土臭さも涙の匂いも洗い流す。地下から汲みあげられる水の冷たさが、意識を保とうとする意志を助けてくれる。鏡の中で、ティラナはひとりだ。鏡をみるたびに、不安に駆られていた。自分自身の姿が映っているのに、到底信じられないような気持ちがまだ続いている。そういう感覚ばかりはなぜか生き残っている。ティラナの顔貌の向こうの透明人間が一体化して、まだ一緒にそこにいるのではないか。
「王女様。お召し替えを。時間が迫っています」
喪服を脱ぎ、あたらしい室内着に袖を通す。薄く軽い素材のワンピース。清涼感のあるミントブルーとホワイトが夏の蒸し暑さを中和する。身体の成長速度は早い。一雨ごとの緑のごとく、身長はぐんぐん伸びるせいで仕立てる服は最初からすこし裾が長い。シュナイゼルはとにかく様々な服を着せたがった。起きている時間のうち、食事をしたり、本を読んだり、お喋りをするだけなのに。モデル事務所に子供を推薦する親がポートフォリオを撮るように、何度も着替えさせた。ティラナは渋々とプロデュースと小さなファッションショーに付き合っていた。ある時、不審がって『そんなことに何の意味が?』と疑問を投げかけると『偽装工作だよ』と答えた。
――『……寝たきりお姫様に、写真がないことが不自然だとはそんなに思えないのだけど』
――『そうは言ってもね。公には出ないだけで、私生活はある。そこに一枚も写真がないのは不自然だよ。皇室でもプライベートフォトの類は撮影する。未成年の場合その多くは皇妃とその宮殿が管理し、必要な時に提出するようになっている』
シュナイゼルはブリタニア皇室を例に出して、写真の必要性を説き、さらなる脅威を予言した。
――『……このままでは貴女のネグリジェ姿が世界中のタブロイド紙や、ネットニュースに公開されてしまう。それでもいいのなら構わないよ。何度か取材依頼を断っていると、せめて近影だけでもと欲しがる。何も渡せず記事を書かせてきている。ある程度飴は必要だよ。今後、有意義な報道≠心がけて貰うには』
『むーっ!』と、ティラナのピンク色の頬は、それはそれは水風船のように丸く膨らんだ。それは由々しき事態である。そして、シュナイゼルの主張は非常に説得力があった。
――世界中に、寝間着姿を晒す王女がどこにいるっていうの!
一世一代の大恥を晒し、歴史に刻まれてしまったら? あれだけ放漫に応じていたのが、嘘のように態度が一瞬にして切り替わる。プライベートフォトだってなんだって受けて立つ。意気込む変わり身の速さに、シュナイゼルは声をあげて笑った。
――『やってやるわよ。どんどん撮りなさい!』
――『ははは。やる気を出してくれて嬉しいよ。さあ、もう一枚撮ろう。……睨みすぎだよ、ティラナ。チェスの勝負ではないんだから。……そうだ、あとでチェスをしようか』
カメラマン役の侍従とその構えるカメラのレンズに睨みをきかせるティラナは、指摘を受けてぎこちなく表情筋を緩める。
シュナイゼルは傍らに立つ侍従長にひっそり『ネガは徹底厳重保管だよ』と囁いた。ハーゲンは『勿論でございます』と頷いた。
気楽な室内着のワンピースの裾をはためかせて、ティラナは象徴的な黄金とヴァイオレット、肖像画が彩る王の応接間≠ノ現れた。埋葬式から王宮へ戻り軽いランチを済ませたばかりだったが、テーブルには焼き立ての菓子とお茶の用意が進められていた。主人の登場に従僕や侍従ら、先に部屋で待ち構えていたシュナイゼルと客人であるベルケス首相が音もなく起立した。
「ルーイー叔父様。お待たせしました」
正装の燕尾服姿のベルケス首相は、ティラナの前で跪き手にキスをした。
「陛下。よくぞ……ここまで」
陛下≠ニ呼ばれることについて、未だどこか面映ゆく不慣れである。その点で覚悟が不足しているとティラナは感じていた。姿勢を正すと着席を促すようにソファに腰を下ろしながら、当たり障りなく親戚の心配をした。
「……アデリー夫人、シルヴィアやマデリーンはお元気?」
「ええ。元気です。メンバーは二人ほど増えましたが。この十二年で」
「そう。……そうなの? かなりおめでたい話ね! そこで美術館の彫像になっている人はなにも教えてくださらなかったけど」
ソファの反対側の位置にいながら、一切口を挟む気配のない婚約者に気を回すと、彼は静止の呪文を解いて微笑んだ。
「療養が最優先だからだよ。時期を追って説明するつもりだった」
「そうは仰るけれど、全然話したがらないじゃない。ちゃんとお見舞いの品をお渡ししたの? マデリーンの名前をきいてピンと来ていなかったような……」
