アッシュフォード







 寝覚めは最悪だった。
 シルクのガウンを引きずり、冷たい這うような足取りでベッドからソファへ移り、死んだように再び微睡んでいると、小気味よいノックのあとにルイーゼが顔を出した。
「陛下。おはようございます。……陛下? ご入浴はなさらないのですか?」
 こっくりと、頼りなく頭を揺らし、一瞬どうしようかと昏い脳を回転させてから、ティラナはまたソファから重い身を起こす。
「……うぅん……入るぅ……」
 諦めに満ちた呻き声を残し、室内の遮光カーテンをシャッと開けていくルイーゼは、手際よく他の侍女たちに声をかけ、入浴後の着替えの準備や朝食の時間をテキパキと指示していた。ティラナは幽霊のように身を引きずるようにして、浴室の重い扉の向こうへ消えていった。

 ――嫌な夢をみた。
 土埃の舞う、日暮れの大地。周囲の建物はきれいさっぱり崩れさり、瓦礫の山を形成している。木々はなぎ倒され、その辺り一帯には夏のセミの鳴き声さえも消え、ジュクジュクと熟れた陽が、陽炎の中で揺れている。痛々しい夏。消毒液のアルコール、血、焼かれた人々のにおいが蘇ってくる。鍋底を響かせたような轟音が、頭の中のホールで演奏会をしている。不快な音の残響の最中で、あの子供ふたりの瞳が四つ並んでいる。
 ――『おじさん』
 おじさん。
 おじさん、と呼ばれている。
 ――『おじさん』
 もう一度、子供はそう呼んだ。おじさんとは、自分のことだった。名前はわからない。
 四つの瞳の組み合わせは、旬の葡萄のようだと思った。今年は食べられないだろう。瑞々しい食感と味を思い出すと、唾液が口の中にあふれる。
 ――『おじさん。はやく、いこう』
 どちらかが、袖をくいと引いた。おじさん≠ニ呼ばれた自分は地面の上に尻をつき、小さな背丈の少年たちを見上げている。ふたりの間には揺れる西日が見下ろしている。どこへ、いくのだろう。どこへ、いくあてがあるのだろう。
 もう一度、どちらかが『おじさん』と呼んだ。
 不快音の多重奏が子供の声を隠し、逆光の黒の中で唇の動きだけが正確に、何度も『おじさん』と自分を呼び続けていた――。

「陛下! 陛下! お返事を!」
 湯船の中で、じっと目を瞑り、胎児のように身を丸めていると、浴室の半透明のガラス扉をバンバンと激しく叩く音が響いた。ルイーゼの、悲鳴にも似た焦燥に満ちた叫び声で、ティラナの意識は急速に冷たい現実へと引き戻された。
「……大丈夫ッ!」
 反響する返事に、曇りガラスの向こうの影はおずと引き下がった。そして、「ご無事のようです」と、洗面台の奥の部屋に何事かと詰めかける従者たちに、訳を説明するルイーゼの声がくぐもって聞こえた。
「陛下。ルイーゼはここにいてもよろしいでしょうか?」
「……ええ。……心配させてごめんなさい」
 『出て行け』とは言わなかった。断っても『マニュアルでございまして』と食い下がるのが、彼女の仕事である。――君主は、二〇分間、無言や無音が続けば様子を確認する裏マニュアル項目が存在する。とくに入浴時間は、暗殺、溺死、誘拐。無防備な全裸丸腰の時間である。その他に警護が手厚くなるのは、食事、就寝中、夫婦の閨房事であり、プライバシーを侵害する見張りのようなことも侍女の仕事であった。病人のように他人に体を洗われるのが嫌なら、その妥協は必要だ。

「ご心配をおかけしました! ちょっと寝惚けていただけよ」
 ルイーゼを筆頭に侍女らから、安心したようなため息が漏れる。
「うん。美味しい。だし巻き卵? と白米と焼き鮭……根菜入りの味噌スープも」
 皇家からシェフを貸してもらい、日本食を朝食に取り入れていた。訪問国への礼儀を尽くすために、その国の食事を摂ることがカストラリアの中立性だろう。
「う〜ん! 凝固温度のコントロールが完璧ね。アミノ酸の相乗効果が素晴らしいわ!」
 箸を器用に動かしながら、目を輝かせて分析を始める女王の姿に、部屋の隅でスマートに控えていたカノンも、ようやくいつもの優雅な微笑を取り戻すのだった。


