a.t.b.二〇一二 July
カストラリア王国 ヴァルグレイ
暮れなずむヴァルグレイのサルビアブルーと白亜の城。その一角で催されているカクテルパーティーは、華やかな喧騒と、心地よい熱気に包まれていた。
今宵の宴は格式張った晩餐会ではなく、身軽な立食式(ビュッフェ)のスタイルが採られている。会場のあちこちには純白のクロスがかけられた円卓が配置され、その上には宮廷お抱えのシェフたちが腕を振るったケータリングの料理が、美術品のように美しく陳列されていた。
手軽につまめる彩り豊かなサンドイッチや、香ばしく黄金色に焼き上げられたチキン。そして何より目を引くのは、カストラリアの豊かな山々で行われた、今日の狩猟の成果たる野生肉を用いたメニューの数々だった。厳選されたハーブとスパイスで煮込まれた鹿肉のシチューや、芳醇な赤ワインソースを纏った兎肉のローストが、招待客たちの食欲と知的好奇心を大いに刺激している。
よく磨かれたクリスタルグラスを片手に持ったティラナの周囲には、いつしかブリタニア帝国から訪れているアッシュフォード卿をはじめとした、名だたる高位貴族たちの輪ができていた。
極上の琥珀色の瞳を輝かせ、お酒を嗜みながら談笑するティラナに、貴族の一人がおもむろに、今もっとも熱い最先端技術──すなわち、人型自在戦闘装甲機――ナイトメアフレームの話題を振る。
「現在、私共が進めているプロジェクトですが……陛下、ご興味はございますか?」
差し向けられた問いに、ティラナは悪戯っぽい笑みを傾けつつグラスを揺らした。
「ええ。先ほども少しお話ししたけれど、今日の狩猟の時にね、サンプソン産業大臣から研究方面でのフォローを頂けないかと、直々にお話しがあったの。私個人としては前向きに考えたいのだけど……せっかくの機会ですもの。ここにお集まり頂いている皆さんのお話しを、まずは伺おうと思ったの。構わないかしら?」
人を惹きつける愛嬌ある態度で、一国のトップとして意見を広く求めんとする女王の言葉に、周囲の貴族たちは一斉に姿勢を正し、恭しく一礼した。
「勿論にございます。陛下」
その声を代表するように、一歩前へ出たのは初老の紳士、アッシュフォード卿だった。シャツに薄手の重すぎないココア色のベストが柔らかく印象づける。自ら開発した第四世代KMF『ガニメデ』によって、ナイトメアの歴史にその名を不滅のものとした男は、穏やかな、しかし開発を牽引した者としての強い矜持を宿した声で語り始める。
「a.t.b.二〇〇〇年初頭、民間の義肢技術──人体を補助するためのフレームであったものが、現在のナイトメアフレームへと飛躍を遂げるきっかけとなりました。その後、戦闘の歴史とともにKMFは前線利用に向けての開発が本格化いたしましたが……本来の用途は、戦場におけるバックアップ、即ち人命の救護や作業支援がメインであったはず。私たちは、その基本を忘れてはならないと私は考えております」
かつて人工血液や細胞培養薬品の基礎を築いたティラナにとって、アッシュフォード卿の医療・人命補助の延長線上にナイトメアがある≠ニいう福祉的思想は、人々に還元するノブレス・オブリージュ的価値観であり、深く首肯できるものだった。彼女は感銘を受けたように微笑む。
「さすが、ガニメデの生みの親であるアッシュフォード卿が仰ると、言葉に重みと説得力がありますわね」
ティラナが贅沢な称賛を送ると、その言葉を呼び水にするかのように、周囲の空気が一変した。
会話の端々から漏れ聞こえる「ナイトメアの基本設計」と「生体工学」の融合という極めて高度なテーマ、そして何より女王ティラナ自身の深い造詣に惹かれるように、会場にいた人々が吸い寄せられていく。
一人、また一人と、歓談の足を止めて歩み寄ってくる。
気がつけば、高名な医学者、冷徹な軍事研究者、最先端の工学者、そして現場を知り尽くした一線のエンジニア達が、吸鉄石に引き寄せられる砂鉄のように、ティラナを中心とした大きな輪を形作っていくのだった。
過渡期にあるカストラリアの、そして世界の技術の未来が、今まさに彼女の琥珀色の瞳の奥で、静かに交錯しようとしていた。
喧騒の響く屋外のパーティー会場から離れたサンテラスには、夜の心地よい風が吹き抜けていた。
テーブルの上には、大振りのグラスに注がれた特製の炭酸飲料が置かれている。搾りたてのライムの爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、ひとくち口に含めば、舌の上に鮮烈な酸味が響く。強烈な炭酸が喉を突き抜ける瞬間は、まるで心地よい電流のような刺激を五感にもたらしてくれた。
その清涼感とは対照的に、シュナイゼルとヴィルヘルムが挟むチェス盤の上では、静かで冷徹な思考の応酬が繰り広げられている。
カチリ、と硬質な音を立ててシュナイゼルがナイトを動かした。
「また腕を上げられましたね」
「はっはっは! ──最初に手合わせしたのは……僕がルーヴェンフェルス城を訪ねた時だったか。ちょうど君が御母上に連れられていらっしゃっていたところでね、お手合わせ願うことになった」
「そうでしたね。懐かしい」
ふたりの共通言語は重く力強いドイツ語であった。微笑みを絶やさぬまま、シュナイゼルは盤面から視線を上げずに問いかける。
「時にヴィム……。君は、スペインのアレシア王女を娶るとか」
