a.t.b.二〇一二 July
カストラリア ヴァルグレイ
ヴァルグレイ湖畔から数キロほど移動した丘陵。濃い緑の森に接する、なだらかな傾斜のついた高原地帯には、伝統的なハンティングウェアに身を包み、電動猟銃を手に練り歩く集団の姿があった。
朝方に一度激しい雨が降ってから、日中にかけてからりと晴れ上がったクリアな空。頭上には、思わず息を呑むほど深く、どこまでも澄み渡った深い青が広がっている。高原の冷涼な空気を震わせるように、猟犬たちの遠吠えが時折、心地よく響いていた。
「気持ちの良い、狩猟日和ですな。陛下」
並んで歩く外務大臣のバーンズが、目を細めて新緑の山並みを仰ぎ見た。ドレスコードに沿った軽快なジャケット姿のティラナは、手元の電動猟銃の安全装置を確かめながら、朗らかに未亡人王后の弟――かつての叔父アルディックの影を振り払うように微笑む。
「そうですね。晴れてよかった。朝のときには予定変更をお知らせしようか、本当に悩んだわ」
「殿下とは勝負をなさるとか」
「あら。もうご存知? そうなの。面白くなるようにゲームをしましょうって持ちかけたら、すっかり乗り気で。もちろん、環境に配慮してよ? ここの行政庁からあとで苦言を頂戴することになるんだから」
ティラナは鈴を転がすように軽やかに笑う。
「それにしても、シュナイゼル殿下は何においては器用でいらっしゃるようですな。てっきりこう――頭脳専門であるかと見縊っておりました」
「意外でしょ? 私もそう思ったもの」
昨日のスポーツ競技においても、シュナイゼルの活躍は目を瞠るもので、鮮やかにチームに貢献してみせた。
明らかに、このヴァルグレイに到着した初日の頃と比べても、カストラリア社交界のなかで彼へ向けられる眼差しは劇的に変わりつつあった。ブリタニアからやって来た第二皇子。カストラリアの軍職者や政治家などの要職者には、すでにその底知れない辣腕ぶりを評価する者はいたが、国家機密や守秘義務の壁から、それは一部の閉鎖的な情報に留まっていた。だからこそ、シュナイゼルがこの夏の戦略のなかで最も重要なパイとして定めたのは、要職者たちの妻や娘たちだったのだ。
男たちが普段公務で接するその家族たちの印象を劇的に変えることこそが、巡り巡って確固たる支持と評価に繋がると、彼は極めて合理的に計算していたのだろう。スポーツを通じてチームに貢献し、淑女たちの些細な相談事にも親身に応じる。決して暑苦しくなく、すべてを卒なくこなすが、けっして高慢な壁を感じさせないソフトで完璧な態度。さらには、最愛の婚約者であるティラナと密に、甘やかな愛情を交わす姿をこれ見よがしに周囲に見せつける。
完璧な皇子と、奇跡の快復を遂げた美しき女王。その二人が織りなす極上のロマンスへの期待と予感は、動揺する臣民たちに「この国は安泰だ」と無条件に信じ込ませる最高の要素を提供していた。
それまで、ティラナが廃人状態であったがゆえに「やむを得ない措置」として容認されていた彼の代理摂政・執政権という立場。それが、彼女の完全復帰後を見据えた上でも、なお「彼こそがこの国に必要だ」とその立場を盤石なものとするために、今年のヴァルグレイでの社交は、政治的に非常に重要な意味を持ちはじめていたのである。
背後で草を踏みしめる音がした。法務大臣のコートニーが反対側のルートからやって来て、ティラナの隣へと並び歩いた。すでにフィールド上を歩いている最中であるため、彼の挨拶は略式に、軽く首を竦めるだけの黙礼に留められた。
「談笑中に失礼いたします、陛下。おはようございます」
「おはようございます、サー・コートニー。一匹目は見つけられそう?」
「それが、まだでございまして……」
法務大臣は言葉を濁しながら、隣を歩くバーンズ外務大臣の顔に向かって、顎を小さく引いて「ジェースチャー」で退くように促した。込み入った内密の話があるのだと察した外務大臣は、特に異議を唱えることもなく、大人の配慮を見せる。
