白い毛並みの漣は、その場所から遥か遠方にある本物の波のように海練をみせている。
慢性疾患モデルの免疫機能テストには長期観察がベターだ。人間の都合で生み出され、病気にさせられ、生死の境目を往復する儚い命。ケージの中で身を寄せ合って眠るモルモットたちは、ラボの中の小さな患者である。数日前、二匹が死んだ。テストの結果ではなく、直前のテーマのデータを採り終え、安楽死の薬剤を投与し、永遠の眠りに就いた。同時期にやってきた近交配群のモルモットのなかで、ペレットだけが生き残った。彼は牧草をお腹いっぱい食べ、つぶらな瞳は細く毛に埋もれ、くぅくぅと寝息をたて、ふっくらと丸い腹を膨らませたり萎ませたりしている。
――『ペレット二世ったらまたちょっぴり肥えたわ。みんないなくなっちゃったのに、寂しくないのかしら』
いなくなっても、また次の新しいモルモットが補充される。生命を乱暴に消費しているように映るのか、司教たちは研究方面の話題になるとこぞって批判する。貴族階級出身の保守派からも同様に、生命の毀損についての非難が絶えない。人工血液など以ての外。血とは教義において、生命そのものであり、生命を根幹から創り変えることと同義であるからだ。他の細胞培養や臓器再生についてもだ。
教会は正式に神が創られた血液を人間が模倣・代替することは、創造の秩序への冒涜である≠ニ発している。
貴族たちは、王族の品位について批判する。
とくに男性の嫉妬は恐ろしい。
――女王になるべき王女が、男のような仕事をしている――
にこにこしていて、都合のいい事だけを肯定し、男性の顔を立て手柄を譲るような女性を望んでいることはわかっている。彼らの優しさが優しさであるのは、常に此方が二番手だという意識があるからだ。しかし、ティラナはそれについてはお互い様だと納得していた。多くの女性にとって都合のいい環境を維持するならば、男性を阻むごく少数の女性が犠牲になることは宿命であるからだ。伝統的家族観を維持することは、多くの同様の教義を供える王室の役割である。
その頃のティラナは多くの者からみて、恵まれた環境で才能を発揮する幸せ者だっただろう。飢えることも、病めることもなく。両親に愛されていたし、世界中の子供の平均に比して上位の暮らしを享受していた。モルモットにペレットと名付け、速やかな殺処分をせず、慈しむ余裕があるほどには。
白い濃霧のなか。風もないのにスモークが押し流されていく。寂しげな色の暗灰色の冷たい光のなか。
無我無心に歩き続けた先。かき分けるとその先に人の一塊がある。見覚えのあるシルエットは煙に包まれ断片的で、夢のなかのように曖昧だ。俯いた顔。髪の毛の隙間からちらりと覗く白い鼻先。彼女をよく知っている。ずっと忘れていたものが、泥や石片の下敷きになっている記憶を掘り起こされ、吹き飛ばされていく。蝋燭の炎を吹き消す力加減で、そっと呼びかけた。少女は、不動の岩に変えられてしまったかのように身動がとれず丸まっている。
もう一度呼びかける。
『マルカ……?』と。
随分と久しく、懐かしい音の響きだ。その名がまるで自分の半身であったかのような錯覚。仄かな愛おしさが胸の中に甘く満ちていく。
彩度を奪われた世界で、彼女の金色の髪がすこしばかり色づいたように見えた。
――『マルカなの?』
両膝を抱えて座っている少女は、やっと自分が誰かに呼びかけられていることに気がついた。
――『……やっときたんだ』
その応答はマルカの唇から漏れたものではない。ティラナの背後。その場にはもうひとり存在した。
ティラナは驚いて潔く振り返った。何者なのか。問いかけをするよりも前に、正解は真正面にあった。