ヴィムとはヴィルヘルムの愛称だった。濃密なはっきりとした金髪を上げ、額を曝け出した三十路に届きそうな紳士は、祖父譲りの紺碧の瞳を盤面から真向かいの青年に向けた。
「おばあさまが言いふらしたのか? あの人に秘密という文字はないからね、歩く拡声器だ。……ああ、いや、失礼。サロニア公の件に関しては、しっかり秘密を守っていたが。あの人もその辺りの線引きと良識は最低限持ち合わせているようだ」
「ふふ、疑っていませんよ」
ヴィルヘルムは呆れたように肩を竦め、黒鷲の紋様が刻まれた金環の光る指でポーンを進めた。
「今回の仲人はおばあさまでね。その点で、僕らは彼女の顔を立てなくちゃいけない。……今日僕がここに来たのも、まあ、それもおばあさまの企みだろう。せめて自分が棺桶に入るまでは、この社会の枠組みを維持して欲しい≠ニいうのが、あの人のご希望さ。古い人なのは、お許し願いたい」
シュナイゼルは眉を上げた。否定も肯定もその中になかった。
「なるほど。……では、こちらの本題に入りましょうか。私の方は、サロニア公の一人娘――セラフィナ嬢を預かるのに加え、ベルケス一家の安全を保証する。その代わりに──」
「ああ。……それで、うちが引き受けよう。我がドイツと私がね」
ヴィルヘルムは炭酸のグラスに手を伸ばし、喉を鳴らして潤すと、傲然と不敵に笑ってみせた。
「――幸い、うちの国には城がいくらでもある。たんまりとね。知っての通り、ドイツには四万近くあるんだ、どうにでもなるさ。亡命の手配から渡航、向こうでの生活の面倒なんかはすべてこちらで都合しよう。……ただ、召使いくらいは自分たちでどうにかして欲しいがね」
「ええ、彼らにはそう伝えておきます」
二人の間で、一族の命運が信じられないほどの迅速さで処理されていく。ヴィルヘルムはチェス盤に視線を戻し、クイーンに指をかけた。
「――と……僕と君がこうして交渉成立するところまで、おばあさまは最初から見越している。……ここまでは想定の範囲内だ。……さて、次は?」
「……次、ですか。……ヴィムのお願いを聞くこと、かな?」
「そう。ここからは、僕のお願いを聞いてもらう番だ」
ヴィルヘルムが視線で促した先──白いサンテラスの向こうでは、ティラナを中心にアッシュフォード卿や大勢の技術者たちが熱い議論を交わしているのが見えた。
「……ちょうどあちらも、随分と盛り上がっているようだ」
「そのようですね」
「ところで、陛下の研究の調子はいかがかな?」
「彼女はまだ療養期間中でね。あれでも、自力で起き上がって動けるようになったのはここ数ヶ月の話です。私から急かすようなことは一切していないのですよ」
むしろ療養するように引き留めることの方が多い。
「つまり、研究は停滞期というわけか」
ヴィルヘルムの青い瞳に、抜け目のない政治家の光が宿る。彼はチェス盤の横に控えていた従者に目配せし、ライムのグラスを下げさせると、代わりに琥珀色のブランデーが注がれたクリスタルグラスを二つ用意させた。
「──ならば、うちにも噛ませろ、と言ったら?」
「ほう?」
主語がなかったが、シュナイゼルには言外に察してくれるよな?≠ニヴィルヘルムの目つきは物語っている。
「現在のE.U.は中華連邦と仲良しこよしだ。……お宅(ブリタニア)としても、西欧の内情を探る内偵が欲しくはないか? 我がドイツはカストラリアと同じようなものだ。完全なる中立とはいかないが、それに似たような立ち位置は取れる」
ヴィルヘルムの、事実上の最先端医療・技術特区への参入要求≠ナあり、同時にブリタニアへの有益な外交カードの提示。
シュナイゼルは受け取ったブランデーのグラスを軽く揺らし、その芳醇な香りを楽しみながら、静かに目を細めた。
「それはティラナ次第だね。……しかし、おそらく彼女はイエスと言うだろう。カストラリアの現研究員の多くは、ドイツからの亡命者や移民の子孫だ。彼女にとっても、貴方がたの参入を反対する要件がない」
「それじゃあ、ほぼ決まりってことで。交渉成立だな」
ヴィルヘルムが満足げに笑みを深め、グラスを差し出す。
シュナイゼルもまた、その穏やかな微笑みのままグラスを傾け、チリン、と澄んだ音を立てて、ブランデーの入ったグラスを互いに打ち鳴らした。
「経済特区の話に関連して、今後が益々楽しみになるわ」
並み居る医学者やエンジニアたちに囲まれる中、ティラナは手に持ったグラスを傾けながら、熱っぽく語った。その琥珀色の瞳は、未来の技術がもたらすカストラリアの躍進を確信している。
一通りの技術的議論が一段落したところで、ティラナは輪の中にいたアッシュフォード卿へ、殊更に親しみを込めた眼差しを向けた。ここからが、彼女が本当に切り出したかった本題でもあった。
「アッシュフォード卿。……この活況を、単なる一時的なお祭りに留めておくのはあまりに惜しいと私は考えているのだけど」
「と、いいますと? 陛下」
アッシュフォード卿は興味を惹かれたように、手にしたグラスを掲げて促した。ティラナは周囲の専門家たちをも巻き込むように、言葉を紡いでいく。
「今回の経済特区が軌道に乗ることは、まず間違いないでしょう。いわば国策ですもの、失敗などあってはなりませんし、させるつもりもありません。……ですが、問題はこれを一過性のブーストで終わらせておきたくはない、ということ。これほどの技術と資本がカストラリアに集まる奇跡的な機会を、一時的な利益だけで消費してしまっては意味がないわ。……そうなると、次に必要なのは何だと思う? ──そう、後進の教育よ」
