書斎の前に立ったとき、室内で誰かとの話し声がした。電話口でのやり取りのようだ。
――国内のプロパガンダは上々……ああ。……あのふたりは……煮るなり焼くなり好きにしろ……――
耳に入ったのはほんの一部分の内容に過ぎない。
しかしその内容に危機感を募らせた『わたし』は、力をこめて扉を叩いた。
「入れ」と硬い声が厚い扉の奥からくぐもって届いた。背筋をピンと伸ばし、軍隊式の敬礼で入室した。それがこの男の前では、正しい作法のようが気がしたか らだ。
――『失礼致します。首相閣下』
――『今朝方、こちらに来ると桐原から連絡があったが……巫山戯た話は丁重にお断りしたいところだな』
意志の強い鋭利な眼差しを受け、『わたし』はまどろっこしい挨拶もなしに『通達文書を届けられたと伺い ました』と切り出した。
――『それが? だからなんだというのだ。引き下がれ。此度に関して、お前の出る幕にない。……サクラダ イトの件は命拾いしたな?』
論点をはぐらかそうとするゲンブに乗らず、『わたし』は追及を続けた。
――『カストラリアからの返事は?!』
――『さてな』
答える必要などない。 『わたし』もそれは理解していた。
湧き上がる焦燥感はいったい――。誰のものだろう――?
――わたし。
誰がこの戦争を止めたいと、願っていたのだろう。
――わたし。
誰だったら、この戦争を止められただろう。
――わたし。
……本当に?
本当に、戦争は止められただろうか。
「わたしは……」
自分自身から発せられた声が、夢の旅を終わらせる。
身を起こし、ベッドの上でついた深いため息が第一声だった。
澄み切った静けさ。肩の下で伸びた太い髪がさらりと絡まる音さえ大きく聞こえるほどの。悩ましい夢の残像をぼんやりと眺め、ベッドの上に再びそっと横たわる。白い自分自身の足とくるぶしの丸みの向こう。閉めきった厚く上質なカーテンの裾の底から、明るい水色の光が漏れている。サイドボードに置いた携帯電話に手を伸ばしかけて、宙を彷徨う。
日本とカストラリアの時差は三時間ほどで、真夜中だ。
瞼の裏では舞台が続いている。夢という、記憶のなかの。インク切れの過去の景色が、この日本で見てきた出来事の断片が。起き続けて、知ることを拒むことも選択肢にあったのにそうしなかったのは、いくら今日を拒んでも、また明日、明後日、明明後日と過去のヒントが目の前に現れて教えていくだろうから。その誘惑に打ち勝ち続ける精神力が、『わたし』に残されているだろうか。
黒に吸い込まれた透明な水に足を浸けるように、意識が深く沈み込んでいく。
ゲンブは葉巻を手にし、先をシガーカッターの刃で切り落とした。
それが夢ならば、細切れの覚醒を挟んで続きを視ることは叶わないだろう。『わたし』は焦燥感に駆り立てられていた。背中を振り向くことも器用にできないが、急かされるか、尻に火をつけられたかのように。
――『先程……貴方は……電話で、どなたとお話しになっていたのですか? あのふたり……ブリタニアの兄妹のことですね?』
夢の『わたし』は置かれた状況のヒントをくれる。枢木ゲンブのもとには、ブリタニア皇室から人質としてふたりの兄妹を留学名目で渡航させ、彼の家に住まわせていた。住居は宮殿暮らしの子女には見合わぬ粗末なもので、ぞんざいな扱いが本国に知れれば外交問題に発展するというのに、危機管理を怠っているとしか思えなかった。
その部屋に入る直前、ゲンブは誰かと秘密のやり取りを交わしていた。『わたし』は不審な言動から書斎の部屋を開け、枢木ゲンブに問い詰めていた。
――『関係のない話だ』
枢木ゲンブの声は冷ややかだった。息を吸い込み、直談判のエネルギーを蓄えて、『わたし』は一言を発した。
――『お二方はカストラリアに亡命させてください』
『聞き入れる筋合いはない』と、男は間を置かず、バッサリと切り捨てた。そこで引き下がってはならないと食い下がった。
――『子供たちを、巻き添えにするおつもりですか』
――『あれはただの子供ではない。政治道具だ。下がれといっている。これは日本とブリタニアの問題だ』
――『では、なぜ四者会談を通達された!』