 トウキョウ租界の一画に佇むアッシュフォード学園。その理事長室の肉厚なマホガニーのデスクを前に、老境に差し掛かったルーベン・K・アッシュフォードは、深く、重いため息とともに自らの白髪交じりのグレーの頭を抱えていた。彼の傍らには、ブラウンのスーツを着た息子のアルフレッドが、沈痛な面持ちで立ち尽くしている。
「……本日、カストラリアの女王陛下が、我が学園を非公式に視察される。シュナイゼル殿下の名代として、カノン・マルディーニ秘書官も随行されるそうだ」
「父上。まさか、殿下は気づいて≠ィいでなのでしょうか。あのお二方が、この学園に名前を変えて身を寄せていることに」
 息子の緊迫した問いに、アッシュフォード卿は静かに首を振った。
「いいや……それは、ないだろう。我々の深読みのしすぎだ。……なんでも今回の視察の発案者は、陛下ご自身だとか」
 皇暦二〇一〇年のブリタニアによる日本侵攻。マリアンヌ皇妃の後ろ盾を失い、さらにブリタニアの軍靴によってルルーシュとナナリーという二人の幼き皇子・皇女が戦火に散ったと、その後の調査から公式に認められてからは一年。アッシュフォード卿が下した決断は、お家再興の野心などではなく、亡きマリアンヌへの絶対的な忠義と、残された哀れな子供たちへの、狂気にも似た保護≠フ情念であった。

「だが事実、シュナイゼル殿下がどこまで御存じかは分からぬ。あの御方のお耳に入れば……。もし、ルルーシュ殿下やナナリー殿下が生きているという確証を掴めば、たとえ肉親であっても、国家の平穏のために最適解を下されるだろう。秘匿、そして隠蔽への罪と、その罰が課せられることもあり得る。今の我々は拾っていただいた身。恩を仇で返すような行いに慈悲があるだろうか」

「しかし、我々には最適解が残されている。……殿下は摂政の身の上。女王の依願を前にしては折れざるを得ないだろう。そのためには……」
「経済特区の安定的な成果と、貢献」
 女王の歓心を買い、彼女をアッシュフォードの味方に引き入れることこそが、生きて茨の道を往くための唯一の道筋である。アルフレッドの言葉に、アッシュフォード卿は深く頷く。
 アッシュフォード家にとって、ルルーシュとナナリーの存在は余りある『呪い』であり、同時に命に代えても守るべき『遺品』であった。母親のマリアンヌ妃の旧姓である、ランペルージという偽りの姓を名乗っている。アッシュフォード家の私有地にある邸宅を隠れ蓑に、二人を住まわせている。それが、かつてマリアンヌ妃の後ろ盾として栄華を誇った名門の、最後の意地であった。
 口では忠誠を表する、息子の野心に気づいていないわけではない。もしも、自分が今日事態を進展させることが出来なければ、いずれ世を去る頃に、それまで約束したことを反故にし、ふたりの皇子と皇女を私益の交渉道具に変えてしまうことを。少なからず、ブリタニアの貴族としての誇りが、恵まれた環境で育ち栄華の味を知るアルフレッドには残っている。没落を免れただけでも良しとできない息子の強欲さを、厳しく叱りつけたい気持ちを、卿は辛うじて抑え込んだ。
 「陛下にはどのようにご説明する?」
 「なんとしてでもお引き留めを……したいところだが。……交渉事に入る前に、ある程度約束にかかるまでの信用≠フ提供が必要だろう。いくらあれほど開放的で親身にお話を聞いてくださる陛下であっても、シュナイゼル殿下への取り計らいを行っていただくには……それ相応のカードが要る」
 アルフレッドが額に手をあてた。
 「しかし、すでにスケジュールは決まっている……。どうにか、詰め込めないものか」
 「カストラリア側の、エリア十一の滞在予定期間は?」
 「たしか、一週間半ほどです。十一月までには帰国される。外遊としては長いが、非公式訪問であるからほかにも私的な用事があるのでしょう……」
 
 「――それならば、ご視察の後に、カストラリアが復興支援としてブリタニア軍と連携して進めたインフラ整備の完了、および、現地で陣頭指揮を執った者たちを労うための『懇親会』が予定されております。我がアッシュフォード家も招待を受けている。その公式な機会を狙うのはどうです」
 「……そうだな。……それがいいよ。父上」
 その時、コンコンと控えめなノックの音が響き、秘書が顔を覗かせた。
 「理事長。カストラリア王国女王陛下がご到着されました」
 「ああ……。行こう」
 アッシュフォード卿は、自らの胸中にある暗いわだかまりと覚悟を冷たい為政者の仮面の下に覆い隠し、異国の女王を迎え入れるべく、椅子から重い腰を上げた。


