皇のお姫様







「――檜風呂よ!ねえ、カノン!檜風呂!」
「はいはい。聞こえておりますよ」
今その弾んだ声に釣られて洗面台の方へ赴けば、瑞々しいブルネットの髪をタオルで巻いただけの姿で、大はしゃぎしている女王陛下の姿を拝む羽目になるだろう。
迎賓館代わりに提供された別荘までの道すがら、好奇心の赴くままに手に入れた『銘泉名湯のもと』という名の入浴剤。これがお気に召した結果が、この有様である。
この極東の別荘に腰を落ち着けて以来、彼女は朝と夜、一日二回という律儀さで湯船に身を沈めていた。王族としては些か贅沢で行儀の悪い習慣のようにも思えるが、警備上のリスクが跳ね上がる都市部の最高級ホテルに滞在させるコストに比べれば、安全面でも滞在費の面でも、実に可愛いものだと言えた。
『〜♪ 炭酸ナトリウム、硫酸ナトリウム、お肌にシュワシュワ弾ける〜♪ 〜水素イオンのまやかしじゃない、これぞ日本の、極楽ミネラル〜〜♪』

 ――……おや、また変な歌の時間ですか。
 カノンは手元の書類をめくりながら、密かに息を吐いた。
入浴中、ティラナは決まってこの自作の奇妙な化学の歌を口ずさむ。彼女の朗々とした歌声は、日本の木造建築の構造も手伝ってか、実によく響き渡った。生真面目な表情を崩さないカストラリアからの随行員たちが別荘の各部屋に陣取っているが、誰一人としてその歌声を指摘しようとはしない。
 これは暗に「私は今、入浴中ですよ」と周囲に無事を伝えているメッセージでもあるのだろう。長風呂を好む一国の国家元首が、湯船の中で無言のまま長湯を楽しまれては、万が一にも『中で溺死しているのではないか』と警備兵に無用な嫌疑を抱かせかねないからだ。天才の考えるリスクマネジメントは、時として凡人には理解しがたい形をとる。
 浴室へと直通している、現在ティラナの私室として使われている洋室には、彼女の侍女である伯爵令嬢ルイーゼと、摂政たるシュナイゼルの命によってこの非公式視察の秘書を務めることになったカノン・マルディーニの二人が、静かに控えていた。
「……また、始まりましたわね、カノン様」
「ええ。ですが、私はもう慣れましたわ。……どうやら彼女、あの粉末の『成分』が理系として大層お気に召したらしくて」
「本当に。入浴剤というものを使用いたしますと、お湯がより一層軟らかくなって、肌がモチモチいたしますのよ。日本に参ってからというもの、夜の保湿を少しサボってしまっても、翌朝の肌の調子が驚くほど整っておりますの」
「おや。それは美容を志す身としては、少々聞き捨てならないお話ですね。私も今夜、自室で試してみようかしら」
 カノンの優雅な呟きを皮切りに、それまで書類の擦れる音だけが支配していた室内に、ふっと柔らかい会話の輪が広がっていく。
ヒマラヤの険しい石灰岩層を潜り抜け、カルシウムやマグネシウムが飽和したカストラリアの厳めしい超・硬水に比べて、この極東の地が湛える水はあまりに扱いやすい極上の・軟水であった。石鹸の泡立ちは見事なもので、高価な保湿クリームの消費量も格段に少量で済む。
『〜♪ 朝に一回、夜に一回、命の洗濯、極楽浄土〜♪ 〜ヒマラヤの雪解け水より、日本のお湯が、わたしを溶かす〜〜♪』
「あら、二番に入ったわ」
「すっかり蕩けていらっしゃいますねぇ……」
 ルイーゼは、陽気な歌声の響いてくる浴室の方へ、呆れたような、しかし愛おしげな視線を向けた。
 これが初めての海外外遊だというのに、主君であるティラナからは、異国に対する緊張感など微塵も感じられない。むしろこの極東の文化を誰よりも満喫している。
「……実は、私の方は初の海外渡航ということもありまして、少々緊張しておりますの」
 ルイーゼが少しだけ声を潜め、自身の白い指先を弄びながら本音を漏らした。カノンは、ティラナとそれほど歳の変わらない名門伯爵家の令嬢の言葉に、そっと寄り添うように微笑む。
「そうよね。貴女がたは、ずっと王宮勤めでしたもの……」
 カストラリアの、それも女王の側近ともなれば、スパイ行為や情報漏洩対策として、国家最高規格の厳格な守秘義務が課せられ、徹底的な身辺調査が行われる。王宮に仕える高貴な者たちの多くは、特別な政治的許可でも下りない限り、プライベートでの国外渡航など事実上不可能であった。現王室への絶対的な忠誠心からとはいえ、若い彼女たちの自由な生活が制限されていたのは、同情に値する。
 だからこそ、今回の「非公式な親善視察」という名目は、彼女たちにとっても大義名分の立つ、一生に一度の貴重な機会であった。
通常、ブリタニアの占領地への外遊となれば、応じるのは支配者側である総督府であるはずだ。しかし、此度の申し入れに対して、本国の意向を先回りするかのようにいち早く熱烈な歓迎の意を示したのは、他でもない日本の旧財閥系一族の最高峰、キョウト六家の盟主である皇コンツェルンであった。

 キョウトの奥座敷――ほぼ手付かずの大自然と混ざり合うキョウト北部は、ブリタニアによる破壊を免れた日本の原風景を色濃く留めている。
カノンは、手元の書類を見つめながら、胸の奥に潜む「もう一つの緊張感」をそっと押し殺した。
かつて、本物のティラナがその正体を変えられ、一人のカストラリア軍人――『ダミアン軍曹』として瀕死を経験した古い痕跡。このキョウトという地は、かつての彼女の足跡に深く繋がっている。もしもこの地を踏むことで、彼女が当時の、記憶を不意に取り戻してしまったら……。