『わたし』は四者会談と口にしていた。一瞬なんのことだろうと、戸惑った。『わたし』のことをティラナはよくわからなかった。
――『あの狸め。ベラベラと』――そうゲンブは吐き捨てた。眉間の皺が不快度を示している。
『わたし』はいつの間にか、ゲンブに詰め寄っていったが、控えていた使用人が飛び出てきて腕を引き留めた。
――『こいつを摘み出せ』
――『枢木首相!』
『わたし』は叫んだ。いつまでもしつこいので、ゲンブは肩を突いた。実に軽い力だったが、筋力の落ちた『わたし』 の身体は風に煽られる案山子のようにふらついた。
――『では、良案があるというのか? それ以上のものが』
姿勢を崩したところから、枢木ゲンブを睨み付ける。
――『ですから、中立国同盟をといっているんです!』
枢木ゲンブは目はみるみる血走り、鬼のような形相で怒号を飛ばした。
――『日本はサムライの国だ! たとえ本土決戦になろうとも最後まで戦い抜く。それが大和魂だというのが わからんのか!』
――『そんなものは、精神論でしかない!』
諦めじと食い下がる。 完璧などない。最悪の敗けよりも、多少マシな敗北の方が価値がある。
――『貴様のは甘ったれた理想論だ!』
生ぬるい唾が顔に吹きかかる。つい瞼を閉じた。混乱していた。酷く、酷く。ぐるぐると世界が廻っていく。なんてことない否定に、ここまで揺さぶられたことがあっただろうか。
――『……四者会談に漕ぎ着ける理由は?!』
――『信用ならん』
――『は?』
――『カストラリアは、所詮ブリタニアの犬。属国である国家と組む。それはただ敗けることよりも、もっとも惨めなことだ』
つまり――カストラリアと同盟を結ぼうというのは、どのみち日本にとってはブリタニアに屈服すること と同義であり、またその手を借りるということは、カストラリアの下にぶら下がると彼はいっているのだ。
――『ブリタニアの庇護ありきの斜陽国家が、どう吠え面をかこうが知ったことではない。……二カ国での提携よりも最善策が既にある。だから四者会談だ』
まら四者会談≠ニいう言葉が飛び出た。まだ言葉の正体が掴めなかった。
わかったか?――と彼はニヒルに笑い、葉巻を持ったまま、『わたし』の横を過った。
――『この混血の擬い物め。二度と私に指図をするな。青二才が』
廊下に消えていく足音。窓越しに蝉の合唱が喧しい。使用人が一人、二人と書斎を出て、その足音さえ遠ざかっていく。
いつまでもそこで佇むわけにはいかない。脚が震え、握った拳の内側は爪が傷をつくっている。ゆっくりと呼吸を再開し、汗が噴き出した。やがて足を書斎の出口へと向けると、そこにはスザクが待ち構えていた。
――『あ……ごめんなさい……』
居心地の悪そうな顔で、ふいっと顔を逸らした。彼は先程の話を聞いていたようだ。
『わたし』は言い繕うこと、誤魔化すことも、手遅れだとわかったうえで、何事もなかったかのように調子を取り戻そうとした。
――『……ふたりに会っていってもいいかな』
なんて弱々しい声だろうと思った。一戦交えて、怯えきった負け犬の息づかい。子供の前で恥ずかしくてどうしようもない、男の声。
もっと戦え! ――と、ティラナは鼓舞し、馬の尻に鞭を叩きつけるように『わたし』のなかで叫んだ。まだ、間に合うと、スザクに縋るのではなく、出て行ったばかりの男の背中を追いかけて粘り強くこの戦争を止めるように、助けを乞いなさいと。
――『あ、ああ。……こっち!』
スザクは顔を上げ、『わたし』の手を握った。そして、無情にも最後のチャンスを逃した。
古びた白亜の城。
城とはまったく皮肉な表現だ。現実は、物置となった埃の舞う土蔵である。白く塗り固められた土壁。重い屋根瓦。人を寄せ付けぬ堅牢な扉。そこが、彼らの住処だった。ブリタニアから送り込まれた人質の兄妹。清潔で華やかで居心地のいい宮殿から追い出された子供たち。
黒い髪の少女か少年か、性別の境界が曖昧な子供の、大きく目尻の上がった紫紺の瞳が、『わたし』の方に向く。見覚えのある眼差しの正体にたどり着いて、『わたし』は夢か現かも曖昧に「あぁ……」と嘆息を漏らす。
――彼らは、どこに?