 アッシュフォード学園は占領統治後のエリア十一に建設されたばかりの、いくつかあるブリタニアの教育機関のひとつであり、主にエリア十一へ移住するブリタニア人の家族と子供たちのための場である。
 広大な敷地に広がるグリーン。塗りたての白い壁。軽やかな青い屋根の校舎が太陽光を受けて輝きを放っている。
 カノン・マルディーニを筆頭とする随行員を引き連れ、ティラナはアッシュフォード卿らの先導のもと、広大な敷地内を歩いていた。
 しかし、その日はあいにくの日曜日。生徒の影はない。敷地内には、中等部に高等部、近隣に大学がある。離れたところには、寮も用意されている。開校したばかりの学園。普段であれば、子供たちが賑やかに談笑しているはずの中庭や回廊は、驚くほど静まり返っていた。
「あいにく本日は休日でございまして、生徒たちの姿も疎らでございます、陛下。普段であれば、我が校が誇る最先端のカリキュラムに勤しむ若者たちの活気をお見せできたのですが……」
 ルーベン・K・アッシュフォードが、非のうちどころのない洗練された仕草で、大袈裟なほどに遺憾の意を示して見せる。
「いいえ、お気になさらないで、アッシュフォード卿。むしろ、このように静かな環境の方が、貴校が培ってきた素晴らしい建築様式や、教育環境の『骨組み』がよく見えて、私にとっては好都合です」
 ティラナは優雅に微笑んだ。
 実際、生徒がいない学園は、まるで完璧に管理された巨大な鳥籠のようであった。
「立派な校舎ね。広くて、開放感があって……眺めもいいわ。グラウンドもプールもあって……今日が日曜日なのが、本当にとっても残念」
 アッシュフォード卿らが、次の視察先である特別科学棟の解錠のために少し前方へと進んだ、その短い合間。
ティラナは、並んで歩くカノンの横顔にふと視線を向けた。彼女の口から一つの疑問が零れ落ちる。
「……ねえ、カノン。少し気になったのだけれど」
「はい、何でございましょう、陛下」
「シュナイゼルも……寄宿学校で、学生生活を送っていたわ。どんな学生だった?」
 女王からの問いかけに、カノンは細い眉を微かに上げた。そして、クスリと、悪戯が成功したかのような優雅な笑みを唇に浮かべた。
「殿下の学生時代に興味がおありですか? ……そうですね、一言で申し上げるなら、当時からお変わりなく、スパルタでいらっしゃいましたわ。成績は常にトップ、周囲の誰一人として彼に嫉妬することさえ許さない、完璧な……監督生を務めておいででした。ヴァルグレイでもお話しいたしましたとおり、規律に厳しく」
 カノンは、歩みを止めずに、薄く化粧を施した美意識の宿る目を、僅かに見開いた。その脳裏に、主君であるシュナイゼルから下されていた厳命が瞬時に過る。

 ――『――カノン。彼女が私の過去や、学生時代のことを尋ねてきても、深くは答えないで』

 微笑みを絶やさぬ主君の、危機管理。
「ふふ、そう。本当に、あの人らしいわね」
 ティラナはカノンの滑らかなはぐらかしに気づくことなく、軽く笑って視線を前方へと戻した。
 ――だが、その瞬間だった。
 開け放たれた回廊を吹き抜ける風が、芝生の匂いと、微かなワックスの香りを彼女の鼻腔に運んできた。校舎の時計塔から、日曜日の午前を告げる柔らかな鐘の音が響き渡る。
 ドクン、と心臓が不穏な鼓動を刻む。
 カノンは何も言わなかった。誰もその名前を口にしていないはずなのに。
 ティラナの脳裏に、今歩いているアッシュフォード学園の景色と完全に重なる、もう一つの校舎の残像が強烈にフラッシュバックした。
 ――……静かすぎる回廊。日曜日の、昼下がり……。
 頭蓋骨の裏側がジリジリと熱を帯びる。放課後の図書室の片隅。夕日が差し込むチェス盤。温かい紅茶の蒸気。その向かい側に座って、自分を見つめている軽やかな青紫色。今よりも少しだけ幼い微笑みが、生々しい質量を持って視界に割り込んでくる。
 そして、そのチェス盤の前に座っているのは、王女としてドレスを纏った自分ではなく――仕立てのいい、男子生徒の制服を着た少年≠フ腕。
「……陛下? どうかなさいましたか」
 カノンの怪訝そうな、しかしどこか緊張を孕んだ声に、ティラナはハッと我に返った。気づけば、自分の右手が、きつく反対側の二の腕を圧迫するように掴んでいた。
「……いいえ、なんでもないわ。少し、この建物の響きが、耳に慣れないだけよ」
 ティラナは必死に呼吸を整えながら、冷や汗の滲む顔を伏せた。
カノンはそれ以上追及せず、ただその静かな青い双眸で、女王の横顔をじっと見つめていた。シュナイゼルが何を恐れ、何を隠そうとしているのか――その記憶の歪みの深さを、カノンもまた、この学園の静寂の中で肌で感じていた。