 その懸念を、出発前のカストラリア王宮でシュナイゼルに具申した際、あの主君はチェス盤を前にして、ひどく愉しげに笑ったものだ。

『――そのために、君を私の名代として任じるんじゃないか、カノン』

 そう言って、いつものように穏やかな微笑みを湛えながら無理難題を押し付けてきた主君の姿が、鮮烈に思い出される。
『非公式とはいえ、彼女にとっては単独での初めての外遊だ。自分自身の立場の理解もあるのだから、そう無茶な行動はしないはずだよ。……それにね、カノン。これから我が国が世界と渡り合っていくための、外遊マニュアル″りのたたき台としては、これ以上ない丁度いい機会だからね』
「あぁ……、そちらの方が殿下の本当の狙いでしたか」
 カノンは苦笑を漏らし、手元のペンを休めた。
 外遊の実績も、外交の経験値も殆どないまま、過渡期の国家を背負って女王へと戴冠するティラナ。旧時代であれば、王宮に籠もって執政を執るか、限られた近隣の貴族や親戚となる他国の王族を相手に社交を行っていれば十全であった。だが、ブリタニアと中華連邦という二大巨頭が世界を塗り替えていくこれからの時代、国王みずからがトップ外交官の役割を果たさねばならぬ機会は、嫌というほど増えるだろう――それがシュナイゼルの見立てであった。
 もっとも、この試練はティラナ個人だけでなく、彼女を支える王宮職員全体の『教育』と『実践経験』を兼ねている。
 手のかかる婚約者を、これ以上ないほど甘やかし、特等席で見守りながら、同時に国家の未来のシステムさえも完璧に組み上げていく。そういう底知れぬ抜かりのなさは、寄宿学校の学生時代から全く変わっていない。
 シュナイゼル流に言い換えれば、これは摂政から女王への引き継ぎ≠ナある。
 カノンは、受話器の向こうの冷徹で過保護な主君と、浴室から聞こえる「ゴクラーク、ゴクラーク♪」という締りのない女王の歌声のギャップに、俄に優しい微笑みを浮かべるのだった。



 a.t.b.二〇一二 October
 エリア11・キョウト

 皇暦二〇一二年の秋。極東の地、エリア十一。
 元日本の旧皇家が、カストラリア王室との交流復活を記念して提供してくれたという格式高い別荘で、ティラナは毎日のように、朝と夜の二回、律儀に湯船へとその豊かな肢体を沈めていた。
 「ふはぁ……、本当に極楽だわ……」
 琥珀色の瞳をとろんとさせ、ティラナは真っ直ぐな脚を湯船の縁へと伸ばした。今日のお供は、カノンに頼んで買ってきてもらい、すっかりお気に入りとなった日本の市販入浴剤『温泉めぐり・檜の香り』である。お湯は美しい乳白色に染まり、森林の濃厚な芳香が彼女の鼻腔を満たしていた。檜材質の浴槽と合わさるとより香り高く、身も心もほぐれる。
 こうしてお風呂文化を大層気に入ったのが、ホストである皇家へ伝わり、『温泉地へはご案内できないが、別な別荘にある檜風呂なら』と、昨日まで滞在していた別荘からわざわざ移動してきたのである。
「陛下。その『ゴクラクジョード』という不穏な歌を口ずさむのは、せめて私の前だけにしていただきたく存じますわ」
 磨りガラスの向こうの脱衣所から、呆れたような、しかし洗練されたカノンの声が響く。
 次は、ルイーゼの声だった。
「明日は皇様との午餐会が控えておりますし、朝方に長湯を楽しまれることはお控えくださいませ」
「わかってるわよう……。せっかくシュナイゼルのべったりから解放されたかと思ったら、別荘以外の場所には殆ど出歩けないんだもの……」
 ぷくぷくぷくぷく……。
「惚気はご勘弁願いたいですわ」
「ごめんあそばせ〜」
 カストラリア王室は良くも悪くも家族経営の温かさがある。これから嫌というほど、それも四六時中顔を合わせることになるというのに、あの婚約者は暇さえあれば、摂政としての執務の合間を縫って顔を見せにやってくるのだ。そんな贅沢な拘束から逃れての海外だというのに、今度はブリタニア軍の厳しい治安統制のせいで、結局籠の鳥なのだから退屈極まりない。
「お風呂上がりには、ミックスジュースがいいのよ」
「……購入して参りましたけど、これでよろしかったのです?」
「ありがとう。ルイーゼ。大正解よ」
 どこで見知ったのか、この『元・日本』の生活様式への適応力は、自分自身でも目を瞠るものがあった。初めて触るはずの家電の操作に迷うこともなく、まるでお気に入りの我が家に帰ってきたかのような、奇妙な全能感さえ覚える。
ティラナは備え付けの豪奢な冷蔵庫から、ガラス瓶に入ったジュースを数本取り出した。侍女に手伝ってもらいながらグラスを用意し、そこによく冷やされた琥珀色の液体を注いでいく。
 ふと、そのジュースの表面に貼られた、少し歪なラベルに目が留まった。そこには英語ではなく、いかにも極東の文字といった風情の日本語≠フ商品名がそのまま残されている。
 ――なるほど、これがブリタニアの『属領支配』のグラデーションというわけね。
 神聖ブリタニア帝国の属領支配の大原則には、「ナンバーズの管理はナンバーズに行わせる」という効率主義がある。そのため、旧日本時代の工業や食品といった、民衆の生活に直結する末端の産業は、経営母体を変えながらも細々と旧来の形で存続しているものが少なくなかった。
 資本がブリタニアに根こそぎ食い潰されているトウキョウ租界の喧騒と、そこから一歩外れた地方都市、あるいは郊外の田舎。その経済的・軍事的な統治の「濃淡」は、こうして一本のジュースのラベルにさえ如実に現れている。
 ブリタニアによるこの国の強硬な支配が始まってから、まだわずか二年。インフラは奪えても、言語や生活習慣といった文化的汚染≠完了させるには、少なくとも十年単位の時間が必要だということだ。