侵攻の日、彼らと一緒に避暑地にいた。そして、人質の子供たちを亡命させようとしていた。
――どこへ?
カストラリアへつれて逃げようと。
――どこへ、行った?
なぜなら。兄妹と、スザクを連れて西へ向かったのは――『わたし』なのだから。
――いつ別れた?
血のような落日。震える指先。見知らぬ黒塗りの車の影。避難所で『わたし』に呼びかけたのは。
「……アッシュフォード卿……」
「……思い出しそうだって?」
「……想定はしていましたが、その時は近いかと思います」
スケジュール確認の定例報告の終わり、シュナイゼルは時差や寝起きを悟らせぬ顔で、カノンの報告を受けて微かに眉を顰めた。
明け方、ベッドルームの方から侍女のルイーゼが呻く声を聞いたという。大事に至らないかどうか確認しようと扉を開け、ベッドをみると女王は魘されていた。躊躇せずルイーゼは彼女を夢から足を洗わせ、水差しの水を飲ませた。朱く腫れ上がった目元、幾筋の汗が流れ、寝衣をぐしょりと湿らせている。
完全に大丈夫とは言い切れない時期だった。何事も上手くいっているような気がしていたが、それは陛下の気丈で殊勝な態度によるものであって、すべてが消えたわけではない≠ニルイーゼはこぼしていた。
「彼女は、泣いているかい?」
モニターに映るシュナイゼルに変化はない。平坦な、不動の一直線の感情は、機能的な人形めいた印象を与える。それであっても、この主人が考えなしでいることは殆どない。
「……ええ」と、カノンは慎重に頷いた。
「ん……ああ……私は、モルヒネだから。頃合いかと思ってね」
「……モルヒネ?」
シュナイゼルの示唆的な物言い。知らない隠喩にカノンは反芻した。
モルヒネ――痛みを一時的に麻痺させる、劇薬であり禁断の鎮痛剤。
「いや。君は知らなくてもいい」
ふっと微笑み、それ以上の侵入を拒むように彼は境界線を引いた。
「電話をかけてくるのかと思ったから、この時間まで仕事を長引かせたんだけどね。何事もなければ、このまま眠ることにするよ」
「お休みになっていなかったのですか? では……陛下に電話をお繋ぎしましょうか?」
「いいや。構わない。今日のところはね。……それよりも、チェックポイントは絞り込めたかい」
話題は、国家最高機密とされる裏日程の話へと移った。今回の非公式訪問の日程の合間には、個人的な探訪の行程も含まれている。表向きには別荘探しだが、戴冠式を控えている時期にしか自由に動き回れないと、何箇所か目的地が設定されていた。
カノンは手元の端末にある、事前に共有されていた地図データを眺めた。極東の列島を九分割し、各地にその候補点はあるが、最有力とされる遺構の候補地は、すべて太平洋側のエリアに集中している。
「いくつかある候補から何箇所かは。しかし、エリア十一は歴史の古い土地ですから、現地を調査しなければわからないのではないでしょうか」
「そうだね」
想定内だと落ち着いた声で、シュナイゼルは手元のモニターに視線を落としている。「陛下はなんと?」と尋ね、旅程の引き延ばしをするかしないかの探りにカノンは短く首を振った。
「まだ、なにも。……いかがなさいました?」
「うん。……まだこちらでの調整段階だから」
「……どういうことでしょうか」
「私も誘われてしまってね。ぜひ視察をと」
映像の向こうでは、彼にいつもの好ましげな、しかしその意図を誰も読ませない完璧な微笑が戻っていた。
