a.t.b.二〇一二 July
カストラリア 中部プラド・ヴェルデ地方
七月の最終週。首都の盆地特有の、肌にまとわりつくような蒸し暑さからの逃避先——避暑地ヴァルグレイのある小高い丘までの道は、さながら飲食店のドライブスルーに並ぶ一本の車列を、さらに引き延ばしたかのように果てしなく続いていた。
この大渋滞を作り上げているのは、道そのものの構造的欠陥だった。都市部のような計画性など微塵もないその田舎道は、舗装すら施されていない上に幅が狭く、おまけに強烈な傾斜の急勾配である。しかもその山道は決して生易しいものではなく、世界一峻険な山々へと続く険路の入り口なのだ。
もしもどこかの一台がトラブルで立ち往生すれば、車が動くまでその辺の草むらでピクニックでも始めるほかなくなる。各車内でハンドルを握る運転手たちは、額に汗を浮かべながら、やはり微動だにしない前方のテールランプに向かって、神に祈るような面持ちで視線を送っていた。
長蛇の車列のなかでも、とりわけ国防参謀総長を乗せた高級車の運転手は、生きた心地がしていなかった。なぜなら、我が主を運ぶ先は、優雅な湖畔のホテルでもなければ、周囲に点在するコテージや別荘でもなく、あのサルビアブルーと白亜の城≠セからである。
主催者との謁見予定時刻は十五時。運転席のデジタル時計の数字は十三時三十分。まだ約束の時間まで余裕があるとはいえ、ここ数キロにわたり、一時間以上もろくに進んでいない。最後に車輪が止まった場所から、窓の外の景色は一歩も変わっていなかった。
苛立ちを持て余しているのは、助手席に座る秘書も同様だった。ダッシュボードに時計が搭載されているのにもかかわらず、彼は何度も自身の腕時計を確認している。
「一番乗りは死守したいところですが……閣下、間に合うでしょうか」
「さあな……原因がわからん。車のコンディションに左右される。ガソリン車ならガス欠、最新の電気自動車なら蓄電池の寿命かモーター不良といったところか」
運転手は前方のトラブルを推測しつつも、もし自分がその先頭車になっていたらと想像し、原因が何であれその運転手を強く責める気にはなれなかった。
秘書は、後部座席と運転席を仕切るパーテーションの壁越しに、そっと後ろを振り返った。
「着替えは済ませてありますが、閣下にここから徒歩で歩いていただくわけには……」
到着直後、王室の別荘に直行して挨拶を交わす。それが秘書の主にとって、ヴァルグレイでの最初の、そして最も重要な仕事だった。
その時、仕切りの小さな小窓がスライドして開き、主の顔が覗いた。同時に、壁を軽く叩く軽快な音が響く。
「やあ。私だ。……この先三キロにわたる渋滞だが、一時間は解消される見込みがないと、たった今サー・サルクスから連絡が入った。この車を降りて、徒歩で向かうことにする。車は一先ずホテルを目指してくれ」
「しかし、閣下……!」
台形型の安定感のある輪郭。細いリムの眼鏡の奥で、優しげな瞳が細められる。秘書が「ああ……」と声を漏らして躊躇うよりも早く、閣下と呼ばれた男——ユーサー・ロンハード参謀総長は、厚みのある後部座席の扉を開け、堅苦しい軍服姿のまま軽やかな身のこなしで降車した。そのまま助手席側へと回り込み、窓をコンコンと叩く。
「運動不足解消にはもってこいの、素晴らしいハイキング日和じゃないか。さあ、行こう」
ロンハードは、それでもまだ渋りそうな秘書に対して、怒鳴ることも突き放すこともしなかった。ただ、前方を埋め尽くす車列を一瞥し、可笑しそうに肩を竦める。
「致し方あるまいよ。ほら、前を見てごらん。高級将校たちが競歩大会を催している」
それは冗談ではなかった。前方からも、あるいは後続車からも、続々と制服や上質なスーツ姿の男たちが車を降り始め、車の脇を通り抜けていく。対抗車線まで使って一直線に突き進むその様子は、まさに壮観な暑中行軍≠サのものだった。
助手席の秘書は苦い顔のまま、遥か彼方の見通せない最前列の車に向かって密かに悪態をついた。彼は手提げ鞄を固く握りしめ、薄いツイード生地のジャケットの下で、シャツの釦を二つ外す。
歩き始めたサー・ロンハードの背後から、同じように約束の時間へ間に合わせるべく、行軍に加わった男の影が差し掛かった。
「あいにくの夏休みですな、サー・ロンハード」
「まったくです、サー・コートニー」
声をかけてきたサー・コートニーは現職の法務大臣である。その他にも、行軍に混じる顔ぶれは錚々たる面々だった。軍部のトップ、各省の大臣、国家警察庁長官、議会議長、さらには大司教の姿まである。国家の要職者が一堂に集められているようだった。これから数キロの山道。軍職者は丈夫な軍靴を履いているが、スーツ着用の文官たちは皆、薄い革靴であるのが気の毒だと、ロンハードは密かに同情した。
「貴殿も、殿下からの御招きを?」
「ええ。……保守党のスキャンダルに、その他の統治機構の腐敗……いわば国家の三権の柱≠ェシロアリに食い荒らされている有様だ。殿下も、小言の一つや二つは仰せになりたいのでしょう」
まだその時ではないが、道中にはじわじわと緊張感が漂い始めていた。あの物腰穏やかな摂政殿下がお怒りになる様子など、誰も想像がつかない。だが、却ってそれが恐ろしくもあった。法務大臣は深く頷く。
「大いに同意いたします。……ところで、あのお噂についてはお耳に入っておりますかな?」
