罪滅ぼし






 a.t.b.二〇一二 June
 カストラリア王宮 執務室
 

 短い夏の陽射しは夕刻を過ぎてもまだ明るい。執務室では報告に参じた捜査官や秘書官が、何人か壁際で待機していた。シュナイゼルはカノンを伴い定刻より十数分の遅れで帰着すると、湿気の絡みつく前髪を指で梳いた。
 「待たせたね。例の剽窃の件はほぼ立件可能になったよ」
 ラキーユが進み出て問いかけた。
 「……思い出されたのですか?」
 シュナイゼルは短く首肯し、革張りの椅子に座った。
 「ノエルの残したメッセージだけでは情報が不足していたが、地下のラボにあるはずのファイルがなくなっていた。そう仰ったよ」
 「殿下が回収されたと以前お話しになっていた?」
 「私が回収したものの中に存在しない。なかでも重要なのはノートの方だ。Dr.シュミーダーに連絡を取ってくれるかな」
 「承知いたしました」
 ラキーユは頭を下げ執務室をあとにした。秘書官のコルネルが入れ違いに執務机の前に立った。
 「まだ時期を確定させられないが、戴冠式の準備も始めなければいけない。……執務の引き継ぎも徐々に進めていくことにするよ。いいかな」
 「はい。殿下」
 「……七月の会議を終え次第、事件に関する記者会見発表する。サロニア公の裁判手続きを開始。冷却期間を経過後、王女の快復の報を打ち、王室交流の解禁。戴冠式は裁判の最終判決後に執り行う。……スケジュールに問題点は?」
 シュナイゼルの組んだ予定表は完璧である。一大スキャンダルで先手を打ち、王室と王女への批難を回避させながら、欲しい注目を維持する。臨時の代理人ではあるが、十二年で培われた手腕は本物である。
 「非常に素晴らしく、よろしいかと存じます。……して、結婚式のご日程はいかがされましょう?」
 「準備にかなり時間を要するといった話を、以前ハーゲンから聞いてね。形式だけであれば早めることも吝かではない。しかし、経済効果を見込める一大行事。……政財界の要請も幾度となく内閣に届いている。彼らは、政府公費にある王室特別慶事費。つまり事業入札が狙いだろう。内閣との調整も必須だ。よって、私の一存での決定は控えるよ」
 くすくすと笑いながら「それに、正式なプロポーズが済んでいない。……そうだ、君たちは誰かにしたことがあるかい?」と尋ねて、シュナイゼルは各自を見渡した。何名かの職員が眼差しでお互いを探り合ったあと「……まず、指環の作製が必要でしょう」と、下級秘書官のランクスが背筋を正して口を開いた。
 「そうだね。王冠も含めて、職人に依頼を始めたいが、王女の快復発表後でないと勘繰られてしまう。……王室法及び宮廷規則では結婚の申し込みは、高位者から下位者に行うとあるが……現代的な価値観の許容を願いたいところだね」
 そこに四度のノックとともに、侍従長ハーゲンが現れる。
 「首相官邸より。首相から謁見の申し入れがありました。王女様に」
 「昨晩連絡を差し上げたんだ。……色々と話し合う用件も増えてきたから。日程は王女にも伝えてから調整しよう」
 「承知いたしました」
 ハーゲンは首肯し一歩引き下がった。
 「ベルケス首相にも苦労をかけるね。……サロニア公の一件は政治生命に直結する。政党の党員に協力者が複数名。ベルケス政権は解散か退陣を余儀なくされるだろう。臨時政権の長期化。中連派によるメディア工作。ご自宅に火炎瓶の放火事件もあった。……取り計らって差し上げたいが、ティラナ次第だ。公権力の上で王冠の権威は光り輝く」
 面差しは重たく、その場にいた全員が口を閉ざした。絶対君主制であれば口封じも容易だ。代償は大きい。現体制はたとえ身から出た錆であろうと、責任は行政首長のトップに取らせることができる。その引き換えに、国の最高の外交官の責任を課される。そのための、夏のヴァルグレイ秘密会議である。サロニア公はあらゆる特権者の弱味を握っていた。国の中枢まで毒が回り、侵蝕し腐敗している。この状態でティラナに引き継げば余裕を奪うことになるだろう。彼女が負う責任は、国だけではないからだ。