――『……私?』
驚きのまま硬直するティラナの目の前には、ティラナがいた。主張の強い濃いブルネットの髪。ここでは強烈な金色の光が二つある。
――『そう。私』
ティラナ≠ヘ答えた。自分自身の独り言を疑った。同時にティラナは足元のマルカを見下ろしたが、彼女は不安そうに瞳を揺らしているだけで、存在主張したようには思えない。その一連の様子を面白がったティラナ≠ヘ吐息混じりの笑い声をあげた。
――『私たちは、ずっとここで分かれていたの』
――『どういうこと?』
ティラナは生き写しの、瓜二つのもうひとりの自分に尋ねた。
――『ここで、私は根源に接続するはずだった。でも途中で邪魔が入った。そこで途切れて、千切れて、私はふたつに分離した。……あのときのことを思い出して』
そう言って、ティラナ≠ヘまっすぐに手を伸ばし、ティラナの肩を掴んだ。『わっ!』と声をあげたとき、凄まじい熱量が襲いかかった。気圧のような、強い重力を受けて、体が地面に押し潰されそうな恐ろしさを味わう。ここに地面などないのに。雲の上のように足元はいつまでも靄が包み込んで見通せない。浮いているのか、立っているのか。生きているのか、死んでいるのか。時間は進んでいるのか、止まっているのか。存在する場所なのか。思いつく限りの疑問が頭の中を漂っている。
強力な磁場エネルギーのような圧力が言語を介さずイメージが流入してくる。ティラナ≠ヘ表情ひとつ変えずに肩を握ったまま、ティラナが正確に物事を理解し把握するのを待った。色鮮やかな記憶を切り取った映像は断片的であるが、間違いなくティラナが神殿の奥へ向かう時のものだった。
――『モルモットのペレット二世』
――『ペレット……二世……? ……あ』
ティラナ≠フヒントでここに来る直前の記憶さえ忘れていたことを思い出し、ティラナは自分自身に腹が立った。哀しくもなった。
――『その子が脱走して、私は追いかけた。ラボから、洞窟の深く、深く、深く……そして神殿へ』
自分の言葉には自信が持てず、ティラナ≠窺い見ると、彼女はこくんと小さく頷いた。
――『思い出して』
肩にかかる指に力が籠もる感触にティラナは呻いた。
――待って! ペレット! ペレット二世!――
彼はどんどん逃げていく。暗闇ばかり。洞窟の壁はどんどんと狭くなっていく。足元は湿っていて、うっかり滑らせれば頭を打つかもしれない。小さく白い毛並みが、闇の中で青い艶を帯び、次第に稜線を滲ませていく。
研究で使用する実験動物の脱走は重大な管理問題で、もしも、モルモットのペレットが捕まえられなかったら、研究の過失を認め遠ざかってしまうだろう。ティラナは心の底から恐れた。それだけは、なにがなんでも死守しなければ。バイオハザードを引き起こす危険性。生態系への影響。研究者として、あるまじき危機的状況。管理不行き届き。たった一度の失敗で――研究が出来なくなってしまったら?
そんなのは考えられない。自分が自分でなくなってしまう。自己喪失。父を玉座に留めておくには必要な条件なのに。すでにパニックで息があがっていた。すぐさま応援を呼ぶなり、管理責任者に報告すればいいものを、それさえも、義務を怠った。
――『ペレット!!』
闇を切り裂く叫びが、何重にも響き渡る。ティラナは先も見通せない闇の中を走り続け、石柱に体をぶつけた。
――『いったぁい!』
硬い岩がちの地面に尻餅をつき、その辺りを四つん這いで探った。空気はよく冷やされ、嗅ぎ慣れない古びた、すこし潮のようなにおいが沈殿している。
――『ペレットぉ……』