「噂? ……ああ、女王陛下がご快復されたという件ですか。各社を渡り歩いている野良の記者崩れから、大手新聞社や出版社にタレコミがあったそうですが、どこも報道には載せなかった。唯一、芸能ゴシップで飯を食っている三流の週刊誌だけが、抜け駆けで掲載したらしいですね」
サー・コートニーは鼻で嘲り笑った。
「三流はやはり、どこまでいっても三流だな。……他の大手には、裏から手を回したのでしょう」
「王室が、ですか?」
ロンハードが首を傾げると、コートニーは声を潜めた。
「他に誰がいるのです。その記事によれば、大聖堂にある王室礼拝堂に詣でられたとか」
「……わざわざその記事をお読みになったのですか? 購入して?」
「ははは! 秘書が興味本位で買ってきましてね。もちろん、経費では落としていませんよ」
コートニーは周囲を警戒するように声をさらに低くした。
「王室の王族専用車に乗車なさるのは普段は殿下のみですが、その日はかなり……人目を忍ぶように窓が締め切られていたようです。ボンネットに王旗の掲揚もなかった。意図的に外されていたのではないか、とね。記事に写真掲載はありませんでしたが、小柄な喪服姿の女性を見かけたという目撃証言もあります。まず間違いないでしょう」
「なるほど。だから今年は、我々も狩人≠フ準備をしてこい、と」
「狩猟ですよ。先王時代には通例となっていた、夏の目玉イベントだ。昼は狩猟にハイキング、ピクニック。ポロやクリケットもやっていたっけなあ。そして夜は晩餐会に舞踏会だ」
「存じています」
「得意不得意はあるだろうが、そこが最大の人脈作りの場になる。ただ……先王は内向的な方でいらしたから、後半は読書会ばかりだった。インテリどもの独壇場さ。その点、王后陛下が主導されたスポーツ競技中心の催しは華があった。なんてったって、元スポーツ選手でいらしたからね」
「すると、ティラナ陛下が戻られたとなれば……やはり学術寄りでしょうか」
サー・ロンハードと同様の見立てをするものは数多くいるだろう。学術界即ち、アカデミー派は新女王が子供の時代より幅を利かせがちだった。ただこの十二年間大人しかった。それが、今年復活するかもしれない。
「ご体調次第でしょうな。——さて、まずこのヴァルグレイに、陛下が本当にお越しになっているかどうか……ひとつ賭けようじゃないですか」
サー・コートニーは挑戦的な賭け事の提案をサー・ロンハードに持ちかけた。
「負けたら?」
「私と、摂政殿下との仲を取り持っていただきたい」
「なかなかの大望ですな、コートニー卿」
歩きながら、サー・コートニーは彼自身よりも、大柄で丈夫な体を持つサー・ロンハードの背を軽く叩いた。
「貴殿は殿下のお眼鏡に適っている。羨ましい限りだよ」
「では、私が勝ったら?」
「そうだな……貴殿の言うことを、何でも一つ聞こう」
切れ者の法務大臣はにやりと笑う。サー・ロンハードは両手を組み合わせ、賭けを承知するように顔を頷かせた。
「よし、わかった。では私は、陛下がお越しになっている方に賭けるとしましょう」
「相わかった」
二人の紳士は小さな賭けに興じている間に、車列を追い抜き、一行は湖畔のホテルの前に到着した。だが、ここからが本番だ。さらに一本道を辿り、その遥か上にある丘の上の城≠目指さなくてはならない。したたかな法務大臣は、歩き疲れてホテルで休むとリタイアした。
額の汗をハンカチで拭う。
避暑地であるヴァルグレイに召集されるのは、これで二度目だった。これが栄転への兆しとなるか、あるいは栄華からの転落となるか。
白亜の城へ辿り着くと、制服姿の侍従が厳かに到着を告げた。サー・コートニーと同様、他の要職者たちは一先ずホテルで身形を整えてから参内するようで、結果として歩き通したサー・ロンハードが一番乗りとなった。予備の二枚目のハンカチを取り出し、もう何度目か分からない汗を拭う。従者の案内に従い、ホールから階段を通じて二階へ駆け上がる。内装は以前来た時と同じで特段変化はない。
「シュナイゼル殿下。ユーサー・ロンハード卿がご到着されました」
侍従が開けっ放しの扉を叩き、サー・ロンハードの名を読み上げて到着を知らせた。
「——サー・ロンハード」
執務室の奥から、低く落ち着いた、絹のように柔らかな声が参謀総長の名を呼んだ。
「シュナイゼル殿下。お久しぶりでございます」
執務の手を止め、身を乗り出して彼は、進み出たサー・ロンハードと握手を交わした。
立派な軍人のひとりとして、人を圧倒する体格を持つサー・ロンハードからみても、彼は長身で大柄で、されども粗野ではなく、繊細な美貌を湛え、ともかく存在感がある。しかし、今はその超然とした美しさを前に、呼び立てられた男は恐怖心に駆られている。
ユーサー・ロンハード。この名の下で、これまでどれほど苛烈な内部捜査が行われてきたことか。サー・ロンハードの古巣である海軍、そして現在総指揮下にある陸軍や空軍。彼は身構えていた。あまりにも酷い軍部の様態に、苦言の一つでも貰わねば腹の虫が収まらないほどの凋落が、今のカストラリアのあらゆる機関に存在している。専制君主制からの移行期という混乱を差し引いても、この零落の度合いは生半可ではない。
時期尚早であった≠ニして前体制に回帰するという触れが出たとしても、誰も文句を言えないだろう。だが、この国は不思議な国だ。王族の私生活がどれほど退廃的であろうとも、周囲の国々が戦争の火の粉を被り、貧困に喘ぎ、民衆の不満によって王政が打ちのめされていく最中であっても、カストラリアだけは数百年もの間、大戦をやり過ごしてきた。すべては王室の血の外交≠ノよるパワーバランスの調整の賜物だ。
