金羊毛、相遇えし







 未だ運命の濁流に呑み込まれるよりも遥か昔、世界がもっと単純で、平穏な輝きに満ちていた幼き日の夢だった。
 頭上に広がる漆黒の夜空には、まるで傲慢な神々が撒き散らした鱗粉のように、無数の星々が瞬いている。見慣れたヒマラヤの巨大な稜線が夜の闇を圧迫することもなく、肺を締め上げるような凍てつく空気もない。世界の中心と言わんばかりの、低く、広大な空。それはカストラリアの濃い紫の夜とは異なり、どこまでも深く、吸い込まれそうな藍色の夜だった。星々の光は粒のように小さく、寝ぼけ眼を何度擦ってみても、輪郭はぼやけたまま滲んでいる。
 その声は、執拗なほど穏やかに、ティラナの意識を眠りの水底から引き揚げようと呼びかけていた。
 
『やあ』

 深く沈殿していた意識の澱みに、一本の細い釣り針がひっかかったような感覚。それが心細い手応えを残しながら、するすると浮上していく。

『やあ。お姫さま』

 完全に覚醒しきらない視界の真上に、ひとつの黒い影があった。それは耳に心地よい、柔らかな子供の声だった。

『……殿下?』

 ティラナは小さな拳でゴシゴシと目元を擦った。眠りに落ちる直前まで、難解な論文の書き仕事をしていたせいか、網膜にはまだ酷い疲労が残っている。視界はまるで温泉の湯けむりのように白く霞み、目の前に佇む少年の輪郭を曖昧にぼやかしていた。
 自分を揺り起こしたのは、婚約者であるシュナイゼルだろうか。彼女は薄手のネグリジェの裾をそっと摘むと、冷たい床に足をつけ、しなやかな身のこなしでゲストルームの豪奢なベッドを降りた。
 部屋の重厚な扉は、なぜか最初から微かに開け放たれていた。その隙間からは、この世のものとは思えないほど青白い、冷徹な月の光が室内に射し込んできている。部屋の外、そのすぐ眼の前には、広大なウィルゴ宮殿が誇る美しい内庭が広がっていた。
 少年の影は、完全に手入れの行き届いた、幾何学的な庭の迷路の闇へと、誘うように消えていった。
『どこー? 殿下……、シュナイゼル〜……!』
 夜の冷気がネグリジェを透かして肌を刺す。ティラナは入り組んだ生垣の迷路を、少年が残した微かな足音と気配を頼りにがむしゃらに駆け抜けた。足音はゆっくりと、しかし確実にすぐ近くから聞こえてくる。
『追いかけっこなんてしたら、もう一回眠れなくなっちゃうわ!』
『こっちだよ。こっち』
 闇の向こうから、愉しげな声が鼓膜を揺らす。
『はやく、おいで』
『……あなたって実は足が早いのね? 驚いたわ。……はぁ……さすがに、疲れちゃった、はあ……』
 ようやく迷路を抜け出たティラナは、満開の白薔薇に埋め尽くされているガゼボを見つけ、その白く短い石段に座り込んだ。ドレスの裾が乱れるのも構わず、すらりと伸びた真っ直ぐな脚を投げ出す。
 月のない夜。その庭に落ちる影は、上空の藍色よりも遥かに暗く、底知れない鮮やかな黒によって占められていた。
『……シュナイゼル?』
 石段のすぐ近くに佇む人影を見上げ、ティラナは怪訝そうに首を傾げた。
『あっ……あなた、シュナイゼルじゃなかったの? びっくりしちゃった。てっきり……ううん……こんな真夜中に、こんなところで何をしているの? 迷子? きょうだい……ん? あなたって皇族……じゃあないわよね? ウィルゴ宮殿に出仕しているとか?』
 しかし、言葉を重ねるうちに、ティラナの背筋を奇妙な戦慄が駆け抜けた。その少年が全身から醸し出している、圧倒的な気品。そしてこちらを真っ直ぐに見つめてくる、わずかに赤みがかった、妖艶な紫の瞳。その色合いは紛れもなく、神聖ブリタニア帝国の高貴なる血脈――皇族の証に他ならなかった。もっとも目を惹くのは豊かに波打つ金色の長髪。全身を覆い包み隠してしまいそうなほどの毛量。黒地に金の髪飾りも合わさって、その形はまるで羊のようだ。愛らしさを裏切るような、幼い顔立ちには、その実年齢に到底見合わないような、完成された大人の色気が危うく香り立っている。
