三度目の夏V






 a.t.b.二〇一二 July
 カストリア ヴァルグレイ

 「まあ。ご覧になって! シュナイゼル殿下よ」
 「なんて素敵なホワイトユニフォームなのかしら……」
 夏の強い陽光が照りつけるヴァルグレイのクリケット・フィールド。その周囲に並べられた白い木製の観覧席から、色とりどりのパラソルに身を隠した貴婦人たちの、熱を帯びた吐息が漏れていた。
 視線を独占するのは、どこからみても誰よりも長身を誇る、若く瑞々しい青年の姿。観覧席にいる婦人達の注目の的。双眼鏡越しに熱視線を浴びる、女王の婚約者。しかし、昨晩の晩餐会でのエスコートの貫禄。よそよそしさなど皆無に等しく、長年寄り添った夫そのものである。
 「ねえ、ご存知? ブリタニア本国では、あの方、高潔さのあまり白の皇子≠ニ呼ばれているんですって!」
 「そうなの? たしかに……今の姿を見れば、誰もが納得してしまうわね」
 フィールドの中央。伝統的なフランネルの白いユニフォームに身を包んだシュナイゼル・エル・ブリタニアは、ただそこに立っているだけで、まるで一枚の古典絵画のような完成された美を放っている。二メートル近い長身、引き締まった四肢、そして眩しい陽光を浴びてプラチナのように輝く、柔らかな金髪。
 噂好きの貴婦人らには良き夫と授かりものの子供もいる。かつての自分たちの過去を振り返り、投影するかのように、若い年下のカップルの仲睦まじい様子を観察することに熱を上げていた。
 「ところで、陛下はご観覧されるのかしら?」
 「ええ、もちろん。今朝、夫から聞いたわ。ああ、ほら……。今、あちらの大きな特設テントの下にいらっしゃるわよ。殿下と歓談中よ」
 二人の貴婦人の視線が揃ってテントの下の年若い女性に向く。
 気品あるオールドホワイトのドレスコードに従い、白のサマードレスを纏ったティラナは、つばの広いストローハットの陰から、フィールドを見つめていた。二の腕までを覆う極薄のシルクグローブをはめた手を胸の前で軽く組み、隣で試合前の談笑に夢中になっている。時折、シュナイゼルを見上げては、瞳を合わせては、なにかを口にして微笑み合う。貴婦人たちに内容は掴めないが、冗句の多い女王の性格を思えば、彼女の言葉に笑いかけていることは明白だ。
 双眼鏡を覗き込んでいた貴婦人が、ふっと息を漏らし唇を弧に描いた。
 「なんて絵になるお二人なのかしら」
 「本当に。女王陛下がご快復されて、……なんていったらいいのかしら。とても不安が晴れた。これも神に感謝しなければね」
 遠巻きに囁き合っていた貴婦人たちの元へ、ティラナはふらりと歩み寄った。
 「ごめんあそばせ。こちらでご一緒に観覧してもよろしくて?」
 「っ、陛下……! ええ……! どうぞこちらで……」
 事前の打ち合わせも約束もない。ティラナは気まぐれでこの観覧席の椅子に立ち寄ったようだ。噂好きの貴婦人二人は互いの目を見合わせた。
 これがヴァルグレイ・ルールのひとつなのだと、今更ながら思い知ったからだ。体裁を保つためごく自然に、ホストである王室メンバーは自由に、それこそ庭を散策するように貴族たちに声をかける。あら。綺麗に咲いたわね≠ニ、ガーデニングの最中、草花の調子を確認するように、だ。
 突然の若き主権者の登場に、淑女たちが一斉に色めき立ち、慌てて椅子から立ち上がり深く膝を折る。ティラナが動くたび、風に乗ってホワイトリリーの清廉な香りが周囲に漂った。
 「どうぞ、堅苦しくなさらないで。ここはヴァルグレイですもの」
 ティラナは愛らしく微笑み、差し出された特等席の椅子に腰を下ろした。
 「それにしても、昨晩はとても賑やかだったわね。夜遅くに花火まで打ち上がって。……ヴァルグレイの歴史のなかでも、あんなに大規模な花火は初めてのことじゃないかしら?」
 「ええ、本当に。……ただ、風の噂で聞いたのですけれど、あの花火を急遽持ち込んで打ち上げようと提案なさったのは、あのブリタニアから来られたアッシュフォード卿だとか」
 「アッシュフォード卿? 本当なの?」
 ティラナは意外そうに琥珀色の瞳を丸くした。
 「昨晩、大広間でご挨拶したばかりだわ。彼、ご自分で『パーティーが好きだ』と仰っていたけれど、本当に愉快な方ね。屋外会場に集まったみなさんで、夜通しダンスまで踊られたのでしょう? ……ところで、お二人は昨晩、あの花火の音で眠れました?」
 問いかけられた一人の貴婦人が、少しだけ困ったように眉を下げて微笑む。
 「少々、お耳に妨げでしたものね。私は途中で、メイドに耳栓を用意させましたわ」
 「まあ、そうなの。……貴女は?」
 もう一人の婦人が、楽しそうに首を傾げた。
 「私はちょうど、夫や家族と一緒にボードゲームに興じておりましたの。夢中になって先を読んでいましたら、いつの間にか花火も落ち着いておりましたわ」
 「ふふ、それは素敵な夜の過ごし方ね」