 ――まだ、この国の形は完全に消えてはいない……。
 ティラナは感心深く頷き、よく冷えたグラスを傾けた。果実の心地よい酸味が、お風呂上がりの喉を優しく潤していく。
 その時、テーブルの上の携帯電話が静かに鳴り響いた。暗号化された独立回線。この時間に連絡を入れてくる主など、世界にたった一人しかいない。
「ふふ、噂をすれば。ラブコールの時間ね」
 ティラナはグラスを置き、通話ボタンを押した。
「シュナイゼル?」
『やあ、ティラナ。そちらはもう就寝の時間かな』
「ううん。みんなでミックスジュースで乾杯してるところよ」
『ミックスジュース?』
「ニホン発祥のドリンクの名前よ。本当はフルーツ牛乳というものがよかったんだけど……。シュナイゼルにはお土産に買って帰るわね。検疫いらずなのが王族でよかったと思えるところだわ! 日本から運ぶために、輸送コンテナの冷却温度をあらかじめ弄ってもらう必要があるけれど」
 受話器の向こうで、シュナイゼルは『小さなところで特権を感じているんだね』と、いつもの穏やかな声音で愉しげに笑った。
「こちらでの缶詰生活には少し退屈しているけれど、体調に変わりはないわ」
『それはすまなかったね。地方はともかく、次のトウキョウでの滞在場所の手配が少々難航したようだ。……それほど現地では、他国の要人を正式に迎え入れるための体制が整っていないということだね。……結局、安全面を考慮してブリタニア側が引き受けることになった。こちらで滞在場所を手配しておいたから、今よりは過ごしやすくなるはずだよ』
 彼の手回しは、相変わらず完璧だった。
『アッシュフォード学園の視察には、現地にアッシュフォード卿がいらっしゃる。これからの詳しい行動日程はすでにカノンに引き継いであるから、安心して任せるといい』
「わかったわ。色々とありがとう」
 鮮やかな手捌きだと、ティラナは内心で感嘆した。カストラリアで民衆党の新政権が発足したばかりの、いきなりの大きな外交イベントにもかかわらず、我が国の外務省の儀典長が張り切って骨子を一週間以内に組み上げた。だが、その裏で、治安の安定しないエリア十一での、具体的な滞在場所の選定には血の滲むような時間がかかったはずなのだ。そこをシュナイゼルがブリタニア本国の権力を使って、一瞬で調整を図ったという意味である。彼という後ろ盾の大きさを、異国の夜に改めて実感していた。


 翌日、ティラナ一行はキョウト北部に位置する皇家の本邸へと向かった。
辿り着いたその邸宅は見事な武家屋敷で、ここもまたブリタニアの近代的な様式美に浸食を拒むように、どっしりとした重厚な門を誇っている。
 ちょうど屋根瓦の修繕と庭木の手入れが行われたばかりのタイミングだったのか、裏門付近で作業を終えた職人たちの扱うトラックと鉢合わせた。カストラリアから随行してきた下級秘書官のランクスが、「皇家との事前調整はどうなっているのか」と小さな愚痴を漏らす。
 それに、カノンが「少々行き違いがあったようですわね」と眉をひそめて応じた。
「きっと、私たちが正門の方から来るものだと思っていたのよ。そうカリカリしないでランクス。今回は非公式の訪問なんだから、これくらい大雑把な方が面白いわ」
 ティラナがそう宥めると、車内には和やかな空気が戻った。
 その邸宅は、驚くほど静謐な佇まいを残していた。
 重厚な平唐門をくぐり、美しく掃き清められた石畳を進む。差し込む秋の木漏れ日が、歴史の重みを湛えた漆黒の柱や、手入れの行き届いた苔庭を斑に照らしていた。
 車を降りたティラナの背後には、ブリタニア軍の物々しい警備を裏で完全に統制したカノン・マルディーニと、カストラリア王宮から随行してきた伯爵令嬢の侍女が、それぞれの緊張を秘めて従っている。
「――ようこそおいでくださいました、カストラリア王国女王陛下」 
 格式高い式台玄関の前。
 そこに整然と並び、深く頭を垂れていたのは、現代のブリタニアの衣服ではなく、織りの細かい最高級の着物――黒留袖や紋付袴を完璧に着こなした、皇家の当主とその一族であった。その数は総勢十名ほど。彼らは衣服の擦れる音さえ立てず、まるで一幅の絵画のように美しい姿勢で、異国の若き王女を迎え入れるための最敬礼を行っている。
「遠路はるばる、このような極東の僻地まで足をお運びいただきましたこと、皇家一同、言葉に尽くせぬ栄誉に存じます。私は現当主を務めます、皇景明でございます」
 一歩前に出て、流暢な、しかし極めて格調高い英語で挨拶を述べたのは、白髪を綺麗に結い上げた初老の男性だった。その双眸には、国を失ったナンバーズの悲哀ではなく、数百年以上にわたり国を支えてきた一族としての、気高い誇りと執政の年輪が刻まれている。
 彼の背後では、黒髪の少女が、異国の年若い女王の姿を、畏敬の念を込めて盗み見ていた。
「丁寧な出迎えに感謝いたします、皇閣下。今回の訪問は、我が国の新しい特区のために、貴国が培ってきた歴史と教育の知恵を学ぶためのもの。公式な外交ではないけれど、こうして伝統ある皇家の皆様に温かく迎えていただけて、とても心強く思います」
 ティラナはふっと表情を和らげ、カストラリアの王族として、非のうちどころのない優雅な微笑みを返した。その凛とした佇まいは、目の前の古き為政者たちに「この少女は、ブリタニアの操り人形などではない」という強烈な印象を抱かせるに十分だった。
