ティラナはメモリーカプセル≠ノよって蘇った。その彼女の記憶の大部分を、時系列順に説明できるのも、おそらくはシュナイゼルだけだ。
それまで執着を持たなかった生命に、自分自身が欠けることで彼女が成り立たなくなるようになってしまった。
もはやティラナが存在し得るには、その記憶を保ち続けるには、復元するには。シュナイゼルの存在が欠かせない。相互作用、相互補完、もしくは相互依存関係に陥っている。闇に乗じて、昏い愉悦に目を綻ばせる。
「たしか……坑道の脇道の方を上っていくと、ラボがあったはずよ」
「覗いてみようか」
脇道を登り、岩穴の中には鉄扉が埋め込まれている。鍵はかかっていなかった。
「昔のままだわ」
ラボに照明が点き、こぢんまりとした室内がぱっと明るくなる。大半の資料類は引き上げさせたが、実験テーブルのうえの器具はそのままだ。ティラナは真っ先に戸棚の方へ向かった。
「……ない。……ここにあったのを移動させた?」
「火災後に回収したよ。ない、というのは?」
空っぽの戸棚を覗き込んで、彼女はあそこにあったはずのものを思い出していく。
「ここにノートと、データの記録と……論文の草稿を保存してあったはずなのに、なかったの」
「それはいつの話?」
「……火災の前よ。だってここで……ないことに気づいたすぐあとに……あなたと会っているんだもの」
「その失われたものは一冊?」
「一冊というより、一式? 一纏めにファイリングしてあったの」
紙の資料のほか同封する記録媒体には、論文データやまだ未公開の下書き段階のものを保管してあるが、ティラナは「一冊だけない」とはっきり口にした。一冊のなかには初期論文の複数のものがあり、サロニア公の別荘の金庫で発見されたノートや書類と合致すれば剽窃は確実となる。
「ねえ。シュナイゼル、なにか知ってる?」
「論文のタイトルは?」
ティラナは額に手をあてて瞼を閉じ、論文のタイトルを唱えた。
「ええと……第二論文には、細胞外マトリックス足場を基盤とした異物組織統合寛容の確立……第四論文には、生体外臓器培養における血管新生制御と酸素供給・代謝持続性があったはず。簡単にいうと……免疫系の拒絶を起きないようにするためのもので、第七論文には人工血液のヘモグロビン単量体再設計に関するものがあるわ」
シュナイゼルは小さく頷く。捜索させていた調査リストの項目と合致していた。
「第九論文には、長期細胞ストレス下におけるミトコンドリアの機能保存・外科的外傷の回復への示唆を記したものがあって……これはまだ不完全な技術で……論文はともかく、大事なのはスクリプトノートの方。そういう意味では一冊よ」
スクリプトノートは設計図、あるいはスケッチボードのようなもので論文に至るまでのアイデアやもっと複合的で、洗練されていない℃v考の軌跡を辿ることができる。いわば、研究者本人のプロセスを追うことが可能で、つまりその段階で予見される考察が含まれている。ゆえに結果である論文よりも情報量が豊富かつ、価値でいえば遥かに高度な資料ということになる。
ティラナは蹲り、思考に耽っていた集中力を中断し、淡い眼差しをシュナイゼルに向けた。
「ティラナ?」
「……私が、王宮で火災が起きてそのまま眠っていたという話だったけれど……。やっぱり、それは本当の話ではないんじゃない?」
「なにを思い出したんだい?」
研究スクリプトノートに関連する想起のどこかで、付随する記憶も蘇ったようだ。
「嫌な気分。体の内側に虫が這い回っているような感触がして」
そこから長い沈黙に陥った。
「ここに来た理由は……単純よ」
ティラナは緊張を緩めようと、自嘲気味に微笑んだ。
「私は、ここで……前にも同じように失くしたものを探していた。……お父さまのために頑張っていた研究。私の拠り所を確かめるためにここにやってきた。そして、この場所で……ある記憶を思い出した。……私には、もうひとりの私がいた。……――マルカを知ってる?」
「……知っているよ」
そこまで思い出したか――と、シュナイゼルは内心呟いた。記憶の回復に至るまでのエネルギーの凄まじさ。それは脳へのダメージと同等である。
「なぁんだ。やっぱり全部知ってるのに、自力で思い出させようとしているのね。リードに繋がれた犬の散歩みたい、デートじゃなくて散歩≠ヒ!」
慣れ親しんだ冗句を挟んでみても、深刻な表情は中和できないのかティラナの表情には陰が残る。
「……マルカは……私だった。でも、それは正しくないんでしょう。入れ替わっていたから。私は……ここで……、ここで……」