「抜かりはございません。何事も完璧になさっておいででしたよ」
ベルケス首相はやんわりとした声色で擁護した。
「……そうなの? それもそうか……。……シュナイゼルの方は、うちの家より親戚づきあいが多いから、お茶の子さいさいよね?」
「その通りでございます。……それに、マデリーンは既に家を出ていますし、殿下がお見知りおきくださっていても、咄嗟に思いつくことは容易くないかもしれません」
「マデリーンは結婚したの?」
「ええ。現在は、三人目を懐妊いたしまして」
「三人目!? 時の流れは残酷だわ。……あの面食……いいえ。マデリーンがどんな方を選んだのか非常に興味があるわ」
ティラナは仰々しく驚いた。マデリーンは殆ど同い年の従姉妹で、王宮に遊びに来るたびに若い侍従を品定めしてランキングをつくっていた。曾祖母由来の金髪が好きな傾向が引き継がれていて、曾祖母なら誰に声を掛けるかを予想しあっていた。その彼女が結婚し、三人目の子供を迎えて母親になっているというのは奇妙な感覚だ。
「マデリーンの夫は、数代前に男爵に叙されたキャンプトン男爵の次男でして、サ・パレストリのダーンフィルで役員をしています」
ダーンフィルとはストリートの名前であり、特定の職業の代名詞になっている。古都ホリドゥラにあるビジネス街。大手証券会社の役員ともあれば、マデリーン相応の相手だろう。
「ダーンフィルって証券会社の? DFグローバル・マーケッツ。……玉の輿ね。……つまり叔父様はインサイダー取引予備軍で目をつけられているってわけね」
「組閣時にも、通年で資産に監査が入りますし、家族にも厳しいマークがつきますよ」
「抜かりはないわね。シルヴィアは? シルヴィアは結婚して二人子供がいたのは憶えているわ」
「特に変わりありません。子供は五人ほどです」
シルヴィアはマデリーンの姉だ。シルヴィアの方も十二年前の頃より子供が増えていた。彼女は長女らしくしっかりもので真面目で、敬虔な性格をしているので慎み深い印象を抱いていた。
「そう……、もう八人の孫のおじいちゃまなのね」
ティラナはそっと溜息をついた。自分自身の時間がいかに止まったままであるのか、現実を思い知らされた。古い記憶。価値観。浅い経験。ボードゲームで、敗け続きのマスを一つも進められないどころか、一人だけ後退して、他人はどんどんと人生の経験値を獲得している。レースゲームなら周回遅れで三周目のトップが自分を追い抜いて、最下位を走っているあの居心地の悪さ。我が境遇を嘆じられずにはいられない。
「……殿下」
気遣わしげに、ベルケス首相はシュナイゼルを呼んだ。
「ん? ああ……。今後についての話をしなくてはいけないね」
ティラナはちらちらと双方の顔を見比べて、何事か悪巧みを疑った。
「なぁに? 以心伝心。ふたりしてアイコンタクトなんてしちゃって。隠し事? 聞かれたくない話ならお暇するわよ?」
退席したほうが良いのかと、立ち上がるためにワンピースを押さえる。隣からシュナイゼルが「ティラナ。首相は貴女に会いに来たんだよ」と引き留めた。
「……そうかしら。嵐の予感がする。……それじゃあ、叔父様。本題をどうぞ仰って」
ベルケス首相はティラナを平身低頭し、それから正面に見据えた。
「サロニア公爵の……謀反とその処遇についてのお話しと、……私共の退陣の話をさせていただきたく存じます。……殿下、事前にお話しになりましたか?」
「ここ何日か忙しなくてね。……ティラナ、改めて説明は必要かな」
もうひとりの叔父の話。気が重くなる話題だが、避けては通れない。王宮にいる内は、禁句扱いの話題。悍ましい男の名を口にするのは、たとえ頭が理解していたとしても憚られる。彼の事件がどのように他者を傷つけ、人生を狂わせるのか。その代償の話のためにベルケスは謁見を望んだ。
「……暗澹たる気持ちにはなるけれど、受けいれているつもりよ。……国王の義弟によるクーデター。……首相の失脚は……避けられないわ。それどころか、貴方をも疑うでしょう。司法も、国民も、国際社会も。過渡期の立憲君主制に深刻な瑕疵をつけかねない。……内情を知らぬ多くの人々は……、貴方を国家転覆罪で裁くように睨むかもしれない。……ゆえに……社会的責任を取らねばなりません……。ルーイー叔父様。……十二年間、国と私共を支えてきてくださった貴方に酷な仕打ちをお許しください」