声は弱々しく臆病で、とうに自信を失っている。泣きだしていても不思議ではない。心臓がバクバクと激しく鳴り、重大な失態を犯したことへの焦燥感に翻弄され、呼吸が浅くなっている。神殿には許可なく入ってはいけない場所である。いわば禁足地である。時折、父や母が祭祀の話と思しき内容を話し合っている場に居合わせると、大人の話だといって遠ざけられたものである。父ともっとも懇意にしている秘書官や祭祀に詳しそうな王室儀典長に話をきいても、誰もなにも知らないようだった。
――『ねえ、ペレットぉ……おねがい……、あう……どうしよう……わたし……叱られるどころじゃ済まないわ……』
情けなくて涙が滲む。泣き言をいっている場合ではない。
――『ラボにもどって……電話して……ううん……そんなことしてる間にペレットが……でもここには普通の人は入れないし……』
どうしてペレットが脱走したのだろう。あの箱は厳重に鍵までかかっていたのに。鍵をかけ忘れていたのだろうか。くよくよと考え込んでしまう。
ティラナは夜目に慣れてきた頃、頭上に巨大な目と視線が交わって腰を抜かし盛大に転んだ。
――『ひい!? おばけ!! わぁーん!』
みっともない悲鳴を笑う者は誰もいない。
王宮にだって怖い話はある。夜中の大広間で誰もいないはずなのに、大勢の人々のざわざわと囁きあう声や、大階段を昇り降りするとき、衛兵の装具が擦れ合う音がしたり、古い時代の子供の靴の片一方だけが落ちていたり。その他にも不思議な話は尽きない。長い歴史を抱える王宮には幽霊騒動や曰く付きの場所くらいある。たとえば自分以外には見覚えのない顔の乳母が毎日同じ時間にあやしに来るとか。すっかり大きくなったのに、乳母に喃語で語りかけられたとき、困り果てて母に言いつけると、凄まじく驚いた顔をして忘れなさい≠ニいったときの記憶など。ありとあらゆる逸話が、恐怖に駆り立てられて仕舞い込んでいた記憶の引き出しから飛び出していった。
目と耳を覆い隠しその場に伏せること数十秒。恐怖のピークが過ぎて、ティラナはゆっくりとおばけ≠フ正体をたしかめた。
――『なーんだ……石像か。びっくりしたぁ』
ヘンテコな色形をしている石像が、巨大な扉を守護するように太く巨きな剣を構えて、両左右に数体ずつ並んでいる。その足元で、きらりと赤目が光ったのを見逃さなかった。青白い体のモルモットは隅を口先でつついて餌を欲している。
――『ペレット……!』
ゆっくり、じりじりと。脱いだ白衣を袋のようにして近寄り、勢いよく捕獲する。ペレットはきゅーっと絞り上げるような甲高い声でひと鳴きし、ジタバタと布の中で暴れた。
――『大丈夫! 取って食いやしないから!』
ペレットを落ち着かせたほうがいいだろう。緊張を解き、背中に扉をくっつけて大きく息を吐いたときだった。尻や脚の腿に水が染み込んでいく感触に、ティラナは大袈裟な悲鳴をあげた。
――『ぎゃっ!』
地下深い場所だから水が溜まっていてもおかしくはない。つい今しがたまで、水がその辺りにはなかったのである。なんの兆候もなく湧き上がってくることがあるのだろうか。それに、かなりのかさだ。水の深さは時間経過とともに増えていく。どんどんと体は後ろへ後ろへと、天地左右がひっくり返って落下する速さで後退していく。不思議な光景が広がっている。視点は押し下がっているはずなのに、自分の体を眺めている。遥か向こう。豆粒のように小さく見える、扉の前で座り込んだままの少女を、もうひとりの自分が何かに引っ張られて客観視している。スピードは衰えず後退は続く。業務用の強力な掃除機のバキュームが吸い取ろうと威力を発揮しているみたいに。
それは、いったい、なに?