「陛下。私はこの周辺を探りたいと思いますので」
バーンズは小さく別れを告げ、その位置を法務大臣に譲って別の班へと離れていった。
「みんな真剣ね」
ティラナは散開していく男たちの背中を周囲に見渡して、感心するように頷いた。だが、隣を歩くコートニー法務大臣の表情は、晴天の陽光の下にあってもどこか硬い。電動猟銃を握るその指先はわずかに震えており、カストラリアの法秩序を一身に背負う男の苦悩が、その横顔に刻まれていた。
「陛下。今一度、ご確認したい件がございまして。……ああ、例のクーデターの裁判の件にございます」
「ええ。その件がどうかしたの?」
ティラナは歩調を緩めず、前方をまっすぐ見つめたまま応じた。しかし、コートニーは周囲に他の人間の影がないことを慎重に確かめてから、さらに声を潜める。
「……正確には、非公開審理の件についてのお話しでございまして。それが真に、陛下のご意思であるかどうか、確認をしたく……そう思いまして」
前国王夫妻が崩御したあの忌まわしい火災と、実の母の弟であるアルディックが引き起こした凄惨なクーデター。この国の根幹を揺るがした大罪の戦後処理において、最もデリケートな非公開という司法手続き。
その単語が法務大臣の口から飛び出した瞬間、ティラナの琥珀色の瞳が鋭く細められた。すべてを察した彼女は、静かに、だが確信を持って告げる。
「その話……シュナイゼルから聞いたのね?」
「はい。摂政殿下から直接、承っております」
コートニーは正直に頷いた。やはり、とティラナは胸中で小さく息を吐く。自分が廃人状態から奇跡の快復を遂げるまでの間、この国の歪みを一身にコントロールし、裏で司法の根回しまで完璧に済ませていた婚約者の手腕に、畏怖と、それ以上の信頼を抱かずにはいられない。
「詳細については、いずれ特別会議を設けるつもりよ」
ティラナは歩みを止め、コートニーに向き直ると、いたわるような柔らかな眼差しを向けた。
「……貴方には多大な世話を掛けることになるけれど、頼める? 専制君主制から立憲君主制へと移行するこの過渡期において、内閣解散の手続きでただでさえ忙しくなるところに、このような重荷を背負わせてしまって、本当に申し訳ないと思っているわ」
女王直々の、心からの謝意を帯びた言葉。サー・コートニーは深く頭を垂れた。
「拝命いたします、陛下。……しかし、……恐れながら、当件のお話は……真の事でありますか? 叔父君が手を染められたというあの罪状は、本当に……」
法の正義を信じる男だからこそ、提示された非公開の理由があまりにも衝撃的で、信じがたかったのだろう。尋ねるサー・コートニーの目には、懇願するような光すら宿っていた。
ティラナは静かに目を閉じ、そして、残酷な現実をまっすぐに告げた。
「……真実です」
新緑の葉を揺らす風の音が、やけに大きく聞こえる。
「この話が、もし世に流出すれば、この国は終わります。王室の権威も、ようやく手に入れた立憲制への信頼も、すべてが一瞬で瓦解するわ。……では、だからといってすべてを闇に葬り、隠蔽をすればいいの? 被害者の数や関係者の口を完全に塞ぐことが、果たして法の正義かしら? ――真実を歴史に刻むことと、国家の破滅を防ぐこと。どちらのバランスも取った上での、苦渋の判断ということになります」
「そうでしたか……」
サー・コートニーは、胸の奥底から溜まっていた澱をすべて吐き出すかのような、重く深い溜息を吐いた。それは、女王の覚悟の重さを理解し、政府の法務責任者としてその秘密を墓場まで持っていく決意をした男の、諦念と忠誠の混じった吐息だった。サー・コートニーの仕事は最高裁判所長官や検事総長に掛け合うことである。
その時、反対側の生い茂る木々の向こうから、サンプソン産業大臣が足早にティラナの元へと接近してきた。これ以上の司法の深追いを遮るかのような、絶妙なタイミングだった。