 案内されたのは、最先端の実験機材が整然と並ぶ、大学部の巨大な研究棟だった。その中央に鎮座する、ブリタニアの技術の結晶である重厚な機体を目にした瞬間、ティラナの瞳が科学者としての輝きを取り戻した。
「――こちらは、ガニメデでして……。かつてマリアンヌ皇妃殿下がテストパイロットを務められた、我がアッシュフォード家の技術の真髄にございます」
 アッシュフォード卿が誇らしげに、しかしどこか祈るような視線で機体を見上げる。ティラナはその目が冴えるような青く美しいフォルムと、むき出しの駆動系の数値を目で追い、感嘆の息を漏らした。閃光のマリアンヌの名とともに、その名を轟かせた名機。
「素晴らしいわ。これがあの有名なガニメデ……。初期の機体でありながら、これほど完璧なフレームバランスを誇っているなんて。――ねえ、卿。少しだけ、コックピットに座ってみてもいいかしら?」
「お、お座りになると!? ええ、どうぞ、どうぞ! 光栄にございます。お足元にはくれぐれもお気をつけくださいませ」
 アッシュフォード卿は一瞬驚いたものの、女王の予想以上の食いつきに生存の活路を見出したかのように、揉み手をしてタラップを促した。
カノンが「陛下、流石にワンピースのままでナイトメアのシートは……」と、裾が機体のどこかに引っかかってしまわないか、下から見上げたときに見えてはならぬものを見られてしまわないかと、胃を押さえながら制止しようとするが、ティラナの耳には届かない。彼女は軽やかな足取りでタラップを駆け上がり、時代を変えた歴史的な傑作機のコックピットへと、その身を滑り込ませるのだった。
「この、ガニメデはまだ動くのかしら?」
 ハッチのないオープン席から、ティラナが顔を下にいるアッシュフォード卿へ向ける。
「ええ。エナジーフィラを新しいものに交換してありますし、稼働いたします。操縦なさいますか?」
「父上。操縦のご経験はあるのか……?」とアッシュフォード卿の耳そばで囁いたのは、青い顔をしたアルフレッドだった。
それを聞いて「陛下、操縦方法は……」と口を開きかけた、まさにその時、ウゥン……! と、研究棟内に重厚な駆動音が鳴り響く。
ガニメデの巨大な金属製のアームが、滑らかな音を立ててぐるりと頭上で旋回し、下から上へと万歳するようなポーズを完璧に取ってみせたのだ。
「あら。いけるわ! 最新のナイトメアフレームだったら電子制御が複雑すぎてわからなかったでしょうけど、設計がシンプルだから……非常に直感的な操作が可能ね!」
「あぁ……さすがは、陛下だ。まさか一瞬でシステムを掌握されるとは……」
「ご存知かどうかわからないけど、陸軍で遊ばせてもらったことがあるの! 二世代めだったかしら……。昔やってた王室日記っていうテレビ番組で!」
 楽しげな声と同時に、ガニメデの腕が肩の部分から、ブゥン! と凄まじい風切り音を立てて高速回転した。その豪快な旋回によって強烈な突風が辺りに巻き起こり、下で見上げていたカノンの美しい金髪を派手に激しく揺らした。
「思い出した。……どうりで……」
 風を遮るように顔を覆ったアッシュフォード卿が、ぽつりと納得したように呟いた。
「……父上、それは一体何の話です?」
「十二年前にカストラリアで放送されていた、あまりにも挑戦的な王室広報番組だよ、アルフレッド。……当時、まだ幼かったティラナ殿下が、陸軍倉庫から旧型機を勝手に走らせて街へ飛び出し、基地内に警報アラームが鳴り響く中、陸軍兵士らと現場整備士が見事なトラブル対応を見せた伝説の回だ。あまりにイレギュラーな事態への即応力が素晴らしいとして、実はブリタニア本国の技術部でも、ナイトメアフレームの危機管理マニュアル用映像として現在も教材に使用されているのだよ」
 それを聞いたアルフレッドは、呆れ果てたように何か言いたそうに口を開いた。カノンには、彼のその「なんて人騒がせな子供か」と言いたげな気持ちが痛いほどによく分かった。
 だが、カノンは風に乱れた髪を優雅に整えながら、ふと、胸の奥で一つのジグソーパズルが噛み合うような感覚を覚えていた。
 ――そういえば、あの寄宿学校時代。
 ノエルだった頃のティラナが、ロイドの実験機の暴走事件ですんなりと対応にあたったのは、その経験があったからなのではないかと、カノンは今さらながらに思った。 