ティラナの背中は豆粒から極小の点へ。遥か彼方の星の輝きも届かない向こうへ。やがて消失し、閑寂の靄へ。
――『思い出した?』
ティラナ≠ヘ目と鼻の先に完全にぴったりと、鏡を介して顔をくっつけたような距離にいた。私たちの姿は幼かった。
――『……ここに来たことがあるの? 私』
今見えたものが過去のものであるのなら。半信半疑の質問に、彼女は満足気に大きく頷いてみせて、その小さな胸のなかにティラナを抱き寄せた。
――『わたしたちはここで暮らしているけれど、使命を果たさなければいけないんですって』
――『……使命って? 急になんの話なの?』
――『人類の成長』
耳を疑った。ティラナ≠ヘこの場所の正体も、自分のことも何もかもを知っているのか、それともこの形容しがたい灰色の場所に長居しすぎた弊害か。見た目以上に大人びた口ぶりだ。突然、使命≠セとか人類の成長≠セとか。フィクションのような象徴的なワードを告げられてすんなりとYESと答えられるだろうか。
――『……とんでも話? 非科学的すぎるわ』
――『一般的にいって、みんなはそういう種を……宇宙人と呼んだりするかもしれないけど。……科学はまだまだ小さな世界よ。よく知ってるわよね。おばけも怖いでしょ? 夢か幻か。いま私と話しているのだっておかしな状況だってわかってるくせに』
ティラナ≠ノもっともな正論を言い渡され、ティラナは口を噤んだ。
――『それにしたって、荒唐無稽だわ。私になにを望んでいるの? 人類の成長なんて規模が壮大。ふざけてる。……真剣な話よ』
――『それはわからないわ。……真剣な話のつもりよ』
――『あなたは、なんでも知っているんじゃないの?』
――『知らない。……でも、呼ばれたからには意味がある。……赤ちゃんが生まれる瞬間の記憶がないように、この場所から出たら自然に忘れるようになっている。都合が悪くならないように。自然の力学に従って。そうしたことが当たり前なの。……そうしたなかで、このあぶれた世界が破滅に向かわないように、私は選ばれたみたい』
――『あぶれた世界? なにがなんだか……』
ティラナ≠ヘ『私である貴女がわからないことは、わからない』と言い切った。
――『あなたはここに長くいるんでしょ? ずっと。もう少しなにか……ないの? 知っていることが』
――『ここの時間は、現実の世界と違うの。体感一時間ってところ』
驚きの情報にティラナは何度か目を瞬いた。
――『一時間? あっちは……十二年経過しているのよ?』
――『それじゃあ、十年はだいたい一時間ってこと』
一時間前にやって来たばかりにしては落ち着きすぎている。ティラナ≠ヘ『現実以外にも、ここじゃないところの様子も観に行っていたから、本当は一時間でないかもしれない』と添えた。
――『じゃあ一時間じゃないわ』
――『細かい話に拘りすぎないで。時間なんて、ここじゃ無意味なんだから。……私はここに来た時にあっちの世界に生かされた理由を思い出した。だけど、貴女とはぐれてしまったから、貴女は真っ白になってしまった。使命を忘れてしまった貴女は手違いで他人の記憶を自分のものだと思い込んでしまった』
ティラナ≠ヘ状況を説明してくれているが、上手く飲み込めなかった。まるでその事実を否定したいような、認めることに怯えていた。
――『……なんではぐれたの?』
――『……それは。イレギュラーな事態が起こったから。……あの男が、この神殿に入ってきて、接続中の私に接触した。接続は切断され、私は、私たちに。つまり分離した。貴女は不完全な状態に陥った。あの男は、手に入れたばかりの力を貴女に試みた』
――『あの男? 力って? ……いらいらする……おばかじゃないのに……、頭が変なの』
――『それが、力の成果。……あの男は、人を従える力を持っている。貴女は、ただ一言……忘れろ≠ニ命じられた』
大事な話をしている。だが、飲み込むのには一度外に出した吐瀉物を再び飲み込むくらい勇気が必要だった。ティラナはいつの間にか泣き出していた。
――『その力は神経に作用している。肉体から意識が離脱しているなら、作用しないはず。大丈夫。思い出して』
