三度目の夏U






 「女王陛下、および摂政殿下が御入来あらせられます。皆様、席をお立ちください」
 呼吸を整えた侍従の、明朗でよく通る声が大広間に反響した。
 招待を受け、参加していた要職者たちは、口々に囁き合いながら一斉に立ち上がった。都会の喧騒のようなざわめきが広がるのも、ほんの一瞬のこと。表のロータリーに到着したリムジンの扉が開き、遅い日暮れの残光の中、ティアラのプラチナの煌めきが走ると、会場は水を打ったような静寂に包み込まれた。
伝統的なテールコートに身を包んだ長身の紳士は、今やこの国において最も馴染み深い顔になりつつある。彼がブリタニア帝国出身の皇子であることを疎ましく思う者も、あるいは救世主として喜ぶ者も、この場には多くいた。――しかし、その傍らに、唯一無二の正統なる女性が並び立つならば、話は別だ。すべての諍いを消火し、あらゆる問題を解決することができる、血統の具現たる王。
 その王は、若く、聡明で、そして息を呑むほどに美しかった。聖油を注がれ、神に清められた主権者。誰もが彼女の姿に目を奪われた。柔らかなシルクシフォンのドレスに包まれた高貴な肉体、艶やかな髪、知性を宿した琥珀色の瞳。そして、それらを彩る贅沢な宝石たちの輝き。黄色ウォームクールの鮮烈なコントラストは、まさに日没の瞬間を迎えた、このヴァルグレイの空そのものだった。
 息を吐き出す者。あまりの神聖さに言葉を失う者。小さく首を俯かせ、唇の先で祈りの言葉を呟く者。老若男女を問わず、その場の全員の背筋が自然と伸びた。
 階段を上り、居並ぶ人々のアーチを抜けて晩餐会のメインホールへ。つい先ほどまで病床に伏せていたとは到底思えぬほどに、その足取りは優雅で堂々としていた。彼女の右側に立ち、その左手を優しく握ってエスコートする麗しい青年は、何事かを女王の耳元で囁いた。やがて、二人は心地よさそうに笑い合う。
 今から遠くかけ離れた昔、彼らがまだ少年と少女だった日、分厚いブラウン管のテレビを通してその子供たちの姿を見守っていた頃の記憶が、目の前の光景へと地続きに存在している。並み居る貴婦人たちの中には、胸の詰まるような感動に、そっと目元をハンカチで押さえる者すらいた。

 ヘッドテーブルスタイルの中央。
 招待された要職者たちは、縦長のゲストテーブルから、まるで祭壇を仰ぎ見るかのように、ホストである二人の様子を伺っていた。
 給仕がグラスに酒を注ぎかけた時、ティラナは背後を振り返った。
 「……お酒は、いただいてもいいのかしら?」
 その問いかけにしばし迷ったのか、控えていた女官のレルヒが、視線で秘書官のハーゲンに尋ねた。
 「書類上の年齢では飲んでも問題はありませんが……現在の身体の発達具合は、まだハイティーンといったところだと考えております」
 「取り替えさせます」
 レルヒは短く答え、給仕に指示を出そうとした。
 「ありがとう。ああ、待って。もしシードルがあれば……それが欲しいわ。スイートのものをね。それなら度数も低いし、シャンパンにも色が似ているから丁度いいでしょう。悪酔い防止にもぴったりだわ」
 「承知いたしました、陛下」
 ティラナは正面を向き直り、隣のシュナイゼルにだけ聞こえる声で囁いた。
 「久しぶりね。こんなに大勢の前でお喋りするのは。余計なことを言って、この広間がスケートリンクに変わってしまったらどうしましょう」
 「滑る、ってことかい?」
 視線だけで悪戯っぽく応じたシュナイゼルに、ティラナは琥珀色の瞳をきらめかせて、少しだけ声を細めた。
 「ええ。だからそうならないように……、……励ましてくれる?」
 テーブルの下、貴族たちの視線からは決して見えない死角で、ティラナの小さな左手を、シュナイゼルの大きな右手がそっと包み込んだ。
 「上手くいくよ」
 シュナイゼルに鼓舞されて、ティラナが席を起つと、会場内の全員が一斉に椅子を引いた。シードルが注がれたばかりのグラスを片手に握り、呼びかける前に会場全体を見回した。
 「皆様、緑豊かなヴァルグレイへようこそ。カストラリアの最も美しい季節を、こうして気心の知れた皆様と共に迎えられたことを、心から嬉しく思います」
 凛とした、しかしどこか親しみやすさを残した女王の声が、マイクを通さずとも大広間の隅々にまで染み渡っていく。
 「十二年ぶりにこの地を訪れましたが、ヴァルグレイの風は少しも変わっていません。それどころか、眠っていた私の記憶を優しく呼び覚ましてくれるようです。……今宵は、政治のようにとめどなく難しいお話は抜きにいたしましょう。ここは避暑地ですもの。皆様、どうぞ張り詰めた肩の力を抜いて、ヴァルグレイの夜をお楽しみください。――そう、凍りついた場を溶かすには、冷たいお酒と、少しの遊び心が一番の特効薬ですわ。カストラリアの輝かしい未来と、今宵の素晴らしい再会に。――乾杯(サルーテ)!」
 非公式の場という建前にふさわしい、簡潔で完璧なスピーチ。
「サルーテ!」というゲストたちの唱和が一斉に響き渡り、カチャッとグラスの重なり合う美しい音が光のように弾けた。いよいよ、ヴァルグレイの夜が始まったのだ。
 インフォーマルな晩餐会という建前は、このヴァルグレイにおいて、もう一つの実利的な意味を持っていた。
 本来の宮廷プロトコルでは大いなる無作法とされる食事の途中での主催者への挨拶≠ェ、ここでは例外的に許されている。先代国王セイルが考案した、通称――宮廷作法崩し=B