「ねえ。アッシュフォード卿とは明日お会いになれるんでしょう?」
はっと意識を現実に取り戻したとき、光を永遠に閉じ込めたかのような瞳が覗き込んでいた。
カノンは移動の車中、その日の目的地周辺の状況を示すリアルタイムデータに目を通しながら、今朝方までのシュナイゼルとの通信内容を思い出していた。
一瞬の不審な間から、なにか追求されるのではないか、と恐れにも似たぎこちなさがはみ出ないように、カノンはすぐに会話の切れ端を引っ張った。
「はい。明日の懇親会ではスピーチを担当されるとか」
「……でもこのペースだと……懇親会までに発見は難しそうよね……?」
ティラナは深く追い詰めることをせず、ただ本当に情報を得たいがための質問を終え、自身の考えに耽っていた。
「ああ……ごめんなさい。……リサーチが足りていないせいなのは承知しているわ。ほかの視察もあるし、今さら大きな変更は出来ないし。……こうして、合間を縫って動ける範囲でしか探せないのは残念だけど……」
クッションの効いたレザー座席に深く座り込み、ティラナは細い腕を組んだ。
「遺跡というのは、主に人の営みと隣り合わせよ。……とはいえ、島国なのを甘く見過ぎていたかも。島の集まりで成り立っている国は、たくさんの郷土の集合体だってことを」
「日本だけでも、約一万四千島ございますからね」
「そうなの。多すぎるわよね? まあ……世界を見渡せば、上には上があるのだけど……」
カノンの相槌に、ティラナはうんと大きく頷いた。
「伝わっている文書では太平洋側にあるらしいわ。これは地震プレートの歪みの収束地とも重なるの。私の見立てでは、トウキョウ近海ってところかしら。複数のプレートとトラフがある。根拠はうちのヒマラヤと同じ。衝突部分が歪みになっているとする説ね。もう一つの遺構は、ブリテン諸島にあるストーンヘンジかしら」
ヒマラヤはユーラシアプレートとインドプレートの衝突から隆起している。文書にある地域のなかで南極や中東、北ブリタニア、極東とこのヒマラヤは同タイプとみていいだろう。
「……っていう、シュナイゼルに持論を伝えたら、専門分野ではないから、コメントを差し控えるよ≠ネんて言われちゃって。うちの家業の大本は祭祀なのに、神秘への熱意が不足しているわ!」
科学や論理に秀でた者ほど、その計算式の外側にある「世界の不条理」を最初から除外しようとする。
「……この話、オフレコだからね!」
「もちろんでございます」
カノンは優雅に微笑み、胸に手をあてた。
a.t.b.二〇一二 October
エリア11 神根島
極東の秋の陽光が、不自然なほどに眩しく世界を照らしていた。
トウキョウ租界の喧騒から遥か南、伊豆諸島の洋上に浮かぶその無人島は、まるで外界の文明を頑なに拒むかのように、切り立った白亜の断崖をそそり立たせている。波濤が激しく打ち付ける岩肌は、地殻変動とマグマの急激な冷却によって形成された柱状節理の幾何学的な模様を刻んでおり、遠目には大自然が削り出した巨大な神殿の柱が並んでいるかのようであった。
島には、船を安全に係留するための港湾らしい設備が一切存在しない。まさに自然の要塞。ティラナたちは大型の本船を沖合に待たせ、荒波に揺れる小さな警護用ボートへと命がけで乗り換え、白い砂飛沫を上げる浜辺へと直に乗り上げる形で、ようやくこの地に足を踏み入れたのだった。