『……か、隠し子……?』
 自身のあまりに失礼極まりない想像がそのまま口から飛び出し、ティラナは慌てて、ぱっと両手で自らの唇を塞いだ。
 しかし、冷静になってみれば、それもなんだかおかしな話だった。仮に彼が皇帝の隠し子だとして、そのような日陰の存在が、この広大なウィルゴ宮殿の内庭を、我が物顔で悠然と闊歩できるはずがない。第一、皇帝の妃となるような女性はみな、帝国でも最高位の権力を持つ貴族出身者ばかりだ。それなのに、このような真夜中に出歩くなんて。躾がなっていないという点においては、夜中にネグリジェ姿で迷路を走り回っている自分もお互い様のような気がしたが。
 少年はティラナの狼狽を前に、ふっと妖しく、しかし酷く美しく微笑んだ。その口元の歪め方、視線の外し方には、不思議と見覚えがあった。婚約者になったばかりのシュナイゼルに驚くほど酷似している。その事実が、彼女の中で彼はシュナイゼルの弟で隠し子なのだろう≠ニいう、最も収まりの良い結論を補強してしまっていた。

 一方その頃、同じゲストルームのベッドで眠っていたはずの少年シュナイゼルは、いつの間にか隣から消え失せている少女の温もりを探すように、静かに目を覚ましていた。彼はベッドから小さな身体を滑り降ろし、彼女の姿を求めて宮殿の庭へと歩みを進める。
『ティラナ?』
 やがて、彼はガゼボの階段に座り込む彼女の元へと辿り着いた。青白い夜の庭は、満開を迎えた白薔薇の濃密な芳香に満たされ、月の光を浴びた緑の葉は瑞々しい光沢を帯びている。
 長いワンピースのような寝間着の裾からは、少年の白い両脚が覗いていた。まだ幼いシュナイゼルは、一見すると少女のように愛らしい容貌をしており、その声もまだ高い。視線の高さも、今のティラナとほとんど変わらない位置にあった。一生のうちに、ほんの僅かな間だけ訪れる、少年と少女の境界が曖昧な両性≠フ期間。当時のティラナには、目の前の華奢な少年が、将来二メートル近い誰よりも大きな体躯を持つ男性へと成長することなど、微塵も想像できるはずがなかった。
『ラヴァトリーはあっちだよ』
『……あ、殿下? ……お手洗いじゃないわ』
 シュナイゼルの的外れな指摘に、ティラナは不満げに口を尖らせた。しかしそう答えた直後、彼女は急激な違和感に襲われる。
『私……さっきそっちの……』
 ティラナは白薔薇の生垣を振り返りながら、「その子」と言いかけた。
 しかし、彼女が差し出した視線の先には、誰もいなかった。冷え切った夜気だけが、白く煙るガゼボの空間を虚しく満たしている。最初から何もかも、少年の姿形さえこの世界に存在することを許されていなかったかのように、あまりにも完璧な、無がそこには広がっていた。 

「……夢でも、視ていたのかしら」
 彼女は自分の白い掌を見つめ、ぽつりと呟いた。
 夜の静寂が、まるで現実の輪郭を削り取っていくかのように肌に冷たい。自分がさっきまで、一体どうやってこのガゼボまで歩み出てきたのか、そしてここで誰と何をしていたのか。その直前の記憶が、水面に落ちたインクが薄まるように霧散し、どうしても思い出せないことに気づいたのだ。捉えようとすればするほど、記憶の核心は砂のように指の隙間から零れ落ち、ただ白薔薇の濃密な芳香だけが、彼女の鼻腔に狂おしいほどの現実感をもって残されていた。
 爽やかな朝の光が、歴史ある宮殿の大きな窓から容赦なく主寝室へと差し込んできた。