 ハーゲンともに秘書官たちが去り、積み重なった書類の始末をつける前に、シュナイゼルは用意されていたが、手つかずで適温になった紅茶のカップに口をつけた。それまで静かに背後に控えていたカノンが、吐息を漏らすほどの小さな声で尋ねた。
 「なにかお悩みが?」
 「悩んでいるように見えるかな」
 「ええ。かなり」
 人から指摘されて、はじめて腑に落ちることもある。
 「うん。……私にしては珍しいかもしれない。……ティラナは、目覚めたあとすぐに、あの男が死んでいないことを確認したそうにしていた。……すべての元凶と会って、踏ん切りをつけたいというご意思を汲むべきかどうか。……君ならどうする、カノン」
 「安易な接触は避けるべきかと存じますわ」
 即答にシュナイゼルは同意し、短く頷いた。
 「そうだね。私もそう考えるよ。置き去りにしても構わないものを、捨て置くことも戦略だ。……具申をその場で聞き入れたとて、彼女が素直に従うような人柄ではないことは、取り扱い説明書の第一項目にあるがね」
 「弱ったね」そう言ってシュナイゼルは深い溜息を漏らした。
 「……避けては通れませんのね」
 「難しいよ。……今後、理不尽を負うことに納得が得られなければ計画は破綻する。……犠牲者の窮状を目の当たりにし、潰れてしまっては元の木阿弥だ。だからこそ……ある程度彼女の言い分を聞き入れるのも、従臣の仕事だと判断した。その立場に見合うだけのね」
 「それで、……王女様をお連れしたのですか」
 シュナイゼルはすべてコントロールしていた。この王宮内の一切のこと、執務を含めた公務。職員達への統制。目覚めたばかりの王女に与える情報、世話をするための侍女から、食事のメニューまで。私情ではなく、医師たちの下した健康状態を案じてのことだ。口を挟む余地は誰にもない。
 「……君には残念な話だね。カノン」
 「どういうことです?」
 「……ここまで私のもとで仕えてくれた君の最初の動機は、ティラナではなく、ノエルへの友愛だったと思っていたのだけど。違うかい?」
 「間違っていませんわ」
 言いたいことは伝わっている。意図を汲む能力が培われるほどの長い時間が経過していた。コルチェスターの時代は淡色に褪せ、遠くなりつつある。
 「残念だよ。その点に関して、謝罪を述べるべきだね」
 「滅相もございません。決断は自分自身のものですわ。……彼を利用したこともあります。素晴らしい能力に惹かれて。利用することはお互い様だったと思いますが……私は、償いをしたかった」
 「……ノエルは戻らないよ」
 憂いを帯びた微笑を傾けられ、カノンは一瞬固まった。
 「思い出すことはあるかもしれない。何かの拍子で。君の顔をみて取り戻すことも考えられる。……しかし、無理に思い出させることを諦めて欲しい。彼女が求めたとしても。……ノエルや、ダミアン、マルカの頃はティラナではない。他人の時代だ。ところが、一度気になれば徹底的に調べようとする。……傷つくのは彼女自身だ。だから、先に謝っておこうと思ってね」
 「殿下。……丸くなられましたね」
 「デスクワーク中心だからね」
 「そういう意味ではございませんわ。性格の問題です」
 軽やかに笑い、シュナイゼルは背もたれに体重を預け椅子が軋んだ。
 「あはは。……どうかな。エゴかもしれないよ。ティラナが向き合うべきは過去ではない」
 言い切ったあと、シュナイゼルはくすりと小さく笑った。
 「……そうは言っても、上手くいかないものでね。昨日の今日で、先王の書斎に入り浸たり探し物を。果てには、枢機卿を呼び立てて秘密裏に葬儀を挙げさせるようにとお命じなった」
 何のことか、まったく思い当たらなかったカノンは自然に呟いた。
 「葬儀……いったい」
 「彼女だよ。影武者のマルカのことだ」
 カノンは名前だけ知る影武者のことを思い浮かべた。ティラナが一年前に成りすましていた修道女もどき。
 「万が一のことを考えて保存をしていたが、埋葬するようにと仰ったよ。原状回復をしたうえで。彼女のご遺体は、Dr.ブレイモアに診断書を書かせ、聖堂付近のローザンベリー墓地に埋葬する。ジーン枢機卿には先ほどお越しいただき、王女ご自身が告解≠なさり、その願いは聞き届けられた」