「もったいないお言葉にございます、陛下。これなる屋敷は、ブリタニアの総督府の手の届かぬ、我が一族が命に代えて守り抜いた地。何一つ不自由はさせぬよう、純国産の温泉と、選び抜いた調度品をご用意いたしました。どうぞ、旅の疲れをお癒やしくださりませ」
 当主の合図とともに、控えていた若い女性たちが一斉に、滑らかな所作で邸内へと続く襖を開け放つ。
 畳の馨しい香りと、どこか懐かしい木造建築の温もりが、ティラナの鼻腔をくすぐった。ブリタニアの支配が始まってわずか二年。文化的汚染≠フ手がまだ及びきっていない聖域へ足を踏み入れる。

 案内された奥書院は、庭園の瑞々しい緑を借景とした、極めて静謐な空間であった。畳の香りが微かに漂う室内で、ティラナは一人掛けの豪奢な座椅子に腰を下ろし、現当主である皇景明と対峙していた。先ほど式台玄関で見せた凛とした佇まいとは裏腹に、近くで見る景明の横顔は、どこか痛々しいほどに白く、硝子細工のような危うさを孕んでいる。時折、胸を押さえて小さく咳き込むその姿は、病弱な父を持っていたティラナの目から見ても、彼が深刻な病を患っていることを雄弁に物語っていた。
「――皇閣下。お加減はいかがですか? 我が国からの非公式な訪問とはいえ、このような病躯をおしてまでのお出迎え、些か無理をさせてしまったのではないかと案じております」
 ティラナが琥珀色の瞳に真摯な憂いを湛えて問いかけると、景明は微かに目元を緩め、衣服の擦れる音さえ立てずに深く一礼した。
「ああ……。畏れ多きお言葉、恐縮に存じます。カストラリアの若き女王陛下にそのように見つめられては、病魔も退散してしまいそうですな。……お気遣い、心より感謝申し上げます」
 景明は、傍らに控えた若い侍女が差し出した白磁の器から、白湯を一口含んで喉を潤した。それから、どこか遠い目をしながら、痛みを堪えるように言葉を紡ぎ出す。
「あの容赦なき侵攻の直後、日本は文字通りの地獄と化しました。私どものような旧時代の遺物など、ブリタニアの軍靴に踏みにじられるのは自明の理。一時、私が出入りしておりました大病院さえも総督府の直轄軍政下に置かれ、厳重に占拠されてしまったのです。私を繋ぎ止めるための特殊な薬の流通は完全に途絶え、一族の者たちは、私の命もこの日本の命運と共に潰えるものと、半ば絶望しておりました」
 景明の言葉に、ティラナの背後に控える侍女が痛ましそうに小さく息を呑む。景明は静かに首を振り、ティラナを真っ直ぐに見据えた。
「窮地を救ってくださったのは、他でもない、カストラリア王国が主導してくださった『人道回廊』の設立でございました。中立国である貴国が、医療物資の搬入と非戦闘員の保護を国際社会に強く訴えかけ、あの鉄のカーテンをこじ開けてくださった。そのお陰で、私の薬も、そして数多の同胞たちの命も救われたのです。……あの暗黒の時代を経て、今日こうして、我が一族の命の恩人である貴女様をこの屋敷にお迎えできましたこと、皇家一同、これ以上の幸いはございません」
 為政者からの、魂の底からの謝意。
しかし、その言葉を受け止めるティラナの胸の奥には、冷たい氷を押し当てられたかのような、複雑で、ひどく割り切れない感情が広がっていった。
「お辛い時期を、皆さまで耐え抜かれたのですね。……その頃は……。不甲斐なくも、私もまた、暗い病床に伏しておりましたもので、理不尽に自由を奪われるお苦しみ、そして明日をも知れぬ恐怖は、我がことのように心情をお察しいたします」
 痛みを分かち合うように微笑むティラナの言葉に、嘘偽りはなかった。彼女もまた、あの皇暦二〇一〇年の前後は、記憶の混濁とアルディックの陰謀という深い闇の底に囚われ、廃人のごとく療養生活を送っていたのだから。
 だが――同時に、ティラナの脳裏には、カストラリアの王宮で、いつも穏やかな微笑みを湛えながらチェスの駒を動かしている、あの美しい婚約者の姿が鮮烈に浮かび上がっていた。
 ――本当に、皮肉なことだわ。
 ティラナは、手元に用意された冷たいほうじ茶のグラスに視線を落とし、心の中で自嘲気味に呟いた。
皇景明が、そしてこの列島に生き残る何万人もの日本人が、命の綱として感謝している人道回廊=B中立国カストラリアの正当な外交カードとしてそれを発議し、ブリタニア軍の上層部の反対をいとも簡単にねじ伏せて、設立の最終判断を下した張本人。
 それこそが、日本を蹂躙し、占領統治を進める神聖ブリタニア帝国の第二皇子――シュナイゼル・エル・ブリタニアに他ならない。
 彼はカストラリアとの婚姻という大局的な国益のために、カストラリア側の面を立てる形で人道回廊を認可したと思われているだろう。ブリタニアの侵略者が、結果として、侵略された側の日本人の最高峰の血脈の命を保障したという、あまりに冷徹で歪な構造。矛盾の象徴。
 セミが鳴いている。庭に立つ木々のなかのどこか。萌える緑の、茂みのなかの曖昧などこかで。
 熱をさらう風が開け放たれた障子を超えて、入り込んでくる。その風のにおいと味が、不意に懐かしさを呼び覚まそうとし、子供たちのはしゃぎ声が耳奥で響いた。
「こちらに子供は……ご息女だけでいらっしゃる?」
「子供、ですか……? はい。うちに娘はいますが。ああ……時折その許嫁の子供も遊びに参ります。それ以外は……いません」
「……許嫁というと、亡き枢木首相の……ご子息でしたね」
「はい」
 枢木――。どこか耳に馴染む名だ。だがそれは、多くのメディアで未だ持ち上げられて、民衆から英雄視される象徴的な名前だからだろう。日本に渡るまでの間に、いくつかの情報を頭に入れる際、頭にしつこく残っているだけだと。