「サンプソン産業大臣」
「はい。陛下」
コートニーが苦虫を噛み潰したように口を閉ざすのを横目に、ティラナは歩調を緩めず、産業大臣へと声をかけた。話題を切り替えるように、経済の長としての彼の責任を問う。
「一連の事件において、貿易局内から逮捕者が続出した件、誠に残念でなりません」
「ええ。まことに。局長の引責辞任は免れません。しかし、立場ある者とはそういうものです。替わりはどうにでもなります。機能の問題です。私にしても同じです。ポストに執着する欲がないとは言い切れませんが」
「ふふ。……しかし、どんなものにも適正というものはあります。閣下」
ティラナの言葉に、サンプソンは深く、達観したような笑みを浮かべた。専制君主制から立憲君主制へと体制が変換され、過渡期にあるこの国の歪みを、彼はよく理解している。
「長くその役に留まることは汚職や収賄の温床になりやすい。それが、小さな王をつくりあげてしまう。古い血をろ過し、新鮮な血を巡らせ続けなければ。今この国は二度目の大きな循環を迎えようとしています。新陳代謝です。ですから、陛下が御心を痛めることではございません」
「ありがとう」
「老兵は死なず、単に消え去るのみ」
サンプソンは、被っていたハンチング帽の鍔を指先で摘んでは軽く持ち上げて、にこやかに笑った。
その時、小さな森を挟んだちょうど反対側の斜面から、ワッと大きな歓声が上がった。
「あっ。誰かが捕まえたみたいね!」
「私共も負けてはいられませんな」
サンプソンは電動猟銃を軽く持ち直し、周囲の猟犬たちの動きに目を配りながら、しかしその声のトーンをわずかに落として本題へと切り込んだ。
「ところで陛下にはひとつ、お耳に入れていただきたい話がございまして。経済特区の件でして……所謂対中華連邦政策です」
「話は聞いているわ。南方経済回廊≠ヒ」
「医療機器開発やサイバネティクス分野で、陛下のお力添えを賜りたいとの民間企業からの申し出が届いておりまして」
サンプソンが言葉にした民間企業からの申し出――その真の意図を科学者としての頭脳を持つティラナは、瞬時に正確に掴み取っていた。
周辺国を吸収し、巨大なインド軍州をも内包する隣国・中華連邦。その境界に位置する経済特区内で、もしもティラナ女王主導の最先端医療研究プロジェクト≠ェ公式に立ち上がるとなれば、国際法や国内法の手続きを例外的に飛び越えて、優秀な外国人研究者や技術労働者を大量に受け入れるための完璧な大義名分が立つ。
民間企業の本音としては、カストラリアの南部に最先端の共同医療研究所というハコモノを設立し、そこに自社の優秀な人材や資金を合法的に送り込むための、絶対的な御旗として、人工血液や細胞培養の基礎理論を構築したティラナの名声と権力を、喉から手が出るほど欲しがっているのだろう。
政治と科学の交差点。その盤面を見切ったティラナは、歩みを止めずに小さく頷いた。
「ありがとう。サンプソン。持ち帰って検討するわ。なるべく良い返事ができることを約束します」
一方。小さな森を挟んだ、ちょうど反対側のフィールド。
カストラリア高原の涼風が吹き抜ける草むらの中で、携帯電話の細いバイブレーションが鳴り響いた。
気付いたカノン・マルディーニは、ポケットから端末を取り出し、画面の表示を確認する。視線の先では、主君であるシュナイゼルが、手にした電動猟銃で見事にまた一匹の野ウサギを獲得したところだった。周囲の貴族たちから上がる歓声を背に受けながら、カノンは声を潜めて通話に応じた。
「はい。こちらマルディーニでございます。……はい。……ええ。お二方とも、はい。こちらに……」
電話の向こうからの報告を聞くうちに、カノンの表情がビジネスライクなものから、どこか神妙な、緊迫感を帯びたものへと変わっていく。