 カノンが別件の用事から王宮に戻った時、すでに殉教の血を象徴する――カーディナルレッドのキャソックの紳士が王宮内の礼拝堂から出ていくところだった。
 告解の内容は他言無用の完全なる秘密である。特に王室に関わる聖職者は、公にならない秘密を背負わされる宿命を負っている。若く現代的な価値観を持つ彼であっても、先王によって任じられた意味を紐解くならば背信は許されない。もっともこの国の歴史において、異例というほどではない。多くの種々の問題のある、都合の悪い人物や物事を匿い、適切な扱いを講じてきた。生存戦略のひとつである。当件も、その国家としての延命を図るためには、どのような手段も厭わないだろう。暗黙の了解を、聖職者たちは一様にして心得ている。
 「女王陛下の最初の王命だよ」
 カップをソーサーに置き、引き出しからインク壺を取り出した時だった。早い就寝の寝支度を終えた訪問者に、シュナイゼルは悠然と微笑みかけた。
 「どうしたんだい、お姫さま。おやすみの時間だよ」
 「忘れないように復習しに来たの」
 室内に残る侍従やカノンが首を竦める。シュナイゼルは椅子から立ち上がったのをみて、侍女を伴い入室したばかりのティラナは顔に皺を刻んだ。
 「……うんざりしちゃうわ。今から寝ようとしているのに外遊先みたいに緊張する」
 「まだ一週間も経っていないよ」
 纏わりつくような宮廷作法についてそのうち慣れると宥め、シュナイゼルは頬と手にキスを贈る。
 ティラナは姿勢を正すシュナイゼルを見上げ、物言わぬままじっとその両目を追った。
 「復習というのは? ……私の顔を見つめることが復習になるのかい? そんなことをしなくとも、教えてくれれば代わりに憶えておくのに」
 「んー……それにはまだ早いわ。迷っているけど。結婚したら教えてあげる」
 「その気になればいつだって出来るよ」
 何かに驚いた様子で落ち着きなく視線を彷徨わせてから、ティラナは半眼で睨んだ。
 「もう少し大きくなったらね。今結婚するのはタイミングじゃない。あなたにティーンの少女へ憧れがおありなら結構だけど」
 「方法はいくらでもあるさ」
 「……私、婚約者を犯罪者にしたくないわ」
 なにかが噛み合っていない。カノンの視線を受け、シュナイゼルは困惑を滲ませた低い声で囁いた。
 「……もっと現実的な……制度の話をしているんだよ。ティラナ」
 「ん? ……待って。私おかしなこと言ってる?」
 その場の空回りする居心地の悪さに、いよいよ何か致命的な行き違いが起きていることを悟り、ティラナの頬は忽ち血色が優れていった。
 「式だけなら挙げられると言っているんだよ。私は。もっとも、準備には半年ほど必要かもしれないが」
 「……なんだその話ね。……結婚……結婚するってことは……、その〜……。赤ちゃんを作ることはセットに決まってるでしょ! 普通に考えて! ……大恥をかいたじゃない! もうっ! テレビや新聞でうちの話をするとき第一に結婚、第二に結婚、第三に結婚の話をみーんなしてるの、知っているんですからね!」
 ミスコミュニケーションから羞恥へ。火がついたように噴き上がる。ぷりぷりと可愛げのある怒りだが、不満に延焼し爆発寸前だ。
 「みんな真面目な顔をして人を赤ちゃん工場だと思ってるの。デリカシーの欠片もないんだから。いい! わかってるわ。十二年もろくな出来事がないんだから。国民の心情を慮るなら、それが当然の心配だってことくらい!」
 その場にいる者はなんともいえない顔つきで癇癪を起こす王女を見守った。
 ティラナには心身の状態を考慮して、新聞をはじめとするマスメディアの発する報道。小さな口伝てのゴシップに至るまで。意気阻喪を招くことを避けるために伏せ、情報を与えないようにと触れを出していたが、上手くいかなかったようだ。
 「教えたのかい?」
 シュナイゼルは控えている侍女にちらりと視線を寄越し、そっと尋ねた。彼女は責められていると思い、顔を青くしながら返答した。