 ティラナは声を弾ませて相槌を打ちながらも、ストローハットの庇の裏で、ほんの少しだけ視線を伏せた。
 ――……私は、シュナイゼルのせいで、それどころではなかったのだけれど……。
 昨晩、自縄自縛になったカーテンの洞穴≠ナ、首筋や唇に容赦なく流し込まれた大人の熱。思い出すだけで頬がカッと熱くなりそうになるのを、ティラナはポーカーフェイスで完全に押し隠した。

 クリケットの試合は長い。
 一度始まれば、一日がかりで長閑な時間を楽しむのがこのスポーツの伝統だ。フィールドを巡る心地よい風の中、仕立てのいい制服を着た給仕たちが銀盆を掲げてあちこちを巡り、冷たいドリンクや洗練されたフィンガーフードをゲストに提案している。
 「シュナイゼル!」
 不意に、ティラナの口から弾むような声が出た。
 フィールドの盤面が大きく展開したのだ。バッターが強振した黄色いボールが、高い弧を描いてフィールドの端へと飛び込んでいく。それを目掛け、白いユニ フォームのシュナイゼルが、驚くほどの瞬発力で芝生を蹴った。長い脚が鮮やかに躍動し、完璧な軌道で落ちてくるボールをその大きな手で見事にキャッチする。あるいは、自身が攻撃側に回れば、ウィケットの間を風のように俊敏に駆け抜けていく。
 「……あら。あのシュナイゼル殿下が! あんなに必死に走っていらっしゃるところなんて、滅多に見られるものではないわね」
 隣の貴婦人が感嘆の声を上げる。
 「……走っているところ……?」
 その言葉が、ティラナの脳裏に、電光石火の如く、鋭い電流のようになって突き刺さった。
 ——ざあ、と、カストラリアの高原特有の冷涼な空気とは違う、どこか乾いた風が、緑の芝生を吹き抜けていく。
 その広大なパドックで開催されていたスポーツ大会。今よりもほんの少しだけ幼く、しかし今と全く同じ、傲岸なほどの知性を湛えた横顔。白い半袖のシャツから伸びたしなやかな腕がバットを振り抜き、芝生を駆ける、あの長い脚——。
 「……へんね……」
 ティラナは無意識に、自分のこめかみに細い指先を当てていた。
 「陛下? どうかなさいましたか?」
 「……いいえ、なんでもないわ」
 ――……見たことがないはずなのに、なぜ? あの彼の走り方に、妙な既視感を覚えている。
 カストラリアの王女として、皇暦二〇〇〇年に彼と婚約して以来、シュナイゼルが全力でスポーツに興じる姿など一度も見たことがないはずだった。彼はいつだって、ティラナにくっついて穏やかな顔で佇んでいる男だったはずなのに。脳裏の白い霧の向こうで、何かが激しく主張している。だが、その正体を掴む前に、背後から静かな気配が近づいた。
 「女王陛下」
 振り返ると、厳格な表情を崩さない女官長のレルヒが、音もなく頭を下げて耳打ちした。
 「本日の予定を今一度ご確認したく。十六時半から、ド・シャトレ侯爵との打ち合わせがございます」
 「ええ。……承知しているわ」
 ティラナは意識を現在のヴァルグレイへと引き戻し、深く息を吐いた。公務の仮面が、滑らかに彼女の顔を覆っていく。
 「打ち合わせの時間は、一時間半ね?」
 「はい。その後、十九時からは夕食となっております。本日の夕食会場は、湖上の離宮でございます」
 「ああ、あの小舟でいくところね」
 ヴァルグレイの湖の中央に浮かぶ、白亜の古いウォーター・パレス。夜になれば、ライトアップされたクラシックな木造のボートでしかアクセスできない、カストラリア王室の私産である完全なる閉鎖空間。そこでどんな政治の罠が待っているのか、想像するだけで胸が高鳴る。
 「ありがとう、レルヒ。時間になったら、また私を呼びにきてちょうだい」
 女官長を下がらせ、ティラナは再びストローハットの庇を指先で直しながら、緑のフィールドへと視線を戻した。
 ヴァルグレイの涼風が、白亜の観覧席を吹き抜けていく。先ほど脳裏を過った奇妙な既視感の残滓が、微かな頭痛となってこめかみの奥で燻っていたが、ティラナはそれを自慢のポーカーフェイスの下へと強引にねじ伏せていた。

 一方、燦々と降り注ぐ陽光の下、きらきらと輝くグラウンドでは、シュナイゼル率いる即席のチームが驚異的な点差をつけて先制を続けていた。
 攻撃側のバッターとしても、守備側のフィールダーとしても、彼の動きには一切の無駄がない。二メートル近い質量を感じさせないほどに滑らかで、それでいて容赦のない正確さでゲームを支配していく。
 「いやはや。なかなかのご活躍ぶりでございますな、シュナイゼル殿下」
 イニングの合間、冷たいレモネードが載った銀盆を片手に、参謀総長ロンハードが、感嘆の声を漏らしながら歩み寄ってきた。
 「クリケットの高度な戦術やこれほどの実戦経験は、やはりブリタニアでの在学中に?」
 「ええ。そうです。寄宿学校でしたからね、これでも嫌というほど叩き込まれたのですよ」
 サー・ロンハードは「殿下にもそのような時代があったとは」と笑った。
 シュナイゼルは、額に張り付いた金髪を白いサマーキャップの裏へと優雅にかき上げながら、少しも息を切らすことなく微笑んだ。