当代はブリタニア。先々代は乗っ取りを未遂に終わらせた中華連邦。その前はE.U.の前身であるフランス王国やスカンジナビア。かつては傍流ながら、極東からも妃を迎え入れたことすらある。様々な国の血を呑み込んできた歴史が、この国を歪に守っているのだ。
「その節はどうも。我が国の内部捜査にご協力いただき、感謝申し上げますよ、ロンハード卿」
シュナイゼルは穏やかな微笑を絶やさない。
「滅相もございません。……して、本日お呼び出しいただいたお話≠ニいうのは」
「今夜の晩餐会を皮切りに、催される交流会の……いわば裏テーマとでも言いましょうか」
シュナイゼルの一言に、ロンハードは太い両眉を持ち上げた。
「嵐が巻き起こっている最中、航海する一隻の船があったとします。その船が、国家の至宝を抱えて別の船へと飛び移るとしたら——それは、大いなる助け舟でしょうか?」
海軍の高級将校を勤め上げた経歴を持つ男は、しばしの沈黙を置いてから、重々しく答えた。
「……新たな大陸へ至るための、助け舟であってほしい、と願うばかりです」
「ニューアイランド、ですね」
「ええ。……ですが、新たな船が我々を救ってくれる保証はどこにもありません。もし、親切な隣人を装った海賊だったとしたら? 至宝を抱えている弱みにつけ込み、恩義を利用してすべてを譲り渡すよう脅迫を受けるかもしれません。さらに言えば、船を乗り換えたところで嵐自体が収まったわけではない。下手に手を結べば、共倒れになる危険もあります。私ならば……取り付く島を賢明に探し出し、一刻も早く陸へ上がりますな」
その解答を聞いたシュナイゼルは、満足そうにフッと笑みを深めた。試問に対する解答としては、さすが本職の軍人だと賞賛したくなる完璧な見識だった。
「かつて、旧時代のイングランドにおいて、サー・ウォルター・ローリーは、ブリタニア大陸入植のきっかけを作った先駆者となりました。彼はエリザベス一世の寵臣であり……彼女の黄金時代を陰で支えた。一説には愛人だったとも言われています。ヴァージニアへの入植は困難を極めましたが、彼は女王の恩寵を盾に、当時の純粋派プロテスタントを退け、国教会と王党派の威信を堅持して、新大陸に確固たる足掛かりを築いた。これは並大抵のことではありません。……そして今、我がカストラリア王国もまた、黄金時代の前夜にあります」
「そのために……この嵐を潜り抜ける難破船の、舵取りをせよと?」
「ええ。たとえ舵が思うように回りきらなくとも、です」
かなり示唆的な比喩である。サー・ロンハードの無言を、優しい声音が包み込む。
「安心してください。帆はまだ破れていませんし、私が持つ地図と羅針盤は極めて正確ですよ、サー・ロンハード」
シュナイゼルの青紫色の瞳が、穏やかに、しかし逃がさないようにサー・ロンハードを射抜く。
「最大の問題は、現在の船員たちが食中毒で瀕死状態にあり、船底に致命的な穴が開いていることです。ですが、その致命的な欠陥に決して諦めず、屈さず、残ったわずかな船員と至宝をニューアイランド≠ヨと導く。……私は、あなたにその仕事を任せたいと考えているのですよ」
叱責でも、嘆息でもない、どちらかといえば栄転への兆し≠ナある。海軍こそが陸・海・空の三軍のなかで最重視される、旧イングランドの系譜を引き継ぐブリタニア帝国第二皇子の言は、とくに海軍出身の参謀総長へのリップサービス≠ヘ効果てきめんだ。若き摂政による口説き文句を超訳するならば、貴殿を国の要となる、船長にしたい≠ニいうことだ。推薦に対して、二つ返事で承諾するにしては、かなり難しい決断となる。サー・ロンハードは、本格的に言葉に窮した。
そこへ。
「シュナイゼル? シュナイゼ〜ル。おやつの時間よ〜!」
不意に、執務室の空気を弾ませるように、女性の高く朗らかな声が響いた。
「あら。お客様をお招きしていたの? いらっしゃい」
「昼食のときに伝えたはずだよ。ティラナ」
呆れたといった調子のシュナイゼルに、若く瑞々しいエネルギーを持て余す女性は、臆することなく指摘を打ち返す。
「その時はジャムの準備で忙しかったの!」
白地に濃い紫色の小花が散るワンピースに、黄色のエプロンを前に。そして、白のローヒールパンプス。彼女の登場はまさに、サッと彩りが射し込んだようだ。現れた可憐な主役の姿に、サー・ロンハードは今日ここに来るまでの、法務大臣のコートニーとの賭け事を思い出し、自然と口角を持ち上げた。
「は……」
「——その至宝は、案外よく喋るかもしれないね」
呆気にとられる参謀総長の横で、シュナイゼルが可笑しそうに目を細める。サー・ロンハードは慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。
「ご快復されたとのお噂は聞き及んでおりましたが……。ああ、これは面前での非礼、どうかお許しください。女王陛下」
「ロンハード……たしか、……中将からは、出世したわよね?」
シュナイゼルは小さな声で「それも、昼食時に伝えたのだけれど」と呟いたのをサー・ロンハードは聞き逃さなかった。
「は。海軍を退役し、現在は参謀総長の任を預かっております、陛下」