周囲からの惜しみない賞賛の掛け声と口笛、そして拍手を浴びながら、獲物から視線を外したシュナイゼルは、鋭くその秘書の異変を察知した。美しい金髪を揺らし、物腰穏やかな歩調のまま、カノンへと近寄る。
「何かあったのかい、カノン」
微笑みを絶やさない、しかしすべてを見通すような青紫色の瞳がカノンを捉えた。
「はい、殿下。……お客様がお越しになっております。予定よりもかなり早い到着のようです」
「客人が? ──替わるよ」
シュナイゼルは手袋を嵌めた手でカノンから端末を受け取り、耳に当てた。その声は普段通り、どこまでも低く心地よい。
「ああ。私だ──」
シュナイゼルが電話の向こうの相手と、簡潔かつ的確な指示を交わし始めたその時。にぎやかな声が、丘の斜面の上から響いてきた。
「あ! みてみて! シュナイゼル〜! 鹿よ 鹿!」
声の主はティラナだった。
血抜き処理を終えたばかりの大柄な鹿の巨体を、数人の屈強な猟師たちが息を合わせて担いでいる。その先頭を、ドレスコードのジャケットを軽快に着こなしたティラナが、少女のようにお茶目な足取りで斜面をタタタと下りてくる。
シュナイゼルは彼女の姿を目にすると、携帯に向かって「一時間後、別荘に戻ります」とだけ告げて通話を切り、端末をカノンへと返した。
斜面の下、木陰に停車している大型トラックの荷台には、本日すでに狩られ、美しく積み上げられている獲物たちが並んでいた。そこへ、猟師たちの手によってティラナの獲物が厳かに加わる。
それは、見事な枝ぶりの立派な角と、新緑の木漏れ日を浴びてキラキラと輝く、特徴的な鮮やかな白い斑点を持つ個体だった。世界で最も美しい鹿と称される、アクシスジカの雄──まさに、今日の狩猟の最高の成果――トロフィーにふさわしい、見事な大物であった。
シュナイゼルはトラックに歩み寄り、その見事な獲物を検分するように目を細めた。
「立派なアクシスジカだね。見事な腕前だ」
シュナイゼルに褒められて、ティラナは得意げに鼻を鳴らした。
「ふふん。でしょう? 今晩も豪勢なパーティーになりそうね。スパイスをふんだんに使ってローストにしてもらうの。ジンジャーエールで乾杯よ! それからね、この子、本当にお顔が素晴らしく良いから、剥製にするわ」
ティラナは満足げに腰に手を当てて笑う。カストラリアの伝統において、狩るばかりではなく、その命を食肉として余すことなく消費し、自然の恵みに感謝することは極めて重要な義務でもあった。
その日の夜は、昨日のクリケットの試合でも使用した、青々とした芝生が広がる広大なフィールドを利用して、盛大なガーデンパーティーが予定されている。
シュナイゼルは、彼女の言葉に楽しげに片眉を上げた。すでにヴァルグレイの別荘には、リビングルームや応接間にも、歴代の立派な鹿の剥製が飾られている。飾るに相応しい部屋といえば。
「ダイニングルーム用かい?」
「ええ、ダイニングルーム用よ。あそこの壁の空いているスペースにぴったりだと思わない?」
無邪気に語る婚約者の愛らしい様子に、シュナイゼルはふっと柔らかな笑みを漏らした。しかし、先ほどのカノンからの報告を思い出し、彼女の肩にそっと手を添えて、促すように歩き出す。
「それは素晴らしい。ディナーがますます楽しみになったよ。……さて、ティラナ。獲物の手配は彼らに任せて、私たちは一足先に別荘へ戻ろうか。少し、急ぎの用ができてね」
「あら、お仕事かしら? ええ、分かったわ」
ヴァルグレイ湖畔を臨む、白亜の城──カストラリア王室の別荘となる離宮へと戻ると、城の重厚な正門の前には、すでに数台の最高級リムジンが静かに停車していた。
車外では、長旅の疲れを微塵も感じさせない、圧倒的な品格を纏った人々が二人、出迎えを待つように佇んでいる。