 平民に紛れて生きてきた先代が遺したその変則的なルールは、座席の配置から動線に至るまで計算され尽くしていた。上座から会場全体を見渡しながら、挨拶にやって来る貴族の動揺を観察し、同時に誰が誰と視線を交わしたか≠ニいう水面下の派閥動向を炙り出すための、優雅な罠として機能している。
  かつてセイルはこの席で貴族たちの力関係を読み解き、後々の個別折衝や牽制へと繋げてみせた。そして今、その冷徹な観察眼は、娘であるティラナと、彼女の隣に座るブリタニアの第二皇子シュナイゼルへと完全に受け継がれていた。
 「陛下。ベルケス首相です」
 控えていた侍従の声に従い、ティラナは視線を向けた。
 「こんばんは、首相。アデリー夫人も」
 「ご挨拶申し上げます、女王陛下」 
 首相夫妻にとって、これが現職として迎える最後の夏になる。ベルケスにとってヴァルグレイでの合意形成は政治家としての一番の大仕事であり、後任者たちへ権力を引き継ぐための最重要項目だった。
 現在、内閣保守党の支持率低迷を含め、彼は激しい向かい風に晒されている。そのせいなのか、会場のあちこちから彼に向けられる視線には、どこか容赦のない厳しさがあった。水面下で数名の逮捕者を出しているものの、決定的な事件は未だ伏せられており、それがかえって不気味な噂を呼んでいる。報道規制で誤魔化すのもこの夏一杯までが限界だと、先日の引見でベルケス自身から告げられたばかりだった。
 「……別荘には明後日お伺いしますわ、ルーイー叔父様」
 ティラナが公務の仮面を外し、親族としての呼び名を使った。ベルケスは一瞬だけ表情を緩める。
 「娘たちも楽しみにお待ちしております。もちろん、私どもも」
 「その時に、今後のお話をさせていただくけれど、構わないかしら?」
 「はい。……よろしくお願い申し上げます」
 「色々なことが大変でしょうけれど、気をしっかり持ってくださいね。……ヴァルグレイを楽しんで」
 ティラナは、左手小指に嵌めた純金のシグネットリングを右手でそっと愛おしそうに触りながら、慈愛に満ちた微笑みを向けた。
 その瞬間、アデリー夫人の目元が急激に紅潮した。会場の熱気にあてられたわけではない。政治の荒波に耐えかねた感情の昂りと、王室への申し訳なさ。
 「……申し訳、ございません……」
 夫人は震える声で、今にも泣き出しそうに謝罪を口にした。
 幸いにして、彼女の背後は多くのゲストテーブルに向いているため、他の貴族たちからはその表情が見えない。だが、ここで取り乱したように退席すれば、確実にベルケス首相の風評に影響を与える。社交界において、男女のカップルが基本であり、妻の失態はそのまま夫への不信任に直結する。特に夫は一国の首相なのだから。
 「――まあ、アデリー夫人。ヴァルグレイのワインがお口に合いすぎて、少々ペースが早うございましたのね? ここの醸造家が聞けば、嬉しさのあまり樽ごと献上しに来てしまいますわ」
 ティラナの声は、周囲の耳には贅沢なもてなしを大らかに笑う、寛大な女王のジョーク≠ニして完璧に響いた。彼女はアデリー夫人の冷たくなった手首を、包み込むように優しく、しかし確固たる力で引いた。
 「少し、湖の風が欲しくなりましたの。付き合ってくださる? ……シュナイゼル、少し席を外すわね。アデリー夫人が席にお戻りになる丁度いいタイミングで、美味しいアイスクリームの用意を給仕頭に命じておいてくださらない?」
 「わかったよ」
 隣で見守っていたシュナイゼルは、すべてを察して優雅に手を胸にあて、完璧な微笑みで承諾した。

 アデリー夫人を自然に退避させ、主催者のつくテーブルに残ったシュナイゼルはベルケス首相と、その背後のテーブルに就く大勢の招待客を眺め回した。
 ――先代のセイル王が王位に就いた後、真っ先に行ったのが専制君主制から立憲君主制への体制変換≠セった。
 一見すると王権を縮小する民主的な善政に見えるが、シュナイゼルに言わせれば、これは自分を揶揄し、王室を舐めていた既存の貴族たちの権力を、合法的に根こそぎ剥奪する≠スめの、極めて冷徹な政治的最終決着である。
 これらを実行するために夏のヴァルグレイがあり、宮廷作法崩し≠ェある。セイルには紛れもなく名君の素質があったと、シュナイゼルは高く評価していた。たとえばこれは、チェスでいうなれば、プロフィラキシス――予防・制空権の確保の基本形≠セ。そして同時にツークツワンク――強制手でもある。
 セイル王はあえて食事中の挨拶を許可する≠ニいう変則ルールを仕掛けた。これにより、貴族たちはいつ、どのタイミングで上座へ行くべきか≠ニいう選択を常に迫られ、彼らが本来隠しておきたかった焦り≠竍他者への敵意≠ニいう本音が、盤上にポロポロと漏れ出すことになる。
 挨拶に行かなければ王室への忠誠を疑われるが、下手に動き出せば、周囲のライバル貴族たちに一挙手一投足を観察され、弱みを握られる。セイル王の遺した席配置とルールは、席を立っても座り続けても、どちらにせよ自分の腹の内を王室に晒してしまう≠ニいう、貴族たちにとっての強制的な手詰まり――ツークツワンクを発生させる盤面そのものだった。
 会場のテーブル配置も、中央に鎮座するキングとクイーンが盤面全体の動線を完全に支配する、鉄壁の陣形に基づいている。王は最も安全な玉座から、貴族たちの視線の交錯を一方的にスキャンしているのだ。非常に理に適ったやり方に、ため息が出そうになる。
 ――マナーを崩すことで、かえって相手のキングの配置を炙り出すとはね……。