廊下で侍女が大きな銀色のカートを押しては、執務室の前で静止した。カートからは、香ばしい焼き菓子の匂いが漂う。重なった皿やグラス、カトラリーの他、数本の果実ジュース入りのボトル、瓶に詰まった様々なソース。それらの中央には焼き立ての菓子が積み重なっている。
「陛下。奥のリビングルームにお運びいたしますが、よろしいでしょうか」
侍女からの問いに、ティラナはたしかめるようにシュナイゼルの顔を見上げた。
「……えーと、……そうね? ……そうよね? シュナイゼル。あなたはここで召し上がるって言ってたのは憶えてるわ。お客様はリビングルームよね?」
「うん。リビングルームだよ。……私と退屈な話をするよりは、楽しんでいただけるはずだ」
「それじゃあ、ロンハードをご案内するわ。……さあ、いらっしゃって!」
にっこりと笑い、執務室の扉の方へスタスタと向かうティラナに、訂正の声がかかる。
「彼はサー≠セよ、ティラナ」
「サー? えっ、大出世じゃない! 大盤振る舞いしなくっちゃ。もっとアイスクリームいるかしら? ああ、あのね……ソースはチョコレート、メープル、キャラメル、ベリーにラズベリーがあるわ。さっぱりしたのがいいならレモンジャムもあるけれど……。アイスクリームで、冷え切った場をブレイクするのね! ——あら、アイスしか被ってないって? そうだ、シュナイゼルは仕事の続きをするならリビングルームからご自分の分を持っていって! 取り分けておこうかと思っていたら、アシュリーがカートごと持って上がっちゃったから」
アシュリーとは、カートを押してきた侍女のことだろう。
「どうぞ、遠慮なく」
シュナイゼルに前を歩くように促され、サー・ロンハードは微笑んだ。
「場のアイスは、すっかりブレイクされましたよ、陛下」
廊下に出ながら、サー・ロンハードはティラナの冗句に応えた。
「ふふ、お上手! さあ召し上がって。全部私が先に味見したけれど、おすすめはレモンジャムよ。皮を細かく刻んだものと、すりおろしたもの、それから果肉を贅沢に混ぜてあるから、食感が良いアクセントになるはず。ワッフルのトッピングにどうぞ。……私の手作りがお嫌でなければね。もし毒見役が必要なら、そこで……早く食べたくてウズウズしている人が喜んで引き受けるわ」
「ね?」とティラナが首を捻ると、シュナイゼルは「先ほどから、実に美味しそうな香りがしているからね」と言って、リビングルームに入るなり、侍女によってサービングカートからテーブルへ移されたばかりのスイーツを覗き込んだ。
「とんでもございません、恐悦至極に存じます。陛下自らの手による施しを賜るとは。謹んで頂戴いたします」
一度深く頭を下げ、ロンハードは苦笑いしながらも嬉しそうに、ソファに着席し、従僕らに用意されたばかりのナイフとフォークを握った。数年前に一人でこの恐ろしくも穏やかな青年に呼び出された時とは大違いの、あまりにも温かな空気の広がりを、参謀総長は肌で感じていた。
その後、スイーツと共にまた執務室で一人となったシュナイゼルのもとへ、カノンが小さく溜息をつきながら入ってきた。
「釈然としない、といった様子だね」
カノン・マルディーニはその時間、シュナイゼルが休憩時間を利用した接待だと事前の予定だと知らされていたため、執務室にはいないものと思いこんでいた。だが、実際は開けっ放しの扉と、執務机の上で書類を睨んでは書き物をしている主人をみて驚いた声をあげてしまった。
「殿下! 大変失礼いたしました……いらっしゃいましたの」
「仰々しい挨拶は結構だよ。これから夜会で、散々貴族たちから礼を尽くされるのだから。今から気怠くなっては身が持たない」
「あら。殿下とあろう方がそんな弱音を仰るなんて、珍しいですわね」
万年筆の上質な紙を滑る音が際立つ。
「調整ばかりで窮屈だよ。なかなか夏季休暇らしくならないね」
主催者側はなにかと用事が立て込み、気が休まらない。特に今年のヴァルグレイは、今後の国家を担う要職者たちへの合意形成を図るための、重要な裏会議が水面下で進行している。そして、その会議≠ヘもう始まっているのだ。
「王女様は?」
カノンの問いにシュナイゼルは顔を上げ、リビングルームのある方角へ顎を遣った。
「すっかり彼女の独壇場といったところかな。手懐けるのが上手だよ。私が立ち回らずとも、上手く手引きできそうだ」
廊下の最奥のリビングルームには、さらに四、五名の要職者たちが招かれ、会話に花を咲かせていた。社交界の華とは、まさにティラナのためにあるような言葉だ。時折、楽しげな笑い声が廊下を伝って執務室にまで届く。賑やかな雰囲気を取り入れるため、部屋の扉はあえて開け放たれたままだった。
シュナイゼルはテーブルにスイーツを載せた皿と紅茶を供に置き、再び書類仕事に向き合っていた。
「そのような殿下こそ、すっかり手懐けられたのではありませんの? 久々にお会いして驚きましたわ。なんだか、鼻の下が伸びていらっしゃる」
「そうかい?」
茶化すカノンに対し、書類を塗るように捲りながら、シュナイゼルはわざとらしく首を捻った。
カノンがヴァルグレイの夏を経験するのは、今年で四回目になる。捜査のために滞在日数が少ない年であっても、シュナイゼルから完全に離れることはなかった。毎年帯同し、貴族階級の者、あるいは平民出身でありながら国に貢献する者たちに目を光らせ、国の針路を示す主の背中を支えてきた。