 「それにしても、殿下のその卓越した動きを拝見するに、当時の学生たちの間でも、さぞや敵無しでございましたでしょう? ブリタニアの神童を相手に、まともにウィケットを守れる者など想像もつきませんな」
 ロンハードが冗談めかして髭を揺らす。その言葉に、シュナイゼルは手にしたクリケットバットのグリップを大きな掌で確かめるように微かに握り直し、淡い青紫色の瞳を一瞬だけ細めた。
 「……いいえ。意外と思われるかもしれませんが、ひどく拮抗した試合が一度だけありましてね」
 「おお! 殿下と互角に渡り合う学生が、本国のブリタニアにおられたとは。それはなんと驚きだ」
 「ええ。個人戦ではなく、チーム全体の動線を支配し合う団体戦の醍醐味を、私はそこで彼に教わったのですよ」
 シュナイゼルは穏やかに声を弾ませながらも、その鋭い双眸の奥で、はるか六年前の十月の光景を鮮烈に呼び起こしていた。
 ――コルチェスター学院の広大なフィールド。
 誰よりも不敵に笑ってフィールドを駆けていた少年。
 シュナイゼルの打球の軌道を完璧に先読みし、まるでチェスの盤面をひっくり返すかのように牙を剥いてきた少年。
 あの日、去り際の言葉によって少年ノエルが本物のティラナであった≠ニ気づかされた時の、あの胸を貫くような衝撃と歓喜。
 シュナイゼルは、喉の奥から込み上げる愛おしさを噛み締めるようにグラスのレモネードを一口揺らし、静かに視線を巡らせた。
 彼が真っ直ぐに見据えた先――そこには、遠く離れた白い観覧席の最前列。特等席で、オールドホワイトのサマードレスに身を包んだ、現在の彼女の姿があった。

 ――……あ。
 フィールドの端から、刺すような、しかしひどく甘やかな視線が真っ直ぐに自分を捉えたことに、ティラナは本能的に気づいた。
遠く離れているはずなのに、その淡いホリドゥラの双眸が宿す、肌を灼くような熱が伝わってくる。
 それは、昨晩、暗いカーテンの洞穴の中で、自分の首筋に容赦なく熱を流し込んできたあの男の目だ。完璧な皇子の仮面の裏側で、自分という存在をただ一人、完全に支配し、独占しようと企んでいる獰猛な捕食者の眼差し。
 周囲の貴婦人たちは、ただ『美しい婚約者同士が見つめ合っている』と無邪気に色めき立ち、双眼鏡を覗き込んでため息を漏らしている。
 けれど、ティラナの心臓は、シュナイゼルから突き刺さるその視線の意味を正確に読み取り、トクン、と大きく跳ね上がっていた。
 ティラナは降伏を認めるように、ストローハットの庇の下から、彼に向かって小さく、ひらひらと、極薄のシルクグローブをはめた右手を振り返してみせた。
 見渡す限りの大観衆の中で、二人の間にだけ通じる秘密の合図。
 それを受け取ったシュナイゼルは、満足そうにその美しい唇の端を持ち上げ、周囲の誰にも気づかれないほどの微かな、しかし格別に深い熱を孕んだ微笑みを、最愛の婚約者へと静かに返したのだった。


 白亜の城の一室、豪奢なオークの円卓が据えられた応接間。
 「ようこそ、お越しくださいました。ド・シャトレ侯爵」
部屋に入ってきた厳格な老紳士を、ティラナは極上の笑みで出迎えた。
「戴冠式の暫定日程の打ち合わせと聞いて、ぜひ、専門的なお立場からのご意見も伺いたくて……枢密院議長であられるヴィタリス大主教と、同伴でアーサルトル枢機卿にもお越し願ったのよ」
 「……ほう、大主教閣下まで」
 ド・シャトレ侯爵は一瞬だけ、その贅沢な髭の奥の唇を強張らせた。単なる事務的な打ち合わせのつもりだったのだろう。だが、部屋の奥の特等席には、すでにカストラリアのカトリック教会の最高権威が鎮座していた。
 「ようこそ、シャトレ侯爵。お先にいただいておりますよ」
 真っ白な法衣を纏ったヴィタリス大主教は、大皿に盛られた熱いスコーンと、最高級のバニラアイスクリームを無邪気な様子で頬張っていた。セイル王の治世から枢密院のトップに君臨する老長老は、宗教的な聖人としての権威を持ちながら、同時に誰よりも鼻が利く政界の怪物だった。
 「それで……陛下。肝心のシュナイゼル殿下はお越しになりませんので?」
 ド・シャトレ侯爵が席に着きながら、空いている上座の椅子を視線で促した。
 「そろそろだと思うけれど……。クリケットの後、上で着替えていらっしゃるの。汗をかかれたから、もう暫くお待ちくださいな」
 「ああ、いえいえ。どうぞごゆっくりなさってください。なんでも、本日のクリケットでは、殿下はなかなかのご活躍だったとか。観覧席の婦人方が騒いでおりました」
 大主教がアイスクリームのスプーンを置き、目を細める。
 「ええ。とっても誇らしかったわ」
 ティラナはわざと、恋するうら若い婚約者の顔をして、嬉しそうに声を弾ませた。
 「応援にも思わず熱が入ってしまいましたもの。まるで、血統の確かな駿馬のよう」
 「ゲーム自体も、かなりの白熱ぶりだったとか」