ひとりは、スイスより遥々この地へと到着した、クイーン・マザー・カタジナ。九十代後半という高齢でありながら、その背筋は美しく伸び、纏うオーラはヨーロッパの正統なる古い血脈そのものの重みを感じさせる。そしてもうひとりは、ドイツより訪れたヴィルヘルム皇太子。欧州のパワーバランスの中心に位置する、若き大国の正嫡である。
車を降りたティラナとシュナイゼルが歩み寄ると、カタジナは、若き女王に向かって、深く、完璧な格式をもって膝を折り、カーテシーを捧げた。
「カタジナおばあさま……」
ティラナは困惑とともに足を止めた。物心がつく頃から最後に会った時まで。年に一度顔を合わせる母方の偉大なる元王妃。彼女に対して膝を屈めることはあっても、その逆はないと信じてきた。カタジナの背後。白亜の城の玄関の白い柱の影から、見覚えのある従姉妹の顔を発見した。
「セラフィナ――」
セラフィナ・ド・アルディック。
そして、カタジナの傍らで胸に手をあて首を竦める男。ドイツ皇太子、ヴィルヘルム。――彼らの目的と、その嘆願にティラナは女王の役割を期待されていることにそっと緊張の息を吐いた。
「おばあさま。遠路遥々ようこそお越しいただきました」
「ご快復されたと聞き及んで、会いに来なければと思ったの。女王陛下」
「女王陛下≠セなんて……」
ティラナの戸惑いを孕んだ声は、高原の冷涼な風にかき消された。
かつては祖母と孫として抱擁を交わした間柄。しかし今、カタジナが捧げた完璧なカーテシーは、二人の関係が「血縁」から「国家元首同士」という残酷な政治の舞台へ引きずり出されたことを意味していた。
カタジナの傍らで、ヴィルヘルム皇太子が芝居がかった仕草で肩を竦め、流麗なブリタニア語で言葉を添える。
「カストラリアの奇跡の女王に、欧州の最高齢たる薔薇が頭を垂れる。……実に見事な光景だ。お初にお目にかかります、ティラナ陛下。ドイツ帝国のヴィルヘルムです。貴女の美しき快復を、我が父、そしてドイツ国民も心から祝福しておりますよ」
「ありがとうございます、ヴィルヘルム殿下。……それに、おばあさまも。どうかお顔を上げてください。旅の疲れもおありでしょう、立ち話も何ですから、中へ」
ティラナは努めて毅然とした女王の微笑みを浮かべ、二人を白亜の城へと誘った。
だが、その視線は否応なしに、玄関の白い大理石の柱の影に佇む、もう一人の人物へと向かう。セラフィナ・ド・アルディックの方へ。
あの忌まわしいクーデターを引き起こし、前国王夫妻を殺害した叔父アルディックの娘であり、ティラナにとっては血を分けた従姉妹。喪服を思わせる黒いドレスに身を包んだ彼女は、怯えたような、同時に縋るような哀切の瞳でティラナを見つめていた。
――サロニア公事件――やはり、そのための直訴なのね。
母方の曾祖母にあたるカタジナが、なぜこの過渡期のカストラリアに、ドイツ皇太子という巨大な外圧を伴って現れたのか。そのパズルのピースが、ティラナの明晰な頭脳の中で瞬時に噛み合っていく。
叔父アルディックが捕縛され、今まさに法務大臣コートニーの手によって非公開裁判の裏回しが行われているこのタイミング。アルディックの血脈であり、欧州の古い貴族たちとも深く繋がるサロニア公一族の存亡を賭けて、彼女たちはカストラリアの新たな主権者であるティラナに、身内としての慈悲≠ニ政治的な恩赦≠求めに来たのだ。
ゴツ、と背後から静かな足音が近づき、ティラナの背中に世界で最も頼もしく、同時に婚約者の気配が寄り添った。
「スイスからの高貴なるクイーン・マザー、そしてドイツの輝かしい正嫡をお迎えできたこと、ブリタニア帝国≠代表しても歓迎いたしますよ」
シュナイゼルはいつもと変わらぬ、春風のように穏やかな微笑みを浮かべ、カタジナとヴィルヘルムに完璧な一礼を返した。一切の動揺も、容赦もない。
「さあ、すぐにお二方と、……そちらの美しいお嬢様にも、お茶の用意を。ヴァルグレイの夏は、日陰に入ると少々肌寒いですからね」