王家主催の、夏の避暑地での懇親会。先王が始めた事業≠ナあり慣例≠フ一つだ。シュナイゼル曰く、体制転換を行うための無理のない口実≠轤オい。夏季休暇の期間、避暑地で静養する国王と、その臣下たちがたまたま同じ場所で出会い、賑やかな時を過ごす。そして、そのついでに重要な話をする。その席で、たとえ世間話として国王が政治的な物事に言及したとしても、プライベートな場なのだから不問に付す——という、極めて都合の良い不文律が醸成されていた。夜会や晩餐会は、はじめこそ大掛かりなものではなかったという。シュナイゼルがこの王室の恒例行事を引き継ぎ、現在まで反乱分子を炙り出すための場として機能させてきたヴァルグレイが、今年、ようやく本来の意味合いへと戻ろうとしていた。
「プロポーズを受けたよ。二週間ほど前にね」
カノンが不在だった数週間の間の出来事を共有するために、シュナイゼルはごく当たり前のようにその話題を切り出した。
「プロポーズを? ……殿下がなさったのではなく?」
「ティラナからさ。……言っておくけれど、先を越されてしまったんだ」
シュナイゼルの淡い色の眼差しが、私だってプロポーズする意思はあったんだがね≠ニ暗に主張している。
「はあ……なるほど。それで、そんな締まりのないお顔を。甲斐性なしと思われて捨てられないよう、お気をつけくださいね、殿下」
「おや、今日は一段と手厳しいね、カノン。いつも通りだよ、この顔は」
締まりのない顔とカノンは評したが、その表情に大きな変化はない。いつも通り、工場の既製品のような、完璧にコントロールされた決まった笑顔≠浮かべているだけだ。微細な差を検知するセンサーを持つ数人のうちの一人であるカノンにとってはやはり、締りのない顔≠ナある。
「だからなのか、ここへ到着した際、私、直々に釘を刺すようにと承りましたわ」
「釘を刺す? ——ハーゲンだね? ここのところ、やけに彼の目線が鋭くなったと感じていたんだ。ティラナが王宮中の者に言いふらしているのか、それとも口の軽い、噂好きの者が吹聴して回っているのか。なぜか、すっかり知れ渡ってしまっている」
「プロポーズをしたことを?」
「ああ」
おそらく、ティラナが信頼する侍女に内緒話のつもりで打ち明けたものが、瞬く間に広がったのだろう。
——『あのね、内緒の話なのだけれど……。私、プロポーズをしたの』
——『まあ、王女さまったら! ついに? お返事は? もちろん……』
——『もちろん、イエスよ』
きっと、そんな風に。カノンの脳裏に、いかにもありそうな光景がありありと浮かぶ。人の口に戸は立てられない。王宮中がその話題で沸き立つのも無理はなかった。
「手を出さぬよう、厳重に見張るようにと仰せでしたわ」
「……ハーゲンがかい?」
「秘書官殿です。私、一言も侍従長殿とは言っていませんわ」
カノンにシュナイゼルを見張るように助言したのは、下級秘書官のランクスだった。
「おや。待ての出来ぬ駄馬と思われているのかな、私は」
「宗派違いですから、余計に懸念なさっておいでなのでしょう。一般の帝国臣民とは異なる、ブリタニア皇族特有の緩い風紀≠、こちらの生真面目な方々は気にかけていらっしゃる」
それを聞いて、シュナイゼルは綺麗な金髪を細かく揺らした。
「あはは。手厳しい皇族批判だね」
「私の主張ではありませんわ」
「皇室は近親婚すら許されていた時代もあるからね。現在もその風潮は残っているし、婚前交渉も黙認されている。……対して、こちらの王室と教会が、性道徳に関してかなり厳格な態度であることは間違いないよ。——それで、ヒアリングの件はどうなったんだい?」
シュナイゼルが共有という名の雑談を切り上げて、ようやく本来のトーンで本題に入った。
「はい。……各自、重要な犯行時の記憶が曖昧でして。異口同音に自分はやっていない≠ニ主張しております。映像や他者の証言を繋ぎ合わせれば立証は可能ですが、こういったケースが全体の九割を占めています」
「記憶の欠落か……。馴染みのある現象だね、我々には。むしろ、一貫しているとすら言えるのではないかな」
「……催眠術、ですか。かつてノエルがノートに書き残していた」
「重要かつ決定的な指摘だね」
ノエルノート≠ノは、数多の証拠が残されている。今にしてみれば、ティラナが過去の記憶を無理に取り戻す苦役から免れている、過去からの贈り物。催眠術について詳しいのは、何度もサロニア公の餌食となってきたティラナ本人であるが、やはり過去の記憶のトリガーとして機能することを恐れて、二の足を踏んでしまう。
「王女様には、このお話は……」
「良いきっかけがあればいいが、彼女への消極的なスタンスは変わらない。それに、仮に証言できたとしても、現在の裁判では有効な証拠とは言えないだろう。実証が伴わない。その催眠術≠ニやらを容疑者の前で実演させるにはリスクが高すぎる。何せ、さらなる記憶が奪われるかもしれない危険な行為だ。また、催眠術にかけられていたことが事実だとしても、本人の悪意の真偽までは測りかねる」
それは、もっともなことだとカノンは瞼を伏せた。
「催眠術を隠れ蓑にして、嘘を吐いている可能性もある、と」
「ああ。うちのお姫様のように、はっきりと自分の意思を主張する、表裏の少ない人でなければ見極めは難しいよ。それを数百名以上の罪を調べるために、関係する証人を一人ずつ呼んでいくとなると……時間が膨大にかかりすぎる。裁判の長期化は避けたいし、スケジュールに響くと思うよ。……そして、真実を明らかにすることと、罪へ罰を与えること。それは単なる通過点だ。犯行に携わったという起点があり、その結果として現在の被害が生じている。言い分は聞くが、結果は覆らない。加害者がいて、被害者がいる。単純明快な話さ。……哀れだとは思うが、行為≠サのものが厳然としてそこにある以上ね。裁判とは司法手続きであり、各個人の心情を最優先するカウンセリング室ではないんだよ」