 豪奢な織物のカーテンはすでに大きく開け放たれており、眠気を含んだ瞼の上から、鋭い純白の陽光が突き刺さる。ティラナは小さく呻き声を上げ、シーツの擦れる音を響かせながら、ゆっくりと時間をかけてベッドの上でその身体を起こした。
「……へんな夢……?」
 まだ完全に覚醒しきらないぼやけた声で、今しがた脳裏から白み始めていく夢の景色を必死に追いかけ、ぼそりと呟く。藍色の夜、白薔薇の迷宮、そして自分を呼んだあの少年の、赤みがかった紫の瞳――それらが朝の光に洗われ、急速に幻影へと還っていく。
 そのとき、重厚な扉を静かに叩く規則正しい音が室内に響いた。
 気配を察した侍女たちが、主人の朝の支度に取り掛かろうと、物音を立てずに数名で主寝室へと入ってきた。洗練された所作で新しい衣装や湯を運んでくる彼女たちの動きは、この王宮における完璧な日常そのものだった。
 ティラナは促されるままにベッドを離れ、夢の残滓を振り払うようにして、鏡の前で朝の身支度へと入った。
「おはよう。ティラナ。よく眠れたかい」
 不意に背後からかけられたのは、聞き慣れた、しかしこれ以上ないほど耳に心地よい低音だった。
 鏡越しに視線を向ければ、そこにはいつも通りの穏やかな微笑みを浮かべたシュナイゼルが佇んでいた。まばゆい朝光を浴びた金髪が眩しくきらめき、その長身は優雅な佇まいのまま、部屋の空気を一瞬にして統治していく。
 その声に、ティラナはふと、髪を整えさせていた足を止め、自らの手を挙げて侍女たちを一度下がらせた。
「……おはよう。……ねえ、シュナイゼル」
 彼女は振り返り、壁際に佇む、今や見上げるほど長身となった婚約者を真っ直ぐに見つめた。夢の断片が、どうしても彼女の胸を焦らせていた。
「あなたって、ご兄弟はいる?」
 その唐突な質問に、シュナイゼルは一瞬だけ、不可解だとでも言いたげに美しい眉間に僅かな皺を寄せた。
 ティラナは彼のその微微たる反応を、帝国に皇子や皇女が大勢いることくらい、今更何を言っているんだ≠ニ呆れられているのだと受け取り、慌てて言葉を訂正しにかかった。
「あ、そうじゃなくて……たくさんいるのは知っているのよ。常識中の常識じゃない。そうじゃなくて……、あの……同じお母さまから生まれた弟がいるかどうかって質問よ」
「……ティラナ」
 シュナイゼルの口から漏れた声は、普段の彼からは想像もつかないほど硬く、どこか明確な否定のニュアンスさえも含んでいた。それはまるで、彼女がまた、何か国家を揺るがすような大切な記憶を失ってしまったことを、心底残念がっているかのような響きだった。
「何を思い出したんだい?」
 やはり彼の様子がおかしい。咎めるように、そしてわかりやすく声には尋常ならざる力がこもっている。自分が何か決定的な地雷を踏み、失敗を広げてしまったのだとティラナが瞬時に理解したときには、すでに彼女の身体は、シュナイゼルの長い腕の中へと強引に招き入れられていた。
「えっ? ……ああ……の、どうしたの?」
 困惑のあまり、掠れた裏声がティラナの口から漏れる。彼の厚い壁のように頑強な胸、ちょうど鎖骨のあたりに顔を押し付けられる形になり、完全に身動きがとれなくなってしまった。
 シュナイゼルの衣服からは、仕立ての良さを物語る清潔なサボンの香りと、肌を整える保湿クリームの微香が、生地を越えて優しく鼻腔を擽ってくる。彼は今朝、すでにシャワーを浴び終えたのだと何となく察した。しかし、これほど優秀な男が質問に対してすっぱりと回答を拒み、強引に抱きしめてくるということは、実の弟に関係する何か重大な不都合≠自分から隠したがっているのではないか。ティラナの直感が、鋭くそう告げていた。
「……な、何か辛いことを思い出させた? それなら謝るわ」
 しかし、シュナイゼルは何も言わず、何一つとして真実を教えてはくれなかった。