ティラナ≠ヘそう言って、ティラナの白い手を握った。しかし彼女はすぐに顔色を変えた。芳しくない様子に、ティラナは内心不安が募った。
――『……なるほど。神経作用じゃないのね。……そういうこと……私が知った話よりも深刻な状態。……もうあの男の命令を受けることはないと思うけど……強いていうなら永遠の呪いを受けている』
ひくりと、自分自身の顔が引き攣るのがティラナにはわかった。大袈裟だと一蹴する自信はなく、静かに涙の粒が白い靄に包まれた足元に滴るのを見下ろしていた。どんな余命宣告よりも、辛い宣言だ。
――『私、もう、ずっとこのままなの……? 死ぬまで……? そんなのいや……! 頭が悪いままの状態で生きるくらいなら死んだほうがいい! あっちに戻りたくない!』
ティラナは子供のように泣き叫んだ。
――『頭の良し悪しと記憶は別問題よ。リハビリすれば脳機能は快復するわ。今までそうしてなんとかしてきたじゃない』
――『今まで? なにそれ? それがわからないからイヤなのに簡単なこと言わないで』
――『今までのことを忘れていても憶えていても、問題は特にないわ。悲しむ人が一人か二人いるくらいで。私が貴女に戻れば子供の頃の記憶は元に戻るんだから。それに簡単に思い出せないだけで、きっかけさえあれば思い出せる。環境的にいって昔ほど難度が高くない。……不幸中の幸い。それでも完璧主義の貴女には許せないこと?』
グズグズと嗚咽を抑えられず涙を溢すティラナに彼女は呆れた顔で言った。
――『……こんな風に、ひどい有様になったおかげでこの世界は他の世界よりも周回遅れ。一族は修正をするためだけに、この地を守り続けてきたというのに』
その話は聞き覚えがあった。
――『……それって、カストリアの話?』
ティラナ≠ヘ嬉しそうに微笑んだ。『ほら、話を聞いて、その話を思い出したでしょう』とつけ加えて。ティラナ≠フいうきっかけさえあれば、とはこのようなことらしい。
――『じゃあ……私ってなに? 私は……普通の人間じゃないってこと? 宇宙人?』
――『ううん。私は人間。人間の中に眠らされているだけで、首を刎ねて、心臓を一突きするだけで死んでしまうし、継承者に頭の良し悪しは関係ない。問われる真価は行動だけ。継承者にとって重要な意識≠ヘ直系に継承されるもので、私に子供ができればその新しい器に移る。……子供が複数人いる場合、どの子供に継承されるかはわからない』
『うーん……?』とティラナは首を傾げた。ティラナ≠フ説明をそのまま飲み込むならば、カストリア一族は代々、子供に意識≠継承させているということだ。
――『その特別な子供を判別するのは主に母親だけで、また直系でなくてはならない。過去にも、一度だけ明確に使者が遣わされた時代がある。彼女は、継承された子供を王位に就けるために教育し、自らの王位を早々に譲り渡した。三番目の男子を立てるには、自身の死を偽装した』
ヒマヴァット朝の最後の君主。たしか名はトゥヒナといった。女王だ。カストリア一族は基本男系で継承されているが、直系の子供のなかに女子がいて意識≠フ継承者であった場合、その女子の子供に次の意識≠フ継承者となる者がいれば、直系男子の養子にしていた――という歴史的根拠をたしかめれば本当の話だと信じられるだろう。
――『その……適切な継承者が王位に就けなかったらどうなっていたの? 継承者は必ず男子なの?』
――『まず、継承者は男子のことが多い。人の制度に適切に合わせられている。意識≠ヘ前任者が適正者に引き継ぐ。それは前任者の願望も含まれる。子供は因子を保有するが、願望を無意識にに汲み取り適正者に育っていく。……貴女なりの言葉でいえば自然適応。最適化というもの。もしも、適任な継承者がいなくなれば滅ぶ。世界がね』
涙が干上がるほど信じれない話だ。
――『それはおかしな話よ。子供の生まれる最大数なんてわかりっこないじゃない。だって、だって……たとえば、適正者が必ず長子だとは限らないでしょ? 二番目か、三番目の可能性だってあるじゃない。それじゃあ……その……お父さまの兄弟は死ぬことが必然ってことなの? お父さまは適正者の因子を保有しているのよね?』
男子が継承者であることが多いことは、種の拡散効率を考えれば自然な結果だ。ティラナの問いかけにティラナ≠ヘ薄く笑った。