「――孫娘のミレイにございます」
「お初にお目にかかります。ティラナ陛下」
 アッシュフォード卿に促され、ミレイは完璧な所作で片足を斜め後ろに引き、膝を折ってドレスの裾を広げる。若々しくも気品のあるカーテシーで、若き女王へ最敬礼の挨拶を捧げた。
「ありがとう、ミレイさん。色々とおじい様――アッシュフォード卿からお話を伺っていますわ」
「え、おじいちゃん、陛下に私の何をお話ししたの……?」
「これ、ミレイ! 陛下の御前であるぞ、言葉を慎みなさい!」
「あ……っ、大変失礼いたしました!」
 慌てて居住まいを正す孫娘の姿に、ティラナはふっと形よく整った唇を綻ばせ、声を立てて笑った。
「いいんですよ、楽になさってください。今回はあくまで非公式の親善訪問ですし、堅苦しい格式は必要ありませんわ」
そう言って、ティラナの琥珀色の瞳が、ミレイの後方に展示されていたマネキンの衣服へと向けられる。それは、ブリタニア本国の伝統と極東のモダンさを絶妙に融合させた、アッシュフォード学園指定の制服であった。
「……それが、こちらの学園の制服かしら? とっても可愛らしいデザインね」
「もしよろしければ、ご試着なさいますか?」
 ミレイの屈託のない提案が響いた瞬間、その場の空気が凍りついたように静まり返り、カノンをはじめとする一同の視線が、一斉にミレイへと集中した。
「え……? 私、何か変なこと言っちゃいました……?」
「ミレイ、お前というやつは……! 陛下のご年齢を、いったい何歳だと心得ておるのだ。中高等部の制服などと――」
「おじいちゃんこそ、女王陛下の前で女性の年齢を話題に出すなんて、それこそ最高に無作法で失礼じゃない?」
「しかし、それは……!」
「アッシュフォード卿」
 カノンが、笑顔のまま底冷えするような声でその名を呼んだ。アッシュフォード家の親子がヒッと息を呑む。
 だが、当のティラナは、大層ツボに入ったように「あはは、ふふ!」と楽しげに鈴を転がすような笑い声を響かせた。
「いいじゃない、賑やかで最高だわ  私のような立場に生まれると、制服を着て学校に通うなんて一生縁のないものですから……。お言葉に甘えて、ぜひ試着させていただこうかしら」
 秋のうららかな陽光が降り注ぐ、アッシュフォード学園の校舎屋上。
 そこには、カストラリア王国の威信を背負う至高の女王ではなく、どこにでもいる瑞々しい一人の少女が、風にブルネットの髪をなびかせて立っていた。
「カノン〜! 撮って、撮って!」
 ティラナは、アッシュフォード学園特有の、愛らしい桃色の中等部制服を身に纏い、屋上のフェンスに手をかけながら、カノンに向かってはしゃいだ声を上げた。
 カノンは手慣れた手つきで最高級のカメラを構え、ファインダー越しに、少女のような笑みを浮かべる主君の婚約者を捉える。
 パシャリ、と静かなシャッター音が響いた。
「はい。綺麗に撮れましたわ、……いかがでしょう?」
 カノンが液晶画面を差し出すと、ティラナはトコトコと駆け寄ってきて、画面を覗き込んだ。
「うん、いい感じ! 構図も光の入り方も完璧よ。貴方、本当に写真を撮るのが上手ね、カノン」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
「昔ね、あの方――シュナイゼルにカメラを持たせて『撮って』って頼んでみたことがあるの。そうしたらね、あの人が撮る写真って、なぜか全部が完璧に水平で、陰影も規格通りで、まるで証明写真みたいになっちゃうのよ! まるで犯罪者のマグショットか、国家機密の機密資料みたいに冷たいの」
 クスリと笑うティラナの言葉に、カノンは心の中で『いかにも殿下らしい』と深く同意せざるを得なかった。あの主君が撮るものは、芸術であってもどこか血が通っていない、完璧な論理の配置になりがちだからだ。
「よし、決めたわ。これ、シュナイゼルに送ろうっと」
「殿下に、ですか?」
「ええ。最近、この携帯の履歴が向こうからの着信ばっかりでしょう? だから、たまにはこちらからも何か送ってあげなきゃ悪いと思ったの」
ティラナは楽しげに指を動かし、先ほど着替えて撮影した『中等部の可憐な桃色の制服』と、先ほどまで着ていた『高等部の柔らかな黄色の制服』の二種類の写真を添付し、  シュナイゼルへとメールで送信した。ふぅ、と満足してバッグに携帯を仕舞おうとした、まさにその刹那。