 ただじっと奥歯を噛み締め、まるで神に祈りを捧げるかのように身体を硬くして、彼女を抱きしめたまま。背後の真実を、腕の中の少女に決して悟らせまいと槍を強く握りしめる、厳格な門番のように。その端正な面持ちには、隠しきれない緊迫感が張り詰めていた。
「……弟は……いる?」
 懲りずにもう一度、質問を繰り返す。
「いるよ。……私とよく似ている。……思い出したかい?」
「……うーん……でも、おかしいの。よく似ているけど……会った時の年齢を考えると……あなたとほぼ同じくらいの男の子だったもの」
「……誰の、話だい?」
 シュナイゼルの声のトーンが、僅かに低くなる。
「それを訊いているのよ。昔、……婚約のご挨拶にブリタニアに行ったことがあったでしょ? ウィルゴ宮殿にお泊りしたわ。あなたのご実家ね。その夜に……綺麗な金髪の、髪の長い男の子とお喋りしたの」
「……なるほど。その子が私に似ていたから、心当たりがないかということだね?」
 ティラナの具体的な回想を耳にした瞬間、シュナイゼルの身体から不自然な緊張が抜け、いつもの柔らかい微笑みがその唇へと戻ってきた。
「よく似ている弟はいるが……年齢は一回りほど離れているよ」
「それじゃあ、あなたの弟とは会ったわけじゃないのね」
 実弟が生まれているわけがない。
 ティラナは腕の中で少しだけ首を傾げ、不可解な記憶の断片をなぞる。
 では、他の可能性とはなんだろうか。戯けたように、ティラナは最もありえないであろう可能性を提示する。
「……ウィルゴにお化けって出る……?」
「……ふふ。どうかな。あそこは伝統あるこの王宮に比べればかなり築浅だし、いないと思うよ」
 それを聞いて少し安堵するも、ブリタニアに移って数百年。最初の首都からペンドラゴンに遷都して百年と数十年。築浅といっても最初期に建築された宮殿を改装したもので、百年建築である。
「そうよね。……じゃあ、えーっと……ルーヴェンフェルスの方のご親戚?」
 シュナイゼルは視線を僅かに宙へ逸らした。
「いないわけではないけれど……私にそっくりというほどではないかな。それに……あの時、ウィルゴ宮殿には貴女以外のゲストは誰もいなかったはずだ」
「あの夜、私は庭に出ていたと思うんだけど……それは本当の話?」
「ラヴァトリーを探していた話かな?」
「探していたわけじゃなくって……でも、あなたがそれを覚えているなら、私が夜中に庭に出ていたことは確かよ」
「どうして外に出たんだい」
 シュナイゼルの高原に咲く花の色の瞳が、彼女を見つめる。
「え? ……う〜ん……? どうしてって……」
 皇暦二〇〇〇年、三月。婚約の正式な挨拶のために、春先に数日ほど滞在したブリタニアのウィルゴ宮殿。あの日のゲストルームでは、二人の共通の関心事である土壌テストの話題で異常なほど盛り上がり、夜遅くまで論文の草稿にペンを走らせていた。やがて猛烈な眠気がやってきて、シュナイゼルは机の上で突っ伏して眠ってしまったティラナを、優しく抱き上げてベッドへと運んだのだ。彼はそこから自分の部屋に戻ることなく、同じベッドで眠りに就いた。そこまでは、彼女もはっきりと憶えている。
「シュナイゼルが外に出ていったと思って、追いかけたのよ」
「すぐ隣で眠っていたのに? 私に気づかずに?」
 シュナイゼルはくすくすと、心底面白そうに声を立てて笑った。
「寝惚けていたのよ。……その子は……眠っていた私を呼んで、目を覚まさせて……てっきりあなたに呼ばれたのだと思って、私は必死にその後を追いかけたんだからっ!」
 気恥ずかしさを誤魔化すように声を荒げた。
 その子は、一体どんな話を自分にしたのだろう。どうしてあの真夜中に、自分を外へと連れ出そうとしたのか。