 「……あっ……殿下。申し訳ございません……それが。いつの間にか」
 「ふむ。……事情は私が説明するよ。話題を拡げてしまったのは私の責任だからね」
 国民だけではなく周囲の従臣による、結婚その他、戴冠の翹望ぎょうぼう――無言の圧力は図らずとも伝わっているものである。
 「いいわよ。弁解はしなくって。あなた達が私の知らない話を小出しにするたびに、過去からのタイムトラベラーみたいに大袈裟に驚けばいいんでしょう」
 「いじけないでくれよ。体調を気遣っているんだよ」
 「本当に? 腫れ物扱いにすることが気遣いですって? 厄介な健忘症を悪化させたくないものね。わかるわ。なんて取り扱いの難しいエンジンなんでしょうって」
 明らかに不機嫌になったティラナは、踵を回らせて執務室から飛び出していった。
 「ティラナ」
 どれだけ今を積み重ねても、過去に引き戻されるのならば。
 「早くも気取られそうだ」とシュナイゼルはカノンに告げると、ティラナの背を追った。
 

 
 a.t.b.二〇一二 July
 リダニウム大聖堂 王室礼拝堂


 大聖堂の壁は雨模様の空に吸い取られて湿っぽい青灰色に染まっている。朝方まで降り続いていた雨が芝生を濡らして、露が葉先から零れ落ちるのを恐れることなく観光で訪れた見学者たちは踏み越えていく。学校の社会科見学で浮き足立つ子供たち。シニアのツーリズムツアー。神学生の訪問。近隣の住民のルーティン。ボランティアの奉仕。目玉となる黄金の時計の柱に集う人々を遠目に、時刻を見計らう中年の補佐司教が定刻を確認した。一度、正門前の大通りに黒い車列の到着に気づき、傍らにいた秘書司祭に囁いた。
 「ご到着だ」
 秘書司祭は首肯し、キャソックの裾を翻した。
 「皆々様。もうまもなくお見えになります」
 祭壇の裏側にある聖具室。秘書司祭の一声により、身支度を整える枢機卿や大司教たちは、休んでいた椅子から腰を上げた。 

 回廊の中心にある内庭に聖職者が列を揃えていた。立ち昇る草花。過密な香。鮮やかな翠色に埋もれる黒靴の表面を水滴がなぞる。
 裏門に横付けされた黒いリムジンのボンネット先端のエンブレムには金のハゲワシ。車体の側面には王家の紋章がペイントされている。ボンネット先端の王旗は外され、分厚い窓はカーテンで閉め切られているが王室御用達の車である。
 「傘を」
 雨はとっくにあがっている。先に降りた金髪の青年が命じると、控え立つ従者が深めの黒傘を広げ、上座からそろりと降りる女性の頭上に掲げた。
 黒のワンピース。肩を覆う長さのモウニングベールが表情を隠し、誰もその顔を伺い見ることは叶わない。物々しい雰囲気に駆けつけた野次馬や、メディア関係者が教会に入り込むことは難しいが、外側の道端では既に何人かが深い緑の茂みから訪問者の正体を噂していた。
 ――ティラナ様じゃないか? ――
 ――お忍びでいらしてるってこと? ――
 ――間違いない! たしかにこの目でみた! 傘に隠れて顔は見えなかったけど。あの長身……シュナイゼル殿下が寄り添われていたし……――
 ――礼拝堂にいらっしゃっているということは、私的参拝? まだ追悼訪問の時季ではないでしょ――
 口々に推測を並べ立てる目撃者の野次馬に聞き回っている記者のもとに、王室関係者が警察官を伴って「ご静粛に」と呼びかける。
 「正式な発表があるまで、報道をお控えください。ネガをお引渡しください。さあ」
 渋い顔をして記者は小型レコーダーからメモリを抜き、職員に手渡した。
 「名刺も。よろしければ。お名前を教えていただけますか。所属がわかるものを」
 職員が手を差し出し、記者は舌を打つと「クソがよ」と吐き捨てながら胸の内ポケットから名刺を一枚取り出した。
 「ご協力感謝申し上げます。もしも、流出や情報提供があったとして確認が取れた場合……法的措置を講じることを何卒ご理解ください」
 野次馬を散らし、無線で王室報道官あてに連絡を入れ、マークした記者の所属企業や関連の出版社、新聞社に報道規制の根回しが始まる。職員達にしてみればこの十数年間で当たり前になった仕事のやり方だ。
 