 長年、ティラナが不在だったゆえに簡略化されてきたヴァルグレイの晩餐会。こうして本来の形を取り戻した時、ようやくその真価に触れたシュナイゼルは、彼女の亡き父のことを思い出し、生きていればとても好ましい友人になれたかもしれない、と不敵に目を細めた。
さらには、もし彼が長命であれば、カストラリアはブリタニアの脅威に対抗できる、アジアの不落の要塞に化けたかもしれない――とさえ。

 「……ただいま。全然食事が進まないのが困りものね。夏だから、温かいお料理が少ないのが救いだわ」
 戻ってきたティラナが、冷製スープを優雅に口に運んだ。縦長のテーブルの方を窺うと、殆どのゲストが既にメイン料理へ移っている。この調子で挨拶を受けていれば、四時間などあっという間だろう。
 隣で魚料理に手をつけ始めたシュナイゼルが、声を潜めて尋ねた。
 「アデリー夫人は落ち着いたかい?」
 「ええ。何度も謝られちゃったけれど、もう平気よ。彼女には、明後日までに心を整理する時間が必要だわ」
 「明日はレクリエーションの予定を入れていたようだけれど、無理そうなら私の方でスケジュールを調整するよ」
 「それはなるべくしたくないわ。私、結構楽しみにしていたのだもの。……あなただって、参加するのでしょう? ええと、なんだったかしら……テニスに、ゴルフ、クリケットもあったわね。スポーツ大会だわ! 一大イベントよ。ワクワクする!」
 「明日はクリケットの日だよ。残りは四日目に開催予定だ。試合が長いから、時間に余裕がある」
 「そうなの。……大臣たちったらすごく張り切っちゃっているから、コテンパンにやられないようにしないとね」
 「……観戦ではなく、……フィールドに立つつもりかい?」
 シュナイゼルが既製品の笑みを一瞬だけ引っ込め、本気で案じるように眉を下げた。
 「私が大人しく観覧席で、応援だけして過ごしていられると思う?」
 「休んだほうがいい。貴女の体は、まだ本調子ではないのだからね」
 「また過保護モードに入ったわ。子供の頃から楽しみにしていたのよ。その時は危ないからって参加を止められていたんだから。……そうだ、男女混合種目にすればいいのよ。これなら負担も少ないわ、我ながら妙案ね!」
 子供のように目を輝かせる婚約者を見つめ、シュナイゼルは思わず、肩を小刻みに震わせてくくくと笑い声を漏らした。そのあまりにも愛おしそうな眼差しに、ティラナは頬を微かに染めて唇を尖らせる。
 「な、なによう……。そんなに大笑いしなくたっていいじゃない」
 「いや、ごめんね。あまりにも可愛い……おっと、不遜だと思ってね」
 「あなたねえ……」
 ティラナがシュナイゼルをひと睨みした瞬間、ヘッドテーブルの前に、髭をたっぷりと蓄えた厳格そうな老紳士が歩み出てきた。
 目が合った瞬間、ティラナの口から「ん? あら、ジンジャーじゃない」という言葉が、あやうく漏れかけそうになる。ジンジャー、生姜、生姜好きの男の渾名である。現れたコンラッド・ド・シャトレ侯爵は、女王の視線の意味を察したのか、苦々しい顔つきを無理やり営業用の笑顔に変えて、恭しく一礼した。
 「ご挨拶申し上げます。女王陛下、摂政殿下」
 「お楽しみいただけていますか? ド・シャトレ侯爵」
 「ええ、誠に。……お食事中に不躾ながら、陛下の御快復をこの目で拝見したく、ご挨拶に伺いました」
 彼はセイル治世の外交顧問であり、筋金入りの保守派だった。毎年、自領の茶園で採れた最高級の茶葉を王室に贈答することを欠かさないマメな人柄なのだが、ティラナの彼に対する態度は相変わらず容赦がない。代々戴冠式委員会の委員長も務める男だ、彼の用件など見当がついていた。
 「戴冠式のご予定につきまして、近いうちにご相談させていただきたく存じます、陛下」
 「そうね。まだ暫定の身なのに陛下≠ニ呼ばれるのは、些かむず痒いものがあるわ、ド・シャトレ侯爵。……ええ、予備の打ち合わせを進めたほうがいいと私も考えています。都合のいい日時を、秘書官を通じてお伝えくださいな」
 「寛大なお言葉、感謝申し上げます」
 侯爵が去った後、ティラナはグラスを傾けながら、再び鋭い視線を会場へと走らせた。
 「……シュナイゼル。あの、右側の奥にいる方は誰かしら? ……ジャケットの赤い裏地。袖のカフスが、たぶんルビーだと思うわ」
 縦長のゲストテーブルが六列、ゆったりとした間隔で並ぶ大広間。その最も右端の列の、さらに奥。よくよく目を凝らさなければ個人の識別すら難しい距離にある顔を、ティラナは目聡く見分けた。落ち着いた佇まいの、初老の紳士。一見、周囲と差のない普通のテールコートに見えるが、細部の仕立てが異なっている。
 「よく気がついたね。今、ヘルムホルツ伯爵と談笑している彼だろう?」
 シュナイゼルは驚きを見せず、淡い紫色の瞳をその紳士へと向けた。
 「彼は……アッシュフォード卿だよ。ガニメデの代名詞でもある、我が国の第五皇妃マリアンヌ様の後ろ盾貴族だったお方だ。だが、第五皇妃が薨去されて以降、ブリタニア本国ではアッシュフォードの技術は冷遇される一方でね。本国がその価値を手放すというのなら、我がカストラリアでその果実を買い取るのが道理というものさ。彼らのナイトメア開発部門と教育事業の拠点を、こちらへ誘致したんだよ」
 ヘルムホルツ伯爵は国内の兵器メーカーに巨額の出資を行うパトロンだ。その二人が並んでいるとなれば、共通の話題など容易に想像がつく。
 「……アッシュフォード……?」