 薄闇のなかでぎょろりと不気味に、しかしどこか哀しげに光っていた赤みがかった紫の瞳。そして、白薔薇のガゼボ。あまりにも人寂しげな微笑みがちらつく。
 失われた記憶のパズルは、あと一歩のところで噛み合わず、ティラナの怜悧な脳裏をすり抜けていった。 



 a.t.b.二〇一二 September
 カストラリア王宮

 九月最終週のこと。
 カストラリアの短い夏が、完全に終わりを告げるまであと少し。窓の外では、峻厳な秋の冷気が王宮の朝に忍び込み、陽光が庭園を黄朽葉色に染め上げ始めていた。
 世間はまさに激動の渦中にある。国民投票の実施により、民衆党が擁立したロンハード新政権が発足し、この国の憲政史上初となる歴史的な政権交代のニュースが連日メディアを賑わせていた。同時に、かつてのサロニア公爵ことグレドール・ド・アルディックの初公判が当月後半から開始され、非公開審理ながらもその動向に世界中の耳目が集まっている。

 だが、手元の新聞に踊る大見出しを眺めながらも、ティラナの懸念は全く別のところにあった。

 ――世界の歪、そしてあの男が遺した『誓約』、ゲアーシュ、またはギアスという不可解な言葉の真実。
 もしもこの世界に、自分たちのあずかり知らぬ不条理なルールや、運命を歪める絶対的な力が存在しているのだとしたら。アルディックはこうして捕らえるに至ったが、その絶対的な力を凶器として用いて、世界の秩序を乱すような行いをする者が、ほかにいないとも限らない。その力は誤った使い方をすると、世界の法則を変えてしまうだろう。そうすると、そのしわ寄せは必ず国政に携わる為政者や、回り回ってティラナ自身に襲いかかることは明白である。
 ――歪のことを、もう少し知らないと。
 なぜなら、アルディックが求めた場所であるからだ。彼は神殿の奥への調査と小さな私情だけで、これだけの犯行を敢行した。それに、ティラナにはあの神殿で視て知った使命≠フことだってある。
 その調査へ赴く猶予は、自身の戴冠式を控えた今≠おいて他にない。女王として正式に即位してしまえば、一国の元首として国内外の移動すら容易ではなくなるからだ。自由に動けるのは、この過渡期の、ほんの僅かな隙間だけ。
 しかし、行動を起こすにあたって、目の前にはあまりにも巨大な問題が立ちはだかっていた。
「おや。どうしたんだい。そんなにじっと睨んで」
 不意に頭の上から降ってきた、いつも通りの穏やかで砕けた声。ティラナは跳び上がりそうになるのを必死に堪え、顔を上げた。
「ううん? なんでもなーい」
 明るい声で詮索の要素を打ち消す。一度気になったら、その後ずっと質問漬けだ。質問というよりは、彼のそれは尋問となり、やりとりが面倒になるのを何度も経験している。 
「ティラナ?」
「なんでもないわよ」
 微笑みを絶やさないシュナイゼルの青紫色の瞳が、彼女の焦燥を値踏みするようにすぅっと細められる。
「悪戯に心当たりのある犬のような目つきだからね。何か隠し事があるような気がしてならないのだけれど」
 ぎくり、と心臓が嫌な音を立てた。
 ティラナは慌てて、広げていた新聞を高く掲げ、その陰に自らの顔を完全に隠した。
 そうなのだ。最大の難関。彼女の行動を阻む最も美しく、最も手強い障壁――それこそが、この目の前の婚約者、シュナイゼル・エル・ブリタニアに他ならなかった。あの底知れぬ洞察力を持つ男の目を盗んで、海外へ調査に赴くなど不可能に近い。
「……それにはまず、それらしい動機と目的を確立しなきゃ。……納得させなくちゃいけないわ……」
 新聞の紙面に向かって、消え入りそうな声でぶつぶつと論理を組み立てる。まずは完璧な大義名分が必要だ。そう、シュナイゼルが「それならば仕方がない」と首を縦に振るような、極めて客観的で、かつ正当な理由が――。