非難どころでは済まない、困難に曝されるだろう。ティラナ個人が助けたくとも、王室は立場を示すために首相一家とその家族を表立って助けることができない。胸が詰まった。小石が内臓を満たし、蛇口からホースで肺に水を突っ込まれているかのような息苦しさに晒された。大衆は先々代の時代を危惧している。この王家が中華連邦の門閥貴族の血を招き入れ、正当な後継者を失い、破滅に導かれていったこと。その再来ではないか。多くの人々は、わかりやすい悲劇の物語を信じるだろう。その毒は母方のポニャトフスキまで逆流し、一族連座として、やはり国際社会で憂き目を見ることになる。
ベルケス首相はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。……謝罪など。兄として……姉の弟として……。そして、貴女の叔父として、食い止められる事はあったはず。私は……放棄していた」
「そうやって何度もご自分を責めてこられたのね」
「誠になんと申せばいいのか……。ご快復早々、後始末に奔走させることになり……申し訳が立ちません。貴女の顔に泥を……泥どころではない、傷を負わせてしまいました。深い……。取り返しのつかないことを」
否定しようがない。訪れた沈黙。絨毯の模様を見つめる。その隣で、シュナイゼルは会話が途切れないように口を開きかけたとき、ティラナが続けた。
「……これから貴方には……災難が待ち受けています。深刻な。……叔父様ご自身だけでなく……シルヴィアや、マデリーンの家族にも。……人生に災難が立ちはだかって、居座る。……叔父様だけならご引退後、所領での静かな生活で済みますが、ご家族と縁戚関係。その方々の仕事のことを考えれば……様々な憶測や追及を免れないでしょう。亡命を勧告します。そう申し上げたいところですが……受け入れてくださる国があるかどうかについては……、こちらが取り計らいます」
「誠に申し訳ございません」
「……当件は、もう少し熟慮すべき点があります。後始末をつけるには」
シュナイゼルは興味深そうに視線を寄越した。
「また今後において後任者の選定も必要でしょう。……保守党は……」
「ああ……」と溜息混じりにベルケスは言葉を遮り、シュナイゼルに視線を移し「お言葉ですが壊滅状態です、陛下。毒牙の餌食となったのは、私だけではございません。暫し先まで、保守党は冬の時代です。貴女の治世。最初こそは私達がお支えしとうございました」と断腸の思いを吐露した。
視線を上げて、ティラナは弱々しく落ち込む気分を奮い起たせるように声を張る。
「……私自身も。率直に言って、長年の歴史を鑑み、またその数々の儀礼を継承する貴方がたの支えなしに船を漕ぎだすのに、不安が残ります」
「……陛下」
「沈黙の時間をやり過ごしているといえど、経過年数は十代のままです。……優れた人たちの中で、学校にも通った経験のない……学のない小娘を世襲制の力を借りて貴方がたの監督者となる。反感を買うでしょう。……卑下ではありません。優れた功績への評価ではなく、……社会規範。社会的役割の話です」
ベルケス首相は思慮深く意図を汲み取り、慎重な声で「我が国では二例目でございます」と言った。
いつも心の片隅で、クモの巣のように細かな緊張の糸が張り巡らされていた。その日が、その時が、その瞬間が来ないように願っていた。怯えていた。表向きの性格を取り繕うことは簡単で、本当のティラナとは臆病だった。弱いところをひけらかせば期待を裏切り、ますます弱さを露見すると考えていた。
「約一〇〇〇年前。時代も政治体制も宗教観も、当時のものと情況が異なります。元来、カストリアとはキリスト教国ではない多神教の都市国家でした。……国民国家となった現代では慣例なき最初の君主です。プロテスタントではなく、……カトリックの」
ベルケス首相は、椅子に座りながらも前のめりになった。
「なにも恐るるに足りません。陛下。……貴女が戴冠するのを皆心待ちにしている。神の恵みと、そのお力の素養を備える貴女が」
膝の上で、ティラナは左手で右手をぎゅっと握った。彼はその体制が始まって以来、長期政権を担った老練な政治家、国家の首長として力強く励ました。
「十二年前ならいざしれず、今貴女様に性別で王の再選定を求める者はおりませぬ。……それだけ、世間というのは移ろいゆくものです。容易に。軽々と。価値観も。むしろ、今そのような理由を公にしてしまえば、憂きを見るのは発言者本人でございます。民間ではポストを外されかねませんし、公僕であっても閑職扱いです。……なにより、貴族階級であってもその煽りを受ける。なんといっても、君主批判になります。ひいては我が国の憲法秩序の否定です。憲法の批難は、それらを選出した国民を敵に回すということ。……そんな無謀な真似を、誰が選ぶというのでしょう?」