 「そう。それはもう! 最後のイニングなんて――」
 「おや。みんなで私の日向口かい?」
 重厚な扉が開き、穏やかでよく通る低音が響いた。
 一同が振り返ると、そこには完璧に着替えを終えたシュナイゼルが立っていた。仕立てのいい淡いグレーのサマージャケット。第一ボタンまで整然と締められた淡いクリーム色のシャツが、彼のノーブルな禁欲さを際立たせている。
 「本日のMVPのご登場ね!」
 ティラナが茶目っ気たっぷりに拍手で迎えると、シュナイゼルは苦笑しながら、ヴィタリス大主教とアーサルトル枢機卿に向けて、非の打ち所のない完璧な一礼を捧げた。
 「お待たせして申し訳ありません、大主教閣下、枢機卿殿。スポーツの後の着替えには、少々時間がかかるものでね」
 「いやいや、構いませんよ、摂政殿下。貴方のその、万事において非の打ち所のないご様子……実に頼もしい限りだ」
 ヴィタリス大主教の、濁った、しかしすべてを見透かすような老獪な瞳が、シュナイゼルの美しい顔をじっと見つめた。
 大主教は、手元の紅茶を一口啜り、ゆっくりと本題を切り出した。
 「……殿下。戴冠式の話に入る前に、私から一つ、国家の未来に関わる重要なお話をさせていただきたい」
 「何でしょうか」
 シュナイゼルは微笑みを絶やさず、促した。
 「ぜひとも、貴方に我がカストラリアの枢密院の籍を受け取っていただきたい」
 一瞬、部屋の空気が張り詰めた。ド・シャトレ侯爵の手がピタリと止まる。
 枢密院。それは、カストラリア王国における国政の最高諮問機関であり、法を超越した王室の決定に正統性≠与える、最高長老たちの檻である。
 ヴィタリス大主教の狙いは明白だった。このままシュナイゼルを他国から来た便利な実務家を摂政として野放しにしていれば、彼はやがて、既存の貴族や教会を完全に排斥した、彼独自の影の内閣≠構築してしまうだろう。それが既存の特権階級にとって最も恐ろしい悪夢だった。
それならば、あえて彼を枢密院という、カトリックの伝統と神への誓約に縛られた公式の枠組みの中に引きずり込み、自分たちの監視下に置いて牙を抜く。それが長老たちの仕掛けた罠だった。
「カストラリアは今、立憲君主制への過渡期にあります」
ヴィタリス大主教は、厳かな、しかし拒絶を許さない宗教的権威を声に宿して言った。
「若き女王陛下を支え、大国ブリタニアとの架け橋となる殿下にこそ、枢密院の席に座っていただき、我が国の伝統の守護者となっていただきたい。……カトリックの神の御前で、この国に尽くすと誓っていただけますな?」
 ティラナは、隣のシュナイゼルの思考を、緊張のなかで読み取った。
 公式の枠組みに閉じ込め、教会の犬として動きを縛るつもりだと。
 これは、凄まじい圧力の牽制だ。もし断れば、シュナイゼルはカストラリアへの忠誠を拒んだブリタニアの侵略者≠ニして、保守派から大々的なネガティブキャンペーンを張られることになる。
 しかし、シュナイゼル・エル・ブリタニアという男の知性を、老いた聖職者たちは侮りすぎていた。
 シュナイゼルは、淡い青紫色の瞳をわずかに細めると、まるでチェス盤の上で相手が自滅の手を指したのを見たときのような、無垢で、そして酷く冷徹な微笑みを唇に浮かべた。
 ――……なるほど。私を公式の枠組みに閉じ込め、動きを縛るつもりだね。
 それは、シュナイゼルにとって罠などではなかった。
 枢密院の席。それこそは、カストラリアにおけるすべての超法規的措置≠合法的に執行できる、国家最高権力機関へのフリーパスに他ならない。教会側が自ら、その最強のカードを彼の前に差し出してきたのだ。
 「……身に余る光栄です、ヴィタリス大主教閣下」
 シュナイゼルは優雅に手を胸に当て、微塵の動揺も見せず、むしろ歓喜に満ちた声で応じた。
 「我が最愛の婚約者、ティラナ女王陛下が治めるこの美しき過渡期の国家を支えるためであるならば……。喜んでお受けいたしましょう。カトリックの伝統の重み、このシュナイゼル、しかと背負う覚悟です」
 その完璧なまでの承諾の笑みに、ヴィタリス大主教の背筋に、一瞬だけ奇妙な冷気が走った。檻に入れたはずの猛獣が、最初からその檻の鍵を盗むつもりで、自ら嬉々として飛び込んできたような——。
 「素晴らしい。……神の祝福が、殿下と共にありますよう」
大主教は、自身の打った手が本当に正しかったのかを内心で激しく計算し直しながら、引き攣った笑みでグラスを掲げるしかなかった。
その様子を上座から見つめながら、ティラナは左手小指の純金のシグネットリングをそっと撫で、唇の端を優雅に吊り上げた。



 手入れの行き届いた芝生。切り取るように真四角のプールサイドを子供たちが駆け回っている。
 「ほらほら、逃げないと濡れちゃうわよー!」
 「キャーッ! ティラナ、ずるい!」
 「冷たーい! ママ、助けて!」