「……誰を納得させなくてはいけないんだい?」
「わきゃーー!」
 突然、新聞の端が長い指先で優雅に引き下げられ、すぐ目の前にシュナイゼルの端正な顔が現れた。不意を突かれたティラナの口から、およそ淑女らしからぬ奇妙な悲鳴が飛び出す。
「ちょっと、変な声出ちゃったじゃない!」
「ははは。それは失礼したね」
 シュナイゼルは声を立てて愉しげに笑ったが、その距離は一向に離れようとしない。むしろ、大きな身体が影のようにティラナを覆い、彼女をじりじりとソファの背もたれの、あらゆる位置へと追い詰めていく。近頃、彼の距離感は狭まり、パーソナルスペースは二〇センチを切っている。婚約者という関係性がなければ、凡そ許されないほどの近距離である。肘掛けを挟んで閉じ込めるようにティラナを追い込み、その隣に座ると、新聞紙の端を持つ手をそっと大きな手が包み込みんだ。さらに指が引き剥がされては、その指の間を、彼のしなやかな指が一本一本埋めていく。シュナイゼルの言葉を借りるなら、これもスキンシップだ。仕舞いには『ブリタニアでは、親しい間柄では普通のことだよ』と、正答をを知る者がカノン・マルディーニしかいないことを逆手にとって、嘘か本当かわからない、都合のいいルールを、さも当然の権利のように主張するのだから油断も隙もない。
「あ……あのね……、ち、近いわ、シュナイゼル……! 午後からも重要な執務があるんでしょ? もう行く時間よ」
「今日は人に会う仕事ではないからね。時間には融通が利くよ」
「仕事を溜め込んだりは……して、……ないわよね。そうよね。あなたの仕事ぶりは、私がよ〜くわかってるわ!」
 ティラナは引きつった笑みを浮かべながら、必死に彼を押し戻そうとしたが、大柄な彼の身体は巨岩のごとく微動だにしない。
 実際、シュナイゼルに限って、仕事を溜め込むなどという怠惰で手ぬるいスケジュールを組むはずがなかった。どんな膨大な国務であっても、彼は常に数手先を見越して余裕をもって進め、自らの余暇をいとも簡単に捻出してしまう。秘書官たちのサポートなど、彼にとっては幼児の乗る三輪車の補助輪と同然だ。
「……あ、……あのね……」
 思い切りよく打ち明けようとして、口ごもるティラナの脳裏に、罪悪感が過る。
 今の自分は、表向きは過酷な運命に翻弄された姫君で、その療養期間中≠ニいう建前だ。あらゆる公務と面倒な執務をすべて彼に押し付けているこの状況で、あろうことか『ちょっと海外視察――という名の他国にある遺跡調査に行ってきたいわ』などと、一体どの面下げて言い出せるというのだろうか。いくらなんでも我儘が過ぎるし、たとえそれを包み隠さず告げたところで、この今にも人を取って食いかねない青年は『今、療養中の身だよ』だの、『国内の情勢を理解しているのかい?』だとか、『貴女は、女王陛下だよ。もうすぐ戴冠式を控えた』とこちらのぐうの音も出ない正論を並び立てて、行く手を阻むだろう。
「あのう……うぅ〜……えぇ〜……」
 情けない声と共に、きょろきょろと動く目が、水中を忙しなく泳ぐマグロのよう。
 完全に自業自得の半泣き状態に陥ったティラナは、シュナイゼルの圧倒的な存在感に圧され、ギリギリソファから脱したものの、やはり逃走を許されず、リビングの壁際へとじりじりと後退し、ついに文字通り壁に埋まりそうなほど追い詰められてしまった。
「あら。殿下ったら、陛下を壁に押し付けていじめていらっしゃるのですか?」
 その時、救いの神のごとき、少し芝居がかった軽妙な声が室内に響いた。
「カ……カノン〜!」