風に煽られるブルネットの髪を片手で押さえながら、ティラナは古びたカストラリア王室秘匿の手記を転写した羊皮紙のコピーを広げ、荒涼とした島のあちこちを精力的に練り歩いていた。片手には軍用の高精度双眼鏡が握られている。
「う〜ん……。伊豆諸島は、フィリピン海プレートと太平洋プレートが複雑に交差して沈み込む、まさに地球の歪みの境目。地質学的な計算からも、古文書の記述からも、絶対にこの辺りだと思うんだけど……」
何度も手記と周囲の地形を見比べ、焦れったそうに双眼鏡を覗き回す女王の背後から、随行する侍女のルイーゼが、これ以上ないほど困惑した、しかし規則を遵守せんとする引き締まった声で進言した。
「陛下、恐れ入ります。遅くとも正午までにはこの島を出港いたしませんと、明日のトウキョウ租界での公式懇親会の定刻に間に合いません。すでにこれ以上の遅延は許されない時間となっております」
「分かっているわ、ルイーゼ。でも、せっかくここまで辿り着いたのよ? 何が何でも、その遺構の確証を見つけたいじゃない!」
「し、しかしながら……非公式の懇親会とはいえ、カストラリア王国の威信に関わる重要公務でございます」
ルイーゼは額に汗を浮かべ、眉を八の字に下げている。約束の大きさでいえば、懇親会の出席に決まっている。だが、ティラナは諦めきれなかった。うーんと唸り、細い顎の先を指でなぞりながら思い浮かんだ案を口にする。
「最悪は、私の信頼する代理人を立てて、スピーチを乗り切らせるわ!」
ティラナが確信犯的な笑顔で背後を振り返ると、そこには、いつものようにスマートに礼服に身を包み、あからさまに嫌な予感を察知した顔で控えている秘書官の姿があった。
「だ、代理人、ですか……?」
ルイーゼが戸惑いの声と視線を向けた先で、その有能な青年は、形の良い眉をぴくりと動かして一歩前に出た。
「……陛下。まさか、その代理人とは、私のことでございますか?」
声音こそ完璧に統制された丁寧なものであったが、その切れ長の瞳には「これ以上の我儘は看過できません」という明確な拒絶の光が宿っている。
ティラナは双眼鏡を首にかけ、わざとらしく唇を尖らせてみせた。
「何よ、カノン。一昨日のアッシュフォード学園での『制服外交』の件、私はまだ怒っているのよ? 」
「陛下。……恐れながら申し上げますが、あの制服の試着、ならびに撮影に関しましては、ご自身が発端で、大変ノリノリでなさったことでございます。殿下が勝手に写真をハッキングされたわけではございません。私は誠実に、陛下からの撮影のお願いに応じ、カメラのシャッターを押し、最高の一枚をご提供したに過ぎませんわ」
一分の隙もないカノンの流暢な弁明――否、正論による反撃に、ティラナはちっと舌を打ち、すぐに肩をすくめた。
「ちぇっ……引っかからなかったか。少しは罪悪感に付け込めると思ったのだけど」
「当然でございます。私は殿下の秘書官であると同時に、陛下の身の安全とスケジュールを管理する義務を負っております。国家の命運を賭けた外交の場を放り出して、この無人島で泥塗れになる女王陛下を、これ以上お助けするわけにはまいりません」
カノンは手元の電子端末に視線を落とし、淡々と、しかし確実にティラナを現実へと引き戻すためのタイムリミットを提示し始めた。
「……そうね。でも、見てよカノン」
ティラナは再び双眼鏡を構え、白波が激しく砕け散る浜辺と、太陽光を乱反射する崖の側面を凝視した。科学者としての彼女の脳細胞が、周囲の異常な物質データを瞬時に弾き出していく。