 ヴァルグレイの広大な敷地の一角。ベルケス公爵所有の別荘。豊かな緑に囲まれたプライベートプールの周辺には、突き抜けるような青空へと吸い込まれていく子供たちの賑やかな歓声と、弾けるような水しぶきがキラキラと舞い踊っていた。
 激しいクリケットの試合と、それに続く湖上の離宮での緊密な外交戦から明けた翌日。
 昨日までの厳格なオールドホワイトのドレスコードも、女王としての重々しいベルベットの王冠も、今のティラナには無縁のものだった。
 濡れても構わないような、仕立ての軽いリネンのラフなサマーワンピース。ティラナは裸足のまま、プールサイドの滑らかな大理石を臆することなく駆けまわり、手にした洗車用のラバーホースから、容赦なく冷たい水霧を放っていた。
 「ふふ、カストラリアの女王に勝とうなんて、百年早いわ! エリアス、そっちに追い詰めたわ、挟み撃ちにして!」
 「大人しく降伏しろ!」
 シルヴィアの長男、エリアスが指示に従って両手を広げて壁になる。
 プールの中でバシャバシャと激しく水を跳ね上げながら逃げ惑っているのは、ベルケスの愛らしい孫たち。そして、大理石のプールサイドの外側。芝生の上の特設テントからその光景を呆れたように、しかし愛おしそうに見守っているのは、ティラナの従姉妹にあたるシルヴィアだった。
 「ちょっと、ティラナ! 貴女、いくらなんでも子供相手に本気になりすぎよ。少しは手加減してあげて」
 シルヴィアが、手にした冷たいハーブティーのグラスを揺らしながら、楽しそうに苦言を呈する。
 この日のプールサイドには、シルヴィアの子供たちだけでなく、彼女の妹であるマデリーンの子供たちも合流しており、総勢六人ほどの小さな天使、あるいは小悪魔たちがひしめき合っていた。王位継承の激動を乗り越え、過渡期にあるカストラリア王室にとって、この子供たちの純粋なはしゃぎ声こそが、ヴァルグレイの別荘に真の平穏をもたらしていると言っても過言ではない。
 「何を言うの、シルヴィア。勝負の世界に手加減なんて言葉はないわ。それに、カストラリアの夏を乗り切るには、これくらい頑健に遊ばないと!」
 いたずらっぽく琥珀色の瞳を輝かせ、ティラナはわざとシルヴィアの足元に向けて、ホースの先を絞って鋭い水流をピピッと飛ばしてみせた。
 「ああっ! 冷たいじゃない! もう、本当になんて元気なの……! 実は仮病で、研究に没頭してただけなんじゃないの?」
 シルヴィアが慌ててサンダルを引いて笑う。
 その言葉に、子供たちが「そうだそうだ! ティラナをやっつけろー!」と勢いづき、プールの中から一斉にティラナに向けてプラスチックのバケツや水鉄砲で反撃を開始した。
 「あっ、待ちなさい! それは卑怯よ、六対一なんて……キャッ!」
 頭から容赦なく飛び込んできた激しい水しぶきに、ティラナは「降伏、降伏よ!」と声を弾ませて笑い転げた。ワンピースの胸元や裾がすっかり水に濡れて肌に張り付いてしまうのも気に留めず、彼女はただの少女に戻ったように、お腹を抱えて笑っていた。
 お昼頃からは、このプールサイドの芝生で、肉や新鮮な高原野菜を豪快に焼くバーベキューが予定されている。
 すでに遠くの木陰では、お抱えの料理人たちが立派な炭火のグリルを準備し始めており、ヴァルグレイの涼やかな風に乗って、香ばしいハーブと肉の焦げる贅沢な匂いがふわりと漂い始めていた。
 「ほら、みんな、そろそろプールから上がりなさい。お腹が空いたでしょう?」
 シルヴィアが大きなバスタオルを広げて子供たちを呼び寄せる。
 ティラナもホースの栓を閉め、ふう、と大きく息をつきながら、濡れた前髪をかき上げた。
 「はあ〜……久々にこんなにはしゃいじゃった」
 「陛下、タオルでございます」
 お抱えのメイドが恭しく差し出してくれた真っ白な大判のタオルを受け取り、ティラナは首筋や胸元、腕の水分を吸い取った。
 「ありがとう。……ねえ、シュナイゼルはまだかしら? 午前中はブリタニア本国との通信会議があるって言っていたけれど、もう終わる頃じゃない?」
 一緒に着ていた侍女のアシュリーが「殿下でしたら、二十分後にご到着されるかと」と予定を告げた。
 「そうなの。……それじゃあ、マデリーンのところに行ってくるわ。まだ顔を見てないから」
 ティラナは二枚目のタオルを一枚目のタオルと交換し、別荘の中庭から母屋の東側の部屋へと向かった。
 

 プールサイドの喧騒から少し離れた、東側の部屋へと繋ぐ大理石の廊下。木漏れ日が揺れる美しい庭園の片隅で、それはあまりにも醜悪な不協和音を奏でていた。
 「なんてこった……! どうしてくれるんだ、ええ!? これじゃあ俺はただの晒し者だ! 重要な利権の話があるっていうもんだから、こんな田舎のクソみたいな集まりにわざわざ来てやったっていうのに……!」
 吐き捨てられた怒声の主は、キャンプトン男爵家の次男、ジェームス・フィッツ・ローンズだった。
 クリケットでも社交でも、ブリタニアから来たシュナイゼルの圧倒的なカリスマの前に一切の存在感を示せず、カストラリアの有力者たちからもまともに相手にされなかった鬱屈が、最悪な形で爆発している。