 ティラナはその名を口の中で繰り返した。シュナイゼルの説明だけで納得するべきはずなのに、なぜだか妙に、胸の奥がざわつくような、気がかりな響きだった。
 「移民制度を利用して、こちらへ来られたということね」
 いわゆる、亡命貴族。
 それ自体はこの過渡期の国家において珍しいことではない。だが、何故だろう。その背景にある、白く曇ったガラスの向こうの影を――自分は、かつてよく知っていたような、奇妙な既視感が肌を刺した。脳裏の霧の向こう、カストラリアの風の匂いではない――潮と炎、舞い上がる砂埃。焦げた人の――。舌に感じる嫌な苦味。恐ろしい不安を拒むように感覚を打ち消す。
 「ナイトメアフレームの開発を、こちらでも継続させているのかしら。それとも、教育事業?」
 「そうだね。どちらも精力的に継続していると聞いているよ。……おや、気になるかい? ならば、挨拶をさせよう」
 シュナイゼルが背後に控えていた秘書官を呼び寄せ、顎で指示を出した。秘書官が右端のテーブルへと滑らかに進む。給仕たちが縦横無尽に行き交う喧騒の中、目当ての紳士の傍らに寄ると、その耳元でそっと主催者からの召集が囁かれた。
 中央のヘッドテーブルに座る男女の姿をじっと見つめ、ルーベン・K・アッシュフォードは静かに椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。
 広間の壁を伝うようにして通路を進み、主催者席へと着くなり、彼は恭しく胸に手を当てて頭を下げた。
 「ルーベン・K・アッシュフォードでございます。女王陛下、摂政殿下」
 「食事中に呼び立ててしまって申し訳ありません、アッシュフォード卿。お料理はお口に合いましたか?」
 「ええ。どれも絶品でございます、陛下」
 「それはよかったわ。新顔だと伺ったもので、少し気になってしまったの。……こちらでも、ナイトメアフレームの開発をなさっていらっしゃるの?」
 姿勢を正したアッシュフォード卿は、シュナイゼルの方に目配せし謝意を表した。
 「ええ。大変ありがたいことに、シュナイゼル殿下に多大なるご支援をいただいておりまして、恙無く進んでおります」
 「ブリタニア時代から引き続き、教育事業も手掛けていらっしゃるとか」
 「はい。所は変われども、志まで変えてはならぬと愚考しております」
 「あら、素晴らしいわ。初心を忘れずにいらっしゃるのね」
 「誠に恐縮に存じます」
 ティラナは、目の前の初老の紳士の高潔な態度に微笑みながらも、やはり胸の奥の霧≠ェ晴れないのを感じていた。だが、今は主催者としての公務が優先だ。
 「せっかくの談笑中に呼び寄せてしまったわね。お時間を頂戴いたしました。今宵の饗しを、どうぞ最後まで楽しんでいってください。……ああ、そう。たしか、二十二時からはオープン形式になるのよね? 今夜はよく晴れているから、テラスや屋外も会場に様変わりするのよ」
 「それは楽しみですな」
 ホテルはこの王室主催の時期は完全貸切となる。厳密には、その周辺の施設を含めた土地一帯が社交の舞台となり、晩餐会を起点日に数日間はホスト主催のレクリエーションを通して交流を深める。
 「肩肘を張る堅苦しい夜会は退屈でしょう? 皆さんの本命は、その後の二次会≠ノあるのよ。こういう場が苦手な方にとっては、客室かご自身の別荘に帰って羊を数える時間になってしまうけれど」
 アッシュフォード卿は、くくくと肩を小さく震わせて、愉快そうに笑い声を漏らした。
 「パーティーはお好きですか?」
 「ええ、とても。この広間にはおりませんが、同行した孫も、今夜は夜更かしをすると……大変張り切っておりましてな」
 「お孫さんがいらっしゃるのね。どうか叱らないであげてちょうだい。私は昔、叱られてばかりでしたけれど」
 「ふふふ……! 陛下がそう仰るなら、今夜は大目に観ることにいたします」
 「私の父や母が最初にヴァルグレイでこの伝統を始めた頃は、もっと日程が長かったのよ。今はだいたい、長くて五日ほど。……アッシュフォード卿、どうぞ楽しい夏休みにしてくださいね」
 ティラナがシードルのグラスを傾けると、給仕がアッシュフォード卿に注がれたてのシャンパングラスを握らせた。
 「良い夜を」
 乾杯の言葉は琥珀色の細かい泡の中に消えていった。
 

 窓からホテルを見下ろすティラナの視線の先、濃紺の夜空を震わせて鮮やかな花火が打ち上がった。
 ホテルの広大な庭園には白いパラソルが整然と立ち並び、色とりどりのフラッグガーランドが光の尾を引いて伸びている。大輪の火花が夜を焦がすたび、窓辺のティラナの横顔にカラフルな残光が射し込んだ。
 ティラナは声を弾ませ、興奮した様子で眼下の賑わいを追いかけている。
 「なんて賑やか! 花火よ、シュナイゼル! 誰が持ち込んだのかしら? ああ、みて! うちの従者が消火器を持って走っているわ。本当に働き者なんだから」
 パン、パン――と弾ける音のたび、下の地上から歓声が湧き上がる。
 隣室と繋がっている寝室のドアが開き、シャワーを浴び終えたばかりのバスローブ姿のシュナイゼルが穏やかに声をかけた。
 「そろそろ眠る時間だよ、マイレディ」
 「えー! もうちょっとだけ眺めていたいわ」
 「明日、スポーツ大会に参加するつもりなんだろう?」
 「だって……あなたも止めるし、レルヒたちにも止められるんだもの……」
 花火を背にシュナイゼルへ向き直ったティラナは、唇を尖らせていじけてみせた。大広間で完璧な大人の女王≠フ仮面を被り続けるのは、心身ともに酷く摩耗する。こうして白亜の城の私室に戻ったときくらいは、その重たい仮面を放り出すに限る。