「後進教育、ですか」
「ええ。どれほど優れた最先端の設備や理論があろうとも、それを扱い、発展させていく人≠ェいなければ、技術は瞬く間に老い、廃れてしまう。この国で優れた頭脳を育て、循環させるシステムを今から作らなければならないの」
ティラナの言葉に、アッシュフォード卿は小さく目を見張った後、深く感銘を受けたように大きく頷いた。自身も技術者であり、同時に貴族として次世代を育てることの重要性を痛感している彼だからこそ、その言葉の真意が誰よりも響いたのだろう。
「なるほど……。ならば陛下、どうやら私共にも、微力ながらお力になれることがありそうですね?」
「ええ、大いにあるわ。アッシュフォード卿、私、貴方の進められている教育事業の方にも、並々ならぬ興味がありますの」
ティラナはまるで、素晴らしいおもちゃを見つけた子供のようにお茶目に、しかし絶対の信頼を寄せるように微笑んだ。
アッシュフォード卿は、その若き女王の揺るぎない先見性と、自分に向けられた知的な期待に胸を打たれ、その端正な顔に深く、満足げな笑みを深めた。
「光栄の至りに存じます。では陛下、我がアッシュフォード家が培ってきた教育のノウハウ、そして未来の技術者を育てるための理想の学舎の構想について……少しばかり、お話しさせていただいても?」
「ええ、是非聞かせてちょうだい」
華やかなパーティーの片隅で、過渡期の国家を支える「未来の頭脳」を育てるための、壮大な教育プロジェクトの種が、今まさに二人の間で芽吹こうとしていた。
サンテラスの向こう。大勢の学者やエンジニアたちの中心で、ひときわ眩い知性の光を放ちながらアッシュフォード卿と語らうティラナの姿を、二人の男は遠目に眺めていた。
そこへ、トレイに新しく色鮮やかなカクテルを載せたカノンが、軽やかな足取りで片手にグラスを持ってやって来た。ガラス越しに見える会場の熱気を感じ取りながら、彼はふっと艶やかな笑みを漏らす。
「あちらは随分と賑やかですわね」
カノンの言葉に、シュナイゼルは視線をティラナに留めたまま、愛おしそうに細められた青紫色の瞳に深い満足感を浮かべた。
「いよいよ、彼女の本領発揮だね」
我が事のように誇らしげに語る婚約者の横顔を見て、ヴィルヘルムはくすりと鼻で笑った。そして、手元に視線を戻すと、指先でつまんだ白のルークを、チェス盤の乾いた音とともに滑らせて一手を進める。
「──では、こちらもそろそろ、本領発揮といこうか」
ヴィルヘルムが置いたその駒は、シュナイゼルの陣形を鋭く切り裂く、実に挑戦的な位置に据えられていた。経済特区への参入という巨大な実利を勝ち取り、さらに盤上でも牙を剥く大国の皇太子。
シュナイゼルは盤面を見下ろし、その洗練された一手に、心から楽しそうに喉を鳴らした。
「いい手だ」
ブリタニアの天才から引き出した最大の賛辞に、ヴィルヘルムはにやりと、極上に不敵な笑みを顔いっぱいに浮かべた。
ヴァルグレイの夜風が、二人の知性がぶつかり合うサンテラスを静かに吹き抜けていく。ガラスの向こうの華やかな未来の光と、手元の盤上に広がる冷徹な世界の縮図。そのどちらもが、彼らの掌の上で激しく、そして優雅に躍動していた。
喧騒のなか、気もそぞろに落ち着かぬ、真夜中に差し掛かろうというヴァルグレイ湖畔ホテルの三階では、眠りの神は扉の前で足踏みをしていた。
窓の外に広がるのは、幽冥の境界を濁す、朧な月影が揺蕩う広大なヴァルグレイ湖。煩わしい湿気とは無縁の、換気のために開けた窓からは涼風が絶え間なく吹き込んでくる。
正式に今年から招待を受けるようになった、アッシュフォード家一行が滞在しているのは、ホテルの三階に位置する贅沢なファミリー用のコネクティングルームだった。内部で二つの広い部屋が行き来できる構造になっており、一室はさらに使い勝手の良い各個室へと仕切られた、最高級のVIP仕様である。
この由緒ある建物は、もともとはカストラリア王室が所有する膨大な別荘の一つであったが、現在はあの世界的なホテル王、フランツ・フォン・セレニタスが買い取り、至高のリゾートホテルとして運営しているものだった。王室の歴史を感じさせる重厚さと、現代最高峰のホスピタリティが融合した室内は、非常に居心地が良い。
静まり返った廊下を歩きながら、部屋の主たちが小声で言葉を交わす。アッシュフォード卿と彼の息子の声だった。
「ミレイたちは眠ったかな」
「ええ、さっきニーナちゃんと一緒に、大人しくベッドに潜り込んだよ。長旅だったから、さすがに疲れたんだろう」
ボソボソと誰にも聞こえないような音の小ささで、ふたりは会話を続けた。小さなローテーブルの上に置かれた水入りのグラスを手にし、アッシュフォード卿は一息に呑み下した。
「まさか陛下がご感心を示されるとは思わなかったが」
「……なかなか見どころのある方のようだ。ソフトで、パワフルで……民主的だ。実際に、階級がないわけではないが」
息子――アルフレッドは堪えきれず喉を鳴らして笑った。酔いを醒まそうと父に倣い、グラスに水差しから注いで水を飲んだ。
「ブリタニアよりは可能性はある?」