 背後に控えるカノンが、ティラナを見据えた。
「……なんだか。似ていると勝手に思っておりまして」
「似ている……といいますと」
「私も、幼い頃から許嫁が決まっていましたから。親近感を抱いていたんです」
「なるほど。たしかに境遇は殆ど同じでありましょう。私どもは。……娘に苦労ばかりかける父親……というと過ぎた言葉でありましょうか」
「いいえ。逆に失礼をお詫びいたしますが、立派な父を持つと後が大変にございます」
 景明は弱々しくも、どこか愛おしむような笑い声をあげた。
長生きをしなくてはなりませんね。私は。……せめて、あの娘が一人立ちするまでは」

 そう言って景明が細めた視線の先――開け放たれた障子の向こう、廊下の影に、小さな気配があることにティラナも気づいていた。どうやら、大人の会話にじっと耳を澄ませていたらしい。
「神楽耶。お入り。陛下にご挨拶をしなさい」
 父親に促され、すっと襖が開く。
 神楽耶――と呼ばれた少女は、まだ幼さを残しながらも、墨のように艶やかな長い黒髪を揺らし、鮮やかな花文様の振袖を纏って室内に進み出た。
上質ない草の畳の上に白く小さな指を揃え、凛と一本の芯が通った姿勢で、非のうちどころのない角度まで頭を下げる。ブリタニアの貴族令嬢が見せるカーテシーとは全く異なる、しかし、極東の最高峰の血脈だけが持つ天子の眷属としての、洗練された所作の美しさに、ティラナは小さく息を呑んだ。
「皇神楽耶と申します。遥かカストラリアよりの御入国、心より歓迎申し上げます、女王陛下」
 鈴を転がすような愛らしい声音。けれど、そこには一族の未来を背負う覚悟の片鱗が、確かに宿っている。
 ティラナは座椅子から上体を微かに進め、その琥珀色の瞳を優しく和らげた。一国の元首としての慈愛と、同じく幼くして苛烈な運命に巻き込まれた同志への敬意を込めて、鈴が鳴るような声で言葉を返す。
「お目にかかれて嬉しいわ、神楽耶さま。……見事な御挨拶ね。貴女のその美しい所作一つで、この国がどれほど深く、尊い歴史を紡いできたのかがよく分かるわ。お父様を大切にね」
「――もったいないお言葉にございます」
 神楽耶はもう一度深く頭を下げ、それから顔を上げた。その聡明な瞳が、ティラナと、その背後に控えるカノン・マルディーニの姿を、じっと見つめている。

 現当主である景明が、昼食までの僅かな合間に急ぎの家政を処理すべく席を外すと、奥書院には静寂が戻ってきた。カノンや侍女もまた、女王の私的な休息を邪魔せぬよう、少し離れた縁側の近くへと控えている。
庭の茂みの奥で、ゆく夏を惜しむように蝉が鳴いていた。熱を孕んだ秋の風が障子をすり抜け、室内へと流れ込んでくる。そのどこか懐かしい土と草の匂いに、ティラナの耳の奥で、幻聴のように子供たちのはしゃぎ声が小さく響いた。
「――もし、陛下?」
 不意に、襖の隙間から鈴の鳴るような声が聞こえた。見れば、先ほど完璧な作法で挨拶を終えて退出したはずの神楽耶が、小さな頭を覗かせ、琥珀色の瞳をぱちくりとさせて佇んでいる。
「神楽耶さま。どうかなさいましたか?」
 ティラナが座椅子の上で微笑むと、神楽耶は着物の裾を上品に揺らしながら、トコトコと畳を歩いて彼女のすぐ近くまで寄ってきた。その手には、まるで宝物でも見せるかのように、小さな一輪の秋桜が握られている。
「あの……私、陛下とお友達になりたいと存じますの」
「お友達?」
 突飛な、けれど愛らしい申し出に、ティラナは微かに目を丸くした。神楽耶はその場にちょこんと正座し、小さな手を膝の上で揃えながら、どこか大人びた陰を帯びた瞳でティラナを見上げた。
「はい。日本がこのようなことになってしまい……身の回りで変わってしまったものは、余りあるほどにございます。私、陛下の今のお心持ちに、すこしばかり共感いたしておりましたの。……その、ブリタニアに支配をされるというところの」
「……支配、ですか」
 ティラナの胸の奥に、小さな漣が立った。
 外側から見れば、やはりそのように映るのだろう。当然、神楽耶に悪意などない。むしろそれが、同じ「大国の脅威に晒される君主の娘」として、仲を深めるための口実でさえあると信じているのだ。子供は周囲にいる大人の、世の見方に影響を受け、その言葉をそのまま引き継ぐ。彼女の言葉はすなわち、この皇家にまかり通るブリタニアへの見方そのものであった。
 だが、カストラリアの実態は「支配」というほど苛烈なものではなく、むしろシュナイゼルによる徹底した「保護と優遇」を受けている。本当にすべてを奪われた被占領国≠ナある日本とは、立場が根本的に異なるのだ。今回の外遊で、トウキョウ租界の外への移動が厳しく制限されているのも、復興半ばの痛々しい景色をティラナの目に入れたくないという、シュナイゼルらの過保護な願望≠ェ組まれた結果であった。
「それに……謀反によるお身内の不祥事や、望まぬ政略結婚という境遇も、私と似ていらっしゃいますわ」
「……神楽耶さま。おそらく、周囲のどなたかが貴女にそのように吹き込んだのでしょうけれど、世情の噂と実情は、往々にして異なるものですわ。特に――私の夫となるべき人のことについては」
 ティラナは、神楽耶が抱くブリタニアへの誤解をあえて全否定することはしなかった。その言葉の先を突き詰めれば、なぜブリタニアはカストラリアには穏当で、日本に対してはこれほど苛烈であるのかという、残酷な格差への疑念と怒りをこの少女に呼び覚ましてしまうかもしれないからだ。