 ティラナは意外なところに現れたカノン・マルディーニの姿に歓喜し、シュナイゼルが一瞬だけ視線を泳がせたその隙を見逃さなかった。伸び盛りの長い脚を滑らせ、壁と彼の大きな身体の隙間から、鮮やかに脱出を果たす。
「助かったわ。ありがとう、カノン!」
「おや、カノン。君は一体どちらの味方なのかな?」
 獲物を逃したシュナイゼルは、特に悔しがる風でもなく、いつもの穏やかな微笑みをカノンへと向けた。その声音には、身内に対する親しげな響きが含まれている。
「殿下。敵、味方などと、そのように分かりやすい関係ではございませんわ。それにしても、今の迫り方はまるで猛獣のよう……いえ、失言いたしました」
 カノンはわざとらしく口元を手で隠し、悪戯っぽくウィンクしてみせる。ティラナはその背後に隠れて意地悪く、にやっと笑った。
「手強いね」
 そういって、シュナイゼルは深追いをかけることはなかった。ティラナは一旦策を練るべく、その場を後にするかどうか考えた。
「……うーん」
「……どうかなさいましたか?」
 今こうして助けて貰ったところだが、カノンはシュナイゼルの秘書であり、学生時代からの仲で、最終的な味方を選ぶならシュナイゼルを選ぶだろう。案じるような視線がティラナに渡ったあと、すぐにシュナイゼルの方へ向く。このたった一瞬の遣り取りでさえ、主君に意思を仰いでいる。真にティラナの味方となる者は、この王宮にいないだろう。王宮の従者たちでさえ、シュナイゼルの仕事ぶりや貢献を認めているのだから、水面下で無鉄砲な願いをしたとて、いずれシュナイゼルの耳に入り計画は阻止される。
「カノンはすこし席外してもらえる? 助けて貰ってありがたかったのだけど」
 ティラナは行き詰まった果てに、シュナイゼルにある程度話をすることを選んだ。カノンは、小さく微笑み主君へ目配せすると「お邪魔いたしました。陛下」と一言置いて、入ってきたばかりの扉から退いた。
 重要な告白をするのに、次は追い詰められないように、ティラナは一人掛けのソファに座った。
「……それで、貴女を思い悩ませる話とはなにかな?」
「……聞いたら必ず反対したくなる話よ」
 勿体つけるのを終わりにして、ティラナは大事な話を切り出した。
「単刀直入にいうと、国外に……行きたいの」
「……ベルケス公らが渡るドイツへかい?」
「ドイツではないわ。……それもいずれ考えているけど、……今回は……そうね、日本に……ああ、エリア十一に」
「エリア十一に? ……あそこはまだ本国の直轄軍政下にあって、治安も安定していない。何より、女王が単身赴くには政治的な火種が大きすぎるね。本国の外交部が内政干渉だと騒ぎ立てる姿が目に浮かぶよ。行ってどうするんだい?」
「……本当は、エリア十一だけではなく候補はたくさんあるのよ。でも、近場の方がいいとおもって。……なにより、行く意味はいくつかあるし、表向きの理由は用意してあるわ。……夏にヴァルグレイでアッシュフォード卿とお話しした、教育事業の件よ。我が国の、一層の発展のために、ブリタニア最先端の私学であるアッシュフォード学園の視察を行う。租界都市でいかにブリタニア式の教育が機能しているかを学ぶ、という名目なら、文化交流として誰も文句は言えないはずよ。アッシュフォード家も歓迎してくれるわ」
ティラナはシュナイゼルの正面に回り込み、その端正な顔を真っ直ぐに見据えた。
「先月、我が国はサロニア公の資産を没収し、それを原資として南方経済回廊を設立して早一年。この大規模な事業を、アジアや欧州をも巻き込んだ一大プロジェクトとして成功させ、なおかつ次世代へと持続させるためには、それを担う人材の育成――つまり、高度な後継教育のシステムが不可欠だと思うの」
「教育、かい?」
シュナイゼルは微かに目を見開いた。彼女の口から飛び出した、一国を担う元首としてのあまりに堅実で大局的な提案に、知的好奇心を刺激され、自然と頬が緩まる。