シュナイゼルはさりげなくティラナの腰を抱き寄せ、自らが盾となるようにして一同を白亜の城へとエスコートした。
一階の手広な応接間に、活けられたばかりの桃色の薔薇が芳香を放っている。
最高級のロココ調のソファに、カタジナ王太后とヴィルヘルム皇太子が並び、その対面にティラナとシュナイゼルが腰掛けた。白のウィンブルに黒ベールを重ねて被るセラフィナは、カタジナの椅子の後ろに、罪人のように俯いて控えている。
従者が淹れた紅茶の湯気が静かに立ち上る中、最初に仕掛けたのは、九十代後半の老女傑、カタジナだった。彼女は細く震える手でティーカップに触れもせず、琥珀色のティラナの瞳をじっと見つめた。
「ティラナ。……いいえ。陛下。私が今日、老骨に鞭打ってこの地を踏んだ理由は、ただ一つ。我が一族の、そして貴女の母方の血脈の灯火を、これ以上泥に塗れさせないためです」
カタジナの声は掠れていたが、信じがたいほどの威厳が籠もっていた。
「アルディックが犯した大罪は、万死に値します。それはよく分かっております。……ですが、サロニア公をはじめとする残された一族、そしてこの不憫なセラフィナには罪はありません。どうか……どうか、彼らの爵位と財産の没収だけは免じていただきたいのです。これは、カストラリア王室の、古い血の誇りを守るための戦いなのです」
情に訴えかける曾祖母の言葉。セラフィナが後ろで小さく、押し殺したような声を上げて泣き崩れそうになる。ティラナの胸に、かつて共に遊んだ従姉妹への情が、チクリと刺さった。
しかし、ティラナが口を開くより早く、隣のシュナイゼルがくすりと優雅に笑った。
「素晴らしい身内への愛だ、クイーン・マザー。……ですが、ドイツのヴィルヘルム殿下がわざわざそのお付き添いとして同席されているということは、これは単なる『親族の哀願』ではない、と受け取るべきですね?」
シュナイゼルの視線が、ヴィルヘルムへと向けられる。サロニア公事件でもっとも蚊帳の外である者の同席。事情を通しているということは、カタジナとの間で交渉事があり、何某かの条件を呑んでいるということだ。カタジナの孫の中の一人がドイツに嫁いだ。ヴィルヘルムはティラナ同様、曾孫にあたる。
ドイツ皇太子は、待っていましたとばかりに、極上の、しかし酷く計算高いにやけ面を浮かべた。
「さすがはブリタニア出身の摂政殿下、お耳が早い。……ええ、我がドイツ帝国しても、サロニア公の領地や、……そのルーツを遡上したポニャトフスキが、欧州全土に持つ経済的パイプが、カストラリアの『内政問題』として一括りに解体されることには、いささか懸念を抱いておりましてね。過渡期にあるカストラリアの法秩序が、あまりに急進的な血の新陳代謝を行うことは、関係国の不安を煽る。……そうは思いませんか、ティラナ陛下?」
ヴィルヘルムの言葉は、明確な脅迫だった。揺さぶりといっていい。
ティラナは、ヴィルヘルムの青い瞳を見つめ返した。
サロニア公事件をカストラリア側、そして後ろ盾のブリタニアが厳しく処罰しすぎるなら、ドイツをはじめとする血を因む関係国は、カストラリアへの経済支援や、先ほどサンプソン産業大臣が言っていた南方経済回廊≠フ特区構想に対しても、外交的な揺さぶりをかける用意がある――そう言外に告げているのだ。
古い血脈の執念と、欧州大国の野心が結託し、快復したばかりの若き女王を盤面ごと押し潰そうとしていた。
応接間に、張り詰めた沈黙が流れる。
ティラナはごくりと息を呑み、己が今、一人の少女ではなく一国の女王としての選択を迫られていることに、背筋が凍るような緊張感を覚えていた。