ほとんどの人間は、自分の都合の良いように嘘をつくから、まともに相手をしていたら時間が足りない——シュナイゼルの主張をまとめるとこうなる。
マシンガンの連続発射のような、シュナイゼルの正確無比な説明に、カノンには口を挟む余地はなかった。
「王女様は、この裁判について何か言及をなさいましたか?」
「今のところは何も。接見の希望もないが、彼女なりに色々考えてはいるみたいだ」
その時、開け放たれた扉を侍従が軽く叩いた。
「殿下。そろそろお支度の時刻でございます」
「おや、もうそんな時間か。……晩餐会は食事が進まない割に長丁場で退屈なものだが、今年からは、その退屈からも卒業できそうだね」
立ち去らない侍従に向けて、シュナイゼルは「もう少しだけ待ってくれるかな」と、仕事の脇に置かれていた、ややクリームが溶けかかったスイーツに手をつけ始めた。
カノンは用件を終えて執務室から退室したあと、準備室として使用している小広間の前で足を止めた。賑やかだった廊下奥は静寂にかえり、客人を帰したばかりだ。廊下の途中の窓から、この城の真下の道を歩く、複数人の男たちの姿を見つけた。再び小広間の方へ目を戻すと、そこには、白いカットクロスを掛け、鏡台の前の椅子に座る女性がいた。彼女は、数週間前よりどこか大人びた顔つきをしていた。
すっきりと耳や首元を開け、長さも量も豊かになったブルネットの髪は見栄えを良くするために後ろへと流され、今まさにメイクを施されるところだった。その後ろでは、今夜のためのドレスの用意が着々と進んでいる。
夏の避暑地、ヴァルグレイの湖面にふさわしい、鮮やかでわずかに緑みを帯びた露草色のドレス。何層もの薄手でふんわりとしたシルクシフォンをレイヤー状に重ね、肩と襟ぐりを大きく開けたビスチェタイプの一着だ。同系色、同素材のショールを羽織ることで、洗練されたエレガンスを表現する仕立てになっている。用意された透かし彫りのティアラは、高価なプラチナの地金。紫陽花を象る流線状のデザインだ。中央に鎮座する紫陽花の淡いサファイアを取り囲むように、濃く鮮やかな黄色を放つブリリアントカットのイエロー・ダイヤモンドが、まるで星のように散りばめられている。ネックレスとイヤリングもティアラに合わせてイエローダイヤモンドで統一されていた。
その本物の宝飾類が放つ圧倒的な美しさを前に、好奇心からしばらくの間、見惚れていた。王家の紋章が入った純金のシグネットリングが、ドレッサーの上のシルクのリングピローに厳かに載っているのが、その場所から見えた。
新女王に恥をかかせまいと、周囲の準備は完璧に整えられていた。だが、鏡台の前でのメイクアップは難航しているようだった。その難しさは、決して侍女やスタイリストたちの技術に問題があるわけではなかった。一月ほどの間に、まるで第二次性徴期の男子が一年かけて発達するかのような速度で、身長や体格、そして顔つきまでもが刻一刻と変化していく彼女の肉体。事前に想定していたデザイン通りにメイクが馴染まないのは、誰の目にも察しがついた。
「生まれたてのベビーフェイス≠ネのよ? 睡眠時間だって十時間たっぷり摂っているし、おやつどころか、つまみ食いまでちゃんとしているんだもの。お化粧いらずで輝いているわ。シャンデリアの光が当たったら、ピカピカ光線だって出せそうだわ」
「ですが陛下、寒色のドレスをお召しになりますので……どうしてもお顔に彩りが欠かせません。今夜、殿下は黒のテールコートをお召しになりますから」
「んー……そう? 無理矢理塗って、仮装ショーみたいにならないかしら。まあ、それも面白くていいと思うけれど。今夜が非公式な場で、写真撮影もご遠慮いただいているのが救いね」
「マルディーニ卿……」
侍女の一人であるアンネットが、助けを乞うようにか細い声でカノンの名を呼びながら振り返った。シュナイゼルの公務やこうした夜会に際し、カノンがしばしば簡易的なメイクの手解きをしているのを、彼女は知っているのだ。侍女として新入りではないものの、とにかく主君不在の年月が長すぎた。非公式ながら、これが彼女たちにとっても初の晩餐会であり、経験不足と自信のなさがその表情から痛いほど伝わってくる。
「御前失礼いたします、陛下」
カノンは静かに歩み出た。
「陛下は大変美しいお肌をされていますから、ファンデーションを厚く塗る必要はございません。自然体に見えるよう、あくまで薄めに。あとは肌馴染みを重視して、ポイントメイクだけで押さえるべきです。会場の照明の色温度、宝飾類の輝きと反射、そして生じる陰影。薄すぎれば光で消えますし、濃すぎてもドレスの邪魔をします。陰の色次第では浮いてしまうか、あるいは肌が暗く、血色悪く見えてしまうわ。晩餐会は平均して四時間の長丁場です。会場の人口密度や、室温の変化も考慮なさいましたか?」
「は……はい!」
カノンの的確な分析と説明から翻り、差し向けられたアンネットは慌てて返事をした。今日という大事な日。準備期間は短かったが、様々な計算という下準備は整えられてきた。それに嘘偽りはない。