弱々しい物言い。戸棚のガラス窓に手をかけて、立ち上がろうとする足元がふらふらと揺れている。
「休憩しよう」と言い、シュナイゼルはテーブル下の丸椅子を引き出した。
「もう少しで思い出せそうなの」
机に肘をつき、再生されたばかりの、細くしなやかな腕が垂れる頭を支える。生えたての短く柔らかな髪から、白い項が光っている。彼女の体には継ぎ接ぎや、傷跡ひとつない。
「頭が痛い」といって溜息をついた。その次に「薬が欲しい。鎮静剤を」と続け、シュナイゼルを見上げた。
無意識に刻まれた常習性は脱走だけではない。薬物濫用も同じだ。何度か記憶の復元を試みて、負荷をかけてきたのだろう。記憶の復元に併せてそのショックの過負荷に耐えきれず記憶喪失を引き起こす。負のスパイラルに陥り、破滅に突き進む。
特別医療班の医師らは、総合的にみて、記憶の復元には頭脳への消耗がもっとも激しく、他の臓器のように代替が効かないと結論を出した。また彼らは、ストレスや長期的なトラウマが遺伝子の長期記憶――エピジェネティックス、後天的に遺伝子を書き換えてしまう懸念を示した。
――ここまでが、限界か。
いくら身体を綺麗に再生したところでも、こうした悪循環が慢性的に継続する状態では。医師らの最も言いたいことは世継ぎを望む母体とその後継者への負荷だ。
事件には彼女の証言が必要だが、記憶の回復とストレスの再現が、将来にわたり子孫に影響を与えてしまう。これを経世代エピジェネティクスという。
現在、ティラナの肉体の復元が長年のストレスをリセットするに至っているが、神経細胞には復元後も既存のものが残存する可能性が高い≠ニ医療班のDr.ブレイモアが指摘している。
さらに、もっとも深刻な問題は、生体細胞で肉体の復元はなされているが、卵巣や卵子に関する部分は十二年のストレスの蓄積があることや、生殖器官自体は他の臓器の影響を受けて回復するが、遺伝子的に後世に引き継がれることだ。
医師らはすべては結果次第だとしつつも、それ以上の負荷を与えないようにとシュナイゼルに申し出たのであった。
諦めに近い宣告を思い出したシュナイゼルは、いつだって短期的な良い結果より長期的にみて最大限の幸福を選び取ってきたように、今ある人類が恩恵を被るためにこの女性の生存を優先した。
「……わかったよ。ヒントを出そう」
シュナイゼルは床に膝をつき、ティラナの自由な方の手を握った。血の気が失せているのか、指先は陶器のように冷たい。シュナイゼルの脳裏には罪の告解をする少女の話が過った。その話は墓まで持っていくつもりでいた約束のひとつだったが、やむを得まいと口を開いた。
「神殿で大怪我を負った。その拍子に、記憶を一度失っている。貴女はマルカから彼女の昔話を聞いて、その経験を自分のものにしてしまったんだ」
「マルカの……話を? ……マルカは……どうして私そっくりなの?」
彼女は記憶の中で、マルカには二つの姿があることを思い出した。
その先については――と、シュナイゼルにしては口が重くなる。彼の認識する限り、ティラナの記憶の中で、捻れた糸の最初の節があるとすればこの辺りだった。奇妙な最初の記憶喪失。
一旦は沈黙を選ぶも、そうしてもいられず、真実を曝け出すほかない。
「君の父上が、マルカを貴女そっくりに変えてしまった」
「お父さまが?」
力学は法則を覆さない。そのワードから、いったいいくつの閉ざされた記憶を紐解いたのか、ティラナは大怪我の出来事について触れた。
「……私が怪我をしたから?」
「うん。そうだよ」
「私が……王位継承者だから……。どうしてマルカの話を聞いて……ううん、あれは……」
力なく語るティラナの瞳に力が籠もる。
「神殿の、……扉が開いたの」
扉。扉という言葉には馴染みがあった。あの男の目的にあった扉≠焉A同じ扉だ。
「扉が開いたのを見たのかい」
「……私は、扉の奥に吸い込まれた」
「……おかしな話ね?」と額に汗を滲ませてティラナは首を捻った。彼女の見つめる先。その方向にはテーブルがあるが、物は何一つない。しかし、そこにはない、なにかを視ているように強烈に惹きつけられている。
「ティラナ?」
痙攣のような震えに、小さな椅子がカタカタと揺れた。
「……そう、……あのとき……研究用のモルモットがケージから逃げ出したの。……私は……それを追いかけて……ここから……神殿に走った。真っ暗だった――」
ティラナは突然立ち上がり、「ペレット」と一言を呟くなり、ラボから坑道に飛び出した。
坑道の奥。さらに奥。どこまでも続く闇。闇。闇。鋭い岩の感触――。