張り詰めていた疲れが一気に押し寄せ、ティラナは小さな欠伸を慌てて手で噛み殺した。
 「ベッドにお行き。さあ」
 シュナイゼルは慈しむような微笑みを絶やさない。
 「……んー……わかったわよ。明日の参加は見送るけれど、あなたは必ず勝ってね」
 「約束するよ。それに、応援席にいても退屈はしないはずだ。誰も貴女という至宝を放っておくはずがないからね」
 「これが、ヴァルグレイの社交界だものね。……それにしても、ホストが私たち二人だけというのは本当に骨が折れるわ。休暇とは名ばかりね。はやく、この人手不足から解放されたいところだわ」
 ああ――と嘆息混じりに大袈裟に物言うティラナに、シュナイゼルの声色が変わった。それは明確に、質量と湿度が増していた。
 「……ふふ。それは随分と挑発的だね」
 「……な、何がよ。私はただ、王室の絶対的なキャパシティ不足を嘆いただけじゃない」
 「いや、挑発的だよ。とてもね」
 シュナイゼルが音もなく距離を詰めてくる。その長身が放つ圧倒的な存在感に、ティラナは思わず息を呑んだ。一歩、二歩と迫るごとに足が退き、すぐに背中が窓の硬い枠に当たった。
 「ちょ……ちょっと待って、シュナイゼル……!」
 「待て、かい? 私がこれから何をしようとしているのか、わかっていて言っているのかい?」
 「あなたは他人より人一倍図体が大きいんだから、そうやって……ずんずんと容赦なく迫られたら、誰だって後退るに決まっているでしょう!」
見上げるほどの体格差に、眩暈がしそうになる。
 「挑発的な悪い子には、少々お仕置きが必要だね」
 ティラナの脳裏を、その日彼の秘書から聞いた鞭打ち≠ニいう不穏な単語がよぎった。こうやって彼は学生時代、多くの学究の徒を容赦なく扱いてきたのだろう。子供のように、お尻を叩かれる程度で済めばいいが。
 「……ええ、っとぉ……!」
 おろおろと逃げ場をなくしたティラナは、とっさに窓辺の豪華な緋色のベルベットカーテンの束を解き、その中にくるりと身を隠した。
 「隠れても無駄だよ」
 カーテンに籠城したのが間違いだったと気づいた時は、既に遅かった。シュナイゼルはティラナを外側から、被さった布ごとくるくると回転させたのだ。頭上の空間がみるみる窄まり、視界が緋色に閉ざされていく。
 「え……あ! あの、ちょっと待って、これ、内側から出られないわ!」
 「勝手に自分から飛び込んだんじゃないか」
 自縄自縛状態の様子をみて面白そうにけたけたと彼は笑っている。
 ティラナは逆向きに身を回して布を解き、カーテンの隙間から顔だけを覗かせた。
 「いいわ、なんのお仕置き? 受けて立つんだから……!」
 「好戦的だね。覚悟はあるのかい?」
 「も……もちろんよ!」
 強がりに対して、彼はフ――と唇から小さく吐息を漏らした。
 「――では、今から」
 カーテンの洞穴≠ノ滑り込んできた大人の唇に、ティラナはジタバタと身をよじった。
 「ひっ!? どこにキスしているのよ! その時≠チて今のことなの?!」
 彼はいつもの額や頬ではなく、無防備な首筋に唇を押し当てた。一度や二度ではない。何度も、誘惑的に。
 想像だにしていなかった襲来にぎこちなく固まるティラナへ、シュナイゼルは妖しく目を細めると、今度はその唇を何度か食むように塞いだ。
 「……ん……しゅ、……しゅな……ぃ……んん――」
 言葉の音が吸い取られていく。とめどなく。絶え間なく。深く味わうように。
 体の力さえも奪われていく感覚に抗えず、ティラナは彼の首裏に腕を回した。触り心地のいい柔らかな金髪が、指先をくすぐる。執拗に舐り、絡み合う舌。日常の挨拶などでは到底済まされない、彼の中にある獰猛な知性と支配欲を直接流し込まれるようだった。さきほどアッシュフォードの名を聴いたときに胸を過った、あの白く不気味な既視感の霧さえも、彼の容赦のない熱い質量によって跡形もなく融かされ、塗り潰されていく。
 いつまでそうしていたのか。やがて名残惜しそうに唇が離れる。
 「その時が来たら、覚悟しておくようにね」
 酸素すらも奪い尽くすような熱から解放されたティラナは、甘くぼやけた彼の声に、視界を曖昧に霞ませた。
 カーテンは最初の状態に、あるべき状態に戻り、窓辺で揺れている。
 悪戯な攻防がひと段落して、ティラナも上下する肩の動きが安定し、緩やかに調子を取り戻していく。それでもなお彼の広い胸に縋り付いたままでいると、シュナイゼルの声音からふっと甘さが抜け、静謐な低音が耳元を掠めた。
 「……少し、真面目な話を聞いてもいいかな。今後のことを」
 「今後って? 色々あるでしょうけれど」
 彼の着ているバスローブのふんわりとした感触が心地よく、広い胸元に頬ずりする。
 「カストラリアで起きた、あのクーデターの裁判についてだよ」
 そこで、ティラナは動きを止め、小さく息を吐き出した。
 「なんだ、その話……。いろいろと考えてはいるの。……それにしたって社会への影響が大きすぎるわ。下手に大きな波を立てると、その波の反動に私たちが呑み込まれてしまわないか心配なの。……あなたのことだから、既にいくつかのプランを用意しているんでしょう?」
 「いくつか、ね。だが、すべては貴女の意志次第だと考えているよ。アルディックの起こしたクーデターと……それから……」
 「……私の、あの研究≠悪用した件についてね?」
 「……思い出したのかい?」