アルフレッドの問いは、貴族の保障を確実なものとしたその先。この国でやっていけそうか、将来への見通しを期待しているものだった。
「大いにあるだろう。この国が数々の落ちこぼれを拾い上げてきた意味と、その繁栄と根拠を身を持って実感することになろうとはな」
鼻息がかった笑みを漏らし、アッシュフォード卿は目の下に青い夜の陰をつくった。
この国で貴族であることは、安穏とはしていられないことを意味する。立憲君主制への過渡期。まだその頂点の力は凄まじい。王にその気があれば実際のところ戦争さえも可能であり、憲法で縛り付けるには力を持ちすぎている。余りある力を時間を掛けて解体し、下々へとパンを配るように削ぎ落していく仕事が、二代目の女王の仕事といえた。長年それは彼女の療養生活で放置されて、それどころかある金融事件により、却って力を増すことになったが。
「土台は先王が造り、実現は当代女王が為すだろう」
「憲政史上最初の女王、か。貴族のなかには旧態依然と歴史的な迷信に縛られている者も多いが、ブリタニア人からすれば化石的価値観だ」
「それをあまり表立って、言いふらさぬようにな。角が立つ」
アルフレッドは「とんでもない」と肩を竦めた。
「シュナイゼル殿下のお引き立てが無ければ、それこそ私たち一族が泥舟で沈むところであった。……第二皇子殿下の顔に泥を塗らぬように」
わかっている、とアルフレッドは深く息を吐く。
「ここでは、摂政殿下だ」
と間を置かず父に補足し、アッシュフォード卿は「まもなく、王配殿下だ」と断じた。
「輝かしい帝国。ブリタニアの歴史的偉業を挙げるなら、この見せかけの美しい統治≠セろうな。かつてのインド統治には適わないだろうが……」
そうして、話の行き着く先は、小さな自覚的な罪へと向かった。
「……それで、父さん。例の件は、勘付かれていないよな?」
それまでの自信に満ちた口ぶりから一転、アルフレッドの声色に弱さが滲む。罪悪感。もしくは、疚しさに怖気づいたもの。
「……ああ。なに、そう怯えることではない。……何度か、話し合いを重ねたが殿下にご帰国の意志はない。いっときはお前の提案で切り札にすることも考えていたが、……ブリタニアで返り咲くよりもこちらで真剣に進めていくほうが堅実ではないだろうか?」
「……それは……」
言い淀んだ。アッシュフォード卿よりも、アルフレッドは野心家といえた。生まれた頃にはすべてが上手くいっていたし、その地盤も誇りも、ブリタニアンイズムの価値観から醸成された気質は、カストラリアでも上手くいくはずだが、やはり昨日今日で生まれ育った帝国を手放し、再出発するには未練が残る。
「……極東事変のどさくさ紛れてお二人の殿下を保護し、未だ本国にも申し伝える機会を失っているのは……私の良心からいって問題ではあるが」
アルフレッドは父の言葉に小さく呻いた。
当初、第十一皇子と第十二皇女を保護すること自体は、善良な意識からだった。薨去した第五皇妃マリアンヌの遺児を救うことは、騎士道精神からいって素晴らしい物語になる。そのまま本国へ行き、窮地を助けたと子供たちを皇室へ返り咲かせるだけでも、アッシュフォード家の窮状を解決する糸口にはなったであろう。
「あの時、殿下は……ルルーシュ殿下は、……日本に、エリア十一に残りたいと仰せになった。……深い理由についてお話ししてくださることはないが。我々が無碍に扱う理由もまたない」
「……では、いつお話しする?」
アッシュフォード卿は、親指と人差し指で眉間を摘み揉んだ。アルフレッドの野心の種火はまだ燻っているが、父の方針に逆らえば路頭に迷うことは避けられないだろう。
「……当件を、丸く収められる人がいるとしたら……女王陛下だけであろう。シュナイゼル殿下の異母御兄妹であらせられる」
「まるで母親に頼る子供のようだ」
「得てして、この国の貴族は総じて子供≠セ。事実、財産分与の最中なのだから」
父の言葉にアルフレッドは失笑した。
「幸いなことに、好機は巡ってくるだろう」
「……と、いうと?」
「エリア十一視察も検討すると、仰せでね。女王陛下は……教育事業へのご関心があり、それをカストラリアの教育事業にも活用できないかとお考えのようだ」
「……なるほど」
アルフレッドは父の言いたいことを汲み取った。エリア十一訪問が叶えば、ふたりの皇子皇女の保護を女王に託せるかもしれない、ということだ。
長く静かな話し合いは断片的で。扉越しにはくぐもって不明瞭な響いている。
父と祖父のやり取りが終わりを迎え、寝室の隣の部屋でパタン、と重厚な木製のドアが閉まり、大人たちの気配が去っていく。
その瞬間、完全に明かりが消されていたはずの寝室のベッドの中から、もぞもぞと二つの人影が這い出してきた。金髪を揺らしたミレイ・アッシュフォードが、扉の鍵穴から繋がった隣室の様子を窺い、声を潜めて隣の少女に呼びかける。
「行った?」
丸みを帯びた逆台形の眼鏡の奥の瞳を不安げに揺らしながら、おそるおそる耳を澄ましていたニーナ・アインシュタインが、頼りなげに頷いた。
「足音が……遠ざかっていくから、もう行ったかも……?」
「よし! それじゃあ、作戦決行よ。いくわよ、ニーナ!」
ミレイはパッと掛け布団を跳ね除けると、パジャマ姿のまま楽しそうに拳を突き上げた。そのあまりの素早さと迷いのなさに、ニーナは慌てて引き留めようと手を伸ばす。