それだけの年月が経過し、人々は前に進んでいる。
「こうして勇気づけていただける方を失うことを、非常に残念に思います。……親族で残ったのは、ルーイー叔父様だけだから。それさえも失うことになるなんて……とても、残念」
「いいえ。貴女様には公私ともにお心強い味方が。シュナイゼル殿下がいらっしゃいます。陛下」
ティラナの強張る手の、さらに上から大きな掌が重ねられる。彼を見上げると、物言わぬ慈愛の色がそこにある。緊張で震える指を握り込み、薄い皮膚越しに異なる鼓動の速さが伝わってくる。
「大丈夫だよ。ティラナ。私はここにいる」
包み込むように温かな声。安心感と安定感。強風吹きつける鉄塔の上で、命綱が腰に巻きついていると知ったときの神への感謝。断頭台が玩具の柔らかな刃であったときの安堵。バラバラの速度が次第に同じ鼓動に重なっていく。それがどうしようもなく、涙を誘った。
「……シュナイゼルには感謝しきれないほど、助けられてきたわ。……記憶にないところでも。誰もみていないところでも。勿論、摂政としても。私より幼かった人が、他国の責任を負ってきた。心からの敬服と謝罪を捧げます」
嘘はなにひとつなかった。一点の曇りも。真っ青な晴天のように。言葉だけでなく行為が必要だろう。ティラナに為さねばならないことが増えていく。制御盤のボタンを押す権利を持っているのは、どうやら自分自身しかないようだから。
ベルケス首相は唯一の親族であり、ごく身近にいた者として願い出た。
「殿下。……何卒、陛下をよろしくお願い申し上げます」
重い委任である。ティラナは、その言葉をなるべく聞きたくなかった。バージンロードを歩くひとを、父だけでなくまた一人喪失したのだと、その時思い至った。ブライズメイドに彼の娘や孫が務めてくれることも夢見ていた。砂の苦味が口内に広がるようだ。涙の塩気もある。
「謹んでお引き受けいたします。閣下。我が身命にかえましても」
胸に手を宛てがい、シュナイゼルは伏し目がちに誓いを立てる。彼は騎士の国からきた人だからか仕草が浮かず様になっていた。
a.t.b.二〇一二 July
カストラリア王宮・主寝室
ドレッサーの前の椅子の上で侍女がブラシで髪を梳いていた。エリザベスカラーを巻かれた小型犬のカットのように為すがまま。あまりに大人しくしているもので、シュナイゼルは揶揄ってやりたくなったが、寝る前に血圧を上げてしまうとその後の安眠は確約されないおそれがあった。つい先日には、シュナイゼルの居室まで枕を抱えて押しかけてきて、仕返しに終夜、聞いたことのない念仏を唱えるものでなかなか寝つけなかった。繁忙続きの数日を過ごして今夜は、ゆっくりと眠るために、それだけは避けたかった。
枕元で念仏を唱えたとき『馬の耳に念仏ってことわざが日本にはあって、効果がないとされているけど、あなたには効いているわ』と自信たっぷりに言うので『それに何の意味があるんだい』と訊けば、『あなたは意見を聞くべきってことよ。ユニコーン』と恐妻の片鱗を垣間見せたのだった。
侍女にすべてを委ねるティラナと、鏡越しに目が合う。「随分と長くなったね」と、無難で味気のないコメントに、ティラナは「ふふん」と上機嫌に鼻を鳴らし、犬がぶるぶると身を捻るように頭を振って髪をふわっと広げた。育毛を促進するエッセンス入りのシャンプーかトリートメントの柔らかく甘い香りが漂った。
「育毛は順調! ねえ、みて。シルク素材のこのおばあちゃんみたいなナイトキャップを被ると艶々になるの。シュナイゼルの分もあるわ」
「グランドマザーを増やすつもりかい?」
シルク素材のナイトキャップは、邪魔にならない程度に波打つフリルつき。やや古めかしいデザインが老人らしい。老舗のブランドが手掛けているそうだ。ティラナはドレッサーの上にある箱をがさごそと漁った。
「グランドファーザーの方がいい? フリルのないキャップもあるけど……。とにかく、髪の毛は大事にしなきゃ。本当におじいちゃんおばあちゃんになった時に困るのよ?」
「ありがたい心配に感謝するよ」