 「あなた、やめて……。お願いだから声を落として。お腹の子が聞いているわ……」
 身重の身体を抱え、涙を浮かべて夫の袖をすがるのは、ティラナの従姉妹であるマデリーンだった。しかし、ジェームスはその痛々しいほどに大きく張り出した彼女の腹部を、これ以上ないほど冷酷な目で一瞥し、鼻で嘲笑した。
 「子供だと? 大荷物だよ、今となっては! クソほどの役にも立ちやしない!」
 「な、なんてことを……っ」
 野心家の本音が、完全に露見していた。王位継承権を持つ女王の従姉妹だからこそ、その血統と将来の利権を目当てに結婚してやったのだという、身勝手極まる傲慢。
 「なんて酷い……、酷いわ、謝ってジェームス! この子は……この子供たちは、女王陛下の甥や姪にあたるのよ!?」
 「ああ、そうだな! 世紀の大クソ野郎――アルディックを叔父に持つ、呪われた血筋のな!」
 実の父であるセイル王を殺害し、王宮を血に染めた大逆犯アルディックの名を引き合いに出され、マデリーンはショックのあまり閉口した。喉を詰まらせ、殆ど絶句するしかない。そんな妻を完全に見下し、ジェームスはさらに指を突きつけた。
 「偉そうにするな。いいか? 女のくせに俺に指図するんじゃない」
 人差し指をマデリーンに突き立てて、命じたところに、ティラナはついぞ我慢できずその場に現れた。
 「――余りある暴言よ。今すぐその言葉を撤回して、ジェームス。貴方が今侮辱した女には、この国の現主権者も含まれているのだけれど?」
 ピシリ、と。凍りつくような硬質な声が、回廊の陰から響いた。
 ハッとしてジェームスが振り返る。そこには、先ほどまでのラフなワンピース姿のまま、しかし琥珀色の瞳に冷徹なまでの光を湛えて佇む、ティラナの姿があった。
 不意を突かれたジェームスだったが、一度膨れ上がった傲慢さは止まらない。彼は引き攣った顔のまま、女王であるティラナにさえも、その歪んだミソジニーを剥き出しにした。
 「……ふん、そりゃあそうさ。所詮は『女の王』だからな? 男の王よりも格が低い。現に陛下、貴女だって自分の夫を……正当な王に就かせることも出来ないじゃないか。王と結婚する女は『王妃クイーン』になれるのに、女王と結婚する男は『王配プリンス・コンソート』――王子様止まりだ。女が上に立つせいでな! 子供が出来たら用済みの、ただの血統を繋ぐための種馬だ。自分の子供よりも身分が低くなる男の身にもなってみろ。哀れだと思わないか?」
 マデリーンの顔が、恐怖と絶望で白く引き攣っていく。
 「口を慎んで、ジェームス! 不敬罪よ! 聖なるヴァルグレイの地で、そんな発言は絶対に許されない!」
 とんだミソジニストだった。マデリーンは、化けの皮が剥がれたばかりの夫の醜悪な本性に完全に幻滅し、ショックのあまりその場に卒倒しそうになっていた。だが、ティラナの表情は、怒りに燃えるどころか、むしろ愚かな観察対象を見るかのように冷ややかに冴え渡っていた。
 「ティラナ……っ」
 マデリーンが絶望的な声を漏らす。最も醜態を知られたくない、憧れの従姉妹にすべてを聞かれていた。それだけで、今すぐ窓から身を投げ出したくなるほどの羞恥が彼女を襲う。
 「ああ……そうね」
 ティラナはゆっくりと歩を進め、ジェームスの目の前で立ち止まった。
 「まずは、同じ『クイーン』という言葉であっても、主権者たるクイーン・レグナントと、配偶者に過ぎないクイーン・コンソートの違いについて、基礎からお勉強が必要なようね。ジェームス、貴方は義務教育でその歴史と法学を習わなかったの? それとも、高潔なるキャンプトン男爵の手ほどきを、真面目に受けていなかったかしら。随分なサボり魔だったのね?」
 「……へ、陛下……!」
 ティラナの、一切の感情を排した知識の暴力を前に、ジェームスは一気に気圧され、額に冷や汗をにじませた。
 「こ、これは、その……ただのちょっとした痴話喧嘩です! 夫婦とは長くいれば、誰だって喧嘩のひとつふたつするものです。まだ未婚の貴女には、夫婦の生み出すその深い境地までは、理解が及ばないかもしれませんが!」
 少し突いただけで態度が急変し、呆れそうになる。自分の批判したいことに他人を使う性根の悪さ。反吐が出る。腕を組んでジェームスを睨みつけると、彼の目はより怯えを増した。
 「そうかしら? 意見の衝突くらい、私だってするわよ。人間ですもの、価値観の相違があって当然だわ。夫婦である前に、個々の人間なのだから。役割や属性、性別といった型に人格まで縛りつけるのは、相手に期待をしすぎている証拠よ。……ええ、でもそうね。貴方の言う通り、私はまだ未婚で、未熟者ですから? 貴方たちの言う夫婦の深い境地とやらは分からないわ。ジェームス、不躾な口を利いてごめんなさいね」
 ティラナはふっと、無邪気なほど愛らしい笑みを浮かべてみせた。だが、その琥珀色の瞳の奥は、完全に濁りなく冷え切っている。