何より、この婚姻が「互いを人質とするための冷徹な政治的帰結」であることを認めたくなかったし、自らの私情としても、シュナイゼルへの悪評をこれ以上生みたくはないという思いがあった。
 神楽耶は不思議そうな顔つきで、じっとティラナの顔を見つめている。ティラナはふっと視線を和らげ、諭すように言葉を繋いだ。
「国という仕組みがどれほど冷酷であっても、そこに生きる人までが悪いとは限りません。その証拠に、私の婚約者は、貴方がたを救った『人道回廊』の設立において、最終的な決済を下してくれました。私がまだ……自分自身のことで手一杯で、何もできなかった時期に、彼は為政者として適切な仕事を果たしてくれたのです」
「……陛下は、その夫となる方を愛していらっしゃるのですか?」
 無垢ゆえに鋭い質問だった。ティラナはほうじ茶のグラスをそっと見つめ、静かに息を吐く。
「政略結婚というと、世間では冷たい響きを伴いますね。まるで当人たちが人形のように、大いなる集団の利益のために都合よく働かされ、生涯を固定される。その代わりに、周囲がすべてを保障するシステムです。……ですが、大人のうちに結ばれる許嫁と、子供のうちに決まる許嫁とでは、意味合いが大いに異なります。私たちは、小さいうちから気心の知れた、いわば友人同士のような関係でしたから」
「……私や、スザクのようなものでしょうか?」
「ええ、きっとそうですわ」
 スザク、という名が出た瞬間、神楽耶の整った眉が、にわかに寂しげに曇った。
「……実を申しますと、私とスザクの婚約を解消すべきかどうか、親族の間でずっと話し合いが続いておりますの。この取り決めをいたしましたのは、私の亡き両親と、あちらの枢木玄武でございましたから。……たとえ、その大人たちの約束がなくなってしまっても、私とスザクの関係は変わりませんでしょう?」
「それは……私からあまり迂闊なことは申し上げられませんが、お二人の心の結びつきが強いのであれば、大人の都合で変わることはないかと思いますわ」
 少女の小さな肩が、不安にすくむ。その沈み込んだ表情に、ティラナはどう言葉をかけるべきか一瞬迷った。
「スザクは……あの忌々しい侵攻から、すっかり人が変わってしまいましたの。なんだか、人寂しげな子犬のようになってしまって……。私の方が、あの子をいじめているような気になってしまいます。きっと、お父様である玄武様が亡くなり、周囲からの扱いが変わってしまったことも関係しているのだと思いますけれど……」
 神楽耶は膝の上の秋桜の茎を、痛ましそうにきゅっと握りしめた。
「私が婚約を解消しないでほしいと周囲に願うのは、スザクをこの家から、私の手の届かないところへ遠ざけないためです。もし、あの約束までなくなってしまったら、あの子はどこか遠くへ、消えてしまいそうで……」
「……そのお気持ちは、お父様にはお伝えになりましたか?」
「いいえ、まだ。お父様も、お身体がお悪うございますから……」
 神楽耶は、ずっとこの話を誰かに聞いてほしかったのだろう。ティラナはそれを痛いほどに理解した。身内に話せば、それが余計な政治的伝染を引き起こすこと。よかれと思って勝手に立ち回る大人のせいで、かえって状況が悪化することを、この幼い少女はすでに「皇家」という環境の中で嫌というほど学んできたのだ。
ティラナは何も言わず、ただ同じ痛みを識る者として、神楽耶の言葉に静かに耳を傾け続けた。
 しばらくの間、取り留めのない、けれど二人にとっては重い話を咲かせているうちに、用事を終えた景明が、廊下から静かに声をかけてきた。
「女王陛下。お時間のようでございます。次の昼食会場にご案内いたします」
「ええ、お昼の時間ね」
「そちらの席では、『キョウト六家』と申しまして、我が国の旧財閥系の代表たちを招いておりますゆえ、ぜひご紹介いたしたく……」
 父親のその言葉に、神楽耶が焦ったように声をあげる。
「お父様、陛下はもう行ってしまわれますの?」
「神楽耶、陛下はお忙しい身の上なのだよ。遊びにいらっしゃったわけではない。……陛下は明日には滞在場所をトウキョウ租界へと移される。その先ではブリタニア側がもてなすことになっておるゆえ、私どものために時間を割いていただけるのは、本日限りなのだ」
「そうなんですの……?」
 神楽耶は驚いたような信じ難い顔でティラナを見つめた。その瞳には、『ブリタニアの厚遇を受けるなんて』という、言葉にならない反発と哀しみが、ありありと浮かんでいる。景明は、そんな娘に世界の過酷な実情を教えるように、静かに首を振った。
「神楽耶、カストラリアの実態は中立国なのだよ。かつての我が国もそうであったが……。悲しいかな、この場所に、私どものための人質≠ヘもういないのだ」
 ――日本の、人質。ブリタニアの……。
 景明の説明を胸の内で反芻し、なにかがかさりと引っかかる。その瞬間、ティラナの胸の奥で、言い知れぬ激しい胸騒ぎが奔った。
ざわざわと、風もないのに、全身の肌が粟立つような感覚。その音は自然の生み出すものではなく、彼女の身体の内側、記憶の檻の底から響いていた。雑然としたノイズの隙間に、また、あの子供たちの無邪気なはしゃぎ声が混ざる。
「人質、というと……」
 思わず、乾いた声で呟いた神楽耶の横から、それまで沈黙を守っていたティラナが、自然とその名を口にしていた。
「ブリタニアの第十一皇子ルルーシュ殿下、ならびに第十二皇女ナナリー殿下のことですね、皇閣下」
「ああ……、左様でございます」