「あっ。ミレイちゃん……お、お留守番だって言われてるし、見つかったら怒られちゃうよ……?」
「大丈夫、大丈夫! せっかくこんな綺麗で賑やかな夜なんだから、ちょっとくらい楽しまなきゃ損じゃない! 私たちの夜は、まだまだこれからよ!」
アッシュフォード家の令嬢らしい奔放さと、持ち前のお転婆な行動力を発揮するミレイに手首を引かれ、ニーナは困ったように、けれどどこか嬉しそうに頬を染めて後に続く。
ガラス窓の向こう、遠くに見えるサルビアブルーと白亜の城から漏れ出る明かりと、そこから下がった場所にあるこのホテルの庭は、夜半過ぎにもかかわらず活気に満ちている。大人たちの華やかな世界の余韻を感じながら、二人の少女だけの秘密の夜ふかしが、今静かに幕を開けようとしていた。
サルビアブルーと白亜の城のリビングルームは、柔らかな光に満ちた空間だった。無垢のマンゴーウッドを使用したゴールデンブラウンのローテーブルの上には、パーティーの戦端が開かれる前からずっと、勝負を持ち越しにしたまま対局を続けているチェス盤が置かれている。
そこへ、カクテルパーティーでの熱弁を終えたティラナが戻ってきた。興奮状態がまだ冷めやらないのか、その美しい白皙の頬には、ほんのりと朱が滲んでいる。
「シュナイゼル〜ただいま、……あら、ヴィムもまだいたの?」
ドレスの裾をわずかに揺らして入ってきた婚約者に、ヴィルヘルムはチェス駒を指先で弄びながら、不敵に唇の端を上げた。
「女王陛下。チェスというのは元来長丁場なものです。……それに私は今日、ここに滞在して、明日はお忍びで観光にでも行く予定にしておりましてね」
「バカンスね! だったら寺院がおすすめよ。ペマ・ラカンなら、歴史的にも見ごたえがあるんじゃないかしら」
ティラナが目を輝かせて提案すると、ヴィルヘルムはふっと鼻を鳴らした。
「ガイドブックで見た。メルカッサの北部にあるところだろう。……だが、僕としてはね……誰でも観光可能な名所ではなく……、ドゥム・カ・ヴァイに興味があるのだが」
「ドゥム・カ・ヴァイに?」と、ティラナが首を傾げる。
「あそこは重要文化財だ。それも王室の私有地の。……確か、極上の曼荼羅を所有しているはずだろう?」
ヴィルヘルムの言葉に、ティラナはふっと目を細めた。
「なかなかマニアックな目の付け所ね。お忍びの観光なんて建前で、こっちが本命かしら?」
「あれほどの至宝だ、博物館に出展はしないのかい?」
「貸し出すこともあるわ。……随分と、昔の話になってしまうけれど」
「それなら好都合だ。近々ベルリンのギャラリーで、大規模な展覧会を考えている。そちらに招待したいと言ったら、どうする?」
ヴィルヘルムの言葉に、ティラナはくすくすと喉を鳴らした。
「あら。ヴィムって、意外と美術系に明るいのね」
「帝王学における教養の範疇さ」
「ふうん。……まあ、貸し出し料によるわね」
ティラナの容赦ない現実的な切り返しに、ヴィルヘルムは苦笑してシュナイゼルに視線を向けた。その隙を突くように、ヴィルヘルムは盤上のルークを鋭く進め、シュナイゼルの陣形へ攻撃を仕掛ける。
「君の彼女は、なかなか打算的だ」
しかし、シュナイゼルは表情ひとつ変えず、くつりと小さく喉を鳴らして笑った。
「ふふ……」
刹那、シュナイゼルの指が白のナイトを弾くように動かした。それはヴィルヘルムの奇襲を完璧に見切り、逆に退路を断つような、圧倒的な強勢の一手。
チェス盤の上に鋭い音が響くと同時に、ヴィルヘルムが思わず天を仰いで声を上げた。
「ああ! ──素晴らしいところだったのに。相変わらず堅いな、君は」
ティラナが楽しそうに盤面を覗き込む。
「……あはは! なかなか健闘しているじゃない、ヴィム。シュナイゼルったら、こういう時は絶対に手加減をしないんだから」
「この哀れな男に慈悲を、女王陛下! ──で、さっきの曼荼羅の話はどうなんだい?」
ヴィルヘルムににやりと笑って促され、ティラナは少し考えるように顎に手をあてた。
「そうね……貴方がここに滞在する日数を延ばせるなら、いいわよ。ヴァルグレイからドゥム・カ・ヴァイに行くついでに、見せてあげるわ」
「よし、いいだろう。交渉成立だ。……どのみち、こちらへ亡命させるベルケス公との最終的な話し合いも予定している。多少の予定のずれ込みも致し方なし。この、独身最後の夏を自由気ままに過ごすさ」
「独身最後の夏……」
ティラナはその言葉を、無意識に唇の中で繰り返した。
「ご存知のように、僕は来年式を挙げる予定だ。君たちがなかなか挙げないもんで、こちらが先を越していいかどうか少々迷ったが……うちはうちの都合で進めさせてもらうよ」
「どうぞ、お気になさらずに」
シュナイゼルが穏やかに言葉を返したが、ティラナの思考は別の場所へと囚われていた。
胸の奥に引っかかったのは、彼がもうすぐ結婚するという事実そのものではない。もっと、内面的な強い既視感──。
独身最後の夏。……昔、どこかでそんな言葉を耳にしたことがある……、と。
それは、湖の底から気泡が上るような、ささやかで、けれど無視できない違和感だった。ティラナでない空白の時間のどこかに埋もれてしまった記憶。ヴァルグレイで過ごす夏はこんなことばかりが続く。言葉から記憶へ。得体の知れない、泥水の下を探っている。