――『さすが私。そこに気づくなんて。……意外なことに矛盾する話ではないの。私の父、セイルは因子を保有していなかったとしたら? だからよ。だから、私が呼び出されたってこと。この一族の問題を修正させるために。彼は子供を一人も持てなかったかもしれないのに、たった一人を委ねられた。その子供は確実に将来女王となる。一族の歴史では二例目。……父はすべてを理解したわ。そのために……どんな手段を講じても……ティラナを死なせてはいけないと考えた』
――『……時代錯誤の早すぎる婚約も?』
――『そうかもしれない。お願いされて彼は王様になった。彼の父は依怙贔屓を防ぐために兄弟のなかで適正者が誰であったかを教えなかった。しかし、逆説的に、セイルが適正者ではないと知る方法が一つだけ存在した。病弱で不妊症なのに子供が誕生した。男子ではなく……女子が生まれたことで、自分がハズレくじだとわかったんだから。彼は必死だった。女子の誕生は破滅の予兆だから。父にしてみれば、影武者も必要な安全対策だった』
『……影武者……?』と呟いた。頭のなかで、記憶の蓋がカタカタと音をたてていた。
――『……日に日に重責に追い詰められていき、……貴女が勝手に神殿へ入ったことで、彼は余計に誤った判断を重ねた。……父は、見放されたと感じたのかもね。神が、一族が、継承者の娘が、見切りをつけたのだと』
――『……私は間違ったの? この神殿に入ったことで……自業自得?』
ティラナ≠ヘ表情を失くし、首を左右に振った。そこへ誰かのすすり泣く声が耳に届く。ティラナは、そこでずっと身を小さく丸めている少女を見下ろした。記憶の蓋の隙間のなかに手を突き入れる。少女の名前は――そう、マルカだ。
――『どうしてそこにマルカがいるの? マルカも使命があるの?』
――『あの子は迷子になっていたから、ここに留まっているけど……本当は行くべきところに行かなきゃいけないわ』
――『行くべきところ?』
――『現実の世界でいうところの、天の国へ』
ティラナはそっと靄の下で足を動かしてマルカに近寄った。マルカは身を起こし、ティラナに勢いよく抱きついた。それにもかかわらず、体温も皮膚の感触さえもあまり感じられなかった。
――『ごめんなさい……ティラナ』
耳元で潤んだ声が広がる。息遣いがまだ生きているようだ。もう二度と会えないのではないかと思っていた人に会えて、感激に胸が震えるのがわかった。涙がこみ上げてくる前に、マルカはもう一度謝った。
――『ごめんなさい』
――『マルカ』
熱も感触もない肉体の境目を探すみたいに、ティラナはマルカの背中に触れた。
――『……見たんでしょ』
――『どうしたの。なんのこと?』
――『見たんでしょう……ペレット……、ペレットの箱の、鍵を開けたのは……わたしだって……』
彼女からの告白に、言葉を失ったのは一瞬だ。ティラナはマルカが箱を開けてしまったことよりも、その動機が気になった。
――『どうして開けたの?』
――『……わ、わたし……わたし……そんなつもりじゃなかったの! いつの間にか、体が勝手に動いて……あの男が……わたしに……』
――『あの男……』
まだうまく思い出せなかった。鈍った神経回路は行き詰まり堰き止めている。
――『アルディックが、私に……命令したの……』
――『……叔父様が?』
マルカの明言に、ようやく一本のラインが通り、情報に結びつく。記憶の中の黒い影が風に吹かれて、雲の中から月が姿を露わになるように。
――『全部教えてあげる。……本当の、恐ろしい真実を。もし、すべてを理解したら、あの男を葬るって約束して……!』
――『マルカ』
――『いい? 絶対よ。絶対に、忘れないでって約束して! あいつを殺して!』
彼女の瞳は苛烈な色で燃えている。地の深い場所で罪過を焚くための炎が噴き上がり、諸悪の根源に向かって追い詰めたがっている。憎悪。悲哀。損なわれた、無償の愛。マルカがティラナの手を握り返した。それらが感覚を超えて押し寄せてくる。感じたことのない奔流に包みこまれる。