 「全部ではないと思うわ。でも、周囲の人間があれほど言いにくそうにしているのだもの、大体の予測はつく。あなたでさえ私から隠したがるくらい、凄惨で酷い話なんでしょう」
 シュナイゼルは静かに瞳を伏せた。その穏やかな声音の底には、ティラナを廃人の淵へと追いやり、他人の人生にすり替えたアルディックの悪の技術≠ノ対する、一切の容赦のない冷徹な拒絶が、分厚い氷床のように横たわっていた。
 「……たくさんいるのね? その、実験の犠牲者が」
 「実に、悲しいことだよ。カストラリアの闇にも通じる、凄惨なデータだ」
 「……そう。なら、なおさら裁判は徹底して行うべきよ。それはあなたも同意見?」
 怜悧な瞳を傾け、シュナイゼルの意見を仰ぐ。
 「貴女が、今後も科学者としての研究を続けたいと願うのなら、なおさら公的な裁判で決着をつけるべきだと考えているよ」
 「私の、研究……」
 言い淀み、ティラナは続ける。
 「――研究を続けるということは、その技術が生み出した功罪のすべてをひっくるめて、真正面から向き合っていくことになる。カストラリアの女王として、そして科学者として、一生消えない重たい十字架を背負うということ」
 ティラナはカーテンの布地を小さく握りしめた。
 「私が廃人から目覚めて……最初に説明してくれたとき、あなたは言ったわね。『私が他人の人生を生きていた』って。……みんなが私に遠ざけたがる、あの空白の人生の話」
 シュナイゼルは、深く黙り込んだ。
 「あなたは私にその恐怖を思い出して欲しくなくて、優しさで遠ざけてくれている。でもね、シュナイゼル。世間には、私と同じように『他人と肉体を強制的に交換させられた』犠牲者たちが、今もたくさん息を潜めている。自分の存在そのものが曖昧になって、信じられなくて、自分が本当に自分であることを法的に証明できない怖さを、私は身をもって知っているわ。……これを見過ごすことは、絶対にできない」
 彼女の琥珀色の瞳に、天才特有の冷徹なまでの義務感が宿る。
 「悪用された研究と、そのバイオデータを野放しにするということは、将来的にさらなる悪意に貢献し、第二、第三の被害を生む。……たとえ生み出したものが化け物であっても、その面倒を最後まで見届けることが、研究者の為すべき最低限の倫理よ。それが、……私自身が当初願っていた結果でなくともね」
 ティラナは一拍置き、今度は君主≠ニしての冷徹な算盤を弾き始めた。
 「本当はすべてを国際社会に曝け出して、関与した全員を極刑に処すべきだと思う。けれど、私が立憲君主としての務めを果たすには、この技術の公表はあまりにもリスクが高すぎるわ。国家の新たな混乱の種子となるくらいなら――クーデターに関する政治犯としての側面は完全公開にし、こと変身≠フ悪用に関しては、国家機密の情報漏洩事件として非公開審理≠ノ付すのが妥当よ。容疑者の余罪として処理するの。どうかしら?」
 「ふむ……」
 シュナイゼルは顎に手を遣り息ついた。ティラナはさらに続ける。
 「被害者への国家補償は必須。けれど、事件そのものを大々的に公開してしまうと、現実問題、被害者たちのその後の社会復帰に致命的な支障をきたすわ。私と違って、彼らの多くは守るべき平穏な生活がある一般人なのだから。マスメディアに特大の餌を与えるわけにはいかない。プライバシーと安全の保護を最優先にすべきよ。……ねえ、聞いているの、シュナイゼル?」
 相槌がないことにティラナが不審に思ってカーテンから顔を出すと、シュナイゼルは彼女の言葉を反芻するように顎に手を当てていたが、やがて視線を隣室へと向けた。
 「ああ、素晴らしいよ。完璧な方針が固まりそうだと思ってね」
 「……さっきから、隣のワインセラーなんか覗き込んで何をしているの? あなた、こんな夜中に晩酌でも始める気?」
 シュナイゼルはセラーの棚から、年代物の極上のボトルを何本か見繕って手際よく木箱に収めている。
 「この複雑な超法規的措置を執行するには、実務に長けた専門家の知恵が必要だからね。……これはそのための、ちょっとした手土産だよ」
 「……今から? もう真夜中よ、明日になさいな。もう皆、ぐっすり夢の中だわ」
 「いや、そこのホテルの四階でお休みになっているはずだよ」
 「……そうなの? なんであなたがそんなこと知っているのよ」
 面白可笑しく崩した表情で、ティラナは尋ねた。
 「ふふふ。たしか、午前零時から臨時の賭けチェス≠されると小耳に挟んでね」
 「チェス? あら、女王の別荘の目と鼻の先で、あまり褒められた遊びではないわね。……ねえ、誘われたの? 私も連れて行って!」
 「ダメだよ。貴女は今が成長期の真っ盛りだ。今日は大広間でたくさん頭脳労働をしたのだから、大人しくお眠り」
 またしても子供扱いされたティラナは、不満を隠さず頬を、食べ物を詰め込んだリスのように膨らませた。
 「シュナイゼルだけずるいわ!」
 「ずるくないさ。正式に誘われたのは私だけだからね。それに、淑女が真夜中に異性の部屋を訪ねるというのは、感心しないよ」
 「そうだ、あなたが一緒にいれば、何の問題もないでしょう?」
 自信たっぷりに提案するが、依然として彼から否定的な色は消えない。
 「……おや。そこまで言ってくれるのかい?」
 シュナイゼルは悪戯っぽく微笑み、彼女の耳元に唇を寄せた。
 「たった一言、貴女から行かないで≠ニ誘っていただけるなら、私はどんな先約も断って、すぐにでも、このベッドに飛び込むよ。――今夜はここで、私と一緒に眠りたい、とね。夢の中でキスの続きをしよう」