 ティラナは深い傘の陰から、大聖堂の大きなローズウィンドウを見上げた。壮大な山麓の首都。歴史のピンマークであるリダニウム大聖堂。観光客の賑わいが裏側まで届く。シナモンロールにかかる細いクリームの斑模様の雪が厚い雲の隙間から見える。
 モーニングコートを着こなすシュナイゼルは、数歩間を空け教会の中へ入った。
 回廊の方へ進むと、内庭にセイヨウナナカマドの木の緑。その中にいくつもの白い花びらが、綿菓子のように咲き誇っている。レース付きの緋色の聖歌隊礼装を纏う枢機卿らが 王室礼拝堂敷地内の芝生に揃っていた。「アーサルトル枢機卿」と呼びかけに「女王陛下」と応じた。
 ストンと身を屈め礼をとると、枢機卿は恭しく右手をとった。黒レースの手袋越しに僅かな空白を開けて、臣従と歓迎を意図するかのように口吻た。
 「首を長くして、お待ち申し上げておりました」
 「本日は我儘に付き合っていただいてありがとう。改めて感謝申し上げます」
 枢機卿たちは慈悲深い微笑みを深め、各々無言で頷く。
 「こちらへどうぞ」
 白に染まった髪色。増えた皺。記憶にあるアーサルトル枢機卿は加齢か、背筋が昔よりも丸まっている。先導するアーサルトル枢機卿のあとについて、ティラナは王室礼拝堂に入った。円形の形に従って並ぶ王家の墓である。ティラナ自身の墓でもある。円形のなか納められる余白を見遣り、そこにはない棺の形を想像する。並ぶには早い。役割を果たし終えるまで、ここで眠りに就くことは許されることはないだろう。
 「……お花はある?」
 補佐司教がキャンドルに火を灯し、用意されていた白百合を棺の前の祭壇に供える。そこでティラナはベールを掻きあげて、その顔を露わにする。棺の表面に刻印されている紋章を指先でなぞり、微かな埃が空気中に漂う。
 「お父さま……」
 左右の棺を眺め見る。他の棺よりも質素で栄華も虚飾の色彩もない。その場所に納められていなければ、大勢の市民と変わらない。
 「お母さま……」
 足を後ろに引いて腰を深く落とす。キャンドルの蝋と炎の甘さ。アーサルトル枢機卿が振る、黄金の振り香炉の香炭と乳香の樹脂が焚かれて、礼拝堂内は深い鎮静に誘う白煙に包みこまれる。今朝、花開いたばかりの澄んだ青紫色のホリドゥラを、胸から抜き取って棺の上に捧げてそっと息を吐く。高い位置にある小窓から微光が花弁の花脈の青の中に滲む赤みが浮き上がった。

 両親への挨拶を終えて、ジーン枢機卿がティラナの傍らで「既に用意が整っております」と残りの予定について教えた。
 「ありがとう」
 礼拝堂の短い滞在。大聖堂から最寄りのローザンベリー墓地へ。比較的なだらかな山の斜面を利用した墓地は背の高いモミやトウヒ、マツ類の針葉樹林が植え込まれ、人目につきにくい。林道から五分。いくつかの墓標が立つ一画には既に埋葬の準備が始められていた。
 「……はぁ。運動不足ね」
 たった数分程度のハイキングで息があがっている。酸素が薄く、そのうえ蒸し暑い。直射日光を遮るのは木だけだが、斜面では剥き出しになる。雲の反射で紫外線が飛び、陽光の細い筋を喪服が吸収し余計に暑さを感じる。
 「休むかい」
 背中にシュナイゼルの声がかかる。熱を孕む呼吸を繰り返すティラナに、憎らしいと感じるほどきわめて落ち着いている。
 「この程度で……はぁ……もう、目の前じゃない……」
 「十六時から首相と謁見の予定がある。リスケジュールするほうが予定に響く」
 シュナイゼルが案じるように、その日は予定がまだ残っていた。「秘書官≠ェ板についてきたわね」と皮肉を言い、ティラナは諦めてその場で動きを止め、木陰に入った。侍女から水を貰い、ゆっくりと時間をかけて水分補給をする。時々木々の合間から温度の低い風が吹き、汗を冷やした。
 「……不甲斐ないわ。本当に。子供の頃はその辺りをずっと……走り回っていられたのに」