「……砂浜も、崖の側面も、不自然なほどに白い。これは二酸化珪素の含有率が極めて高い、ガラス質の砂よ。そしてこの岩石は、世界でも限られた火山帯にしか存在しない抗火石。……そしてこの、幾何学的に整列した柱状節理。……もし私が、太古の昔に人智を超えた『神聖な場所』を建造する立場だったなら、これほど目立たぬように隠すのにうってつけの自然迷彩は他にないと思うのだけど……」
ぶつぶつと、遺構が存在するであろう物理的な条件を口にしながら、ティラナは再び「う〜ん」と唸り声を上げた。
もし、古代の祭祀集団が、莫大なエネルギー結晶体を祀る神殿を造るならば、現代のレーダーや人工衛星に容易に引っかかるような建造物を地上に露出させるはずがない。周囲の、自然の造形なのか人工物なのか、遠目には全く判別がつかない柱状節理の崖。その亀裂や、洞窟の内部を利用し、景色と同化させて配置するはずだ。
この神根島の特徴は、彼女が構築した、大地の歪みと力の集積に関する仮説に、あまりにも完璧に符号しすぎていた。
また、この島自体の面積は決して広くはない。現在の進行状況から見ても、調査にはもうあと半日――いや、数時間程度あれば、決定的な『石の門』の座標を特定できるところまで迫っているのだ。ここで引き下がるのは、科学者としても、君主としても、あまりにも惜しい。
「陛下。……本日の調査は一度ここで切り上げ、お暇いたしましょう。ここで無理をなさらずとも、懇親会の後にスケジュールを調整すれば、あと数日ほどなら、再度この海域への探訪枠を確保することは可能でございますわ」
カノンは端末のスケジュール表をティラナに見せながら、宥めるような、穏やかなトーンで提案した。確かに彼の言う通り、戴冠式前のこの非公式訪問の期間中であれば、まだチャンスは残されている。
「ですが、陛下。お忘れなきよう。懇親会には、アッシュフォード卿が直々に出席されるのです。陛下には、あの御方と直接お話しにならねばならない、極めて大事な御用件があるはずではございませんか?」
「うう……それは……」
カノンの鋭い指摘に、ティラナは言葉を詰まらせた。
――アッシュフォード卿との、極秘の対話。
それこそが、今回の極東訪問における、もう一つの、そして最も重い目的であった。
かつて日本侵攻後。自らの命を賭して連れ出した、ブリタニアの幼き皇子と皇女。ルルーシュとナナリー。あの戦火の混乱の中、二人の身柄を最終的にアッシュフォード卿に託したのは、他ならぬティラナ自身なのだ。
彼らが今、どのような名目で、どのような状態でこの国に生き延びているのか。その結末と安否を、彼らを歴史の表舞台から隠匿した当事者として、必ず知らなければならない。
「もう、この島だけでも、十分にこれだけのデータが採取できたはずです。さあ、どちらを優先されるか、ご決断を」
カノンがくいと美しく整った眉を上げ、決定的な選択を迫る。
古代の遺構に隠された、世界を揺るがす神秘の謎を解き明かすための、あと僅かな時間。
それとも、かつて自らが救い、この地に縛り付けることになってしまった、ルルーシュという少年との再会への切符。
潮風が吹き抜ける白い断崖の上で、カストラリアの若き女王は、羊皮紙のコピーを強く握りしめたまま、激しい葛藤の海へと突き落とされていた。
――……どうする?
A.〈ルルーシュ捜索を優先する〉
B.
〈遺跡調査を優先する〉