 まだ送信完了の通知が消えきっていない画面が、けたたましく震え、お馴染みの暗号化独立回線の着信を告げた。
「え!? 嘘でしょう?」
 ティラナは思わず目を丸くした。
「彼、今日は政務宮殿で、各国の大使や閣僚を集めて、絶対に抜け出せない重要な拡大閣僚会議を詰めてるって言ってなかった?」
 怪訝に思いながらも、ティラナは通話ボタンを押して耳に当てた。
「――はい。シュナイゼル? どうしたの、会議じゃないの?」
『やあ、ティラナ。極東での視察を、随分と楽しんでいるみたいだね』
 受話器の向こうから響くシュナイゼルの声は、いつも通り、どこまでも穏やかで甘やかだった。しかし、ティラナの聴覚は、彼の声の背景から、何やら、ガヤガヤ、ザワザワとした、尋常ではない人間のどよめきや、ざわめきが響いているのをキャッチしていた。
「会議はいいの? なんだか、貴方の後ろがもの凄くザワザワしているみたいだけど……」
『うん? ああ、気にする必要はないよ。――ただね、我がフィアンセの、愛らしい勇姿が手元に届いたものだからね。あまりの素晴らしさに、つい、ここにいるみんなに自慢したくなってね』
「……ちょっと、シュナイゼル。愛らしさと勇姿は、意味が矛盾しているわ。……っていうか、まさかあなた、さっきのあの写真を……!」
 ティラナの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
 受話器の耳元で、シュナイゼルが『くく……』と、腹の底から愉しげに、そして酷く愛おしそうに忍び笑う声が響いた。
 どうやらシュナイゼルは、世界を動かすような最高規格の国家会議の最中、プロジェクターか何かの大画面に、中等部・高等部の制服を着てポーズを決める婚約者の写真を堂々と映し出し、ブリタニアとカストラリアの度肝を抜いたらしい。背景のざわめきは、あまりの事態に困惑し、しかし称賛せざるを得ない閣僚たちの、動揺の声だったのだ。
「こ、この写真は……私的利用に限るわ!」
『おや。そんなことを言っていいのかい?』
「……え?」
『非常に勿体ないな。今まさに、中華連邦の経済特使や、E.U.諸国の大使たちが、これほど完璧に制服を着こなされる女王陛下の瑞々しさに深く感銘を受けて、上層部に特区への投資枠拡大を直訴すると息巻いているところなんだよ。君のこの愛らしい外交成果を、ここで引っ込めてしまうのは国益の損失だと思わないかい?』
 何を言っているんだ。何かの間違いではないか。そんなことがまかり通っていいのか。きわめてプライベートな写真を無断で公開など……。
「くっ……! あなた、私の写真をそんな風に……政治とビジネスのダシに使うなんて……!」
『人聞きが悪いね。これは立派な外交だよ。視察訪問記録ともいえるし、ブリタニアとカストラリアの友好関係の証明になると思うけど。さらにいえば、療養明けの女王の仕事ぶりを気にする者にはいい説得材料に……、それでもダメだというのかい?』
「ダメに決まっているでしょう! 恥ずかしすぎて死んじゃうわ! ……あなただけに見せるつもりで送ったのに……」
 ティラナの必死の悲鳴が尻すぼみになっていく。
 『悪かったよ』と謝る声には、誠意が籠もっていない。送話口に向かって顔を赤くしてプリプリ怒るティラナに、カノンは慎重に呼びかけた。
「殿下はなんと?」
「……貴方にボーナスを弾むって言ってたわ。よかったわね」
「あら。お目が高い。……ありがたく頂戴いたしますわ」
「カノンまで! あぁもう! 迂闊だったわ! 私のおばか!」
 悲鳴を上げるティラナの背後で、アッシュフォード卿は微笑ましさを噛み殺し、隣にいるアルフレッドに視線を寄越したとき、彼の秘書がパタパタと駆けてきて「理事長。四日後の懇親会でスピーチをするようにと……、主催者のノーチス閣下からのお達しでございます」と囁いた。
「え、ええ……。何でも、先ほどカストラリアの政務宮殿から臨時の最高暗号回線が繋がり、ノーチス閣下直々に『アッシュフォード卿に、ぜひ極東の教育改革の展望について一言いただきたい。これは上からの御意志だ』と、酷く上機嫌な様子で仰せつかったとか……」
「なに?!」と驚きを隠せず、アルフレッドは秘書に目を剥き、それから未だ紅顔で随行員の秘書官に不満を垂れる女王を見遣った。
 