「カノン、そんなに驚かれてどうかいたしましたか? おかしな話ではありません。私の婚約者の、腹違いの弟と妹なのですから。婚姻が成れば、私にとっても義理の弟妹になりますもの」
 ティラナは、自らの動揺を隠すべく、不安げな視線を向けるカノンを振払うように、努めて明るい声を向けた。しかし、景明の顔に浮かんだのは、深い、底無しの同情と諦念の色彩だった。
「……非常に申し上げにくいのですが。あの侵攻の直後、お二方とも行方知れずとなり……。本国への公式な調査報告には、『戦火に巻き込まれ、死亡』と伝えられております」
「死亡……」
 ドクン、と心臓が爆ぜるような音を立てた。
 視界が、一瞬にして真っ赤に染まる。
 ――熱い日射し。天を焦がす爆炎。人を――血と肉、骨と皮を無慈悲に焼き尽くす、あの脳髄にへばりつくような強烈な臭い。
 疲れ果てた先で、泥を這うようにして逃亡を目指していたのに、最終的にそうすることを諦め、すべてを投げ出した時の、あの舌の奥に残る後味の悪さ。罪の味。苦い、血の味。
 そして――汗で張り付いた黒髪の下から、自分を見上げている、あの大きくて気高い紫苑の瞳。
 脳裏を過ったのは、決して本や資料で見た作り物のイメージではなかった。まるで、かつて本当にこの目の前で目撃し、魂に刻み込んだ出来事であるかのように、生々しく、圧倒的な質量を持ってティラナの意識を蹂躙する。
 ――これは……何の、記憶……!?
 日本に上陸して以来、小さな日常の瞬間に挟み込まれる、この不気味なフラッシュバック。日本語の音、風景、時間の流れ。それらに対する異国の緊張感ではなく、まるで『勝手知ったる我が家』であるかのような奇妙な既視感の正体。
 この地に、自分はかつて、確かに存在していたという強烈な痕跡が、ティラナの細胞一つ一つを激しく揺さぶっていた。
「……陛下」
 あまりの衝撃に言葉を失い、青白い顔で俯いてしまったティラナの肩を、背後からそっと覗き込むようにして呼び止めたのは、すべてを察したカノンだった。その洗練された気遣いの声に、ティラナはハッと我に返る。
「……あぁ、そうね。ごめんなさい、少し考え事をしてしまって。……子供が亡くなるというのは、どんな理由があろうとも、本当に辛いことですわね」
 ティラナは必死に声を震わせぬよう、震える手でほうじ茶のグラスを握りしめた。極東の地に眠る世界の歪≠求めてやってきたはずの旅路は、気づかぬうちに、彼女自身の失われた過去という、最も深い歪みの淵へと彼女を誘い込もうとしていた。
「――鎌倉(かまくら)には我が家の別荘がありますの。そちらに手配を頼めば、もっと陛下にゆっくりしていただけましたのに!」
 すぐ近くで響いた神楽耶のなんてことのない提案が、今のティラナにとってはやけに甲高く、粟立つ頭蓋骨を激しく揺さぶった。
 脳裏にこびりついた爆炎と紫苑の瞳の残像を、無理やり意識の奥底へと押し込める。冷や汗の滲む肌に、極東の秋風が妙に冷たくまとわりついた。
「あの容赦なき侵攻の後、私もしばらくの間、その鎌倉の別荘に身を寄せて過ごしておりましたの。今でもたまに一族で使いますし……そうだ! 風の噂によれば、カストラリアには陛下個人の離宮や別荘が、国内外に二十五箇所もあるのだと伺いましたわ! まさに億万長者でいらっしゃいますね。とっても羨ましいですわ!」
 一瞬にして凍りついた室内の空気を、子供ながらの鋭い直感で察したのだろう。この重苦しい沈黙を打破しようとするかのように、神楽耶の声は妙に元気がよく、響き渡った。
 目の前の異国の女王が抱えた深い動揺を、自らの天真爛漫な言葉で覆い隠そうとする――そんな、子供の特権でしか通用しない不器用な気遣いに支えられて、ティラナは乱れる呼吸を整え、緩やかに微笑み返した。
「ふふ、よくご存知ですこと。……ですが、あの長い療養生活が明けましたら、自由に使える別荘が一気に減ってしまいましたの。国政の過渡期にある今は、その大半が『王室の公邸』という厳しい扱いになってしまいましたから。実を言うと、維持が大変で美術館や博物館に改装して一般公開しているものも少なくありません。神楽耶さま、もしよければご興味がございますか?」
「ええ! とっても! いつかカストラリアの美しい博物館を、この目で拝見してみたいですわ!」
 くるくると表情を変え、嬉しそうに瞳を輝かせる天真爛漫な神楽耶。
その無邪気な笑顔の裏にある、皇家を背負う者としての優しさと聡明さに、ティラナは今度こそ心からの温かな眼差しを向け、先ほどまで胸を焦がしていた既視感の不気味な熱を、少しずつ静めていくのだった。


 皇家の屋敷を後にし、滞在中のキョウト奥の別荘へと戻ったその日の夜。
深夜の静寂が厳かに満ちる客室の一画で、カノン・マルディーニは本国との独立暗号回線を開いていた。受話器の向こうから聞こえるのは、他でもない、カストラリアで留守を守るシュナイゼル・エル・ブリタニアの、いつもと変わらぬ酷く穏やかで、どこか砕けた調子の声音である。
 時刻はすでに二十三時を回っていた。明日のトウキョウ租界への移動に備え、現地の軍直轄政権との簡単な情報共有と最終確認を終えれば、カノン自身もようやく就寝できるという時間帯であった。
「――お休みになられましたわ」
 カノンが極めて小さな声で、隣室で眠る若き新女王の様子を伝えると、受話器の向こうの主君は、ふっと息を呑む気配を見せた。
『……それで、彼と会って、何か反応はあったかい?』