思案するティラナがソファに進むために通りすがった瞬間、ほんのりと甘いアルコールの微香を鼻腔に感じたシュナイゼルは、静かに盤上から視線を逸らした。
ティラナはそんな視線にも気づかぬまま、すぐそこにある特等席──、一人掛けのふかふかとしたソファへと向かい、背後を気にすることもなく、お尻からぼすんと音を立ててだらしなく体重を預けた。
シュナイゼルはチェス駒を置き、その愛らしい婚約者を覗き込むようにして目を細める。
「……随分と、飲んだのかい?」
「ん〜……ちょびっとだけよ。ほんのちょっと。……ほろ酔い、きぶん……。ちょっと今日はお喋りしすぎて、今になって酔いが周ってきたみたい。……私が、お酒に弱いとか、そういうんじゃないわ。きっと」
ふにゃりと眉を下げて弁明するティラナの様子に、シュナイゼルはすべてを察して、あたたかな苦笑を漏らした。
彼は控え立つ侍女に視線で合図を送り、すぐに冷たい水の入ったグラスと、優しく熱を冷ますための保冷剤を用意させると、それをそっとティラナの前に差し出したのだった。
カチ、カチと静かに時を刻む柱時計の針と数字は、すでに日付を越えて深夜の領域を指し示していた。
シュナイゼルは手元の白のキングをそっと盤上に休めると、穏やかに視線を上げた。
「そろそろ時間だよ」
「ああ、こんな時間まで付き合ってもらって感謝するよ。……新婚未満の若い二人を邪魔をするほど、私は野暮な男ではないさ」
ヴィルヘルムはすぐにソファから立ち上がり、シュナイゼルの手を力強く握った。
「良い夜を」
シュナイゼルが微笑みとともに告げ、ふと盤面に目を落とす。
「棋譜を記録しておくかい?」
「またお手合わせ頂けるなら、是非とも」
シュナイゼルは口角を上げ、満足げに小さく頷いた。
ヴィルヘルムがスマートにリビングを辞していくのを見送ると、白亜の城の一室には、途端に親密な静寂が滑り込んでくる。シュナイゼルは、一人掛けのソファで保冷剤を律儀に頬に当てている愛らしい婚約者へと振り返った。呆れたような、それでいて限りなく優しい眼差しを彼女に注ぎながら、ゆっくりとその距離を詰めていく。
「さあ、ティラナも。もう休もうか」
「……まだ眠らないわ」
差し出された大きな手を拒むように、ティラナはソファの背もたれに体を押し付けた。
「お利口な瞼が下がっているよ」
「下がってないわ。……だって今夜は……デートするって、約束したじゃない」
不満げに口を尖らせると、ぷくーっと不器用に頬が膨れていく。お喋りをしてアルコールが全身に回ったせいか、第三者の抱く理知的な女王としてのイメージからは想像もつかないほど子供っぽく、甘えるような仕草だろう。
シュナイゼルは一瞬だけ驚いたように目を見張り、それからこれ以上ないほど甘やかな、敗北の苦笑を漏らした。
「……そうだね。約束は守らなければ」
彼はティラナの小さな手を引き、そっとソファから立ち上がらせた。ふらつく身体を大きな腕で支え、周囲の従僕たちにも下がっていい≠ニ目配せで人払いを済ませる。大人たちの夜の社交が完全に幕を閉じた城の勝手口から、二人は静かに湖畔を包む森へと抜け出した。
真夜中の静寂のなか、ヴァルグレイ湖にひっそりと灯りが顔を出す。
足元のソールに置いたランタンの灯りが、小舟に仄かな影を宿す。
人目を忍んで連れ出した小舟を、シュナイゼルが静かに湖へと漕ぎ出すと、鏡のような水面に幾重にも波紋が広がっていった。
周囲には、他には誰もいなかった。冷涼な高原から送り込まれる夜風が吹き抜け、水が小舟の腹に打ち付けては広がり、また寄せ合い、月光の煌めきと湖底の濃密な暗色が複雑に絡まり合っている。
ティラナは膝を抱え、水面を見つめながらぽつりと言った。
「懐かしいわね。前にもこんな風に、舟でふたりっきりだったのを思い出したわ」
「最初の夏だよ」
シュナイゼルは櫂の手を止め、記憶の引き出しを開けるように目を細めた。
「……あなたのお披露目の夏だった」
「それが、最後の夏にならなくて本当によかった」
深い実感を込めたシュナイゼルの言葉に、ティラナの胸が小さく高鳴る。シュナイゼルは櫂を片手に固定し、もう片方の手を優しく差し伸べた。
「こちらへおいで」
出会ったあの頃は、自分の腕の中に収められてしまうほどの小さな少年だった。だが、今この舟の上で、もうすぐ身長二メートルに達する彼が少しでも大きな動きをすれば、それだけで転覆してしまいそうだ。ティラナはその物理的な事実に妙に納得してしまい、くすりと笑いながら、そっと重心を揺らさないようにシュナイゼルの方へと体を寄せた。
岸から離れるにつれ、ホテルの喧騒も、人工的な電気の輝きも、すべてが世界の果てのように遠のいていく。
ティラナはシュナイゼルを背にして座り、その広い胸元へ、自然な動作で頭を預けた。トクトクと、彼の背中から伝わる規則正しい鼓動が、心地よく耳に響く。
「……ここ数日で、本当に色々なことがあって……。こうしてあなたといると、ようやく一息つけるわ」
「よく頑張ったね、マイレディ」
「あなたほどではないわ。……サー・コートニーの手回しだって、裏で完璧に話を通してくれていたみたいだし」
「おや、余計なことをしたかな?」
僅かに笑みを深めて、ティラナは首を捻った。
「いいえ……。必要な仕事を、必要なだけ……的確にこなしてくれているわ。私はいつも、あなたに助けられてばかりね。頼りっぱなしだわ」