 ハンカチで頬から首筋の汗を拭う。新鮮な空気を取り込むごとに、肺が締めつけられるように痛んだ。この体が子供の頃に鍛え、よく使い込まれた肉体ではないのだと痛感する。骨も筋肉も弱々しく、病人そのものだ。それを綺麗と褒めそやされるのは容姿を商売道具にする人だけで良い。同情や哀れみを買う君主がいていいはずがない。痩せっぽちの王に人々が奮起するだろうか。いっそ、痩身であるよりは肥満のほうがずっと良い。
 「食事量を増やさなくちゃ。トレーニングもね」
 「焦りは禁物だ」
 リハビリの話をするたびに、シュナイゼルは小言をこぼす。今日だけで三回目だ。
 「またそうやって、なにをするにしたって制限するんだから」
 「私の判断ではなく、貴女の主治医の指示だよ」
 切り口は毎回異なるのに、彼は周囲の人々の総意の代弁者であることを盾に意思を食い止めようとする。
 「他人の受け売りを利用して、私をパペット扱いしてるといっているの。摂政のあなたにはそれはそれは感謝しているけど、私生活まで、なにもかも許されるはずがないわ」
 シュナイゼルは軽く微笑んだだけだった。「認めるのね?」と腕を組んで睨むと、彼は肩を軽く竦めた。
 「不安だからだよ」
 それもまたお決まりの一言だ。行き詰まると彼は、ラベル付けした感情を口にご一考を≠ニ差し出す。委ねることで安全圏に引き戻る。そういうところが火に油を注ぐことも計算のうちだ。ティラナがヒートアップすると、どうしようもない感傷的な病人であるとして、いつだって彼の主張のほうが正しく映る。
 さすがに学習するもので、それについてティラナは応酬する。声には力が籠っていた。
 「また堂々巡りになる。あなたは私を……弱々しい病人と扱って宥めたつもりでしょうけど。押さえつければ押さえつけるほど、反抗心と牙は研がれていくの」
 「本当のことだ。……貴女を失いたくない」
 「平行線のままだと承知で言うけど、過去について伏せたがっているのはあなたの方じゃない」
 「教えたとして、ショックを受けて記憶が飛んでしまったらどうするんだい?」
 「もうならないわ」
 「そうかな? 過信しすぎだよ。貴女にスペアーはもういない。彼女が替わりであったときでさえ、満足にこなせたわけではない」
 「あの子を冒涜するのはやめて!」
 叫び声が熱気に揺らぐ林道に響き渡る。待機している関係者はなるべく関心を持たないふりをして、言い争う男女――といっても一方的に女の方が噛みついているやり取りから視線を外す。
 シュナイゼルにしてみればこれも事実≠セ。しかし、貶めることは何人たりとも許されない。ティラナの肩はわなわなと小刻みに震えていた。ふたりの遣り取りの間。喪服姿の侍女が、どうしたものかと居心地の悪そうに視線を巡らせている。
 「とんだ失言よ。埋葬の日に話すことじゃないわ。……それとも弔うことも愚かだと思ってる? 間違った行いだって。……罪滅ぼしをさせて。過去と折り合いをつけて欲しいと願うなら尚更ね! ……聞いているの?」 
 「……貴女に慈しまれるには、死が必要みたいだ」
 抑揚のない清らかな声音は、独り言のように軽い。怪訝そうな顔でティラナは詰め寄った。
 「……どういう意味?」
 「そのままの意味さ。……死者にならなければ、心の中に住むことを許されない。今目の前にいる私のことはどうでもいい?」
 存在を認識させるように、長身を屈めてシュナイゼルはティラナの瞳を覗き込んだ。ふわりと風に揺れる金色が、ススキの花穂のように頬を撫でる。
 そのときティラナには、体は誰よりも大きく育った彼が、ひどく心細そうな少年のように見えた。どう言っていいのかティラナは困惑した。シュナイゼルに対して、罪悪感が生じていないわけではない。十二年間に及ぶ多大なる貢献と献身に、不遜な態度を改めるべきであると自覚していても、うまく素直になれないのは、ティラナの内面的な問題でしかない。
 「……ごめんなさい」
 十二年間の空白を埋めなくてはいけないと焦ってしまうことを辞めるのは、至難の業だ。しかし、その空白の時間を思い出すことも、シュナイゼルは望んでいない。そうすることが危険だと、誰よりも知っている。それでも。置き去りにされたように、時々寂しそうにするものだから、思い出さなくてはいけないような気がしてしまう。