膨大な時間と経験を圧縮したものが皮膚の中に溶け出し、意識に潜り込んでいく。深く。深く。その感覚は言葉で形容するのは難しく、不快であるのに心地よさを覚える。背筋の産毛をそわりと撫でつけられている、不確かな感触。
瞼を薄く開けた先は、地下のラボに入る洞窟の前だった。そこには金色のお下げのマルカがいた。昼過ぎには地上の研究棟か、その地下のラボのどちらかにティラナはいることが多く、王女を捜しにやって来たようだ。その背後には大きな黒い影が死神のように付き纏っていた。男は何事かを口にして、マルカを呼び止めた。マルカに言葉をかけ続けた。
――ティラナの研究用のモルモットを殺せ――
マルカは硬直し、そして機械仕掛けの人形のような動きで洞窟から地下のラボに進んだ。
ラボに到着すると、片隅にあるケージに手を伸ばし、コルクボードに括り付けた鍵で錠前を外した。マルカは嫌がっていた。自分の意思に反する行動だとでもいうように、右手を左手で押さえつけて、ケージの中のモルモットを鷲掴みにした。ペレットは激しい抵抗をみせ、マルカの指に噛みついた。彼女とモルモットの悲鳴は重なった。正気に縋りつくマルカはペレットをケージの中に放し、扉を叩きつけるように閉めるとその場から逃げ去った。ラボの中は無人になり、暫くしてティラナがそこへ来た。ケージの扉は開けられたままで、興奮状態のペレットは物音に錯乱し、狭い家から飛び出した。
ペレットを追いかけ、奥の神殿へ向かったティラナはそこで神殿が開くのを目にし、大きな振動から脆い石像の一部が剥離し頭部に直撃する。数十分後、異変に気づいた彼女の父、セイルが神殿奥へ駆けつけ救出する。騒然とする王宮内の様子にマルカは洞窟に入り、ラボの中を確認してからちょうどそこに娘を抱えた王と鉢合わせることとなる。このとき、マルカはどんな気持ちだったのだろう。
ティラナは、小さく尖った肩や背中が内側に丸まっていくのをただ眺めていた。
――『ごめんなさい』
父は、ティラナが倒れたことで何かが崩れ落ちたのか、最初から脆かったものにとどめの一撃が加わったのか、禁じ手を打った。
彼はマルカに頼み込み、影武者を創出し、王家の歴史に黒い秘密を書き加えた。マルカは謝り続ける。自分の存在が、この一家を破滅に導いた。命じられるがままに悪行を重ね、ティラナの忘却を隠れ蓑に無知を装い、あのクーデターでの抹殺を乗り越えた。酷い罪悪感を抱えたまま。
――『ごめんなさい。ティラナ』
黒い男はその一件だけでなく、何度かマルカの前に現れては命令を下した。
男の命令で、マルカはティラナのスクリプトノートをはじめとする論文類を盗み出し手渡し、婚約者の暗殺未遂も起こした。マルカはシュナイゼルに銃口を向け、自分自身の生涯と将来を悲観して自分の頭に命中させた。
悲劇の連鎖は留まるどころか、加速する。誰にも止められない暴走機関車がレールを踏み砕き、正しいラインを見失う。
男の力は反抗的意志など無力であると嘲笑っている。たった一言、二言の言葉だけで人を操る力。そのような超常的な能力を持ち合わせていたのだとしたら。
――『こんなことになるなら、暖炉のなかで死んでいればよかった』
――『それは違うわ。マルカ』
悲劇の受容は、工作者を悦ばせる肯定だ。これまで辿ってきた歴史の否定になる。――ティラナは自分の内側に芽吹く考えに驚いていた。間違ったことを捨て置くことや切り捨てることは誰にでも出来る。嘆くことも。だが、宿命が意識を変革するのか、元来備わっている性質が叩き起こされたのか、ティラナは最悪の厄災を解決するために遣わされたというのならば。
――『私が引き受ける。マルカの憎しみも。生きてきたことも』
マルカは繋がった指を名残惜しそうに離した。靄が世界を覆う。近くにいたはずのティラナ≠烽「なくなっていた。瞼を下ろし、祈りをまじえて、記憶が失われないように頭に映像として焼きつける。東から薄明の光が射し込み、煙が色づいていった。
瞼を薄く開けると、岩肌に狭められた子宮の中のように狭い空洞のなか。太陽光の代わりに細く柔らかな金糸が輝いているのが、視界の端を掠めた。微笑みを打ち消して、黙っていれば美術館の彫像とかわりない。彼は偽物の彫像だ。握りしめる手は、表面はひやりとしているが仄かな熱が潜んでいるし、脈拍は若さゆえか、それとも環境由来で酸素が薄いからなのか早く脈打っている。ティラナはいつもの調子に戻ってほしくてシュナイゼルに微笑みかけた。そうすることを思い出させて、彼は誰を相手にするときでも同じ穏やかな微笑を取り戻した。