愛おしさが昂ずるように、シュナイゼルは背後から抱きしめる腕に力を込め、ティラナの柔らかな頬にそっと羽が浮くほどに軽やかにキスを落とした。
その体温の温もりに浸りかけた刹那、シュナイゼルの声音から、ふっといつもの穏やかな温度が消え失せる。
「……あの男に」
シュナイゼルがそう低く切り出した瞬間、腕の中にあるティラナの肩が僅かに跳ねた。
それが彼女にとってどれほどの恐怖の対象であるかを知りながらも、シュナイゼルはその動揺への気遣いを敢えて一度捨て置いて、冷静沈着に真っ直ぐに核心を続けた。
「あの男に、会いたいかい」
言葉を詰まらせたティラナの呼吸が、夜の空気の中に消える。長い、長い空白が舟の上を支配し、ただチャプン、と切ない水音だけが周囲に響いていた。
シュナイゼルはただ静かに、彼女が心の深淵から言葉を汲み上げるのを待っている。
「……会いたいか、会いたくないかなら、……絶対に会いたくない」
ティラナは自分の膝の上で拳を固く握りしめた。
「だけど、……すべての決着をつけるには、一度会う必要があると思っているの。……どうしても、確かめたいこともあるから」
その緊張を解きほぐすように、シュナイゼルは彼女の、櫂を握る手に自身の大きな手をそっと重ねた。包み込むようなその手の温かさに、ティラナの強張った指先がわずかに弛緩する。
「……確かめたいこと?」
一拍の静寂ののち、彼は静かに尋ねた。
「……これを、あなたに言葉で説明するのはとても難しいの。……あの男は、あの地下神殿の前で、私に強烈な催眠術をかけたわ。術があまりに強力で、私はそれまでの経緯も、その後に起きたことも、すべてを忘れてしまった。……あの男は稀代の催眠術師よ。……どうしてだか、彼の言葉を聞くと、どんな命令だって逆らわずに聞き入れてしまうの。……あのひとが、あの時私に最初に命じたのは忘れろ≠セった。……私は、その命令の通りにすべての記憶を忘れて≠オまった」
ティラナは声を震わせながら、脳裏に明滅する断片的な光景を言葉に紡ぐ。
「……それが、なんだか、今になっても完全には治らないみたいなの。こうして関連する話を聞いたり、関係する人に会ったりした時にだけ、接点が復活するみたいに、なんとなく不意に思い出せるようになるだけで……」
シュナイゼルはその奇妙な、しかしあまりにも残酷な説明を聞きながら、ティラナが廃人から二度目に目覚めたあの日、散歩と称して二人で足を踏み入れた、あの薄暗い洞窟の光景を鮮明に思い出していた。
崩落しかけた古い岩肌、這うように伸びる苔、そしてその奥に眠っていた、異様な秘教の気配を孕んだ古代神殿の静寂。
ティラナは、失われた記憶の糸を手繰り寄せるように、宙を見つめて語り続ける。
「あの神殿の奥深くでね……私は、実験用のモルモットだったペレット二世≠追いかけていった。……そうしたら、偶然、隠された扉が開いた。──彼は、そこを見ていたのよ。アルディックは。……はじめはね、きっと私がペレットの死骸でも見て悲しむ顔を面白がって見にきたはずだったの。でも、ペレットは死んでいなくて、籠から脱走していただけだった。私がそれを追いかけていった後ろを、あの男は尾行して……そして、目撃してしまったのよ」
ティラナの背中に、冷たい汗が伝う。
「すべてが正気に戻ったとき、彼は自分がその場所を見られたことを慌てて隠蔽しようとして……私に『忘れろ』と言って、あの呪いのような催眠術をかけたんだわ」
シュナイゼルの淡い色の瞳が、深い闇のように据わった。
「扉の向こうには何があったんだい?」
「……すべてを見たわ。……でも、この話を今、あなたに話していいのか分からない。お父さまが生前、お母さまにさえどこまでそれを伝えていたのか、私には分からないから……」
深い秘密の淵を覗き込むような沈黙のなか、シュナイゼルはティラナを抱きしめる腕に、さらに狂おしいほどの力を込めた。世界の秘密を背負う彼女のすべてを自分のものだけにしたいという、昏い衝動が彼を突き動かす。
「……不安で、恐ろしく……そして妬ましいな」
唐突なその告白に、ティラナは驚いて耳を澄ます。いつも完璧で、何事にも動じないブリタニアの第二皇子が、掠れた声で己の歪んだ内面を吐露するなんて。
「君という存在に深く関わって、初めてその気持ちが本当の意味で理解できたよ」
「シュナイゼル……?」
「一度芽生えたその感情は、ずっと胸の奥で続いて……片時も頭から忘れられなくなる」
ティラナは彼の胸の中で少しだけ身をよじり、その美しい顔を見上げた。夜の闇の中でも、彼の瞳は恐ろしいほどに透き通っている。
「……そこに、喜びはないの?」
「それは、貴女が私に教えてくれるものだよ」
真剣味を帯びた眼差しに、ティラナは咄嗟に冗談めかして笑った。
「喜びを? ……ふふ、シュナイゼルにとっての喜びって、一体なに?」
シュナイゼルはティラナの琥珀色の瞳をまっすぐに見つめ、その形の良い唇を妖艶に歪めた。
「貴女に、生涯、私の存在を忘れられないことだよ」
その独占欲に満ちた言葉に、ティラナは一瞬呆気にとられ、やがて降参したように微笑んだ。どんなに冷徹な策略家であっても、自分に向けるその一途な執着だけは、あまりにも純粋だと知っているから。
「……本当に、時々子供みたいに無垢な目をするわね、私の大きな$a士さん。……ちょっぴり、体が大きすぎる気もするけれど」