 シュナイゼルが『彼』と呼んだのは、――あの侵攻の最中に亡くなった日本最後の首相、枢木ゲンブの遺児である枢木スザク少年のことであった。ダミアン軍曹がアタミから彼をキョウトへ連れ、ブリタニア軍の捕縛から庇った。スザクは敗戦後から現在まで、桐原家の世話になっているという。カノンにはダミアンを保護する目的の捜査途中でスザクとは面識があり、彼からダミアンの様子について聴取を行っていた。
 皇家の午餐会ではキョウト六家の重鎮たちが集い、会食を行った。その席に同席はしないものの、桐原はスザクを連れてきていたのだった。
「ひどく取り乱すようなことはございませんでしたわ。終始、落ち着いたご様子で。……むしろ、私の方がその枢木少年から、まるで化け物でも見るかのように怯えられてしまいましてよ」
『ああ。そう……』
 シュナイゼルは聞いてきたわりには、素っ気のない返事をした。
「なんですの、その薄い反応は。そんなに彼女の様子が気にかかるのでしたら、殿下が直接、通信で陛下にお尋ねになればよろしいでしょうに」
 カノンが少しばかりの皮肉を込めて告げると、受話器の向こうの主人は、まるで困った子供のように困惑を含んだ声音で微笑んだ。
『あまりしつこく連絡をすると、彼女に嫌われてしまいそうだからね』
「はぁ……? 何を今さら仰いますの……」
 呆れ、ここに極まれり。カノンは思わず、貴族らしからぬ気の抜けた声を漏らしてしまった。普段、王宮でティラナに対してあれほど執拗なまでの執着と過保護を注ぎ込んでいる男が、自分のその態度と行いについて、今更そのような普通の男の子≠フような自覚を持っていたというのか。
『大事な局面だよ、カノン。これからを左右する、重要な局面だ。失敗は許されない』
「……貴方が、失敗など」
 カノンは喉まで出かかった言葉を、辛うじて唇を引き結んで飲み込んだ。「貴方が失敗などしたことがあるのですか」と、そう嫌味の一つでも言ってやりたかったのだ。だが、思い直した。ことティラナに関する事柄に限り、この完璧なる第二皇子は、異常なほどに潔癖で、臆病になるということを。
 世界をチェス盤のように見立てて統べる男が、彼女の感情の機微を前にした時だけ、平均的な一般の男性のように不器用な怯えを見せる。そのギャップは、腹心たるカノンから見ても、実に意外で、奇妙な人間味を感じさせる瞬間でもあった。
「……? 失敗は許されないとは、一体何をお企みに?」
『うん? ようやく、すべての準備が整ってね。次に彼女がこちらに戻ってきたら、プロポーズをするために、さ』
 さらりとすっとぼける主君に向かって、カノンは今度こそ、芯から呆れ果てた声を絞り出した。
「プロポーズを……今更なさるのですか?」
 二人の婚約は、彼らがまだ幼い皇暦二〇〇〇年の二月に、両国の大局的な利害の一致によってとうに成立している。そして、数ヶ月前に、ティラナから逆プロポーズがあったのを誇らしげに自慢していた。今更何を、と思った瞬間、受話器の向こうから、愉しげな吐息混じりの笑い声が静かに伝わってきた。
『彼女にはなにも渡していないんだよ。カノン。本番はこれからさ。十一月の誕生日に間に合うように、職人に作らせていたんだ』 
 十一月。それは、ティラナの誕生日の月であると同時に、療養生活から見事に快復を遂げた新女王の姿を、国内外の民衆へ広く知らしめるための、特別な戴冠式の準備が進められている時期であった。
 カノンは、主君の言葉の裏にある『ある不自然な行動』の点と点が一瞬にして結ばれるのを感じ、背筋に冷たいものが走った。
「……もしや。……ここ数ヶ月、殿下が陛下に対してなさっていた、あの度を越した、不要なほどのスキンシップとやらは……」
『ふふっ。……さすがだよ、カノン。そこへ気づくとはね。……指輪の正確なサイズや、ネックレスのための首周りのサイズを、彼女に悟られずに見極めるには、そうやって肌を重ねて測るしかないだろう?』
「な――」
 絶句した。どうやらこの男は、最愛の婚約者に手渡すための最高級のジュエリーの採寸を、日々の甘やかな抱擁や手のひらを重ねるスキンシップを通して、密かに、かつ完璧に遂行していたらしい。
『ちゃんとこういう手順は踏んでおかないとね。ロマンスというものを、大衆は好むから。話題性としては最高だろう?』
 それはつまり、すべてが完璧に計算された『演出』であり、最高の『話題作り』だということだ。確かに、一国の女王とブリタニア皇子の婚礼となれば、贈られたジュエリーの格式やそのロマンチックな逸話は、国際メディアの格好の餌食となる。注目度の高い両者の婚姻であればなおさら、そのロマンスはカストラリアの新体制を安定させる強力な政治的盾となるのだ。
「……すこしだけ、陛下に同情いたしましたわ」
 カノンは深いため息とともに呟いた。
 事情を知らぬ大衆から見れば、これ以上ないほどに甘美で情熱的な愛の物語。しかし、その実態を知れば、なんと計算高く、冷徹で、用意周到な男かと思う。普通の純情な令嬢であれば、千年の恋も一瞬にして冷めてしまうに違いない。
『手厳しいね。だが、彼女は私のそういう歪さも含めて、きっと面白がってくれるさ』
 受話器の向こうで、シュナイゼルはどこまでも愛おしげに、そして絶対的な確信を込めて、静かに微笑んでいた。




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午前四時の異邦人
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