 「ただ――、一つだけ親切な忠告をしてあげる。貴方が今ここで、奥様に怒鳴り散らしたその言葉……もし、私の婚約者が聞いていたら、どうなったかしら?」
 これは脅しだ。その瞬間、ジェームスの背筋に、氷水を浴びせられたような冷たい戦慄が走った。
 神々しいまでの金髪と青紫色の瞳を持ち、常に底知れない完璧な微笑を浮かべているブリタニアの第二皇子。あの、世界を盤面として弄ぶ巨躯の怪物の顔が、鮮烈に脳裏をよぎる。
 「殿下はね、とても合理的で、何より私のことを大切に思ってくださるの。もし彼が貴方の『王よりも身分が低い、子供が出来たら用済みの種馬』という言葉を耳にしたら……一体、どう解釈すると思う? ――『神聖ブリタニア帝国の第二皇子である私を、カストラリア王室の種馬にする気か』。ええ、きっとそう受け取るでしょうね。彼自身はそう思わなくても、周囲は許さないかも。我が国には寛大な法があるけれど、あいにくブリタニア皇族への侮辱は、国際問題に直結するわ。キャンプトン男爵家ごと、明日の朝にはこの世界から物理的に消え去ってしまうかもしれない。……困ったわね。私、お喋りだから、今夜のディナーの席でうっかり口を滑らせてしまうかもしれないわ」
 「ひ、っ……」
 ジェームスの顔から、血の気が完全に引いていく。唇がガタガタと震え、膝の震えを隠そうと必死に身を硬くした。
 「でも、それじゃあマデリーンもお腹の子も、そしてルーイー叔父様も悲しむわ。だから――これは、私たちだけの秘密≠ノしておきましょう?」
 ティラナはそっと人差し指を自身の唇に当て、悪戯っぽくウインクしてみせた。その姿は可憐な少女そのものだったが、ジェームスにとっては、首元にナイフを突きつけられているのと同義だった。
 「わ、分かりました……っ。失礼します!」
 ジェームスは命からがらといった様子で、大急ぎで回廊の奥へと逃げ去っていった。
 男の足音が完全に消えたのを見届け、ティラナは小さく溜息をついた。しゃがみ込んで、涙を流すマデリーンの肩を優しく抱き寄せる。
 「……この場はなんとか収まったけれど、人の性根というのは簡単に変わるものじゃないわ。マデリーン。また何か問題になりそうなら――婚姻の無効も、視野に入れていいでしょう。まずは別居して、物理的に距離を置くことを提案するわ」
 「でも、ティラナ……我が国はカトリックだわ。教義に反する離婚なんて、教会も、絶対に認めない……」
 絶望に暮れるマデリーンに、ティラナは科学者としての確固たる、そして絶対的な響きを持つ声を返した。
 「教義の問題なら、安心して。単なる性格の不一致ではなく、身体的・精神的な虐待や脅迫といった『客観的な事由』が存在すれば、カトリックであっても婚姻そのものが最初から不成立であったという『婚姻無効』は法的に認められるわ。その時は、証人になってあげる。私の証言を、突っぱねられる教会なんて存在しないわ」
 「ご、ごめんなさい……なにからなにまで……、貴女に頼りっきりで……私、なんて言ったらいいか……。本当に、ダメよね……」
 マデリーンの中には、今後ベルケスが追求されることで食らう社会的バッシングや自分たちの境遇への不安、見通しの立たぬ将来への憂いと、頼ることになるのが被害者であるティラナと王室にあることを深刻に捉えているようだ。これは、彼女の母であるアデリー夫人も同じで、やはり母子だと感じた。
 声を詰まらせて泣きじゃくる従姉妹の涙を、ティラナは指先で、優しく、丁寧に拭った。
 「マデリーン。自分を責めないで。今はただ、新しく生まれてくるその子のことだけを考えて。いい?」
 マデリーンの肩に触れ、ティラナは母性にも似た温かい眼差しを向けた。
 三人目とはいえ、出産を控えて不安でいるところに、彼女は最も信頼を寄せていなければならない、夫の裏切りを味わったばかりだ。
 男たちの下らない野心や偏見から、この小さな命と、大切な家族を守り抜く。そのためなら、自分はどんな冷徹な女王にでも、そしてシュナイゼルの力を借りてでも怪物≠ノならなければならない。


 「……私が種馬だって? ――あははは! おもしろいことを言うね、彼は」
 夜の静寂に包まれた白亜の城の私室。
 豪奢なソファに深く腰掛けたシュナイゼルは、手にしたクリスタルグラスの琥珀色の液体を揺らしながら、心底楽しそうに声を上げて笑った。その屈託のない 笑い声は、まるで上質な喜劇でも観たあとのように軽やかだった。
 「なにを大笑いしているのよ。全然、ちっとも、笑い事じゃないわ、シュナイゼル」
 ワンピースから薄絹のベビーピンクのナイトドレスに着替えたティラナは、ドレッサーの前で髪を梳かす手を止め、鏡越しに婚約者をキッと睨みつけた。
 話題は、その日にあった従姉妹の夫の失態についてである。
 「神聖ブリタニア帝国の第二皇子に対して、あれほど無礼極まる暴言を吐いたのよ? 私は貴方のその、ブリタニア人としての、ひいては皇族としてのプライドが傷つくことを心配して――」