「なにを思い出したのか、憶えているかい?」
ここのところ、その質問が会話の何割かを占めている。彼は、歩く記録帳だ。
「……上手く説明できない。……ねえ、……あの男は生きているのね?」
丈夫な腕の中で仰向けのまま、ティラナは続けた。あの場所は特別なところで、事の顛末は言葉ではなく感覚ですべてを識ることができた。言葉とは、言語とは、実体的な物理的法則を還元するこの世界の法則に基づくものでしかないのだと。
「隠さなくっていいの。……仕留めきれなかったんでしょう」
「残念ながらね。……だが、口は殆ど利けないよ。……彼は命拾いするかわりに言葉を失った。……会いたいかい?」
ティラナは今にも泣き出しそうな顔をした。シナプスの活性化が情報と情報を繋ぎ合わせ、あらゆる情念が、憎悪が沸き立つ。一瞬にして電気信号を送り、体中を支配しようとしたのを防ぎ止めた。身をゆっくりと起こして、せっかく思い出したものを忘れないうちに留めておくために、ティラナは彼女の名を口にした。
「……マルカは……どこ?」
その時、一瞬だけシュナイゼルの柳眉が跳ねた。その話題に触れるのはデリケートだと言いたげに。彼は何も答えず、成り行きを見守るようにして、ティラナを見つめ返した。既に答えは出ている。
「……死んだ?」
確認するように、もう一度言葉を重ねる。
「死んだのね?」
シュナイゼルは目を伏せた。長い睫毛の下に薄い陰ができて、毛先をより長く見せた。
「シュナイゼル」
呼名は命令だ。ティラナはしばし考えて「私の復元には、彼女が必要だったはずよ」と言った。彼は美しい瞳を隠したまま喋った。
「……知っていたのかい。それとも、どこかで思い出した?」
「? どういう意味。この見た目に戻すには、彼女を参考にしたんでしょう」
シュナイゼルは目を開け、首を捻り「貴女の今の姿は自然そのものだよ」と言った。夢のような景色は既に靄の奥に消えかかっていたが、ティラナはマルカの死の経緯を掴み取っていた。
「……まだ、あの子の遺体を保存しているはずよ」と言えば、シュナイゼルの目は一瞬だけ見開かれた。そして感情は穏やかに消える。
「……過去のことばかりでなく、今について考えて欲しいのだけれど」
「はぐらかそうったって、誘導したって無駄よ。懐かしんでいるわけでないことくらいわかるでしょう。……積み重ねのない人生なんて、パンクしたタイヤと同じ……走った経験のない車は初期不良と同じ……」
横に逸らした顔を、節くれだつのに流麗な曲線を持つ指先が顎を捉え、シュナイゼルの方に傾けられる。闇の中に潜む夜明けの色。あの靄の空間に射し込んだ光と似た輝き。ティラナはその色彩のなかで、そこで見知った情報を焼き付けようと努力した。
「大破を経験している替りの効かないエンジンなんだよ、貴女は」
集中力が削がれる。情に訴えかけようとするわざとらしい仕草と声音にティラナは、むっと顔を曇らせた。心配を前面に押し出して論点をずらす話術は、彼の十八番だ。なにか言い返そうという気概はあったものの記憶が溶け出すのを恐れて、言葉を見失った。
「……気持ちの問題だと言ったら?」
「気持ち?」
「……本当の本当に、私がただの病人だったら文句なしだった。あの広くてふかふかのベッドのうえで眠っているだけのお姫さまなら。……そういうわけじゃないんだもの。……私は、私でない時間を生きていて、蓄積を無視することはできないし……。それに……役割が……あれ、これシュナイゼルに言っていいんだっけ……?」
神殿のこと。あの世界の話。どれも一族の最重要機密といえる。シュナイゼルには話す必要性はあるだろうが、仕来りのことなど誰に尋ねてみても無駄だろう。古文書の類は父の書斎の隠し扉にあると教えられていた。もしかすると、そこにヒントが眠っているかもしれない。
「とにかく。会わせて。……あ、あとね。お父さまの書斎は焼けてないわよね?」
憶えているうちに、歴史の裏取りをしなければ。やることはたくさんあった。