シュナイゼルは内心、両親の顔を思い浮かべて老後の懸念とは無縁そうだと結論づけた。ティラナは椅子の背に凭れかかると、侍女の仕事であるブラッシングに身を任せた。こうした日常の細々とする世話に当初「ひとりで出来る」と彼女は言い張っていた。「そのまま未来永劫、閑職のままにさせるわけにはいかない」とシュナイゼルの進言に不貞腐れながら『良きにはからえ』と命じたのだった。シュナイゼルがその部屋を訪れたのは、眠りの前の最後の挨拶をするためだった。
ハーゲンを介して、婚姻の秘跡サクラメント≠重んじる立場である教会からは心身の誘惑をお慎みください≠ニ有難い助言を賜っている。遠回しに婚前に男女の同衾を禁ずるという触れである。君主は国教における最高信徒である。神との婚姻の次に、人との婚姻が許される。婚前交渉による解釈は様々であるが、赦しを与える立場である者の純潔が問われる。つまりティラナが王女のままであれば、事後承諾と黙認が君主の赦しによって、咎められることはなかったであろう。密かな抑制など露知らず、ティラナは肩につくほど伸びた髪を指先で弄んだ。自虐するブルネットは、深く抽出した紅茶のように時々赤みが混じり、毛先は軟毛の髪質により、最初の曲線を描きはじめている。
「もう少しだけ伸ばしたいわ。ずっしりと重たい王冠の台座が安っぽく、……子供っぽくみえるのは嫌だもの」
「髪の長さで戴冠式の日程を決めるつもりかい?」
「大事なことよ。年頃のお嬢さんは過ぎてて……子供が最低限一人くらいいたっておかしくない年齢よ? 大人っぽく見せなきゃ。……戴冠式のあとには写真は撮られるし、肖像画だって描かれるんだから。恥ずかしいのが一生ものになるのに耐えられない。中身が空っぽの……子供のままの成人女性が王様なんて、がっかりでしょ」
ながらく他者からの関心に無頓着だと信じていたが、彼女は見られ方や評価をかなり気にしているのは意外だった。
「ありがとう。おかげさまで艶々。夢の国で天使の仲間入りね」と冗句で侍女の仕事を止め、引き下がらせるとティラナは欠伸を何度か噛み殺し、何度寝返りしても落下することのないほど広大なベッドに潜り込んだ。
「呆れちゃうくらい眠いの。……ちょっと前の私だったら大笑いしてる。……きょうは、学び直しにマグナ・カルタの複写全文や憲法を読んだりしてみたけど……エネルギーが体の成長に回っているのかしら。居眠り常習犯よ。学校に通っていたら放校処分間違いなし」
気がついたら眠ってた、と続く言葉は吐息に吸い込まれ羅列が怪しい。とうとう深い欠伸を漏らした。最近の彼女は活動的に読書をして過ごしているが、一日あたりの睡眠時間は十四時間。よほどの用事がない限り、ほぼ一日の三分の二に迫る時間をベッドで眠っている。まだまだ本調子を取り戻すまで程遠い、眠り姫である。とくに最近は先王の書斎に入り浸り、なにやら思い悩んでいる様子だが誰にも話すことのできない秘密なようで、シュナイゼルにさえ明かすことが不可能だという。トップシークレットらしい。食い下がって、手伝えることはないかと提案すれば『しつこいわ』の一言で片付けられてしまう始末。
「ふあー」と何度目かの猫のような欠伸をして。夢の世界の制服であるナイトキャップを被った。
「スカーフからナイトキャップにグレードアップ。……なんてね」
シュナイゼルは、くすりと小さく笑いを漏らした。退室しようと踵を回す背に「……セラフィナは元気なの?」と彼女は問うた。
「達者だと聞いているよ」
「修道女になったんですって? ルーイー叔父様がおっしゃってたわ」
「そうだよ」
隠していたわけではない≠ニ両手を広げる。ティラナは承知している≠ニ、こくんと頷きいて、ふ、と羽毛のような軽さの吐息で微笑み、辛苦を堪え、哀切に満ちた表情を歪める。泣き出すまえのほんの初期微動をシュナイゼルは感じ取っていた。昔から。ティラナでなかったノエルの時代でさえ、このほろ苦い痛みをやり過ごす瞬間を見逃したことはないと思い出していた。まだ癒す方法を知らない。見つけなければいけない。
「感謝しているわ」
「……なんのことだい?」
「セラフィナのこと。安全なところに……匿ってくれて。あそこの教会は……お母さまが洗礼を受けたところだから……手出しはできない。大御祖母様だっているし……」
最初にセラフィナを匿ったのはノエルであった頃のティラナの判断で、シュナイゼルはそれを引き継いだ形でしかなかったが、それを口にすることはなかった。それにしても、それも今後安住の地で在れるかは確信がもてない。ポニャトフスキの元王妃。名門オーストリア・ハプスブルク家出身のクイーン・マザー・カタジナ。ポニャトフスキの女帝≠フ威光をもってしても庇い切れる保証がない。欧州上流社会を取り仕切る歴史の生き字引である当人は、高齢で曾孫の結婚式を楽しみにしているが、事件を世に曝すことは、即ち彼女の長年守護し培ってきた血統と権威に傷をつける。