 「……それでも、過去を知らなければ……あなたを蔑ろにすることにも繋がるわ。無知は罪よ。無神経なままでいて欲しくないでしょ。……私が知らないことで、残念そうな、がっかりした顔をみんながする。苦労知らずに幸せに笑うことがなんて滑稽か。……裸の王様になりたくない」
 告白は木々のざわめきに吸収されていく。礼装姿のハーゲンが物静かに時間を告げに現れた。
 「失礼いたします。そろそろお時間です」
 「……ええ。ごめんなさい。お待たせして」
 低いパンプスの踵を鳴らし、墓地に入ると、棺台車に載せられている棺が目に入った。小さな純白の棺。表面には十字が刻まれている。あとは深く掘った土の中に埋葬するだけである。
 「最後にお顔をご覧になられますか」
 「……ええ」
 修復された少女の顔を納棺までに、自分そっくりの顔でないことを何度もたしかめた。
 従者の手によって棺の小窓が開けられる。花に埋め尽くされたそのなかで、生まれたての白い肌と純粋な金髪が眠っている。
 「私たち、やっと他人に戻れたから。もっと喜ばなきゃ」
 マルカの死後の幸福を願うこと。そのとき、父の罪を認めなければならない心苦しさ。宿命に狂い、誰もそれを止められなかった。誰にも、どうすることも出来なかった。苦々しさを抱えて、生きていかなくてはいけない。役割を果たし終えるまで。
 「もっといい場所があったのではないかと考えたけれど……死まで秘匿することはできないわ」
 人知れず静かな場所で埋葬するか、散骨するか。様々な方法を思いついた。首都の一等地付近にある墓地の一画に埋葬することは、遥か将来、糸のほつれから歴史が紐解かれて墓を暴かれたときに、真実を白日の下に晒す危険性を伴うとティラナは考えたが、王家の汚点を隠すことが、秘匿することが正解なのだろうか。尊厳を奪われた挙句、存在さえも人々に忘れられ、塗りつぶされたままでいいのだろうか。
 ――生まれてきた意味ってなに?
 酸鼻を極める生涯への償いを、誰ができる?
 生物全体に生まれてきた意味などはない。遺伝子を繋ぐことこそが真価であり、その行動を取り巻く大なり小なりの出来事は殆ど無価値だ。だが、人間であるうちは意味を求めたがる。意味のないものに、意味を与える力が人類の進化で得た能力である。鳥や虫や、肉食動物に喰らわれた草食動物はどこかで死んでも顧みられることなく自然に帰す。人間には、情がある。哀れと思い、そっと亡骸のうえから土をかけてやる情けをかける判断ができる。
 棺の小窓は閉ざされる。男たちの手が四方八方から伸び、棺台車から担ぎ上げられ、ゆっくりと慎重に穴のなかへ降ろされる。穴の淵に人々が並び立ち、静かにそこを見下ろした。
 隣に立ったシュナイゼルは、モウニングベール越しにティラナを窺った。
 「あなたも祈って。……私も、今は祈る」
 まだ残っていた青いケシをそっと棺の上に落とす。
 地下霊安室でマルカの亡骸はティラナの姿で保存されていた。十代半ばの体で成長は止まったまま。短い生涯を弄ばれた少女の肉体は、他人のものから本人のものへ、可能な限り復元された。
 ジーン枢機卿が祈祷書を片手に朗読と説教を行う。
 「あなたは塵から生まれた。ゆえに塵に帰る。しかし、主は終わりの日にあなたを復活させてくださる」
 ティラナは足元から土をひと掬いし、白い棺に振りかける。控えていた侍従らがスコップで上下左右から湿った土をかけていく。やがて白い棺が埋もれていく。ジーン枢機卿は祈祷を続ける。
 「主よ、この娘を顧みてください。彼女はこの世では他人の名を名乗り、他人の影として歩みました。しかし、御前では一人のマルカとして、その真の名を呼び、永遠の安息を与え給え――」
 厚い祈祷書が閉じられる。枢機卿が胸の前で十字を切る。
 アーメン――人々は声を揃えた。



73
午前四時の異邦人
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