 「いつも私をユニコーン≠ニ呼んでいるじゃないか、貴女は」
 「それとこれとは完全に別よっ! 侮蔑表現と、私なりの親愛を込めた比喩表現との差を理解して!」
 ふん、と頬を膨らませてそっぽを向くティラナの背後に、いつの間にか音もなく立ち上がったシュナイゼルが近づいていた。鏡の中に、彼のスラリとした巨躯が映り込む。
 「その程度で怒ることはないかな、マイレディ」
 「……そもそもあなた、滅多なことではあまり怒らないじゃない。感情の起伏をどこに置いてきたのかしら」
 「そうだね。怒るというのは、エネルギーの無駄遣いだから」
 シュナイゼルはティラナの細い肩にその大きな掌をそっと置き、鏡の中の彼女の琥珀色の瞳を見つめながら、至極まっとうなことを言うように微笑んだ。
 「それにね、ティラナ。彼の言ったことは事実だよ。むしろ、男としては賞賛と受け取るべきでは? ――種馬というのはね、血統、骨格、実績、そのすべてにおいて最高峰に優秀でなければ、決してなれない狭き門なんだから。栄誉ある、選ばれし馬だ。……国家の都合という政治的な理由で、交配相手まであらかじめ決定されている、私たち人間の王族と同じだよ」
 あまりにも筋の通った、合理的で、同時に酷いほどの冷徹な血統主義の論理。
 ティラナは梳かす手を完全に止め、鏡の中から、背後にいるシュナイゼルをじっと睨み返した。
 「……貴女は、馬をただの家畜だと思っているのかい?」
 「そんなわけはないわ。彼らは気高く美しい、人間の良き友よ。でも、今私がしているのは社会通念上の話をしているの」
 シュナイゼルはふっと、その淡い青紫色の瞳に、妖しくも甘い光を宿らせた。
 「私は少なからず、喜んでいるよ。貴女の唯一の、貴女のためだけのユニコーンであることに」
 「っ、シュナ――」
 反論しようとしたティラナの唇は、物理的に塞がれた。
 彼が背後から彼女の身体をすっぽりと抱き込むようにして、その大きな顔を伏せたからだ。
 チュ、チュッと、夜の静寂に生々しく、淫らな音が鼓膜を震わせる。
 ドレスの襟ぐりから露わになった、ティラナの白く無防備な項から、なだらかな肩のラインにかけて、シュナイゼルは容赦なくその唇を吸い付かせ、熱い舌先を滑らせていった。
 「ま、待って、シュナイゼル……! あああ……あのねえ……っ!」
 目を剥いてティラナは、わたわたと溺死直前のように両手を掻き、動揺のあまり声を上ずらせる。彼の胸を押し返そうとしたが、シュナイゼルはそんな彼女の微々たる制止など気にも留めず、皮膚に執拗に吸い付くことを止めようとはしなかった。
 「うん? どうしたんだい、ティラナ」
 「……ちょ、っと、お……。いくら、なん、なんでも、せ、性的すぎるわ……っ? きょ、教会の教義に反するんじゃなくて……っ?」
 「そうかな? ただのスキンシップだよ。婚約者同士の、ちょっとしたね」
 どこまでも涼しげな、澄んだ声。それなのに、首裏を何度も執拗に吸い上げる彼の愛撫は、狂おしいほどの熱と独占欲を孕んでいる。
 ――ああ、もう……!
 ティラナの琥珀色の目は、動脳のあまり鏡の中で激しく泳いだ。
 彼女の華奢な二の腕を、シュナイゼルの大きな掌が、逃がさないように滑らかに愛撫している。心地のよい、丁度いい温度。その熱が肌から脳へと直接染み込んでいき、ティラナの明晰な思考回路をまたしても甘く、徹底的に麻痺させていくのだった。
 愉しげに肩を揺らし、くすりと一笑し「狩りの日のために」とシュナイゼルは言った。
 明後日には狩猟の予定が控えていた。
 そして近づきすぎた距離をふっと引き離し、彼はシャツの上にジャケットを羽織った。あまりにも鮮やかな引き際に、翻弄から落ち着きを取り戻そうと荒い呼吸を整えるティラナは、まだ熱の引かない顔のまま、恨めしい声で「今晩も賭け事をなさるの?」と尋ねた。
 夜の外交戦へ赴く身支度を整えながら、にこやかに彼は答える。
 「人聞きが悪いよ。……いうなれば、明後日への仕込みというのかな」
 毎晩どこかの社交場へ出かけては、深夜未明に戻ってくる。彼の計画では、明後日の狩猟の日が大詰めらしい。
 「……ああ、そうだ。その明後日の夜なら時間がつくれるけど」と、その思わぬ言葉に、ティラナは梳きかけのブラシを握ったまま、暫しの沈黙を置いて核心をついた。
 「……それって、デートのお誘い?」
 問いかけられたシュナイゼルは、鏡越しにティラナの視線をしっかりと捉え、返事の代わりに悪戯っぽく片方の眉を持ち上げた。それが何より確実な肯定のサインであることを、二人はよく知っていた。



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午前四時の異邦人
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