そうした背景が読めているのか、ティラナはベルケス首相との話を終えたあとからどこか上の空だ。とはいえ予想の範疇。隠し通せる話でもない。アルディック――サロニア公爵は一網打尽する勢いだ。たとえ、もはや誰もが彼を見捨て、協力者がいなくなったとしても。特権階級全体に砂をかける悪辣行為。
それは、今日まで階級社会を維持するブリタニアも他人事ではない。社会的基盤を根底から揺るがしかねないスキャンダル。シュナイゼルは自身の特権を保守することよりも、明日、明後日、明々後日先の世界が混沌に陥ることを憂慮している。社会の変革は一見素晴らしいものにみえるだろう。しかし旧来の社会を維持してきた者たちが枠から解き放たれればどうなるか? それまで辛酸を嘗めていた者は蜂起し、足掛けていた者たちは富と武力を行使し鎮圧をはかり内紛を招く。対外的な戦争もやりながら。殺し、殺され、殺し合い。血を血で洗い、そして国家は自ら溺死していく。人類の血の混ざった汚泥と汚水だらけの沼に足を取られて。清潔な水はもはやどこにもない。
今夜は難しい話を続けたくないと、彼女は話題をシフトし、テーブルの上に山積みになった細々としたプレゼントの中身を見遣った。
「プレゼントを開けたわ。誕生日の……」
「十一年分を?」
「……全部ではないけど。別室の方にもあるって聞いたわ。昔使っていた子供部屋に、たんまりと。……お返しが大変。……ううん……そうじゃなくて、誰から何を貰ったのかとか憶えていなきゃいけない」
「リストは作らせてあるよ。お返しは都度行っている。誰に何を貰い、贈ったのか。貴女の手を煩わせることはない」
「……そう。まめまめしい。ありがとう」
「仕事が少ないから、いい暇つぶしになったと思うよ」
「御冗談ね。……たくさん、こなしていたのを知ったわ」
目が合った。あとは主寝室から去るだけのシュナイゼルの歩みはベッドの方に向けられた。
「おやすみ。ティラナ姫」
丸い額にシュナイゼルは唇を寄せた。皮膚の甘い香りに、惹きつけられる蜂のように二度、三度と頬にも口づける。
「……私をお姫様扱いしてくれるの、もうあなたしかいないのね」
公的に君主の戴冠は未だであっても、彼女はその父の崩御の瞬間から女王だが、習慣的に人々は王女と呼ぶ。シュナイゼルの前では、満たされぬ少女時代を生きているティラナは王女だ。
「失礼だったかな」
「お姫様のほうがまだ幸せ。みんなの幸せが綿菓子みたいに詰まってる」
軽く微笑んだ。お互いのタイミングもちょうどよく。
「……私、あなたの誕生日を一度も祝ったことがないわ」
シュナイゼルはなんともいえない顔つきで、眠気に誘われる力の入らない瞳を見つめた。ノエルの頃に祝ってくれた出来事は彼女のなかにはない。
物悲しい霧雨の感触とは、心地とはこういうものなのか。諦めようとしている過去が傷をつけるのは彼女だけではない。静かにマルカの埋葬の日に言葉を思い返していた。――哀れみを嫌っている。強い眼差し。同時に、傷つく顔、涙に暮れる赤い顔を。
二、三種類の出力しかない乏しい自分とは異なる彼女は色相環のホイールのように自由自在・変幻自在に色彩に富む。どれも都度、少しずつニュアンスが違う。彼女の色が白い布に染め移すように楽しめるのではないか。エネルギーが生かしてくれると期待している。どの瞬間であっても。
その彼女が永遠に壊れてしまわないように、生まれてはじめての出来事かのようになかったことにしなくては。楽しかったことも、喜ばしい出来事も。
「欲しいものは、ある?」ティラナがそっと訊いた。
――欲しいもの。
こういった質問は苦手だったが、紛れもなく欲しいものはあった。
「究極の難問だね」
「……そう? でもたしかに望めばなんでも……手に入るのは、困りものよね……」
眠りの泉に片足を漬けている彼女はふにゃと柔い顔をした。本当に欲しいもの。それは既に知っていた。相対的な比較によってのみ浮かび上がる欲望。
「……次のお誕生日はお祝いできそう。ちゃんと考えておくのよ? ……十二年ぶん」
「うん。……考えておくよ」
今度こそおやすみ。囁きに緩々と瞼が下がり切るまで数秒。そこから十四時間後を待ち詫びて、シェードランプの灯りを消した。