「そんな大きな紳士からのお願いだ。誕生日プレゼントが欲しいと言ったら、くれるかな?」
「……今? なんにも持ってないわよ、この両手には。微量のアルコールで少し熱くなった、指先くらいしかないわ」
「いいや。持っているよ。君は私に与えてくれるものを、すでに十二年分も持っている」
「どこにもないわよ、そんなもの」
「あるさ。ここに」
シュナイゼルが彼女の手をとり、自身の胸へと導く。薄い衣服越しに、彼の力強く、そして少しだけ早鐘を打つ心臓の鼓動が熱く指先に伝わってくる。それは間違いなく、ティラナという存在だけが動かせる彼の本音だった。
「ちょっと……、おかげで眠気が完全に吹き飛んだじゃない。しゅな──」
シュナイゼル──と、その名を最後まで呼び切る前に、ティラナの唇は優しく、しかし有無を言わさぬ強引さで遮られた。言葉はすべて甘く深い口づけの中に絡め取られ、湖の底よりも深く沈み込んでいく。
「んん!? ……っふ、ん……、……! んーっ!」
あまりに濃密で容赦のない抱擁に、ティラナは息を詰まらせ、またたく間にその琥珀色の瞳にじわりと涙を浮かべた。
ようやく唇が離されると、シュナイゼルは悪戯が成功した少年のように微笑んだ。
「ふふ。……我慢できなかった」
「もう……!」
ティラナが乱れた呼吸を整えながら、恨めしそうに唇を拭う。そんな彼女を愛おしそうに見つめ、シュナイゼルはその極上の容貌に、どこまでも甘い笑みを浮かべた。たった数日で過激になっていく愛情表現に、そろそろティラナは悪態をつきたくなったが、唇が動き出す前に、また、彼は呼吸をするかのように吐息を奪い去った。
深夜の静寂に包まれたホテルの廊下を、ミレイとニーナは息を潜めて通り抜け、とうとう夜のホテルを抜け出していた。冷涼な夜風に身を震わせながら、岸辺の茂みの陰へと身を隠す。
二人がそこから何気なく湖畔を臨んだ瞬間、その視線は凍りついたように釘付けになった。
深い夜のブルーに染まる水面の上、ぽつりと浮かぶ一隻のボート。
そこには、現実のものとは思えないほど美しい、二人の男女の姿があった。
男の広い胸を背もたれにするようにして、女が心地よさそうに寝そべっている。先ほどまでの熱い抱擁の余韻に包まれながら、彼女は今度こそ安心しきったように、深く健やかな眠りに落ちているようだった。
長身の麗しい見目の男は、彼女が目覚めてしまわないようにそっと、額へ、こめかみへと愛おしそうに口づけを落としていた。それも、一度や二度ではない。まるで宝物を慈しむように、小鳥が啄むみたいに。執拗に、何度も、何度も。
月光を浴びて淡くきらめく金髪。理想化された人体の美しさとその象徴。古代ギリシャの美術彫刻のように、気品に満ちた造形の良い顔つき。世界的な超有名人であり、市井の人間がお目にかかることなど滅多にない神聖ブリタニア帝国の第二皇子。だが、このヴァルグレイの地において、彼はすべての主催者であり、ただ一人の女性のためだけに存在する恋人だった。
年頃の少女が、少し背伸びをしてハイティーン向けの恋愛小説を読むとして、もしも物語の中のような完璧な男性が実在するのだとしたら──。
目の前の光景は、少女に夢を与えるどんなフィクションよりも、遥かに刺激的で、官能的で、そして美しかった。
本物のプリンスとプリンセスが一隻の舟の中、お互いだけの世界に深く夢中になっている。それはまるで、凡俗の人間が決して目にしてはならない、神秘的な秘密の逢瀬のようだった。
一度きりの人生の中で、彼のような至高の男性に愛されたいと願う、世界中のあまたの女性たちの希望。その途方もない羨望のすべてが、今、腕の中で眠るたった一人にのみ向けられている。そしてその至上の喜びは、激しい陶酔ではなく、彼への絶対の信頼がもたらす、健やかで穏やかな眠りによって表現されていた。
「……ミレイちゃん」
ニーナが、か細く震える声で小さく隣の少女の袖をくい、と引いた。
「……え、ええ」
ミレイの口からも、それ以上の言葉が出てこなかった。ただ息を呑み、胸の高鳴りを抑えることしかできない。
とんでもないものを。世界の特等席にある美の深淵を見てしまった──そんな気分にさせる、背徳的で、けれどどこまでも純粋な愛の形が、そこにはあった。
その時だった。ボートの上の男が、夜の静寂に溶ける微かな気配か、あるいは少女たちの熱い眼差しを敏感に察知したかのように、その美しい顔の方向を、ゆっくりと岸辺の茂み側へと変えた。
そして、完璧な容貌にそっと艶やかな笑みを浮かべ、端正な唇の前へと、綺麗に伸びた人差し指を立ててみせたのだ。
静かに=Aあるいは二人だけの秘密に=Bそんな大人びた、悪戯っぽいメッセージを含ませた合図。少女たちの心臓が、跳ね上がるように大きく鳴った。
「……シュナイゼル?」
その視線の動きに気付いたのか、腕の中で微睡んでいたティラナが、ふと小さく彼の名を呼んだ。
ボートの中で、彼の広い胸に頭を預けたまま、上下逆さまの視界で互いの顔を見合わせる。ティラナが微かに揺れる白い指を彼の頬にかけると、シュナイゼルは視線を少女たちから愛しい婚約者へと戻し、それに応じるようにして愛おしげに首を下げた。
さらりと流れた金色の稲穂のような髪が、宵闇の中、月光下で、二人が再び交わす甘い口づけの瞬間を、世界のすべてから隠すように覆い隠してしまった。