 真紅の陽が、じっとこちらを凝視している――。
 車窓に額を預けたティラナは、微睡みの境界で、極東の燃えるような夕日に射すくめられていた。その奥底から、バラバラになった記憶の破片を強引に呼び覚まそうと、強烈な光の束が畳みかけてくる。逃げ出したいほどの眩しさに、しかし、どうしても目を背けることができない。
「……環状線の外を走ってもらえる?」
 ふと、乾いた唇から零れ落ちた言葉に、隣のシートにいたカノンが細い眉を寄せた。
「……しかし、陛下。滞在先のホテルへ向かうルートはすべて事前に申請、護衛配置を済ませております。急な予定変更は警備上、お勧めいたしませんわ」
 ましてや環状線の外は、ブリタニアの栄華が及ばぬ未開発地域。あるいは、日本人が押し込められた貧民窟の境界線だ。だが、ティラナは琥珀色の瞳に宿る、昏く強固な意志の光を隠そうともしなかった。
「わかっているわ。でも……見ておきたいの。都合の悪いことも」
 その一言に、カノンは諦めたように嘆息した。彼女はただのお飾りの女王ではない。綺麗に均された租界の表舞台だけを見て満足するような人間ではないことを、カノンは知っていた。
「ルートを変更してください」
 カノンが車内電話を執る。
「ホテル到着までの予定時間は?」
「二〇分でございます」
 運転席との仕切りの向こうから、下級秘書官のランクスが緊張した声で応じた。
「一〇分でいいわ。その時間だけ、私にこの国の『本当の姿』を見せて」
 ティラナは再び、流れる景色へと視線を戻した。
 だが、その瞳の裏に焼き付いて離れないのは、アッシュフォード学園の白い校舎ではなく――あの午餐会の席の、まさに食事の直前で、挨拶を交わした一人の少年の相貌だった。かつての枢木政権のフィクサーであり、今なおエリア十一の地下経済に絶大な影響力を持つ、桐原泰三。老獪な老人が連れてきたその子供を、彼はこう紹介した。
 ――『陛下にご挨拶申し上げます。……こちらは、亡き枢木ゲンブの倅にございます。……ほれ、スザク』
 ――『……枢木スザクです』
 直立不動の姿勢から、すっと、生真面目なほど真っ直ぐに子供の頭が下がる。
 未だ筋肉のつききっていない、細い四肢。よく丸まった、柔らかそうな栗毛の癖毛。その幼い顔立ちに似合わない、深すぎる沈静を湛えた翠緑の瞳。それは他者を拒絶し、己のあらゆる感情を暴力的なまでに押し殺した、落ち着きすぎた――いや、諦めきったまなざしであった。
 ――『……お父様のことは……』
 ――残念でしたね、と。
 口の先から、吐息のような言葉が漏れた時、ティラナは少年の相貌が、元々の健康的な肌色とは別に、酷く蒼白であることに気づいた。なぜだろう。その小さな肩が、目に見えない恐怖に微かに震えているとさえ思えた。クリクリとした大きな瞳が、初対面である異国の女王を、まるで世界の不条理そのものを見るかのように不思議そうに見返してくる。
 侵略戦争によって、子供が子供の時間を奪われ、大人のような振る舞いを覚えていく。
 その痛々しい過剰適応の姿は、他ならぬティラナ自身の歪んだ精神性と、あまりにも深く共鳴し合っていた。
後ろからそっと、カノンが『陛下、ご着席ください』と促したことで、その凍りついた時間は動き出した。
「……カノン」
「はい」
 困惑は尾を引いている。
「……彼と、面識があるの? ……枢木少年と」
 カノンは吐息をついて、無言に着地した。隠したがっているのは、旧日本の景色ばかりではないことは気づいている。ティラナが、過去、ティラナ以外の人物だった頃の記憶を取り戻して欲しくないと願っていることも。
「シュナイゼルが止めているの?」
ちらりと彼を見る。長い睫が下がり、眉に皺が寄っている。堪えるような顔つき。シュナイゼルと違って、カノンは正直者だ。感情と、葛藤を持ち合わせている。そして、知らず知らずの内に、彼を悲しませたり喜ばせたりしている。