真夜中の脱走に気づいたのは、その日、予定を大幅に押して深夜にかけて、今後の相談に対応していたシュナイゼルのところへ、運よく同フロアにある主寝室の扉が、風で軋む音が耳に届いたからだ。
「……ティラナ?」
呼びかけとともに主寝室を覗くと、寝息は聞こえず、ベッドの上の膨らみもなく。かわりに被っていたナイトキャップが、抜け殻のように取り残されていた。
「またか」
溜息を吐きたくなった。せめて外へ出るなら一声かけて欲しいものだ。
室内に目立った脱走を可能とする痕跡は発見できず、どうやって厳重なセキュリティを突破したかは後ほど精査するとして、シュナイゼルは主寝室のヘッドボードにあるボタンを操作しセキュリティ管理室へ脱走≠通知した。ただちに様捜索隊が結成され、監視カメラ情報から現在位置を特定することができる。報告にあがった夜勤の待機中だった侍従が薄闇から照明を手に現れた。
「殿下。おやすみのところ失礼いたします」
「就寝前でよかったね。……王女は?」
「厩舎の方でございます」
「厩舎? ……とにかく回収を急ぐよ」
厩舎はどちらかといえば山側にあり、王宮からは少し離れた位置で以前の脱走先である温室に近い。発見は早く、大掛かりな捜索にならずに済んだ。半分欠けていたとしても、ヒマラヤの眩しい月の光の下。彼女は空の馬房の前で、石像と化し、何十分もそうしていた。
「……真夜中の大冒険だね。ティラナ。部屋を出る時は一声欲しいところだ」
「……ここって燃えたの?」
「うん? どうしてだい」
「メリーゴーランドも、マロングラッセもいないもの」
懐かしい名前の響きにシュナイゼルは口元を弧を引いた。
「厩舎は火災の影響は少なかった。王宮から離れた場所にあるから。……しかし、混乱に乗じたか、パニックで何頭か脱走したみたいだ。マロングラッセは見つかっていない。メリーゴーランドは厩舎に残っていたが……ストレスから体調を崩してね。そのあとに衰弱死してしまった」
ティラナは二頭の愛馬の顛末を聞いて取り乱したりはしなかったが、声の調子は低下した。
「……そうなの」
明らかに気落ちしたティラナは肩を前に落とし、その場で所在なく動いたあと、ぶらぶらと厩舎の奥の丘陵を伝い比較的なだらかな高原に出た。月影が夜の世界を創り変えていた。岩や草花の影。ふたりの人影が長くくっきりと焼きつけている。そして、地球の片割れの影が。
「……メリーゴーランドとマロングラッセはね。私の、友達だったの。生まれた時から一緒にいて……」
「憶えているよ。その話を昔聞いたから」
夢の国で、二頭が顔をみせに会いに来たのか、心地のいいシルクが連れていったようだ。
歩幅は彼女より勝っている。調子よく進めば肩を並べることも、追い越すことも簡単だ。それでも、ゆっくりと後ろを歩いた。
「……馬車を引いてほしかったの。あなたと私の結婚式で。……伝説のお馬さんにしてあげたかった」
行き着いた小岩の上に尻を落ち着けて、離れた王宮を眺める彼女の隣に座った。
「……みんないなくなっちゃう。昔からあったもの。私を知っていた人。両親も、友も、叔父様も。……仕えてくれた侍女や侍従、職員たち。乳母もひとり辞めたと聞いたけど、亡くなったんでしょう。……とっても寂しい。こんなにたくさんの人々に囲まれて、暮らしているのに」
最も近い他人であり、最も遠い家族さえも。ティラナの孤独を癒すことは不可能だろう。
「本当は……王様にだってなりたくないわ。……あなたの前で言うべきことじゃないことはわかってる。あなたの尽力を、貢献を、無碍にしたくない気持ちもある。十二年間も国に、お金も、身命を捧げてきたあなたに、困らせるどころか酷い話だと自覚があるうえで……爆発するまえに言っているの」
彼女は涙声を隠すように、大袈裟に息を吸っては吐いた。
「……贅沢な悩みかしら? ブリタニアの皇位継承争いじゃ、きっと蹴落とされてお終いよね。……みんなが野心家ではないように、大人しく暮らしたい人もいるわ。私はどっちかっていうと後者よ。決めるよりも、決められるものに従う方が楽。時々ルール違反をする方が楽しい。いつもしているって? ……誰かに責任を預けているほうが幸せだってこと。だけど。いつまでも、そういうわけにはいかないのも理解っているわ。……自由から卒業しなくちゃいけない」
思い違いを指摘することをしなかった。シュナイゼルは少なからず、彼女のいう自由≠ニやらが、与えられた自由ではないことを知っている。始めから巌の檻の中で暮らしていた。多くの人を従える自由は不自由との等価交換である。自由とはその不自由に相殺され手元には残らないのである。