「ヴィルヘルム殿下。……貴殿とその大国が危惧する理由も承知しています。……サロニア公の領地、資産の扱いについて考えて参りました。……爵位については残念ながら剥奪せざるを得ません。これは示しをつけるためです。剥奪と除籍をすることで、ベルケス公の名誉が保たれます。……資産等々は王室の管理化に置き、国庫接収を防ぎます。その資産が今後、貴国の言う欧州全土の経済パイプ≠ニして正しく機能し、カストラリアの新しい経済特区の繁栄に一〇〇%貢献するという保証を、ドイツ帝国、ならびにヴィルヘルム殿下、貴方個人が担保してくださるなら……というのはいかがでしょう?」
ティラナの恐るべき切り返しに、隣に座るシュナイゼルは、いつも通りの穏やかな微笑の裏で内心、深くほくそ笑んでいた。
――見事だよ、ティラナ。君は本当に私の想像を遥かに超えてみせる……。
サロニア公の資産をカストラリア王室の私産として保護しつつ、ドイツ帝国とその皇太子個人を、新しい経済特区の公式な連帯保証人として引きずり込む手腕。先ほどまで優位に立っていたはずのヴィルヘルムは完全に笑みを消し、その端正な青い瞳の奥に、屈辱と警戒の入り混じった薄暗い影が掠めた。ただの病上がりの、お飾りの若い女王だと高を括っていた相手から、一歩も引けない致命的なしっぺ返しを食らったのだから。
張り詰めた沈黙の後、ヴィルヘルムは皮肉げに唇の端を吊り上げた。
「お手並み拝見のつもりだったのだが……なかなかの腕前のようだ、女王陛下」
「ブランクはありますが、これでも話し合い≠ノは慣れていますから」
ティラナは琥珀色の瞳でまっすぐにヴィルヘルムを見つめ返し、小気味よいほど不敵に微笑んでみせる。かつてノエルとして、あるいは幾多の顔を持って修羅場を潜り抜けてきた彼女にとって、この程度の舌戦はむしろ本領発揮の舞台だった。
「さすがは弱冠十二歳までに数々の基礎理論を構築された、博士号を三つ持つ学術出身者だ。一味違いますな」
ヴィルヘルムは白旗を上げる代わりに、彼女の輝かしい過去の経歴を引き合いに出して肩を竦めた。しかし、ティラナはその程度の牽制で矛を収めるつもりは毛頭ない。上品に組んだ膝の上で指先を絡め、さらに一歩、優雅に踏み込んだ。
「それで、お返事はいかがですか? ──もちろん、先ほど殿下が仰った欧州全土に持つ経済的パイプ≠ニいうお話が、その場しのぎの出任せであったのなら、これ以上無理に咎めることはいたしませんけれど」
今度は、シュナイゼルの真似をするかのような、底の知れない甘い毒を含んだ微笑。
出任せだったと認めて大国のメンツを丸潰れにするか、それともティラナの用意した呪いの檻≠ノ自ら足を踏み入れるか。ヴィルヘルムに遺された選択肢は、最初から一つしかなかった。
「……はっはっは! いやはや!」
一瞬の静寂の後、ヴィルヘルムは降参したようにソファーの背もたれに体を預け、豪快に笑い声を上げた。その笑いは、己の敗北を隠すためのものであり、同時にティラナという新たな怪物の誕生を歓迎する外交官の笑いでもあった。
「いやはや、驚いた。カタジナの血は、確かに次の世代へ継承されているようですね、おばあさま。……いいでしょう。一度吐き出した言葉を引っ込めるほど、私は器の小さい男ではございません。……お約束いたしましょう。ドイツ帝国、ならびにこのヴィルヘルム個人が、サロニア公の資産が貴国の特区繁栄に貢献することを担保する」
ヴィルヘルムはティラナを睨み据えるように見つめ、その不敵な笑みを深くした。
「……これでよろしいですか? おばあさま。それと、……そこなお嬢さん」
ヴィルヘルムから話を振られ、頷くカタジナの椅子の後ろで息を潜めていたセラフィナは、弾かれたようにびくりと肩を揺らした。情けと慈悲に対して、喪に服すような姿のまま、彼女はすぐに椅子から立ち上がり、床に額が届かんばかりに深く頭を下げた。
「感謝……感謝いたします、陛下。ヴィルヘルム殿下……」
蚊の鳴くような震える声で紡がれた従姉妹の謝辞。桃色の薔薇の花弁がひらりと一枚落ちる。淡く柔らかな午後の光の射し込む応接間に、重く、切なく響き渡った。