 吐息混じりの蠱惑的な申し出が、つい先程の官能を思い出させる。ティラナはカッと顔に熱を集め、動揺の誤魔化しを兼ねて、威嚇するように吠えた。
 「……そんなことをしたら、明日の朝、侍女が青い顔をして腰を抜かすわよ……! 未婚の男女の同衾なんて、うちの神経質な従臣たちが束になってお小言を物申すに決まっているもの……」
 「間違いないね」
 反応を楽しんでは満足そうに声を立てて笑うと、シュナイゼルはティラナを抱き上げベッドまで運んだ。リダニウムの王宮のベッドよりも狭いが、硬さは同じだ。薄手のガーゼ生地がのデュベを横たわる身体に掛けると、彼女は枕元に置いていたシルクナイトキャップを忘れずに被った。
 シュナイゼルは「おやすみ、ティラナ」と囁き、彼女の赤くなった頬にそっと、格別に優しいキスを落とした。


 宵の華も萎み、活況が静寂に立ち返る真夜中のヴァルグレイ。
 シュナイゼルは、ラフなサマージャケットとスラックスに着替え、側近のカノン・マルディーニを伴い、白亜の城から徒歩で目と鼻の先にあるホテルへと向かっていた。湖から吹く風が彼の金髪を穏やかに揺らす。目指すのは、ホテルの四階。限られた要職者だけが入室を許された、重厚なマホガニーの扉の向こう――公式の儀礼には存在しない、紳士たちの社交場である。
 扉を開けると、室内には総勢七名の国家要職者たちが集っていた。壁際のソファでグラスを傾ける者、ビリヤード台の縁に腰掛けて談笑する者。彼らは最後に到着した最高位のゲストを認めると、一同は居住まいを正した。
 「お待たせしたね」
 シュナイゼルが微笑みながら入室すると、カノンがその背後から滑らかに進み出た。
 「時間ちょうどでございます、殿下」
 代表して出迎えた参謀総長のロンハードが、恭しく頭を下げる。
 「夜分に呼び立ててしまってすまない。これは、ちょっとした手土産だよ」
シュナイゼルが促すと、カノンが携えていた木箱を給仕に手渡した。中から現れたボトルのラベルを見た瞬間、法務大臣をはじめとする男たちの目が一斉に色めき立った。ロンハードと数名を除いて殆どが貴族階級者である。一級品への鑑識眼は極めて優れており本物である。
 「おお……! これはこれは……『ロマネ・コンティ一九九九年ヴィンテージ』ではございませんか! まさかこれほどの至高の名品をお持ちでいらっしゃるとは、流石でございますな」
 「カストラリアの輝かしい未来を語る夜だ。素晴らしいワインがよく似合う。皆さん、ぜひご賞味ください」
 シュナイゼルが勧めると、給仕が手際よくコルクを抜き、参加者たちのグラスへと芳醇な液体を注いで回った。
 グラスを揺らし、香りを愉しみながら、法務大臣コートニーがふと感嘆を漏らす。
 「それにしても、今日の女王陛下のご様子は実に素晴らしかった。お労しい病床からこれほど完璧に復帰されるとは、カストラリアの神の加護を感じますな」
 「ええ。陛下も明日のクリケットをとても楽しみにされながら、先ほどお休みになられましたよ」
 シュナイゼルの返答に、今度はバーンズ外務大臣が身を乗り出した。
 「ほう、陛下が直々にご観覧にお越しになると! それは我々も、うかうかとしていられませんな。俄然、腕が鳴るというものです」
 「実は、本人は『ご自分もゲームに参加して、大臣たちをコテンパンにしたい』と仰せだったのですがね。まだお体が本調子ではないので、今回は私の方で大人しく諦めていただきました」
 「ははは、それは陛下らしい!」
  ラウンジに大らかな笑い声が響く。
 シュナイゼルは穏やかに笑いながら、室内の中央に鎮座するグリーンタペストリーのビリヤード台へと歩み寄った。ラックに組まれた球を見つめ、一本のキューを手に取る。
 チョークを先端に塗りつける仕草すら、ギリシャ彫刻のような優雅さがあった。
 「殿下。チェスのみならず、ビリヤードも嗜まれるのですな」
 法務大臣が興味深そうに見守る中、シュナイゼルは静かに身を屈め、鋭い視線で球の盤面をスキャンした。
 「少々ね。ルールのある遊びは、どれも嫌いではないんだ」
 シュナイゼルはサマージャケットを脱いでカノンへと手渡した。
 「ちょっと。失礼するよ」
 さらに、シャツの第一ボタンをぷつりと外し、首の動きを滑らかにする。キューを手に持ち、コーナーから正確に狙い位置を探る。
 パチン、と乾いた高い音が室内に響いた。
 シュナイゼルが放った手球は、計算され尽くした驚異的な軌道を描き、クッションを正確に三度経由して、最も難しい位置にあった的球を鮮やかにポケットへと沈めた。他の球の配置すら、次の彼の一手にとって完璧に有利な位置へと、まるでチェスの駒のように整然と動いている。
 言葉を失う大臣たちを振り返り、シュナイゼルはいつもの無垢な微笑みを浮かべた。
 「さて、コートニー法務大臣。美味しいワインも開いたことだ。……チェス盤の前に座る前に、少し今後の方針≠ノついて、超法規的な法律の解釈をすり合わせておきたいのだが、いいかい?」
  シュナイゼルはキューをカノンに手渡すと、まるでチェス盤のキングのように、ラウンジの奥に据えられた最高級のレザーソファへと深く腰を下ろした。第一ボタンの外された細い首元から、熟期へ向かう男の無防備な色気がかすかに匂い立つ。
 彼はサイドテーブルから、カノンがあらかじめ用意していたシガーケースを開いた。
 「……コートニー、君はハバナを嗜むんだったね」