そして、共通点を持つシュナイゼルには身近な社会の構造式で、彼には生まれながら葛藤は少なかった。在る場所で生き、可動域内に留まる生活。婚約を承諾しなければより安穏な生活を送っただろう。父と帝国のイデオロギーに従い、退屈を紛らわすのに国に貢献し、他者からの承認を得て。たとえ好奇心や憧れを持ったとしても、自由を真に渇望することを選ばずに。継承権の二番目以降は長兄のスペアーだ。それもいくらでも替わりがいる。蹴落とす野望があれば容易に手に入る地位かといえば、実はそうではないことも。それを判断するのは父親の好悪や不可視の基準をクリアする必要があるし、単純な性別や生まれ順で決定される継承順位よりもブラックボックス化が深刻な問題点だ。
透明で一つしか名前入りの紙が入っていない箱と、不透明でたくさんの名前入りの紙が入っている箱。似ているが正反対な環境。
彼女がいう自由とは、その箱の中で紙を引こうとして入ってくる腕や指から逃れていることで、さらにその紙は底抜けの穴から差し込まれた悪辣な手により外部に持ち出されていた。だからこそ、彼女が真の自由を得たことは一度もない。
小岩の下に座り直し、プチンプチンと音をたてて手近な草を引いては、編み込んでいくのをシュナイゼルは黙って見下ろしていた。横から射し込む月光がティラナの頬を白く染め上げている。
「なにをつくっているんだい?」
「……前向きな話をするための、準備よ」
そう言いながら、ティラナの指は器用にホリドゥラの茎の棘を別の草の表面で取り除き、花の部分だけを丁寧に切り取って、他の柔らかな草に編み込んでいる。その形状はDNAの螺旋に似ていた。花冠を制作するにしては小さなものだ、と思案しているうちに「出来たわ」といって、立ち上がった。彼女は、シュナイゼルのまっさらな白い左手を取ると、「棘は抜いてあるから大丈夫よ」と一輪の花を上に向くようにして花の指環をくるくると回し入れた。
「……私と結婚してくれる?」
「もちろんだよ」
一足す一は二。深遠なる自然数の哲学に足取られるよりも前に、すべての人々が数学的真理に基づく、普遍的な解答を導く速さで応じた。
「……もしかして、これはプロポーズになるのかな?」
「もしかしなくても。プロポーズだけど? 宮廷規則では、立場が上位者からでないといけない決まりを思い出したの。あってる?」
どこか誇らしげに笑うティラナに、シュナイゼルは呆気にとられた。
「おや。……これはこれは。……あははは。……まいったね。出遅れたみたいだ」
シュナイゼルにはその母から継承した四五.五カラットのブルー・ダイヤモンドや、幻のサファイアことコーンフラワーブルーサファイア、華やかなピンクトパーズを管理していた。そのうちピンクトパーズは金のネックレスとして形を与えられ十二年間眠っている。然るべき時機にあわせて再調整を予定し、贈答するつもりでいた。プロポーズにしてもノープランではなかった。
「……いつも出遅れる」と口の中で小さく繰り返した。
想像した反応よりも振るわなかったのか、ティラナの表情は硬く不安に曇った。
「……やり直したほうがいい? ロマンチックじゃないもの……」
段々と気恥ずかしさに支配されはじめたティラナはコホンと咳払いをした。そして、くるりと身を反転させてその場から下へ回り込んで、小岩に腰掛けるシュナイゼルの真正面に立った。ふたりの目線は隆起する小岩と地面に生じる段差によって等しい位置に揃っていた。ティラナは渡り鳥が長い首を畳むように、ネグリジェの長い裾をドレスのように、左右両方で摘みあげて身を深く沈めた。優雅な挨拶を据えて改めてプロポーズを口にしたのだった。
「金色のユニコーン、お月さまの明るい光のよう。あなたの鬣を整え、ずっとあなたを離さずにいてもいい?」
Gold≠ニHold=\―Bright≠ニLight≠フ二重の脚韻構造。均衡的なリズムと数学的な美しさ。見事な口説きにシュナイゼルは思いがけず表情を甘く綻ばせた。
「喜んでイエスと」
「……あなたの最も正確なハードディスクに、今の言葉を書き換え不能≠ナ保存しておいて。もし忘れたら、その綺麗な鬣を全部毟り取ってあげるから」
「ふふ。手強いね。……大切に保管させてもらうよ」
適切な距離に保たれていた陰のなかの影が動く。境目を越え、侵入し、形が変化を経て一体化する。指環の工作に勤しんだ働き者の手指は頬の輪郭を触れ、よく言葉を紡ぎ出す唇は、休息地に彼の唇へ軽やかに落ち着いた。