「ええ。先のヴァルグレイでアッシュフォード卿とお話しした際、彼の手がける教育事業の先進性にとても感銘を受けたわ。ブリタニアが旧日本という新たな土地で、いかにして最先端の教育ノウハウを租界都市の構築に活かしているのか……。戴冠式を終えてしまえば、私はこの国を長く離れることは叶いません。動けるのは、新政権が発足したばかりの『今』しかない」
 シュナイゼルは顎に手を当て、瞳を細めた。
「ふむ……。しかし目的は、その学園の教科書を見ることではないだろう?」
「それを今から話すんじゃない。遊びに行くわけじゃないわ」
 ティラナは小さく息を吸い、声を潜めた。
「……最近、私がお父様の書斎に籠もってばっかりだったのは知っているわよね。……そのお父様の遺した資料の中にね、我が国の歴史や、神殿の話があって、……神殿は歪の地なのだけど。その歪と奇妙なほど合致する未知の遺構の記述があったの。遺構は世界各国にあって、それがエリア十一の、ある特定の場所に眠っているとされているの」
 ティラナの話に、シュナイゼルは小首を傾げる。
「遺跡、かい?」
「ええ。ただの考古学的な興味なら、戴冠式の後でもいい。でも……あのアルディックとの接見の時のことを覚えているでしょう? 催眠術のような、人を操る、あの不気味な力。……彼はその力を以てして……国家を揺るがす一大事を引き起こした。彼の目的は、王家への反逆もあるでしょうけど、しきりに扉≠求めていた。あの神殿の奥への興味。……でも、あれは彼がひとりで探っていたわけではなかった。誰かと協力……取引をしていたと考えられる。すなわち、彼の背後には、国家さえも簡単に動かす力を備えている者がいるかもしれない。その可能性を否定できないわ」
 シュナイゼルは接見室ですべてを見聞きした。新たな脅威への警戒を抱いていない筈がないことを読んだ上で、ティラナはそれを口にした。
「アルディックはこうして、もはや悪事に手を染めようがないところまできた。だけど、彼と取引をしたかもしれない人物は、次に何を考えると思う?」
「新たな刺客か、手先を送り込むだろうね」
「そうよ。アルディックのように我が国を脅かす次の火種が、父の記した別の遺跡に関係しているのだとしたら……私は何も知らないまま王座に就くわけにはいかないの。だから――」
 シュナイゼルは無言のまま、ティラナの言葉の重みを推し量るように彼女を見つめた。あのアルディックの怪異は、合理主義者であるシュナイゼルにとっても無視できない世界の不確定要素≠セ。それをティラナが自らの足で調べようとしている。
 そこでティラナは一歩引き下がる。この話を教えた段階で、彼に選択肢がないことを伝えるために。
「本当は……この話は、誰にも教えてはいけないはずなの。……カストリア家に伝わる秘密の話。……あなたが婚約者だから話したのよ? シュナイゼル」
「拒否権はないということだね。――困ったね。マイレディは、私を説得する論理の組み立て方を実によく知っている。……分かったよ。それほど堅固な決意があるのなら、私が君の行く手を阻む門番になる必要はない。ブリタニア本国の外交部やエリア十一の現地軍には、カストラリア王室からの『非公式な親善視察』として、最高規格の警備と便宜を図るよう、私から秘密裏に手配しておこう」
 事実上の承諾に、ティラナは飛び跳ねるように立ち上がり、大いに喜んだ。
「……本当に? ありがとう、シュナイゼル!」
「ただし――条件がある。安全のため、私の名代としてカノンを同行させる。いいね?」
抜かりのない提案に「もちろん」と返し、ティラナはシュナイゼルの頬に勝利のキスを贈った。



81
午前四時の異邦人
top