 「ええ、恐れ入ります。ですが殿下の前で煙を燻らすなど……」
 「構わないさ。今夜は公式の儀礼など存在しないのだから」
 シュナイゼルは贅沢な葉巻を一本選び、自ら専用のカッターで吸い口を切り落とすと、それをコートニーへと手渡した。驚き、恐縮する法務大臣のすぐ目の前までシュナイゼルが身を乗り出す。
 カチャ、と静かな音を立てて擦られたマッチの、オレンジ色の細い炎が二人の至近距離で揺れた。シュナイゼル自身が、大臣の葉巻の先端へ優雅に火を誘導する。
 「さあ、吸って」
 促す低音は、酷く甘く、そして逆らいがたい響きを持っていた。コートニーが恐る恐る深く煙を吸い込み、紫煙を吐き出すのを見届けてから、シュナイゼルは自身の葉巻にも火を灯した。
 ゆったりと立ち上る、芳醇で少しスパイシーな煙のカーテン。
 「――今回のクーデターに関して、カストラリアの現行法、および戦時国際法を厳密に適用すれば、首謀者であるアルディックとその一派は例外なく公開裁判の上で極刑に処される。……それは、国家の威信を示すためには極めて真っ当な手順だ」
 シュナイゼルは、深いガーネットのロマネ・コンティが満ちたグラスを細い指先で弄びながら、静かに目を細めた。ビリヤード台を囲む他の大臣たちは、神妙な顔で摂政皇子の言葉に深く頷いている。
 「だが、あの男たちが手を染めた罪の本質=c…王室が秘匿してきた高度な生体制御理論と、そのあまりに非人道的な適用例≠ワでをすべて白日の下に晒すとなれば、話は変わってくる。国際社会は技術の独占権を巡ってパニックに陥り、カストラリアの国益は損なわれるだろう。何より、……本来の在るべき姿を奪われ、今も信じがたい形で息を潜めている=A全貌の掴めぬ多くの被害者たちのプライバシーは、マスメディアの玩具にされて完全に破壊される。……法を司る最高責任者として、君はどう考えるかい?」
 外務大臣をはじめとする面々は、「なるほど、アルディックは王室のバイオ特許を国外の闇組織に売却しようとしていたのか」、「被害者というのは、その情報戦の過程で戸籍や人権を抹消された哀れな者たちのことだな」と、それぞれもっともらしい政治的解釈をして納得の表情を浮かべていた。
 だが、コートニー法務大臣だけは違った。
 上質な葉巻の煙を喉の奥に詰まらせそうになりながら、完全に凍りついた。
 ――生体制御の、非人道的な適用……! 本来の姿を奪われ、信じがたい形で息を潜めている被害者……!――
 コートニーの脳裏に、数日前に現場の検事から極秘裏に上がってきた、夜も眠れなくなるほど不気味な捜査報告が鮮烈によみがえる。――『押収された異常な細胞培養薬品』、そして『逮捕したアルディックの部下の指紋と人相が、カストラリア国内に実在する全く別人の戸籍と一致した』という、あの怪奇現象。
 このブリタニアの皇子は、自分が一人で抱え込んで震えていた肉体交換変身≠ニいう神を冒涜する禁忌の全貌を、とっくに、そして完璧に把握している。
 コートニーは、シュナイゼルの淡い青紫色の瞳を見つめ返した。その瞳の奥には、微笑みの仮面の下に隠された、すべてを見透かすような絶対的な主権者の光がある。
 「それ、は……。国益の保護、および社会秩序の維持を最優先とするならば、公開裁判の場からは……その、特殊な技術的余罪≠完全に切り離し、別件の国家機密情報漏洩≠ニして非公開審理≠ノ付すのが、最も傷の浅い着地点かと愚考いたします。……しかし、それでは法治国家としての手続きに不透明さが残ると、野党や保守党の反主流派から突き上げを食らう可能性が……」
 「おや、それは心配ないよ」
 シュナイゼルの声は明るい。それから、くく、と喉を鳴らして愛おしそうに笑った。ソファの背もたれに体を預け、長い脚を優雅に組み替える。
 「今回の件は、すべて『カストラリア王室の絶対的なプライバシー保護、および対ブリタニアとの安全保障上の超法規的措置』として、私がすべての責任を負う形で処理する。君の法務省は、ただ私の用意したシナリオ通りに非公開の法廷の鍵を閉めればいい。……それだけで、君は国益を完璧に守り抜いた希代の名法務大臣≠ニして、次期内閣でもその地位を不動のものにできる。……悪い話ではないだろう?」
 シュナイゼルはグラスをコートニーのそれへと軽く傾け、カチャ、と美しい音を響かせた。そのまま、細い指先でコートニーの持つグラスのクリスタルを、まるで愛撫するように滑らかになぞる。
 「君の賢明な判断を信じているよ、コートニー。すべては、我々の愛すべき女王陛下を……これ以上の混乱から守るためにね」
 法務大臣は、背中に冷や汗が流れるのを感じながらも、目の前のギリシャ彫刻のように美しい皇子の、あまりにも甘美な罠≠ノ、完全に魂を奪われていた。国家の禁忌を握られている恐怖と、それを包み込むようなノーブルな救いの手。その暴力的なまでの魅力の前に、逆らう余地など、この盤面――ラウンジのどこにも存在しないのだ。
 「……御意のままに、摂政殿下。すべては陛下と、この国の未来のために、完璧な法廷をご用意いたします」
 シュナイゼルは満足そうに紫煙をくゆらせた。
 「ありがとう。……さて、カノン。素晴らしいワインの味が落ちないうちに、彼らと楽しいチェスを始めようか」



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午前四時の異邦人
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