うんとカノンは深く頷いた。ブリタニアには盛装を重んじる風潮があり、宮廷が中世さながらの厳格なドレスコードを守るため、それに合わせたメイクも必然的に濃くなる。裏を返せば、多少の失敗や誤魔化しも、色彩の強さや衣装のデザインで解消できるのだ。
対して、カストラリアをはじめとする欧州の伝統的な宮廷では、ヘルシーメイク、あるいはノーメイクに近い自然さがステータスとして重視されている。特に上流階級においてはいかに自然に魅せるか≠ェ通念であり、派手すぎるメイクは娼婦のものという古い価値観すら、未だ根底にやや残っている。
寒色と暖色。青と黄。ブルネットの髪とアンバーの瞳。ティラナの持つコントラストは非常に鮮明だ。それでいて、ドレスやティアラのデザインは柔らかく靭やか。かなり総合的なバランスを要求される。侍女たちが難しいと嘆くのは当然だった。
カノンは壁から離れ、ドレッサーの前に座るティラナへと近寄り、そっと申し出た。
「私がお手伝いしてもよろしいでしょうか、陛下」
「どうぞ。お願いするわ」
「恐れながら——」カノンは手を清潔に整えながら、言葉を続けた。「此度が初の大仕事となる者も多く控えております。後学のため、私めが微力ながらご教示いたす場とさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ、いいわよ。いきなり完璧に上手くやれだなんて酷よね。たくさん練習してちょうだい。臨床現場という現場の経験が一番大事なのは、科学の世界と同じだわ」
侍女たちはホッとした様子で顔を見合わせ、次の瞬間には、その表情を真剣そのものへと切り替えた。
「……それにしても、素晴らしい化粧ノリですわ」
カノンの賞賛に、ティラナは嬉しそうに笑った。
「練習台にも負けない、ぷりぷりの若いお肌だから安心して!」
彼女は得意げに胸を張った。その屈託のない仕草を見つめながら、カノンが筆を動かしていると、鏡の中の琥珀色の瞳がじっとこちらを射抜いた。
「……ねえ。カノンっていったわよね、あなた」
「はい、陛下」
「私たち、どこかで会ったことあるかしら?」
ブラシを持つカノンの手が、完全に固まった。自然体であるよう努めたが、一瞬の硬直を隠し切るのは難しかった。
こうした何気ない会話、何気ない仕草がトリガーとなり、彼女が失った記憶を取り戻すことに繋がっていく。シュナイゼルは日に何度、このような瞬間を綱渡りのようにやり過ごしているのだろうか。カノンは胸の奥底が疼くのを感じていた。
「……いいえ。初対面でございますわ。最初にお目覚めになられた際にお姿は拝見したかもしれませんが、こうしてお話しするのは、今日が初めてにございますよ」
——嘘だった。カノンは、ノエルの顔を一日たりとも忘れたことはない。初めて彼に化粧を施したとき、その顔つきはまだ少年で、子鹿のように愛くるしかった。
鏡の向こうのティラナの輪郭が、あの日のノエルに重なる。ミントブルーとレモンイエローのドレスを彼女の体に押し当てた、あの瞬間が色鮮やかに蘇る。ティラナの誕生日の晩餐会に乗り込むために、ノエルが自分を利用していたとは露知らず、協力的になってメイクのアドバイスをしたあの日。またこうして、形を変えて彼女にメイクをする日が来ようとは、思いもしなかった。
ティラナは鏡の中のカノンをじっと見つめながら、言葉を続けた。
「そうなの。……なんだか、とても懐かしい気がしたのだけれど。シュナイゼルとは学生時代からの馴染みだって話を伺ったわ」
「はい。……コルチェスターでの、古くからの学友とでも申しましょうか」
「シュナイゼルと同じ寮だったの? 彼、監督生をやっていたって聞いたけれど、厳しかったでしょう? 私が厳しい? そんなことないよ、あはは≠チて、あの人はそうやって笑って誤魔化すかもしれないけれど」
彼女は、少し声を低く抑えてシュナイゼルの喋り方を真似てみせた。独特の柔らかなイントネーションの特徴を、実によく捉えている。
「殿下が、そのようにお話しになられたのですか?」
「ええ。……ああ、そうよね。まずシュナイゼルがどうしてあの学院に入校していたのか、その理由から話すべきよね。……大昔にね、私、彼に学校には通って欲しいってお願いしていたの。一般的な社会の……楽しいお話を聞かせて欲しくて。王宮や皇宮での生活は、よく訓練された品の良い大人ばかりでしょう? だから、同年代の分別のつかない若者たちの檻の中で、あの人があたふたと困る経験をしてほしかったの。だけど、ざーんねん。話を聞く限り、困ったことは特になかったみたい。……そういう、なんでも器用にこなしてしまうところが、本当に可愛くないわよね」
カノンは、思わずくすりと笑ってしまった。その言葉の中に、愛らしい嘘が紛れているのがすぐに分かったからだ。困ったことがなかったなど、とんでもない。あそこは問題児の窟だった。なかなか卒業しないロイドに、不良真っ盛りだった頃の自分。他にも面談に呼び出される常連は大勢いた。——そして、そこへ『ノエル』が加わったのだ。エンペラー・スカラーでありながら、最高に優秀な、そして最大の問題児。
本来のノエル・アストリアスがどのような性格だったかは知らない。だが、あの少年は、土壇場で誰もが諦めるような窮状を解決する力を持っていた。ノエルだけではない。その後のカストラリア軍人、ダミアン軍曹にしてもそうだ。日本侵攻の混乱の最中、子供たちを逃がすために、自ら囮役を買って出た。