 環状線を外れ、窓の外の景色が、灰色に淀んだスラムの平屋へと変わり始める。ティラナはぽつりと、自分自身へ言い聞かせるように心の内で呟いた。
 あの少年の目。なにかを求めている。しかし、拒んでいる目。力が籠もっている。罰を求めている。その瞳を一番よく知っている。
 ――私もそうだから。
 毎日、毎朝、毎晩。鏡の中で控えめにその瞳と対峙すると、大聖堂の礼拝堂の中で永遠の安息に就いた両親の棺を思い出して、ローザンベリーの土の底に眠ったマルカを思い出す。誰か、止めてくれ。生命を終わらせたくなる、罪悪感の澱。
 灰色はまもなく、朱色にすべてを委ねようとしていた。真新しい租界のクリーンな色の建物の隙間から光を反射し、血の色を黒い大地に注ぎ込む。瓦礫は残り、轍の道が縦横無尽に走り、アスファルトは砕かれたままそのまま放置されている。その上を、吹き溜まりの埃と土が風に押し流されていく。
 降り立った道から少し歩いて、遠巻きに鋭い視線を浴びる。この荒廃した場所で日本人は慎ましく暮らし続けている。ブリタニアからすれば、役所に行って手続きをすれば名誉ブリタニア人になれるのに、日本人であり続けることに拘り続ける人々であり、ナンバーズ、日本人はイレヴンと呼ばれた。
「……陛下。長居は禁物です」
「……そうね。日本人からすれば、私たちはブリタニア人に見えるでしょうから」
 どこからか、赤子の泣き声が夕焼けに響いた。痩せた野良犬の鳴き声。叱りつける男の声。音量の増す鳴き声。人々の不躾な憎悪の視線。
 文明国をここまで焦土に変える必要があっただろうか?
 ナイトメアフレームの実戦投入とデータ収集。中華連邦への圧力。国際社会への抑止力と軍事力の誇示。血を吸った土で育った綿のシャツを着て暮らす人々は、何食わぬ顔で、埃と土を寄せ付けない無菌室のような高層階で暮らす。
 為政者の男の判断と失策が招いた戦争。
 ティラナは頭を横に振った。暴力を受ける者に理由があれど、一線を越えてはならない。どんな、理由があっても。
 茜色の光の中に掌を翳し、ティラナは手の向こうに夕雲を見つめた。指の縁から血が染み込んでいくようだ。
「あ……」
 憔悴しきった表情。
 限界まで見開かれた両眼。
 も う一度、斃れた男を見遣る。腹部には凶器が深く突き刺さっている。
 ――『おれ……あ……おれが……』  
 子供の声は掠れ、舌が縺れたままなにかを発しようとして、上手くいかない。
 注意深く書斎の外を確認し、扉を閉じる。『わたし』はそっと歩み寄り膝をつくなり、少年の小さな体を 抱え込んだ。踏ん張る力もなく彼はすんなりと倒れ込んだ。薄い体の内側で、ドクドクと心臓が早鐘を打っ ている。
 ――『……ぁ……おれ……』  
 ボロリとこぼれた大粒の熱い涙が、『わたし』の、胸元に染み込んだ。  
 ――『大丈夫だ』
 『わたし』は言った。小さな頭の後ろに掌で包みこんで、強く抱きしめる。父親の死相が目に焼きついてしまわないように。今 日のことを何度も思い返して、その顔が何度も迫ってきて、少年の心を殺してしまわないように。
 ――『大丈夫。……大丈夫……大丈夫だよ』
 荒々しい呼吸が耳元で繰り返される。祈るような気持ちで、少年を宥め続ける。
 少年の罪の徴を確認するように、反対側に目を向けると――彼の父親の巨きな躯がそこに力なく、座り込んでいる。腹部には深く、ナイフが――突き刺さって、まるで、それは。
 ――まるで、それは。お父様の亡骸のように。
「陛下?」
 カノンの柔らかな声の心配が肩にかかる。
「……っ……」
 指で目元を押さえる。
「光が、眩しくて」
 とめどなく、透明な雫が頬を濡らす。
 もう少しましな言い訳があればよかったのに、なにも思いつかなかった。



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午前四時の異邦人
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