誰かを助けようとする無鉄砲な優しさ、義理堅さ、そして異常なほどに強い責任感。それらはすべて、偽りの名に隠される前の、この『ティラナ』という女性本来の気質に由来するものなのだと、カノンは確信した。
輝かしい過去。鮮烈なる親愛の記憶。
感傷に呑み込まれないよう、胸の奥から涙の匂いが漏れ出さないよう、カノンはそれを心の底へと押し込んで、努めて軽快に言葉を引き継いだ。
「……それで言えば陛下、私、学院で殿下から鞭打ちの罰を受けたことがありますわ」
「鞭!? なんて酷い、時代錯誤もいいところだわ! あとで私のほうから代わりに思いきり叱っておいてあげる。規則だかなんだか知らないけれど……よくそれで御学友なんてできたものね、感心しちゃうわ。殿下はあなたの懐の深さと、お情けにもっと感謝するべきよ。暴力的な指導を、躾や教育と履き違えている学院の体質にも問題があるわ!」
「……シュナイゼル殿下は、いささか変わり者をお好きでいらっしゃるので……」
まさかこれほど本気で怒るとは思わなかったカノンは、気圧されて思わず声を小さくした。
「変わり者? あなた、そんなに変わっているかしら。たしかに素敵な女性らしさを感じるけれど、それが『変わっている』と言われるほどなら、この世界は余程退屈な価値観の中に暮らしているということよね」
「……ええ、まぁ……」
「私だって、彼を退屈させてきた覚えはないのだけれど」
小さな過去の話を引き合いに出したせいで、彼女のご機嫌を斜めに傾けてしまったかもしれない。大事な晩餐会を前に、口論の火種に薪をくべてしまったのではないかと、カノンは内心焦った。侍従長からは、新女王は言い争いを辞さない、激しい気性もお持ちであらせられる≠ニ聞かされている。上流階級の人間には珍しく、慎ましくじっと耐えるような真似を彼女はしない。常に凪いだ態度を崩さない、向かうところ敵なしのシュナイゼルが、近頃は彼女に押され気味なのだという。運良くその場面に遭遇したことはなかったが、あの『ノエル』の小生意気な態度を思い返せば、想像するのは容易だった。
そんな予感に駆られ、カノンは咄嗟に言葉を繕った。
「……きっと、お寂しい思いをされていたのやもしれませんわ。陛下が……お傍にいらっしゃらない間、殿下は」
「そう? ……私のご機嫌を取ろうとして、気を遣っていない?」
「いいえ、こればかりは間違いございませんわ。殿下がご自身で、そう仰っていましたもの」
それは嘘ではなかった。あのシュナイゼルが、自覚的に、何度もこの婚約者への特別な評価を口にしているのをカノンは知っている。
それに、久しぶりに顔を合わせてみれば、ここ何年かで一番朗らかで——言葉を選ばずに表現するなら、主君は完全に浮かれ気味≠セった。先ほども、アイスクリームをトッピングした、手作りのレモンジャムソースのワッフルを上機嫌でつついている姿を見たばかりだ。『それは何ですか?』と尋ねたら、『あげないよ』と、それまでの冷徹な政治の話から一転して、意地悪な子供のような物言いをして見せたのだ。まるで恋を知ったばかりの少年ではないか。心底、驚きを隠せなかった。主君のそんな意外な一面に際して。
侍女たちへのメイクの手解きを続けながらも、カノンの胸中は、未だ受け入れきれない困惑で占められていた。甘酸っぱいのはそのレモンジャムだけにしてくれと、そんな皮肉が、後になってから次々と頭に浮かんでくる。
「……ありがとう。おかげさまで、見るに堪えない顔がレッドカーペット級になったわ」
メイクが仕上がり、衝立の向こうでドレスアップを終えたティラナが、ドレッサーの宝飾類に手を伸ばしかけた、その時だった。
別室で着替えを終えたシュナイゼルが、音もなく静かに姿を現した。
夜の最高正装であるテールコート。黒と白のシンプルながら上質な素材と、拝絹の美しい艶。胸元には群青色と黄金色のサッシュが眩しく輝いている。
「ティラナ」
名を呼ぶ声はどこまでも柔らかく、まるで口溶けのよいクッキーのように、ほろほろと甘く崩れてしまいそうだった。砂ではなく、上質な砂糖が口内に残るような、舌が知覚する細かな一粒一粒の、その甘ったるい感触を思い出し、カノンは無言で眉根を寄せた。
シュナイゼルは洗練された動作でティラナの前に跪き、彼女の両頬へ、そしてドレスと同じ色のグローブに包まれた、その手の甲へと、形の良い唇を寄せた。
「あのね、メイクしたばっかりなのに。ヨレてしまうじゃない」
「おや、それは悪いことをしたね。……けれど、美しい瞳の色が実によく引き立っていて、つい見惚れてしまったよ」
「お世辞でも嬉しいわ。あなたと並ぶには、この高いヒールとプラチナの輝きが必要ね」
ティラナの言葉通り、ここからさらにティラナはティアラ、ネックレス、イヤリングを身に着けなければならない。総重量はかなりの重装備だ。
「身軽な殿方が羨ましい。金よりも質量があって重たいんだから。これらを身に着けて四時間でしょう? 好きに食事もできないし、病み上がりのリハビリには少しハードすぎるわ」
「本番は明日以降だよ。今日は非公式だし、余裕を持たせている。挨拶をするメンバーもかなり絞ってあるから、何も問題はないさ」
「すっかり手慣れたものね。惚れ惚れしちゃう」
ティラナは可笑しそうに笑い、シュナイゼルの頬にキスを返した。
「おや。浮気相手の恋の置き土産じゃあるまいし、これでは私に赤い跡がついてしまうよ」
意趣返しと言わんばかりのシュナイゼルの言葉に、ティラナは擽ったそうに笑った。